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2008年9月

メッセージのコピペです

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ホームページ・メッセージ080928            小 石  泉

基礎をしっかり



 最近、色々な教会のクリスチャンの悩みを聞くことが多いのですが、そのたびに思うことは、あまりにも信仰の基礎がいい加減だと言うことです。救いの確信を持っていないのに、高度な問題に頭を突っ込もうとします。聖書も通読していないのに、神学校で学びたいと言います。(ただし例外はあります。ハワイですばらしい働きをしておられる、ウエイン・コデーロ師は、神学校に入ったとき、ギデオン協会の新約聖書しか持たず、旧約聖書のあることすら知らなかったと言っていますから。)
 まるでセスナの操縦の訓練中に戦闘機や旅客機の操縦をしたがるみたいです。また、聖書信仰の基礎をしっかり学んでいないのに、奇跡やしるしを追い求めます。
 アメリカの教会や“リバイバル”集会はラスベガスのマジックショーやロックフェスティバルのようです。日本のある教会の信徒と話したとき、そこの教会ではトッド・ベントレーを高く評価しているということでした。私が「あれは危険だ」と言うと「でも、奇跡や癒しが一杯起きているではないですか」と言いました。奇跡や癒しがあれば何でもかまわないのでしょうか。確かにイエス様は次のように言われています。

もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。ヨハネ10:38~38

 イエス様の言葉は何千年もの信仰の基礎を築かれたユダヤ人に向けて語られています。

しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。マタイ15:24

 それは、神の国のことは信仰の訓練を受けた人々から伝えられなければ、誤って伝えられることがあるからです。他の民族の場合、どうしても長年の偶像崇拝や悪霊礼拝の宗教的な影響を受けやすいのです。確かに、イスラエルは主イエスを拒みました、しかし、イエスの福音を間違いなく書き記し、キリスト教の基礎を築いたのはイスラエル・ユダヤ人です。そして、選ばれた使徒たちは数千年の基礎の上に3年半主イエスと行動を共にして訓練を受けました。使徒パウロも救われて後に、数年間、一人でアラビヤに行って深く神と接して、それから働きを始めています。
 私が多くのクリスチャンと接して感じるのは、救いの明確な経験がないか、あってもはっきりした理論付けが無いのです。特にペンテコスト派は体験を重んじるので、救いについての確実な理解がないままで育っています。次のことが明確になっていなければなりません。

1.救いは主イエスの十字架によってだけ与えられるもので、人間には全く起因しない。
2.救いは“感じる”ものではなく、聖書の御言葉によって証明されるものである。
3.救われた人がクリスチャンで無くなることはない。もしそうなったら、それは救われてい     なかったのです。
4.洗礼は救われた人が受けるもので、洗礼を受けたから救われるわけではない。
5.クリスチャンになったからと言って、すぐに清くなるわけではない。キリストを通して清     いと認められるだけです。救いに関してはローマ人への手紙が最も重要です。

しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。ローマ3:21~24

 律法はユダヤ人が救いの基礎と考えていたものですが、パウロは、それがキリストの贖いのための基礎だったといっています。ユダヤ人も異邦人も等しくキリストを信じる信仰によってだけ救われるのです。
 今、欧米諸国では別の問題が起こっています。日本のように神の明確な知識がない国ではなく、すでに数百年のキリスト教信仰によって培われてきた国々で、信仰からの離反、不信仰がはびこっています。それは、やはり救いの明白な理解がないからです。実は、私には何となく分かるのです。なぜキリスト教国の若者たちが信仰から離れていくのか。
 私はクリスチャン・ホームに生まれました。幼いころから父や母の信仰を見て育ちました。集会や教会にもほとんどかかさず出席しました。しかし、高校生になったころから救いが分からなくなりました。私は救われているのだろうか。私は激しく悩みました。そしてその悩みは20歳ぐらいまで続きました。東京に出てきて、色々な教会や大会に出て、決心するのですが、どうしても明確な救いの経験が出来ないのです。神を信じていました。キリストの十字架の贖いも理解していました。洗礼も受けました。しかし、救われたと言う実感がなかったのです。周りの人々は「君は、もう、救われているんだよ」と言ってくれるのですが、自分は納得できないのです。
 ある、夏の日、ある教会のサマーキャンプで真鶴岬に行きました。そこでも私は悩んでいました。夜、岬の突端の岩の上で、「神様救ってください!」叫んでいました。しかし、答えはありませんでした。東京に帰って、会社の寮の一室でふとある信仰書を読んでいました。するとそこに「キリストがやってしまった救い」と書いてありました。えー、やってしまった? なんで、過去完了形で書いてあるのだろう。私は今、救いを求めて必死になっているのに。そのために私の青春は真っ暗闇だったのに。やってしまった・・・?
 その時でした。私は、はっきりと分かったのです。そうか! 2000年前にイエス様が私の為に十字架にお掛かりになり、私の身代わりとして罪の罰を受けてくださったのだ! だから私はもう救われているんだ! 私の救いは2000年前に終わっているんだ! その日から、私の長い暗闇は去りました。私は救いを確信しました。
 私は思います。クリスチャンホームに育った人でも、キリスト教国でキリスト教の環境に囲まれている人でも、このように明確な救いの理解が出来ないのではないだろうかと。私のような、数年間の長いトンネルを通らないで、表面的な理解だけで救われたと勘違いしている人々が多いのではないでしょうか。今、思い出しても、あの不安感、闇の深さをもう一度経験したくありません。しかし、それなくしては、私の天の国籍は与えられなかったでしょう。
 私は、あなたにお聞きします。あなたは救われていますか? はっきりとそう言えますか? どこにその保障はありますか?

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。ローマ10:9

 この御言葉はあなたの言葉となっていますか? もしそうなら、感謝しましょう。次のように書かれていますから。
 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。
 それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。

 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。ローマ8:28~39



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NO.615悪魔を父とするクリスチャン(2)

”テキスト:ヨハネ8:40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。
41 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」
42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
46 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」
48 ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」”

本日は、「悪魔を父とするクリスチャン(2)」として、この件をさらに見ていきたいと思います。

”40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。”

この悪魔を父とするクリスチャン達の特徴がここに書かれています。
それは、他でもない真理を語る方、神からの方、キリストを亡きものとするということです。
残念ながら、この類いのクリスチャンは日本にもたくさんいます。
すなわち、真理の方であり、真実の方であるイエスを嘘つき呼ばわりし、
悪評を立て、亡きものとすることに精をだすクリスチャンです。

史的イエス、ユダの福音書、ダビンチコードなどに賛成し、キリストは実は十字架にかかっていない、
復活もしていない、要するに嘘つきであると語る人々がそれです。
日本の多くの神学校、ミッション系学校の神学部は、この類いの嘘を喜々として語っています。
ですからこの手の学校は、「悪魔を父とするクリスチャン養成所」みたいなものなのでしょう。
高いお金を払ってこんなとこに献身者を入学させるのは考えもの、というより、全く愚かな
行為です。

「アブラハムはそのようなことはしなかったのです」

アブラハムはそのようなことをしなかったので、その子孫である、
イスラエル人はキリスト殺しにかかわるべきではありません。
同じく霊的イスラエルである今の時代のクリスチャンもそうすべきではないのです。
 

ですからキリストを嘘つき呼ばわりする行い、近代神学、自由神学などを標榜する輩は、
真の意味では、アブラハムの子孫、霊的 イスラエルと呼ばれる資格の
ない人々です。彼らの正しい名前は悪魔を父とする人々です。

”41 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」”

イエスはこれらのクリスチャンは、実は彼らの父すなわち、悪魔のわざを行っているのであると語りました。
ですから、クリスチャンと名があっても悪魔のわざを行うことはあり得るのです。
何故なら、まさにキリストがそう言っているからです。

そしてそのように考えると今迄理解不能だった、ある種のクリスチャンの言動も理解できます。
何故、ある種のクリスチャンは、わざわざ信仰を覆す様なことを語るのでしょうか?
いわく、棄教することがあたかも神に喜ばれる様なことを書く、カソリック作家、
はたまた、ヒンズー教徒はヒンズー教徒のまま死ぬべきである、すなわち、唯一の救い主、
キリストを受け入れる必要はないと語る、某カソリックシスター:
彼らの父は真の神ではないのかもしれません。

”42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。”

「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。」と
書かれています。事実、真に父なる神を父とするクリスチャンはキリストを愛します。
しかし、そうでないもの、
悪魔から出たものの特徴はキリストを憎むことであることがわかります。
このもっとも典型的な例は、キリストを憎み、あらゆる罵詈雑言を吐く、タルムード主義者、
偽ユダヤ人です。

キリスト教界に潜り込み、すぐ、
正体がばれて、大恥をかく愚かものののことです。
これらの者は、実際はクリスチャンではないのですが、
しかし、実際、自分はクリスチャンであると思い込んでいる、しかし、悪魔を父とする
人々がいます。

すなわち、キリストの復活はなかった、奇跡はなかった、すなわち、キリストはただの嘘つき、ほら吹き、
誇大妄想であると語る人々です。日本の多くの神学校にばっこする、背教者の面々です。
彼らは、この様にして、キリストを否定し、憎み、悪評を浴びせるのは、勿論、
キリストを憎んでいるからです。そして、キリストを憎むものは上記、
みことばによれば、悪魔を父とする人々なのです。

ですから、私はみことばに沿って、
はっきりとしたことをいいます。

残念ながら、日本の神学校、ミッションスクールは、悪魔を父とする人々によりいつの間にか、占領されてしまいました。これらの学校に通わせることにより、しっかりした信仰を持った、若い信仰者の
信仰を覆す愚はさけるべきです。


43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。”

何故これらの冒涜教師どもが再臨はない、復活はないなどとのヨタ教理を一生賢明語るかと言うと、

彼らはキリストのことばが理解できない、わからないからなのです。
それは、何故かと言うと、「あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。」
悪魔を父とする者、冒涜教師どもは、聖書を読んでもそのことばに耳を傾けることができない、そのために、ユダの福音書は真実だののヨタ話にひかれていくのです。

”44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。”

何故、これらの背教新学者、ゲヘナ行き確定の愚かな教師どもは、
わざわざキリスト教の神学校にまで入り込み、嘘神学、ヨタ神学を語り、
多くの若いクリスチャンの信仰を覆しているのでしょうか?
その理由がここに書かれています。

それは、彼らが、「父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」
悪魔の欲望は一人でも多くの純粋な信仰者を覆し、ひっくり返すことであり、
それを、彼らは神学校やら、 ミッションスクールを通して、実現しているのです。

悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。」

これらのヨタ神学の毒にあたって、信仰が覆されるとどうなるでしょう?
当然ながら、永遠の命が危ないのです。始めからの人殺し、悪魔の
願いがかなってしまうのです。

”彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。”
 

何故、悪魔を父とする人々がばっこする神学校には、嘘、偽り、虚偽で固めたような、
ヨタ神学が次から次へとあらわれるのでしょう。
キリスト教はユダヤ教の一派に過ぎないとする死海文書をもとにした偽りだの、
終末論を否定する環境神学だの、女権を主張して聖書かいざんを主張するフェミニズム神学だの、
あきもせず、浅薄な嘘話が多く、それからそんな薄っぺらい嘘にすぐ同調する、
阿呆たれ神学者が多すぎます。

その理由がこのみことばであり、嘘、偽りは悪魔の特徴だからなのです。
だから、悪魔を父とする背教教師どもの巣窟、冒涜神学校においては、次から次へと
嘘教理が繰り出されるのです。こんなとこへわざわざ何年も通って、永遠の命を失う
愚か者になってはいけません。


45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。”

悪魔を父とする者は偽り者を父としているわけであり、結果として、真理である、
キリストを信じません。
ですから、真理であるキリストの教えを曲解し、偽りとする者はみな、
悪魔を父とするものである可能性があります。

キリストへの忠誠を変えて、マリヤへと導くローマ法皇などは、この類い、
悪魔を父とする人なのでしょう。

46 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」”

キリストは真理の方であり、そのことばに聞き従わないものは、「神から出た者でないから」なのです。
神から出ていなければどこから出たかと言うと悪魔から出ているのです。

ですから、神のことば、キリストのことばに逆らい、聞き従わず、逆に
入れ墨OK, 不良OKの牧師は、悪魔から出ていることになります。

”48 ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。”
 

彼らはイエスをサマリヤ人、悪霊つきといいました。
もちろん、イエスはサマリヤ人でも悪霊つきでもないのですが、しかし、
サマリヤ人、悪霊つきとは、興味深い表現です。

サマリヤは北イスラエルの首都であり、北イスラエルは、私の理解では、カソリックの予表です。
ですから、カソリックは悪霊つきであるとここでは語られているのです。
実際、カソリックと悪霊とは大いに関係があります。
よくある血の涙を流すマリヤ像なんていうのは、はっきりいって、悪霊現象です。
また、カソリック教徒のいう、秘儀だの、しるしだの奇跡だのは、みな、悪霊からのものが
多いようです。
また、変な霊現象を経験するカソリック教徒も多いようです。マリヤが現れた、
キリストが現れたからといって、安心はできません。サタンも光の天使に偽装すると書いてあるからです。

さて、まとめますが、明らかにこのテキストが語ることはイエスを信じる、クリスチャンであると語りながら、なおかつ、悪魔を父とすることはあり得る:このことと思われます。
従って、誰でもいったん、クリスチャンと呼ばれるようになったら、決して悪魔を父とすることがない:
などとの考えは全く間違えであるといえます。まことに命、永遠の命に至る門は狭く、その道も狭いのです。

しかし、私達はこの門をめざし、この道をめざしましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
  http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/
 
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以上の二つのサイトからメッセージを何時もコピペしているのですが今回は二つまとめてのせてしまいすみません。

正直「エレミヤの部屋」のメッセージは難解な感じがしますが私が今のところ苦悩しているのは「主への従順、そして忍耐が与えられたい」「悪には疎くなりたい、幼子になりたい」という希望です。悪にさとくなったところでろくなことがないからです。

しかし悲惨すぎるような被害は吹聴したくなります。加害者らは超むかつく人種なので宣伝しまくりたくなりますね。

しかし幾ら認知活動じみたことをしようがどうせ全ては神の御心どおりにしかなりえないと思うと自分の悟りや判断などあてにしても無意味だと思います。

神は真実であり正しく裁いてくださることを信じて神の愛のうちにとどまりたいところです。

加害者らは信じがたいいやらしさを発揮しまくりですが。苦悩しています。

あいつらってマジであほじゃないかと思うし、死にたいし死ねないしマジでむかついて殺したいですね本当に、と言うのが率直な感想ですが何故にああいう自己統制のない基地外が罷り通るのでしょうか。何時まででしょうかね。

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礼拝メッセージのコピペです。

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ホームページ・メッセージ080921            小 石  泉

人間の悲惨


 人間とは悲惨なものです。そんなことを言うと、牧師のくせに、何でそんな希望の無いことを言うのかと怒られそうですが、どうぞ、最後まで聞いてください。
 日本橋の教会で協力してくれている渡邊姉妹は、最近、広島に行ってきて、究極の人間の悲惨を見てこられました。それは正に言語に絶するもののようです。今度は長崎に行くと言っていますが、私はとても行く勇気がありません。
 また、最近、NHKがベトナムやイラクの帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)の話題を放送していました。ごく平凡な若者が戦場で多くの民間人を殺害し、その記憶で正常な精神を保てなくなっている話でした。多くの帰還兵が良心の呵責で自殺しています。これも人間の悲惨ですが、もっと悲惨なのはベトナムで、アフガニスタンで、ユーゴで、イラクで、殺されていった無数の民間人でしょう。それどころか、人間の歴史は戦争と殺人の歴史です。悲惨そのものではないでしょうか。
 アダムとエバが神に背いて堕落してから、人間は悲惨なものとなりました。アダムの家は一日の内に最初の死者と殺人者を出してしまったのです。何と悲惨な家庭だったことか。
 ところで、このようにあからさまな悲惨のほかに、別の悲惨があります。

ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。彼に男の子七人と女の子三人があり、その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。ヨブ1:1~5

 何と美しい家庭でしょうか。クリスチャンホームの模範のような家庭です。ところがこの家庭に恐ろしい悲劇が起こります。ヨブは一日の内に全ての財産と子供を失い、自分自身も皮膚病に犯されるという悲惨を味わいます。詳しいことはヨブ記を読んでいただくとして、ここに、目に見える悲惨以外の、目に見えない悲惨がありました。それは正しく、清く、神を愛するヨブが、なぜこのような悲劇に会わなければならなかったかです。
 私は、今の時代にも、このようなケースをいくつか見ています。
 非の打ち所の無い、立派な牧師の家庭に、信じられないような悲劇が起こることがあります。立派な教会を作り上げ、子供さんたちも清く正しく美しい心で、まるでヨブのように理想的な家庭です。ところが社会にはそんな美しい人間ばかりいるわけではありません。どうしようもないほど邪悪な人間とも接触しなければなりません。そして、彼らには想像もできない邪悪さで、美しい心が引き裂かれる悲劇が起こります。
 日本は戦後60年、まれに見る平和を享受しました。その結果、人間の悲惨、あるいは邪悪さについて、恐らく世界でも最高級の無知な民族となっています。何不自由なく育って、無邪気で(特にクリスチャンは)悲惨を知りません。
 人間が悲惨でないなら、キリストの救いは必要ありません。悲惨を知ることは信仰の仕上げ段階なのです。ヨブの信仰を神様は非常に喜んでおられたことは、読んでみればわかります。しかし、どうしても悲惨を教えなければ信仰は完成しません。神様は涙を飲んで、ヨブをサタンの手に渡します。

ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。1:6~11

 実は、ヨブの最大の悲惨は、何かを失ったことではなく、なぜ、このような悲劇が起こったか分からなかったことです。その理由が分かれば耐えられるのです。しかし、何も思いつかない。彼の友人たちは、ヨブに何か落ち度や隠れた罪があったのだと責めたてます。しかし、ヨブにはどんなに反省してみても思い出すことが無い。
 立派で、美しい人格だからこそ、悲惨を教えなければならなかった。美しいままでは天国には行けません。天国は悲惨から救われた人の行くところなのです。

『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。マタイ9:13

 キリストが来たのは、罪に沈む悲惨な人間を救うためです。これは全く人間の発想とは逆です。ほとんどのクリスチャンは罪の深み、人間の悲惨を知りません。そういう義や善はひ弱な義や善なのです。クリスチャンホームに育ったり、あるいは何不自由なく豊かな環境で育った、美しい心の人々には残酷な教育がなされなければならないことがあります。

イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。ルカ5:31(新改訳)

 人格も環境も信仰も健全だった。何も問題ない人生だった。それだけでは救いの真髄は分かりません。救いは罪の中から、悲惨の中から、汚濁の中から、闇の中から救われて、初めて本当の意味があるからです。幼子のような無邪気さは真の意味で神を知っていることにはならないのです。
 聖書は信仰をしばしば陶器の製作過程に例えています。

されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。イザヤ64:8

主からエレミヤに臨んだ言葉。「立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所でわたしはあなたにわたしの言葉を聞かせよう」。わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。エレミヤ18:1~4

 このつながりから言えば、最善の人々に与えられる悲惨または試練は、陶器の仕上げの段階に例えられるでしょう。よい陶器を作る場合、粘土で作った壷を乾燥させ、低温の窯で素焼きにします。その後にその上に釉薬を塗り、模様を着け、高温の窯で焼きます。そして美しい陶器や磁器が出来上がります。
 同じように、私たちを仕上げるために、陶器師である神様は私たちをもう一度、(人によっては初めて)悲惨や困難や試練にあわせて磨き上げるのです。この過程は本物のクリスチャンを作り上げるためにどうしても必要なのです。そして、この過程に入る人は、それに耐えられるだけの基礎的な信仰の段階に到達している人です。そうでないと壊れたりつぶれたりしてしまいます。
 人間の悲惨を知ること、それは神の国に入るための最後の仕上げです。だから、

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。Ⅰテサロニケ5:16~18

 そして、試練の只中にある方は、次の御言葉を自分に語り続けてください。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
ローマ8:28


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神様は聖書の中で「会うべき試練つまりは懲らしめに会わない信徒は神に取り私生児に過ぎません」と言う過激な事を言われています。つまり苦しみにあわねば聖書の意味合いが分からずお飾りの信仰しか出来ないという意味かもしれません。

私はこの度激しい苦しみに会い続けることで神を常に呼び求めるようにされました。
それは事実ですし神の恵みと慰めに会った事も事実です。

この世で苦しみに会うということは神に見出されているということかもしれません。苦しみに会わない人生に聖書が必要かというと疑問に思います、詩篇などはほとんど、集ストの被害者向けではと思うような慰めに満ちたる記述が多いからです。

この世はサタンの支配下です。しかしそれは一時的です。サタンの上に神が全てを支配しています。天国に行く者と、地獄に行く者をふるいにかけるような事が行われているのだと思います。神にとっての私生児に関しては、以下のみことばがそうです。

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8)だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。

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へブル人の手紙

第12章

1)こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。

2)信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。

3)あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。

4)あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。

5)また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。

6)主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。

7)あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。

8)だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。

9)その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。

10)肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。

11)すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

12)それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。

13)また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。

14)すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。

15)気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。

16)また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。

17)あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。

18)あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、

19)また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。

20)そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。

21)その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。

22)しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、

23)天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、

24)新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。

25)あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。

26)あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。

27)この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。
28)このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。

29)わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。

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上の箇所にはイエス様の受けた受難と天の御国についての記述があると思います。

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http://www20.atwiki.jp/persia100/

↑調布猫地域まとめサイト

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↑昨日地域に住む知り合いの家に行きましたがそこで飼い猫に関するトラブルについていろいろと聞かされ猫好きの間ではまたいろいろな議論が交わされているのだと思い、ネットの世界はすごいなどと、的外れ?な関心をしました。よければ見て下さい。

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生活支援センター

精神病という烙印が押されるといろいろと特典めいたこともあるみたいではあります。

生活支援センターでは無料でネットを使わせていただけました。

あと入院しているという環境は不自由で極めて苦痛かもしれないがある意味ある程度は保護された空間かもしれません。しかしスタッフよりの嫌がらせはありましたが。

私は集ストによってある程度人生を破壊され、究極のだめ人間に仕立て上げられたが神様の計画かもしれないと思います、ある本によれば神の計画は完璧であり全ての存在に計画があるといいます。

伯母に頂いた本ですが、「人生を導く5つの目的」と言う本です。キリスト教について非常にわかりやすく噛み砕いて説明された本みたいです。救いや慰めや指針になると思うので、皆様も読んでみてください。ホームページもあります。

「パーパス・ドリブン・ジャパン」(PDJ)と言う会社みたいです。検索してみてください。

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会社のサイトです↓

http://www.pdjapan.com/

本の紹介です↓

http://www.familynetwork.jp/japanese/j_pdl.html

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「荒野の声」と言うコラムのサイトです。↓

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/

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↓上のサイトの中のメッセージです。他の文章は私には難しいのでこれを載せます。

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荒野の声 NO.43


           サタンに関する基礎知識

 サタンに関して、日本人の持つイメージは絵空事だろう。かつてかなり行政の高位にいた人から「本当にサタンなんているんですか」と聞かれたことがあるのだが、それは日本人の極めて普遍的な質問だと思う。さらにクリスチャンと称する人々はサタンについて語ることも聞くこともいやがる。それでほとんど迷信のような知識しか持っていない。
 私はここにサタンに関する最も基礎的な知識を書いて置こうと思う。

1.サタンの名前
サタンは悪魔、試みる者、誘惑者、悪い者、告発者、敵、悪霊どものかしら、この世を支配する者、空中の権威を持つ支配者、ベルゼブル、などと呼ばれている。

2.サタンはかつて天使の最高位にいた天使長である
これについては旧約聖書エゼキエル書28章を参考にされたい。ここに言うツロの王とはルシファーのことで、王の称号のヒラム、またはフラムがフリーメーソンの語源となった。本当の名前はヘブル語でヘレルだが一般的にはラテン語のルシファーのほうが有名である。

3.サタンは遍在(いつでもどこにでも存在する)ではない
  旧約聖書のヨブ記に次のような言葉がある。「ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。主は言われた、『あなたはどこから来たか』。サタンは主に答えて言った、『地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました』」。1:6~7
  ここは神とサタンが問答する極めて不思議な箇所なのだが、ここでサタンは「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」と言っている。それはサタンが地球上を歩き回る者だと言うことを表している。言い換えればサタンは神のように、いつでもどこにでも居ることが出来る「遍在」ではないものだということを示している。
   サタンは神によって造られた天使だったから固有の体を持っている。従って、ある場所から他の場所へは移動しなければならない。乗り物に乗るのか、彼自体が推進力を持っているのか知らないが、とにかくいつでもどこにでも居る者ではない。

4.サタンのサイズは人間と同じである
   これは多くの人が驚くのだが、サタンのサイズは人間と同じである。それは聖書の黙示録に書かれている。
「都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。 また城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。」21:16~17
  この箇所は未来の天の都のことなのだが、そのスケールは「人間の、すなわち、御使の尺度による」と書かれている。御使いとは天使のことで、サタンもかつては天使だったのだから人間と同じサイズである。ただし、彼は自分を巨大なものに見せる幻影を作り出す名人である。

5.サタンは多くの部下を連れている
   サタンは天地創造の前に神に反逆し天を追われた。その時、伝説では天使の三分の一を引き連れて出たと言う。サタンとこの部下たちを堕落天使または悪霊と呼ぶ。サタンは遍在できないのでこれらの部下にそれぞれの任地を与えている。旧約聖書ダニエル書に、
「ダニエルよ、恐れるに及ばない。あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ましたその初めの日から、あなたの言葉は、すでに聞かれたので、わたしは、あなたの言葉のゆえにきたのです。ペルシャの国の君が、二十一日の間わたしの前に立ちふさがったが、天使の長のひとりであるミカエルがきて、わたしを助けたので、わたしは、彼をペルシャの国の君と共に、そこに残しておき、末の日に、あなたの民に臨まんとする事を、あなたに悟らせるためにきたのです。」10:13 ~14と言う言葉があるが、このペルシャの君と言うのはその代表例である。
   近年、異星人、エイリアンと言う言葉が多く使われるようになったが、これはこの堕落天使のことである。彼らが宇宙のどこかの星を拠点としているかもしれないので、異星人というのもあながち間違いではないと私は思っている。
   また、シスコ・ホイーラーさんによるとこれらの堕落天使は永遠の命がほしくて人間の血を飲むのだが、そうすると、もう霊界には戻れずに、地球上の数箇所に地下都市を作って生活しているという。彼らは人間の形を取ることができるが通常は爬虫類(レプテリアン)の姿をしている。(生物学的な爬虫類のことではなく、そういう形をしているということ)また、世界の高位の家系にはこのレプテリアンがいるという。アリゾナ・ワイルダーさんによればそれはそんなに多くはない。さらに、彼らはUFOを移動手段としているらしい。ただしUFOには色々な種類がある。人間が作ったもの。ただの幻影。

6.サタンがキリストの再臨を阻止するために戦う戦いがハルマゲドンである
   ハルマゲドンについては広範な誤解または意図的な誤導がある。ハルマゲドンを人間社会の最終戦争と位置づけることが一般に行われるが、聖書のどこからもそんな結論は導き出せない。ハルマゲドンと言う名前が聖書に出てくるのは次の一箇所だけである。
「第六の者が、その鉢を大ユウフラテ川に傾けた。すると、その水は、日の出る方から来る王たちに対し道を備えるために、かれてしまった。また見ると、龍の口から、獣の口から、にせ預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった。三つの霊は、ヘブル語でハルマゲドンという所に、王たちを召集した。」黙示録16:12 ~16
    ここから世界最終戦争という概念が導き出された。しかし、ここには「王たちを招集した」とあるだけで彼らが互いに戦争したとは書かれていないし、第一この核戦争の時代にイスラエルのエスドラエロン平原(ここをハルマゲドンという。実際にはその東端にあるメギドの丘ハルメギドを指す。)のような狭いところに王たちが集まって戦争してどうすると言うのだ? 刀と槍で戦うのか? お笑いである。
   王たちが招集されるのは別の目的である。エスドラエロン平原の東にキリストが再臨すると約束されたエルサレムのオリーブ山がある。さらにこの戦いには「全能なる神の大いなる日に」という奇妙な言葉が書かれている。これらのことから結論できるのはオリーブ山に再臨されるキリストを迎え撃つために「王たち」は招集されるのである。核ミサイルやステルス戦闘機でキリストに立ち向かうと言うのだ! 本当の目的は世界の破壊だろう。Ⅱテサロニケ2:8に「 その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。」と言う言葉がある。キリストの「来臨の輝き」はあらゆる地上の武器に勝る超兵器である。

7. サタンは最終的に神によって永遠の火の池に投げ込まれる
  特に気をつけていただきたいのはいわゆる666として知られる世界帝王はサタンではない。サタンの一人子で、聖書では獣(英語ではbeastギリシャ語ではzoonという人間であるが獣である意味が使われている)と呼ばれている。これはハルマゲドンの後、直ちに火の池に投げ込まれる。なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。黙示録19:19~20
   サタンには別の運命がある。
またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。(中略)千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。20:1~10
   サタンは一旦、千年間、底知れぬ所というところに幽閉されるが、なぜかその後、一時開放され、再び神に逆らう。この時、もう一度ゴグ、マゴグを惑わすとあるがこれは第三次世界大戦の時とは違う。そして最後に火の池に投げ込まれる。これが彼らの永遠の住処となる。

8.サタンには希望とか建設とかはない。絶望だけである
  サタンは自分の末路が永遠の滅びであることが分かっている。だから地上に何かを建設的な目的で計画することはない。ただ一人でも多くの人間を自分と同じ運命に引きずり込んで神に悲しみを与えることだけが目的である。
http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/

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「闇夜の光」

http://white-church.hp.infoseek.co.jp/index.htm

↑上のサイトにはわかりやすいキリスト教の説明があります。初心者向けかもしれないです。どうか見てください。

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愛について

ホームページ・メッセージ080914            小 石  泉

老人問題と聖書


 人間が一番幸せなことは、もちろん神を知ることですが、普通の生活の中で“自分は必要とされている”という感覚こそ幸せを感じることだと思います。ところが一般には自分のために何かを受けること、自分を中心に全てが整うことが幸せだと思うことが多いのではないでしょうか。そのために返って不幸になっているケースがなんと多いことでしょう。

わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。使徒行伝20:35

 この御言葉は不思議なことに福音書には書かれていません。しかも、使徒ではなかったパウロ先生の話です。しかし、これはイエス様の言葉に違いありません。ここには大きな真理があります。受けるよりも与える方が幸いなのです。
 かなり前になりますが、ある“いやし系”と言われる女優が「では、私は誰にいやされれば良いのでしょうか?」と言っているのを知って、この人は分かってないなと思いました。他人をいやすとき、実は自分もいやされているのです。子供のことを第一に心がけているお母さん、会社にとって重要な仕事をしているサラリーマン、病院の医師や看護師、保育園の、幼稚園の保母さんや先生などが生き生きとしているのは、自分が必要とされていると言う事を感じているからでしょう。
 最近、日本でかなり大きな問題として取り上げられているのは、老人介護です。もちろん寝たきりになられた方々や認知症(変な言葉だ)になられた方々は仕方が無いにしても、それ以前にもっと何か出来ることは無かったのでしょうか。80歳や90歳になられても元気一杯かくしゃくとされている方々を見るとその感を強くします。
 定年退職された方々が、これから何をしたらいいのだろうと悩むのを見ると、気の毒になります。私ならこれからは誰の制約も受けずに、自分の好きなことが出来ると思うのです。例えば、農業です。それが生活の糧を得るための必要手段でないのですから、楽しんでできる範囲でやればいいではないですか。またボランテアもそうですが、日本人特有の真面目さから、規則や方策に縛られて苦痛になることが多いようですが、老後ぐらい、楽しく生きましょうよ。 私には夢があります。それは老人ホームではなく老人ホテルを作ることです。老人たちが幼稚園児のように介護の保母さんに手を引かれて歩いているのを見ると情けなくなります。老人の中にはプライドのある方々も居られるでしょう。“誇り高い老後”と言う考え方がもっと強調されていいのではないでしょうか。オペラ歌手の藤原義衛さん、映画評論家の淀川長冶さんはそれぞれホテルで晩年を過ごされました。私はこのようなプライドのある老人たちが幼稚園児のような扱いを受けないで晩年を過ごすホテルを作りたいのです。新しいホテルを作る必要はありません。駅の近くの大きなホテルが経営不振で倒産しているケースを沢山見ました。誰か最初の経費と財政上の責任を持ってくださる人はいないでしょうか。私は日本には、体は少し不自由でもプライドを持って生きたい老人が必ずいると思うのです。中にはチャペルを作ります。しかし、絶対に信仰を強要しません。
 よく言われる言葉に「生きがい教室」などというものがあります。年を取ってから、生きがいを教えられなければならないなんて! 生きがいと言うものは自分でそれまでの人生で見つけてこなければならないでしょう。趣味に生きる? そんなことしかないのですか? 本当の生きがいは神を知り、神とともに生きることのほかにありません。

事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。伝道の書12:13

 それでも信仰は自発的なもので無ければなりません。日本では老人を尊ばない風習があります。姨捨山の伝統です。私の経験から言って、年齢を増すほど物事の理解の深みは増しますし、感動も増します。ユダヤ人たちは老人を敬います。それは経験と言う年齢を経なければ獲得できない富を持っているからです。

あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。レビ19:32

 老人ホテルには散策する庭も、折り紙を楽しむ部屋も必要ありません。そういうことは外に行って経験し、教える側になっていただきます。農業の知恵、工業の知恵、家事の知恵、美術の知恵、音楽の知恵、子育ての知恵、どんなに多くの若い人々が途方に暮れていることか。老人は知恵の宝庫ですよ。だから、これを実践していただきましょう。

与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。ルカ6:38

 主イエスの語られたこの原則は、老後と言われる人々にも真実です。与えられる、面倒を見られる、世話をされることを当然として、受けるだけの体制を作ってしまっていないでしょうか。与える喜びを失わせていないでしょうか。
 あるイギリスに長く滞在した婦人が、日本に帰ってきて「日本は老人を甘やかしすぎる」と書いていたことを読みました。私も今年で68歳になりますが、やりたいことが一杯あります。その気になれば3000坪の土地を農地として使って良いと言われています。ただ忙しいのと、体が付いていけないので出来ないでいますが。
 自分を他人の為に捧げつくすとき、本当の生きがいがあります。

またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。ルカ22:19

 主イエスはご自身の全てを私たちの為に捧げつくされました。十字架の上で死にいたる前には下着までも兵士たちに奪われ、それこそ素っ裸になるまで与え、そして命までも与えられました。

与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。ルカ6:38

 老後の生きがいを、「与えること」にしましょう。金銭的なことではなくとも、愛と助けをいつも探していましょう。お節介になるのは困りますが、静かに見回して、慎ましく、そうありたいものです。

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/

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聖書には「愛」についての戒めがありますが、神の子であるイエス様は愛に生きた方だったのですね。

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コリント第一

第一三章

1)たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

2)たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい 。

3)たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

4)愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、

5)不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。

6)不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

7)そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

8)愛はいつまでも耐えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。

9)なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。

10)全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

11)わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

12)わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られるように、完全に知るであろう。

13)このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

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しかし私には愛がありません。自分に嫌がらせしてくるやつを憎み殺したいと思ったりします。我慢の限度を超えることを平気でするからです。それも延々と執拗に。

人間が救いに預かるには結局はイエス様にすがりつくしかないと思いますが今はそういった問題で苦悩しています。どうしたものかと。

世の終わりが近いのでなければここまで狂った世界などないのではと思います。

私は地獄行きは嫌です。憎む心を持ち天国にいけるであろうか。
どうしたものかと思います。

正直殺されるというような恐怖感もあります、人間は死が終わりではないので、地獄行きにならなければいいと思いますが殺傷や暴力は恐ろしいです。集ストの加害者らは精神虐待が殆どですがその結果ブチ切れして恐ろしい目にあうのが怖いです。

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天国と地獄の情報

皆さん人間に取り最も重大な問題は死後にあると思います。この世は一時ですが死後は永遠だからです。地獄行きになり永遠の刑罰を受けることは永遠の後悔でしかありません。救い主であるイエスキリストの救いに預かりましょう。

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天国と地獄の情報

http://www.tengokujigoku.info/

エターナル・ライフ・ミニストリーズ

http://www.eternal-lm.com/

(以下の文章はサイトより一部コピペしました。)

イエス・キリストは私に言われました。「あなたが書く本は多くの人を地獄から救うことになります。私はあなたに現実の地獄を啓示していきます。それは多くの人が救われるため、手おくれになる前に多くの人が悪の道を悔い改めるためです」
「私は、あなたを地獄の中に連れて行きます。それは、地獄の現実をあなたが書き留めて、全世界の人々に地獄が現実にあることを語るため、また滅びに向かっている人々を暗やみの中からイエス・キリストの福音の光の中に導くためです」
ーーーーーーーーーーーーー

《著者メアリー・K・バクスターから》
 この本を書くのは、私にとって長くて、孤独で、しかも忍耐のいる経験でした。実際、この本ができ上がるまでに何年もかかりました。
 私が主から啓示を受けたのは、1976年のことでした。その啓示を紙に書き出すのに八ヶ月かかりました。執筆に数年かかり、整理するのにもう一年かかりました。
 この本の完成には、1982年の冬と1983年のまる一年とを費やしました。付け加えて言えば、イエス様は40日間、私を地獄に案内されたのでした。
ーーーーーーーーーーーーーー

1976年、主は私に現われてくださり、私にこう言われました。
 「我が子よ、私があなたに私自身を現わすのは、人々を暗やみの中から光の中に導くためです。
 主である神があなたを選んだのは、私がこれからあなたに示して語ることを、あなたが書きとめて記録するためです」
 「私はあなたに、現実の地獄を啓示していきます。
それは多くの人々が救われるため、手おくれになる前に多くの人々が悪の道を悔い改めるためです」

 「あなたのたましいは、私、主イエス・キリストによってあなたの体から取り去られ、私があなたに見せようと願っている地獄とその他の場所に移されます。また私は、あなたに天国とその他の場所も見させ、多くの啓示を与えます」

メアリー・キャサリン・バクスター

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あざける者ども

聖書には世の終末についての予言がありますがそれに「あざける者たち」という言葉があります、これがいわゆる加害者ではないかと思います。

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3)まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、

18)彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。

ーーーーーーーーーーーーー

第二ペテロ

第3章

1)愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。

2)それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。

3)まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、

4)「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。

5)すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、

6)その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。

7)しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。

8)愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。

9)ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

10)しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。

11)このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、

12)極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。

13)しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

14)愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。

ーーーーーーーーーーーーーー

ユダの手紙

17)愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。

18)彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。

19)彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。

20)しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、

21)神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

ーーーーーーーーーーーーー

私には何も難しいことはわかりませんが聖書が真理であり真実であることは信じます。だからイエスキリストの再臨にのみ、人間には希望があると信じます。

無能弱者絶望失敗恥、挫折、苦悩苦しみ、迫害虐待無理解、孤独、愚かしさ、そういったものしかない者ですので、逆に信仰に導かれて幸いだったのです。

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メッセージのコピペです。

No. 611罪のどれい

 

”テキスト:ヨハネ8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。”

本日は、「罪のどれい」という題でメッセージをします。
テキストに沿ってみことばを見ていきます。

”32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」”

真理はあなたがたを自由にするという、このことばを考えてみましょう。
真理とは何か?そんな風にきくと、何だか、哲学的だったり、深遠な質問に聞こえますが、
この「真理」ということばの意味合いは、間違えではない、偽物ではない、本物というニュアンスがあります。
ですから、真理、本物が我々を自由にするという時、偽物、まがいものは、我々を自由にしない、
そういう隠れた意味合いが含まれているように思います。

何故わざわざ真理というのか?
それは偽物、まがいものが多いからです。

キリスト教の教理、教えの中には、罪からの解放、清い歩みを語りながら、
それは、スローガンだけ、実際には役立たない教理もあるのです。
そして、そのようなまがいもののの教えは我々を実際には自由にはしません。本物ではないお札、
偽札では、パンを買えないように、真理ではない教えは、しゃかりきに行っても、
効果をもたらさないのです。
 

たとえば、人前での罪の告白、ざんげ、はたまた、苦行、善行などです。
これらは、真理、本物ではないので、実際の効果、罪のどれいからの
解放は起きないのです。

ホーリネス、悔い改め、完全な義なんていっても、たくさんの
星の子の様に多くスキャンダルを起こします。効果なしです。
 

大事なことは本物、真理、本当に主のいわれた方法をつかむことです。だから、「あなたがたは真理を知り」と書かれているのです。
何でも鑑定団によれば、本物の骨とう品と思い込んで偽物を長い間、所蔵する人が多いようですが、
キリスト教会にもまがいものの「罪からの解放方法」を堅持する人が多くいます。
しかし、まがいものは効力を発揮しません。

しかし、真理を知ることは主からの啓示により、それを知るとき、
「真理はあなたがたを自由にします。」

”33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」”

この時、アブラハムに子孫、イスラエル民族である、彼らは、
何故、イエスが「自由になる」などというのか理解できなかったのです。
彼らは人間的には誰からも奴隷になったことなどなかったからです。

これらのイスラエル人はさっしが悪いように思えますが、しかし、それはまた
新約のイスラエル人であるクリスチャンあてにいわれていることをも覚えましょう。

我々クリスチャンもたとえ、人間的に誰かの奴隷となったことがないとしても、しかし、
罪から解放されないなら、罪の奴隷なのです。


35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。”

私達は何故クリスチャン生活の間、罪の奴隷になってはいけないのでしょうか?
罪のない人などいない、人が罪を犯すことはしかたないことなのではないでしょうか?
いいえそうではありません。

罪の奴隷かどうかで、大きな差が将来起きて来るのです。
罪の奴隷はいつまでも家にいません。もっとはっきりいえば、永遠の家に住むわけではない、
永遠の住まいに住むわけではないといっているのです。しかし、「息子はいつまでもいます」というように、
真に神の子であり、罪から解放されているなら、永遠の家に住むことになるのです。

いわんとしていることは、私達が永遠の住まいに住むつもりがあるなら、決して罪の奴隷のまま
いてはいけない、もし、罪の奴隷としてとどまるなら、永遠の住まいに入れない
可能性がおおいにある、そういわれているのです。恐れましょう。
しかし、真の神の子なら住むことが可能なのです。


36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。”
 

みせかけの自由、名目的な罪からの解放には意味がありません。
しかし、
真の自由、実際に罪から解放されることが大事なのです。
 

まとめますが、我々クリスチャンの戦いは罪との戦いであり、もし、敗れ、どれいと
なったままなら、どれいはいつまでも家にいない、すなわち永遠の家、住まいから追い出される可能性が
あることを知りましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
  http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

罪の奴隷と言えば、私は悪態や愚痴と言う罪の奴隷ですので、非常に苦しく思っています。

加害者らが毎日毎日此方がぶち切れる為の工作をしてきて執拗なために非常に苦しんでいます。

彼らは本当に人が苦しみもだえる様を見ることが好きみたいですね、最近になりそれを思い知らされ、救いがたいものを覚えています。

遠くの地域にも、ハイテクの音や何かで苦しみを与えられている被害者がいますが彼女の場合も、常時監視干渉で徹底して苦しめ思考力などを奪うようです。

こういった異常性のきつい世ではもう、キリストの再臨による裁きを待ち望む以外にないと思います。

私は最近になりようやくそれを確信しました。

知らぬ人はまったく知らないのかと思えば意外にも被害者に対して徹底して当たり障りないことしか言わないようにされていると言うかそういうものも覚えます。

疑心暗鬼や悪い思いなどは所詮は益にならないため、聖書のみことばに徹底して従うしか救われないと思います。

祈ることと聖書を読むこととみことばに従うこと、これをしたいです。

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メッセージのコピペです。

ホームページ・メッセージ080907             小 石  泉

主の面影は遠く


 私はこのごろ主イエスが遠く感じます。若いころ、燃えていたとき、ヨハネのように主の御傍にいつも居たいと願っていました。そして、いつも主と共に居たように思います。しかし、今は、何と主から遠くなり、熱も薄らいでいることか。
 そして、私だけでなく、世界のキリスト教会の多くが、冷ややかで遠い信仰になっているように感じます。今、主の為に“何かをする”のではなく、まず、主御自身を“見つけなければならない”のではないでしょうか?

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。ヨハネ1:14

 ヨハネは、主イエスが父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」と言っています。しかし、当時の人が皆そう思ったわけではありません。イザヤは当時の人々が主イエスをどう思ったかを700年も前に預言して言いました。

彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。イザヤ53:2~3

 しかし、ヨハネの目には、主イエスが神御自身を完全に表していると見えたのです。

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について-このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである-すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。Ⅰヨハネ1:1~4

 ヨハネは「私は見た、観察した、触った」そして、「その方は、間違いなく永遠の命であった」と証言しています。この違いは何でしょうか。信仰の目を持っているのと、そうでないのではこんなに違うのです。私たちも主の面影を求めて行きましょう。
 聖書は、主イエスの誕生とその後の短い記録以外は、生い立ちについては全く書いていません。そして、突然バプテスマのヨハネの前に現れて、「秩序に従って」洗礼を受けられ、メシヤとしての歩みを始められました。それは漁師だったペテロとヨハネとヤコブを仕事場から引き抜いて弟子にするという、驚くべき唐突な行動でした。

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。マタイ4:19

 もしかすると、こういうことは、当時は良くあったのかもしれません。しかし、イエス様は、これから2000年間御自分の福音を託す中心となる人々を選び出すという、重大な仕事をこんなにもあっけなく済まされたのです。試験も経験も何も問わずに。ガリラヤ湖の湖畔を歩く主のまなざしは、十字架に至る福音の道に一直線に向かっていたことでしょう。
 それからの忙しい宣教活動の間に、主の面影を伝える小さなエピソードがあります。

ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。 マルコ12:42~44

 華々しい奇跡や、律法学者やパリサイ人たちとの論争の合間に、ふと見せた主イエスの優しさと哀れみに満ちた面影です。金持ちがジャラジャラと大金を投じている賽銭箱の片隅で、ひそやかに、その日の生活費全部を投げ入れた貧しいやもめを、主イエスはじっと見ていました。ひとつの隠れた小さな信仰を主は知っていました。

町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。ルカ7:12~15

 ここにも主の優しい面影があります。一人のやもめの唯一の頼りだった息子の死。多くの人は彼女を慰めていました。しかし、世界の誰もが考えもつかない業を淡々とやってのけられたのは、この方しか居なかったのです。「泣かないでいなさい」と言う言葉は単なる慰めではなく、当たり前のことのように「若者よ、さあ、起きなさい」という驚異の結果を約束していました。ここには奇跡を売り物にする、あざといエバンジェリスト、興行師の姿は微塵もありません。ただ「深い同情」だけです。
 また、互いを競い合う弟子たちに(これは今でも頻繁にあることですが)言われました。

それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。マルコ9:33~ 37

 互いを競うという人間性そのものが、神のひとり子の集団の中にもあったのです。主の言葉は、人間の競争心を全く逆転させるものでした。弟子たちは分かったのでしょうか。いまだに教会の指導者は分かっているとは言えません。
 ところでこのエピソードをマタイは別の角度から書いています。

そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。マタイ18:1~6

 ここには弟子たちの間の紛争の問題とは別に、主の子供に対する愛と優しさがあります。イエス様は子供が好きでした。子供を抱いて哀れみに満ちた主イエスの面影が見えます。

するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。19:4

 あどけない、無邪気な子供こそ、天国にふさわしい心を持っているのです。大人でも持ち続けた人の代表はアッシジのフランシスでしょうか。
 やがて、復活された主は、多くの弟子たちにお会いになりました。何と500人以上に現れたとパウロは言っています。その内の一つのケースはエマオという村に向かっていた二人の弟子たちに現れたケースです。彼らが無理やり引きとめてお話を聞いた後で、

彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。ルカ24:31~32

 彼らは復活した主を見ても分かりませんでした。しかし、主のお話の間、彼らの心は内で燃えました。恐らく、復活された主の面影は変わっていたのかもしれませんが、お話の内容は彼にとって、あの“主”だったのです。十字架に掛かられ、死んで葬られ、復活され、天に帰って行く40日間の忙しい時間の間に、ペテロやヨハネだけでなく、それほど名の知られていない弟子にまで一人一人出会って行かれた主。Ⅰコリント15:6では500人以上の弟子たちに会ったと書かれています。これも主の面影です。
 そして数年後にヨハネに現れたときは全く変貌していました。

そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。黙示録1:12~19

「かしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」
 この箇所は面影というより形相と言うべきでしょう。再臨される主のお姿は全く私たちの知っている、優しい、愛に満ちたお姿ではありません。あのヨハネですら気絶してしまったほどです。しかし、それは神を神としてあがめず感謝もせず、サタンや悪霊を拝み、反逆の限りを尽くした人類に対する神の正義の御怒りのお姿です。
 しかし、私たちはこのようなお方ではなく、あの福音書のイエス様にお会いできるでしょう。なぜなら私たちはキリストの花嫁である教会の中にあるからです。花嫁は、あの雅歌のように、優しい愛の御手で迎えられるでしょう。私たちは主の面影を忘れないようにしましょう。間もなくお会いできるのですから。
 
 
 
*私はキリストと教会の愛の姿を描いた「雅歌」の解説書を書いています。ご希望の方はお申し出ください。



http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/

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献金については自分で働いた分を献金できず残念でした。しかし信仰は与えられました。それが最大の恵みだったと思います。こういった罪しかない救いがたい者にも信仰が与えられたことです。

人間に取り最も重大なことは結局はイエスキリストの救いに預かると言うことだと漸く最近知りました。そしてそれは激しい苦しみの連続でしかなかったと思うような人生の結果与えられたと言うか導かれたと思います。

神の導きは完全だと言うことを信じみことばに堅く立ち信仰に寄り頼む生活をしたいです。

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メッセージのコピペです。

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/

ホームページ・メッセージ080831            小 石  泉 オリンピックと聖書 --------------------------------------------------------------------------------  北京オリンピックも無事終わりました。人々はしばらくの興奮が静まり、また次の興奮を求めてさまようのでしょう。ところで聖書の中にオリンピックが書かれていることをご存知でしょうか。 あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。Ⅰコリント9:24~25  これは古代オリンピックのことを言っているのです。朽ちる冠とは、当時、勝者に与えられたオリーブの冠を指しています。それは生のオリーブの枝で作ったもので2,3日すると枯れてしまいました。勝者の報酬はこのオリーブの枝だけだったと言います。名誉だけと言うわけですが、次第に町や国からの報酬が与えられるようになりました。当時のオリンピックは全裸で行われ、観衆は男性だけでした。それでユダヤ人は割礼の為にすぐに分かって、からかわれたということです。 ところで古代オリンピックはゼウスの神に奉納される祭事でした。近代オリンピックでも聖火の採火式がアテネにあるゼウスの后ヘラの神殿跡で行われるのはそのためです。 ところでゼウスについて主イエスは次のように言っています。 ペルガモにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『鋭いもろ刃のつるぎを持っているかたが、次のように言われる。わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。黙示録2:12~13  当時、ペルガモには世界最大級のゼウスの神殿がありました。このゼウスの神殿を主は「サタンの座」と言っておられるのです。オリンピックはサタンに捧げられたものだったのです。 ところでこのペルガモの神殿の祭壇は長さ4,2m、幅4m、高さが1,3mもある巨大なものでした。この祭壇をナチスドイツのヒトラーは発掘し、ベルリンに移送しました。その後、ソヴィエト軍のベルリン侵攻の時、それはソヴィエトに送られましたが、その後どこにあるか分からないと言うことです。現在もロシアのどこかにあるはずです。 さて、オリンピックで金メダルを取ることは大変なことです。そのためには長年にわたるたゆまぬ努力が必要でしょう。そして、金、銀、銅メダルを取ったアスリートたち、さらにメダルを取れなかったアスリートたちにそれほどの差はないでしょう。そうすると次ぎに起こってくるのは“ねたみ”です。典型的な例は1992年バルセロナオリンピックで金メダルを取った岩崎恭子さんでしょう。わずか14歳で最高位を取った彼女に対する嫉妬は非常なものだったと言います。おかげで彼女はすっかり平静を失ったことがあったようです。また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである。伝道の書4:4 実も蓋もない、言い方ですが、これは一面の真理でしょう。スポーツの世界だけでなく、あらゆる分野でこれは真実です。 また、もう一つの側面があります。それは最高を極めた者が陥る虚脱感です。アレキサンダー大王はインドまで侵攻して、これ以上占領する国はないと聞いたとき、泣いたと言われています。また太閤秀吉も、日本中を征服して、その後何もすることがなくなったとき、よせばいいのに朝鮮出兵をして失敗しました。ソロモンはこう言っています。 ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。伝道の書1:1~:2  当時の世界で最高の富と力を手に入れ、あらゆる贅沢をしたソロモンの晩年の告白は「空しい」でした。 わたしはまた、身をめぐらして、知恵と、狂気と、愚痴とを見た。そもそも、王の後に来る人は何をなし得ようか。すでに彼がなした事にすぎないのだ。2:12  私以上に何かできる者がいるか? 私は全部やってみた。そして、彼の結論は質素で平凡な生活こそ最高の幸せだということです。 片手に物を満たして平穏であるのは、両手に物を満たして労苦し、風を捕えるのにまさる。わたしはまた、日の下に空なる事のあるのを見た。ここに人がある。ひとりであって、仲間もなく、子もなく、兄弟もない。それでも彼の労苦は窮まりなく、その目は富に飽くことがない。また彼は言わない、「わたしはだれのために労するのか、どうして自分を楽しませないのか」と。これもまた空であって、苦しいわざである。4:6~8  最近、トヨタが減益になったと大騒ぎしています。今までどれほど稼いだのかは忘れてしまったようです。日本は世界でも最高に豊かな国です。あるアメリカ帰りの女性が「公衆便所にトイレットペーパーがある!」と驚いていました。世界のほとんどの国では置いても持ち去られてしまいます。日本は豊かなのです。それなのに、まるでもう終わりだと言うような悲観的なムードです。 オリンピックでもバドミントンの韓国との対決で、折角、勝っていたのに、韓国選手の激しい審判への抗議のあとでずるずると負けてしまいました。日本全体に心の弱さを感じます。お金はあっても心は世界でも最低のレベルです。 金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。財産が増せば、これを食う者も増す。その持ち主は目にそれを見るだけで、なんの益があるか。働く者は食べることが少なくても多くても、快く眠る。しかし飽き足りるほどの富は、彼に眠ることをゆるさない。わたしは日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。すなわち、富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである。またその富は不幸な出来事によってうせ行くことである。それで、その人が子をもうけても、彼の手には何も残らない。彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。人は全くその来たように、また去って行かなければならない。これもまた悲しむべき悪である。風のために労する者になんの益があるか。人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある。見よ、わたしが見たところの善かつ美なる事は、神から賜わった短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである。また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である。このような人は自分の生きる日のことを多く思わない。神は喜びをもって彼の心を満たされるからである。5:10~20  ここには金銭に関する最も正しい考えが書かれています。日本は貧しくありません。もっともっと貧しい国はいくらでもあります。貧しいのは心です。毎日何万人もの子供たちが飢えて死んでいます。日本ではダイエットに苦労しているではありませんか。必要なことは今を感謝して満足することです。 金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。ヘブル13:5  神様を知らないと、いつも不足しているような感情があるのです。いつも飢えて、心の空間を埋めたいと物を求めます。しかし、ソロモン王は言います、 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。伝道の書12:1 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。12:13~14  すべての人の本分。ちょっと今の人には分かりにくいかもしれません。ここは聖書によって色々な訳がされています。 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。新改訳 すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。新共同訳 After all this, there is only one thing to say: Have reverence for God, and obey his commands, because this is all that we were createdFor.Todays English Version 「私たちが創られた意味の全て」 Let us hear the conclusion of the whole matter:Fear God and keep His commandments,For this is man's All.New King James Version 「人間の全て」  オリンピックで金メダルを取ることも良いですが、神の国で金の王冠を頂きましょう。

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私はテレビは見ないのですが、被害者ではあっても過去の愚かな生活への嫌悪と悔恨があります。聖書への目が開かれないころの生活は愚劣そのものでした。

ダイエットへの病的執着やペット虐待やお金の無駄遣い、虚栄心、思考停止、感謝の無さ、対人緊張のひどさ、誠実さの無さ、自己中心、などの病に覆われていました。

聖書を読むことによりそういった心の治癒がなされたことは事実です。

摂食障害の苦しみからも解放されました。

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