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2008年10月

いじめ掲示板

http://www.sikasenbey.or.jp/ijime/ijimekeisai.htm

全国にていじめを味わう方々は多いのだろうかと思い、「いじめ 掲示板」で検索したサイトですが、性的いじめは特にひどい印象を覚えました。職場でのいじめも必ずというほどあるのでしょうか。

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15)あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。
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↑聖書には上のようなみことばがあり、どうも気にかかりますが、これは干渉の天才といえる加害者にとり一体何を意味するのだろうか?と思います。

私も実を言うと昔はストーカー気質でして病的なところがあり親や他者を困らせた経緯があります。いまの苦しみもそれへの報いか?などと思いますが、どうしても切れて醜態をさらしたりしています。

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17)あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。
6)だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう

8)しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう
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↑聖書には終末に置けるすごし方についての戒めがありますが、ここにあるみ言葉どおりにしたいと、切実に願っています。
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第5章
1)兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。
2)あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。
3)人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。
4)しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。
5)あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。
6)だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。
7)眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。
8)しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。
9)神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。
10)キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。
11)だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。
12)兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、
13)彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。
14)兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
15)だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。
16)いつも喜んでいなさい。
17)絶えず祈りなさい。
18)すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
19)御霊を消してはいけない。
20)預言を軽んじてはならない。
21)すべてのものを識別して、良いものを守り、
22)あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。
23)どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。
24)あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。
25)兄弟たちよ。わたしたちのためにも、祈ってほしい。
26)すべての兄弟たちに、きよい接吻をもって、よろしく伝えてほしい。
27)わたしは主によって命じる。この手紙を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい。
28)わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。
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キリストの再臨は事実であることを認識する必要があると、ある聖書のサイトにありましたが私はそれを最近ようやく信じるようになりました。クリスチャンのみへのメッセージということではなくすべての人へのメッセージが聖書のみ言葉であると、聖書には書かれています。

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「若い日に創造者を覚えよ」

http://www5.ocn.ne.jp/~akiru-ch/06.02.12sekkyou.html

2006年2月12日「若い日に創造者を覚えよ」伝道者の書11:7-12:7

↑という題名のメッセージですが、このサイトには読みやすく救いを覚えるメッセージが多いと思いました。

神のいない世界でむなしいことにふける生き方をしている加害者らはいったい神により、どういう取り扱いを受けるのだろうかと、不可解です。それでいらいらして切れてしまいます。神様はえこひいき等しないと思っても、どう考えてもあの姿はむなしいことにふけるとしかいえない姿である、どう考えた代物だろうか。と思います。

隠れた場所にてえげつない行為にふけるやからもですが、彼らが正当な裁きを受けるとき、一体どうなるのだろうかと不可解さのきわみです。だからいらつき悪態をはくことが多いので困ります。神のいない世界で生きる『私を見る者はない』と信じる世界。暗闇の世界かなと思うのだが彼等が真に後悔するときは来るだろうか。来なければ聖書も神の存在も、無意味ということになるが。

サタンが強く働いて、疑心暗鬼に導こうとするのでしょうか。

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http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/

上のメッセージでは、この世でのニュースにいちいち惑わされないで神のことばに信頼することを勧めています。

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10)あなたは自分の悪に寄り頼んで言う、「わたしを見る者はない」と。あなたの知恵と、あなたの知識とはあなたを惑わした。あなたは心のうちに言った、「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもない」と。

15)わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、「だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか」と言う。

5)彼らは悪い企てを固くたもち、共にはかり、ひそかにわなをかけて言う、「だれがわれらを見破ることができるか。

6)だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」と。人の内なる思いと心とは深い。
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上記のみことばは加害者らのことのようですね、私も以前は神を知らず侮る者でした。

13)そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目にはであり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。

6)神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。

10)なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

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上記のみことばは成就することを願いますが加害者らはどうも、侮り嘲り変わろうともせずに同じことを繰り返すのみですね。

加害者らがいかに愚かで忌まわしくとも、この先には神を恐れる生活をしたいです。

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思い煩い

http://www.family.gr.jp/littrunk/mountain_streams/tanoshiku.html

7)神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい
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上記のみことばがありますが、それで検索したサイトです、よければ読んでください。

http://www.minikuru.net/haruko/seiku/

↑「聖句カード」というサイトです。み言葉の紹介があります。

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http://www18.ocn.ne.jp/~jed/wBible_J1/2_nt/60_1Pet/60_1Pet_005.html

ペテロ第一5章のみことばです。↑

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http://homepage2.nifty.com/kameoka-bbc/i/message20041114.htm

みことばについてのメッセージです。↑

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コピペです。↓

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2004年11月14日礼拝説教

貧しい者と乏しい者とは水を求めても、水がなく、その舌がかわいて焼けているとき、主なるわたしは彼らに答える、イスラエルの神なるわたしは彼らを捨てることがない。 イザヤ書41章17節

1.神様は、貧しい人、乏しい人が求める時に、助けてくださいます。
上で示した本日の御言葉の「貧しい者」、「乏しい者」というのは、

i) 貧しい者・・弱い人、貧しくて弱い人、貧しく悩んでいる人、不運な人、身分の低い人
ii) 乏しい者・・とりわけ貧しい人、乞食、貧窮している人、しえたげられている人、酷使されている人、助けが必要な人

のことです。神様はそのような人々を問題から解放して下さいます。

マタイによる福音書5章3節で、イエス様は「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」と仰せになっています。ここで「こころの貧しい人」というのは、クリスチャンとしての品性・徳・永遠の富に欠乏している人、義に飢え渇いている人のことです。私たちは、神様の恵みで自分を満たす必要があります。

貧しさを保つことは、神様の恵みをいただき、それを与えるものであり続けることでもあります。「死海」のように受けるばかりでは、文字通り死んだ信仰になってしまいます。「ガリラヤ湖」のように与える者になりましょう。

2.神様は祈りに答えてくださいます。
上のイザヤ41章17節の後半には「主なるわたしは彼らに答える」とあります。この「答える」はヘブル語では、「答える、効き目を示す、証しする、応答する、住む」と言った意味があります。祈りに答えてくださるとともに、住んで共にいてくださるのです。

3.神様は、祈り求める貧しい人、乏しい人に答えてくださいます。
そして、同じ17節には「わたしは彼らを捨てることがない。」とあります。「捨てることがない」というのは「放っておかない、かえりみてくださる」と言う意味です。また、ここにある「イスラエル」というのは霊的なイスラエル、すなわち神様の命をいただいているクリスチャンのことを指しています。

第1ペテロ5章7節には「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」とあります。

4.「ゆだねる」という言葉は投げ出すと言う意味です。
それは、かかえている諸々の問題を神様に投げ出すことです。この世に答えを求めず、信仰を働かせましょう。自分が貧しいと思ったら、この世のもので満たされる前に祈って、主から満たしをいただきましょう。
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>ここで「こころの貧しい人」というのは、クリスチャンとしての品性・徳・永遠の富に欠乏している人、義に飢え渇いている人のことです。私たちは、神様の恵みで自分を満たす必要があります。

↑上記の記述はまさしく自分のことです、そういう意味合いがあるとはしりませんでしたが救いに預かった気持ちです。

最近読んでいる「健全な信仰に生きる」というタイトルの本には「この世における大事なことは何かというと、結局は神のみまえに悔いのない生き方をすることである、最善を尽くしベストを尽くすことです。自分のするべきことも知りえないでむなしい事に身を費やす人は気の毒である」などという記述もありましたが、もっともだと思えど加害者らの異常性を毎日毎日執拗に味合わされておると、自暴自棄になり悪態をはき、公衆の面前でも醜態をさらします。情けないがそれは自力でどうしようもない状況です。

しかし体よく悪を行い神様を拒み、侮り、人をいじめていい気になっているというのは果たして本当に幸いだろうかと、当たり前の疑問も、持ちづらいような今の世ですね。

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http://ww4.tiki.ne.jp/~sanyogospel/mikotoba/mikotoba923.htm

↑説教の要約サイトです。

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http://carobchip.at.infoseek.co.jp/devotion/run-with-patience-2-howtoface.htm

「試練や苦しみへの向き合い方」について書かれています。↑

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http://en.bibleinfo.com/old/H2/bil01899.htm

心配することについてのメッセージです。↑

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聖書のメッセージ

2007年7月22日「危機の中での救い」詩篇34:1-22
              
序-どうにもならない危機に陥る時があります。そんな時、人は自暴自棄になったり、不安と恐れでいっぱいになったりするものです。しかし、ダビデは、危機の中で絶望せず、神様に拠り頼みました。危機は、私たちが精神的に自分では対処できなくなって、神様を求めるようにさせるのが目的です。そのことをダビデの例から学びましょう。

Ⅰ-危機の中での祈りを聞いて下さる神様-4-7
 今日の詩の表題は、「彼がアビメレクの前で気違いを装い、彼に追われて去ったとき」とあります。アビメレクとは、ペリシテ人ガドの王アキシュのことです。ペリシテ王の公称が、「私の父は王です」という意味のアビメレクです。サウル王に追われていたダビデは、もうイスラエルの中には逃げる所がないと思いました。それで、アキシュ王の所に行きました。Ⅰサムエル21:10-15。自分を用兵として売り込もうとしたわけです。
 ところが、ダビデは、アキシュ王の陣営に行ってから、しまった、と気付きました。人々の表情が歓迎する様子ではなかったからです。ダビデを敵対視する表情がありありでした。アキシュの家来は、ダビデがゴリアテをはじめ多くのペリシテ軍を倒したイスラエルの将軍ではないか、と騒ぎ出しました。このままでは殺されてしまいます。そこは、ペリシテの陣営の中です。逃げることもできません。絶体絶命のピンチです。
 しかし、絶体絶命となったこの時、とっさに浮かんだことは、気のふれたふりをすることでした。ダビデは、よだれをたらして、演技しました。これに、アキシュ王が騙されました。アキシュは、なんのためにこんな者を連れて来たのだ、こんな者に用はない、とダビデを追い出してしまったのです。こうしてダビデは危機を脱することができました。
 その時、ダビデは何をしたのでしょう。とっさに心の中で、祈り、叫びました。4-5節。私たちは、危機の時、どのようにしなければならないでしょうか。ダビデは、その時神様に必死に祈りました。それも心の祈り、瞬間の祈りです。「神様!今敵陣の中です。どうしようもありません。私を助けて下さい」と心の中で叫んだのです。
 その時、不思議なことに心に平安が訪れ、恐れがなくなりました。そして、急にダビデの頭に稲妻のように、狂ったふりをする考えが浮かんだのです。神様が知恵を与えてくれたのです。さらに、驚くことに、ダビデのこの演技にアキシュ王と家来たちが騙されました。神様が働いて下さったのです。神様に拠り頼む者には、神様が介入して、守って下さるのです。7節。まさに、見えない陣を張って、助けて下さるのです。
 もとより、ダビデは、敵の陣営に行くべきではありませんでした。自分の考えで判断して行って、危機に陥ってしまいました。自分では良いと思ったアイデア、自分では考えた結果の選択、しかし、かえって苦難に陥り、にっちもさっちも行かなくなるのです。皆さん、そんな経験ないでしょうか。自分の算段が外れて、絶望的になり、惨めで不安で一杯になることがあるでしょう。しかし、ダビデのように、神様のもとに駆け込みましょう。瞬間の祈りをしましょう。心の中で叫びましょう。神様は守って下さいます。神様は危機に陥った私たちを、救い出して下さいます。
 もうイスラエルには逃げる所がないと思ったダビデは、アキシュ王の用兵として自分を売り込んだのです。しかし、ダビデの知恵は、自ら死に足を踏み入れたに過ぎなかったのです。これを通して、ダビデは、自分の愚かさを悟りました。自分の知恵で窮地に陥っても、聖徒にとって、その苦難はしばしば有益となります。祈りを聞かれる神様、救って下さる神様、慰めて下さる神様と、ダビデのように苦難を通して会うことができるためです。そのような神様とお会いたことがありますか。

Ⅱ-神様をいつも賛美することを願う-1-3
 苦難の日に叫ぶ者を救われる神様を体験するようになった時、ダビデの心情はどうなったのでしょうか。この時、とっさの知恵を与えられ、逃げ出すことができたことを感謝して、守って下さった神様を賛美しました。1-2節。ダビデは「あらゆる時に主をほめたたえる」と、いつも神様を賛美すると言いました。どうにもない所から助け出されたからです。絶望の淵から引き上げられたからです。それで、いつも神様を賛美したのです。
 ダビデは、心にひらめいたことを神様が下さった知恵と受け止めました。自分が頭を使って考えた結果は、自ら死地に入ることでした。そこから、一転して救い出された。だから、神様を賛美せずにはいられませんでした。イエス様の十字架によって救われた私たちは、死と滅びの窮地から引き上げられたのです。私たちは、いつも感謝して、賛美しているでしょうか。
 ダビデは、この素晴らしい脱出劇を他の人々と共に感じたかったのです。3節。「皆さん、神様はなんて素晴らしいお方でしょうか。神様はなんと簡単に敵を退かせる方でしょうか」と、共に感謝の声をあげたいのです。神様の御力は、私たちが考えをはるかに超えるものです。ところが、私たちは神様のみ力を制限的に考えることが多いでしょう。ある人は、勉強は神様が助けることのできないものだ、と考えます。ある人は、自分の病気の治療を助けることはできない、と考えます。ある人は、自分の仕事は神様の助けと別のことだ、考えます。
 漁師としてのペテロは、イエス様の言葉に従いたくなかったのですが、「お言葉ですから」と、不漁だった湖に網をおろしてみました。その結果大漁でした。自分の考えが主の前には何と愚かなことかと悟り、イエス様に従いました。私たちの知恵というのは、存分に考えたとしても、危機に陥ってしまう程度に過ぎないのです。ところが、神様の知恵は神業です。ダビデが一人で自分の頭を使った時、彼の心の中に神様はいませんでした。ところが、危機の中で神様は瞬間的に下さるに知恵に従順な時、ダビデは再び神様を取り戻すようになったのです。ダビデは、神様の知恵に驚いて、助けに感謝して、神様を賛美したのです。

Ⅲ-神様の助けを受ける者-8-22
 苦難の中で叫ぶ者を救って下さった神様を体験したダビデは、自分が悟った真理を出来る限り多くの人々に教えることを願いました。8-22節。その内容の主題は、体験の重要性と従順の重要性です。私たちが、危機の中で、神様の特別な助けを得られるように、と私たちに教訓をくれました。
 その一つは、神様の素晴らしさと御力を体験してみなければならない、ということです。8-9節。信仰とは、危機の時働くことが鍵です。神様を頭で知っていても、神様の助けを受けることはできません。頭で信じていることが、心に下りて来なければ、神様の応答を受けることはできません。御言葉を生活の中で実践してみる時、神様のご性質を一つ一つ体験するようになるのです。神様の素晴らしさ、御力を味わうためには、何事も御言葉の基準に従うことが重要です。危機の時がその時です。
 二つ目は、冒険をしてみなければならない、ということです。御言葉はそういうけれど、なんて言ってないで、神様の御言葉があるのなら、自分の考えや方法に固執しないで、御言葉通りに一度最後までやってみるのです。従順になって、御言葉に従うのです。そうすれば、その体験を通して御言葉の確かさを味わうようになります。結局、このような人が、危機の中でも、慌てないようになるのです。最後まで主に拠り頼むなら、「良いものに何一つ欠けることがない」という約束があるからです。10節。
 三つ目は、私たちが偽りを捨てて、真実にならなければならない、ということです。12-14節。普段から神様の御言葉に従順に生きていることが、保険となるのです。私たちは、世にあって、自分の力では対処できない事件に多く出会います。そのために前もって保険に入っています。同じく、私たちが危機の中で神様の助けられることを願うなら、普段、肉と心の赴くままという生き方を止めることです。御言葉に従順になって、真実であろうとすることです。口論や噂話であおる人がいます。神様が嫌われる人です。一緒になったり、巻き込まれたりしてはなりません。悪いものから離れ、善を行ない、平和を求めるのです。ヘブル12:14。私たちが神様の恵みを受けようとするなら、神様の好まれる人にならなければなりません。15節。神様も、御言葉通りに生きようとする人には、いつも心を注ぎ、叫び声に耳を傾けて下さいます。反面、神様は、悪者に対してはむしろ御顔を背けられます。16節。言うなれば、悪者は聖徒たちを鍛錬する道具として用いられるだけです。
 神様は、苦しみ、心傷付いた者を助け出して下さいます。17-18節。傷付いた心を癒すことのできるお方は、神様お一人以外にいません。私たちが心傷付いたとしても、それでもって御前に出て行くところに意味があります。神様は、そのような人をどのようにして下さいますか。19-22節。正しい者も多くの苦難を受けますが、守って下さいます。神様が私たちの「骨をことごとく守り、一つも砕かれない」という御言葉は、苦難を受けても、徹底して守って下さる、という比喩的表現です。この19節がイエス様の十字架の時引用されました。ヨハネ19:36,20:19。この御言葉の通り、悪者たちは、イエス様の骨を折ることができませんでした。そして、よみがえらえたイエス様は、「あなたがたに平安を与えます」と言われたのです。イエス様の救いを受けた私たちは、ダビデのように取り扱われます。危機の中で神様の知恵を求め、祈り、叫びましょう。Ⅱテモテ3:12,Ⅱコリント4:16-17。

ダビデによる。彼がアビメレクの前で気違いを装い、彼に追われて去ったとき

34:1 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。

34:2 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。

34:3 私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。

34:4 私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。

34:5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」

34:6 この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。

34:7 主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

34:8 主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。

34:9 主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。

34:10 若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。

34:11 来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。

34:12 いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。

34:13 あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。

34:14 悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。

34:15 主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。

34:16 主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。

34:17 彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。

34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

34:19 正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。

34:20 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。

34:21 悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。

34:22 主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。


Ⅰサムエル21:10 ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。
21:11 するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」
21:12 ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。
21:13 それでダビデは彼らの前で気違いを装い、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。
21:14 アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気違いだ。なぜ、私のところに連れて来たのか。
21:15 私が気違いでもほしいというのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来たのか。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」

ルカ5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

ヨハネ19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

Ⅱテモテ3:12 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

Ⅱコリント4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

http://www5.ocn.ne.jp/~akiru-ch/07.07.22sekkyou.html

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上記のメッセージもとてもためになる思いがしましたがネット上にある聖書のメッセージには慰めや救いを覚えるものが多くありますので、よければ検索してみてください。

「礼拝メッセージ」などの言葉で調べると出てくると思います。

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礼拝メッセージのサイト

2007年8月19日「悪者に対する不満」詩篇37:1-11
              
序-私たちがこの世で生きて行くと、悪い方法を使って生きている悪者が、神様を信じている者よりも、もっと快適に生きているのを見るようになります。信仰的に生きることが損であるかのように思えてきます。そして、「悪者に腹を立て、不正に対して妬みを起こす」ようになります。1節。

Ⅰ-なぜ悪者に対して不満を持つのか-1
 私たちは、悪者に対して二つの面から妬みを持つようになります。
 一つは、悪者の社会的成功を妬むことです。悪者が神様を信じる自分よりももっとうまく行っている時、私たちの心の中に悪者に対して妬みが生じて来るのです。嫌な罪の思いです。もう一つは、私たちが悪者の自由勝手さを妬むことです。悪者は、心に引っかかることはないので、あらゆる手段と方法を使うことができます。しかし、聖徒たちが選ぶことのできる方法は制限されています。悪者が勝手気ままに何でもできるのに、聖徒たちは黙って眺めているだけなので、心が痛むのです。
 では、なぜ悪者を妬むことがいけないのでしょうか。まず一つは、悪者に対して妬みを持つということは、まだ自分の中に世的な欲心が残っていて、それが現れたことだからです。他の人が不正な方法でうまく行っているのを羨ましく見えるなら、まだ私たちに、世の方法でうまく生きたいという未練が残っているのです。過去の古い自分がまだ死んでいないで、悪者がうまく行くのを羨むのです。
 それは、まだ私たちのクリスチャンとしての自尊心が足りない、ということです。私たちが地上の生涯を終えて、神様の御前に立つ時、どれほど信仰の良心を守って生きたかが、神様の承認と称賛を受ける鍵となります。私たちは、イエス様の十字架を信じて、すでに一度古い自分に死んだはずです。ローマ6:6,Ⅱコリント5:17。イエス様の十字架の犠牲を考えて下さい。罪から解放されて、新しく生まれ変わったのです。
 悪者を妬むことがいけない二つ目の理由は、悪者に嫉妬することは、まだ私たちに悪者のように自由勝手に生きたいという欲心が残っている証拠だからです。自由奔放だった時に戻りたい、という未練が残っているので、そのようにしている悪者が羨ましいのです。自分勝手を棄てて人生に何の面白みがあるのか、などという恐ろしい思いが心の中にあるのです。でも、かつて自由勝手に生きていた時、何か人生の実があったのでしょうか。ローマ6:21-22。
 三つ目の理由は、悪者を妬むことは、私たちの恐れが現れたことになるからです。結局自分は世で勝利できないかもしれない、果たして信仰でもって世を生きていけるのだろうか、という恐れがあるからです。事実私たちには、不安定な熾烈な経済社会を生きていけるのだろうか、という深刻な問題の中で生きています。これに対する聖書の答えは、私たちがこの世で信仰によって滅ぶことはない、ということです。一時的に不利なことはあるけれども、必ず私たちはもっと大きな恵みを受けるのです。むしろ、信仰的によって事を行なって生きるなら、いくらでも勝利することができる、ということが聖書の約束です。Ⅰコリント15:57。

Ⅱ-悪者の結末-2
 どんなに勝手気ままにして、うまく行っている悪者も、結局はその時だけです。2節。悪い手段で伸びてきた経営者が、あっという間に不正のために崩れて行くのをニュースで見ます。悪者がそのように早く衰えてしまう理由は何でしょう。まず一つは、悪者の栄えは根が無いということです。根が無いということは、原則がない、理念が無いということです。ただ目の前の欲心だけ追求して行くので、ある程度の規模まで大きくなると、緩んで来て、放漫経営になり、崩壊するのです。
 二つ目は、彼らのその栄えは、本当の栄えではなく、一種の貸付に過ぎないということです。神様が、ある期間使うように貸して下さっただけです。しかし、神様が私たちに下さる恵みは、霊的なものですが、その霊的恵みの余禄として物質的恵みも受けるのです。霊的恵みがないのに、物質的恵みを求めても詮無きことです。まず、霊的祝福を求めるのです。
 もう一つは、悪者が早く消えて行く理由は、未来の変化に適用できないためです。政策が変わったり、経済状況が変わったり、社会が変わったりすると崩れてしまうのです。罪によって生きる者は、結局滅びて行くしかありません。しかし、聖書的に生きる者は、変化に対処することができます。事実、歴史の凄まじい変化の中でも、クリスチャンは力強く生きて、勝利して来ました。人生を狭い視野で見ないで、巨視的に見ることです。

Ⅲ-聖徒の学ぶべきこと-3-6
 聖徒たちが悪者に嫉妬し、羨む理由は、悪者のように簡単に成功したい、という悪い欲心のためでした。ですから、神様は、私たちが簡単に成功することを喜ばれません。社会の中で、人々の下で徹底的に基礎を築くように求められます。3節。「地に住み、誠実養う」ことです。私たちがこの世で成功しようとするなら、二つの条件を備えなければなりません。
 その一つは、聖書の原理に忠実でなければならない、ということです。「主に信頼して、善を行なえ」と言っています。聖書の原則を握って、人生の現場で訓練を受けるなら、その時から活用できる御言葉の真理を学ぶようになります。聖書の教えと実際現実の間にはかなりのギャップがあるように見えます。しかし、御言葉を握りながら人生の現場で労苦する中で、本当の真理だと分かるのです。私たちは、苦難と痛みという訓練を通過しなければならないのです。ですから、どんな難しいことでも、神様の御心を求めて祈るようになるのです。 
 もう一つは、自分に対する神様の用意しておられる道を探さなければならない、ということです。人が人生を生きていきながら、自分の道を知らない場合がとても多いのです。なぜ悪者の栄えを羨むかと言えば、結局自分の道に満足できないからです。奴隷からエジプト宰相になったヨセフも、捕囚の民からペルシャの大臣になったダニエルも、目の前の困難にも関わらず、神様が備えて下さる道を求めて誠実に働き、仕えたので、そのようになったのです。聖書の原則に従って、誠実に働き、生きるのです。
 重要なことは、私たちがどのような環境に置かれようとも、最後まで神様を信頼することです。今成功しようとするなら、信仰的の人生の基礎を着実に築こうとすることです。日々の生活を信仰で堅実に歩むということです。仕事、人間関係、みな聖書の信仰の実践と意識して行くのです。神様の道に従って行くなら、必要なことはその時神様が備えて下さいます。
 そして、最も重要なことは、主を喜ばすことです。4-6節。自分が喜ぶことだけを求めて、神様にそれをしてくれと生きる人がいます。反対に、神様が喜んでくれることを求め、そのように生きることが、私たちの本当の喜びとなるのです。神様を知れば知るほど、信仰の視点で世を見るために、心の中に本当の望みが生じて来ます。信仰のビジョンです。どうしたらよいか、神様がビジョンを下さるのです。神様を知ることが喜びとなります。

Ⅳ-考えを変えよ-
 ですから、神様は、私たちの見方を変えるように求めます。私たちが悪者との水平思考で見るなら、悪者と競争するようになり、心の中に不満が生じます。しかし、神様との垂直思考、つまり聖書的な視点で見るならば、悪者を妬む理由はまったくありません。なぜならば、悪者とは私たちの道がまったく違っているからです。ですから、私たちは他の人々がうまく行っていることに対して心痛める理由はないのです。
 聖書は、私たちにはっきり宣言します。7-8節。不必要な競争心を棄てなければなりません。私たちが他の人に対して競争心を持つと、心が狭くなって、感謝が出て来なくなり、喜びが消えます。私たちも、心が狭くなって、他の人がよくなることについて妬みや嫉妬心を持つ時があります。その時は、私に対する神様の道がある、ということが分からない時です。しかし、神様の道が分かると、他の人がよくなることは喜べるし、よくなることを願うようになるのです。
 悪い方法でうまく行く人々を羨むことはありません。彼らには、本当の喜びと満足がないのです。むしろ、彼らを気の毒に思い、同情しなければなりません。私たちが、いまだに他の人々がよくなることに対して怒りや憤りを持つならば、まだ自分の道に対する信仰がないためです。私たちの道は、神様が導かれる道です。
 悪者を妬み、嫉妬するなら、私たちの心は大変狭くなり、とても否定的になってしまいます。悪者は、私たちの相手ではありません。悪者と正しい者の結論はこうです。9-11節。悪者の栄えは束の間のことです。彼らの繁栄は、一時的に人々を惑わすだけで、いつかはその存在も忘れ去られます。箴言24:19-20。「 しかし、貧しい人は地を受け継ごう」とは、イエス様の山上の垂訓に出て来る有名な節です。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」マタイ5:5。ここで「地を受け継ぐ」とは、世で祝福を受け、世での影響力が大きくなることです。神様に拠り頼む者の影響力を通して、正しい人生に入って行く者たちが少しずつ多くなっていきます。その信仰の実を通して、本当に人生の意味を求める人々が多くなるようになります。信仰に生きる者が勝利するのです。Ⅰコリント15;57-58。

ダビデによる

37:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。

37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。

37:3 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。

37:4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

37:7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

37:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

37:9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。

37:10 ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。

37:11 しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。


ローマ6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

Ⅱコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

箴言24:19 悪を行なう者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。
24:20 悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。

マタイ5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

Ⅰコリント15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

http://www5.ocn.ne.jp/~akiru-ch/07.08.19sekkyou.html

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上記はある教会の礼拝メッセージのコピペですがこのサイトのメッセージには慰めや救いを覚えるものが多いと思いました。

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わたしの愛のうちにいなさい

「わたしの愛のうちにいなさい」というキリストの言葉が聖書にはありますがこれを思い出すたびに「いったいどういう意味だろうか」と思いました、このみ言葉で検索してみました。

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↓礼拝メッセージ

http://www.geocities.jp/smkyb240/newpage1.html

『父(神)がわたし(キリスト)を愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。
わたしの愛のうちにいなさい。』 
        (ヨハネ福音書15章9節) 

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http://cgi.koluthse.jp/cgi-bin/webcal/daily.cgi?year=2008&mon=6&day=14

↑ルターによる日々のみことば

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http://www.geocities.jp/smkyb240/20071028sekyou.html

↑礼拝メッセージです。

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嫌悪な時のメッセージ

http://www4.ocn.ne.jp/~christ/mke.htm

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礼拝メッセージ

http://teketeke.jp/syuho/2006/060514.htm

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礼拝メッセージ「まことのぶどうの木」

http://www.nagoya-bap-church.com/preach/2006/06_07.htm

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礼拝メッセージ

http://homepage3.nifty.com/kumagaya-ch/message/060312.html

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先生の言葉

http://www.seig.ac.jp/kinda/koto07_04.htm

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クリスチャンの基礎知識

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2005msg/050403.html

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礼拝メッセージ

http://homepage3.nifty.com/kumagaya-ch/message/041031.html

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ルターによる日々のみことば (リスト)

http://cgi.koluthse.jp/cgi-bin/webcal/list.cgi?year=2008&mon=6

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礼拝メッセージ

http://teketeke.jp/syuho/sy6-4.htm

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神の愛と許し

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2005msg/050410.html

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メッセージ集

http://www.mikageshinai.com/MissionOlive/mikotoba2005.7-12.htm

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礼拝メッセージ

http://www5.plala.or.jp/fussabap_church/preach/jul/preach1.htm

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結局のところイエスキリストのこの言葉は「神の戒めに従うこと」と思いました。イエス様の言葉に従うことであると思いますがこれができずに苦悩します。守れるように祈りたいです。自分にとり、神様よりの恵みというものは具体的には何度も美しい空を見ることができ感動しているということです。礼拝メッセージや賛美歌を好むようになり悪を行うことを悲しむようにされたということです。世への執着を持ちたくなくなったということです。イエスキリストに従うことを求めることにより心の内側が新しくされるということは真実であると信じます。

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バーコードの正体

知らないと損です!!             

1.バーコードの正体は?

 バーコード(刻印)は頭の数字4と左右6桁の数字からなっており、その間に他より長い下に数字がない二本線(∥)が左右と真中に3本表示されてます。この幅の二本線は6と読み取れます。(678904の6上は∥)ですから3本で666です。(ただしバーコードには三種類あって書籍などについているものは別種類なのでこの例にはあてはまらない)ところで聖書のヨハネによる黙示録には世の終末に全世界の人間が番号付けされるようになり(国民総背番号制はその前兆か?)やがてヨーロッパに現われる獣(ビースト)と呼ばれる666の称号を持つ天才的政治家(反キリスト者)によって世界経済が支配されると預言されております。

バーコードはその前兆です。さらに目に見えないバーコードのような番号と666の番号がレーザーの刺青により右手か額に刻印され、その数字を持たない者は売り買いができなくなると予告しています
(聖書によると666の刻印を受けることは、反キリストの支配下に置かれることを意味します。右手の刻印はすでにディーズニーランドや以前の旧ファンタジードーム(苫小牧市)等で採用されており、聖書の予言の前兆と思われます。)

「すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。・・ また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外はだれも、買うことも、売ることもできないようにした。・・・その数字は六百六十六である」(ヨハネの黙示録13章16~18)

2.的中している聖書預言

さらに聖書は世の終末には「にせキリスト」「にせ予言者」が大ぜい現われ、多くの人々が惑わされること。
「ききん」と「地震」が方々に起こと(異常気象や天変地異)。戦争と戦争のうわさを聞き「不法」がはびこること。多くの人たちの愛が冷たくなること(人心の荒廃)。不安の増大。経済的破綻等が予言されており、すべて的中しています


「また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24章10~13)

「 そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み
人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」(ルカ21章25~27節)


[
例~狂信的宗教、にせ予言、カルトの氾濫、ニューヨークでのテロ、イラク戦争、核戦争の脅威、世界的な異常気象、大地震の多発、スマトラ沖地震による大津波、池田での小学生殺人事件、少年少女の極悪犯罪や通り魔殺人の増加、振り込め詐欺、にせ札詐欺、不倫、浮気、家庭破壊、児童虐待の増加、自殺者の急増等々]
聖書は単なる宗教の書ではなく神の霊感によって書かれた神の預言書で、現代の世相を正確に預言しております。

3.キリストはだれか

キリストは宗教家ではなく、2005年前のクリスマスに神が人となって来られた救い主
です。彼は多くの奇跡を行いました。病人をいやし、嵐の海を静め、死人をもよみがえらせました。ご自身も十字架で死なれた後、神の力によって三日目に復活しました。(キリストの復活が歴史的事実であったことが科学的にも証明されました。トリノの聖骸布から出る特殊なエネルギー等)

キリストは宗教の教祖(偉人)ではありません。あなたを罪から解放し、心の傷や病をいやし、すべての束縛から解放して下さる、あなたの救い主、力ある神様です。

4.知らないと損です

人間はいくら強がっても死ぬときは、地位も、名誉も、財産も持っていくことができません。多くの人は死んだら、すべてが無になると言いながらも、ばくぜんとした死後の不安又は罪のさばきがあることを無意識的に感じております。これは神が人に「永遠への思い」と「良心」を与えた証拠です。
神はあなたを愛しておられ、さばきから救うために、また、罪のゆるしと永遠の命を与えるために、イエスキリストをこの地上に送って下さいました。このイエスを信じる者は、神からの新しい命と喜びが与えられます。
聖書は、神はそのひとり子であるイエス様をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の(神の)いのちを持つためだ、と語っております。

映画「天使にラブソングを」の映画上映以来、ゴスペルがブームとなっておりますがゴスペル(
Gospelの本来の意味は「キリストによる良い知らせ」です
「オーハッピーデー」というゴスペルの歌詞の中に
When Jesus Washedというくだりがありますがこれはイエス様が罪を洗って下さったという意味で、そのことを「オー!何とハッピー(幸せ)なことか!!」と歌っているのです。(詳しくは、このホームページのゴスペルの意味をご覧ください。)
このイエスキリストを知らないことによってあなたは永遠に損をします。イエスを信じるだけで罪がゆるされ、永遠の幸せがただで与えられるからです。聖書は、宗教の経典ではなく世界の歴史が今後どう動いていくのか(過去の預言はすべて的中)、終末にどんなことが起こるのか、第三次世界大戦はどこで起こるか、人は死んだ後どこへいくのか、目に見えない世界はどうなっているのか、人はどうして存在するようになったのか、人生の目的は何か、真実な愛とは何か?といった重要なテーマが記されております。あなたも、聖書を通し、本物の神からの知恵とインスピレーションを受け、永遠の幸いを得る者となってください。神はあなたを愛しておられます。
今日、初めて方も以下のように祈ってみて下さい。
この祈りを通して、神はあなたの心にも触れて下さいます。

「真の神様。今まで神から離れて生きてきた私の罪をお許し下さい。私の罪や心の傷 をキリストの十字架の血によって洗い流して下さい。よみがえったイエス様。今、私の心の中にお入り下さい。イエス様を救い主として心の中に受け入れます。・・・(あとは自己流で何でも祈ってみて下さい)・・・イエス様のお名前によっておいのりします。」

http://www.geocities.jp/gscsapporo/siranaitoson.htm

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↑一応前の記事にあげたリンク先の文章をコピペしました。

1

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死後の裁き

パソコンのワードに保存してあったメッセージがあったので、ここに再度載せます。

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NO. 571 死後のさばき

”テキスト:ヘブル9:
27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”

本日は死後のさばきという題でメッセージをしたいと思います。

世の中には、用意の良い人、良くない人がいます。
明日旅行へ行くというのに、前の日まで、服もかばんも用意しておらず、当日ばたばた騒がしく、
ついには遅刻してしまう人は、
用意の悪い人です。逆にずっと前から、用意万端整っているのは、用意の良い人です。

用意の良い人は、入学、就職、結婚、あらゆることに関して用意が良いものです。
しかし、そうであってももし、その人がもっとも肝心なこと、死後の裁きに対する用意がなければ、その人は
もっとも用意の悪い人、本末転倒な人といわれるでしょう。
 
 

人の人生でもっとも大事な用意について私は語りたいと思うのです。
それは、死後の裁きに関する用意です。

死後の裁きに対する用意が大事なのであって、死ぬことそのものに、
対する用意が大事と言っているわけではありません。
神を知らない人は死の備えというと、お墓を建てるとか、葬式の段取りを生きているうちにきめるなどと
勘違いしたことをいいますが、そんなことより、もっともっと大事なことがあります。
 

それは、私達の誰も彼もが、死後必ず、神の前に出て、裁きを受けると言うことです。
何でそう言うか、私あたりが断言できるかと言うと、上記テキストの様に、聖書が断言しているからです。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」
 

このことばは議論の余地がなく、あいまいな箇所なく、私達誰も彼もが、死後神の前に出ること、
そして、裁かれることが明白に書かれています。
死は誰に対しても平等に訪れます。王も将校も、商人も皆死を迎えるのです。
それと全く同じく平等に死後誰も彼も裁きに会うのです。

そして、もう一つ知らなければならないことは、ある人々は、その裁きの結果、
ラザロの様になぐさめの場所に行き、しかし、そうでない人は金持ちの様に
火の苦しみに会うのです。
 

死後、千の風になるだの、夜空の星になるだのわけのわからないたわごとや空想話をするべきではありません。明らかに聖書は、死後の裁きを述べ、その結果、誰でも2つのうち、どちらかに行くことを述べているのです。2つ?すなわち、慰めの場所かもしくは、火の苦しみです。

そして、その原因、すなわち、死後ある人が慰めの場所へ行くのか、はたまた、火の苦しみの場所、ゲヘナ
へ行くのか、その差は明らかに私達の今の生活、生前の生活と関係します。アブラハムから
金持ちへの以下のことばを思い出してください。

”ルカ16:
25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。”

その様なわけで私達は、この死後の裁きのことを正しく正しく認識するべきと思います。
何故なら、後で後悔しても遅いからです。

死後後悔している人々がいます。以下の通りです。

”ルカ13:
24 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。
26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。”
 
 

彼らはどの様な人々なのでしょうか?
「神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに」ということばから
想像できるのは、アブラハムやイサクやヤコブを先祖と仰ぐ人々、すなわち、旧約の神の民、イスラエルの人々です。
そして、それは、また新約のイスラエル、クリスチャンのたとえでもあります。
この箇所は、旧約の神の民であっても神の国へ入れない、追い出されることがあることを語ります。
そして、それは、また、新約の神の民、クリスチャンでも入れない可能性が在ることを語っているのです。
 

また、『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし。』とのことばは、キリストとともに食べたり飲んだり、すなわち、正餐式に加わったクリスチャンをさし、また、「大通りで教えていただきました。」とのことばもまたキリストの教えを受けるクリスチャンをさすのです。

聖書は明らかにクリスチャンであっても、不正を行う者が裁かれることを述べています。
このことを恐れ、歩みをただしましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

以前に紹介したリック・ウオレンさんという牧師の方が書かれた本を読んでも思いましたが真に重大なことは「いかにこの世で快適な人生を送り、栄光を求め、それを得るか」ではなく「人に仕えるという形で神に仕えること、つまり死後の神様による審判を最重要項目にしたほうがいい」というような事でした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下のサイトは『知らないと損です』というページですがバーコードの正体について説明されています。良ければ読んでください。私はこの説が絶対に正しいとか言うことは判断する力はないですがしかし聖書の言葉は信じるべきであると信じます。

「バーコードの正体」

http://www.geocities.jp/gscsapporo/siranaitoson.htm

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主のみ恵み

みことばの検索サイトより「盾」で調べました。

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詩篇:第一巻 1 12)主よ、あなたは正しい者を祝福し、盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます。

詩篇:第一巻 1 10)わたしを守る盾は神である。神は心の直き者を救われる。

詩篇:第一巻 1 2)主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。

詩篇:第一巻 1 30)この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です。

詩篇:第一巻 1 35)あなたはその救の盾をわたしに与え、あなたの右の手はわたしをささえ、あなたの助けはわたしを大いなる者とされました。

詩篇:第一巻 1 7)主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む。わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる。

詩篇:第一巻 1 20)われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である。

詩篇:第一巻 1 2)盾と大盾とを執って、わたしを助けるために立ちあがってください。

詩篇:第一巻 1 9)もろもろの民の君たちはつどい来て、アブラハムの神の民となる。地のもろもろの盾は神のものである。神は大いにあがめられる。

詩篇:第一巻 1 11)どうぞ、わが民の忘れることのないために、彼らを殺さないでください。主、われらの盾よ、み力をもって彼らをよろめかせ、彼らを倒れさせないでください。

詩篇:第一巻 1 3)かしこで神は弓の火矢を折り、盾とつるぎと戦いの武器をこわされた。〔セラ

詩篇:第一巻 1 9)神よ、われらの盾をみそなわし、あなたの油そそがれた者の顔をかえりみてください。

詩篇:第一巻 1 11)主なる神は日です、盾です。主は恵みと誉とを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。

詩篇:第一巻 1 18)われらの盾は主に属し、われらの王はイスラエルの聖者に属します。

詩篇:第一巻 1 4)主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。

詩篇:第一巻 1 9)イスラエルよ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。

詩篇:第一巻 1 11)主を恐れる者よ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。

詩篇:第一巻 1 114)あなたはわが隠れ場、わが盾です。わたしはみ言葉によって望みをいだきます。

詩篇:第一巻 1 2)主はわが岩、わが城、わが高きやぐら、わが救主、わが盾、わが寄り頼む者です。主はもろもろの民をおのれに従わせられます。

箴言:第30章 5)神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾である。

ーーーーーーーーーーーーーー

イスラエルとは聖書的な解釈だと「神の民、神に選ばれた民」という意味合いがあるようです。

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↓「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。 」というみことばで検索したサイトです。

「保護」

http://en.bibleinfo.com/old/H2/bil01804.htm

「調布キリスト教会のメッセージ」

http://teketeke.jp/syuho/new/030928.htm

「共に歩まれる神」

http://www005.upp.so-net.ne.jp/mametaro/worship04feb22.htm

 津久井みのりキリスト教会メッセージ

http://24319094.at.webry.info/200806/article_1.html

http://24319094.at.webry.info/200805/article_2.html

詩篇(口語訳聖書)

http://bible.50webs.org/sj/psalms.1.html

2007  オーストリアの旅 

http://www.asahi-net.or.jp/~EJ2T-TKHS/bunshou/2007Austria.htm

(↑何やら知らないがすごく素敵な写真が多く出てきます、胸がすくような良い写真だと思いました。ストレス緩和にも多少なりとも良いかもしれません。)

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主はしいたげられた 者のとりで, 苦しみのときのとりで.

「主はしいたげられた 者のとりで, 苦しみのときのとりで. 」(詩篇9:9)というみことばがありますが、下にあるリンク先はそれで検索したサイトです。読んでみて下さい。悪魔的な人間が勝ち誇るような日常ですが何時かは必ず正しい裁きを神が行ってくださることを信じたいです。

悪魔的なささやきの一つと言うのはやはり「人の罪悪感をひたすらに刺激してきて絶望や自暴自棄を起こそうとする」と言うことかもしれません。みえみえの茶番を執拗に繰り返してきて此方がいやらしさの塊であると言うことを意識に植えつけることを執拗に行っているようです。そして此方が怒り狂うのをも、面白がるようです。

彼らは邪悪さの塊でしかないのではないかと思いますが、一体どういう裁きにあうのかと不可解です。「自分たちは特別だ」と、疑いも無く思い込んでいるからです。後は「誰が自分たちの策謀を見ていよう」というおごり高ぶる性質がもろに見えます。此方は神が全てを知られる存在だと信じるために正直苛ついて怒り狂うのです。

私も信仰が足りないせいだと思いますが此方も愚かで自分だけの時を自分しか知らないだろうと思っていたために愚かしい生活状態でした。だから人のことをいえませんが彼らの姿は苛つきますね。

『満潮時の信仰』
http://www2s.biglobe.ne.jp/~sho/bible/b19_psalms/009/B19_%8E%8D%95%D1%82O%82O%82X%95%D1.txt

「終わりまで耐える者」

http://www5.ocn.ne.jp/~akiru-ch/06.11.19sekkyou.html

「神の勝利を信じて」

http://www2.raidway.ne.jp/~kakioch/mes/old/20000319.html

「こころのご飯」

http://homepage3.nifty.com/masuken1/gohan/200305A.txt

「敵からの救い」

http://www.logos-ministries.org/old_b/psa6-10.html

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「信仰の疑惑」と言うメッセージです、読んでみてください。

http://www.page.sannet.ne.jp/tcchp/mikotoba/shinkou.htm

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幸いと不幸

http://saisyoku.com/pics_killed.htm

↑「食卓のお肉ができるまで」というサイトなのですが、これを見た後しばらく肉を断っていました。しかし今はどうも、家族などの干渉もあり食べてしまっています。昨日にも鶏肉のオーブン焼きを食べました。(多く)

人間はただ食事するだけのことでも、重篤罪を犯すしかない存在だと思いました。それで初めのころに「屠殺についての訴えるチラシ」を作成して知人などに配りましたがやはりあまり芳しい反応など得られず、自己も今は肉を食ってしまっています。

しかし動物という存在(食用の家畜)も、神が人に与えた物ですので、一々良心に問うことなく食べることだというみことばがあるようです。(パウロ先生の)

キリスト教のクリスチャンアーチストの「森祐理」さんという方がいますがこの方のサイトを見てなんとも輝かしい働きをしていると、心底思いましたが、今時分激しい被害にあい続けている状況の中、しかし人の批判や攻撃的な文章を書き連ねる自分はなんとも惨めのきわみであると思わされました。

いくら他者に悪を行われておるとはいえ、やはり人をあしざまに言うことは不幸でしかないです。聖書の教えどおりに、人に愛を行う人生のほうが幸いなはずです。恐怖感に縛り付けられるとそれが極めて難しくなるようですね。

「人を恐れるとわなにかかる、しかし主に信頼する者は安らかである」というみことばが箴言にあるのですが、難しいことですね、そう思っていてもやはりいざとなれば暴力などに脅えます。そして何一つ自力では無理な自分が情けなくネットに愚痴を吐き散らすことになるようです。情けないし惨めです、この先には悪を行わないですべてのことを神にゆだねる生活をしたいです。後ろめたいことはすべて悔い改めたいです。

単細胞なためにこういうことを死ぬほど繰り返すのですが。

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http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%A3%AE%E7%A5%90%E7%90%86&ei=UTF-8&fr=top_ga1&x=wrt

↑森祐理さんのサイトの紹介です、よければ見てください。

http://www.moriyuri.com/yuri/home.php?no=profile

公式サイトです。↑

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