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2008年8月

イエスキリストの再臨

私はそれを信じるように確信を与えられました。人間にできうる最善のことは神との和解です。神がすべてを支配なさっているからです。悪人も神の創造物です。

災いも神が造り出すと聖書にあります。

神に信頼することにしか人間に取り救いはないです。このたびのすさまじい災いと艱難と虐待と迫害を見て思いました。正確にはそれを味わったのですが。

悪魔に欺かれているといくらこの世でうまく言っているようでも幸いではないです。

イエスきりストへの敬虔な信仰を持つ者は迫害されると聖書にあります。確かにすさまじい虐待や残酷な殺され方で殉教したという記録を見ました。ある本で。

私も殉教は望みますが実際問題として殺傷沙汰がとても苦手なので怖いです。

集ストは精神虐待が多く身体への暴行は余りないですが時により変な形でそれを味わいそうです。

今迫害虐待の憂き目に会う方々は神に導かれ「神に立ち返るように」とのメッセージを受けているのではと思います。勝手な考えですが。少なくとも快適そうに悪を行うやからに幸いはないです。

私も短気で軽率なために傍目に見苦しいことをしょっちゅうしますが。(加害者に切れて)朝のニュースにて土浦での通り魔事件を見ましたがこれも被害者の凶行ではと、思いました。心情を考えれば当然の気がしますが実にやりきれない状況ですね。

日本は一体どうなるのでしょうか、神に祈り求めておりますが神に恐れおののくしか道が無いように思います。人間が神との和解をしない限りは絶対に救われることは無いと確信します。

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忍耐、耐え忍ぶ

忍耐、耐え忍ぶという言葉で、みことば検索しました。聖書には多く出てくる教えだと思いますが私にはそれが足りないので、祈りもとめようと思います。祈ることは力になるとのことです、人間が自己の知恵で戦うことよりも、力があることを信じます。

しかし日本人には昔からこういった忍耐という価値観がありそれがある程度当たり前のように皆さんが持っているように見え、とても見習えるものではないと常に思います、日本人の皆様は実に耐え忍ぶことが優れていますね。私も日本人ではありますがどうも純粋ではないと感じております、こういった言い方は差別的なので間違いですかね、実際的には恐らく「育った状況や環境」のせいで忍耐がない者になってしまったのかもしれません。

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17)怒りやすい者は愚かなことを行い、賢い者は忍耐強い。

15)忍耐をもって説けば君も言葉をいれる、柔らかな舌は骨を砕く。

4)それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。

25)神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、

3)それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、

4)忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。

25)もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

4)これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。

5)どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、

12)わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきた。

3)あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。

4)そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。

5)どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるように。

11)しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。

10)しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐

2)老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、

12)怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。

15)このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのである。

36)神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。

3)あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。

4)だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。

11)忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

6)知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、

9)ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

9)あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

2)わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。

3)あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。

19)わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。

10)忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。

10)とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。

12)ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。

5)ひそかに、その隣り人をそしる者をわたしは滅ぼします。高ぶる目と高慢な心の人を耐え忍ぶ事はできません。

8)事の終りはその初めよりも良い。耐え忍ぶ心は、おごり高ぶる心にまさる。

22)またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

13)しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

13)また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

19)あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。

10)それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。

12)もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。

12)試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。

10)兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。

19)もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。

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また、以下の箇所も自分には当てはまる気がしました。それで聖書が真の救いだと信じるにいたったのかもしれません。

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18)十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。

19)すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。

20)知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。

21)この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

22)ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。

23)しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるか、

24)召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

25)神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

26)兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。

27)それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、

28)有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無に等しい者を、あえて選ばれたのである。

29)それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。

30)あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、議と聖とあがないとになられたのである。

31)それは、「誇る者は主に誇れ」と書いてあるとおりである。

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あと、哀歌という書にも、すごい箇所はあります、厳しすぎるため受け入れがたいのですが祈り求めて聖書に従いたいです。

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哀歌第3章

01)わたしは彼の怒りのむちによって、悩みにあった人である。
02)彼はわたしをかり立てて、光のない暗い中を歩かせ、

03)まことにその手をしばしばかえて、ひねもすわたしを攻められた。

04)彼はわが肉と皮を衰えさせ、わが骨を砕き、

05)苦しみと悩みをもって、わたしを囲み、わたしを閉じこめ、

06)遠い昔に死んだ者のように、暗い所に住まわせられた。

07)彼はわたしのまわりに、かきをめぐらして、出ることのできないようにし、重い鎖でわたしをつながれた。

08)わたしは叫んで助けを求めたが、彼はわたしの祈をしりぞけ、

09)切り石をもって、わたしの行く道をふさぎ、わたしの道筋を曲げられた。

10)彼はわたしに対して待ち伏せするくまのように、潜み隠れるししのように、

11)わが道を離れさせ、わたしを引き裂いて、見るかげもないみじめな者とし、

12)その弓を張って、わたしを矢の的のようにされた。

13)彼はその箙の矢をわたしの心臓に打ち込まれた。

14)わたしはすべての民の物笑いとなり、ひねもす彼らの歌となった。

15)彼はわたしを苦い物で飽かせ、にがよもぎをわたしに飲ませられた。

16)彼は小石をもって、わたしの歯を砕き、灰の中にわたしをころがされた。

17)わが魂は平和を失い、わたしは幸福を忘れた。

18)そこでわたしは言った、「わが栄えはうせ去り、わたしが主に望むところのものもうせ去った」と。
19)どうか、わが悩みと苦しみ、にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。

20)わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる。

21)しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。

22)主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。

23)これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。

24)わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。

25)主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。

26)主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。

27)人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。

28)主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。

29)口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。

30)おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。

31)主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。

32)彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。

33)彼は心から人の子を苦しめ悩ますことをされないからである。

34)地のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、

35)いと高き者の前に人の公義をまげ、

36)人の訴えをくつがえすことは、主のよみせられないことである。

37)主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。

38)災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。

39)生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、人は自分の罪の罰せられるのを、つぶやくことができようか。

40)われわれは、自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう。

41)われわれは天にいます神にむかって、手と共に心をもあげよう。

42)「わたしたちは罪を犯し、そむきました、あなたはおゆるしになりませんでした。

43)あなたは怒りをもってご自分をおおい、わたしたちを追い攻め、殺して、あわれまず、

44)また雲をもってご自分をおおい、祈を通じないようにし、

45)もろもろの民の中に、わたしたちをちりあくたとなさいました。

46)敵はみなわたしたちをののしり、

47)恐れと落し穴と、荒廃と滅亡とが、わたしたちに臨みました。

48)わが民の娘の滅びによって、わたしの目には涙の川が流れています。

49)わが目は絶えず涙を注ぎ出して、やむことなく、

50)主が天から見おろして、顧みられる時にまで及ぶでしょう。
51)わが目はわが町のすべての娘の最期のゆえに、わたしを痛ませます。

52)ゆえなくわたしに敵する者どもによって、わたしは鳥のように追われました。

53)彼らは生きているわたしを穴の中に投げ入れ、わたしの上に石を投げつけました。

54)水はわたしの頭の上にあふれ、わたしは『断ち滅ぼされた』と言いました。

55)主よ、わたしは深い穴からみ名を呼びました。

56)あなたはわが声を聞かれました、『わが嘆きと叫びに耳をふさがないでください』。

57)わたしがあなたに呼ばわったとき、あなたは近寄って、『恐れるな』と言われました。

58)主よ、あなたはわが訴えを取りあげて、わたしの命をあがなわれました。

59)主よ、あなたはわたしがこうむった不義をごらんになりました。わたしの訴えをおさばきください。

60)あなたはわたしに対する彼らの報復と、陰謀とを、ことごとくごらんになりました。

61)主よ、あなたはわたしに対する彼らのそしりと、陰謀とを、ことごとく聞かれました。

62)立ってわたしに逆らう者どものくちびると、その思いは、ひねもすわたしを攻めています。

63)どうか、彼らのすわるをも、立つをも、みそなわしてください。わたしは彼らの歌となっています。

64)主よ、彼らの手のわざにしたがって、彼らに報い、

65)彼らの心をかたくなにし、あなたののろいを彼らに注いでください。

66)主よ、怒りをもって彼らを追い、天が下から彼らを滅ぼしてください」。

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詩篇73編にもアサフの賛歌がありますがこれも共感を覚えます。

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詩篇73編

0)アサフの歌

1)神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。

2)しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。

3)これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。

4)彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、

5)ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。

6)それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。

7)彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている。

8)彼らはあざけり、悪意をもって語り、高ぶって、しえたげを語る。

9)彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。

10)それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちにあやまちを認めない。

11)彼らは言う、「神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか」と。

12)見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。

13)まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。

14)わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。

15)もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。

16)しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。

17)わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。

18)まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。

19)なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。

20)あなたが目をさまして彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである。

21)わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、

22)わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。

23)けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。

24)あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。

25)わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。

26)わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。

27)見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。

28)しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。
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この前後にも共感を覚える箇所は多くあると思います。

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上のサイトはイエスキリストの再臨について書かれています、イエス様はすべてのことを裁くために再臨すると聖書にあります、人間には何の力もなくただひたすら、主の再臨を待ち望み、主の裁きを恐れなさいと、聖書にあります。
私も最近になりようやくそれを信じるようになりました。人間には定まりがなく正しく人を裁けないと思います。神様にしか人を裁く力がないと思います。
イエス様の再臨を待ち望みましょう。以下のサイトにも再臨について書かれています。

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メッセージです。

ホームページ・メッセージ080817            小 石  泉

後のものを忘れ


 先々週のことです、8月6日と9日の広島と長崎の原爆の日がありました。少なくなったとは言え、やはり報道される様々な原爆の悲劇の報道を、私は正視できませんでした。あまりに悲惨で、暗い気持ちにしかならず、どうしても避けてしまうのです。
 私たちは過去を振り返ることによってどれほどの利益を得るのでしょうか。温故知新、「古きを尋ねて、新らしきを知る」と言いますが、私は利益を得るより、損失の方が多いと思います。パウロ先生はこう言っています。

わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。ピリピ3:12~14

 パウロ先生にとって、「後ろのもの」とは何でしょうか。それは栄光と屈辱です。

もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。3:49

 サウロ、後のパウロは名門、ベニヤミン族の出身、高名な師ガマリエルの高弟で将来を嘱望されていたエリート中のエリートでした。今の日本で言えば東大をトップで卒業した人のようなものです。しかし、キリストに出会って、それら全てを失いました。
 それからは迫害、暗殺から逃れ続ける人生でした。しかし、キリストに従うことはそういうことなのです。今の有名なエバンジェエリストたちのように名声と富に溢れているなんておかしい限りです。
 しかし、それらの全てをパウロは「後のものを忘れ」ることに務めています。そして、「前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り」続けたのです。
 私の場合、栄光と呼べる過去はほとんどありません。全ては失敗と後悔です。思い出すと、落ち込むばかりです。思い出すと、前進する力を失います。だから「後ろのものを忘れ」ようとしています。同じように、多くの人々は、過去を振り返りすぎるために前進する勇気を失います。その結果、失望と絶望によって自殺したりします。私たちは意識的に「後のものを忘れ」ることに努めなければなりません。どんなに望んでも、過去を取り戻したりやり直したりは出来ないのです。過去とはまさしく“過ぎ去った”ものなのです。
 それに比べて、前のものはいつも無傷のままで、そこにあります。

あなたのあがない主、イスラエルの聖者、主はこう言われる、「わたしはあなたの神、主である。わたしは、あなたの利益のために、あなたを教え、あなたを導いて、その行くべき道に行かせる。どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は海の波のようになり、あなたのすえは砂のように、あなたの子孫は砂粒のようになって、その名はわが前から断たれることなく、滅ぼされることはない」。イザヤ48:17~19

 もう30年以上も前になります。ある夏、奥多摩の多摩川の小さな支流にある滝で遊びました。滝といっても高さ1.5メートルぐらいの小さなもので、4畳半ほどの滝つぼがありました。そこはほとんど人の入らない秘境とも言うべきところで、水は手が切れるように冷たく、そのまま飲めるほどに清く澄んでいました。その滝つぼに入ると、しばらくは心臓が止まりそうなほど冷たいのですが、慣れてくるとこの世のものと思えないほどさわやかでした。やがて私は、流れてくる豊かな水量のかけがえのないほど貴重な水が、惜しげもなく毎秒、毎秒、私の体の周りを通り抜けて去って行くのを、不思議な思いで見ていました。その水は、いつも、いつも新しく、古いものは決してやってこないのです。私は、「何て、贅沢なんだろう」と思いました。
 先ほどの御言葉に、「あなたの平安は川のように」とありました。神の下さる平安は川のように新鮮です。それは、いつも新しく、古いものは決してやってこないのです。毎分、毎秒、神の御手からあなたに送られてくるのです。神の下さる平安は手垢のついた古いものは一つもありません。それなのに私たちは、何と日々、平安を失い、過去の古い平安を思い返してすがりつくことでしょうか。
 過去と未来は、この川のようなものです。過ぎ去った時は、通り過ぎた水のように後戻りしません。後ろの流れは下水のように汚れていたとしても、やってくる新しい未来は、汚れない時なのです。だから「後ろのものを忘れ」なければなりません。
 「一極の将棋」という言葉があります。負けた後から、ああすればよかった。あの手がまずかった、あの手さえ打たなければと後悔しても、終わったものは終わったものです。
 今から32年前、25歳の私は航空会社を辞めて神学校に入りました。それは日本の神学校でした。その時、私はその気になれば米国の神学校にも行けたのです。しかし、なぜだか分かりませんが、当時の私はその選択肢を考えることさえしませんでした。後から考えると、私は米国の神学校に入るべきでした。内容的にも格段の違いがあることが分かったのは神学校を出てかなり経ってからでした。当時は米国までの航空運賃は途方もなく高く、普通の人には夢物語でしたが、私には航空会社職員であった特典から無料のチケットがもらえたのです。時々、もしあの時、米国の神学校に行っていたら、と考えます。今とはずいぶん違った人生になっていただろうと。
 しかし、やはりそれは終わったことです。どんなに惜しんでも、悔しがっても、もう、過ぎ去ったものです。そして、その後の人生で会った人々には会えなかったかもしれないのです。今ある、人々との関りこそ本当に価値あるものです。
 次に「あなたの義は海の波のようになり」という御言葉があります。
 やはり、昔のことですが、九十九里浜の砂浜に座って、波打ち際を見ていました。波は遠くで白く泡立って立ち上がると、砂浜に押し寄せて来ます。そして波打ち際を洗っては去ってゆきます。砂浜に何か文字を書いてもそれを跡形もなく拭いさります。
 その繰り返しを見ているうちに、この波はいつまで続くのだろうと考えました。波は私の存在しない天地創造の昔から、九十九里浜に打ち寄せていたのです。そして、私が存在しなくなる未来まで繰り返し続くでしょう。
 私たちの義もそのようだと聖書は語ります。
 過ぎ去った、時間がどんなに忌まわしく、罪に満ちていたとしても、神の与える義は、終わることなく、毎日、毎時間、毎分、毎秒、繰り返し、繰り返しやってきます。それは砂に書いた文字を消し去るように、あなたの罪穢れを拭い去ります。
 ですから、過去を見つめるのはやめましょう。新しい未来、何も書かれていない新しい紙のような、汚れない水のような、明日が、時間があります。その時間を過去のことを見つめることに使うのはあまりにももったいないではありませんか。まだ、使ってない新しい時間を、新しいことに使いましょう。後ろを振り返る時間はないのです。
 「後ろのものは忘れ」るべきです。これはいつも意識的にしなければなりません。過去を見つめてため息をつくことはサタンにチャンスを与えるだけです。神様の下さった新しい時が、ほら今、ここに、あるではありませんか。


http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/

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加害者らも人の過去などを利用しいびり倒しますが、神の救いとあがないを信じて信仰により頼みたいです。

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聖書の神

7)わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である。
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上のみ言葉どおりです、神様はすべてのことを支配しておられます、聖書の神に身を避け、祈りもとめて救いを求めることがもっとも重要なことだと思います。
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22)地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。
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神様ご自身が聖書の中でこういわれているのです、どうか聖書の神を信じてより頼んでください、お願いします。
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数週間前に外出願いで府中市にある教会に行きました。(礼拝に出席目的で)
そこでは世の終わりについてのメッセージがなされていました。
この世における迫害などにあうときそれは幸運(ラッキーである)と考えるほうが良いそうです。
この世と言うのは所詮は悪魔の支配下にありこの世における快適さや栄光や富などは悪魔に迎合したりひれ伏したりすると手に入るのです。
今は終わりが近いとすればこの世で迫害に会うときそれは神に導かれていると言うことかもしれません。
神様は人間に苦しみを与えることでご自分の道に導かれると聖書にあります。
神様は人間がご自分を呼び求めることを求めています。神様に背を向けて頑なになり自己の知恵や力により頼むことは死を意味します。滅びを意味します。人間が神に信頼し、神に服従して生きることを神様は望んでいます。
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15)神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる。
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伝道の書12章
13)事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。

14)神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。
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上のみ言葉が一番明解に人間がとるべき道を表していると思います。
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箴言1章
10)わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。

11)彼らがあなたに向かって、「一緒に来なさい。われわれは待ち伏せして、人の血を流し、罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、

12)陰府のように、彼らを生きたままで、のみ尽し、健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。

13)われわれは、さまざまの尊い貨財を得、奪い取った物で、われわれの家を満たそう。

14)あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう」と言っても、

15)わが子よ、彼らの仲間になってはならない、あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。

16)彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。

17)すべて鳥の目の前で/網を張るのは、むだである。

18)彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。

19)すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。これはその持ち主の命を取り去るのだ。

ーーーーーーーーーーーーーー
上のみ言葉はまるで暴虐の徒のことを言うようですね。神様はすべてを知られますので、どうか神により頼み身を避けて暮らしてください。必ず守り助け恵み慰めが与えられ明察が与えられます。そう信じます。
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この世は一時的ですが死後は永遠に続きます。天国か地獄に行くことになりそれ以外の行き先はないです。この世のことにとらわれずに聖書の神のみ言葉に身を避ける生活をするべきです。
人間はみな罪人なのでそのままでは天国にいけません。イエスキリストの十字架のあがないを個人的に信じて受け入れないといけないのです。
イエス様の十字架は人間を罪から救うために成就しました。聖書の常識はこの世と違います、しかし生ける神のみ言葉です。どうか聖書のみ言葉に信頼してください。

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集スト被害者への提案

○顔写真(スナップでもいい)や個人情報の提示

○名簿作り

○各地域で神への祈り会を開く

○公共施設などの部屋を借りて交流会をする

○キリスト教会に出向く

○聖書の通読に励む

○賛美歌を練習し集会で歌う

○各自神への祈りに励む

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自分は神への信頼にしか救いがないと信じるためこのような提案になります。

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ローマ12章

14)あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。

15)喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

16)互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。

17)だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。

18)あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。

19)愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

20)むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。

21)悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。

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ローマ16章

19)あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。

20)平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。

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第一テサロニケ5章

20)預言を軽んじてはならない。

21)すべてのものを識別して、良いものを守り、

22)あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

23)どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。

24)あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。

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第一ペテロ3章

17)善をおこなって苦しむことは――それが神の御旨であれば――悪をおこなって苦しむよりも、まさっている。

18)キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。

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第一コリント14章

20)兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなになりなさい。

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エペソ5章

5)あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。

6)あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。

7)だから、彼らの仲間になってはいけない。

8)あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――

9)光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――

10)主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。

11)実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。

12)彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。

13)しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。

14)明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。

15)そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、

16)今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。

17)だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。

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エペソ4章

17)そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。

18)彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、

19)自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。

20)しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。

21)あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。

22)すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、

23)心の深みまで新たにされて、

24)真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

25)こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。

26)怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。

27)また、悪魔に機会を与えてはいけない。

28)盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。

29)悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。

30)神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。

31)すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。

32)互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。
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マタイの福音書

第5章


1)イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。

2)そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

3)「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

4)悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

5)柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

6)義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

7)あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

8)心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

9)平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

10)義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

11)わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

12)喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
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聖書を読み悪への対処法など書かれているような箇所を引用コピペしました。
私もまだ不従順な者ですが聖書の神に従いたいと思います。
この世でどれほど自己の力や富などを誇っても神にしか人をあがなうことはできません。
人間はみな罪があるために神に裁きを受けるのです、だからイエスキリストの十字架のあがないを信じて受け入れなければなりません。
人間は自己の力では正しくなれません。イエスキリストの十字架のあがないを受け入れ信じることで義とされます。それが聖書の教えです、また真理であり真実です。

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メッセージのコピペです。

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/

ホームページ・メッセージ080810            小 石  泉

奇跡はお好きですか


 最近、アメリカのフロリダ州レイクランドでトッド・ベントレーという伝道者が大きな働きをしているそうです。彼は2001年にEmmaという“女性”の天使の訪問を受け、力と導きを受けているそうです。彼は全身にオカルトの刺青を入れていて、体のあらゆるところにピアスをしています。もちろんそれはキリストに会う前の姿なのでしょう。しかし、刺青はともかく、ピアスを入れ続ける必要はないと思います。

死人のために身を傷つけてはならない。また身に入墨をしてはならない。わたしは主である。レビ19:28

 彼の集会では金粉が降り、宝石が現れ、病の癒し、金銭の祝福が与えられるそうです。多くの人々が争って彼の集会に集っています。私はこのことを聞いたとき、それはラスベガスのマジックショーのことかと思いました。オカルトの世界では金粉が降るのは良くあることだそうです。
 また、天使には女性と男性の区別はありません。(但し、堕落天使《悪霊》は地上で性別をとることが出来ると元サタン礼拝者だったシスコ・ホイーラー姉が言っていました。)
 イエス様がこう言っています。

復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。マタイ22:30

 それにしても、なぜ、人々は奇跡を求めるのでしょうか。最近になって、特にこのような“神の力の現れ”とか“聖霊の御業”というのが盛んに言われるようになったのはなぜなのでしょうか。一方で、聖書の御言葉を静かに学ぶとかクリスチャンとしての歩みへの努力などがないがしろにされているように感じます。
 今起こっていることは、ほとんどオカルトの世界にあることです。例えば人を倒すのは気功術と変わりません。私は、ベニー・ヒンは気功術を使っていると思います。これは魔法、魔術と同じレベルのものです。神様は魔法、魔術を極度にお嫌いになります。彼らは魔法、魔術と言わないだけです。

あなたがたは何をも血のままで食べてはならない。また占いをしてはならない。魔法を行ってはならない。レビ19:26

あなたがたは口寄せ、または占い師のもとにおもむいてはならない。彼らに問うて汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。19:31

男または女で、口寄せ、または占いをする者は、必ず殺されなければならない。すなわち、石で撃ち殺さなければならない。その血は彼らに帰するであろう。20:27

ヤコブには魔術がなく、イスラエルには占いがない。神がそのなすところを時に応じてヤコブに告げ、イスラエルに示されるからだ。民数23:23

 これらの“エバンジェリスト”たちは、神からの言葉といいながら、実は自分の言葉を語っています。

主はわたしに言われた、「預言者らはわたしの名によって偽りの預言をしている。わたしは彼らをつかわさなかった。また彼らに命じたこともなく、話したこともない。彼らは偽りの黙示と、役に立たない占い、および自分の心でつくりあげた欺きをあなたがたに預言しているのだ。エレミヤ14:14

あなたがたはむなしい幻を見、偽りの占いを語り、わたしが言わないのに『主が言われる』と言ったではないか。エゼキエル13:7

 これらのエバンジェリストたちに特有なことは非常に金銭にこだわることです。トロント・ブレッシングの指導者ロドニー・ハワードブラウンが日本に来たとき、全ての説教が献金に関することでした。

それゆえ、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたがたが、人々を鳥を取るようにわなをかけたのろいのひもに立ち向かう。それらをあなたがたの腕からもぎ取り、あなたがたが鳥を取るようにわなにかけた人々を、わたしが放す。13:20(新改訳)

 彼らに共通する“出し物”は、人々を倒すことです。ベニー・ヒンや他のエバンジェリストたちが手を振ると会衆が一斉に倒れます。また壇上で額に手をかざすと後ろに倒れます。このことについて、元サタン礼拝者で占い師であったデイヴィッド・メイヤー師は彼の機関紙に興味深い御言葉を記しています。

それゆえ、主の言葉は彼らに、教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則、ここにも少し、そこにも少しとなる。これは彼らが行って、うしろに倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられるためである。イザヤ28:13

 倒れたからどうというのでしょうか。そんなことは聖書にありません。本当にこれらの奇妙な出し物で人々は騙され「わなにかけられ、捕えられて」います。
 アメリカでも大きなペンテコスト派のある団体の年次総会に出席したことがあります。そこに有名なパースリーというテレバンジェリスト(テレビ伝道者)がメインスピーカーとして招かれていました。彼は話し始めるや、講壇の上に聖書を置き「聖書はもういいです。我々に必要なのはパワー(力)です。」と言い、「パワー!パワー!パワー!」と壇上を叫びながら走り回りました。人々の中には倒れるもの、叫ぶもの踊りだすものが現れました。私のすぐ前の少年は引きつったように、踊り出しました。全ては不気味で到底、聖霊の導きとは思えませんでした。私たちはすっかりいやになって出口を出ると沢山の人々がやはり続々と出てきました。その時、本当にほっとしました。
 私たちにとって必要で十分なものは聖書です。

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。Ⅱテモテ3:16~17

 どうして、あんなに奇跡を求めるのでしょうか。ああいう人々は聖書さえ十分に読んだこともないでしょう。聖書の中にはクリスチャンに必要な全てが入っているのです。まず、聖書を何度も何度も熟読してください。そこには、金に勝る、宝石に勝る富があります。

わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。
そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。
恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。
神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。
それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。
あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。
そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。
箴言3:1~10

 歴史上、多くのクリスチャンたちが信仰によって勝利を得てきました。

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。ヘブル11:1~6

 なぜ、神の現われをそんなに求めるのでしょうか。そんなに安っぽく神を見たいと思うのでしょうか。信仰とは見ないで信じることだと書かれているではありませんか。

彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。
11:27

 私たちは、見えない方を見ているように信じることを期待されているのです。信仰とは奇跡を見ると成長するものではありません。むしろ見えないものを見ているように信じるときに成長するのです。こんなことは、改めて言う必要がないほど当たり前のことです。
 そして、私たちを救う、キリストの贖いに勝る奇跡はありません。

あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。Ⅰペテロ1:18~19

 主イエスが命を掛けて救った、あなたの魂を、恥知らずな見栄坊たちが悪霊に導かれて起こしている“リバイバル”など、求めてはなりません。それは永遠から目をそらさせ、瞬時の満足を与えようとするサタンのわなです。静かに神と対座し永遠を思ってください。神は永遠の命を与え、サタンは刹那の満足を与えるのです。

静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。詩篇46:10

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。伝道の書3:11

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正直私には難しい記述ですが聖書を読み祈りに励むことをしたく思います。

人間にできる事は悔い改めと、神への服従だと思いました。

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み言葉です。

昨日書ききれなかったみことばをコピペシしました。意味は余り分かりきれていませんが、取りあえず救いを覚える様な箇所を引きました。聖書は決して気休めなどではなく神の約束の言葉が書かれていると信じます。下線のあるところは消せなかったためなので気にしないでください。
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ヘブル12章
5)また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。

6)主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。

7)あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。

8)だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。

9)その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。

10)肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。

11)すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
第二ペテロ1章
2)神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。
第二ペテロ3章
7)しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。

8)愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。

9)ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

10)しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。

11)このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、

12)極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。

13)しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

14)愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。
第二ヨハネ3節
3)父なる神および父の御子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安とが、真理と愛のうちにあって、わたしたちと共にあるように。
第一コリント10章
13)あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道を備えて下さるのである。
第一コリント14章
20)兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなになりなさい。
ヤコブ1章
2)わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。
12)試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
ヤコブ5章
13)あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。
ヤコブ4章
6)しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。

7)そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。

8)神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。

9)苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。

10)主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。
ヤコブ5章
7)だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
8)あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。
9)兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。
10)兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。
11)忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。
第一ペテロ1章
6)そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。

7)こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。
第一ペテロ1章
12)愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、

13)むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
黙示録3章
10)忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。
黙示録2章
10)あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。
マタイ10章
22)またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マタイ24章
12)また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
13)しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マタイ11章
28)すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
マタイ第5章
1)イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
2)そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
3)「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4)悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5)柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6)義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7)あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
8)心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9)平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10)義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
11)わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
12)喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
マタイ5章
39)しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
マタイ13章
38)畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。

39)それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。

40)だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。

41)人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、

42)炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

43)そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。

44)天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。

45)また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。

46)高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。

47)また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。

48)それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。

49)世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、
50)そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
マルコ13章
13)また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
ルカ6章
20)そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。

21)あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。

22)人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。

23)その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。

24)しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。

25)あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。

26)人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。

27)しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。

28)のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。

29)あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。

30)あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。

31)人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。

32)自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。

33)自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。

34)また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。

35)しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

36)あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。

37)人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

38)与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
ヨハネ17章
14)わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。

15)わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。

16)わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。
ローマ8章
18)わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
第二コリント1章
4)神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
第二テモテ2章
8)ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。

9)この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。

10)それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。

11)次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。

12)もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。

13)たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。

14)あなたは、これらのことを彼らに思い出させて、なんの益もなく、聞いている人々を破滅におとしいれるだけである言葉の争いをしないように、神のみまえでおごそかに命じなさい。

15)あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。

16)俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、

17)彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。その中にはヒメナオとピレトとがいる。

18)彼らは真理からはずれ、復活はすでに済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰をくつがえしている。

19)しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。
第二テモテ3ショウ
12)いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。
13)悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。
第一ペテロ2章
19)もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。

20)悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。

21)あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。
第一ペテロ4章
15)あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。
16)しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。
17)さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。
18)また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。
19)だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。
詩篇119
50)あなたの約束はわたしを生かすので、わが悩みの時の慰めです。
51)高ぶる者は大いにわたしをあざ笑います。しかしわたしはあなたのおきてを離れません。
155)救は悪しき者を遠く離れている。彼らはあなたの定めを求めないからです。
詩篇139編
19)神よ、どうか悪しき者を殺してください。血を流す者をわたしから離れ去らせてください。
詩篇104編
35)どうか、罪びとが地から断ち滅ぼされ、悪しき者が、もはや、いなくなるように。わがたましいよ、主をほめよ。主をほめたたえよ。
イザヤ書66章
13)母のその子を慰めるように、わたしもあなたがたを慰める。あなたがたはエルサレムで慰めを得る。
14)あなたがたは見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように栄える。主の手はそのしもべらと共にあり、その憤りはその敵にむかっていることを知る。
15)見よ、主は火の中にあらわれて来られる。その車はつむじ風のようだ。激しい怒りをもってその憤りをもらし、火の炎をもって責められる。
16)主は火をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行われる。主に殺される者は多い」。
イザヤ書38章
17)見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。これは、あなたがわが罪をことごとく、あなたの後に捨てられたからである。
イザヤ書57章
20)しかし悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができないで、その水はついに泥と汚物とを出す。
21)わが神は言われる、「よこしまな者には平安がない」と。

イザヤ書第55章

1)「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。

2)なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。

3)耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。

4)見よ、わたしは彼を立てて、もろもろの民への証人とし、また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。

5)見よ、あなたは知らない国民を招く、あなたを知らない国民はあなたのもとに走ってくる。これはあなたの神、主、イスラエルの聖者のゆえであり、主があなたに光栄を与えられたからである。

6)あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。

7)悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。

8)わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。

9)天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
哀歌2章
13)エルサレムの娘よ、わたしは何をあなたに言い、何にあなたを比べることができようか。シオンの娘なるおとめよ、わたしは何をもってあなたになぞらえて、あなたを慰めることができようか。あなたの破れは海のように大きい、だれがあなたをいやすことができようか。
第二テサロニケ1章
4)そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。
5)これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。
6)すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。
7)それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。
8)その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、
9)そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。
第二テサロニケ2章
16)どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神とが、
17)あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。
第二テサロニケ3章

2)また、どうか、わたしたちが不都合な悪人から救われるように。事実、すべての人が信仰を持っているわけではない。

3)しかし、主は真実なかたであるから、あなたがたを強め、悪しき者から守って下さるであろう。
箴言11章
8)正しい者は、悩みから救われ、悪しき者は代ってそれに陥る。
箴言14章
9)神は悪しき者をあざけられる、正しい者は、その恵みを受ける。

10)心の苦しみは心みずからが知る、その喜びには他人はあずからない。
箴言22章
22)しかし悪しき者は地から断ち滅ぼされ、不信実な者は地から抜き捨てられる。
箴言4章
13)教訓をかたくとらえて、離してはならない、それを守れ、それはあなたの命である。

14)よこしまな者の道に、はいってはならない、悪しき者の道を歩んではならない。
箴言16章
3)あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。

4)主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られた。

5)すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、確かに、彼は罰を免れない。
箴言17章
11)悪しき者はただ、そむく事のみを求める、それゆえ、彼に向かっては残忍な使者がつかわされる。

12)愚かな者が愚かな事をするのに会うよりは、子をとられた雌ぐまに会うほうがよい。

13)悪をもて善に報いる者は、悪がその家を離れることがない。

14)争いの初めは水がもれるのに似ている、それゆえ、けんかの起らないうちにそれをやめよ。

15)悪しき者を正しいとする者、正しい者を悪いとする者、この二つの者はともに主に憎まれる。
箴言21章
12)正しい神は、悪しき者の家をみとめて、悪しき者を滅びに投げいれられる。

13)耳を閉じて貧しい者の呼ぶ声を聞かない者は、自分が呼ぶときに、聞かれない。
29)悪しき者はあつかましくし、正しい人はその道をつつしむ。
30)主に向かっては知恵も悟りも、計りごとも、なんの役にも立たない。
31)戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主による。
箴言第28章
1)悪しき者は追う人もないのに逃げる、正しい人はししのように勇ましい。
箴言29章
25)人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。
26)治める者の歓心を得ようとする人は多い、しかし人の事を定めるのは主による。
27)正しい人は不正を行う人を憎み、悪しき者は正しく歩む人を憎む。
伝道の書8章
11)悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。

12)罪びとで百度悪をなして、なお長生きするものがあるけれども、神をかしこみ、み前に恐れをいだく者には幸福があることを、わたしは知っている。

13)しかし悪人には幸福がない。またその命は影のようであって長くは続かない。彼は神の前に恐れをいだかないからである。

14)地の上に空な事が行われている。すなわち、義人であって、悪人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。また、悪人であって、義人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。わたしは言った、これもまた空であると。

15)そこで、わたしは歓楽をたたえる。それは日の下では、人にとって、食い、飲み、楽しむよりほかに良い事はないからである。これこそは日の下で、神が賜わった命の日の間、その勤労によってその身に伴うものである。
詩篇55章
22)あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。

23)しかし主よ、あなたは彼らを滅びの穴に投げ入れられます。血を流す者と欺く者とはおのが日の半ばも生きながらえることはできません。しかしわたしはあなたに寄り頼みます。
第一ペテロ3章
17)善をおこなって苦しむことは――それが神の御旨であれば――悪をおこなって苦しむよりも、まさっている。
18)キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。
第一ペテロ3章
6)だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。

7)神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。

8)身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。

9)この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。

10)あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。
第一ペテロ3章
9)悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。

10)「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず、

11)悪を避けて善を行い、平和を求めて、これを追え。

12)主の目は義人たちに注がれ、主の耳は彼らの祈にかたむく。しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」。

13)そこで、もしあなたがたが善に熱心であれば、だれが、あなたがたに危害を加えようか。

14)しかし、万一義のために苦しむようなことがあっても、あなたがたはさいわいである。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはならない。

15)ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。

第一ヨハネ5章
2)神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。
3)神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
4)なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
5)世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。
第一ヨハネ5章
18)すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。

エペソ6章
10)最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
11)悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
12)わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
13)それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
14)すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、
15)平和の福音の備えを足にはき、
16)その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
17)また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
18)絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。

ヘブル人への手紙第12章


1)こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。

2)信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。

3)あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。

4)あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。

5)また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。

6)主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。

7)あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。

8)だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
ダニエル12章
10)多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。
ハバクク1章
3)あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。略奪と暴虐がわたしの前にあり、また論争があり、闘争も起っている。

4)それゆえ、律法はゆるみ、公義は行われず、悪人は義人を囲み、公義は曲げて行われている。
ゼパニヤ書1章
2)主は言われる、「わたしは地のおもてからすべてのものを一掃する」。

3)主は言われる、「わたしは人も獣も一掃し、空の鳥、海の魚をも一掃する。わたしは悪人を倒す。わたしは地のおもてから人を絶ち滅ぼす」。
マラキ3章
17)「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

18)その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。
マラキ書4章

1)万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。

2)しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

3)また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる。

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みことば

聖書のコンコーダンスというみ言葉の辞書を用いてみことばを引いたものを、みことばのサイトをコピペして写しました。意味はよく分かりきれていないものがありますが救いや慰めになるみことばは聖書の随所にありますので、どうか聖書を読んでみてください。下線などで読みづらくてすみません。

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ピリピ人への手紙4章

6)何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

7)そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
第一ペテロ5章
7)神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。
ローマ2章
6)神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。
詩篇31章
23)すべての聖徒よ、主を愛せよ。主は真実な者を守られるが、おごりふるまう者にはしたたかに報いられる。
詩篇58章
11)そして人々は言うであろう、「まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある」と。
詩篇91章
8)あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
箴言11章
31)もし正しい者がこの世で罰せられるならば、悪しき者と罪びととは、なおさらである。
イザヤ35章
4)心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
マタイ福音書5章
11)わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

12)喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
オバデヤ書
15)主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。
マタイ16章
27)人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
マルコ9章
41)だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
ルカの福音書6章
35)しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。
ローマ12章
19)愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
コロサイ3章
25)不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。
第二テサロニケ1章
6)すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。

7)それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。
第二ペテロ2章
9)こういうわけで、主は、信心深い者を試錬の中から救い出し、また、不義な者ども、

10)特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。

11)しかし、御使たちは、勢いにおいても力においても、彼らにまさっているにかかわらず、彼らを主のみまえに訴えそしることはしない。

12)これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである。

13)彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。

14)その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は貪欲に慣れ、のろいの子となっている。
ヨハネの黙示録11章
17)「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。

18)諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました」。
黙示録22章
12)「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
ヨブ記36章
15)神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる。


22)見よ、神はその力をもってあがめられる。だれか彼のように教える者があるか。
詩篇9編
9)主はしえたげられる者のとりで、なやみの時のとりでです。
詩篇10編
2)悪しき者は高ぶって貧しい者を激しく責めます。どうぞ彼らがその企てたはかりごとにみずから捕えられますように。

3)悪しき者は自分の心の願いを誇り、むさぼる者は主をのろい、かつ捨てる。

4)悪しき者は誇り顔をして、神を求めない。その思いに、すべて「神はない」という。

5)彼の道は常に栄え、あなたのさばきは彼を離れて高く、彼はそのすべてのあだを口先で吹く。

6)彼は心の内に言う、「わたしは動かされることはなく、世々わざわいにあうことがない」と。

7)その口はのろいと、欺きと、しえたげとに満ち、その舌の下には害毒と不正とがある。
詩篇10編
17)主よ、あなたは柔和な者の願いを聞き、その心を強くし、耳を傾けて、

18)みなしごと、しえたげられる者とのためにさばきを行われます。地に属する人は再び人を脅かすことはないでしょう。
詩篇56章
1)神よ、どうかわたしをあわれんでください。人々がわたしを踏みつけ、あだする人々がひねもすわたしをしえたげます。

2)わたしの敵はひねもすわたしを踏みつけ、誇りたかぶって、わたしと戦う者が多いのです。

3)わたしが恐れるときは、あなたに寄り頼みます。

4)わたしは神によって、そのみ言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか。

5)彼らはひねもすわたしの事を妨害し、その思いはことごとくわたしにわざわいします。

6)彼らは共に集まって身をひそめ、わたしの歩みに目をとめ、わたしのいのちをうかがい求めます。

7)神よ、彼らにその罪を報い、憤りをもってもろもろの民を倒してください。
詩篇72章
4)彼は民の貧しい者の訴えを弁護し、乏しい者に救を与え、しえたげる者を打ち砕くように。
詩篇73編
0)アサフの歌

1)神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。

2)しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。

3)これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。

4)彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、

5)ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。

6)それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。

7)彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている。

8)彼らはあざけり、悪意をもって語り、高ぶって、しえたげを語る。

9)彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。

10)それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちにあやまちを認めない。

11)彼らは言う、「神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか」と。

12)見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。
13)まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。

14)わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。

15)もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。

16)しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。

17)わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。

18)まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。

19)なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。

20)あなたが目をさまして彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである。

21)わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、

22)わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。

23)けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。

24)あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。

25)わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。

26)わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。

27)見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。

28)しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。
詩篇103編
6)主はすべてしえたげられる者のために正義と公正とを行われる。
詩篇146編
6)主は天と地と、海と、その中にあるあらゆるものを造り、とこしえに真実を守り、

7)しえたげられる者のためにさばきをおこない、飢えた者に食物を与えられる。主は捕われ人を解き放たれる。
8)主は盲人の目を開かれる。主はかがむ者を立たせられる。主は正しい者を愛される。
箴言14章
31)貧しい者をしえたげる者はその造り主を侮る、乏しい者をあわれむ者は、主をうやまう。

32)悪しき者はその悪しき行いによって滅ぼされ、正しい者はその正しきによって、のがれ場を得る。
伝道者の書7章
7)たしかに、しえたげは賢い人を愚かにし、まいないは人の心をそこなう。
イザヤ書51章
12)「わたしこそあなたを慰める者だ。あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、草のようになるべき人の子を恐れるのか。

13)天をのべ、地の基をすえられたあなたの造り主、主を忘れて、なぜ、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、その憤りのゆえに常にひねもす恐れるのか。しえたげる者の憤りはどこにあるか。

14)身をかがめている捕われ人は、すみやかに解かれて、死ぬことなく、穴にくだることなく、その食物はつきることがない。

15)わたしは海をふるわせ、その波をなりどよめかすあなたの神、主である。その名を万軍の主という。
イザヤ書58章
6)わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
エレミヤ書21章
12)ダビデの家よ、主はこう仰せられる、朝ごとに、正しいさばきを行い、物を奪われた人をしえたげる者の手から救え。そうしないと、あなたがたの悪い行いのために、わたしの怒りは火のように燃えて、それを消すことはできない』」。
哀歌3章
59)主よ、あなたはわたしがこうむった不義をごらんになりました。わたしの訴えをおさばきください。
ホセア書7章
8)エフライムはもろもろの民の中に入り混じる。エフライムは火にかけて、かえさない菓子である。
マラキ書3章
5)そしてわたしはあなたがたに近づいて、さばきをなし、占い者、姦淫を行う者、偽りの誓いをなす者にむかい、雇人の賃銀をかすめ、やもめと、みなしごとをしえたげ、寄留の他国人を押しのけ、わたしを恐れない者どもにむかって、すみやかにあかしを立てると、万軍の主は言われる。
イザヤ書48章
22)主は言われた、「悪い者には平安がない」と。
ヨハネ福音書14章
27)わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
ヨハネ福音書16章
33)これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
ローマ人への手紙8章
6)肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
第一コリント1章
2)コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。
ガラテヤ5章
16)わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。

17)なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。

18)もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。

19)肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、

20)偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、

21)ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
22)しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、

23)柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

24)キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。

25)もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。
第一テモテ2章
4)神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。

5)神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。
ーーーーーーーーーーーー
引いたみ言葉はまだありますが書く余裕がないのでこれで終わります。
どうか聖書のみ言葉に信頼して下さいますようにお願いします。

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メッセージのコピペです。

http://www.t3.rim.or.jp/~kyamada1/luke45.htm

「恐るべき者はだれか」   ルカ福音書一二章一ー一二節

 一二章の四節からみますと、「そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、さらに地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい」と主イエスは言われております。ここのところはマタイによる福音書によれば、イエスが十二人の弟子たちを選び、その弟子たちを伝道に派遣するに際して、「お前たちは伝道するうちに、わたしの名の故に人々に捕らえられ、会堂でむち打たれ、人々に憎まれ、迫害されることになるだろう。しかしその時には恐れることはない、彼らはお前たちのからだは殺すことはできても、魂までも殺すことはできないのだから、それよりはからだも魂も地獄で滅ぼす力のある者を恐れよ」と言っているところで、弟子たちが迫害にあることを予想して、その弟子たちを励ますための言葉になっております。
 ところがルカによる福音書では、その前後関係が明確になっておりません。一節からみますと、イエスは弟子たちに対して「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい」という言葉で始まっております。これは十一章で学んだところで、パリサイ人律法学者たちの偽善的な行為を主イエスが激しく糾弾したことを受けて、そのつながりから出た言葉のようであります。そしてそのあとに、二節から「おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」と続きます。この二節からの言葉は、マタイによる福音書では、迫害にあっても、それは福音を証するいい機会になるのだから、必ず真理は最後には明らかになるのだから、堂々と真理である福音を恐れることなく宣べ伝え伝えなさい、という文脈の中で言われている言葉であります。マタイによる福音書のほうでは「耳にささやかれたことを屋根の上で言い広めよ」と、そうしなさいという勧告、命令になっているのに対して、ルカでは「言い広められる」と、事実としてそうなるということになっております。
この違いは、ルカによる福音書が、十一章にあるパリサイ人、律法学者の偽善とつながらせようとしたのでこうなったのではないかと思います。
 新共同訳聖書では、一節から三節からをひとつのまとまりとして考えて、そこに「偽善に気をつけさせる」という表題をつけ、四節からは別のまとまりにして、「恐るべき者」という表題をつけて、この二つをわけております。

 そういう事情はありますが、この四節からのところは、マタイによる福音書と同じように、やはり弟子たちが迫害に会うことを予想しての主イエスの弟子たちに対する励ましの言葉でありますから、一節二節三節の言葉もその関連のなかで考えてもいいとこではないかと思います。イエスの弟子たちが迫害を受けるのは、やはりパリサイ人、律法学者たちの偽善的な生き方から起こっていることであります。彼らはなぜイエスを迫害し、その弟子たちを迫害するかと言えば、自分たちは正しいという思い、そしてその彼らの正しさをイエスが批判するからであります。彼らは自分たちの正しさを、正しさそのもののもつ力に委ねようとしない。つまり真理というのはほっておいても、真理そのもののもつ力というものでその正しさがあきらかにされていく、覆われているものであらわれてこないものはないという真理のもつそのものの力に委ねようとしないで、自分たちの正しさを批判するものに対しては、過剰な防御反応を起こして他人の正しさを攻撃することで、自分の正しさを主張しようとするのであります。その過剰反応が偽善を生み出していくのではないかと思います。そしてそれが迫害を生むのであります。
 もし自分の正しさというものがもっと開かれたものとして、他者からの批判を
受け入れる姿勢をもった正しさであるならば、われわれは偽善的になる必要はなくなると思います。自分の正しさをいつも防御的に自分で守ろうとするから偽善的になるのではないかと思います。正しさというものは、どんなに隠そうとしても最後には、その正しさそのものの力によって、明らかになっていくものであります。自分で自分の正しさを守る必要はない筈であります。「おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない」のであります。だから、主イエス・キリストの宣べ伝え伝えた福音はどんなに迫害を受けても全世界に拡がっていったのであります。

 主イエス・キリストは、そのようにして迫害を受ける弟子たちに対して「そこでわたしの友であるあなたがたに言う。からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにも出来ない者どもを恐れるな。恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、さらに地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい、そうだ、そのかたを恐れなさい」というのであります。マタイによる福音書では、「からだを殺しても、魂を殺すことの出来ない者を恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」とあります。人間はお前たちのからだを殺すことはできるかも知れない。しかし魂までも殺すことはできないだろうというのです。だから何も恐れる必要はないではないかと言われるのです。
 今日われわれはそういわれて、だから恐れから解放されるかということであります。迫害が恐ろしいのは、われわれの身体が、肉体が殺されことなのではないか。われわれは自分の身体が抹殺されてまえばもうそれでなにもかも終わりだと思ってしまっていないか。ここで問われるのは、われわれは魂の存在を信じているかということであります。ルカによる福音書には不思議なことに「魂」という言葉は使っていなくて、「からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない」という表現、あるいは、「殺したあとで、さらに地獄に投げ込む」と表現されておりますが、言っていることは肉体の死のあとの魂の存在をさしていると思います。われわれは魂の存在というものを信じられるか。魂の存在というものを信じられなかったならば、到底迫害には耐えられないと思います。
 しかし今日においても、多くの迫害に耐えて殺されていった人はたくさんいると思います。現代の人々が果たして昔の人のようにみんながみんな魂の存在を信じていたかどうかわからないと思います。それなのにその迫害に耐えて、殉教の死を遂げた人々はたくさんいたと思います。その人々はどうしてその迫害に耐え、自分の正しさを曲げないで、殉教できたのだろうか。その理由は、主イエス・キリストが言われたように、「隠れているもので、知られて来ないものはない」ということ、つまり、何が正しいか、何が真実かは必ず歴史が明らかにしてくれる、そういう希望があったから、自分は死んでも、自分が死を賭して明らかにしようとした真理、正しさは現れる、そういう希望があったからこそ、殉教できたのではないかと思います。
しかしわれわれはそれだけで迫害にたえられるだろうか。真理は必ず明らかにされる、正しさは必ず歴史のうちに明らかにされるという希望だけで殉教の死をわれわれはとげられるだろうか。あの弱い弟子たちにそれができるだろうか。ただ真理は必ず明らかにされるという望みだけで殉教の死を遂げられるのはよほどの偉い人たちだけなのではないか。
 主イエス・キリストもそのことは十分知っておられるのであります。それで主イエスは弟子たちに対しては、ただ真理は必ず明らかにされるから、だから堂々と福音を宣べ伝え伝えよ、と言われただけでなく、お前たちを迫害する者たちはお前たちの身体は殺すことはできるかもしれないが、それ以上何もできない、お前たちの魂までも抹殺することはできないではないか。神がお前たちの魂を守ってくださる、迫害を受けて殺されたあとも、お前たちの魂を守ってくださるかたがおられるのだから恐れることはないというのであります。
真理のために自分の死を賭けてまで、戦うなんてことはあの弟子たちにも、そしてわれわれにも到底できないと思います。主イエスもそのことはよくご存じだった。だから、「殺したあとで、それ以上なにもできなものを恐れるな」と、語り、さらに主イエスは「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。そのうえ、あなたがたの頭の毛までもみな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」と言って弟子たちを励ますのであります。マタイによる福音書には、「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」となっております。アサリオンというのは、一番小さい価格であります。ですから、雀というのは鳥のなかでも一番安く売られている鳥だというのです。ある人がうがったことをいって、マタイでは二羽のすずめは一アサリオンといわれ、ルカでは五羽の雀が二アサリオンと言われている、つまり、ルカのほうが一羽余分だ、本当は四羽の雀は二アサリオンといわなくてはならないところを、ルカは五羽のすずめはといっている、これは一羽おまけがついているということだ、そのおまけとしてつけられている一羽のすずめですら、神はお忘れにならないということなのだ、と説明しております。それはすこし面白すぎる説明ですけれど、ここでいっている趣旨はその通りであります。どんなに価値のない雀ですら、おまけにつくような雀ですら、神はお忘れにならない。
 マタイ福音書では、神の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはないといわれておりす。神様はわれわれの頭の髪の毛一本一本までもすべて数えつくして、ご存じである、われわれの良いところも悪い所もすべて知っておられる、その上であの雀よりもまさったものとして受け入れてくださっている、そういうかたがおまえたちひとりひとりの死にかかわってくださっておられる、決してお前たちの死は無駄で終わらないのだ、だから恐れることはない、というのであります。どんな人の死にも神がかかわっておられる、父なる神のゆるしがなければ、一羽の雀ですら、地に落ちることはないというのであります。どんなに絶望して自らの命を絶って、自殺したとしても、その人は自分で自分の命に決着をつけたと思っているかもしれないが、その背後には神の御手があって、神が関わっていなければ死ぬこともできないということであります。どんな死にかんしても、たとえ自殺者の死に関しても、神が関わらない死はないというのであります。それはなんと大きな慰めではないでしょうか。
そのかたは、「殺したあとで、さらに地獄に投げ込む権威のあるかた」だというのです。われわれを愛してくれる人がいるということはありがたいことであります。それはどんなに力のない母親でも、この世にひとりでも自分を心から愛してくれる人がいたら、その人がどんなに力のない人でも、そういう人がひとりでもいてくれたらどんなに慰めになるかわからないと思います。しかもここでは、力のない母親というものではなく、われわれを地獄で滅ぼす権威をもったかただというのです。とてつもない権威をもったかた、力をもったかた、そういうかたによってわれわれの生と死が守られているのだというのです。だから恐れることはないではないかというのです。「殺したあとで、さらに地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい」というのです。ここでは、われわれを殺したあとで、地獄に投げ込むぞ、だからそのかたを恐れなさい、というのではないのです。そのかたは、われわれのからだと魂を地獄で殺す権威と力をもちながら、その権威と力を行使しないというのです。使わないというのです。
 この聖書の言葉をこのように注意深く読んでいたなら、わたしはキリスト教に対する誤解から早くから解放されていたのにとつくづく思います。わたしは中学生の時に聖書を学んだのですが、聖書のこういう箇所を読む度に神様というかたは恐ろしいかただとい印象をもったのです。いや単なる印象ではなく、そういう信仰をもってしまったのです。つまり、イエス・キリストの父なる神はまるで閻魔大王のような存在でしかなかったのです。悪いことをしたら、わたしを地獄におとすかたという誤解であります。マタイによる福音書にある「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられないほうがあなたにとって益でる」という言葉が、父なる神を閻魔大王にしてしまったのであります。
 しかしここでは、そうはしないと主イエス・キリストはいわれるのです。「殺したあとで、さらに地獄に投げ込む権威のある」かたが、その権威と力を行使しないで、あの価値のない雀よりもまさった者として、われわれの命をまもってくださるというのです。
主イエス・キリストは、「恐るべき者はだれであるか、教えてあげよう」といわれます。「殺したあとで、さらに地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい」といわれます。しかしそのあとでは、「恐れることはない」というのです。「恐れなさい」といいながら、最後には「恐れることはない」といわれるのです。この事は大切だと思います。われわれが本当の恐れ、恐怖から解放されるのは、恐るべきかた、ただわれわれが甘えることの出来る人ではなく、そのかたの前に立つならば、畏れれおののかなくてはならないようなかた、そのかたを真に恐れることによって、そしてそのかたから「恐れることはない」といわれて、はじめてわれわれは一切の恐怖から解放されるのでなはいかということなのです。ただ母親のような甘い愛にどんなに守られても、われわれはわれわれを脅かす死の恐怖、迫害の恐怖、あるいはそこから起こる拷問の恐怖からは、解放されないのです。われわれを地獄で滅ぼす権威と力をもったかた、そのかたを真に恐れる時に、恐れから解放されるのであります。主イエス・キリストがわれわれに教えてくださった父なる神は、ただ人間の親のように甘えられるかたではない、真に恐れなくてはならないかたなのです。われわれが真に恐れなくてはならないかた、そのかたの前に立ったならば、一切のわれわれの偽善的な行為も思いも暴露されてしまうようなかた、そのかたがわれわれのすべてのことを知り尽くし、われわれの頭の毛一本一本までも数え尽くして、われわれのすべてを知り尽くして、その上でわれわれを受け入れてくださる、そういう愛のかたを信じる時に、われわれは恐れから解放されるのであります。われわれが本当に恐れなくてはならないのは、閻魔大王なんかではないのです。われわれが本当に恐れなくてはならないかたは、このようにしてわれわれを愛してくれるかたなのであります。

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「からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。」というみことばで検索したサイトの文章ですが、人間は死が終わりではなく裁きにあい天国か地獄に投げ入れられるので、真に恐れるべきは神でありイエスキリストが救い主です。

神様は悪人や、災いですらも、創造されると聖書のイザヤ書にありました。

だから人の力や知恵などでどうにもならない事柄は神にゆだねることです。神様はきっと人間に対して苦しみを与えることで、ご自分への服従を求めるのだと思いました。神様は人を愛しています、その人がご自分を離れて好きな者を拝むことは神の怒りとねたみを引き起こします。聖書にあります。

人間ができうる最善の行為は神に立ち返ることであり悔い改めであり神に従うことです。

いくつかのキリスト教のサイトには、「人の知恵などで理解できない事象は神に任せて神に従うしかない」とありました。神に対して頑なでいる事は無益です、是非とも神様への立ち返りをお願いします。

日本には偶像の神が多くこれも神の怒りの現われだと思います。聖書の神が唯一のまことの神であると、聖書に書かれています。イザヤ書にありました。繰り返し神のメッセージがあります。

聖書は神様からの人間への愛の著書つまりはラブレターです、知恵の宝庫でもあります。読まなければ永遠の損失だと思います。

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エレミヤの部屋よりのメッセージ

あるキリスト教のサイトよりコピペします。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/

NO.602全地の全ての人に臨む日

”テキスト:ルカ21:
34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
(kJV訳:For as a snare shall it come on all them that dwell on the face of the whole earth.:それは、わなのように全地の表に住む全ての人に臨むからです。)
36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」”
 

本日は、「全地の全ての人に臨む日」という題でメッセージしたいと思います。
テキストに沿って見ます。


34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。”

その日、終末の日はわなのように臨むことが書かれています。
このことは確かに銘記すべき、非常に大事なことと思われます。

聖書は親切な書であり、あらゆることに関して懇切ていねいに書かれています。
救い、教会、神の律法を守ること、みな詳しく書かれているのです。必要なことがらに
関して必要な説明を与えられる:
神はそのようなお方です。
しかし、もう一つの面があり、神は背信の民のためにわなの様な日を設けている、このことをも知らなければなりません。
神の一面、侮られる様な方ではない、このことは繰り返し繰り返し肝に命じていなければなりません。

かつての日、ナザレのイエスキリストが現れた日もまさにそのような日です。
わなの日だったのです。
福音書を読むとあらゆる人がメシヤ、キリストの来臨のことを話題にしていることがわかります。
初降臨のキリストのことです。
バプテスマのヨハネに対して、回りの人が「来るべき方はあなたか」ときいた時、まさに
このキリストの来臨のことをいっていたのです。
メシヤ、キリストがいずれ、ユダヤの地に来臨するということは、神の民に
とって、周知の事実だったのです。広く行き渡り、誰でも知っている、
わかっていることがらだったのです。

しかし、それらの自称「知っている」人々が、全く裏をかかれ、
全くわなにかかるような方法で、実際のイエスキリストはやってきました。
ナザレのイエスという方法がそれです。
ナザレというメシヤ降誕と何らの関係ないところの
出生なので、イエスはキリストでないとみな、早合点し、
偽善者は十波ひとからげで間違えてしまったのです。
彼らはわなにかかったのです。
 

ユダ、エルサレムにおいて背教の歩みをし、偽善の歩みをしていた、律法学者、パリサイ
人はみごとにわなにかかり、何と神のキリストを殺害するという大罪に
手を染め、恐ろしい裁きに直行したのです。

まことにわなは彼らにかけられ、人前の事のみ気にかけていた偽善者達は、
一網打尽にせられ、皆、罪あるものとして断罪されてしまったのです。
 

福音書には多くの事柄が書かれ、多くの面がありますが、
その一つの面は、「わなにかかった背教の神の民」という面が
あることを知らなければなりません。

そして、私達はこの過去の失敗した人から学び、我々終末を迎える時代に生きるものとして、
彼らの失敗から教訓を得なければなりません。

何故なら、同じわな、失敗、とりちがえが必ず終末の日にも再現されると
思われるからです。
 

聖書が終末に関連して、「その日がわなのように、突然あなたがたに臨む」という時、
かつてと同じように再度終末には、わなが設けられていることを暗示していると理解できます。
そう、わなは着々と設けられているのです。
 

かつての日、イエスの時代におけるわなは完璧でした。イエスキリストは、300以上も旧約聖書のメシヤ預言が成就しているのに、皆まったく間違えたからです。みごとに偽善者やら、不法を行う人々はこのわなに落ち込みました。しかし一方、12弟子を始めとした、
主につく人々はこのわなにかからず、正しく神からの人、イエスを見分け、祝福に入ったのです。

これらの教訓をもとに、考える時、
終末に住む我々にとって、大事なことは、
1. このわなが終末に関して再度必ず設けられていることを理解し、
2. そのわなに気付き、避けること
このことなのです。

しかし、残念ながら、上記の終末の「常識」を持っているクリスチャンは今の時代、ほとんどいません。
逆にみな、艱難前(中)携挙説のいつわりにすっかり安住し、自分達は
艱難の前にあげられるから大丈夫と根拠のない安心にひたっています。
まことにこの教え2段階携挙説はサタン由来の教理であり、人々を大いにわなに
かけています。

そうです、艱難前(中)携挙説こそ、終末の日に神の許しの下で、出回ったわなの
ひとつであり、聖書を投げ捨て、人の声に聞き従う愚か者をわなにかけるため用いられています。

愚かな人々、神のことばより人の声を真実とし、聞き従う人々は2段階携挙説(キリストの再臨が2回あるとの嘘説)を始め、あらゆる終末のガセネタをせっせと
発行し続けますが、しかし、そのような行いは、人をわなにかけ、陥れるための
落とし穴を作る愚行であることを知らなければなりません。

「その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」

ここでは、わなによくよく気をつけることが書かれています。
そのように聖書が終末の日に関んして語るなら、それはその通りであると考え、謙虚に受け止め、
必ずわなはしかけられると理解し、自分がその失敗に入らないよう、気をつけるべきなのです。
愚かで思い上がっている人は結局は惑わされます。

その日とは終末のある日、具体的には、あの7日目、7つ目のミレニアムであると考えられます。
ですから、我々7つ目のミレニアムに生きる人々は、わながかけられ、
わなや落とし穴がいくつもいくつも仕掛けられている危険な時代に生きているのです。

その目で見るなら、もうすでに人々が気付かない間にキリスト教会には、いくつものわなが
しかけられていることに気付きます。

その一つは、終末の獣国の台頭です。
ダニエル書、黙示録は口をそろえて、終末の獣国に気をつけるよう、
この国を見分けるよう語ります。
この国こそ、終末の鍵であり、キリスト教破壊、聖徒への迫害はこの
国を起点に起きるからです。
 

この国はもう既に出現しているのですが、わながかけられ、この国がそれである、
獣国であると気付かないよう、カモフラージュされています。
あたかも落とし穴の上に草がかぶせられ、気付かないようになっているのです。
それで、愚かなお声系の新聞を始めとする人々は、すっかりまどわされ、アメリカは聖書に
出てないなどと、全く逆の嘘迄宣伝するありさまです。
彼らは盲人であり、聞き従う人々は穴に落ち込むでしょう。

また、もう一つのわなは、あの悪魔民族に関する嘘です。
史上最悪の悪魔民族は、何と神の民、約束の民に偽装してクリスチャンを惑わすために
用いられています。まるで、赤ずきんちゃんを惑わす狼、お婆さんに化けた狼みたいなものです。
しかし、この狼、うまく化けたつもりでも、やはり、怪しいところが残ります。
お婆さんにしては、耳が長い、口も大きいからです。
この点に気付き、見分け、逃げ出せば、赤ずきんちゃんの命も守られるわけです。
さて、うまく化けた悪魔民族にもみわける特徴、ヒントがあります。というより、彼らが本物の神の民でなく、逆に悪魔民族であることを見分けるたくさんのヒントがあるのです。
それは、セム族、黄色人種にしては色が白いこと、神の民、平和の民にしては、パレスチナ人虐殺
、土地略奪などを繰り返していること、また、進化論、無神論共産主義、大量殺害兵器原爆製造など、あらゆる不幸や冒涜に関係していることなどです。

もう一つのわなは、悪霊のわなです。聖会の真ん中で、聖霊ならぬ悪霊を下すと言うわなです。

さて、この様にいくつものわなが終末にはすでに仕掛けられているのですが、
情けなくもこれらの全てにひっかかっている教会、クリスチャンもいます。
 

”35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。(KJV:それは、わなのように全地の表に住む全ての人に臨むからです。)”
 

それはわなのように全地に住む人々に臨むことが書かれています。
それで、この惑わし、わな、偽りは局地的なものではなく、全地、全世界に
及ぶものであることがわかるのです。
 

上記で見た2段階携挙説の偽り、偽ユダヤ人の偽り、獣の国のわな、悪霊リバイバルの
わななどは、皆どれもこれも全世界的なものであり、全世界の教会に関係するものです。

これらの偽り、わなは相まって、終末のクリスチャンに対して、実際の聖書が語っているのとは、
別の、異なる、非聖書的な「終末のイメージ」をつくり出しています。
結果として、この偽りのイメージが骨の随迄しみ込んだ人々は、たやすく反キリストを拝み、
神の怒りを受けるようになるでしょう。

彼らの心にはいくつもの終末の嘘、わなの教理がおりなす、真実と逆のバーチヤルな「終末のイメージ」ができあがっているのです。

いわく第三の波のリバイバルが広がって世界中に聖霊の風が吹く、
いわく艱難時代はいずれ来るが我々はその艱難の前に挙げられる
いわく、中東のイスラエル人が第三神殿を作り上げる
いわく、いずれヨーロッパに反キリストが出る(今はまだヨーロッパに反キリストが出現していないので、終末には至っていない)

これらの作られた人工的なしかし、非聖書的な終末の幻想は結果としてわなとなり、
終末の日に多くのクリスチャンを惑わし、真実を見させなくするのです。

それは、かつての日、イエスの時代の人々がみな、わなにかかり、ダビデの子として、
政治的な王として、来るキリストというイメージのゆえに間違えたことに通じます。

”36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」
(
KJV:Watch ye therefore, and pray always, that ye may be accounted worthy to escape all these things that shall come to pass, and to stand before the Son of man”ですから、目をさまし、あなたがたが、やがと起ころうとしているこれらのすべてのことがらから逃れるに、ふわわしい者とみなされ、人の子の前に立つことができるよう、常にいのりなさい。)

ここでは、自分がこれらの全てのわなから逃れるにふさわしいものとみなされるよう、
常に祈ることが書かれています。このことばは非常に示唆に富んだことばです。
いわんとしていることは、神がある人を「わなから逃れるにふさわしい」とみなしたら、
始めてその人はわなから逃れられる、しかし、神がそうみなさず、思わないなら、
誰も彼も同じくわなに巻き込まれていく、そう理解できるからです。
全ては神がその人をどうみなすか、考えるかに尽きるのです。

このことは真面目に考え、考慮し、熟考すべきことがらと思われます。
何故なら終末に関してそんなふうに思っている人などほとんどいないからです。
逆にみな、誰も彼も終末に関して、自分だけは大丈夫、絶対間違えないと思っています。
これは根拠のない自信だと思えます。

主は明らかに終末の日は、ノアの時のようである ロトの時のようであるといわれました。
ノア、ロトの時の共通の特徴は、多数の人は滅び、ほんの小数の人が救われたことです。

そして、滅びる大多数の人にとって、その滅びの日は、まるでわなの様に臨んだ、そのことです。
この様な明白な警告を語られているのに、みな何故だか、わながかけられること、そのわなに
大多数の人が結局はかかるのだということに思いをはせません。

逆にそのこと、大きなわなに関して警告を述べる人々を異端扱い、カルト扱いするありさまです。
警告者は、正しい警告を述べたために、人々から、トンデモ扱いをされています。
いわく、悪霊のリバイバル、2段階携挙説の偽り、偽ユダヤ人の嘘..。
これらを正しく述べたために逆に人からうとまれているのです。

あたかもかつての日、洪水の到来を警告したノアが人々から、
笑われたり、また、ソドム、ゴモラが火で滅ぼされることを述べたロトが
嘲笑されたことの再現のようになっています。

しかし、そうではあっても神のことばが正しく、人々がわなにかかると
書かれたことは実現することを知りましょう。

耳のある人は聞いてください。

終末における主のみこころを行いましょう。
-以上ー -----------------------------

1

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私は終末論を信じますがよければこれらのサイトの記述も参考にしてください。

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メッセージ

あるキリスト教のサイトよりコピペします。

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http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/

ホームページ・メッセージ080608            小 石  泉

神の裁き


そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。ヘブル9:27 ~28

 人は必ず死にます。それは誰でも判っています。しかし、聖書は死後に裁きを受けることも定まっていると言っています。多くの人々は、そんなことは信じません。馬鹿馬鹿しいたわごとだと言うのです。しかし、神の裁きは必要です。私たちは毎日毎日恐ろしい犯罪を見聞きしています。五人殺しても、十人殺してもその犯人一人が死刑になれば終わりです。これは不条理です。あるいはもっとひどいケースもあり、そして、必ずしも人間の裁判官が確実な裁きを出来る保障はありません。また、決して裁きを受けない完全犯罪のようなケースもあります。
 ある日、全ての人は神の前に出て、神の正しい裁きを受けます。このような思想がなければこの世に正義というものは存在しません。

また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。黙示録20:11~15

 これはおとぎ話でもなく、単なる宗教説話でもありません。間もなく必ず起こることです。昔のヨーロッパの人々はこのような神の裁きを信じていたので、正しく生きようとしたのです。ところが最近は、これをあざけり、嬉々としてサタンに仕える人々が非常に増えています。人の命はせいぜい八十年です。そうして死を迎えるとき、彼らはどんなにあわてることでしょうか。フランス革命の時、無神論者で百科事典派といわれたヴォルテールは、「神などいない。私の生きているうちに聖書を地上から消滅させる」と言っていましたが、その死に際してあわて惑い、神に救いを求めて断末魔の悲鳴を上げながら死んでいったといいます。その死後、彼の家がイギリス聖書協会の倉庫になったのは皮肉です。
 ところで、聖書にはこの裁きに合わない道が示されています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。ヨハネ3:16~18

 「御子を信じる者はさばかれない」のです。これは、いわゆる「最後の審判」のことだと私は理解しています。クリスチャンは「最後の審判」に会いません。クリスチャンでもその事を理解していないで「最後の審判」に会うと考えている人がいますが、神がそのひとり子を十字架につけて救い出した人々をもう一度裁くなどと言うことはありえません。御子の死が無駄になってしまいます。御子の死はそれほど尊く、力あるものなのです。

 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
マタイ25:31~46

この箇所は広く誤解されています。一般的には弱いものへの善行の意味に受け取られています。しかし、よく読むと、それは主イエスが「私の兄弟」と呼ぶ人々への取り扱いに関して裁かれているのです。つまり、ここには主イエスと羊と山羊のほかに「私の兄弟」という人々のグループもいるのです。それでは主が「私の兄弟」と呼ぶ人々は誰でしょうか。

それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」マタイ12:49~50

 「私の兄弟」とはキリストを信じ受け入れた人々のことです。すなわちクリスチャンです。ですからあの箇所で羊に分けられた人々はクリスチャンや善行をした人々ではなく、クリスチャンに対して取った態度によるのです。クリスチャンは裁かれないのです。
 しかし、ここで問題が発生します。クリスチャンでなくとも救われるのですか? 「わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」とあるのですから。クリスチャンでなくとも救われるのでしょうか。
 恐らくこの救いはクリスチャンの救いとは違うと思います。クリスチャンは「御子の体なる教会」「小羊の花嫁」「新しいエルサレム」です。御子とは一心同体の関係にあります。自分の花嫁を裁く花婿はありえません。
 ただ、私はここから新しい教理、神学を作る気持ちはありません。他の箇所で同じ思想が保障されていないからです。少なくとも2つ以上の御言葉の保障が必要です。ただ、神様がちらりと見せてくださった、未来の光景と思いましょう。
 いずれにしても、神はすべての人を裁きます。しかし、御子の血によって贖われた、教会に連なるクリスチャンは裁かれないのです。永遠に。

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こんにちは

入院しております。家族とも仲が悪く苦しい日々です。

ネットカフェより書き込みです。

見てくださる方に感謝です。被害者にとり聖書の言葉が救いになることを望んでいます。

キリスト教の終末について書かれたサイトには聖書のメッセージより

世の価値基準と違うことが書かれていますのである意味救いになります。

与太話ではなく真実を書いていることを信じます。

この世における悪はサタンの働きでありある種の欺きです。

それにとらわれてしまい神をおざなりにしていても意味がないです。

すべての事は神の支配下です。

私もそれを今は信じています。

たとい残酷な目にあわされても神の計画は確かだと信じます。

人は死が最後ではなく死後のほうが長いのです。

救い主であり購い主であるイエスキリスト様に全ての重荷をゆだねるべきであります。

神は寄り頼む者への憐れみと恵みを確かに与えられます。

自分は入院中にそれを実感しています。

病棟内でも明らかに苛めのような事はありますが神の恵みもあります。

集スト的苛めであり明らかに仄めかしやテレビのいじめもあります。

しかしそういった悪に翻弄されても仕方がないので神に身を避けるようにしたいです。

神は全てを見て知られるため、人の力でいろいろやってみても駄目であります。

神に全ての希望と救いと栄光を委ねるべきです。

神の栄光は終末に現れると言うことです。

私も愚かしい行為を繰り返したために懲らしめに会うのかも知れませんが

ブチ切れしてよく病院のベランダにて悪態を吐いています。

他の被害者に比べると稚拙ですが仕方がないです。

この世におけるさまざまな情報は悪魔の欺きであることが多いと思います。

真に重大視すべしは神の目です。

神のみ前に謙って救いを求めるべきです。

人のことについて偉そうに言えませんが私はそう思います。

神をもっとも恐れるべしであり人を恐れることは無益です。

聖書のイザヤ書には

「あなた方は鼻から息の出入りする人に頼ることをやめよ。

このような者に何の価値があろうか」イザヤ書2.22

とありますが私はこのみ言葉に安心感を覚えます。

人は所詮は定まりのない存在です。神に信頼する事が最善だと信じます。

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後詩篇にも

「主により頼むは人に頼るよりもよい。

主により頼むは諸々の君に頼るよりも良い」

というみ言葉があります。

ヨブ記にも

「女から生まれた者がどうして清くありえようか、

うじのような人、虫のような人の子はなおさらである」

とかかれています。

詩篇に「私は驚きあわてた時に言った。『全ての人は当てにならない者である』。」とも書かれています。

箴言には

「心を尽くして主に信頼せよ、自分の悟りに頼るな」とあります。

「自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて悪を離れよ、

それはあなたの体を健康にし骨を強くする」ともあります。

「人を恐れるとわなにかかる。主に信頼する者は安らかである」ともあります。

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「心はよろずのものよりも偽る物で甚だしく悪に染まっている。

誰がこれを、よく知ることが出来ようか」というみことばもエレミヤ書にあります。

キリスト教の教えは自己否定だそうですが、人や自己に信頼を置くことをやめて

神の霊に自己を支配して頂くことが最善だといっています。

それは聖霊さまであり助け主です。イエス様の霊です。

被害者の方々一人一人が全て聖霊様のご支配下にて生活できることを願います。

神にしか正しい裁きは出来ないです。

人間はみな自己を捨てて神に自己の支配を委ねることが良いことであると信じます。

極論ですみませんが聖書を読むようになりそう信じるようになりました。

他のかたがたのブログ等を見ると参考になることが書かれてあり感謝します。

神に信頼して神を恐れることが最善だと思います。

聖書には「みだりに人に干渉する者は苦しみを受ける事になる」と書かれています。

加害者への報いを見るとすれば想像もつかないです。干渉ということでは常軌を逸するからです。

入院先の精神科にも幻聴扱いのハイテクの被害者がいると思いました。

自己の思考を脳に聞かされ続けていると言う方がいました。音楽がずっと流れ続けていたという方もいました。

人の知恵や力でどうにもならないことは神に委ねて神に従う生き方をするしかないと思わされました。

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