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2008年11月

聖書から人生を考える

★厳粛な最後の審判

http://blog.goo.ne.jp/goo1639/e/e45a2f40a189e2b76dd563485bf353f5

上のサイトは「神 さばき 裁き」で検索したものですがこのキーワードで検索すると神の正しいさばき(最後の審判)についてのメッセージが多くあるようです。

実は加害者への裁きは「特別な免除、赦免」があるのだろうかと、内心疑心暗鬼に襲われ続けています。彼らがあまりにも、自信たっぷりに悪を行い、また神については平気で否定し侮り、あざけり、その代わりに自分たちが属する変な世界観や価値基準というものを押し付けてくるような嫌がらせが非常に多いからであります。

不信仰な考えだと思うのですがそれだけ彼らはやっていることが荒唐無稽に不気味であり信じがたい性質を持っているような感じがします。

特別な環境や機械などの技術を与えられているせいでそうなっているのかと思うのですが、不可解なほどのふざけた残虐性を覚えています。

もっとも自分も神を恐れず無知であったころ、信じがたい愚劣行為をして悦にいっていたことは多くあったと思います。(たとえば蟻の巣をぶっ壊して悦に入り何とも思わずただ「面白くて爽快」だというだけの理由からやっていました。)凡そ、十代の頃かも知れませんが。

親への暴力行為や反応してほしい気持ちから来る執拗な責め苛みもやりました。これらはすべて深く深刻で重篤な病理性からきていたと思いましたが加害者らの行為を見て昔の自分と共通性があるような気はしています。

自分の行いの刈り取りをさせられているのだろうかと思うことは多いです。

ただ、中には後ろ暗さから来るのか目を合わせないだとかどこかおびえた様子だとか、後姿がうら寂しく見えるとき(加害者らの)もあります。

そういった様子を見るとやはり神が人間に与えた「良心」というものが彼らにも潜む可能性がある気はします。

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2008msg/080608.html

上のサイトにも、神のさばきについてのメッセージがあります。

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昨日書いた記事の補足ですが

私が受けたメデイアよりの仄めかし、嫌がらせ、お為ごかしは漫画やテレビのドラマ、映画、アーチストの作り出す歌などですが他には新聞の折り込みチラシやテレビのCM,看板ポスター、店内のBGM等でした。

昨日頭の中を回っていたため鼻の下が伸びた状態になっていたと言うときに回っていた曲というのはビーズと言う歌手グループの歌でした。(英語(ローマ字)の書き方が分かりません)官能的な歌詞の内容で、「あなたの唇なら、骨までとろけてもいい」と言う歌詞が回っていました。そしてその後親のお使いで入った食品店では,今は亡きザードという歌手の歌の歌詞で「ぬくもりが欲しくて・・・」と言う歌詞が流れていました。

家に帰るとNHKの紅白の前番組で何やらいびられているなと感じましたが、紅白が終わったあとで見た民放の番組内でスマップと言うタレントの方が柴田理恵さんと言う女性タレントとコントをしており、「キスをしてもいいですよ」と柴田さんが言ったけれども、スマップの方が「いりません」と答える内容でした。この当時は確か97年の年末でした。(大晦日です)翌日からの正月の朝番組より、出演者たちが自分への熾烈な嘲弄をしていたのです。とても嬉しそうな感じでした。

どうも散々お為ごかし的な物を見聞きさせるように仕向けることにより私の痴態と言うものを捕らえるよう画策があったようでした。私も弱い人間の上に状況がまったく理解できない状態で安易なものにすがるような生活だったので、まんまと変態仕立て上げ工作にはめられたようです。

それと2005年末より激しくなった本格的な集ストの加害行為では風評流布により「有名人タレントやアーチストとの恋愛関係に浸っている妄想狂女」と言うようなうわさを流されたようでした。暫くは知らない方からも白い目で見られたりしたのですが私もネット上における情報を目にしてむきになって書き込んだりしたためかそういう方が地域から去ったような印象を受けました。その後は熾烈化する一方で地域中がごみだらけになり毎日不気味な車両での大量の付きまといなどがあり地域を荒らされている元凶と言う印象工作もされました。

数軒の商店(小売店)経営者からは人扱いではないような態度も取られています。今もって毎日、今までに書き連ねてきたような加害行為が続けられており、家にいても一秒の精神の休みも与えられないような熾烈な粘着のいじめが行われています。主に機械による一挙手一投足にもへばりつくような機械音を聞かせる苛めです。

聖書のみことばや祈りや賛美による生活により、かろうじて耐えているような感じです。

因みに仄めかし、お為ごかしによる変態仕立て上げに関わっているアーチストは他にミスターチルドレンや斉藤和義、奥田民雄、ジュデイーアンドマリー、黒夢、小室ファミリーのアーチストなどですが要するにすべてに近いメデイアよりの様々な仄めかしを受けているようです。それにはお為ごかし、嘲り、蔑み、嘲弄なども含まれています。当時は96年頃でしたが再び懲りもしないでジャパニーズポップスを聞き出した2005年頃にも、「まだやられているようだ」と思わされました。「スキマスイッチ」と言う歌手グループのCDを録音したテープを、偶然文通相手の女性より送られ、それを聞いたときも「やられている」と思いました。

特にミスターチルドレンは超人気歌手グループでカリスマ的でありそのような方々と本気で恋愛関係にあると思う妄想女と言う風評も流されたと思います。私も異常な状況を理解できず、ただひたすらにメデイアへのへつらいと自己卑下と、その裏にある高慢とに苦しんでいました。

そういった風評に効果的に使われたのがきっと「鼻の下の伸びた顔写真」であったと思います。そして昔送った「あ」という台詞入りの模写ハガキであると思います。つまりそういう信じがたいやり方で変な欲情をアピールしてきた変態女と言うことにされた模様です。

模写ハガキは女の人の顔のみの絵でしたが模写した単純な理由は「なまめかしい表情でなかなかいい」などという理由であったと思いますが当時あじわっていた人間関係から来るある種の苦悩も手伝っていたかもしれません。(孤独、自己嫌悪、屈辱的な思いなど)

こういうことは恥ずかしさより余り書けなかったのですし書いても意味があるかと言う思いから余り書きませんでしたが一応書かせていただきました。今までのネット上への書き込みにもある程度書いてきていることかもしれませんが。

聖書に真の救いがあると言うことを知るまでは、苛めにあっているにもかかわらず、卑屈にメデイアにへつらい続け、いい玩具にされていたようです。聖書に救いを求めるようになってからも、相変わらずの熾烈な嫌がらせが続いていましたが最近は徹底して悪質そうなものには関心を持ちたいと思わなくなりました。

精神科の患者さんを使っても、色情魔に仕立て上げるための嫌な工作があり精神科に通う道にこれ見よがしにひどく下劣な水着姿の女性のポスター(ビールの広告ですが)が張られているのを見て神経症的になっていました。この神経症的になると言う悪癖を利用されて最近までは非常に女性加害者らによる嘲弄のための扮装工作がとても多かったです。こちらが加害行為を見て見苦しく騒ぐのを見る(監視により)のが、とても面白かったようです。(加害者らには)

ベビーカー連れを見てもついこちらが神経症的に騒ぐため執拗に繰り返されました。今は地域にいったい何世帯の加害者がいるのだろうかと思うほど、異様な数の加害者(世代男女問わず)により、毎日嫌がらせ工作に見舞われています。家族は此方を顧みず、加害行為なのかと判断に困ることが多く「被害者を病気扱いし、集スト行為(現象)に関しては一切関知せず言及もせず」と言う感じです。地域に住むサラリーマンや商店経営者なども同じです。

目の前に現れる子供らと言えば加害者で、いったい普通の家庭や子供はいないのだろうかと思うような地域になっているような印象です。ただ昔から住んでいる顔見知りの方々などはある程度は話をしてくれますが地域に捲き起こっている異常な現象については絶対に言及しないようです。

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後から思ったことですがマスメデイアの嫌がらせと言うのはおそらくは多くの被害者たちに対して「関係妄想」を起こさせるように作られているのかもしれないと言うことです。自分への嫌がらせでなくとも「自分へのものだ」と思うようなことが私自身にはあったように思うのです。このことは過去の被害者掲示板などでも、書かれていることかもしれないですが。

後「統合失調症掲示板」と言うものもありますが、ここに書き込みしている方々のかなりの数が、無自覚に被害にあっていて、その苦しみを「病気扱い」することで何とか合理化しようとしている印象を受けました。

↓統合失調症掲示板です。

http://homepage3.nifty.com/prunus/

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サタンの力

http://members2.jcom.home.ne.jp/0429550701/std/msg/2003/030622-1msg.htm

http://www.worldchallenge.org/ja/node/2862

「サタンの深み サタン 力 策略」で検索すると、サタンについての聖書的な解説が多く載せられていました。上のサイトもそうですので、良ければ読んでみてください。

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私自身も毎日毎日、サタン的な知恵に満たされたような嫌がらせがすごい状態です。

自己の恥ずかしい過去を陰湿に仄めかされたり、自分がいかに恥ずかしく無自覚で勘違いな存在かということをいろいろな手法にて、タイミングあわせなどの方法で演出します。(茶番、広告、悪態や挑発的な言葉、または思わせぶりな言葉による、反応呼び起こし)

それほどまでに軽蔑すべき存在と思うならば一日中異常な干渉もないだろうとは思いますが彼らはそのような異常行為を巧妙に正当化するための知恵を駆使しているようですね。

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ちなみに今時分執拗にされている仄めかしは「あ」というキーワード(?)と、鼻の下が見苦しく写っている顔の写真広告などです。前者は過去の雑誌への投稿で下劣な意味合いのある絵をハガキに模写して送ってしまった事からです。性的な意味合いのある絵の模写ですがそれの絵にある台詞が「あ」なのです、これが恥ずかしさのきわみの意味合いで嫌がらせに利用されています。テレビでもしょっちゅう聞こえてきているようです。

後は過去に状況把握できず監視状態に苦しみジャパニーズポップスの世界に逃げ込んだ結果その歌が官能的な歌詞でしてそれが外出時に頭の中で回り、結果的に鼻の下が伸びた状態を盗撮され、翌日からすさまじいメデイアからの嘲弄的な嫌がらせが始まったようです。そういう醜態というか痴態を捉える為、自分へのお為ごかし的な官能的な歌や漫画、ドラマ等を散々流していたようでした。当時はネット情報など知らなかったために「自分だけがこういう変な目にあっているのだろうか」と思い込んでいました。

当時聖書を与えられながら読もうとしないで安易にメデイアのものに逃避し、苦しみを紛らわしていた結果でした。聖書が堅苦しくて難しい書物にしか思えず、攻撃されているにもかかわらずメデイアにへつらいつつそれに中途半端に依存するしかない状態でした。

しかしあるときにそれが闇と欺きしかない世界だと気がつき、聖書に救いを求めることになりました。私の場合はそういう経緯がありました。このことは今までかなりネット上で書いたのですが無意味かもしれないですがまた書かせていただきました。

「あ」という仄めかしの元のものは週刊漫画アクションという雑誌に連載されていた「百年の祭り」という漫画で、作者は「たかもちげん」という方ですが、この方は調べたら数年前にがんで死去していたようでした。投稿していた期日は当時1994、5年ころです。96年に車による付き纏いが悪化し、不快と不可解さよりヒステリーを起こし、精神科に追い込まれることとなりました。ネットによる集スト情報を見たのは2006年ころです。それまでは10年間ほど暗闇をさまよい、せっかく与えられた聖書の言葉も分からず、かなり愚かしい生活ぶりでした。

今は聖書にしか救いがないことを確信するようになりましたが加害者は毎日飽きずに同じやり方でこちらを攻撃し続け、「あ」というキーワードもあらゆる方法で連呼しています。

しかしキリスト教を信じるようにされたのは、別に聖人ぶるための宗教でもなく自己満足でもなくただ、「キリストによるあがないを信じて受け入れない場合、裁きに会うだけである」という事実を信じるようになったからです。

そのことを認識するまでは私も、教会の人たちへの無自覚な迫害をしていました。ある種の僻みや劣等意識や妬みより、彼らクリスチャンのあら探しをしたり、虚をつこうとしたり、足許をすくおうとしてばかりいたり、「偽善者」だということを確認しようと画策したり、彼らに対して世的な事ばかり話してそれにそれに引き込もうとしたり、いろいろでした。

それは多分劣等意識からだとか、聖書を理解できそうもない絶望感からだとか、神への漠然とした絶望意識からだとか、自分への絶望からだとか、いろいろとあります。

しかし聖書を必死に読むようになって意外な言葉に驚いたり救いや慰めを覚えるようになったしだいです。無論今までの私の愚かしさを知る教会関係者からは蔑まれたり疎外的な対応をされたりと思うことは多かったです。今もそれはあまり変わらないかもしれません。しかしクリスチャンというのは基本的に、人間がいかに絶望や愚かしさや罪しかない存在でしかないかということを知り、その上で神に従おうとしている集団だという認識をしました。

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ちなみに今、他の嫌がらせの内容は咳払いですね。「おほん」「げほん」「あはん」「ぐふん」と、主に男性がやっています。女性加害者らはベビーカー連れや子連れの自転車乗りや、孤独な女性を演出したような扮装による嫌がらせの茶番が多いようです。タイミングあわせで実に巧妙に近づいてきますので、いったいどこでそういう訓練?をするのだろうかと、不可解です。どこの地域に行っても同じパターンでの嫌がらせがありますので、「どこの地域にもいるのだな(被害者は)」という事が分かります。

本日は用足しで府中市に行き帰りに少し駅間を歩いたらば、昼間でもシャッター閉めっぱなしの家、店を見ました。後は神社の管理人宅の雨戸も閉めっぱなしでした。こういう状態になっている神社を今までに3箇所ほど見ています。「物を置かないで、宮に入らないで下さい」という張り紙があるところも2箇所見ました。もう一箇所の張り紙の内容は「ごみを置き捨てないで下さい」でした。

ジュースの販売機のビン、缶用のボックス内も、他のごみが入っていて荒らされている印象を受けるところもありました。自分の住む家の周辺地域も、何故か変に荒れ果てた印象を受け、知りもしないサラリーマンなどがすれ違いざまに威嚇的な咳払いをしていました。以前夜の時間帯に府中の駅近くを歩いたときはもっとすごい状況でした。調布の駅付近でも同じでした。サラリーマンで軽薄に加担する人は多いみたいです。

通う精神科でもスタッフに当たり前のように嫌がらせをされます。昨日の外来時にはすれ違いざまに「見ている」と言うスタッフがいました。偶然を装ってつぶやくように言うため、ストレスを与えるように工夫しているように思います。

加害者らはどうも、監視状態を続けるのが当たり前で自分達への被害者の反逆や反撃には徹底した報復行為をせねば気がすまないみたいです。

一昨日は、もっとひどいことがあり、自転車乗りで近づいてきた柄の悪い数人を嫌そうに見やるとその一人が威嚇する様に「何だこのババア」と、罵っていました。私もさすがに憤り言い返したのですがその相手は「何だ、てめえ、こらあ」などの威嚇的言葉を発して去ったようです。いくらなんでもあれはひどいなと絶望ししばらくうつ状態でした。

人の生活を始終のぞき続けて機械による異常粘着嫌がらせをし続ける人間達ですので、常識等ないのでしょうか。

もっと以前には小型犬を散歩中放し飼いにしている中年男性につい、普段の嫌がらせの憤りより注意するとその男性も、「何だこの馬鹿が」と、すごんできました。そして、その後も「おいこら、待てこの野郎」と言っていたようです。私も嫌がらせによるイライラより、いろいろと言い返してしまったのですが地域にそういった暴力的な言葉で攻撃してくる人間も結構いるようです。

他にはそれより前に、家の前でぶつかりそうになった自転車の男性に「危ねえだろうが、この馬鹿が」などとも言われたのです。私も何か言ったと思いますがとにかくヤクザ調のもの言いを平気でしてくるような加害者に何度か遭遇しそのたびに暗い絶望に陥っています。

それでも祈りつつ暮らしていますが聖書にあるように自己の知恵に頼ることはやめようと思います。それはずっと前より望むことですが実行するのは難しいと思わされています。

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ちなみに親が今は通常見るようになったテレビからも、音声による嫌がらせと同じ調子での陰湿で陰惨な嘲笑を聞かされることがあるようです。「きひゃひゃ」「ひひゃひゃ」などといった感じの甲高くて聞き取りづらい笑い声です。このようにすることでストレスや恥辱を効果的に与えるのかもしれません。

「あ」と言う声は、主に親子連れの親が幼児の声を使って聞かせてきているようです。幼児のねとついた感じの声で「あ」と言っているのですがかなりの不快感や苦痛を覚えています。

少し前にはネットの店付近で、自転車乗りの後部座席にいた幼児がこちらをぐるりと振り返り、じーっと見てくると言う事柄にも会いました。親が子にそういう演技をしつけているのだろうかと思いました。それと同じように、こちらが相手を知らぬのにいかにもこちらを胡散臭い人物みたく故意に目をやってくる人間も多く見るようになっています。

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へりくだり

ホームページ・メッセージ081109            小 石  泉

へりくだりなさい


 信仰とは一言でいえば神と人に対してへりくだることです。
 最近、私は幾人かの自称預言者の話を耳にしました。その人々はみんな女性でした。言っていることは、およそ馬鹿げた、下らない話ばかりでした。自分は神から特別な霊感を受けていると言います。そして、危なっかしい預言をします。そして、決まって言うのは、この教会や自分から日本のリバイバルが起こり、それは世界のリバイバルとなるというものです。この自分中心のリバイバルの話は必ずといって良いほど話されます。私は何度、耳にしたことでしょうか。そして、そんなことは一度も起こりませんでした。この手の人々に共通するのは、自分が何か“大きな者”であるということへの期待です。
 恐らくこういう人は過去に何らかの屈辱や満たされない自意識があったのではないかと思います。それはトラウマとなり、逆に自分を大きな者と考えたいのでしょう。
 自分を他人と比較して大きな者としたいという期待は、人間にとって抜きがたい誘惑のようです。イエス様と行動を共にした弟子たちでさえこう言っています。

それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。ルカ22:22~:26

 これは弟子たちがイエス様と三年半一緒に居て、イエス様が十字架に掛かる直前の出来事です。イエス様はどんなにがっかりされたことでしょう。そして、それは今でも同じです。私たちはなかなかこの誘惑には勝てないのです。ある牧師先生が、何度も「日本一の牧師」としきりに言うのを聞いて、自分も若いころ有名になりたい、日本一の牧師になりたいと思っていたことを思い出しました。日本一という言葉の持つ競争心が実はとても恥ずかしいことだと気がついたのは、私の場合はそれから十数年経ってからです。

何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。ピリピ2:3

 「互に人を自分よりすぐれた者」とする、というのは、実に難しいことですが、キリスト教信仰の真髄です。もしこれが出来たら、クリスチャンのほとんどの問題は解決してしまうのです。
 私が神学校に居たある日、祈るために友人とチャペルの講壇の前にひざまずきました。するとかつて無い感覚に襲われました。それは神様の臨在が私に近づいて来られたのです。その時、私は飛び上がるほど驚きました。そして、瞬間的に自分の醜さ、空しさ、小ささを感じました。私は風で飛んでゆく枯葉よりも、塵や灰よりも、空しく、無価値な自分に恥じ入りました。私は思わず叫びました。「ああ、神様、それ以上近づかないでください!私は消え去ってしまうでしょう。」体はぶるぶると震え、隣に居た友人は「小石、どうしたんだ、落ち着け。」と支えてくれました。
 私たちは神の臨在の前には、全く無価値な存在なのです。怒ることも、不平を言うことも、悩むことさえ許されないほど小さく、空しく、哀れな存在です。それは神様の前に出れば分かります。あのイザヤさえこう言っています。

ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。イザヤ6:1~5

 この最後の言葉は、私には少しだけ分かります。本当に畏れと恐怖と自分への失望が襲ってくるのです。しかし、どうぞ私が何かを誇っていると思わないでください。それどころか私は罪深い、汚れた、もろい土の器に過ぎません。そして、そのような経験の後でも、すぐに、自己愛、弁解、競争心、利己心、罪から離れることはできませんでした。人間とは、悲しいものです。
 私たちが神のみ前に出た時、この世で、もし、神が語られたのではない預言を語っていたら、どんなに恥ずかしい思いをすることでしょうか。これは自分の弱さによって犯してしまう罪ではなく、しなくてもいいことなのです。ただ、自分を大きな者としたい虚栄心からやることなのです。女性の美徳は何かすごいことをすることではなく、次の御言葉のような姿勢です。

婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。Ⅰテモテ13:11

 もちろん、これは女性だけではなく、男性も同じことです。へりくだり、静かに他人の足を洗う人。人の失敗を責めず、暖かく包む人。そのような人こそ神の前に価値あるクリスチャンです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。Ⅰテサロニケ5:16~18

 この御言葉が実践できる人は、本当にへりくだった人です。私たちは、いつも悲しんでいるし、祈らないし、全てのことに不平不満で一杯でいないでしょうか。私もなかなか実践出来ません。
 ルシファーがサタンになったのは、神のようになりたいという高慢からです。高慢はサタンの性質なのです。イエス様はその反対に、僕となられました。高慢はサタンの性質、謙遜はキリストの性質です。もし、私たちが本当にキリストに似る者となりたいなら、まず何よりも、へりくだりを学ぶことです。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。ピリピ2:6~8

 イエス様は自分についてこう言っています。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。マタイ11:29

 もし、私たちがへりくだりを学ばないなら、どんな大きな業や預言をしても、何の価値もありません。これは長い学習と訓練だけで到達できるものです。私にも遠い、はるかな目標です。しかし、これを学ばないなら、私たちはキリストの僕とはなれません。
 へりくだりなさい。自分に何か賜物があるとうそぶく前に。塵のように灰のように、へりくだりなさい。もう一度言います。へりくだりなさい。

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/

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上記の文章と無関係ですが入院中に創価の会員の方で、聖教新聞を取り読んでいるという方がいましたが、この方は何と、幻聴で題目が聞こえたために入院させられたとのことでした。一見悪人には見えず、人がよさそうで目も優しい方でした。この場合はきっと会員なのに、体よくだまされて医療費を取られているのだと思いましたが、一般の集団ストーカー被害者のほうがきっと荒唐無稽なひどい目にあっているとは思いますが、会員もだまして利を得ようとするというのは分からされた気がしました。

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上記のメッセージは「へりくだること」を教えていますが悪態なども所詮は高ぶりの一種かと思うと絶望します。一昨日より具体的な自殺法を考えていましたがあの荒唐無稽な苛め方を味わっていると存在を消したくなるというのはよく分かります。

私のいる地域ではこの数ヶ月間に数件の飛び込み自殺と思われることがありました。(電車への飛込みによる人身事故です)

後は地域中が異様な感じになり荒れた家や空き家や逆に新築のマンションや建売住宅が次々と急増しています。ゴミの不法投棄もひどくやりきれない惨状を呈しています。

私自身は毎日続く異常粘着いじめに苦しむ状態です。

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