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2008年5月

聖書のみことばより

へブル人への手紙
第4章

1)それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。


2)というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。


3)ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。


4)すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、


5)またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。


6)そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、


7)神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。


8)もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。


9)こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。


10)なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。


11)したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。


12)というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。


13)そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。


14)さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。


15)この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。


16)だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

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今朝に脳裏に浮かんだみことばは、最後の16節でしたが、これが聖霊様の囁きであれば幸いですが。果たしてどう考えた物か。
地獄には行きたくありませんので、救いの達成に努めたく思います。

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写真は長野県の南牧村の神社です。

宮の方からの眺めと下からの風景です。

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祈りについて

あるおばあちゃんが「私は年とってしまったので、何の奉仕できません。祈ることしかできないんですよ」と言ったそうです。それはどういうことかと申しますと、「私にはピストルも機関銃もありません。ミサイルしか持っていません」と言っているようなものなのです。サタンが恐れるのは、人間の知識や知恵ではありません。もちろん、力でもありません。サタンが最も恐れるのは、祈りなのです。

http://homepage1.nifty.com/kameari/worship/2003/06/0629.html

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上の記述はサイトの抜粋ですが、祈り求めることは最大の武器なのですね。私もそうしたいです、今まで悪態で対抗していましたが無益な行為ですし大体に置いてかえって酷い報復を引き起こしました。愚かでしたがどうにもなりません。

この先には祈りたく思います。

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聖書のみことばより

申命記  第32章

1)「天よ、耳を傾けよ、わたしは語る、地よ、わたしの口の言葉を聞け。

2)わたしの教は雨のように降りそそぎ、わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように、青草の上にくだる夕立のように。

3)わたしは主の名をのべよう、われわれの神に栄光を帰せよ。

4)主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である。

5)彼らは主にむかって悪を行い、そのきずのゆえに、もはや主の子らではなく、よこしまで、曲ったやからである。

6)愚かな知恵のない民よ、あなたがたはこのようにして主に報いるのか。主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか。

7)いにしえの日を覚え、代々の年を思え。あなたの父に問え、彼はあなたに告げるであろう。長老たちに問え、彼らはあなたに語るであろう。

8)いと高き者は人の子らを分け、諸国民にその嗣業を与えられたとき、イスラエルの子らの数に照して、もろもろの民の境を定められた。

9)主の分はその民であって、ヤコブはその定められた嗣業である。

10)主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。

11)わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、

12)主はただひとりで彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった。

13)主は彼に地の高き所を乗り通らせ、田畑の産物を食わせ、岩の中から蜜を吸わせ、堅い岩から油を吸わせ、

14)牛の凝乳、羊の乳、小羊と雄羊の脂肪、バシャンの牛と雄やぎ、小麦の良い物を食わせられた。またあなたはぶどうのしるのあわ立つ酒を飲んだ。

15)しかるにエシュルンは肥え太って、足でけった。あなたは肥え太って、つややかになり、自分を造った神を捨て、救の岩を侮った。

16)彼らはほかの神々に仕えて、主のねたみを起し、憎むべきおこないをもって主の怒りをひき起した。

17)彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々、近ごろ出た新しい神々、先祖たちの恐れることもしなかった者である。

18)あなたは自分を生んだ岩を軽んじ、自分を造った神を忘れた。

19)主はこれを見、そのむすこ、娘を怒ってそれを捨てられた。

20)そして言われた、『わたしはわたしの顔を彼らに隠そう。わたしは彼らの終りがどうなるかを見よう。彼らはそむき、もとるやから、真実のない子らである。

21)彼らは神でもない者をもって、わたしにねたみを起させ、偶像をもって、わたしを怒らせた。それゆえ、わたしは民ともいえない者をもって、彼らにねたみを起させ、愚かな民をもって、彼らを怒らせるであろう。

22)わたしの怒りによって、火は燃えいで、陰府の深みにまで燃え行き、地とその産物とを焼きつくし、山々の基を燃やすであろう。

23)わたしは彼らの上に災を積みかさね、わたしの矢を彼らにむかって射つくすであろう。

24)彼らは飢えて、やせ衰え、熱病と悪い疫病によって滅びるであろう。わたしは彼らを獣の歯にかからせ、地に這うものの毒にあたらせるであろう。

25)外にはつるぎ、内には恐れがあって、若き男も若き女も、乳のみ子も、しらがの人も滅びるであろう。

26)わたしはまさに言おうとした、「彼らを遠く散らし、彼らの事を人々が記憶しないようにしよう」。

27)しかし、わたしは敵が誇るのを恐れる。あだびとはまちがえて言うであろう、「われわれの手が勝ちをえたのだ。これはみな主がされたことではない」』。

28)彼らは思慮の欠けた民、そのうちには知識がない。

29)もし、彼らに知恵があれば、これをさとり、その身の終りをわきまえたであろうに。

30)彼らの岩が彼らを売らず、主が彼らをわたされなかったならば、どうして、ひとりで千人を追い、ふたりで万人を敗ることができたであろう。

31)彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。

32)彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から出たもの、またゴモラの野から出たもの、そのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦い。

33)そのぶどう酒はへびの毒のよう、まむしの恐ろしい毒のようである。

34)これはわたしのもとにたくわえられ、わたしの倉に封じ込められているではないか。

35)彼らの足がすべるとき、わたしはあだを返し、報いをするであろう。彼らの災の日は近く、彼らの破滅は、すみやかに来るであろう。

36)主はついにその民をさばき、そのしもべらにあわれみを加えられるであろう。これは彼らの力がうせ去り、つながれた者もつながれない者も、もはやいなくなったのを、主が見られるからである。

37)そのとき主は言われるであろう、『彼らの神々はどこにいるか、彼らの頼みとした岩はどこにあるか。

38)彼らの犠牲のあぶらを食い、灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。立ちあがってあなたがたを助けさせよ、あなたがたを守らせよ。

39)今見よ、わたしこそは彼である。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かし、傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出しうるものはない。

40)わたしは天にむかい手をあげて誓う、「わたしは永遠に生きる。

41)わたしがきらめくつるぎをとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは敵にあだを返し、わたしを憎む者に報復するであろう。

42)わたしの矢を血に酔わせ、わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」』。

43)国々の民よ、主の民のために喜び歌え。主はそのしもべの血のために報復し、その敵にあだを返し、その民の地の汚れを清められるからである」。

44)モーセとヌンの子ヨシュアは共に行って、この歌の言葉を、ことごとく民に読み聞かせた。

45)モーセはこの言葉を、ことごとくイスラエルのすべての人に告げ終って、

46)彼らに言った、「あなたがたはわたしが、きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ、子供たちにもこの律法のすべての言葉を守り行うことを命じなければならない。

47)この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう」。

48)この日、主はモーセに言われた、

49)「あなたはエリコに対するモアブの地にあるアバリム山すなわちネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ。

50)あなたは登って行くその山で死に、あなたの民に連なるであろう。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に連なったようになるであろう。

51)これはあなたがたがチンの荒野にあるメリバテ・カデシの水のほとりで、イスラエルの人々のうちでわたしにそむき、イスラエルの人々のうちでわたしを聖なるものとして敬わなかったからである。

52)それであなたはわたしがイスラエルの人々に与える地を、目の前に見るであろう。しかし、その地に、はいることはできない」。
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この箇所には以下の日本人へのメッセージがあるように思います。どうか参考にして下さい。
B340b19e 写真は野辺山の八ヶ岳高原の空です。夕方でしたがとてもきれいな風景が展開し、感動しました。

スキャナーの汚れで写真がきれいでなくてすみません。

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殺戮ゲーム人種

http://www2.plala.or.jp/Arakawa/job28.htm

ヨブ物語 28
「もっとも大いなるものは愛である」

ヨブ記20章

愛の勝利に向かって

 19章において、ヨブはついに奈落の底にまで射し込でくる一筋の神の光を仰ぎました。そのことを実に感動的な言葉で、ヨブは告白しています。

 「わたしは知っている
  わたしを贖う方は生きておられ
  ついには塵の上に立たれるであろう。
  この皮膚が損なわれようとも
  この身をもって
  わたしは神を仰ぎ見るであろう。」(19:25-26)

 たとえこの身が滅び朽ち果てようとも、わたしはこの身をもって神を仰ぎ見る・・・これはイエス様がおっしゃった「わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる」という復活信仰に通じる素晴らしい信仰告白です。

 ヨブは、苦難の中でイエス様を見たと言っても良いのではないでしょうか。もちろん、ヨブはイエス様の生まれるより2000年も前の人です。しかし、信仰によって救い主を仰ぎ見たのです。このような信仰に至ったからには、ヨブはこれからどのような苦しみにも耐えうるはずです。考えようによっては、ヨブ記はここで終わっても良いとさえ思うのです。

 しかし、暗闇の中で見たその光の確かな輝きは、ヨブをそのまま安住の地へは連れて行ってくれませんでした。光は瞬く間にかき消されてしまい、再びヨブは絶望の淵に沈み、出口の見えない苦難の中でもがき出してしまうのです。こうしてヨブの苦悩はさらになお延々と続くことになります。

 わたしたちも同じ経験をするのでして、イエス様に出会って救われたと感激したのも束の間、更なる試練がわたしたちを襲い、再び苦悩の中に閉じこめられてしまうということがあるのではないでしょうか。このことについて、内村鑑三は、このようなことを言っています。

 「吾人は信仰の絶頂によじ登り、希望の全光明にその身をひたすといえども、これだけで充分ではない。なお吾人に学ぶべきものが残っているのである。それは『信仰と望みと愛と、この三つのものは常にあるなり。この中最も大いなるものは愛なり』という。われらはなお愛について学ばねばならぬのである。さればヨブ記は19章をもって終わってはならぬのである。19章の最後を見よ。そこにヨブは明らかに友に勝っている。しかしそれは信仰による勝利ではあるが愛による勝利ではない。ゆえにこれは最上の勝利ではない。ヨブは信仰によって友を蹴破して終わるべきではなかった。愛をもって友をゆるして終わるべきであった。」

 なるほど、内村の言う通りだと思うのです。ヨブ記は19章からさらに23章を加えて42章で終わります。その42章のところで、神様はヨブの友人たちの罪をお責めになります。「お前たちは、わたしについて正しいことをヨブに語らなかった」と。ところが、ヨブはこの友人たちのために神への執り成しの祈りを捧げ、神様もそれを受け入れてくださるのです。

 本当の勝利は相手をたたきのめすことではなく、愛によって友の罪を赦し、友の罪が神に赦されるように祈ることにあるのです。そういえば、あるクリスチャン弁護士さんがこう言っていました。「裁判に勝利することよりも、わたしは和解を目標に仕事をしています」と。

 悪を野放しにしておくことがクリスチャンの務めではないのですから、わたしたちも場合によっては人と争うことが必要になってくると思うのです。裁判を起こすようなことがあるかもしれません。しかし、悪人の滅びは、決してわたしたちの勝利ではありません。この世的にはそれで勝利かも知れませんが、霊的には敗北なのです。悪人が救われてこそ、本当の勝利が来ます。それは愛による勝利です。これこそ最上の勝利なのです。この愛の勝利に向かって、ヨブはさらになお戦いをしていかねばなりませんでした。

 わたしたちもそうなのです。イエス様に出会って救われて、それでお終いではありません。イエス様の愛によって、世に和解を、平和をもたらす者として愛の勝利者になるまで、戦いは続くのです。


愛がなければ





 では、20章の本文の学びに入りたいと思います。19章のヨブの言葉を受けて、今度はツォファルが答えました。

 「さまざまな思いがわたしを興奮させるので
  わたしは反論せざるをえない。
  あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる。
  明らかにすることを望んで、答えよう。」

 ツォファルは、ヨブが「わたしには贖う者がいらっしゃる」という信仰の言葉を聞いて、苛立ちます。自分が非難されていると思います。どうして、素直に「それは良かった」と、ヨブが神様の救いを見たことを喜べないのでしょうか。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くこと(ローマ12:15)の難しさを見るような気がします。

 「明らかにすることを望んで、答えよう。」というのは、わたしがあなたの間違いを正してあげようということです。ツォファルは、だいぶ自惚れ屋さんのようです。自分は常に正しくて、自分に反する人は皆間違っていると思っているわけです。

 しかし、先ほども最も大いなるものは愛であるということをお話ししました。どんなに正しい言葉であろうとも、愛がなければその言葉は喧しい騒音にすぎなくなってしまうのです。パウロは、こう言っています。

 「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(1コリント14:1-2)

 ツォファルは頭は良かったかも知れませんが、愛がありませんでした。ヨブは19章でこう言っていたのをツォファルは聞かなかったのでしょうか?

 「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ
  神の手がわたしに触れたのだ。
  あなたたちはわたしの友ではないか。
  なぜ、あなたたちまで神と一緒になって
  わたしを追い詰めるのか。
  肉を打つだけでは足りないのか。」

 ヨブは、友人たちの言葉に苦しめられながらも、なお彼らを友人だと信じ、「憐れんでくれ。あなたちはわたしの友ではないか」と、頼み込んでいます。しかし、ツォファルにはそのようなヨブの心の叫びが届きません。ツォファルにとってヨブは友人ではなく論敵になってしまっているからです。論破することだけが目的の相手になっているのです。 
悪人は必ず滅びる





 ツォファルが20章で展開しているのは、これまで何度も繰り返されてきた悪人必滅の論に過ぎません。

 「あなたも知っているだろうが
  昔、人が地上に置かれたときから
  神に逆らう者の喜びは、はかなく
  神を無視する者の楽しみは、
  つかの間にすぎない。」(4-5)

 悪人は上手いことをやって栄えているように見えるけれども、それは束の間で、結局は自分の罪のゆえに苦しむことになるのだというお決まりの主張です。

 確かに神を恐れぬ者たちはいつか自分たちの愚かさを思い知ることになるでしょう。ヨブも言っています。「裁きのあることを知るがよい」(19章29節)と。悪人への裁き、これは神様を信じる者が誰でも信じていることです。

 しかし、ヨブが問題にしているのはそのことではありません。「なぜ正しい人が苦しむのか?」ということなのです。それに対して、ツォファルは、正しい者は苦しむはずがない、苦しむのはお前が罪人だからだ、ヨブの言葉にまったく耳を傾けずに、ヨブに悪人必滅を説いているわけです。

 「たとえ彼が天に達するほど
  頭が雲に達するほど上って行っても
  自分の汚物と同様、永久に失われ
  探す者は、『どこへ行ってしまったのか』
  と言わなければならなくなる。
  夢のように飛び去り
  夜の幻のように消えうせ
  だれも見いだすことはないだろう。」(6-8節)

 悪人も一時的には栄えることがある・・・ツォファルは、かつてのヨブの繁栄のことを言っているのです。しかし、どんなに栄えていても、それは排泄物と同じで跡形もなく消えてしまうのだ、今の君がまさにそれだ、ツォファルはこんな風に言いたいのでありましょう。

 「彼を見ていた目はもう彼を見ることなく
  彼のいた所も二度と彼を見ない。」(9節)

 「彼」は滅び、消え失せ、人々から忘れ去られるだろう、ということです。「彼」とはヨブへの当てつけに違いありません。

 「その子らは貧しい人々に償いをし
  子孫は奪った富を返済しなければならない。」(10節)

 悪人の行いは、子供達が償うことになるだろうということです。確かに、自分が犯罪者となれば、子供達に苦しみが及ぶことになりましょう。しかし、ヨブに対して、「君の罪によって、子供達が死んだのだ」と言っているも同然でありますから、なんとも残酷な言葉であります。

 「若さがその骨に溢れていたが
  それも彼と共に塵の上に伏すことになろう。」(11節)

「若気の至り」という言葉がありますが、若いときは自分の力を過信したり、後先を考える知恵がないために、しばしば失敗をするものです。若いときの失敗は、その後の生き方によって人生の財産になることもあるのではないでしょうか。神様はそのような悔い改めのチャンスを与えてくださる御方であることをツォファルは知らないようです。 
悪人は決して満足しない





 しかし、ツォファルは、さすが自分の知恵を誇るだけのことはあって、なかなか上手いことも言っています。

 「悪が口に甘いからと
  舌で抑えて隠しておき
  惜しんで吐き出さず
  口の中に含んでいれば
  そのパンは胃の中に入って
  コブラの毒と変わる。」(12-14)

 「悪が口に甘い」とは、「悪いことは楽しい」ということでありましょう。確かに、正しいことをするのはたいへんで、時には苦痛ですらありますが、悪いことは誘惑的です。甘美な楽しみにすら見えてきます。しかし、それは「毒」ですから、手を出せば必ず痛い目に遭うでしょう。

 「呑み込んだ富は吐き出さなければならない。
  神は彼の腹からそれを取り上げられる。
  彼の飲んだのはコブラの毒。
  蝮の舌が彼を殺す。
  彼は蜂蜜と乳脂の流れる川の
  その流れを見ることはない。」(15-17)

 悪人は、その悪が「蜂蜜と乳脂の流れる川」に見えてくるのであります。エバも禁断の木の実を食べる前、「見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(創世記3章6節)と言われています。しかし、それを食べても決しておいしくなく、また幸せになれるわけでもありません。罪は「毒」であり、罪を犯して幸せになれるはずがないのです。けれども、それで「ああ、間違っていた」と気づくことができればいいのですが、悪というのは、罪に罪を重ねるように私たちをさらになお誘惑し続けます。

 「労して獲たものをも呑み込まずに返し
  商いで富を得ても楽しむことはない。
  なぜなら、貧しい人々を虐げ見捨て
  自ら建てもしない家を奪い取ったから。
  その腹は満足することを知らず
  欲望から逃れられず
  食い尽くして、何も残さない。
  それゆえ、彼の繁栄は長くは続かず
  豊かさの極みにあって欠乏に陥り
  すべて労苦する手が彼を襲う。」(18-22節)

 悪の泥沼に入り込んでしまった人の姿を描いています。決して満足できないのですが、誘惑に打ち勝つことができず、ずるずると引き込まれてしまう。そして、神の裁きをますます大きなものとしていく。その繰り返しの地獄に落ちてしまうわけです。「豊かさの極みにあって欠乏に陥り、すべて労苦する手が彼を襲う」、悪の誘惑に陥らぬよう心に留めておきたい格言です。

 「腹を満たそうとすれば
  神は燃える怒りを注ぎ
  それをパンとして彼に浴びせかける。」(23節)

 悪人は楽しみや幸せを悪に求めていますが、彼らが手にすること出来るのは、神の裁きだけであると、ツォファルは言います。

 「鉄の武器から逃れても
  青銅の弓が彼を射抜き
  矢は彼を貫いて背中に出る。
  それは胆汁にぬれて光り
  神の威力が彼を圧倒する。」(24-25)

 神の裁きから逃れることはできない、という悪人必滅論が再び展開されます。
 
 「暗黒が彼の宝を待ち構え
  吹き起こされたのでもない火が
  彼をなめ尽くし
  天幕に残っているものをも滅ぼし尽くす。
  天は彼の罪を暴き
  地は彼に対して立ち上がる。」(24-27節)

 「天は彼の罪を暴き、地は彼に対して立ち上がる。」これもなかなか小気味の良い言葉です。天も、地も、悪人を赦さない。悪人を裁くために立ち上がるということです。

 「神の怒りの日に、洪水が起こり
  大水は彼の家をぬぐい去る。
  神に逆らう者が神から受ける分
  神の命令による嗣業はこれだ。」(28-29)

 「嗣業」とは、神様から与えられた賜物や財産、所有のことです。悪人が神から受け継ぐことができるのは、厳しい裁きだけであるということです。


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上のサイトでは悪人への裁きと言うことでみことばの解説が為されていますが、悪人は悟りがないためにエスカレートしてやりたい放題の暴虐振りですね。
殆ど頭が行かれています、マジで漫画の世界で高ぶるような感じに見える。現実感など微塵もなくゲームの画面で殺戮を楽しむ風情ですね。
こういう信じがたい局面に接するとは思いませんでした。
彼らもきっとメディア脳になってかぶれているのでしょう。
神様は何時までこの悪ふざけを許しておかれるのか。
血に飢えているような人種ですね。信じがたいです。

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聖書のみことばより

神様の裁きについてのみことばです。
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ローマ人への手紙
第2章

1)だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。


2)わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。


3)ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。


4)それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。


5)あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。


6)神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。


7)すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、


8)他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。


9)悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、


10)善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。


11)なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。

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コリント人への第2の手紙:第5章

10)なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。


11)このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。


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詩篇:第一巻 1

12)主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって報いられるからである。
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オバデヤ書

15)主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。

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ヨブ記:第34章

23)人がさばきのために神の前に出るとき、神は人のために時を定めておかれない。

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箴言:第19章

29)さばきはあざける者のために備えられ、むちは愚かな者の背のために備えられる。

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イザヤ書:第66章

16)主は火をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行われる。主に殺される者は多い」。

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ローマ人への手紙:第14章

10)それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。

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新約聖書:ユダの手紙

15)それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」。

16)彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者である。


17)愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。


18)彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。


19)彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。

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聖書には神の裁きについての箇所は多いようですが今の時点では無知蒙昧な悪人共に糞味噌にやられている状況ですね。
正直あそこまでえげつない信じがたい人種がいるとは思いませんでした。怒り狂うと言うよりは本当に気持ちが悪いのみです。
マジでシュールすぎる。
神様は何故にあそこまで愚かな人種を造られたのか。
早く助けて頂きたいです。もう限界だ。

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聖書のみことばより

第二テサロニケ2章

7)不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。

8)その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。

9)不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

10)また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。

11)そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、

12)こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。

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この箇所は今の集スト現象と当て嵌まると思います。この犯罪のために多くの人間が自己の本性を露呈することになっているからです。
悪人に諂わねば生きられないと思わせるためですので、利己主義的な人間かそうではないかなどがはっきり分かります。

私も長年にわたり恐怖より諂っていた口でしたが神の恩寵により漸く加害者の世界に絶望し、聖書に聞くことになりました。聖書には真の救いがありました。
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箴言24章
12あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、
 心をはからる者はそれを悟らないであろうか。
 あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。
 彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか。

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↑上のみ言葉は集スト現象にてシラ切る方が多いために有益なみことばですね。以下のみことばは「私達の他には誰も知らないのであります」と高くくるようなアホ人種への有益なみことばでやんす。
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詩篇:第一巻 1

5)彼らは悪い企てを固くたもち、共にはかり、ひそかにわなをかけて言う、「だれがわれらを見破ることができるか。

詩篇:第一巻 1

6)だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」と。人の内なる思いと心とは深い。

イザヤ書:第29章

15)わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、「だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか」と言う。

16)あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。

イザヤ書47章

8)楽しみにふけり、安らかにおり、心のうちに「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもなく、わたしは寡婦となることはない、また子を失うことはない」と言う者よ、今この事を聞け。

9)これらの二つの事は一日のうちに、またたくまにあなたに臨む。すなわち子を失い、寡婦となる事はたといあなたが多くの魔術を行い、魔法の大いなる力をもってしてもことごとくあなたに臨む。

10)あなたは自分の悪に寄り頼んで言う、「わたしを見る者はない」と。あなたの知恵と、あなたの知識とはあなたを惑わした。あなたは心のうちに言った、「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもない」と。

11)しかし、わざわいが、あなたに臨む、あなたは、それをあがなうことができない。なやみが、あなたを襲う、あなたは、それをつぐなうことができない。滅びが、にわかにあなたに臨む、あなたは、それについて何も知らない。

12)あなたが若い時から勤め行ったあなたの魔法と、多くの魔術とをもって立ちむかってみよ、あるいは成功するかもしれない、あるいは敵を恐れさせるかもしれない。

13)あなたは多くの計りごとによってうみ疲れた。かの天を分かつ者、星を見る者、新月によって、あなたに臨む事を告げる者を立ちあがらせて、あなたを救わせてみよ。

14)見よ、彼らはわらのようになって、火に焼き滅ぼされ、自分の身を炎の勢いから、救い出すことができない。その火は身を暖める炭火ではない、またその前にすわるべき火でもない。

15)あなたが勤めて行ったものと、あなたの若い時からあなたと売り買いした者とは、ついにこのようになる。彼らはめいめい自分の方向にさすらいゆき、ひとりもあなたを救う者はない。


エレミヤ書:第21章

13)「主は言われる、谷に住む者よ、平原の岩よ、見よ、わたしはあなたに敵する。あなたがたは言う、『だれが下ってきて、われわれを攻めるものか、だれがわれわれのいる所に、はいるものか』と。

旧約聖書:オバデヤ書

3)岩のはざまにおり、高い所に住む者よ、あなたの心の高ぶりは、あなたを欺いた。あなたは心のうちに言う、「だれがわたしを地に引き下らせる事ができるか」。

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詩篇より

詩篇62篇 聖歌隊の指揮者によってエドトンのしらべにしたがってうたわせたダビデの歌
1わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。
2神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。
3あなたがたは、いつまで人に押し迫るのか。あなたがたは皆、傾いた石がきのように、揺り動くまがきのように人を倒そうとするのか。
4彼らは人を尊い地位から落そうとのみはかり、偽りを喜び、その口では祝福し、心のうちではのろうのである。〔セラ
5わが魂はもだしてただ神をまつ。わが望みは神から来るからである。
6神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。
7わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。
8民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。〔セラ
9低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。
10あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。
11神はひとたび言われた、わたしはふたたびこれを聞いた、力は神に属することを。
12主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって/報いられるからである。

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詩篇のこの箇所は被害者にとり慰めになると思います。悪人もやはり神の被造物であるが故にどう考えた代物かと苦悩します。273d3fbd

詩篇のサイト↓

http://www.vip-intl.org/kogou/psalm/psalm-bt.htm
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写真は野辺山高原の風景です。E976acbc

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メッセージのコピペです

http://www5.ocn.ne.jp/~akiru-ch/07.12.30sekkyou.html
2007年12月30日「悲しむ者は幸いです」マタイ5:4
              

序-圧迫されて、追われる雰囲気の中で一日一日を生きている現代人は、ほんの一時ほっとするための方法として、笑いの材料を探し求めているようです。一度大いに笑いながら、積もったストレスをすべて飛ばしてしまおうとするようです。現代人は深刻な話を好みません。その上、涙、悲しみのような言葉には、耳を傾けて聞こうとはしません。にもかかわらず、イエス様は笑うことより、悲しむことが幸いだと、逆なことを言っておられます。イエス様が二番目に幸いな者と言われたのは、悲しむ者です。聖霊が、この偉大な真理を悟らせて下さることを祈ります。
 
Ⅰ-悲しむ理由、悲しむ者の特徴-
 4節。イエス様が言われた「悲しむ」とは、大変強い意味を持っています。聖書の中には、涙や悲しみを表現する用語が9種類ほど出ていますが、その中で「悲しむ」(ペンセオー)という言葉は、もっとも大きい悲しみを表しています。愛する者を失い胸を叩いて慟哭する人の悲しみを表現する時使う言葉です。泣き崩れるような激しい悲しみです。哀痛です。
 なぜそんなに激しく悲しむのでしょう。悲しむ理由について考えてみましょう。まず、神様の視点で自分を見るようになり始めるためです。神様を知らないと、私たちは世の視点で自分を見ます。主に他の人と比べて自分の姿を見ます。私は結構すごいぞと高慢になるか、私にはあれがない程度に劣等感を覚えるくらいです。しかし、信仰の目で見るなら、いつの間にか神様の視点で自分を見るようになります。そうすると、大きな衝撃とひどい悲しみを経験するようになります。ローマ7:24。
 言ってみれば、人間について本当に悲しむことのできるのは、ただ神様だけだからです。神様が私たちを造られた方だからです。子供のことを一番心配し、悲しむのは親ですね。造り主はなおさらです。私たちは、神様に似せて造られています。ところが、罪のためにその神の形が破壊されてしまったのです。私たちは、罪のためにあまりにも壊れて、惨めで、悲惨な状態になってしまいました。ところが、神様は私たちに信仰を下さり、私たちがこのような姿を見るようにされました。どんなに恐ろしい罪に支配されているかを、知るようになるのです。自分が罪の勢力の奴隷となっており、自分の中には善を行なう力が無いことを知り、心の中ではどれほどの人を殺し、どれほど醜悪な罪を犯して来たかを悟るようになります。そして、「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫ぶようになるのです。ローマ7:24。
 悲しむ理由の二つ目は、絶望の状態から助けを求めるためです。この「悲しむ者」の悲しみは、単純に自分の状態を憐れむ自己憐憫の感情を言うのではありません。この絶望の状態から抜け出すために、必死に叫ぶようになることです。幸いな人は、絶望だけするのではなく、「神様!何とか助けて下さい。私を恐ろしい絶望と葛藤から救って下さい!」と、神様に向かって叫ぶようになります。ルカ18:13。その時、イエス様の十字架が見えるようになります。イエス様は私たちに手を差し伸べて、「愛する者よ。私はあなたのその罪のために十字架に釘打たれたよ」と、言われるのです。
 そうすると、必死になって、十字架に釘打たれたイエス様をしっかり?むようになります。なぜなら、イエス様のほかにこの絶望から救うことができないからです。罪人と言われていた女性が、パリサイ人の家にいたイエス様のところに来て、涙でイエス様の足を濡らし、髪の毛で拭い、ナルドの香油を注ぎした。その女性は、その絶望からイエス様が自分を救って下さると知っていたためでした。ルカ7:36-50。
 悲しむ者の特徴は何でしょう。自分の悲しい感情を表現することを恥じないことです。自分はただイエス様お一人だけを?んで、すがることを恥かしがらないのです。周りの者から嘲られても、まったく意に介し無いのです。怒りをパリサイ人にぶつけて、自分を肯定していたら、この女性はイエス様のところに来ませんでした。どう見られようと気にせず、自分の境遇を悲しみ、イエス様だけを掴みました。
 悲しむ三番目の理由は、自分をその恐ろしい罪から救い出すために、イエス様が十字架にかかられたと知るためです。人ははじめ、イエス様が十字架の上に死なれたことと自分は関係無いと思うのです。二千年前に十字架に死んだ人と現代に生きる私と何の関係があるのか。ところが、不思議なことに、ある瞬間からそれを信じるようになるのです。イエス様が十字架の上に死なれたことが他の人々のためにはなく、この私のためということを信じるようになるのです。それは、ただ御霊の働きによることです。
 一匹の虫のような自分のために、あまりにも尊いお方が苦しみを受けられたと知るようになります。一度考えてみて下さい。人を木に釘付けにして立てることを。その痛みがどれほど凄いものか。その十字架は、自分がかからなければならない十字架でした。神様は、愛する御子をその十字架に釘付けて、私たちに対する裁きとみ怒りをその上に注がれたのです。イエス様は、十字架上で、私たちが味わうべき裁きをすべて味わわれました。これを知る時、私たちは誰でも感謝して、涙を流さずにはいられません。
 現代の教会では、悲しんで涙するのを見ることは難しいでしょう。涙は干からびてしまったようです。笑いやユーモアが多い、気分を良くしてくれる話を好みます。悔い改めも嫌われます。私たちは、本当に悔い改めの涙を知っている信仰でしょうか。

Ⅱ-悲しむ者に対する慰め-
 イエス様は、悲しむ者が幸いな理由は「慰められるからです」と言われました。4節。神様は、御前で自分の罪のために嘆き、その悲惨な状態を悲しむ者をそのままにしておかれません。必ず慰めて下さいます。まず、神様がして下さることは、神様は、自分の罪を悲しんで御前に出て来る者を「義と認める」と宣言して下さいます。ローマ5:1。私たちに最も重要な慰めは、義と認められ、罪は赦されたとの宣言をいただくことです。神様の霊的恵みを受ける資格が整います。ナルドの香油の女性も、「あなたの罪は赦された」というイエス様の言葉をいただきました。ルカ7:48。罪の赦しを受けるならば、もう神様を恐れることがなく、親しく交わり、神様のもとで生きるようになります。どんなに喜ばしいことでしょうか。
 次に、神様は悲しむ者に尊さを回復して下さる慰めです。実際に神様の御前に義とされる以前、私たちは自分を虐待して生きて来ました。お酒を飲んだり、何かに没頭したりするのはなぜでしょう。自分の惨めな姿を忘れてしまおうとするあがきです。ところが、神様の御前に罪の赦しを受けるなら、自分が神様の御前にどれほど尊い存在か、発見するようになります。イザヤ43:4。神様の創造物としての尊厳を回復されるのです。
 私たちは、どのように自分自身を知ることができますか。表面の姿を見るのは鏡を見ればいいでしょう。しかし、私たちの内にある自画像は、自分に対する他の人の態度に従って形成されます。どんなにある人が優れた人だとしても、他の人がすべて彼を否定して、いじめるなら、彼はひどい自画像を持つようになります。しかし、どんなに駄目な感じの人でも周囲の人々が彼を尊く扱ってくれるなら、彼は尊い自画像を持つようになるのです。
 それでは、神様の御前で罪の自分を悲しむ者は、どんな自画像を思うようになりますか。彼は、神様の御子が自分のために十字架に死んで下さったほどに、自分が大切な存在だと分かるようになります。もう幼稚な冗談や汚い楽しみを喜びません。もう簡単に罪に落ちたりしません。それは、尊い自画像があるからです。人の尊さは財産や格好によるのではなく、ただ神様の愛から来るものです。神様の愛は、貧しくてもみすぼらしくても、たましいの深いところに満足感が与えてくれます。たましいが病気の人は、簡単に自暴自棄になって、試みに倒されてしまいます。
 三番目の慰めは、神様は、悲しむ者を、弱いからと言って捨てることはないことです。Ⅱコリント4:8。そのままほったらかしにしないで、終わりまで導いて下さり、結局は神様の御心の通りに生きるようにされます。神様はいつも私たちと一緒にいて下さいます。マタイ28:20。時には、神様が見えなくて、霧の中を彷徨うようなこともあるでしょう。しかし、後になってみれば、あまりに確かな道を来たことを知り、かなり彷徨ったと思った時間が、正しい道を進んで来たと分かるのです。
 神様に叫ぶことさえすれば、いつも聖霊の導きを下さり、私たちの心にある傷を癒して、私たちを正しい道に導いて下さるのです。神様は私たちを絶対に見捨てることはありません。私たちが神様に叫び求めさえすれば、恵みを回復して下さいます。悲しみを通して、もっと深い神様の愛を悟り、もっと深い神様の恵みに感謝するようになるのです。神様の御前に、自分のひどい惨めな状態を表すことを願います。悲しむ者は、自分の悲しみをあらわし、嘆いて求めるなら、神様はそれを慰めて下さいます。
 信仰生活で涙と悲しみが占める比重は、絶対的です。悲しみと涙の谷を通過しない信仰は、一つの安物の装飾品に過ぎません。悲しみは、私たちの信仰を本質に導きます。涙はその人の目に十字架の主を見させます。濡れた目に復活されたイエス様の栄光が現れます。悲しみは、私たちのたましいを訪ねて下さるイエス様の足音に聞こえます。私たちの信仰は涙を飲んで育つのです。私たちの人格は、悲しみの谷を通過しながら、成熟するのです。Ⅱコリント1:4-5。

マタイ
5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

ローマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

Ⅱコリント4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

ルカ18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

ローマ5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

黙示録21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。

マタイ28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

Ⅱコリント1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

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神様のみまえに素直になり悔い改め、自己の惨めさと愚かさと、悲惨さと絶望を現す祈りと訴えとをする方が良いのですね。
そうしたいのですが覗き魔が気になるのかそれも難しいようです、しかし気にしても無意味ですね、何しろ幼少時よりずっと覗き被害に遭っているようだからです。
だから自己の恥と悲しみと絶望感は神のみまえに素直に表す方が良いですね。

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2007年12月16日「心の貧しい者は幸いです」マタイ5:1-3
              
序-マタイ5章のはじめは、有名な山上の説教という話です。イエス様は、本当に幸いな人はどんな人で、神の国に属する人はどんな人かを明らかにしておられます。ところが、この幸いな人に該当する人は、世の基準で見る時、全く幸いな人ではありません。イエス様は、神の国の民となる者の特徴は、斯く斯く然然だと定義されています。そして、霊的不足感も覚えずにいる神の民を点検させておられるのです。私たち自身どうでしょうか。

Ⅰ-全体の眺望-
 今回は、山上の垂訓の初めなので、まず全体像を眺めて見ることにしましょう。マタイ福音書の構造は、イエス様の生き方と教えが交互に表されています。それは、私たちにイエス様のように人生を生きてほしいからです。私たちは、これまでイエス様の誕生、洗礼、試みを受けられたという部分を見て来ました。そして、この山上の垂訓に表されたような生き方を願われたのです。知識や研究だけのためにこの山上の垂訓を学んでも、何の意味もありません。私たちは、従順に山上の垂訓を実践するのです。イエス様が十字架にかかって死なれたのは、私たちが罪赦されて、神様の御心を実践してしながら生きるためです。
 1-2節。この「イエス様が山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た」という表現ですが、普通ユダヤ人は、御言葉教えるラビが席に座って、学ぶ者たちは立って聞く、という構図なのです。ところが、イエス様は天から降りて来られたお方として、御言葉を親しく神の民に伝えておられます。この弟子たちとは、イエス様に聴き従う者たちのことです。ですから、「幸いな人」とは、御言葉を適用だと見ることができます。御言葉は、適用が重要です。神様の御言葉を理解するなら、適用するようになるのです。ヤコブ1:22。
 マタイの山上の垂訓は、イエス様の弟子となることが、どんな人格と人生が要求されるかということを明快に見せてくれます。イエス様と似ることを求める人は、日々この教訓に自分を照らして、従順でなければなりません。山上の垂訓は、弟子となるは完全な者とならなければならないというのではなく、私たちが目指す頂上はどこかを明らかにしてくれるのです。その頂上は小さなイエス様となることです。そのようになるためには、ガリラヤの丘に走って行って、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と教えて下さるイエス様の膝の前に近づき、座らなければなりません。

Ⅱ-本当に幸いな人-
 イエス様は、3節から10節まで「斯く斯く然然な者は、幸いです」と言いながら、天国の福音を語り始められました。この言葉は、聞く者の耳をそばだてさせました。皆幸いを感じたいと願っているからです。幸いを願わない人がいるでしょうか。願うけれども、幸いは簡単には手に入らないからです。ところが、イエス様は、「~者は幸いです」と言われたのです。
 「幸い」というと、人は何かを所有していることで考えるようです。それも一理はあるでしょうが、多くを所有しているからと言って、必ず多くのことを享受することではありません。ルカ18:9-14。ですから、イエス様の言われた「幸い」の概念は、「所有」ではなくて、「使用」の概念です。どれだけのものを握っているかではなく、それらを正しく素晴らしく使用しているか、ということが幸いの概念です。御言葉をどれだけ適用して生きているか、にかかっているのです。
 イエス様がはじめに言われた幸いな者とは、「心の貧しい者」でした。3節。なぜ、貧しい者と言わずに、心の貧しい者と言われたのでしょうか。貧しい者と心の貧しい者とは、何が違うのでしょうか。「心が貧しい」とは、いったいどういう意味でしょうか。イエス様の言われる心の貧しい者とは、財産がなくて、経済的に困窮している者、あるいは心が弱くて、いつも他の人に頼っているではありません。経済的な貧しさや病気などを通して、痛みを覚える人のことです。
 ある人は、ある突然の出来事で多くの財産を失いました。急に貧しくなって精神的にひどく痛みを覚えました。ところが、そのような物質的喪失を通して、貧乏以上の問題が自分の中にあったことを知るようになりました。それは、神様の前に傲慢であったことです。貧しい人を無視して、高慢で生きて来たことを悟ったのです。もし、そのまま自分の罪が裁かれたら、滅んでしまっただろう、ということを悟ったのです。
 「心の貧しい」ということは、単純に経済的な貧しさではありません。困難や痛みを通して、その中にあったもっと根本的な問題を見るようになることです。イエス様を求めた人々は、自分たちの現実的困難を持っていました。ですから、イエス様は、彼らに自分の中にあるもっと本質的な痛みの原因を見るようにされたのです。ある先生は、周りの人々に不満や怒りを覚えていました。ある時、聖書的カウンセリングの学びの中で、自分がいつも周りの人に不満を持ち、怒ってばかりいたのは、子供時代の親との関係に原因があったことに気付きました。そこに、イエス様の十字架に入っていただき、赦しと解放を味わい、心の平安が与えられて、変えられたと証しされていました。
 人々にとって、ああ私は罪人でした、私は高慢な者でした、ということほど、言うことが難しいことはありません。でも、神様の前に出て、そう言えるならば、その人は本当に幸いな人なのです。天国の門が開かれるのです。ですから、聖霊が私たちにされる最初の働きは、自分の中にある罪や問題を見るようにさせることです。それは、あまりにも痛くて、自尊心が傷つくことです。しかし、天国はそこから始まります。その人の新しい人生は、そこにかかっているのです。
 パウロの回心に、そのような変化を見ることができます。彼は社会的に見れば、幸いな者でした。頭も良くて、学識があり、当代随一の学閥に属し、財産もあり、家柄も良く、宗教的熱心さもずば抜けており、自信感に満ちた人でした。しかし、イエス様に出会った時、それまで持っていた考えが崩れてしまったのです。自信を持ってやっていたことがイエス様に敵対することであったことを悟ったのです。その時からそれまで誇りとしていたものを損だ、塵芥と思うようになりました。使徒22:3-8,ピリピ3:7-8。
 私たちは、どんな誇りがあるでしょうか、自分にはこれがあるからというものが何かあるでしょうか。イエス様の前に出れば、そのようなものは、自分の根本的な問題解決の助けにならないことを知るようになります。パウロはその後どうしたのでしょう。全ての誇りを捨てて、ただイエス様の十字架の恵みだけを握って生きるようになりました。イエス様!あなたの十字架の血潮によって、私の罪を洗いきよめて下さい。ここから、新しい歩みが始まります。私たちも、そのようにならなければ、名目上のクリスチャンであり続け、御言葉を本当には理解できないのです。すべての不幸だと思われるものを通して自分の中にある罪を見るようになる者、自分の高慢を見るようになる者は、幸いな者です。天国を見るようになります。

Ⅲ-心の貧しい者が幸いである理由-
 イエス様は、自分に不足を感じて、自分一人では何もできないと認める人が幸いだ、と言われました。ところが、すべての人が神様の前に自分の無力感を感じる、ということではないのです。多くの人は、そんなことは全く感じないのです。むしろ、自分がすべてのことができる、と考えるのです。人が、神様の前に徹底的に自分の無力感を感じるならば、どうなりますか。この後、神様が救いをなして下さいます。そして、イエス様の十字架で赦しを受けるようになります。ある時、「わたしがあなたのために十字架にかかったよ」という声が心の耳に響いて来ます。そうして、主の前に膝を屈めて、降伏するのです。自分の罪の問題のために痛み、悩む者は、すでに神様にとらえられているのです。その恵みの御手から落ちることはありません。
 有名な教父アウグスティヌスは、その「告白録」で、「主に立ち返るまで、私のたましいに本当の安息はありませんでした」と告白しています。彼は、何とかしてイエス様の十字架以外の方法で、自分の霊的な悩みや葛藤を解決しようとしました。どうあっても、イエス様の十字架の前に膝をかがめようとしませんでした。しかし、他の方法はありませんでした。
 私たちも、神様にとらえられて、自分の中に解決されていない霊的欠乏と無力感と罪を見るようになって、悩むことを望みます。人は自分の修養や他の方法に頼りたいでしょう。しかし、他の方法はありません。困難の中にすでに神様の救いは始まっているのです。「天の御国はその人のものだからです」とは、何という約束でしょうか。その人は本当に幸いを受ける人だ、ということです。勿論、はじめ自分は不幸な者だと思うでしょう。他の人は幸福そうなのに、自分だけどうしてか、と悩むでしょう。しかし、後には喜び感謝するようになります。自分のような者に罪の赦しと救いの恵みを下さったことに、驚きを覚えるようになるのです。Ⅰコリント18:9-14。

マタイ
5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。

5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

ヤコブ1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

ルカ18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

Ⅰコリント1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

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引き籠もりで親に苦肉の思いから北海道に行かされそこで学校に通いましたが、当時無駄になった膨大なる学費が気になり死を望んでいました。それが神の恵みであったかも知れません。当時奇しくも聖書が配布されていましたが愚かにも偶像メディアに心を奪われそれしか見ませんでした。聖書は遠い世界の書物でした。
聖書を読んでおれば救われたかも知れません。
その後卒業して入った学校も病気などで挫折し帰って又自殺未遂し、文通を申し出て来た友人が紹介した歌関係のメディアに耽り込み結果的にはそれに酷い目に遭わされました。
結局は精神科に追い込まれ教会に関わったが聖書を読み出したのはそれから10年後でした。
それまで読もうとした事はあったが理解できず挫折しました。
しかしメディアからの酷い嫌がらせの洪水と絶望に支配されたときに漸く真剣に祈り求め聖書のみことばに心が留まるようになりました。

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http://www5.ocn.ne.jp/~akiru-ch/07.11.04sekkyou.html
2007年11月04日「神様が私たちと共におられる」マタイ1:18-25
              
序-イエス様の誕生というと、静かな夜野原にいる羊飼いたちに、天から天使がその誕生を告げる、という美しい神々しいイメージをもたれるでしょう。しかし、実際にはイエス様の誕生は厳しい状況でした。マリヤがまだ結婚しないうちに、夫の子でない子を宿したからです。世間で受け入れられない、マイナスイメージを伴うことです。でも、そのことをマタイはあえて記しました。イエス様が誰であるかよく知ることができなければ、結局人々がイエス様を信じないからです。イエス様は誰か、ということをしっかり知らなければなりません。
 
Ⅰ-イエス様は誰か、イエス様が来られた方法-18
 マタイは、あれだけユダヤ人が喜びそうな系図を掲げて、アブラハムからダビデと続けて、捕囚の地までも系図を追求しながら、その系図の最後は、驚くことに乙女の胎に宿った子供なのです。18節。ユダヤ人の結婚のしきたりに、まだ小さい時に法律的に結婚の約束することがありました。いわゆる許婚です。ユダヤ人は、捕囚後ダビデの王家を回復するような人が登場して来るだろう、と期待していたでしょう。ところが、登場した人は、ダビデの血統ではない、ダビデの子孫と結婚する予定の女性がみごもった人なのです。なぜここまで知らせたのでしょうか。それは、イエス様が誰であるか分からないままで、イエス様を信じることができないからです。救いのために神様の超自然的介入と御力を認めないで、人間の頭で理解の範囲だけで、キリスト教を信じることができないからです。
 マタイは、イエス様の誕生は、「聖霊によって身重になった」と伝えています。それは、一体どういうことなのでしょうか。男女の関係によって身重になったのではなく、聖霊の力によって特別に起こったことだ、と言っているのです。これは、人々がとても理解することができないことでした。聖霊によってということは、神様による誕生だということです。でも、考えてみて下さい。神様はどんなお方ですか。全てを創造され、統べ治めておられる全知全能なお方です。その神様ができないことはないのです。
 そして、この過程を通して、神様は本当に人となられたのです。一時的に人の姿を取られたのではなく、食べて、育って、生きて行く生身の人となられたのです。ですから、救い主が来られたというのです。大事なことは、この事件が私たちにとってどんな関係があるのか、ということです。私たちにとって大変重要なことです。なぜ、神様が人間の体をもって世に来られたのでしょうか。なぜ、乙女に宿って来られたのでしょうか。このような、人が理解できない方法で来られたからには、何かとても重要な理由があるはずです。

Ⅱ-私たちを罪から救うために-19-22
 その特別な誕生を証しするためには、当事者に登場してもらうことが一番です。ユダヤ人の習慣では、女性を証人として立たせることはしなかったので、マタイ福音書ではヨセフだけです。
 まず、ヨセフの初めの反応を調べてみましょう。19節。淡々と事実だけ記録されていますが、ヨセフにとって、どんなに大きな衝撃だったでしょうか、ヨセフはどんなにか苦しみ、悩んだことでしょう。ヨセフは許婚が身重になったという事実を知って、婚約を破棄することに決心しました。この人は正しい人であった、と記されています。なぜ、こんなことが記されているのでしょうか。ヨセフが嘘をつく人ではない、不道徳な人ではない、ということを明らかにしているのです。怒って破談にするのでなく、嘘をつくことも不道徳なこともしたくなかったので、婚約破棄することにした、ということです。
 では、どうして結局は結婚したのでしょうか。天使の知らせがあったためです。20節。天使は、聖霊によって身重になったということを知らせただけでなく、なぜ恐れないでと言ったのでしょうか。敬虔な正しい人であったヨセフにとって、この事件は大きな試練でした。それで、彼が取ることのできる道は、マリヤとの婚約を破棄することでした。そこに、天使が現れて、マリヤを疑っては駄目だ、マリヤを受け入れて保護することがヨセフのしなければならないことだ、と強く諭したのです。
 なぜ、このような大変な方法でもって、イエス様は世に来なければならなかったのでしょうか。21節。その当時イエスという名前はよくある平凡な名前だったようです。重要なことは、その名前が持っている意味です。「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」という意味です。ユダヤ人はローマの支配から解放してくれて、自分たちを守ってくれる救世主を期待していました。しかし、神様が送って下さったのは、政治的解放者ではなく、彼らを罪から救って下さる方でした。
 罪から救うって、一体何でしょうか。すべての人々が罪の勢力に囚われていることを前提にしています。私たちが自覚しないまま、罪の勢力が私たちを支配しており、私たちは死んでいるようなものだ、というのです。エペソ2:1-3。人の中には恐ろしい罪があって、その罪に囚われて、悲惨な状態なのだというのです。本当に恐ろしいことはローマ帝国の圧政ではなくて、人々の中にある罪の勢力だということです。神様の子が理解できない方法で世に来られたのは、ただこのためです。罪のない神の子が、人類の罪を代わりに身に負うために、人となられるために、乙女に宿られたのです。ただ私たちを救い、惨めな罪の支配から解放し、神様の下さる新しい命に生きるようにするためでした。この救いを信じるならば、神様の民とされるのです。Ⅰペテロ2:10。
 
Ⅲ-神様が私たちと共におられる-
 マタイは、マリヤの聖霊によって身重になったことをヨセフの証言を通して明らかにした後、聖書の証拠を取り上げています。22-23節。これならば、これを読むユダヤ人は、疑問を提示することはできません。驚くべきことに、旧約聖書のイザヤ書7:14に「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」と記されてあります。当時北イスラエル王のベガとアラム王のレツィンが連合して攻めて来て、南ユダ王国は大変危険な状態でした。神様はイザヤを送って、決して連合軍に滅ぼされることはないと言われました。そのための印が、この言葉でした。この預言の本当の成就は、まさにマリヤがイエス様をみごもったことでした。
 ユダ王国が滅亡しそうになった時、神様は一人の子供誕生を通して彼らを見捨てず、共におられることを見せて下さいました。そのように、イエス様の誕生を通して私たちを見捨てず、愛して下さり、どんな危機や困難からも救い出す、と約束して下さったのです。インマヌエル、神様が一緒にいて下さるなら、私たち目の前にどんなに大きな危機があっても、決して私たちは滅ぼされない証拠となるなのです。インマヌエルの主は、あなた人生に共にいて下さいますか。
 イエス様の十字架によって、私たちは救われ、罪の赦しを受けます。その結果、聖霊が私たちの心の中に臨むようにまります。これが御霊の内住です。私たちがイエス様の御名を呼ぶならば、神様の御力が私たちの心の中に今も溢れるのです。ヨハネ14:16。信じる者と共にいて下さるインマヌエルの神は、私たちがどんなに絶望的な状況に置かれても、罪の勢力に打ち勝つ力を下さるのです。失望しないで、恐れないで下さい。

Ⅳ-ヨセフの従順-
 マタイは、ヨセフが天使の言葉を聞いて、どのようにしたかを記しています。24-25節。神の民は、いつまでも自分の考えだけを言って、理屈を言うばかりの人ではありません。天使の言葉を聞いた後、すぐにマリヤを迎え入れました。まだヨセフは、マリヤが聖霊によって身重になったことを完全には理解してないながらも、マリヤを迎え入れました。むしろ、神様に抗議してもいいような状況でしたが、そのような反応はしないで、その場から起き上がって、もっと厳しい立場にあるマリヤを迎え入れて、マリヤが子を産むまで関係を持ちませんでした。
 彼は理解できなかったけれども、ただ神様の御心に従順になったのでした。私たちは、神様の御心が自分の考えと違うなら、それを認めなければなりません。自分の考え通りに神様が動いてくれなければ怒るというのは、神様を信じていることではありません。自分がよいと思う道が閉ざされた時、神様の御心はもっと深いと認めるのです。そうして、ヨセフは自分が考える以上の神様の恵みを信じました。
 ヨセフは神様の子を宿したマリヤを連れて、遠いベツレヘムへ行きましたが、その旅行こそ素敵な新婚旅行となり、生まれた子供を連れて、エジプトへ逃げた道も素晴らしい外国旅行となりました。理解できない道を喜んで歩んで行きましょう。座り込んだまま、自分の思いばかり言っている人がいるなら、その場から立ち上がって、御言葉に従順になりましょう。

マタイ1:18-25

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。

1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、

1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

エペソ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。

Ⅰペテロ2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

イザヤ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

ヨハネ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
イエスキリストが生まれた事情はとても難解で困難だったのですね。
聖書の内容は確かに荒唐無稽とも言えるような物ですが一応真理であり真実だと言うことを信じました。
その理由はやはりみことばの意外性や悔い改めが与えられた事かも知れません。

しかし聖書が真実だと信じてもやはり一連の荒唐無稽な超常現象じみた内容はピンと来ないが神のみわざが計り知れない物であると思ってからは違和感が無くなりました。

それにしても信仰の目が開かれなければキリスト教は実に胡散臭い印象すら覚えるような様々な信じがたい内容が多そうですね。私は正直最初の頃はそう言う印象しかなくいきおい取っつきやすい現代風のクリスチャン音楽などに傾倒し聖書を読もうとせず安易な物に縋り付いていました。

しかし真の苦難に遭ったときにそう言う物が何の益にもならない物であると知りました。真に救いになるのは聖書のみことばであると知りました。

人間からのお為ごかしやお世辞や気休めや安楽や快楽の勧めや自己義認や、自己信頼は人を救わないと知り、自己開発や啓発や何かの社会活動は基本的には人を救わないと思いました。

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メッセージのコピペ

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2007年11月11日「世の攻撃と神様の守り」マタイ2:13-23
              
序-ある人が世的な考えや価値観を捨てて、クリスチャンになろうと決心したその時から、世はその人を憎み、時には、周りの人々を通して、その人の信仰を攻撃します。私たちも、信仰の前進を目指すなら、同じ試みに出会います。イエス様がこの世にお生まれになるや否や、世の攻撃のために、遠いエジプトまで逃げなければなりませんでした。
 
Ⅰ-ヘロデの攻撃、霊的戦い-
 東方の博士たちの出現は、将来王となる方の存在をエルサレムの人々に知らせることになりました。マタイ2:2。それが、ヘロデ王の王位を不安にさせ、ヘロデは、幼子イエス様を殺そうとしました。そこで、またもヨセフの夢に御使いが現れて、ヘロデ王が殺そうとしているから、急いで遠いエジプトへ逃げなさい、と指示してくれました。13節。猜疑心の強いヘロデ王は、自分の王権を揺るがすようなことは、噂でもそのままにして置くことはできません。ヘロデ王は、病的になって捜索隊をベルレヘムへ派遣しました。そこで、イエス様の命を狙うヘロデの手から逃れるために、エジプトへ避難したのです。見つけることができなかったヘロデは、二歳以下の男の子をすべて殺してしまいました。16節。危うい所でした。
 こうして、イエス様は生まれるや否や、世の攻撃を受けるようになりました。この世はサタンの国です。サタンは、人々が罪を犯して神様との関係を絶つようにさせ、自分の手下にならせるのです。サタンは、人々の考えや感情に疑いや怒りを吹き込んで、その人々を支配しようとします。今日の箇所でも、ヘロデは、博士たちが消えたのを知ってひどく怒り、自分の地位を奪うと恐れ、結果イエス様を殺そうとしました。サタンが、ヘロデをそそのかして、イエス様を滅ぼそうとしたのです。
 なぜなら、イエス様が全世界の人々をサタンの勢力から解放するために、来られたからです。私たちは、人々が自分をなぜ憎むのか、なぜ人々が互いに争うのか、理解できない場合が多いものです。なぜなら、人々の後ろには、彼らをそそのかして、人を憎ませ、疑わせ、争わせ、破壊させるサタンがいるからです。サタンは、人々が互いに愛し合い、幸福に生きることを嫌います。ですから、どうにかして人々をそそのかし、互いに憎ませ、疑うようにさせて、攻撃させ、破壊させるようにするのです。神様の御言葉を聞いて、御霊の人となって新しい人生を生きようとする者がいるなら、サタンはその人に新しい人生を放棄させ、以前のように罪の人生を生きるようにさせようとするのです。そのために、サタンは誰かをそそのかして、怒らせ、攻撃するようにさせるのです。使徒14:2。
 イエス様が来られた目的は何でしょう。イエス様はなぜ十字架にかかられたのでしょうか。私たちをサタンの支配から解放し、イエス様と共に価値ある尊い存在として生きるようにするためです。ですから、サタンはヘロデをそそのかしたように、人々をそそのかして私たちを攻撃させるのです。人が神様の御言葉を聞いて、世の方式を捨てて、新しい人生を始めようとするなら、サタンは周囲にいる人々をそそのかして、攻撃するようにさせるのです。
 誰でも、この攻撃を避けることはできません。これは、霊的戦いなのです。この世は、サタンが嘘と謀略で支配している世です。イエス様が来られた目的は、この恐ろしい勢力から私たちを引き出して、新しい人生を生きるようにするためです。今日も、どれほど多くの人々が、霊的戦いが分からずに、日々の生活をしていることでしょう。恐ろしいのは、攻撃を受けることではありません。そそのかされてしまうことです。世の考えや価値観を捨てないと、サタンに使われてしまいます。ヘロデが猜疑心と権力欲を持っていたために、サタンに使われてしましました。サタンは、私たちの怒りや憎しみ、妬みや疑い、批判や不満の思いを煽り、そそのかし、道具として用いるのです。
 サタンはいつもクリスチャンを攻撃しようとして、その集まりである教会を攻撃します。聖徒たちがばらばらに一人になれば弱いからです。教会を狙うならば、その牧師を狙い、聖徒たちを攻撃します。私たちは、いつもサタンの攻撃にさらされています。一人一人の聖徒がサタンの巧妙なそそのかしの罠に出会っています。ですから、私たちは、互いに祈り合い、神様にしっかり繋がっていなければなりません。

Ⅱ-エジプトから呼び出された、世から引き出されて-
 イエス様を連れたその家族がどのようにしてエジプトで暮らせたか、と疑問を持つ人もいるでしょう。おそらく東方の博士たちから受けた黄金、乳香、没薬を売って暮らしていたのでしょう。博士たちがくれた贈り物は、エジプト避難の費用ともなりました。14-15節。こうして、神様は、彼らが分からないうちに、細かく彼らの生活を導いて下さいました。目に見えることは、秩序なく滅茶苦茶に起こっているようですが、実際には予め預言者を通して言われた御言葉が成就しているのです。
 やがてヘロデ王が死んで、エジプトから戻って来るように言われました。ことも、19-21節。これは、ホセア11:1預言されていたことです。イスラエルの民が神様の民として選び出された、とても重要な御言葉です。神様はなぜ、エジプトで奴隷生活していたイスラエルの民を呼び出されたのでしょう。彼らを神様の民とするためでした。長くエジプトで生活していたヨセフたちには、その地が安全だったかもしれませんが、神様はイエス様をエジプトから引き出して、反逆する群れの中に戻されました。その中で人として攻撃と試みを受け、私たちの救い主となって下さいました。このイエス様に出会って下さい。
 私たちも、神様の子どもとして、世から引き出されました。世の価値観で生きていた方が一時的な平安があるでしょう。しかし、罪に支配されてしまいます。私たちにとってのエジプトは何でしょう。人は、自分自身については中々問題を感じることができません。けれども、イエス様に会うと、自分が内面的な病に罹って、ひどい状態であることが分かるようになります。人の幸福は、どんな家に暮らすかどんな仕事に就くかにかかっているのではありません。その人の内面の人がどれほど健康かにかかっています。内面が病にかかっている人は、とても簡単に怒りを表します。他の人が自分と同じならなければ気がすまないのです。罪に簡単に負けてしまいます。
 しかし、内面が健康な人は、そのたましいに満足があり、感謝があります。そして、他の人を自分の気の済むようにさせようとはしません。あるがままにその人を受容しようとします。私たちは、イエス様に会って、たましいを取り扱っていただき、霊的に変えられることを切に願います。イエス様は、この私たちの病を十字架に負って下さいました。イザヤ53:4-5。
 今日人々はようやくたましいの問題、内面の病に関心を持つようになりました。様々なことを通して、心の病を知るようになるからです。私たちの体が病に罹るように、心も病にかかるのです。たましいが霊的病にかかると、自分自身を愛せないために人を愛することができず、人の愛も受けることもできなくて、ついにはすべてを破壊するようになります。
 私たちは、人となってこの悲惨な世に来て下さったイエス様と会わなければなりません。イエス様を自分の救い主と信じて、たましいの病を取り扱っていただくのです。私たちは、どんなに罪によって心の病にかかっていることでしょうか。どんなに多く怒り、人を妬み、憎んだことでしょうか。どれほど肉の思いを満足させようとして来たでしょうか。
 私たちは、エジプトのような世から、神の民、神の子として呼び出され、労苦しながらも生きるようにされました。神様は、神の子どもたちに御霊によって生きることを教えて下さいました。私たちが御霊によって生きる時、世の人々は、どうして不安な状況であのように平安なのか、と言うでしょう。

Ⅲ-活動される神様-
 今日の御言葉を見て下さい。悪い者の攻撃から逃れて生きるために、誰が忙しく活動しましたか。ヨセフでしたか。アリヤでしたか。いいえ、神様ご自身でした。むしろ、ヨセフや、マリヤは何も知らないで、知らされるまま動いていたのです。ですから私たちは、神様が教えて下さることに従って、生きるようにしなければなりません。今日、聖書を通して神様は私たちに語りかけておられます。心から私たちを心配して下さるのは、神様です。ヨセフは神様の導きに従って動いただけです。神様が下さるサインに敏感になるようにして、導きに従いましょう。
 私たちは、世においてサタンの攻撃を受けています。サタンは私たちの血気をそそのかし、疑いの思いを刺激して互いに戦うようにさせ、高慢を煽ります。ですから、イエス様が世に来られたのです。サタンの勢力に縛られている私たちを、十字架の力で解放させ、新しい人生を生きるようにするためにです。サタンはこれを知って、ヘロデをそそのかしてイエス様を殺させようとしました。サタンは世の人々をそそのかして、私たちを無力にしようとします。私たちから、信仰を奪おうとします。
 神様は、この混乱した世から私たちを呼び出した理由は、神様の子どもとしての姿を見せることでした。罪から解放された姿がどんなに美しいかを見せてあげなければなりません。コロサイ3:8-10。

マタイ2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」

2:14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、

2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。

2:16 その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。

2:17 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。

2:18 「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」

2:19 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現われて、言った。

2:20 「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」

2:21 そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地にはいった。

2:22 しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。

2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。

使徒14:2 しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた。

ホセア11:1 イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。

イザヤ53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

コロサイ3:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

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2007年9月2日「正しい者の道を行きなさい」詩篇37:27-40
              
序-世に生まれて来た人には、人生において一つの宿題があります。世に生きながら、自分の価値を取り戻すことです。人は、世に生まれた時から、神様の前に罪人です。そして、私たち人間はそのまま生きれば、必ず恐ろしい裁きを受ける他ありません。これをこのまま教えてくれる人は、私たちは、まるで何の説明もなくこの世界に投げ込まれたようなものです。なぜここに生きてなければならないのか、後にはどのようになるのか、どのように生きていけばいいのか、誰も説明してくれません。それは、私たちが自分の人生において答えを探さなければなりません。聖書がそれを教えてくれています。

Ⅰ-悪を捨てて善を行ないなさい-27
 神様は、私たち思いの中に、それを探す糸口を下さいました。世において正しい道を歩んでいくという願いです。父母は子供が間違った道に逸れないで、正しい道を生きることを切望します。私たちを造られた神様は、私たちが正しい道を行くことを願っておられます。そのために要求されたことは、「悪を離れて善を行なう」という生き方です。27節。神様がすべての者に与えられた命令があります。それは、悪を憎んで悪を断つことです。正しい道を歩んで行くことです。Ⅰペテロ3:11。
 でも、人々の心の中に、何が善なるものか、何か悪いものであるかを区別することができる力があるのでしょうか。世間的な基準で正しいか悪いかということぐらいは、知っているでしょう。しかし、何が絶対的善であり、何が絶対的悪であるかを知ることは出来ません。聖書を通して、自分の判断でもなければ、社会の判断でもない、神様の判断が与えられます。価値観と善悪の判断が混沌としている現代において、なおさら聖書の価値観、神様の御旨に立たなければなりません。
 しかし、次に、重要な問題が台頭しています。では聖書を通して、私たちに善と悪についての認識ができたなら、その通り行動する力があるのか、という問題です。「悪を離れて善を行なえ」と命令されているのですから、私たちはそのままできるのか、ということです。私たちは、そのまますることはできません。すなわち、知ることは知っても、行なう力がないことが、人間の致命的な問題なのです。基本的に、人は何が正しいかについて知る力はあります。しかし、罪を好む心があって、罪に流れることを喜ぶ悪い本性があるのです。ローマ7:18-21。ですから、善を行なおうと腹を決めて、行なおうと努力してみると、思いのままにならないということを知るようになります。自分の中に善を行なう力がない、ということを悟るのです。酒やタバコの中毒から抜け出ようとする人みたいです。
 まさに、人が神様を求める契機がここから始まります。私たちが、何が善であるかを知っても、行なう力がないことを悟るところから、人は神様の必要性を感じ始めるのです。人ははじめ、自分が善を行なわないのは修養が足りないせいだ、と考えます。しかし、修養の問題ではありません。実際に悪を捨ててしまおうとする時、心の中では生き物のような欲望がいて、自分の意思とは別に、すべてを欲望の衝動のまま行なうようにさせるのです。人は、自分の中にいる悪い衝動に打ち勝つことができないのです。これが、人の致命的な病なのです。これが罪だ、というのです。このために、神様の敵となり、永遠の命を得ることができないのです。これを「死に至る病」と呼ぶのです。
 ですから、本当に正直な人は、日常的に生きて行くことでは、到底治すことができない心の病があることを認めるのです。そして、自分の中にある欲望を滅ぼす真理を求めて、聖書に至るようになるのです。イエス様の十字架による救いに行き着くのです。使徒4:12。

Ⅱ-悪者の結果を見なさい-32-33,37-38
 私たちは、悪者が世で思うままに権勢を振るい、栄華をほしいままにしているように思います。ところが、現実には多くのことが悪者の思うままになっていないのです。37-38節。驚くことは、世において悪者に対する裁きが起きているという事実です。悪者は、思うがまま生きて自信満々だったとしても、思いもよらないことを通してそのすべての罪があらわになり、突然の裁きを受けることになります。一方、神様の前に純粋に正直に生きようと労苦している正しい者が、損を見て、悪者の害を受けて苦しんでいるだけに見えます。しかし、悪者が勝利を収めることはできません。なぜなら、彼らが戦っていた本当の相手は、神様だからです。32-33節。悪者は、この世で短い間だけ繁茂する、根の深くない木のようなものです。いつの間にか消えてしまうのです。35-36節,箴言24:19-20。
 悪者は、自分の欲心を満たすために生きている人です。そのまま自分の欲心に従っていても、満足できないので、正しい者に害を及ぼそうとします。悪者は正しい者の存在が気に入らないために、除こうとするのです。しかし、結果は悪者の思いとは反対のことが起こって行くのです。むしろ、悪者が裁かれ、滅びることが多いのです。代表的な例が、ペルシャ帝国にいたユダヤ人モルデカイと大臣ハマンでした。ハマンがモルデカイが気に入らず、ユダヤ人全体を滅ぼそうと画策しましたが、結局はユダヤ人は助けられ、モルデカイは出世し、悪者ハマンは滅ぼされてしまいました。ハマンは、見えない力が干渉していたことを知らなかったのです。
 ですから、聖書は、悪者の最後を見なさい、と言われるのです。ピリピ3:19,箴言24:20。今日でも、どれほどの悪者が没落して行くことでしょうか。ですから、悪者から離れなさい、と神様は命じられるのです。27節。

Ⅲ-神様の道を守りなさい-30-31,34
 人が正しい者に属しようとするなら、必要なことが二つあります。まず、イエス様を信じて神様の子供になることです。神様の民であれば、御言葉通りにすることができるようになります。そして二つ目は、持続的に主の道に従って生きることです。真実な信仰を持つためには、世の権利を放棄し、神様の御言葉の中で生きて行く、神様の子供として生まれなければなりません。自分の考えを信じたり、世の人々の言うことを信じるのでなく、ただひたすら神様の御言葉だけ信じるのです。
 そして、イエス様を信じて神様の民となった後には、持続的に神様の御言葉だけに従って、歩んで行かなければなりません。34節。「その道を守れ」とは、どんな場合でも、神様の御言葉から離れないで、継続的に御言葉を守る人生を行きなさい、ということです。しかし、神様の御言葉に従って歩もうとすれば、しばしば誘惑に襲われます。世的な方法で行なうのが多くのお金を手に入れるように思え、信仰的に生きようとすると融通性が利かないように見えます。御言葉によって生きるなら、世で成功できないように見えます。でも、神様の御言葉に信頼するのです。30-31節。
 口には神様の知恵があり、舌は公義を述べると言います。神様の御言葉に生きていなければならない、というのです。罪を犯してしまうのは、一瞬のことです。ですから、普段いくら神様の御言葉をよく知っていたとしても、「その道を守る」ことができなければ、罪の誘惑に打ち勝つことができないのです。御言葉の道を歩んで行こうとするなら、価値観や生活習慣まで変えなければなりません。私たちは、徹底的に心と人格を神様の御言葉で武装していれば、罪が芽を出さないのです。ですから、使徒パウロは、「義人は信仰によって生きる。」と言いました。ローマ1:17。私たちは、信仰によって義とされました。であるならば、その後の生活もただ信仰で生きなければなりません。
 これからは、どんなことでも信仰でやり遂げられることを願います。仕事の問題も子供の問題でも何でも、信仰で神様に委ねて下さい。神様が守って、導いて下さるなら、問題を解決して下さると信じなければなりません。信仰の分量だけ、もっと大きな神様の祝福を受けるようになります。

Ⅳ-正しい者に下さる恵み-28-29,35-36,39-40
 神様は、私たちに恵みを下さる準備しておられます。自分に恵みが備えられていることが分からないことが、問題です。神様は正しい者に恵みを下さるのです。それを聖書では、「正しい者は地を受け継ごう」と言っているのです。28-29節。地と言っても、この世の土地はなくなるものです。私たちには、永遠の地、天国があります。永遠になくならない地という意味です。ですから、永遠の御国に投資しなければなりません。その方法が、すなわち義に生きること、正しい道を生きることです。神様は、正しく生きる者に、この世おいても祝福を与えて下さいます。
 神様が守って下さいます。39-40節。神様は、正しい者を困難な所から救い出し、信仰で生きることが出来るように守って下さいます。一つの困難があれば、その後に大きな恵みを備え、望みを持たせて下さいます。ですから、お一人おひとりが、信仰で終わりまで忍耐する聖徒となって、信仰によって正しい者の道を進まれる人生となることを願います。Ⅰペテロ3:11,ローマ1:17。


詩篇37:27-40


37:27 悪を離れて善を行ない、いつまでも住みつくようにせよ。
37:28 まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれるが、悪者どもの子孫は断ち切られる。
37:29 正しい者は地を受け継ごう。そして、そこにいつまでも住みつこう。
37:30 正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を告げる。
37:31 心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない。
37:32 悪者は正しい者を待ち伏せ、彼を殺そうとする。
37:33 主は、彼をその者の手の中に捨ておかず、彼がさばかれるとき、彼を罪に定められない。
37:34 主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。
37:35 私は悪者の横暴を見た。彼は、おい茂る野生の木のようにはびこっていた。
37:36 だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。私は彼を捜し求めたが見つからなかった。
37:37 全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には子孫ができる。
37:38 しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。悪者どもの子孫は断ち切られる。
37:39 正しい者の救いは、主から来る。苦難のときの彼らのとりでは主である。
37:40 主は彼らを助け、彼らを解き放たれる。主は、悪者どもから彼らを解き放ち、彼らを救われる。彼らが主に身を避けるからだ。


ローマ7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

使徒4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

Ⅰペテロ3:11 悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。

ピリピ3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

箴言24:19 悪を行なう者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。
24:20 悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。

ローマ1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

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メッセージのコピペです。

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2007年9月23日「悪者の前で黙っている」詩篇39:1-13
              
序-人が、人前で一言も言えない場合があります。一方的に罵られている時、口を開けば罠にかかってしまう場合です。今日の詩篇では、聖徒が悪者の前で口をつぐんで、黙っています。彼が黙っているのは、悪者が正しいからでも、弁護士がいるからでもなく、自分が怒りで満ちているために、口を開けば、悪い言葉を言ってしまうからです。これが、どんなに幸いなことでしょうか。

Ⅰ-悪者の批判の前で黙っている、口をつぐむ理由-1-3
 私たちの心は、誰かから簡単に刺激を受けます。辱めを受けたり、腹が立つことを言われたりすれば、瞬間的に心に怒りが沸きあがります。そうなったら、誰が傷を受けますか。まず、怒りが沸きあがったその自分の心が傷を受けています。そして、次にそれを人に向けてぶちまけるなら、聞く人の心を傷付けるようになります。1節。詩を書いている人は、すでに様々な困難を経験している人です。そうでなければ、他の人の前で、このように冷静にいることはできません。そういう経験がないと、人は心に浮かんだ怒りを、そのままぶちまけてしまうからです。
 今この人は、自分を憎んで妬む人から、悪意に満ちた非難を聞いているようです。普段から彼をよく思っていない人が、何か気分が悪いことが生じた時、たちまち彼に怒りの感情を爆発させるのです。その非難に怒って、反論したら、どんなに反発を受けるかわかりません。あるいは、彼を罠に陥れるために、表面では友好的なふりをしながら、言葉尻を捕らえて、嘘を言われているようです。彼等の言葉を聞くままにするなら、彼らが非難することを認めたことになります。さりとて、反論するなら、罠に陥ることにもなるでしょう。
 私たちは、こいいう経験をイエス様がして下さったことを知ることが大事でしょう。イエス様が世におられた時、パリサイ人や律法学者から罠をしかけられ、悪意に満ちた質問と罵りの攻撃を多く受けました。ある場合には、イエス様をおだて上げて友好的に対しても、結局はイエス様の言葉尻を捉えて法廷に訴える口実をつかもうとしたのです。
 今朝の詩篇の作者は、悪者が言うのを聞いた時、心の中には熱い怒りが込み上げて来たと言っています。2-3節。悪者が感情をもって怒りをあらわにしながら、言葉を発する場合を考えてみましょう。「どうしてこの人は私にこのように怒りを発しながら、悪い言葉を言うのだろう」と。サタンがその人を使っているのです。ですから、神の民である聖徒は、怒りをあらわにする人々に対して、知恵をもって注意深く対処しなければなりません。
 まずよくある対処は、自分の傷を少しでも少なくしようと、自分も怒りをあらわにして戦うことです。確かに受ける傷は少なくなります。しかし、それでは自分もその人と同じことをしていることになります。相手の人格を無視して、踏みにじることになります。自分の気持ちは治まるが、相手に傷を受けさせます。背後で暗躍するサタンを喜ばせるだけです。
 別な対処は、自分が一方的に受けるだけにして、争いを終わりにすることです。聖徒は、相手と戦うことが全く意味がないと考えています。相手はとても興奮して、感情をコントロールできないために、何を言っても余計に怒りをあおることは明らかだからです。受けた傷は、神様に持って行って、癒していただくのです。この詩篇が、まさにそのことなのです。これが、もっとも知恵ある方法です。
 怒りの言葉を消すことができるのは、とても知恵深い善良な言葉です。自分が被害者の場合、中々そのような言葉を考えられないかもしれません。また、同じような言葉で対応したら、相手はさらに感情的になって、怒りを納めることがなく、かえって怒りを煽ってしまうかもしれません。ですから、口をつぐんでがまんすることが最上の方策です。
 しかし、一旦自分が受けた心の傷は、なかなか直りません。痛みは残ります。それで、「痛みは激しくなった。心は熱くなった」と言うのです。3節。一方、悪者の方はそのような悪い言葉を言ったことは忘れてしまいます。その時心の思いを吐き出してしまったので、残らないのです。傷は請けていません。和解し易いとも言えるでしょう。神様が、私たちの口を塞いで、その思いを出さないようにして下さることは、幸いです。
 ですから、私たちが受けなければならない訓練は何かと言えば、悪者の前で黙って口を開かない訓練です。イエス様に似た者となろうとするなら、イエス様に倣うことです。イエス様の弟子の基本的訓練です。イエス様の十字架で救われた尊い存在である私たちが、もし私たちが悪に悪をもって返すならば、彼らと同じ人になってしまいます。絶対に、悪者と同じになって、怒りをぶつけてはなりません。
 だだし、受けた私たちの傷の癒しには時間がかかります。自分の思いを分かち合える人と会って話したり、祈って神様に聞いていただいたりすれば、やがて消えて行きます。そして、再びその人に会っても、憎む思いが浮かぶことなく、聖徒としての品性が整って来ます。
 怒りをぶつけられよりもっと恐ろしいことは、噂の罠にかかることです。汚名を着せられることです。まず、誤解を受けることは、はじめからしないことが重要です。悪者は、聖徒たちの行動をよく理解できないと、悪い方に考えることが多いからです。そこに、サタンが付け入るからです。悪い噂の攻撃を受けた場合、「悪者の口を閉ざして下さい。他の人々がそれに騙されないようにして下さい」と祈るほかありません。神様が、他の人々を通して、汚名を脱がして下さるでしょう。やがて、人々も事実を知るようになります。
 人が言葉で試みて来た時に勝つ方法は、真理で武装する他に道はありません。人の言葉に対して、神様の言葉で対処するなら、必ず勝利します。エペソ6:11,14。どんなに窮地に追い込まれても、御霊様が最適の言葉を言わせて下さり、相手を抑えて下さるからです。イエス様は、真理で武装されていたために、律法学者たちがどんなに攻撃しても、いつもかれらが口をつぐんでしまうような答えをされました。イエス様は、聖書に精通しておられ、御霊による力ある答えをされたので、悪者たちの口を封じることができたのです。難しい人に会ったり、試みの言葉に出会ったりした時には、祈って御霊様に助けていただくことが必要です。

Ⅱ-限りある大切な人生、神様の助けを求めて生きよ-4--13
 この詩人は、悪者の話をしながら、急に話の方向を変えています。私たちの人生がどれほど短くて、空しいものかについて話しています。4節。なぜここで、急に人生の終わりや儚さが出てくるのでしょう。詩人は、悪者に怒りをぶつけられて、濡れ衣を着せられて、悔しくて仕返ししようと考えていました。しかし、報復しようと罵りや怒りをぶつけようと思った時、そんなことをしたら、自分の人生がどんなに勿体無い、残念なことになるかを、神様の御前に悟るようになったのです。
 私たちの人生は短いのです。人を恨んで、復讐しながら、人生を過ごしたなら、私たちの人生は何と空しく、無益なものとなるでしょうか。5節。誰かを恨んで、一生を過ごす人がいます。他の人に怒りをぶつけてばかりで、喜びがありません。その品性は歪み、人生をむなしくしてしまいます。せっかくの人生、何と勿体無いことでしょうか!本当に残念なことです。私たちの人生が、誰かを憎んで、怒りをぶつけて生きるものとなったら、復讐心に心をすり減らし、争いに時間を費やし、その人生は短くて空しいものになってしまいます。私たちをののしる人を相手しているなら、本当に大切なことは一つもできなくなります。自分のプライドを満足させようと動き回っても、自分が蓄えた物が誰の物になるか、分からないで世を去るようになるのです。6節,ルカ12:20。
 私たちは、この世で長く生きることはできません。私たちが世にいる間願うことは、何でしょうか。平安と喜びをもって限られた人生を有意義に価値あるように生きることです。13節。ですから、悪者と争うような罪から救って下さるように、祈らなければなりません。8節。私たちは、子羊なるイエス様の血をもって罪の洗いを受けました。イエス様が身代わりに十字架にかかって、私たちの罪を赦して下さいました。人を憎み、怒りをぶつけて生きる空しい罪の人生でなく、意義深く、美しい人生として生きるためには、悪者を直接相手しては駄目です。神様に委ねることです。そうすれば、人を恨むことなく、愛することができるようになります。そうて、ますます神様の赦しを受ける者に相応しくなるのです。7-8節。
 ですから、悪者から罵られる時、神様を覚えてまず受け止めることです。9節。私たちが神様の御前に犯した罪の大きさを思えば、こんなものは当然だからです。でも、私たちが神様を覚えて謙遜に罵りを受けるなら、神様は喜んで私たちを受け入れて下さいます。10節。悪者が私たちを責めるのを、神様の叱責として受け止め涙を流す時、神様はその姿を尊いものと見て下さいます。そして、私の罪を赦し、癒して下さいます。11-13節。
 ここで、詩人は神様の御前では「旅人、寄留者」だと言っています。12節。私たちはこの世から去ります。この世で永遠に生きることはできません。でも私たちの家は神様の御前に用意されています。ヨハネ14:2。ですから、今の時を、人を恨まず、悪者に敵対せず、ひたすらイエス様の救いに感謝して、悔い改めて、神様の御旨を求めて生きるのです。神様は天国の恵みをこの世で享受させて下さいます。Ⅰテサロニケ5:15,Ⅰペテロ3:9。

詩篇39篇

指揮者エドトンのために。ダビデの賛歌

39:1 私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。

39:2 私はひたすら沈黙を守った。よいことにさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。

39:3 私の心は私のうちで熱くなり、私がうめく間に、火は燃え上がった。そこで私は自分の舌で、こう言った。

39:4 主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。

39:5 ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラ

39:6 まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。

39:7 主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。

39:8 私のすべてのそむきの罪から私を助け出してください。私を愚か者のそしりとしないでください。

39:9 私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです。

39:10 どうか、あなたのむちを私から取り除いてください。あなたの手に打たれて、私は衰え果てました。

39:11 あなたは、不義を責めて人を懲らしめ、その人の望むものを、しみが食うように、なくしてしまわれます。まことに、人はみな、むなしいものです。セラ

39:12 私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。

39:13 私を見つめないでください。私が去って、いなくなる前に、私がほがらかになれるように。

エペソ6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

ルカ12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

ヨハネ14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

Ⅰペテロ3:9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

Ⅰテサロニケ5:15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。

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このサイトのメッセージはまるで集スト被害者への処方箋みたいですね。悪人は創価の事を彷彿とさせます。この教会には意外と被害者が多いのかも知れません。憶測ですが。

しかし悪質な者からの責め苛みすらも、神様よりの叱責だと思わねばいけませんか。随分と厳しい物ですね。
私は確かに頑なですがこれ以上はどうやって打ち砕かれたらいいかと思うと途方に暮れます。
自己卑下は不要だと言うことだと思いますが存在自体が常にきつさを覚えるような状況に思います。
何時になれば安息に入れるだろうか。

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メッセージ集のコピペです

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2007年8月26日「悪者の道と正しい者の道」詩篇37:12-26
              
序-世の人々が考える正しい者とは、決まりを守り、人のために特別な犠牲を払う人です。反対に、自分の利益のために法を犯したり、他の人に損害を及ぼしたりする人を悪者と言います。その他大勢の人々は、どちらでもない普通の人という見方です。しかし、聖書が言うのは、普通の人という概念がなく、悪者か正しい者か、そのどちらかということです。

Ⅰ-悪者の考え方-12-15
 人々が悪者だと考える人々は、どのような人でしょうか。意地悪で利己的で、人のこと配慮せず、妨害する人です。自分の利益のためなら、人に損害を及ぼすのもためらわない、良心の無い人を言います。しかし、聖書はそのような人々を悪者と指してはいません。誰でも、神様を信じないなら、その人は悪者になって、悪者の道を進んで行くのです。私たちが知らなければならないことは、人が神様を信じないなら、どのような考えをするようになり、どのような道を行くようになるかということです。
 イエス様を信じない人は、この世を生きて行く目的が自分の欲求を満たすためだということです。ピリピ3:18-19。他の人のことも、自分の欲求を満たすための手段と考えます。自分の欲求を満たすために、お金や権力を持とうと努力する人です。欲望のために争いを引き起こすのです。ヤコブ4:1。そのようにする人は、世の中でも悪者と呼ばれます。
 反対に、人に被害を与えない中で最大限自分の野望を実現する人を、世間では成功した人と言います。悪者とは言いません。善を行なうにしても、自分の満足や人の称賛を聞くために行なうことがあります。マタイ6:1-2。勿論それは世では称賛を受けるのですが、聖書は悪者と定義しています。自分の欲望を満足させるためにしているからです。
 12節。悪者は、自分の欲望だけ追及して行けばいいのに、なぜ正しい者を憎み、害を与えようと企むのでしょうか。正しい者が少しだけ妥協してくれればいいのにと思うのですが、そのようにしないのを見ると、怒り、憎むのです。Ⅰペテロ4:4。職場でも、母親の集まりでも、自分たちと一緒に人の噂話、悪口を言えばいいのに、礼拝もサボればいいのに、酒も一緒に飲めばいいのにと思うのに、しないので気に入らないのです。
 ですから、悪者は、正しい者に対して、はじめは好意的であったとしても、次第に気に入らなくなって、攻撃して来るようになります。なぜなら、聖徒たちが、欲望を満たそうとする生活を罪と見なし、嘘や妥協を拒むからです。悪者は、そういうクリスチャンの近くにいると、どうにしても妨害し、攻撃するようになるのです。14節。これは、当然のことです。悪者が見ると、クリスチャンとはまるで水と油のように交じり合わない人だからです。
 すべてを見ておられ、知っておられる神様は、悪者をどうされるのでしょう。13節。神様は、そのような考えをしている悪者を笑っておられます。なぜなら、神様の民を妨害するのは愚かなことだからです。神様に逆らい、滅びに向かうことだからです。欲望が彼らの神です。そのままでは、やがて滅びてしまうのでしょう。15節。悪者が生き残る唯一の方法は、自分自身を変えて、神様に立ち返ることです。ピリピ3:19。

Ⅱ-正しい者の道-16-17
 では、正しい者は、どのような人でしょう。聖書が言う「正しい者」とは、信仰のために欲心のまま生きようとしない人です。イエス様によって救われた者は、残された地上の生涯を欲望のためでなく、神のみこころのために過ごすようになります。Ⅰペテロ4:1-2,ガラテヤ5:16。聖霊によって霊的造り変えに導かれ、聖化の道を歩んで行くなら、自分の欲望に満足させることが生きる目的でなくなるのからです。
 ところが、クリスチャンといえども、神様を知らない人々と同じような欲求があります。彼らと同じ価値観で人生を生きて行くなら、私たちの人生が、自分の欲求を満たすだけの人生だとしたら、どうなるのでしょうか。満たされない空しさが生じます。神様の民の人生は、正しい価値観と徳性を身に付け、人々を励まして、祝福する人生とならなければなりません。
 ただし、正しい者の道は狭い道なので、この世で様々な痛みと制約を受けるようになります。マタイ7:14。時折、生き方が揺れ動くのです。まず一つ目、自分の欲望のまま生きることができないこと自体が、大きな痛みであり、混乱となります。世の人々は、自分の欲望に従って歩む、広い道を進みます。マタイ7:13。しかし、クリスチャンは、矯正と訓練の狭い道を歩みです。それが、救いの道、天国への道です。
 二つ目、私たちには二重の負担があります。世の人々と同じく世の中を生き抜かなければならないと同時に、そこで信仰の生活も貫かなければならないからです。世の人は、何をするにしても思いのまま追求すればいいので、社会生活を有利にできます。しかし、クリスチャンには、信仰があるがゆえに、心のまま世のことだけに集中することはできません。
 そして三つ目、世の人々から憎まれ、攻撃されます。彼等は、クリスチャンが良くなることに危険性を感じるために、妨害をするのです。気に入らないと思い、妬みを持つので、いじめるのです。ですから、神の民が生きるには、神様の助けがなければなりません。
 しかし、神様は絶対に私たち信じる者を見捨てないで、道を備えておいて下さいます。16-17節。数字的には悪者の方がずっと豊かなのですが、持っているものだけで全部です。正しい者の所有は少ないですが、プラスアルファがあります。それは、目に見えない神様の助けです。目に見えない無尽蔵の力があるのです。ですから、神様は私たちにその無限の神様の御力を受けるように、訓練をさせるのです。これが、信仰です。私たちは、今や権力や財産や食べ物を信じて生きようとはしません。「救い主イエス様の御名によって生きる」のです。使徒3:6。自分には何もなくても、神様の御力は無限です。イエス様を主として、信じて、祈って行くのです。
 私たちにはプラスアルファの力があります。ですから、私たちがしばしば心配したり、恐れたりすることは問題です。悩むことが何であれ、祈って神様に申し上げることが大切です。特に人生の大事な決定について、自分が決定を下すのでなくて、神様が下さるようにしなければなりません。

Ⅲ-悪者の未来と正しい者の未来-18-26
 聖書は、悪者と正しい者の将来について、教えています。悪者の道は、神様と敵対する道です。ですから、絶対によくなることはできません。20節。欲望を神として、自分の欲望のために生きる人には、神様の恵みはくだされません。ですから、その道は滅びの道です。イエス様は言われました。「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。」マタイ7:13。悪者の道は、欲望を燃やしますが、すぐに燃え尽きて、煙のように消え失せるのです。
 一方、正しい者の将来は、どうでしょう。18-19節。「全き人の日々を知っておられる」とは、正しい者の生涯を見守り、支えられるという意味です。「彼らのゆずりは永遠の残る」とは、繁栄と安全という意味です。悪者が繁栄を味わうように見え、正しい者が彼らによって苦しんでいるようでも、結局は神様の御旨に従って生きようとする人が生き残るのです。神様は正しい者の日を準備しておかれます。その時には、聖霊の力を注いで下さり、私たちの力の数十倍、数百倍の力ある人生を生きるようにさせます。ですから、患難の日も軽んじないで下さい。備えの時として過ごすのです。私たちは、普段にもっと祈りをささげ、もっと御言葉を学び、信仰に生きなければなりません。そうすれば、栄光の時が来ます。
 悪者は、お金で人々を買収し、力を集めるのです。21節。後にはお金を借りてまでその勢力を維持しようとします。結局力もなくなって、一度に没落することになります。しかし、正しい者は、徐々に力が強くなって来ます。霊的豊かさがあります。神様がその人の力となって下さるからです。そして、他の人に施すようになるのです。ですから、神様を信じないで悪者のように生きる方が有利なように見えても、悪者は決して幸福にはなれないのです。
 勿論、聖徒たちも、倒れることもあれば、転ぶこともあります。しかし、その道は神様が定められた道であり、神様が喜ばれる道です。ですから、その道を歩んで行くなら、恵みを受けることができるのです。支えられます。22-24。自分の罪のために十字架にかかって下さったイエス様を信じて行く道が救いの道です。この他に確かな道はありません。ヨハネ14:6。
 残念なことは、多くの人々がこの道を行くのをためらうことです。そして、横道に逸れて行く人々が多いのです。マタイ7:13-14。詩人は、正しい者が神様から捨てられることはないし、祈りを聞かれないこともない、と宣言しています。神様は、必ず正しい者の道に恵みを下さいます。その子孫にも恵みを与えて下さいます。25-26節。ですから、神様が自分の道を導いて下さるなら、子供の道も導いて下さると信じるのです。これを信じなければ、どうして子供を信仰で育てることができるでしょうか。本当に恵みの人生を願うなら、自分の欲心のまま生きてはなりません。クリスチャンの持つべき欲求は、救い主イエス様を信じて、主の道を行くことです。自分の人生の価値を取り戻し、神様の恵みを多く受けて、美しい徳性を身につけて、実を実らせる創造的人生を進むのです。箴言10:29-30節。
 
詩篇37篇

37:12 悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。

37:13 主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。

37:14 悪者どもは剣を抜き、弓を張った。悩む者、貧しい者を打ち倒し、行ないの正しい者を切り殺すために。

37:15 彼らの剣はおのれの心臓を貫き、彼らの弓は折られよう。

37:16 ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。

37:17 なぜなら、悪者の腕は折られるが、主は正しい者をささえられるからだ。

37:18 主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。

37:19 彼らはわざわいのときにも恥を見ず、ききんのときにも満ち足りよう。

37:20 しかし悪者は滅びる。主の敵は牧場の青草のようだ。彼らは消えうせる。煙となって消えうせる。

37:21 悪者は、借りるが返さない。正しい者は、情け深くて人に施す。

37:22 主に祝福された者は地を受け継ごう。しかし主にのろわれた者は断ち切られる。

37:23 人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。

37:24 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

37:25 私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。

37:26 その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。

ピリピ3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

マタイ6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

Ⅰペテロ4:1 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。
4:2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
4:3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。
4:4 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。

ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

ヤコブ4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。

マタイ7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

使徒3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、

Ⅰペテロ5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

マタイ7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

箴言10:29 主の道は、潔白な人にはとりでであり、不法を行なう者には滅びである。
10:30 正しい者はいつまでも動かされない。しかし悪者はこの地に住みつくことができない。

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2007年8月5日「不義の時代の中で」詩篇35:17-28
              
序-神の民は、神様がこの世を支配しておられることを信じています。しかし、現状だけを慌てて見るならば、神様が支配を放棄されて、悪者に委ねられたかのように思えるのです。この世は、不義が支配し、悪者たちが栄華を誇っているからです。サウルがイスラエルの王として支配していた時が、その時代です。35篇の後半は、このような不義の勢力がイスラエルを支配した時、苦しみの中で、ダビデが神様にささげた祈りです。

Ⅰ-二つの不義の勢力-
 世の中で、自分たちが不義の勢力だと騒ぎ立てる者は、一人もいません。そのために、ダビデは長い間サウルが不義の勢力だとは知りませんでした。一生懸命忠実に仕えました。酷いに会っても、何か一次的な誤解でそうしていると思っていました。しかし、ある時からサウルが不義勢力だということに明らかに気付きました。サウル王が、ダビデを匿ってくれたノブの祭司長たちを全員殺してしまった時です。Ⅰサムエル22:6-23。そして、その苦しい逃亡生活の中で、祈りをささげました。17節。私たちも、世にあって生きる時、不義の勢力に苦しめられる時があります。
 神様の民にとって、二種類の不義の勢力がいます。一つは、神様を知らない悪い者が勢力を振るうことです。不義の者が王や統治者となる時、世は不義の世となる他はありません。たとえば、イスラエルをアハブ王が支配した時です。王女イゼベルによって神の預言者は皆、捕まえられ、投獄され、殺されてしまいました。また、初代教会の時代、皇帝崇拝を強要するローマが、悪の勢力でした。
 そして、そのように明らかな悪の勢力に比べて、もっと区別が難しい不義の勢力がいます。それが、サウルのような人でした。重要なことは、サウルがはじめからそのような悪い人ではなかったということです。本格的に悪くなったのは、アマレク事件の時からです。Ⅰサムエル15:1-23。この事件によって、神様はサウルを止めて、ダビデを王とすることに決めたのです。サウルは神様から捨てられたと知った瞬間から悪くなり始めました。のちには、神様の祭司長たち85人を殺してしまい、最後には、占いをしてもらうまで堕ちてしまいました。始めはそれほど悪い人のようではないのですが、後で力をふるい、傲慢な人に変わることがあります。変わったというより、単にそれまでの間は、そのような悪くなる機会がなかっただけなのです。私たちは、このような人に出会い、葛藤するのです。
 神様の御言葉によって霊的に新しく生まれ変わった人は、一次的な誤解、考えの違いがあるにしても、このような敵になることはありません。問題は、御言葉によって全く変化できなかった人のことです。霊的に生まれ変わらなかった者も、恵みの中にいる時は信者とほとんど同じです。恵みの外に飛び出して行った、その時から本格的なサタンの手下になるのです。その代表的な例が、イスカリオテのユダです。イエス様の弟子でしたが、最後まで悔い改めることなく、イエス様を銀30枚で売ってしまいました。その時から彼の心にサタンが入り、本格的にサタンの僕になったのです。
 イエス様が、天国の話で毒麦の譬えを話されたことがあります。マタイ13:24-40。良い種を畑に蒔いたのに、寝ている間に敵が毒麦を蒔いて行ったという話です。純粋な神様の御言葉だけ植えつければ、皆霊的に生まれ変わって、神の民となるのですが、サタンが偽りの真理を植えつけて、変わらないようにさせながら、神の民と思わせておくのです。ところが、イエス様は、毒麦を抜くな、と言われました。はじめは、良い麦と毒麦の区別が付かないからです。実を実らして、本当に真実な聖徒となる場合も多いのです。ですから、人を外見だけで、良い麦か毒麦かうかつに判断しては駄目です。神様の国が完成されるまで、毒麦は存在するのです。
 しかし、毒麦でも恵みの中にある時には、普通に過ごします。でも、恵みが心の中になくなる時、その時から本格的にサタンの僕となるのです。ですから、教会はいつも神様の恵みで溢れて、御霊の働きが豊かにされなければなりません。毒麦であろうと、一緒に恵みの中で育って行くうちに、恵みで溢れて毒麦が良い麦に変わるかもしれません。

Ⅱ-神様が不義の勢力をそのままにされる理由-
 ですから、不義の勢力をそのままにして置かれるのは、神様の喜ばしい御心ではありません。それにもかかわらず、神様が時々に不義の勢力に委ねることがあります。その理由は何でしょう。その一つは、この世に対する一種の裁きです。この世の不義が酷くなるなら、神様はこの世を裁くために、悪い者が権力を振るうようにさせる場合もあります。Ⅱペテロ2:8-9。
 二つ目は、人々が正義を愛しないで不義を好む時、神様は人々を不義の勢力に付けてしまうことがあります。人は不義を憎んで、善を愛さなければなりません。積極的に正義を追求しなければなりません。それなのに、正義に対して無関心な時、その時不義の芽が出て来るのです。
 そして、神様が不義を赦される最も重要な理由は、神の民をして神様の真理がどれほど大切であるかを悟らせるようにするためです。神の民は御言葉の真理を受けた者です。彼らにとって、神様の真理は命のようなものです。私たちは、聖徒たちの集まりの中に御言葉の真理を保存して、これを教えて、悟らせなければなりません。にもかかわらず、聖徒たちが世のものを求めて御言葉の真理をなおざりにするなら、不義の者の思うがままにさせてしまうのです。
 イスラエルの民がカナンの地に入っていく時、最も大事なことは、真理を守って、教えて行くことでした。しかし、イスラエルの民は食べて生きることに精神が奪われて、真理をなおざりにした時、全てのことにおいて不義の勢力の支配を受けるようになったのです。この時、イスラエルが世的な欲でもって王を要求した時、サウルのような人が王として選ばれるようになったのです。ですから、神の民は命をかけて御言葉の真理を守らなければならないのです。世の財産や権力のようなものと換えてはなりません。もっと大きな損害を受けることになります。
 それを経験した聖徒は、このように言っています。27-28節。私たちが、神様の恵みと御言葉の真理の大切さを悟るなら、他のことと換えることはしません。そして、私たちは神様を賛美するようになります。私たちが絶え間なく御言葉の真理を宣言することは、どんな有益をもたらすのでしょう。まだ実を実らすことのできない人々が、実を実らす良い麦と変わるようになることです。もっと重要なことは、御言葉の真理が生きているために、神の民が罪を犯す時間がないということです。

Ⅲ-不義の時代に聖徒がすること-
 不義と対する時、教会の人々は何をしなければなりませんか。まず、心に銘じなければならない最も重要なことは、不義と手を結ばないことです。その時最も恐ろしい誘惑は、神様も守ってくれないのに、自分が信仰を守る理由があるのか、と言いながら自暴自棄になることです。これが信仰を眠らせることになり、たましいをサタンに売り渡すことになります。17節。できるなら、そのような勢力とは離れていることが良いでしょう。どうすることもできなくて、一緒にいるなら、絶対に信仰の良心を譲歩させては駄目です。ダビデは、その地位を捨てて、サウルから逃亡しました。
 二つ目は、このような時、私たちはしばしば信仰の家族と一緒に、神様の御言葉を学んで、主を賛美しなければならないことです。18節。困難な時、聖徒たち同士しばしば集まることが本当に重要です。聖徒が集まる時、主がそこにおられる真理を悟り、御霊に強められるのです。初代教会の聖徒たちが迫害を受けて、一緒に集まって祈った時、聖霊に満たされました。その時聖霊の働きで地が揺れ動きました。ですから、聖霊の働きを最も多く受ける人は、困難な時一緒に集まって祈った人々です。彼らに聖霊の火のような働きが出て来ます。不義に会うなら、共に祈ることです。
 三番目は、悪い者たちに委ねることを止めて、干渉して下さり、介入して下さるように祈ることが必要です。19,22-23節。悪い者が、まるで自分が神様であるかのように傲慢に行動する時、私たちは神様の栄光を回復するために祈らなければなりません。私たちが黙っているなら、結局世に従って行くほかありません。悪い者に勝つ方法は、主が彼らと戦われることです。ですから、私たちは神様が悪い者を叩きつけて、人々が神様は生きておられることを知るようにして下さい、と祈らなければなりません。私たちは、神様の栄光のために、悪の勢力を退けて下さい、と祈らなければなりません。24節。自分で手を下しません。主に戦いを委ねます。
 私は間違ったことも多いし、失敗したことも多いが、私には神様が付いているために、不義の勢力は私たちに勝つことはできない、と確信するのです。悪者は傲慢なために、早く滅びるようになります。不義の者が、聖徒たちの苦しみを喜び、辱めても、高ぶる者は裁かれます。26節。しかし、聖徒たちが終わりまで忍耐するならば、信仰が勝利します。そして、勝利の後には、神様の義を命のように捕まえて、ひたすら主の御言葉の真理だけ握る者とならなければなりません。ローマ6:13。

35:17 わが主よ。いつまでながめておられるのですか。どうか私のたましいを彼らの略奪から、私のただ一つのものを若い獅子から、奪い返してください。

35:18 私は大きな会衆の中で、あなたに感謝し、強い人々の間で、あなたを賛美します。

35:19 偽り者の、私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにしてください。

35:20 彼らは平和を語らず、地の平穏な人々に、欺きごとをたくらむからです。

35:21 彼らは私に向かって、大きく口を開き、「あはは、あはは。この目で見たぞ。」と言います。

35:22 主よ。あなたはそれをご覧になったのです。黙っていないでください。わが主よ。私から遠く離れないでください。

35:23 奮い立ってください。目をさましてください。私のさばきのために。わが神、わが主よ。私の訴えのために。

35:24 あなたの義にしたがって、私を弁護してください。わが神、主よ。彼らを私のことで喜ばせないでください。

35:25 彼らに心のうちで言わせないでください。「あはは。われわれの望みどおりだ。」と。また、言わせないでください。「われわれは彼を、のみこんだ。」と。

35:26 私のわざわいを楽しんでいる者らは、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私に向かって高ぶる者は、恥と侮辱をこうむりますように。

35:27 私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな。」と。

35:28 私の舌はあなたの義とあなたの誉れを日夜、口ずさむことでしょう。

Ⅱペテロ2:8 というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。
2:9 これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。

ローマ6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

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2007年8月12日「悪者の罪と神様の慈愛」詩篇36:1-12
              
序-悪者は神様の存在を認めようとしません。そして、この世を支配できると考えます。詩人も、世の全ては悪者の手中にあるように、悪者が永遠に世を支配するように思えたのです。しかし、そのような時、聖徒たちが信じるべきことは、それが一次的な状況に過ぎないということです。悪者がどんなに悪あがきをしても、神様の恵みを妨げることはできません。神様を恐れ従う者は、神様の慈愛と恵みを受けます。そして、困難の中で、堂々と信仰を守って、神様を賛美するようになります。この詩篇には、神様を恐れない悪者の行動原理と神様の恵みの中で生きる者の行動原理が対比されています。罪の原理と恵みの原理です。
 
Ⅰ-神様を恐れない者たち、罪の原理-1-4
 詩人は、悪者の行動原理はこうだ、と言っています。1節。「罪は悪者の心の中に語りかける」とは、「罪が神を恐れない悪者に語るので、悪者はその言葉にすぐに従う」という罪の原理を示しています。悪者の犯す罪には、共通な特徴があります。まず一つは、「悪者は神様を恐れない」ということです。ローマ3:18。神様を恐れるようになった人々は、罪を犯すことができる機会が与えられても、あえて犯すことはできません。罪を犯す人々は、神様を恐れていないために、大胆に罪を犯します。
 罪には段階があります。罪を犯す一段階は、神様を避けたり、ごまかしたり、否定したりすることです。昼間でなく夜に罪を犯し、顔を隠して罪を犯すのです。次の段階は、罪の衝動に勝つことができないことです。いったん神様を否定するようになると、心の中に怒りや罪の衝動が起こる時、瞬間的に罪に陥ってしまうのです。さらに堕落すると、むしろ罪を犯し、正しい者を迫害することを、まるで神に勝ったかのように自慢します。
 自分が判断の中心となっている悪者は、自分の罪を過小評価し、甘い判断を自分に下します。2節。罪が露見しても嘘をつけばいいと考え、否定すれば済むことだと考えるのです。よくニュースで見る姿です。しかし、彼らが知らないことは、上におられる神様がすべてを見ておられることです。それで、悪者がどんなに罪を隠そうとしても、思いもやらない方法で明らかにされるようになります。
 二つ目の特徴は、悪者の言葉には、不法とあざむきがあることです。3節。元来言葉というものは、とても重要な機能です。真実を知るという手段です。しかし、悪者は言葉の機能を堕落させて、汚染させて、何が真実か分からなくさせて、人を混乱させてしまいます。そして、悪いことをしながら、善良な人のように自分を見せかけるのです。サタンも、光の御使いを装いました。それで、私たちは言葉だけ聞いても分からないのです。行動もしっかり見なければなりません。悪者は、嘘の名人だからです。そして、神様を恐れることが知恵の始まりなので、神様を恐れない悪者は、知恵を得ることも善を行なうことも止めてしまうのです。箴言1:7。
 三つ目の悪者が犯す罪の特徴は、積極的に罪を追求することです。4節。普通人々は、罪が悪いことだと知っていながらも、瞬間的に罪の衝動に負けて罪を犯し、後で後悔するのです。これは、正常なことです。しかし、神様を否定する者は、積極的に悪いことを探します。後悔もしません。彼らは、罪を犯すことを恥じることもなく、むしろ罪を自慢するのです。そして、誰かが罪を責めたり、非難したりすると、その人を逆に攻撃して、罪を擦り付けてしまうのです。
 このような現象を罪の普遍化と言います。人々が神様を否定するよるになると、良心や道徳の監視機能がなくなるために、人々が罪を犯すようになります。神様を恐れることがないので、罪を恥じることがないためです。ですから、聖徒は、人々が罪を犯す時、注意しなければなりません。まず一つは、彼らの罪と一緒にならない、ということです。赤信号でも皆が渡ると続いてしまいます。皆がしていると、罪に引かれ易いのです。できるならば、彼らから離れているのがよいのです。黙示録18:4。悪いことから恩恵を受けては駄目です。むしろ、仲間はずれされる方がよいのです。
 注意しなければならない二つ目のことは、彼らのためにとりなしの祈りをすることが重要だということです。アブラハムがソドムとロトの家族のために祈ったように、私たちも罪に陥って心乱している人々のために、祈らなければなりません。そうすれば、最小限の被害で食い止められるでしょう。とりなしの祈りの放棄は、裁きとなる可能性が多いからです。
 人々の罪に対して注意すべき三つ目のことは、このような不義の時代に、お金を多く稼ごう、全く害を受けないようにしようと、愚かな欲心を働かせては駄目だ、ということです。ロトの家族が、ソドムをもっと早く離れることができなかったのは、まさにそういうことです。奥さんまで犠牲になりました。私たちは、世の罪が普遍化する時、自分のたましいをしっかり守らなければなりません。

Ⅱ-神様の恵みの下にある人たち、恵みの原理-5-9
 悪者が世の権力を握っている暗闇の時代でも、神様の恵みの朝の訪れを遮ることはできません。5節。「主の恵みが天にある」というのは、神様が天から恵みを雨のように降り注いで下さるということです。そうすれば、悪者の勢力は、雨に濡れるように力を失ってしまいます。対句法で表された「恵み」と「真実」は神様の約束の豊かさと確かさを表し、「天」と「雲」はその恵みと真実が無限の広がりを表しています。エペソ3:18-19。それほどに、神中心の行動原理は確かです。私たちは、神様の恵みの下にある者です。恵みの原理で生きるのです。心の限り主の御言葉を伝え、祈りましょう。神様を賛美する時が来ます。
 詩人は、神様の恵みの性格を三つのことで、説明しています。一つは、堅固で確実だということです。6節。神様の義が山のように高いため、神様の恵みは人の手では崩されることはありません。神様の裁きが海のように深いため、恵みは歪められることもありません。
 二つ目は、神様の恵みは価値あるものだということです。7節。「尊い」とは、神様の恵みは最適の時に臨むということです。助けが切実に必要な時、助けが来るのですから、その助けの価値は非常に尊いのです。最も困難で辛い時、神様の恵みが臨むのです。どんなに大きな恵みだと感謝しますか。「主の御翼に身を避ける」と言っていますが、神様の翼はどこにありますか。御言葉がある信仰共同体です。私たちは、必ず主の御言葉が生きている所に身を避けるならば、神様の恵みを体験することができます。
 三つ目は、神様の恵みは、豊かで満足させて下さるということです。8節。難しい中で罪と妥協しないで、神様の御翼のもとに避ける者に、神様は最も良いものを与えて下さって、楽しみを味わわせて下さると言うのです。私たちのたましいに神様の泉が溢れるというのです。9節。それを、イエス様は、「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と、言われました。ヨハネ4:14。イエス様を救い主と信じて生きることは、恵みが泉のように溢れて来るのです。
 ですから、この詩には完全に二つの世界が対照的に表されています。神様の恵みがない世界は、罪の支配する世界であって、神様を恐れない自分中心の世界で、嘘の世界です。しかし、神様の恵みの中にある世界は、愛があり、平和があり、豊かな祝福があります。ですから、神様の恵みを体験した人は、世のどんな富も栄誉も、神様の恵みと換えません。あなたは、どちらを選びますか。人は、神様の恵みと真実のうちに生きることによって、真の幸いを与えられます。
 神様の民にとって最も大切なことは、この信仰に生きる「楽しみの流れ」が溢れることなのです。これが、聖霊の働きです。この恵みが与えられるなら、他のことはおのずとなるようになるのです。マタイ6:33。神様の御言葉が塞がれるなら、すべてのことが終わります。人の自慢や嘘や偽善で恵みの川が遮られないようにしなければなりません。

Ⅲ-祝福を継続して下さい 恵みの継続を祈る-10-12
 聖徒たちは、主の恵みを中断しないで、継続して与えて下さい、と祈ります。10節。私たちは、神様の恵みを継続して受ける資格がありません。しかし、神様は神様を知る者から絶対に恵みを取り上げらないで、恵みを継続して与えて下さいます。イエス様の尊い十字架の犠牲があるからです。私の罪と滅びを負って、代わりにイエス様が十字架に苦しみ、死なれた福音です。ここに恵みの原点があります。
 また、聖徒たちは、傲慢な悪者が主の民をもてあそぶことできないように守って下さい、と祈らなければなりません。11節。祈る者はあたかも信仰の物見台の上から眺めるように、悪者が私たちを追って来ることもできず、私たちを苦しめることもできないことを見せられます。12節。それゆえ、私たちは、罪の現実の中で、ますます神様に従い、神様の恵みの下に生きるのです。もっと大胆に信仰のリバイバルのために、祈りましょう。そして、もっと聖い者となって、この世で罪に生きる者を羨むことなく、むしろ彼らをこの世の罪から救う聖徒となることを願います。ローマ1:17。

指揮者のために。主のしもべ、ダビデによる

36:1 罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。

36:2 彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。

36:3 彼の口のことばは、不法と欺きだ。彼は知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。

36:4 彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。

36:5 主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。

36:6 あなたの義は高くそびえる山のようで、あなたのさばきは深い海のようです。あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。

36:7 神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。

36:8 彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。

36:9 いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

36:10 注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人に。

36:11 高ぶりの足が私に追いつかず、悪者の手が私を追いやらないようにしてください。

36:12 そこでは、不法を行なう者は倒れ、押し倒されて立ち上がれません。


ローマ3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

箴言1:7 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

黙示録18:4 それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。

エペソ3::18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

ヨハネ4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

マタイ6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

ローマ1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。



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2007年8月19日「悪者に対する不満」詩篇37:1-11
              
序-私たちがこの世で生きて行くと、悪い方法を使って生きている悪者が、神様を信じている者よりも、もっと快適に生きているのを見るようになります。信仰的に生きることが損であるかのように思えてきます。そして、「悪者に腹を立て、不正に対して妬みを起こす」ようになります。1節。

Ⅰ-なぜ悪者に対して不満を持つのか-1
 私たちは、悪者に対して二つの面から妬みを持つようになります。
 一つは、悪者の社会的成功を妬むことです。悪者が神様を信じる自分よりももっとうまく行っている時、私たちの心の中に悪者に対して妬みが生じて来るのです。嫌な罪の思いです。もう一つは、私たちが悪者の自由勝手さを妬むことです。悪者は、心に引っかかることはないので、あらゆる手段と方法を使うことができます。しかし、聖徒たちが選ぶことのできる方法は制限されています。悪者が勝手気ままに何でもできるのに、聖徒たちは黙って眺めているだけなので、心が痛むのです。
 では、なぜ悪者を妬むことがいけないのでしょうか。まず一つは、悪者に対して妬みを持つということは、まだ自分の中に世的な欲心が残っていて、それが現れたことだからです。他の人が不正な方法でうまく行っているのを羨ましく見えるなら、まだ私たちに、世の方法でうまく生きたいという未練が残っているのです。過去の古い自分がまだ死んでいないで、悪者がうまく行くのを羨むのです。
 それは、まだ私たちのクリスチャンとしての自尊心が足りない、ということです。私たちが地上の生涯を終えて、神様の御前に立つ時、どれほど信仰の良心を守って生きたかが、神様の承認と称賛を受ける鍵となります。私たちは、イエス様の十字架を信じて、すでに一度古い自分に死んだはずです。ローマ6:6,Ⅱコリント5:17。イエス様の十字架の犠牲を考えて下さい。罪から解放されて、新しく生まれ変わったのです。
 悪者を妬むことがいけない二つ目の理由は、悪者に嫉妬することは、まだ私たちに悪者のように自由勝手に生きたいという欲心が残っている証拠だからです。自由奔放だった時に戻りたい、という未練が残っているので、そのようにしている悪者が羨ましいのです。自分勝手を棄てて人生に何の面白みがあるのか、などという恐ろしい思いが心の中にあるのです。でも、かつて自由勝手に生きていた時、何か人生の実があったのでしょうか。ローマ6:21-22。
 三つ目の理由は、悪者を妬むことは、私たちの恐れが現れたことになるからです。結局自分は世で勝利できないかもしれない、果たして信仰でもって世を生きていけるのだろうか、という恐れがあるからです。事実私たちには、不安定な熾烈な経済社会を生きていけるのだろうか、という深刻な問題の中で生きています。これに対する聖書の答えは、私たちがこの世で信仰によって滅ぶことはない、ということです。一時的に不利なことはあるけれども、必ず私たちはもっと大きな恵みを受けるのです。むしろ、信仰的によって事を行なって生きるなら、いくらでも勝利することができる、ということが聖書の約束です。Ⅰコリント15:57。

Ⅱ-悪者の結末-2
 どんなに勝手気ままにして、うまく行っている悪者も、結局はその時だけです。2節。悪い手段で伸びてきた経営者が、あっという間に不正のために崩れて行くのをニュースで見ます。悪者がそのように早く衰えてしまう理由は何でしょう。まず一つは、悪者の栄えは根が無いということです。根が無いということは、原則がない、理念が無いということです。ただ目の前の欲心だけ追求して行くので、ある程度の規模まで大きくなると、緩んで来て、放漫経営になり、崩壊するのです。
 二つ目は、彼らのその栄えは、本当の栄えではなく、一種の貸付に過ぎないということです。神様が、ある期間使うように貸して下さっただけです。しかし、神様が私たちに下さる恵みは、霊的なものですが、その霊的恵みの余禄として物質的恵みも受けるのです。霊的恵みがないのに、物質的恵みを求めても詮無きことです。まず、霊的祝福を求めるのです。
 もう一つは、悪者が早く消えて行く理由は、未来の変化に適用できないためです。政策が変わったり、経済状況が変わったり、社会が変わったりすると崩れてしまうのです。罪によって生きる者は、結局滅びて行くしかありません。しかし、聖書的に生きる者は、変化に対処することができます。事実、歴史の凄まじい変化の中でも、クリスチャンは力強く生きて、勝利して来ました。人生を狭い視野で見ないで、巨視的に見ることです。

Ⅲ-聖徒の学ぶべきこと-3-6
 聖徒たちが悪者に嫉妬し、羨む理由は、悪者のように簡単に成功したい、という悪い欲心のためでした。ですから、神様は、私たちが簡単に成功することを喜ばれません。社会の中で、人々の下で徹底的に基礎を築くように求められます。3節。「地に住み、誠実養う」ことです。私たちがこの世で成功しようとするなら、二つの条件を備えなければなりません。
 その一つは、聖書の原理に忠実でなければならない、ということです。「主に信頼して、善を行なえ」と言っています。聖書の原則を握って、人生の現場で訓練を受けるなら、その時から活用できる御言葉の真理を学ぶようになります。聖書の教えと実際現実の間にはかなりのギャップがあるように見えます。しかし、御言葉を握りながら人生の現場で労苦する中で、本当の真理だと分かるのです。私たちは、苦難と痛みという訓練を通過しなければならないのです。ですから、どんな難しいことでも、神様の御心を求めて祈るようになるのです。 
 もう一つは、自分に対する神様の用意しておられる道を探さなければならない、ということです。人が人生を生きていきながら、自分の道を知らない場合がとても多いのです。なぜ悪者の栄えを羨むかと言えば、結局自分の道に満足できないからです。奴隷からエジプト宰相になったヨセフも、捕囚の民からペルシャの大臣になったダニエルも、目の前の困難にも関わらず、神様が備えて下さる道を求めて誠実に働き、仕えたので、そのようになったのです。聖書の原則に従って、誠実に働き、生きるのです。
 重要なことは、私たちがどのような環境に置かれようとも、最後まで神様を信頼することです。今成功しようとするなら、信仰的の人生の基礎を着実に築こうとすることです。日々の生活を信仰で堅実に歩むということです。仕事、人間関係、みな聖書の信仰の実践と意識して行くのです。神様の道に従って行くなら、必要なことはその時神様が備えて下さいます。
 そして、最も重要なことは、主を喜ばすことです。4-6節。自分が喜ぶことだけを求めて、神様にそれをしてくれと生きる人がいます。反対に、神様が喜んでくれることを求め、そのように生きることが、私たちの本当の喜びとなるのです。神様を知れば知るほど、信仰の視点で世を見るために、心の中に本当の望みが生じて来ます。信仰のビジョンです。どうしたらよいか、神様がビジョンを下さるのです。神様を知ることが喜びとなります。

Ⅳ-考えを変えよ-
 ですから、神様は、私たちの見方を変えるように求めます。私たちが悪者との水平思考で見るなら、悪者と競争するようになり、心の中に不満が生じます。しかし、神様との垂直思考、つまり聖書的な視点で見るならば、悪者を妬む理由はまったくありません。なぜならば、悪者とは私たちの道がまったく違っているからです。ですから、私たちは他の人々がうまく行っていることに対して心痛める理由はないのです。
 聖書は、私たちにはっきり宣言します。7-8節。不必要な競争心を棄てなければなりません。私たちが他の人に対して競争心を持つと、心が狭くなって、感謝が出て来なくなり、喜びが消えます。私たちも、心が狭くなって、他の人がよくなることについて妬みや嫉妬心を持つ時があります。その時は、私に対する神様の道がある、ということが分からない時です。しかし、神様の道が分かると、他の人がよくなることは喜べるし、よくなることを願うようになるのです。
 悪い方法でうまく行く人々を羨むことはありません。彼らには、本当の喜びと満足がないのです。むしろ、彼らを気の毒に思い、同情しなければなりません。私たちが、いまだに他の人々がよくなることに対して怒りや憤りを持つならば、まだ自分の道に対する信仰がないためです。私たちの道は、神様が導かれる道です。
 悪者を妬み、嫉妬するなら、私たちの心は大変狭くなり、とても否定的になってしまいます。悪者は、私たちの相手ではありません。悪者と正しい者の結論はこうです。9-11節。悪者の栄えは束の間のことです。彼らの繁栄は、一時的に人々を惑わすだけで、いつかはその存在も忘れ去られます。箴言24:19-20。「 しかし、貧しい人は地を受け継ごう」とは、イエス様の山上の垂訓に出て来る有名な節です。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」マタイ5:5。ここで「地を受け継ぐ」とは、世で祝福を受け、世での影響力が大きくなることです。神様に拠り頼む者の影響力を通して、正しい人生に入って行く者たちが少しずつ多くなっていきます。その信仰の実を通して、本当に人生の意味を求める人々が多くなるようになります。信仰に生きる者が勝利するのです。Ⅰコリント15;57-58。

ダビデによる

37:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。

37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。

37:3 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。

37:4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

37:7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

37:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

37:9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。

37:10 ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。

37:11 しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。


ローマ6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

Ⅱコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

箴言24:19 悪を行なう者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。
24:20 悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。

マタイ5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

Ⅰコリント15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

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苦難の意味(メッセージのコピペ)

http://www5.ocn.ne.jp/~akiru-ch/07.05.06sekkyou.html
2007年5月6日「霊的苦難の意味」詩篇25:11-22
              
序-25篇後半部分では、苦難の問題を扱っています。信仰は、苦難を通して整えられるようになっています。ですから、クリスチャンにとって、苦難は必ず通らなければならない過程です。Ⅰテサロニケ3:3-4。苦難の中にいると、何か世の人々の方が自由で豊かに思えて来ます。なぜ私がこんな目に、と葛藤します。詩篇を通して、霊的患難の意味を学びましょう。

Ⅰ-苦難の人生-
 クリスチャンにとって、苦難はとても重要です。できる時に受けて置くことです。長く神様の祝福の中に生活することができるからです。レシピを見て料理を作る場合、マニュアルを見て電子機器を操作する場合、実際は書いてあるようには中々うまく行かない時があります。私たちの信仰生活も、初めは機械的な信仰を考えることが多いものです。すなわち、自分の信仰の分量に応じて神様が自分に祝福を下さる、と考えることです。
 しかし、実際にはそうではありません。むしろ、信じているのに、もっと苦難を多く受けて、もっと多く患難に出会うのです。15-16節。その理由はどこにあるのでしょう。ダビデは、自分が熱心に仕事をして、サウル王に忠誠を尽くせば、すべてのことがうまく行くと思っていました。私たちもそう考えます。自分が真面目にやっていれば、批判されることはない、ちゃんと認めてもらえる、うまく行くと思い込んでいます。
 ところが、ダビデは忠実に励んだために、サウル王の憎しみを受けて、大変な危機に陥るようになりました。少し前までは、イスラエル軍の軍団長として、サウル王の婿となって、すべての権力と出世を握り締めていました。ところが、一瞬にして、ダビデはすべてのものを失って、追われる反逆者の身となりました。Ⅰサムエル18:27。ダビデの恐れました。私の人生はここでこんな惨めな終わり方をするのだろうか、と不安でなりませんでした。そして、いくら考えてみても、神様の御心が、このような仕打ちだとは思えませんでした。なぜならば、神様がダビデを王として選び、頭に油注がせたからです。それで、ダビデは失望しないで、神様を仰いで、私の進むべき道を教えて下さいと祈っていたのです。1,4,5節。苦難に会った時葛藤します。訳が分かりません。とにかく神様に祈ることです。

Ⅱ-ダビデの確信-11-15
 苦難について祈る前に、ダビデは信仰の確信を語っています。12-14節。各節が確信の表現で終わっています。しかし、ダビデの持っている信仰の確信と実際の状況は、正反対でした。信じるならばすべての困難がすぐに解決するように思うのですが、現実はそのように簡単には解決しません。神様は応えて下さるはずなのに、実際には苦難と危機だけが続いているのです。このような時、私たちは何をすべきなのでしょうか。神様に祈ることがないと、信仰を捨てたり、現実を否定したり、とんでもない方向へ行ったりするようになります。私たちは、自分が経験している信仰と現実の差とその矛盾を祈りと御言葉をもって、神様を待ち望む時、いっそう信仰は成熟して、深い信仰へと導かれるのです。
 その信仰は、神様を恐れ、拠り頼む者は守られ、平安だ、という原則です。13節。神様を恐れて、御言葉を守る人は、神様の祝福を受けて、守られて、事はよくなるはずです。ところが、今ダビデは全てのものを失って、追われています。でも、この矛盾は克服することができます。それは、神様の約束があるからです。王となる油注ぎを受けています。神様は絶対に欺かれません。ですから、私たちも、どのような状況にあろうとも、神様の約束を信じるのです。神様は、ご自分に拠り頼む者と「親しくされ」ます。14節。神様は、神様を恐れる者の相談相手になって下さるということです。苦難の中で祈り、相談するならば、神様は、約束されたことを守って下さる、と応えて下さったのです。Ⅰコリント10:13。
 それなのに、苦難に出会い、神様が約束を守って下さらないように見えるのはなぜでしょうか。まず、その理由は自分の罪のせいだとダビデは考えました。11節。自分の傲慢や堕落のために、苦難を通して傲慢を悟らせ、堕落しないようにさせた後、神様は約束をなされるのだと考えました。神様は、私たちの益のためにそうされるのです。事実、ダビデは、サウル王から追われながら、傲慢や高慢の治療を受けたのです。
 二つ目の理由は、神様はもっと良い計画を持っておられるために、すぐには約束を行なわれないということです。私たちが何か欲しいとしても、神様がそれよりもっと良いものを用意しておられる時は、それを下さらないのです。ダビデが追われている間、方々で民たちを助けて、民の推戴を受けて王となる素地が築かれて行きました。私たちについてもそうです。ローマ8:28。
 三つ目は、霊的戦いを悟らせるために困難を下されます。この世は、楽園ではありません。この世には、日々悪いサタンとの熾烈な戦いが繰り広げられているのです。ダビデは、ペリシテ人が自分の敵だと思っていましたが、自分が忠誠を尽くしていたサウル王が実は最も恐ろしい敵となっていることを悟りました。サムソンの敵は、何も出来ないような愛するデリラでした。ただ霊的戦いに勝利する者が、生き残ることができるのです。霊的な目を持って下さい。気を付けて下さい。エペソ6:12。
 ですから、ダビデは、神様に自分の進むべき道を教えて下さい、と祈りました。12節。ダビデは、出世や成功の道は全くなくなったために、自分の進むべき道が全く分からなくなっていました。これからは、いままで持っていた考えは捨てて、神様だけ信じて従って行こう、と偉大な決断をしたのです。苦難の意味はここにあり、苦難を克服するのはこの決断です。苦難を通して神様に近付き、神様に深く拠り頼む信仰になれれば、その後の信仰の恵みは計り知れません。ローマ8:18。
 さらに、ダビデは「わな」に掛からないように祈りました。15節。苦難に会うことが問題ではありません。苦難の罠にかかって、苦難の網に捕らえられることが問題なのです。愚かな対処をしないで下さい。かえって、苦難を通して、神様に近付き、確かな信仰を?んで下さい。苦難の意味を味わって下さい。信仰が成長し、御霊の信仰の人になって下さい。

Ⅲ-困難の中でする神様に対する懇願-16-22
 信仰の確信を告白した後の部分は、懇願の表現で各節が終わっています。16-22節。なぜ、このような祈りをするのでしょう。苦難は何をもたらすか、ということを考えてみて下さい。まず、苦難は「孤独」をもたらします。16節。一人で耐えなければならないとすれば、どれほど心細くて、苦しいことでしょうか。「あわれんでください」と祈るのです。神様があわれんで下さることは、私たちと苦難を共にして下さるということです。そして、神様は、私たちに苦難を分かち合うことができる共同体を与えて下さいました。私たちは一人でないのです。信仰の友が共にいてくれるために、罪を犯さないようになり、祈るようになり、霊的に沈滞することがなくなるのです。教会を感謝します。兄弟姉妹を大事にして下さい。
 二つ目は、苦難は、心の中に心配、憂いをもたらします。17節。苦難に会う時、心配ほど危険なことはありません。心配は、私たちの心の中に広がる害毒です。心配は、そのままにして置くなら、全身にまわって、信仰が腐ってしまいます。危険な行動へ向かわせます。「苦悩のうちから私を引き出してください」と祈ります。私たちの心の中に起こって来る心配、憂いを、祈りと御言葉で除かなければなりません。
 三つ目は、苦難は、恐れをもたらします。19節。敵や患難に対する恐れは、人を危険な言動へ追い込みます。恐れるあまり、とんでもない方向へ行ってしまいます。恐れるならば、勝つことができません。神様の御前に身を避け、「救い出してください。恥を見ないようにしてください」祈るのです。20節。神様が味方だ、と勇気と力が与えられます。ローマ8:31。
 ダビデは、苦難の山場で、神様に三つの願いを祈りました。その一つは、「魂を守って下さい」ということです。20節。私たちが霊的な危機の中で、財産や社会的地位のようなものを守ろうとするなら、勝つことはできません。私たちは、ただ魂を守らなければなりません。心を失うなら、すべてを失うことになります。苦難に会う時、自暴自棄に陥る人がいます。心が病気になっているためです。どんな苦難の中でも、神様と自分の関係だけしっかりしていれば、心は大丈夫です。
 二つ目の願いは、「誠実と正しさで保護して下さい」ということです。21節。この二つは、神様の重要な品性です。神様は誠実なお方です。それで、間違いなく必ず信仰を持つ者を助けて下さいます。神様は正しいお方です。決定的瞬間には、必ず私たちを助けて下さいます。
 最後の願いは、自分の経験と思いをすべての神の民の問題として適用させています。22節。この苦難の経験は、もうダビデ個人のものではありません。この経験を生かしてイスラエルを守り、治めて行くようになります。私たちの経験する苦難は、他の人を助けることができるためです。Ⅱコリント1:4-7。イエス様が私たちのために十字架にかかられたことは、私たちが人生において味わう苦難を全部負って下さった、経験して下さったということです。ですから、イエス様の救われた私たちは、苦難にあっても守られます。ヨハネ16:33。そして、苦難から助け出された私たちは、苦難にあう人々を助けるために用いられるのです。ローマ8:18。

詩篇25篇

25:11 主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。

25:12 主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。

25:13 その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。

25:14 主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。

25:15 私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。

25:16 私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。

25:17 私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。

25:18 私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。

25:19 私の敵がどんなに多いかを見てください。彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。

25:20 私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。

25:21 誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。

25:22 神よ。イスラエルを、そのすべての苦しみから贖い出してください。

Ⅰテサロニケ3:3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。
3:4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。

Ⅰサムエル18:27 ダビデは立って、彼と部下とで、出て行き、ペリシテ人二百人を打ち殺し、その陽の皮を持ち帰り、王の婿になるためのことを、王に果たした。そこでサウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。
18:28 こうして、サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また、知った。
18:29 それでサウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった。

Ⅰコリント10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

Ⅱコリント1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

ローマ8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

ローマ8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。


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蛆虫について

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%86#.E7.94.BB.E5.83.8Fから引用します。

人間とのかかわり

死体便に大量に発生するため、大多数の人間は蛆に対して強い嫌悪感を覚える。蛆のお陰で糞便や死体が処理されることは理解出来たとしても、容認し難い不気味さを覚える人間は少なくない。また、そのような汚物や不潔にしているものが発生源とされるため、成虫のハエもろとも衛生害虫として認知されている。

蛆、あるいは蛆虫という言葉は不潔で価値の低いもの、汚れたものという意味でも使われ、「男やもめに蛆がわく」という言葉もある。 他人に対して使われた場合には強い侮蔑感を与える。まれに、どこからともなく湧いてくるものの意味として使われることもある。

このような蛆であるが、釣り用の餌として使われることもあり、養殖も行われている。大抵はニクバエ類の幼虫が養殖されており、その場合には衛生管理下で飼育され、着色されてサシまたはサバムシと呼ばれる。ただし、魚に食べられても魚の体内で生き続けて成虫になる場合があり、知らずに冷蔵庫に釣った魚を入れてると次の日には冷蔵庫内をハエが飛び回っていたという事例があるので注意が必要である。また、イタリアサルデーニャ地方には発酵して蛆をわかせたカース・マルツゥと呼ばれるチーズが実在し、珍味とされている。

[編集] 画像

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加害者は正直蛆の上記の解説と共通していますね。
しかし聖書には蛆の出てくる箇所は多いようです。聖書のヨブ記には人を蛆と言わしめている箇所がありますがそれには逆に救いを覚えました。私も又卑しい人間でしかないと知るからです。
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ヨブ記 第25章 1-6節
そこでシュヒびとビルダデは答えて言った、
「大権と恐れとは神と共にある。彼は高き所で平和を施される。
その軍勢は数えることができるか。何物かその光に浴さないものがあるか。
それで人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生れた者がどうして清くありえようか。
見よ、月さえも輝かず、星も彼の目には清くない。
うじのような人、虫のような人の子はなおさらである」。
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しかし加害者達は何故に自分達の気持ちの悪い行為を自覚できませんかね、それが不可解でして社会通念を見せつけりゃあいいと言う物でもないし、人を変なルールで差別すればいいと言う物でもないし誤魔化せるような物でもないと思います。
此方が気持ちが悪いと言っているのにそれを理解しないで自己正当化の粘着行為を繰り返すのです。「お前は変態性欲者の基地外で卑しい存在なので我々の行為は正しい」とても言いたげですね。
何というグロテスクさだろうか。それで自分達は変に着飾って恰好付けて現れればすまされるという感じみたいです。それが人の生活や、地域中を破壊し不幸にしていようが無自覚です。相変わらずコウガイビルみたいな気味の悪い姿を見せてきて変な高ぶりを見せてくるのです。正直限界でしてこういう事を書くのです。
こういう目に会い続けるのは何故かと思ったら過去に自分が他者へ同じ事をしていたことがあると知りました。
相手が嫌がっているのに変に自惚れた甘えから相手に絡むのです。幼児性の依存心が酷く相手の感情や心を理解せずに「私にとって都合の良い態度を取って下さい」と言っていました。しかしそれは絶対に自覚できません。
相手が自分にとり都合の良い態度や言葉で接しなければ駄目であり相手の本心はどうでも良くただただ自分が気休めをしたくて相手に絡むのです。
相手が自分を悪く思っていようがそれはどうでも良いというかそれを見つめないで自分も又相手のあら探しに拠って自己満足しようとするのです。
そして相手へは陰険な態度で自己満足を満たすために接し陰口を言うことには無感覚です。そう言う人間でした。
そう言った腐敗堕落した状態でも相手が拒絶しない限りはダラダラと絡み付きを続けもっと腐敗堕落すると腐った権威を利用してまで相手を蹂躙しどれ程踏みつけにして虐待をしても何も感じなくなります。
その内に脳みそも働かなくなり下ネタや性的な事のにみ執着しそれが全ての決め手だと思いこみそれで相手を統制しようとします。
↑これを書くと音声にて「ふーん?」と、ぼけったように聞こえました。
何か本当に脳みそが溶けて前頭葉が無くなっているような印象を覚えます。
荒唐無稽に思われそうだがそう言う印象を覚える粘着行為を延々とされています。

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去年地域内で見た虫

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%93%E3%83%AB
コウガイビル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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?コウガイビル


分類
界 : 動物界 Animalia
門 : 扁形動物門 Platyhelminthes
綱 : ウズムシ綱(渦虫綱) Turbellaria
目 : ウズムシ目(三岐腸目) Tricladida
亜目 : コウガイビル亜目(陸生三岐腸亜目)
Terricola
科 : コウガイビル科 Bipaliidae
属 : コウガイビル属 Bipalium

和名
コウガイビル
英名
Land Planaria
コウガイビル(笄蛭)というのは、扁形動物門ウズムシ綱ウズムシ目コウガイビル亜目コウガイビル科コウガイビル属する動物の総称である。広義にはコウガイビル亜目に属する動物の総称。往々にして数十cmを越える陸上動物で、扇形の頭を持つ。名前にヒルとあるが、環形動物に属するヒルとは全く異なった動物である。



[編集] 生物的特徴
コウガイビルは、陸上の湿ったところに生息する紐状の動物で頭部は半月形である。一見はヒルに似ているが、環形動物であるヒルとは異なり、扁形動物に属する。筋肉や神経系の発達がはるかに劣るため、運動はヒルに比べてはるかにゆっくりとしており、ゆるゆると這うだけである。種数は日本に数種以上、詳細は不明である。扁形動物門渦虫綱に属するものは、ヒラムシ、ウズムシ(プラナリア)など、ほとんどが海産または淡水産であり、陸上生活のものはこの仲間以外にはほとんどない。最近、都会では外来種のオオミスジコウガイビルという大型種が侵入している。

コウガイビルの体は、長さが10cmから30cm、場合によっては1mを越えるのに対し、幅は大きくても1cmを越えない。厚みも数mmであり、平たくて、細長い体をしている。表面は粘液に覆われ、触るとくっつく感じがある。

体の前端は頭部であり、扇形に広がっている。コウガイビルのコウガイとは、昔の女性の髪飾りである笄(こうがい)に、その形を見立てたものである。頭部には、肉眼では確認できないが、眼点が多数ある。近縁のものには、頭部が広がらないものもある。体は細長く、その中央腹面に口がある。肛門はない。消化管は口から体の前方後方へと分岐しながら伸び、それぞれの先で袋状に終わる。

なお、雌雄同体であるとされる。


[編集] 生息環境
陸上生活ではあるが、乾燥には弱いので、湿った土壌、石の下、朽ち木の中などにおり、夜間に野外を徘徊する。肉食で、純然たる捕食者であり、ミミズ、ナメクジ、カタツムリなどを喰う。餌を見つけると、追いかけ、体全体で巻きつき、腹面の口から吻を伸ばし、肉を消化しつつ飲み込む。

あまり知名度はないが、意外に身近に住んでいるものであり、畑地の周辺では、ナメクジなどを餌として、その数は少なくない。畑の周辺の石をめくれば、見つける事ができる。また、オオミスジコウガイビルは、都会地の公園などに出没し、往々にして住民を驚かせる。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%93%E3%83%AB" より作成
カテゴリ: 生物分類表使用 | 扁形動物
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初めて見たので確かに驚きました。余りにも奇怪なる虫でしたので衝撃を受け、加害者の嫌がらせかと思ったほどです。
(作り物だろうかなどと)
或いは神の懲らしめの一種かと絶望しました。
しかしいい加減たってからネットで見つけられ、感謝でした。
この様な奇怪なる虫でも、神の被造物ですね。おまけに習性も奇怪ですね。殆ど怪奇漫画に出て来そうだしそれ以上のものすごさ、いや小説ならあるかも知れませんね。
蜘蛛型人間が登場するアニメ作品を昔見た記憶がありましたがあの様にグロテスクな発想をする方がいますね。しかし蜘蛛だって所詮は神が造られたのですしあの特殊な形状は芸術的とも言える気がします。(今では)
これを見つけたのは実言うと加害者のグロさに辟易して害虫系の写真でも掲示板に提示しようかと思った結果でした。
加害者らは実に本能のみで生きるに過ぎない虫よりも劣る存在に思ったのです。
変な技術を与えられたことで高ぶり荒唐無稽なアホ行為をもっともらしくしているつもりが荒唐無稽なアホグロ人間になったのかも知れません。

※コウガイビルの写真ですが気味の悪い写真ですみません。しかしこれも神の被造物なのですよね。

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以下の写真もグロテスクですみませんが、はてなの辞典の情報です。

黒い方の虫も同じ種類でしたか。黒い方はゴミ拾い時に新聞の裏側に貼り付いていた奴です。流石に気味が悪いと思いましたがこれの方は「加害者に喩えるのは適当かも知れない」と思いました。

しかし加害者というのは何故か何を言われようが「うふ」「うふふ」としか言いませんね、音声にて。普通の自尊心が全くないのかも知れません。覗きやるくらいなのでそう言う物はなくて虚栄心のみかも知れません。

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http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%b3%a5%a6%a5%ac%a5%a4%a5%d3%a5%eb

コウガイビル

コウガイビル こうがいびる
コウガイビル
扁形動物門ウズムシ綱ウズムシ目に属する。

ミミズのように細長く、ナメクジのようにぬめっとしていて、頭が扇型に広がっている生き物。

梅雨のころになると地面を這っている姿を見かけることができる。

ヒルという名がついているが、プラナリアの仲間であり、再生力が強い。

名前の由来は髪飾りの

(

こうがい

)

ナメクジカタツムリミミズを食べて生きている。

ロイコウガイビルは(その名の通り)黒色で 10 cm 程度の長さである。

オオミスジコウガイビルは黄色地に茶色の筋が走っていて、長さは 1 m になることもある。

一部ではKGB という愛称がつけられ親しまれている。


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余り言いたくはないのですが音声を聞いているとこういった変な虫のイメージと同じですね。悲しく情けないです。それ程までに得体知れずやり切れず人に不快感さえ与えればどれ程までに自分達がおかしくなっても平気だろうか。
正直女性の工作員には良くこういう感じでフニャフニャして主体性のない気味の悪い風体の人間がいます。お洒落とかして現れるがそれ以外になさそうだという感じです。そしてタイミング合わせで現れて自分なりの扮装表現を見せつけて無言で去るのです。
こういった得体知れぬ行為を延々とされねばいけません。
喋らなくとも身体表現で済ませようとするというか都合の良い反応を貪って延々と繰り返すというかそう言う感じです。
こういう輩をしてあの気味悪い虫を覚えざるを得ない印象ですね。

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ピーピングトム

高橋留美子という漫画家が昔「ピーピングトム」という作品書いていましたが
それに出てくる覗き魔少年が飼い慣らす蛆虫の巨大化したような虫の集団がいる。
それが何かあの加害者集団の持つ気味悪さに当て嵌まる。
高橋留美子先生は創価系の者を書くのが上手いようですね。あの先生に「集スト」を描かせたら素晴らしいでしょう、当意即妙な作品となるだろう。
加害者らが持つあの変な暗さと気味悪さと得体知れなさ、思考の読めぬあの特殊性など全てあの先生なら上手く表現できそうですね。
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因みに前述の蛆虫集団は常に何かをモゾモゾと食い漁っていたようでした。
加害者らも何か人間離れしていると言うか人の内臓を食い荒らすのが好きみたいですね。何故でしょうかね。不可解ですね。


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今日ゴミ拾いしていると捨てられた古新聞の裏にベタリと何かの虫が付いていた。
薄気味の悪い滑った感じの形状で黒く、長く、頭部と思われるところは
両側に角みたいにのびている。ネットで見た気がするが、こういうグロテスクとも言えるような変な虫も神は造られました。
諸々の害虫らしき嫌な虫なども外見が嫌な生物もあるが神様はこういった被造物を通して
それを嫌な人間に喩えることが出来るようにとの知恵だろうか。
虫などは本能以外にはないと思うが人間はどうか。
グロテスクな回虫などに喩えられたら嫌だろう、
彼らは自分達の行為を隠すため誤魔化すためか知らんが
人をそうであると吹聴又は印象工作するのだが
彼らの実態は音声などで知らされる。
しかしどれ程隠しているつもりでもそれは愚かしい幻想である。
彼らの実態は隠されたままでいることはないと言うことは聖書にあると思います。
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因みに「ピーピングトム」は小学館からの「るーみっく・わーるど」という単行本にあります。今は買えるか知りませんが。
この作品もやはり監視システムを利用し又加害者集団への揶揄があったのかななどと思いました。
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国語辞典
1~1件を表示
[ Peep ]で始まる検索結果[1件] 1 ピーピングトム 6 [Peeping Tom]
ピーピングトム 6 [Peeping Tom]
〔夫の過酷な税とりたてを止めさせようと、裸で街を歩き訴えたゴディバ領主夫人を盗み見し、盲目になった男の故事(イギリス)から〕のぞき見をする人。出歯亀。

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漫画作品の方は検索結果に無かったようでした。古本屋さんだったらば買えるかも知れませんが。しかし別に買う必要はないと思います。すみません勝手で妙なことを書き。必要な物はやはり聖書のみことばであります。

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主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある

日々の聖言
2007年07月03日 13時00分 発行

「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。」?コリント3:17 「朱に交われば紅くなる」といわれるように、人はどんなものにも影響を受けやすいものです。さまざまなしきたり、習慣、言い伝えなどに囚われ、縛られて、不自由な生き方をしています。だから、何に交わり、大切にしているかが重要です。「主の霊」との交わり。そこにこそ、命にあふれた自由な生き方があります。「主の霊」とはイエス様の言葉です。みことばを心に置いて、それに従う時、人は自由になります。(KE)
http://bn.mini.mag2.com/backno/bodyView.do?issueId=20070703130000M0047362000

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毎日御言葉メール

【毎日御言葉】まことの自由
2007年07月06日 07時10分 発行

「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」(IIコリント3:17)。主は私たちにご自分の霊を与えます。神の霊はあなたを罪と悪から解放し、まことの自由を与え、神との交わりを成立させます。主を信じるあなたはすでにその自由さに与っています。だから、今日も、その自由による神との交わりによって、力強く生きることができます。
http://bn.mini.mag2.com/backno/bodyView.do?issueId=20070706071000M0063678000

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思考盗聴への対応するみことばです

聖書のみことばで「心」を調べました。
神は人間の心を知られると書かれている箇所が多いです。
人間の謀は神が打ち砕かれるでしょう。
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39)あなたは、あなたのすみかである天で聞いてゆるし、かつ行い、おのおのの人に、その心を知っておられるゆえ、そのすべての道にしたがって報いてください。ただ、あなただけ、すべての人の心を知っておられるからです。

30)あなたはそのすみかである天から聞いてゆるし、おのおのの人に、その心を知っておられるゆえ、そのすべての道にしたがって報いてください。ただあなただけがすべての人の心を知っておられるからです。

9)どうか悪しき者の悪を断ち、正しき者を堅く立たせてください。義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。


11)陰府と滅びとは主の目の前にあり、人の心はなおさらである。

3)銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である。


27)人の魂は主のともしびであり、人の心の奥を探る。

2)人の道は自分の目には正しく見える、しかし主は人の心をはかられる。


19)水にうつせば顔と顔とが応じるように、人の心はその人をうつす。

11)神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。


20)正しいさばきをし、人の心と思いを探られる万軍の主よ、わたしは自分の訴えをあなたにお任せしました。あなたが彼らにあだをかえされるのを見させてください。

12)正しき者を試み、人の心と思いを見られる万軍の主よ、あなたが彼らに、あだを返されるのを見せてください。わたしはあなたに、わたしの訴えをお任せしたからです。


35)そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。

25)また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。

24)祈って言った、「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、

8)そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、

27)そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。


23)また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。



21)神はこれを見あらわされないでしょうか。神は心の秘密をも知っておられるからです。



6)見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。


6)だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」と。人の内なる思いと心とは深い。

12)あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、心をはかる者はそれを悟らないであろうか。あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか。


25)彼が声をやわらげて語っても、信じてはならない。その心に七つの憎むべきものがあるからだ。


5)だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。


12)というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。


5)だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。
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コリント第一2章
↑上のみことばは、どう考えても思考盗聴への不安への対応するみことばだと思うのです。
私も流石にこのみことばも無効ではと思いましたがやはりサタンの策謀にて不信を起こさせるための技術はある気がします。
同時に裁きについてもそうでして加害者のみ赦免かと思うほどです。正直そう思わせるような勢いというか信じがたさというか無力感を覚えるには十分だという感じですね、
或る意味最強かも知れませんね脳みそが。
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ピリピ人への手紙4章

(人知では測れない神の平安によって心のことは守られるそうです、有り難いですね。私はどうも何度も切れて基地外化しますが)

ピリピ人への手紙3章


(加害者もそうです腹の欲望が神になっているとすれば何を言おうが無関係かも知れません。虚しい集団ですね。しかしその誇り高ぶりは何れ恥と化すそうです。)

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加害者らには虫酸が走る

ペテロ第二2章

9)こういうわけで、主は、信心深い者を試錬の中から救い出し、また、不義な者ども、


10)特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。


11)しかし、御使たちは、勢いにおいても力においても、彼らにまさっているにかかわらず、彼らを主のみまえに訴えそしることはしない。


12)これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである。


13)彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。


14)その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は貪欲に慣れ、のろいの子となっている。



17)この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている。


18)彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、


19)この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。
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正直加害者らは上のみことばが当て嵌まる気がします。救いがたい汚れ振りです。
覗き犯罪を正当化するために人を延々ネチネチといびり変態扱いし続けるのです。やり切れません。いい加減にして欲しいです。

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神の愛について

神様の愛が現れていると思われるみことばをコピペしました。
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イザヤ書41章
10)恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。

イザヤ書43章

10)主は言われる、「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである。それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。



13)「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。



25)わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。

イザヤ書44章

6)主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない。



8)恐れてはならない、またおののいてはならない。わたしはこの事を昔から、あなたがたに聞かせなかったか、また告げなかったか。あなたがたはわが証人である。わたしのほかに神があるか。わたしのほかに岩はない。わたしはそのあることを知らない」。

イザヤ書45章


4)わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。


5)わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。


6)これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるためである。わたしは主である、わたしのほかに神はない。


7)わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である。


22)地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。

イザヤ書46章


3)「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。


4)わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。


(造った故に必ず負い持ち運び救いますですって、神様は面白い表現しますね。)


9)いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。



12)心をかたくなにして、救に遠い者よ、わたしに聞け。

イザヤ書48章

10)見よ、わたしはあなたを練った。しかし銀のようにではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みた。


11)わたしは自分のために、自分のためにこれを行う。どうしてわが名を汚させることができよう。わたしはわが栄光をほかの者に与えることをしない。


(他の者には与えませんと言うのも変ですね。聖書には初めより全てが預言されていたそうです。だから何ともはや奇妙ですね。神様とはよく分からない存在ですね。)

イザヤ書50章


10)あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。
イザヤ書51章

7)義を知る者よ、心のうちにわが律法をたもつ者よ、わたしに聞け。人のそしりを恐れてはならない、彼らのののしりに驚いてはならない。


8)彼らは衣のように、しみに食われ、羊の毛のように虫に食われるからだ。しかし、わが義はとこしえにながらえ、わが救はよろず代に及ぶ」。




12)「わたしこそあなたを慰める者だ。あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、草のようになるべき人の子を恐れるのか。

(死ぬべき人とは随分な言い方ですね。しかし正直変なユーモアすら覚えます。)


13)天をのべ、地の基をすえられたあなたの造り主、主を忘れて、なぜ、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、その憤りのゆえに常にひねもす恐れるのか。しえたげる者の憤りはどこにあるか。

(備えをする様も神様とは全て知られると言うことですよね、だから全能の神に任せる事が賢明です。)


14)身をかがめている捕われ人は、すみやかに解かれて、死ぬことなく、穴にくだることなく、その食物はつきることがない。


15)わたしは海をふるわせ、その波をなりどよめかすあなたの神、主である。その名を万軍の主という。

(どよめかすと言うのも変に面白い表現ですね。こういう言い方は無知ですが。)


21)それゆえ、苦しめる者、酒にではなく酔っている者よ、これを聞け。


22)あなたの主、おのが民の訴えを弁護されるあなたの神、主はこう言われる、「見よ、わたしはよろめかす杯をあなたの手から取り除き、わが憤りの大杯を取り除いた。あなたは再びこれを飲むことはない。


23)わたしはこれをあなたを悩ます者の手におく。彼らはさきにあなたにむかって言った、『身をかがめよ、われわれは越えていこう』と。そしてあなたはその背を地のようにし、ちまたのようにして、彼らの越えていくにまかせた」。

(人権蹂躙されつつも、されるがままの状況を思わせます。)


第52章


1)シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ。聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。割礼を受けない者および汚れた者は、もはやあなたのところに、はいることがないからだ。


2)捕われたエルサレムよ、あなたの身からちりを振り落せ、起きよ。捕われたシオンの娘よ、あなたの首のなわを解きすてよ。


3)主はこう言われる、「あなたがたは、ただで売られた。金を出さずにあがなわれる」。





第55章


1)「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。


2)なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。
(この世の無益な情報や楽しみの為に労役する事は無駄だと言っているようです。)


6)あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。


7)悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。


8)わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。


9)天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
60章

19)昼は、もはや太陽があなたの光とならず、夜も月が輝いてあなたを照さず、主はとこしえにあなたの光となり、あなたの神はあなたの栄えとなられる。


20)あなたの太陽は再び没せず、あなたの月はかけることがない。主がとこしえにあなたの光となり、あなたの悲しみの日が終るからである。

(この箇所は聖書を読み始めた頃に慰めを覚えましたが、悲しみの日が終わるときは来るのですね。神様は真実なる方ですので、おぞましい蹂躙犯罪と嘲弄をしつつスッポンじみた粘着をし続ける存在とは違うと言うことです。「ははは」という音声が聞こえましたが、一体何なんでしょうかね。彼らはそれ程自分達が偉いと言いたいのだろうか。)

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神の愛

愛についてのみことばを調べました。
聖書の杜http://bible.monochro.com/



イザヤ書:第43章

4)あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。



エレミヤ書:第31章

3)主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。



ホセア書:第11章

1)わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。


ホセア書:第11章

4)わたしはあわれみの綱、すなわち愛のひもで彼らを導いた。わたしは彼らに対しては、あごから、くびきをはずす者のようになり、かがんで彼らに食物を与えた。


ホセア書:第14章

4)わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。



マラキ書:第1章

2)主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」。主は言われる、「エサウはヤコブの兄ではないか。しかしわたしはヤコブを愛し、



ヨハネによる福音書:第3章

16)神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。



ヨハネによる福音書:第15章

9)父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。



ヨハネによる福音書:第15章

12)わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。


ヨハネによる福音書:第16章

27)父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。



ローマ人への手紙:第5章

5)そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。


ローマ人への手紙:第5章

8)しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。



ローマ人への手紙:第8章

35)だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。


ローマ人への手紙:第8章

37)しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。


ローマ人への手紙:第8章

39)高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。



ローマ人への手紙:第11章

22)神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。


ローマ人への手紙:第11章

28)福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。


コリント人への第2の手紙:第5章

14)なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。



コリント人への第2の手紙:第13章

11)最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。


コリント人への第2の手紙:第13章

13)主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。



エペソ人への手紙:第1章

5)わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。



エペソ人への手紙:第3章

19)また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。



エペソ人への手紙:第5章

1)こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。



コロサイ人への手紙:第1章

13)神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。



コロサイ人への手紙:第3章

12)だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。



テサロニケ人への第1の手紙:第1章

4)神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。


テサロニケ人への第2の手紙:第2章

10)また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。


テサロニケ人への第2の手紙:第2章

13)しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、



テサロニケ人への第2の手紙:第3章

5)どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるように。



テモテへの第2の手紙:第1章

7)というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。



テトスへの手紙:第3章

4)ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、


へブル人への手紙:第6章

10)神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。



へブル人への手紙:第12章

6)主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。



ヤコブの手紙:第4章

5)それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。


ヤコブの手紙:第5章

11)忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。




ヨハネの第1の手紙:第2章

5)しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。



ヨハネの第1の手紙:第3章

17)世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。



ヨハネの第1の手紙:第4章

8)愛さない者は、神を知らない。神は愛である。


ヨハネの第1の手紙:第4章

9)神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
ヨハネの第1の手紙:第4章

10)わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。


ヨハネの第1の手紙:第4章

11)愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。



ヨハネの第1の手紙:第4章

12)神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。


ヨハネの第1の手紙:第4章

16)わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。



ヨハネの第1の手紙:第4章

19)わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。



新約聖書:ユダの手紙

1)イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。



新約聖書:ユダの手紙

21)神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。



ヨハネの黙示録:第3章

19)すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。


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神は愛の方でありますが私達が愛のない状態なので嫌になりますね。
情けないです。敵の挑発に一々惑わされて悪態を吐きます。

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キリストにおける自由について

イエスキリストは私達を解放してくださいます。私はそれを信じます。
物理的には余り変化がなくとも、霊的な解放は可能だと信じます。
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詩篇:第一巻 1

12)あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。


詩篇:第一巻 1

45)わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます。



ヨハネによる福音書:第8章

32)また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。


ヨハネによる福音書:第8章

36)だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。


コリント人への第1の手紙:第七章

22)主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。




コリント人への第1の手紙:第九章

19)わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。



コリント人への第2の手紙:第3章

17)主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。



ガラテヤ人への手紙:第5章

1)自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。


ガラテヤ人への手紙:第5章

13)兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。



ペテロの第1の手紙:第2章

16)自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。

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自由という言葉は聖書に多く出て来ますね。きっとキリストにあって自由の身とされることを信じます。
信仰によって祈り求めることで物理的ではない霊的な自由が与えられると信じます。

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聖書のみことばより

この度神様の恵みと慰めとを味わうに付け以下のみ言葉つまり「神は盾であります」というようなみことばが浮かびました。
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詩篇:第一巻 1

10)わたしを守る盾は神である。神は心の直き者を救われる。

詩篇:第一巻 1

2)主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。

詩篇:第一巻 1

30)この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です。


詩篇:第一巻 1

20)われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である。

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詩篇:第一巻 1

31)主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。

詩篇:第一巻 1

46)主は生きておられます。わが岩はほむべきかな。わが救の神はあがむべきかな。


詩篇:第一巻 1

2)あなたの耳をわたしに傾けて、すみやかにわたしをお救いください。わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。


詩篇:第一巻 1

7)わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。


詩篇:第一巻 1

15)主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。


イザヤ書:第17章

10)これはあなたがたが自分の救の神を忘れ、自分の避け所なる岩を心にとめなかったからだ。それゆえ、あなたがたは美しい植物を植え、異なる神の切り枝をさし、


イザヤ書:第26章

4)とこしえに主に信頼せよ、主なる神はとこしえの岩だからである。


イザヤ書:第44章

8)恐れてはならない、またおののいてはならない。わたしはこの事を昔から、あなたがたに聞かせなかったか、また告げなかったか。あなたがたはわが証人である。わたしのほかに神があるか。わたしのほかに岩はない。わたしはそのあることを知らない」。

(上のみことばは、聖書を読み始めたときに目に留まりましたがとてもユニークな表現だと思いました。これに限らず聖書にはとても面白い表現が時折見られます。どうか読んでみてください。)


ハバクク書:第1章

12)わが神、主、わが聖者よ。あなたは永遠からいますかたではありませんか。わたしたちは死んではならない。主よ、あなたは彼らをさばきのために備えられた。岩よ、あなたは彼らを懲らしめのために立てられた。


ローマ人への手紙:第9章

33)「見よ、わたしはシオンに、 つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」 と書いてあるとおりである。


コリント人への第1の手紙:第一0章

4)みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。


ペテロの第1の手紙:第2章

8)また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。

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詩篇:第一巻 1

9)わが力よ、わたしはあなたにむかってほめ歌います。神よ、あなたはわたしの高きやぐらです。


詩篇:第一巻 1

3)あなたはわたしの避け所、敵に対する堅固なやぐらです。


詩篇:第一巻 1

2)神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。

詩篇:第一巻 1

6)神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。

詩篇:第一巻 1

22)しかし主はわが高きやぐらとなり、わが神はわが避け所の岩となられました。


箴言:第18章

10)主の名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救を得る。
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「櫓(やぐら)と言うのは昔の建築物などの名称だそうですが神社の建物は正しく櫓という感じですね。無知な言い方ですみません。
最近気が付きましたが神社の櫓は独特のデザインですね。近所にある神社もそうなので驚かされ、新鮮な感動を覚えました。
神社にある木は大きくて背が高く歴史が古そうですね。
慶長という時代に建てられたと説明書きにありました。(近所の押立神社は)
今日散歩で行くと神社境内に「山車」らしき物が出されておりネットで見た山車と同じかも知れないと思い感謝しました。
下に車の付いた独特の形状でした。
これは聖書の箴言の20章26節にある「車輪引き回し」のみことばに当て嵌まる気がしました。
山車の引き回し儀式は祭りで行うそうですがこれは聖書の神が正しく世の善悪を裁いてくださるようにとの祈願が込められた儀式なのかも知れないと思いました。

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以下のみことばは、この度加害者らの行為を延々と見せつけられてきた結果脳裏に浮かびました。彼らは正しく「煮ても焼いても食えない奴等」ですね。
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箴言:第27章

22)愚かな者をうすに入れ、きねをもって、麦と共にこれをついても、その愚かさは去ることがない。


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こういう事を書いても音声にて「うふ?」と言うのみでありますので、如何に救いがたい連中か分かります。
私も所詮は愚かに過ぎなかった者ですが彼らについてはどうも、救いがたいほど脳みそが麻痺していると思います。

どうも自分達の脅し一つで自由に懐柔し弄べる存在だと思い込むようですね。ハイテクのお陰で全能者意識に捕らわれ、基地外化していても気が付きません。愚かな人民ですね。

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神様を信仰する生活の幸い

http://www.hyuki.com/imit/imit1.html

霊的な人生に益となる考え

キリストにならいて

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上のサイトには神様を信じて生きることの重要さと幸いな事であることの解説があります。被害者の方々のような立場についても当て嵌まる所がありますので、読んでくだされば幸いです。以下一部引用します。

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第12章 逆境の価値

時として試練や困難に合うことは、私たちにとって良いことです。なぜならそれによって、私たちは見習い中の身であり、この世のいかなるものにも希望をおくべきではないことを忘れずに済むからです。親切に、よかれと思ってしているにもかかわらず人々から誤解されたり、反発に見舞われたりするのも良いことです。これらのことは、私たちがへりくだり、むなしい栄光から自らを守るのに役立つからです。表面上は誰からも認められない時、誰からもよく思われない時、そのような時こそ私たちは心をご覧になられる神を一層求めるようになります。ですから、人は人間からの慰めを必要としないですむように、神のなかに堅く根を張るべきです。

善良な人が邪悪な思索によってひどく苦しめられ、誘惑され、悩まされるとき、その人は自分に何よりも必要なのは神であり、この方なしには何の良いことも出来ないのだとはっきりと悟ります。そのような人は自らのみじめさと苦しみに悲しんで、嘆き、祈ります。これ以上生きることに疲れを覚え、消えてなくなりキリストと共にいられるようにと死を願うようになります。そのとき、完璧な安全と完全な平安は、地上には見いだせないのだと、彼ははっきりと理解します。

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第24章 裁きと罪の罰

すべてのことにおいて、終末を考えに入れなさい。何も隠すことができず、わいろも言い分けも通用しない、すべての公正なる裁きをなさる、あのお方の厳しい審判の前に、どのようにして耐えることができるでしょうか。そして、あなたよ、みじめで不幸な罪人であるあなたよ、怒った人の表情すら恐れているあなたよ、あなたのすべての罪をご存知の神に対してなんと答えるつもりですか。どうしてあなたは、裁きの日のために備えないのですか。その日には、どんな人も言い訳したりできず、誰しも自分の答えをするのに手一杯なので、誰かに弁護してもらったりすることもできないというのに。この人生において、あなたの労苦は報われ、あなたの涙は受け入れられ、あなたのため息は聞かれ、あなたの悲しみは慰められ、きよめられます。

忍耐強い人というものは、次のようなときに大きくて有益な苦難を通ります。それは、自分自身の傷よりも自分に傷を負わせた人の悪行のことを嘆くとき。彼が自分の敵のことをさっと祈り、敵の攻めに対して心から赦すとき。彼がためらわずに他の人の赦しを請うとき。怒りよりも哀れみのほうが心を動かすとき。自分自身を頻繁に責め、肉体を完全に霊に従わせようとするとき。

罪の悔い改めをして悪徳を刈り取ることを現在おこなうほうが、来るべき世において魂の浄化をするのを待つよりも良いのです。実際、私たちは肉体を愛する誤った助言によって自分自身をあざむきます。かの炎は我々の罪以外の何を燃料とするでしょうか。私たちが自分自身を惜しめば惜しむほど、肉体を満足させればさせるほど、清算するのは困難になり、炎で燃やされるものが多くなるのです。

というのは、人は自分が罪をおかした事柄において、よりひどく罰をうけるようになるからです。そこでは、怠け者は炎の先端に駆り立てられ、大食らいの人は話すことすらできないほどの空腹と乾きに苦しめられるのです。不貞を働く人や肉欲を愛する人は、燃えるピッチとむかつく硫黄に浴することになります。ねたみ深い人は、狂った犬のように嘆き吠えるでしょう。

いかなる悪も、それに応じた罰を伴うものです。高慢な人は、あらゆる混乱に直面するでしょうし、欲深な人は、最高にみじめな貧困に苦しむでしょう。 1時間あちらで苦しみを受けることは、 100年間こちらでもっとも厳しい懺悔を行うことよりもつらいでしょう。 (One hour of suffering there will be more bitter than a hundred years of the most severe penance here.) こちらの生活では、人はときどき労働から解放されて友からの慰めを受けますが、 damnedな人々は、休息を得ることや慰めを得ることはありません。

ですから、あなたがたは、いま自分の罪を取り扱い、悔い改め、裁きの日には恵みによって安息に入ることができるようにしなければなりません。というのは裁きの日には、the just will stand firm against those who tortured and oppressed them, and he who now submits humbly to the judgment of men will arise to pass judgment upon them. 貧しい者、へりくだるものは、大きな確信を得るでしょう。一方、傲慢な者は恐怖に打たれるでしょう。そのときになると、この世においては愚かとされ、キリストのために軽蔑されるような人が、実は賢明だったのだということが明らかになるでしょう。

その日には、すべての忍耐の中から生まれた試練は喜ばしいものとなり、邪悪な声は沈黙するでしょう。信仰深い者は喜び、不信心者は嘆くでしょう。はずかしめを受けた体は、ありとあらゆる快楽で甘やかされてきた体よりも、はるかに大きな喜びを得るでしょう。そのとき、安っぽい衣装は堂々と輝き、立派な衣装は色あせ、すり切れるでしょう。貧相で小さな家は、黄金の宮殿よりも賛美されるでしょう。その日には、辛抱強い忍耐力はこの世のすべての力よりも重要なものとされるでしょう。愚かなまでに一途な従順は、この世的ないかなる賢明さよりも高められるでしょう。善良できよい良心は、学識のある人の哲学よりも、人の心を喜ばせるでしょう。財産を軽視する態度は、この世のすべての宝よりも重用になるでしょう。

そしてあなたは、優雅に暮らすことよりも、熱心に祈ることのうちに、さらなる慰めを見出すでしょう。あなたは、だらだら続く噂話よりも沈黙を好むほど幸せになるでしょう。

多くのきれいな言葉よりも、聖なる働きは大きな価値を持つでしょう。人生の厳しさと激しいpenancesは、すべての世俗的な喜びよりも喜ばしいものとなるでしょう。

ですから、現在のささやかな苦しみを受けることを学びなさい。そうすれば、より大きな苦しみを永遠において受けることはないでしょう。ここで、自分が何に耐え得るかを示しなさい。現在、ほんの小さな苦しみにしか耐えられないなら、どうして永遠の苦しみに耐え得ることができるでしょう。もし、小さな苦しみにいま耐えられないなら、地獄の炎はどうなるでしょう。実際、あなたは二つの喜びを持つことはできません。この世の喜びを味わうことと、後の世にキリストとともに統べ治めることを同時に行うことはできません。

今、この時、あなたの人生が栄光と歓喜に満ちているならば、もし、あなたが死んだ瞬間、それが何の益になるでしょう。ですから、すべてはむなしいのです。ただ、神を愛することと神に仕えることだけがむなしくありません。

心の底から神を愛する人は、死を畏れず、罰や、裁きや、地獄を恐れません。なぜなら完全な愛が神との結びつきを保証するからです。

罪の喜びの中にまだいる人が、死や裁きを恐れることは不思議ではありません。

しかしながら、これはいいことです。愛がまだあなたを悪に向かうのを引き止めないとしても、少なくとも地獄に対する恐怖はあなたが悪に向かうのを引き止めるというのは。神への畏れを脇に投げ捨てるような人は、良いことのうちに永らえることはできず、あっというまに悪魔の罠におちいってしまうでしょう。

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聖書のみことばより

へブル人への手紙10章
29)神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。

30)「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。

31)生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。
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11章
6)信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

35)女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。


36)なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。


37)あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、


38)(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。


39)さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。


40)神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。

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12章

1)こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。


2)信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。


3)あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。


4)あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。


5)また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。


6)主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。


7)あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。


8)だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。


9)その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。


10)肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。


11)すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。


12)それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。


13)また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。


14)すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。


15)気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。

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29)わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。

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コリント第二3章

17)主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。

4章
8)わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。


9)迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。

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16)だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。


17)なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。


18)わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

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5章
7)わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。

10)なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

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17)だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。



20)神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。


21)神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

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7章
10)神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。

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9章

8)神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。
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12章
10)だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
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13章
8)わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。

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ピリピ人への手紙2章

6)キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、


7)かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、


8)おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。


9)それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。


10)それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、


11)また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。


12)わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。


13)あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。


14)すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。


15)それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。
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ピリピ人への手紙3章
8)わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、


9)律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。


10)すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、


11)なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。


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4章

6)何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。


7)そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。


8)最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。


9)あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。

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11)わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。

12)わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。

13)わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

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19)わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。

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この度被害者が加害者より自由になるために最善の方法としては「加害者への関心を捨てる」と言うことです。
加害者らは所詮は悪を行う者でありながら何とかしてもっともらしく見せることで自己正当化し更に被害者への絶えざるブチ切れ工作により自滅させようとするのです。
ですので救い主である聖書の神様、イエスキリストに全てを委ねて救いを乞うしかないです。イエスキリストは救い主であり購い主であり私達を解放してくださる方です。
現状は変わらないかも知れませんが霊的な解放は与えられます。
神様は全てのことを知られ、正確に裁かれます。
それがいつかは知りませんが神様以外には正しく裁くことが出来ません。人間は全てが罪人だと聖書に書かれているからです。
ですので聖書の神様のみことばに信頼をして生活することが最善です。
神様を否定して自己の義により頼むことは愚かです。
それも悪魔の罠だと思います。
悪魔は神への不信を植え付けるために働いています。
聖書のみことばやイエスキリストへの不信、侮り、等も植え付けると思います。
人間は神様によって個人的に救いに預かるというのが聖書の教えなので基本的に他者を裁くのは間違っています。(私がこの間違いを犯しました)
神様が全てのことを正しく裁かれるため、人間が為すべき事は救いに預かるために祈ることです。神様に従うことです。
神様に喜ばれる生き方をすることです。
悪霊を喜ばせてはいけないと思います。
私がそれをしてしまい止められずに苦しんでいました。
(悪態や無意識の迎合などがそうです)
神は全てを知られ、常に見ておられますので、神に喜ばれる生き方をすることが真の自由だと思います。
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伝道の書12章

13)事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。


14)神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

(このみことばはとても端的に書かれているので分かりやすいです。)
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イザヤ書51章

12)「わたしこそあなたを慰める者だ。あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、草のようになるべき人の子を恐れるのか。


13)天をのべ、地の基をすえられたあなたの造り主、主を忘れて、なぜ、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、その憤りのゆえに常にひねもす恐れるのか。しえたげる者の憤りはどこにあるか。


14)身をかがめている捕われ人は、すみやかに解かれて、死ぬことなく、穴にくだることなく、その食物はつきることがない。


15)わたしは海をふるわせ、その波をなりどよめかすあなたの神、主である。その名を万軍の主という。

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15節の言葉はとても面白いですね。別に不遜な意味ではないですが。

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バーコードの正体

http://www.geocities.jp/gscsapporo/siranaitoson.htm
知らないと損です!!             


1.バーコードの正体は?
 バーコード(刻印)は頭の数字4と左右6桁の数字からなっており、その間に他より長い下に数字がない二本線(∥)が左右と真中に3本表示されてます。この幅の二本線は6と読み取れます。(678904の6上は∥)ですから3本で666です。(ただしバーコードには三種類あって書籍などについているものは別種類なのでこの例にはあてはまらない)ところで聖書のヨハネによる黙示録には世の終末に全世界の人間が番号付けされるようになり(国民総背番号制はその前兆か?)やがてヨーロッパに現われる獣(ビースト)と呼ばれる666の称号を持つ天才的政治家(反キリスト者)によって世界経済が支配されると預言されております。
バーコードはその前兆です。さらに目に見えないバーコードのような番号と666の番号がレーザーの刺青により右手か額に刻印され、その数字を持たない者は売り買いができなくなると予告しています。
(聖書によると666の刻印を受けることは、反キリストの支配下に置かれることを意味します。右手の刻印はすでにディーズニーランドや以前の旧ファンタジードーム(苫小牧市)等で採用されており、聖書の予言の前兆と思われます。)

「すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。・・ また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外はだれも、買うことも、売ることもできないようにした。・・・その数字は六百六十六である。」(ヨハネの黙示録13章16~18)

2.的中している聖書預言

さらに聖書は世の終末には「にせキリスト」「にせ予言者」が大ぜい現われ、多くの人々が惑わされること。
「ききん」と「地震」が方々に起こと(異常気象や天変地異)。戦争と戦争のうわさを聞き「不法」がはびこること。多くの人たちの愛が冷たくなること(人心の荒廃)。不安の増大。経済的破綻等が予言されており、すべて的中しています。

「また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24章10~13)

「 そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」(ルカ21章25~27節)

[例~狂信的宗教、にせ予言、カルトの氾濫、ニューヨークでのテロ、イラク戦争、核戦争の脅威、世界的な異常気象、大地震の多発、スマトラ沖地震による大津波、池田での小学生殺人事件、少年少女の極悪犯罪や通り魔殺人の増加、振り込め詐欺、にせ札詐欺、不倫、浮気、家庭破壊、児童虐待の増加、自殺者の急増等々]
聖書は単なる宗教の書ではなく神の霊感によって書かれた神の預言書で、現代の世相を正確に預言しております。


3.キリストはだれか

キリストは宗教家ではなく、2005年前のクリスマスに神が人となって来られた救い主です。彼は多くの奇跡を行いました。病人をいやし、嵐の海を静め、死人をもよみがえらせました。ご自身も十字架で死なれた後、神の力によって三日目に復活しました。(キリストの復活が歴史的事実であったことが科学的にも証明されました。トリノの聖骸布から出る特殊なエネルギー等)
キリストは宗教の教祖(偉人)ではありません。あなたを罪から解放し、心の傷や病をいやし、すべての束縛から解放して下さる、あなたの救い主、力ある神様です。

4.知らないと損です

人間はいくら強がっても死ぬときは、地位も、名誉も、財産も持っていくことができません。多くの人は死んだら、すべてが無になると言いながらも、ばくぜんとした死後の不安又は罪のさばきがあることを無意識的に感じております。これは神が人に「永遠への思い」と「良心」を与えた証拠です。
神はあなたを愛しておられ、さばきから救うために、また、罪のゆるしと永遠の命を与えるために、イエスキリストをこの地上に送って下さいました。このイエスを信じる者は、神からの新しい命と喜びが与えられます。
聖書は、神はそのひとり子であるイエス様をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の(神の)いのちを持つためだ、と語っております。

映画「天使にラブソングを」の映画上映以来、ゴスペルがブームとなっておりますがゴスペル(Gospel)の本来の意味は「キリストによる良い知らせ」です。
「オーハッピーデー」というゴスペルの歌詞の中に「When Jesus Washed」というくだりがありますがこれはイエス様が罪を洗って下さったという意味で、そのことを「オー!何とハッピー(幸せ)なことか!!」と歌っているのです。(詳しくは、このホームページの*ゴスペルの意味をご覧ください。)
このイエスキリストを知らないことによってあなたは永遠に損をします。イエスを信じるだけで罪がゆるされ、永遠の幸せがただで与えられるからです。聖書は、宗教の経典ではなく世界の歴史が今後どう動いていくのか(過去の預言はすべて的中)、終末にどんなことが起こるのか、第三次世界大戦はどこで起こるか、人は死んだ後どこへいくのか、目に見えない世界はどうなっているのか、人はどうして存在するようになったのか、人生の目的は何か、真実な愛とは何か?といった重要なテーマが記されております。あなたも、聖書を通し、本物の神からの知恵とインスピレーションを受け、永遠の幸いを得る者となってください。神はあなたを愛しておられます。
今日、初めて方も以下のように祈ってみて下さい。
この祈りを通して、神はあなたの心にも触れて下さいます。
「真の神様。今まで神から離れて生きてきた私の罪をお許し下さい。私の罪や心の傷 をキリストの十字架の血によって洗い流して下さい。よみがえったイエス様。今、私の心の中にお入り下さい。イエス様を救い主として心の中に受け入れます。・・・(あとは自己流で何でも祈ってみて下さい)・・・イエス様のお名前によっておいのりします。」
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今の変な暴虐は何でしょうか。
終末の様々な預言とは又別物だと言うことでしょうか。
私は聖書を読み日本人の偶像礼拝の罪から来ていると思ったのですが。
創価学会の日本支配説とは果たしてどうなるのでしょう。
一体末端にはまっとうな口の利き方をする人間がいなさそうです。
日本人じゃないのかも知れないが
しかしこういった下劣で低脳な行為をしつつ高ぶるのは
やはりうらやむとか言うことはないでしょう。

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始めにおられた方(メッセージのコピペです)

No. 593 はじめにおられた方

”テキスト:ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。”

本日は「はじめにおられた方」としてメッセージしたいと思います。
イエスキリストという方はどういう方であるのか、どう聖書は語っているのかを見たいと思います。
テキストに沿って見ます。


”テキスト:ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。


聖書がキリストに関していっていることは、いきなり結論からいえば、神であると
語っているのです。
ただ奥ゆかしい表現なので、そういう気のない人、キリストを神だとは、認めたくない人には一見
わかりずらい方法で書かれています。だが、求める人、真理を求める心のある人は理解できるように
なっています。

ここでは、キリストをことばとして表現しています。
ですから、私達がキリストのことばをどう扱うかどうかは大きなポイントであることがわかります。
キリストのことばを信じ、受け入れないことは、神を信じないことに通じるのです。
聖書はキリストの絵やら、像やら、イコン等に重きをおかず、神とはいわず、しかし、
ことばに関して「ことばは神である」と語ったのです。いかに我々がキリストのことばを
扱うべきかがわかります。

キリストの像は拝むが、しかし、キリストのことばをすりかえたり、勝手に
改ざんする人々は、神を冒涜する人であることがわかるのです。

「初めに、ことばがあった」

初めに(in the begining)とのことばは、創世記の「初めに神は天と地とを創造された」とのことばと
対応しており、キリストの存在が神のわざに対応して書かれているのです。
要はキリストは神であるとこの箇所はかたっているのです。

初めにとは時間的なことをさす表現です。
世界の全てのものは時間的な区分から見るなら、以下の2つのどちらかにわけられます。
1. 初めから存在するもの
2.途中から存在するようになったもの

1は創造者、神であり、2は被造物です。
そして、キリストは1創造者であるということがこの箇所の主旨なのです。
このことをわかりやすくいうとこんな表現になるでしょうか。

大きなラーメン屋には、たくさんの働く人がいるが、
しかし、その入社(入店)年度からいうと以下の
2つに分かれる;
1. 創業時からいる人
2. 途中入社(入店)した人
この店は創業社長が一人で屋台をひっぱって始めた会社なので、
はじめからいたのは、社長のみ。後は皆、途中入社(入店)の社員なのです。

同じ意味合いで世界には天使やら、人間やら、動物やら色々な存在がありますが、
時間的な区分をするとたった二つ、初めから存在するものと後から存在するものとに
分かれます。そして、キリストはその前者、初めから存在するものである、すなわち、神である、それが
この節の主旨なのです。

「ことばは神とともにあった。ことばは神であった」

ここで明確にことばすなわち、キリストは神であることが書かれています。時々、
聖書に、キリストが神であるなどと、書いていないという人がいます。そんな間違えたことを言う
その理由は、ろくに聖書を読んでいないからです。この箇所も明確に
キリストが神であると聖書が語る箇所です。

”2 この方は、初めに神とともにおられた。”

ここでもキリストが途中から存在する様になったものではなく、世界の初めから神とともに
居られた方であることが書かれています。
初めから存在するものは世界の全てを造られた方、すなわち、神しかいないのです。
ここでの主旨もキリストは神であるということにあります。


3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。”

さて、今迄の時間的な表現と異なり、ここでは、別の区分が描かれています。
すなわち、造るもの、造られたものという区分です。

世界の全ては以下の2つに区分されます。
1. 造るもの(造物主)
2.造られたもの(被造物)

造物主は神お一人であり、それ以外の全ての存在は、
みな造られたものになります。
人も動物も天使もみな造られたものなのです。
造る方は一人であり、それは神のみなのです。
「すべてのものは、この方によって造られた」と聖書がキリストについて書く時、
その主旨はキリストが神御自身であるということです。
この区分、造るもの、造られるものという区分においてもキリストは明らかに
神なのです。




10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。”

「この方はもとから世におられ」とはキリストは途中から存在しだしたものではないということを
語っているのです。繰り返すようですが、時間的な区分からいえば、
たった2つの区分しかなく、その中でキリストは初めから居られる方なのです。

「世はこの方によって造られたのに」との表現も繰り返しです。
キリストが創造者であると語っているのです。

「世はこの方を知らなかった」

ここではよく考えると驚くべきことが書かれています。
すなわち、初めから居られ、また全てのものの創造主である方がいるのに、
この世はこの方を知らなかったということが書かれているのです。
とんでもない無知もしくはとんでもない冒涜、そう言えるでしょうか。

非常に不思議なことですが、今の世においては、
どうでも良いことばかり大袈裟に宣伝され、本当に大事なことは大きな声で語られなかったり、
強調されなかったりするのです。

まとめますが、このヨハネ一章の大きな主題は、キリストが神であること、そのことであるように
思えます。私が見た限りこのことは間違えのないような方法で、理解できるように語られているのですが、悲しいかな、それでも間違える人々がおり、誤解するクリスチャンがいるのです。
キリストは神でないなんていう、等身大のあほどもです。

彼らには「弁解の余地はない」、このことを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー

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キリストは神であるが何故か知りませんがメディアにおいてはかなり歪曲して表現されており私もそれを用いた嫌がらせがあり信仰に躓きと言うほどではないにしても自ら恥辱を負い信仰の目が開かれた後でも毎日毎日超嘲弄責めにあい過去の咎から来るのかと思ってもどうにもならず自己の忌まわしい性質のために苦しむのかと思ったり加害者のメンタリティー押し付けに過ぎないかと思ったりいろいろですがどうも聖書の神様は謙虚なためか偶像の神に比べるとかなり貶めに遭っていたり侮りにあっていたりするように思えます。
否定されるし人間と同じに言われたり誕生日を祭り騒ぎに使われるし死刑にされた道具をアクセサリにされたりするし赤ん坊の姿を菓子に見立てたりされるし(これは神を敬うという意味ですが)教え自体が性的貶めに遭うし真理のイメージを貶めるためかいろいろと体良く卑しめられたり異端カルトが出て来て偏見のイメージを造られたり新興宗教に取り入れられたり結婚式にだけ礼拝堂の形式を用いられたり偶像礼拝に狂う民に悩まされたりと、
数え切れないような侮りにあわれているような気がします。

聖書には「神は宣教の愚かさを通して信じる者を救おうと定められた」とありますがこれは正しく宣教はおろかな物に映ると言うことは神は知られていたと言うことですね。
つまり体裁や恰好や外見に惑わされないで謙って神を信じる者を救うわけですね。
私などは洗脳虐めのためか体裁や恰好や外見に異常に固執するような者になったのでこの度虐め犯罪に関してかなり苦悩しました。
虚栄心や見た目に固執するのは楽ではなく苦渋に満ちていますので、加害者らの行為を通じて何か学べばいいのだろうか。

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加害者についての感想ですが

2週間ほど前に隣の地域の府中市にある大國魂神社に行きました。親の車に乗せて頂きましたが下りて神社に行く途中で案の定加害者らのバイク集団が大仰に大騒音を当てて目の前を走り去って行きました。それは悪趣味なパフォーマンスといえる物でした。

他の方々は無表情で何を思うのか分かりません。只加害者らしきアベックが此方に来るのみです。(横断歩道で)人は多いのですが人の感情は読み取れない世ですね。

この事でもそうですが最近末端達の嫌な行為を見ているとどうも強制的にやらされている嫌いがあるような気がしました。前からそう言った事はネットで読みましたがやはり見るとどうも、集団で群れているが傍目に恥ずかしいと思えるような事をさせています。大集団によるバイクの行進とか女性ならば嫌らしい服装ですれ違わせるなど。

そう言った事が平気な方がいるかも知れないがしかし大概はどうも、嫌そうな表情にも見える。そしてそう言った行為は大概は独身者にさせているようですね。網タイツとかミニスカートとか胸の出るような服とか割と嫌な感じのするような服装とか、そう言った事をさせられて人前に出るのですがこれも幾ら洗脳されているとは言え嫌な物ではないかと思うのです。

後ろ姿しか分からないことも多いのですがどう考えても変態かと思われそうなパフォーマンスも見られるためこの変な団体はきっと独身者への差別待遇がありそうだとか他にもあると思いますが極めて嫌な風習の中にいそうに思いました。

音声で言えば与えられた拘束生活という言葉もありましたがそう言った超抑圧態勢の中にいるために狭められた事にのみ神経集中し狭められた思考のみで生きますます変になり誰も責任取りませんーーーーではきっと、酷すぎるような集団といえる。とは言え酷いのは当たり前で死者を多く出しているので酷いに決まっているが。

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家出で信州に行き帰りの列車を降りて乗り換えるとき小淵沢という駅で降りましたが、そこでもきっちりと集スト状態でした。此方の他にも何処に行こうが地域中が陰惨で無表情で静まりかえり加害者しか見えません。普通の人間を見ることがない気がします。

疲れ切り近くの草むらに入り休むつもりでしゃがむと、近くに蜘蛛の巣が見えました。そしてでかい蜘蛛がいて何と巣には一匹の虫がかかっていたのです。見ていると蜘蛛はその虫ににじり寄っていき餌食の虫を糸でグルグル巻きにし始めました。

驚いてみていましたがこういう光景は初めてでした。しかしこの残忍な印象のある無気味な虫も神の造られた物とすると人間にもこういった感じのタイプがいるな。神はそう言う譬えのためにあらゆる生物などを造られたのかなと、思ったのです。

網を張り巡らせて餌食がかかるとにじり寄って大喜びで食い物にする。

そして今日見た蜘蛛はその餌食を糸でグルグル巻きにしていました。不可解な行為でしたが人間でも同じだろうかと思いました。かかった餌食を雁字搦めにしてしまうと言う。

神は偶然ではなくこういった事を見せてくださったのか。

偶然ではなく通過した一人の婦人が声をかけてくれたので蜘蛛のことを言い、人間でもこういう者がいると話すと笑って「食うか食われるかですからね」と言って去った。加害者集団のこととすれば良いことを聞いたが一見一般第三者の方が的確に見ていると思いました。本当に加害者らはそうだろうか。

そうとすれば何故ああいう馬鹿な行為を嫌そうにしながらでもするのか。言うことを聞かねばやられる(殺しに匹敵するような事を)からでしょうか。随分と悲惨な世界にいる気もします。

人の恫喝などを恐れるとろくな目に遭わないのは神を真に恐れるべきだからです。人を恐れた結果として弱者虐めに拍車がかかる。

私も加害者のような基地外じみた人種を恐れたために神経症になりペット虐待をするしで大変な苦渋を味わったのです。

「人を恐れると罠にかかる」というのは真実ですね。

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神社と言えば地域にも必ず一つの町にあるようです。この嫌がらせにあってから知るようになりました。神社には必ず大きく高い木があり独特の雰囲気ですね。宮の造りも何処か崇高で気高く仏教とは違うと思いました。仏教は宗教というイメージですが神社は真に神を祀る場所という感じがします。

聖書に出てくる神殿との造りも共通しているそうです。最近知ったが確かに聖所と至聖所というのがあり驚き感動しました。無い神社もあるようですが。

しかしある近くの地域にはお寺と神社が隣り合わせの場所もあり寺は管理され整備されているのに神社は陰惨で誰もおらず寂れたところです。そしてしかも加害者らの置いたのか変なスポーツカーまであります。今日行くと監視して知るためか前に祈っていた場所にもゴミの遺棄がありました。

家の近くの神社にもある時変なゴミの散らかしがありました。加害者は当然神無き世界にいるのでしょう、しかし個人への憑依虐めを延々と続けることに何か意味などあるのか。

あるとすれば被害者の忍耐を養うためだろうか。やり切れないがこれも神様の采配でしょうか。

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5e4f6818 写真は長野県南牧村の地域の神社ですが宮の方から坂下の鳥居を見下ろした眺めです。とても良い場所でした。

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3eef41e6 これは神社を下の方から遠景で取りましたが隣に何故か仏教の墓地がありました。神道では墓はどうするのでしたっけ。隣は何故か整備がきれいでしたが神社の方は如何にも寂れておりしかしそれでも神々しく崇高で何処か心安らぐ物を覚えました。聖書の神との関わりがあるからでしょうか。

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4f24ba2 これは家出をする朝に写しました、とても空がきれいで圧倒されました。しかしながらやはり何処か不穏で人間の様相や心理状態を思うと本当に嫌な気持ちになります。

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「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。」 詩篇4:4

http://www.peninsulafmc.org/jp/ms/20060430.html

『夕べの祈り』  2006年4月30日 


「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。」 詩篇4:4


 先週は、「朝の祈り」と題してお話をいたしました。過去の罪と現在の悲しみの中で、ダビデは主によって安らぎを得て、新しい朝を迎えるということを学びました。今日の聖句は、それよりも少し後に歌われたものだと言われています。新しい朝を迎えた者が、また夕方を迎え、そして眠りに着く・・・このような内容であることから、「夕べの祈り」と言われています。

 それにしてもこの聖句は、強烈な印象を与えますね。ずいぶん厳しいようにも思えます。しかしこれは、よく読んだら分かります通り、怒ることを戒めているのではありません。正義の怒りもあれば、人間としての怒り、裏切った者への怒りなど、私たちは色々な場面で怒るのです。それは当然であって、悪いことだけではありません。でも、それが度を過ぎた時、怒りは罪へと移行する危険性があります。それをダビデは、そして聖書は言いたいのではないでしょうか? ダビデは、いわれのない痛みを負って、この歌をうたいました。だからこそ、彼はこのように祈ったのでしょう。

 私が神学生の頃は、寮生活をしていました。ある日私が同僚と一緒に寮の掃除をしていると、その彼はいい加減に掃除をしているではありませんか。「神学生ともあろう者が、何てことだ」と私は思い、彼を注意しました。その注意は、むしろ怒りをぶつけるというようなものだったと思います。そんな私に対して彼は、「ごめん、ごめんね」と、すぐに素直に謝ってきたのです。その瞬間、私は頭をハンマーで殴られたような、そんな気持ちになりました。つまり、正しいはずの私の方が、かえって悪いことをしたような気がしたのです。確かに私は、正しいことを言いました。しかしそれは、度を越しており、明らかに悪しき思いへと変化していたのです。

 だから聖書は、この聖句を私たちに与えているのだと思います。神様は、ゆっくりと自分のあり方を考えるために、静かな夜を与えていてくださいます。そこで主と交わり、祈り、考えるなら、安らかな眠りと、希望の朝が与えられることでしょう。

ペニンスラフリーメソジスト教会日語部牧師
榊原 宣行

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自己のあり方ですか、暴虐集団にはそれを悉く破壊されています。何しろ都合良く嘲りたいためか何をしても変な解釈による嘲弄があるようです。
一体何があの変な人種にとりご満悦なのかと首をかしげるのですがきっと彼らにとり満足するなどと言うことはなく只ひたすらに嘲り続け見下し相手を体良く苦しめるのみが快楽なのでしょう。そしてそれから離れることが出来ないのだろう。

しかし変な技術弄してまで人を無意味に嘲り続けた結果果たして一体どうなるのかと疑問です。私はそれが不可解すぎるので苦痛です。
こういう物に果たして公正な罰などあるだろうか。荒唐無稽すぎるために理解できません。

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273d3fbd 写真は野辺山高原の農道から写しました。小川があり清水が流れていました。遠くに見えるのは八ヶ岳だと思います。

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Ef248712 Bf991b4 写真は家で前に移した朝の空です、こういった変な暴虐の最中でも

神はくすしいみわざを見せてくださいます。そう思い載せました。

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Bdd87c31  これは徳島県にいる被害者の方が送って下さいました。神様のみわざを思うとき嬉しさで満たされました。

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神への信頼

http://www2u.biglobe.ne.jp/~church/message_no041.html
第41回 神様を信頼する者 1999/11/07(Su)

■詩篇4:1-8節

4 聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌
4:1 わたしの義を助け守られる神よ、わたしが呼ばわる時、お答えください。あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。
4:2 人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。いつまでむなしい言葉を愛し、偽りを慕い求めるのか。〔セラ
4:3 しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。
4:4 あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。〔セラ
4:5 義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい。
4:6 多くの人は言う、「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。主よ、どうか、み顔の光を/わたしたちの上に照されるように」と。
4:7 あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びに/まさるものでした。
4:8 わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。



この詩篇は、3篇と同じ状況が背景となっていると思われるが、時間的には数日後で、危機が去り安堵の中での夕べの祈りである。
アブシャロムの反逆により怒り・敗北感の中にいるダビデが、自分の苦しみを主に委ねて問題の解決を図ったのです。つまり、神様との深い信頼と人格的な信頼がダビデにありました。今の言葉で言いますと、神様にすべてを依存することであります。

今の現代生活に、4篇はいろいろな教訓を与えてくれます。
今の社会は、人間たちのいろいろな生活・仕事・価値観など多様化されています。その中で、人間たちの間に様々な問題が起こっています。互いに被害を与えたりもらったりするのです。私たちが気がつかない内にストレスが貯まってしまいます。そのストレスを解消するために、現代人は努力しています。
ダビデは自分の問題を解決するために、怒りを持ってアブシャロムに攻撃をしなかったのです。ダビデは神様と対話をしたのです。
今回は、神様に対するダビデの信頼について考えたいと思います。



1.信頼の祈り

●4:1 わたしの義を助け守られる神よ、わたしが呼ばわる時、お答えください。あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。

我々の生活の中で、何か自分の心を打ち明けることが出来る相手がいるのは、本当に幸せだと思います。自分の気持ちを理解してくれる人・自分の悩みをありのままで聞いてくれる人が、少ないような気がします。今の現代人は、自分のことで精一杯であります。人様のお話を聞いてあげるような暇がない時代でもあります。ダビデの心境と今の現代人の心境は、似てるところがあるようです。
ダビデの祈る気持ちというのは、精神的に安定しているようですが、やはり心のどこかに怒りと不安があるのです。
しかし、ダビデは自分の視線を周りに向けないで神様に向けたのです。ダビデの生涯というのは、祈りの生涯でもあります。すべてを主に委ねていたのであります。
神様に信頼の祈りが出来るようになった根拠はここにあります。

①神様の義なる人格を持っておられるからです。

●4:1 わたしの義を助け守られる神よ

「私の義なる神」という表現によって、ダビデは自分の潔白を証明して下さるのは神であることを告白する。(詩篇7:8)
神様は、義なる人格を持っておられます。義なる人格というのは、すべてを正しく判断して下さるのです。神様は私たちを正しく助けて下さります。

●4:3 主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。

神様は義なるお方ですので、私たちにも正しく生きることを求めておられます。「主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる」
神様を敬う人を神様が区別するのです。つまり、神様に愛される者であります。
神様を愛している者には、神様に愛され主の助けがあるのです。

②困難の中でゆとりを与える

●4:1 あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。

神様は、苦しみの中にいる私たちに“ゆとり”をお与えになります。くつろぐという言葉は『広くなる』『空間をつくる』などの意味で、遊牧民の間で用いられた言葉のようです。羊のためにもっと広い空間を与えるということでもあります。
苦しみがあったとき、人はだれしも、狭い所に閉じ込められている気持ちになるのです。しかし、神様を信頼して呼び求める人には、厳しい世の中でこの恵みによって、くつろぎを与えられます。

■哀歌3:22-23節
3:22 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
3:23 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。

あわれみ深い神様は、私たちの祈りに耳を傾けて下さるのです。



2.信頼者の行動

①神様の方法で問題を処理する

●4:4 あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。

問題があったとき、私たちはすぐ反応して我々の方法で解決を考えます。その中で感情的に問題を処理する時があります。でも、神様を信頼する者は神様の法則で反応をするのです。

②心を静かにする

●4:4 あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。

“怒り”というのは、我慢出来ない自分自身をおさえることが出来ない状況です。その状況の中で神様に心を向けることであります。私たちは、主に神様に近づければ近づくほど、神様は私たちの方に近づいてくださるのです。

■ヤコブ4:8節
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。



3.信頼者の喜び…世にまさる喜びと平安

●4:7 あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びに/まさるものでした。
●4:8 わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。

神様が私たちに与える喜びは環境を乗り越えます。つまり、神様を信頼する人々に与えて下さるのです。
この喜びは世の中で味わうことが出来ない喜びです。
『 穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びに/まさるものでした』

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神の懲らしめ

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2006msg/061119.html
ホームページ・メッセージ061119           
 小 石  泉

教育の崩壊

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 日本の教育が混乱し始めています。子供たちが自殺という手段でしか自己を表現できず、校長先生までが自殺するとあっては、もはや崩壊と呼ぶべきでしょう。誰にも、どうしていいのか分からなくなっています。戦後、日本は徹底的に民主化と無神論教育がなされました。その結果、権威というものが無くなってしまいました。権威の失われた社会は、こんなにも惨憺たる状態になるのですね。

主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。箴言1:7 

 教育の基本は神を畏れ敬うことです。昔の日本には正しい神認識は無かったにせよ、人間以上のものを畏れ敬うという感覚はあったのです。昔の有名な俳句に、ある神社の前で“何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙あふるる”と読んだものがあります。何が祭られているか分からないけれど、何となく涙がこぼれるほどありがたいという意味です。信じる対象は間違っていても、このような謙虚さが、かろうじて日本の精神的な背骨となっていました。今でも人々は神社に参拝し、初詣には多くの人が行きますが、習慣としてであって、信仰心は無いのです。今の人々は欲望の追及と自己主張だけです。自分の欲望のために子供が邪魔になるから殺す母親なんてこれまでの日本では考えられませんでした。精神的な崩壊が社会の至る所で始まっています。
 戦後、昭和天皇は占領軍司令官のマッカーサーに対して、日本をキリスト教国にしてくれと頼み、マッカーサーがアメリカから多くの宣教師を派遣させたのは有名な話です。しかし、昭和天皇はその後、そのことをひどく恥じたようです。晩年、アメリカを訪れ大歓迎されたとき、マッカーサーの故郷の側を通りながら墓に詣でる予定をしなかったために、遺族や町の人から大きな非難を受け、あわてて特使を遣わして花輪を届けさせるという失態を演じたことからもそれがうかがえます。また、皇太子妃美智子さまが聖書を子供さんたちに教えたことを激怒し美智子さまを呼んで叱りつけそのために美智子さまが失語症になられるほど悩んだこともありました。
 それもそのはずで天皇家は神社神道とは密接不可分な立場にあり、言わば大祭司的な役柄を持っているからです。戦後、文部省がキリスト教をあらゆる面で排除してきたのもその辺の事情からではないでしょうか。私は今の日本人のキリスト教嫌いは自然発生的なものではなく、造られたものではないかと思います。世界でこれほどキリスト教を毛嫌いし、むしろ敵対的な意識を持っているのはイスラエルとイスラム教国だけです。共に独自の宗教から来ているのですから日本も神道の強い影響があるのでしょう。また、そこに天皇制の影響もあるのではないかと私は思います。
  こうして真の神を排除し、人々から畏敬の念を奪った結果がこの惨状です。安倍内閣で教育改革が叫ばれていますが無駄でしょう。戦前への回帰を図ることしか方法は無いのでしょうが、私は、もうここまで来たら立ち直ることは出来ないと思います。教育の現場にいる人々は大変だと思います。
 さらに、戦後、アメリカからやってきた子育てや教育に関する指導書や思想はほとんどが無神論者や不信仰者によるものでした。その内容は子供の健全な発達よりもむしろ子供をあまやかせ、どうしようもない怪獣に育てるものだったのです。これは案外知られていないのですが事実です。そんなことってあるだろうかと思われるかもしれませんが、世界の裏側を知ると驚くようなことが分かってきます。クリスチャンは世界が、実はサタンの熱心な活動の場であることを知らな過ぎます。私はこう言う事をかなり知っているのですが、誰も信じてくれないし、聞きたがらないので自分の中で封印するしかない場合が多くあります。サタンは眠っているのではありません、人々から神に関する知識を奪うことに熱心に精力的に取り組んでいます。そのために、彼らが教育という分野を利用しようとしていることは当然だということは分かるでしょう。
 “いじめ”は「収容所症候群」なのです。人間は収容所などの閉鎖的な環境に入れられ、生活の供給に限定的な制約を加えられると、自分より少しでも弱いものをいじめることによって鬱憤を晴らすようになります、これを英語ではconcentrate camp syndrome (収容所症候群)と言います。学校という限定された環境から、そういう心理状態になるのでしょう。これも決してなくならないでしょう。
 これは日本だけの傾向かと思っていましたが、意外なことに、韓国でもかなり起こっているようです。日本よりいじめによる自殺が多くいるという報告もあります。ただし韓国の場合は日本とは少し異なる要素があるように思います。韓国の場合は日本よりも強烈な進学競争があります。儒教の影響から父系社会であり、一旦進路を外れると二度と復帰できない制約があるといいます。(「スカートの風」参照)キリスト教は盛んでも閉鎖性は日本以上なのかもしれません。私が見る限り、韓国のキリスト教は、非常に民族的な色彩の濃いもので、古い伝統と精神的な制約が強い信仰です。
 日本で、最近の幼稚園では、学芸会の劇の主役は全員、運動会の競争は一等賞はなし、なのだと聞きます。これはもう社会全体がビョーキですね。給食費は払わない、登校拒否、先生がちょっとでも触ったら“暴力”では教師はどうしたら良いのですか。私など特攻隊崩れの教師から口の中を切るようなすごいビンタを受けました。歯を折った友達もいました。昔はそんなことは当たり前だと思われていました。もちろん問題のある教師もいるでしょうが、ほとんどの先生は一生懸命、教育の現場で勤めているのです。先生の登校拒否、精神的な病がかなりな部分になるといいます。

知恵は、ちまたに呼ばわり、市場にその声をあげ、城壁の頂で叫び、町の門の入口で語る。「思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで思慮のないことを好むのか。
あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
わたしの戒めに心をとめよ、見よ、わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ、わたしの言葉を、あなたがたに知らせる。
わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、笑い、あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。
これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。
その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない。
彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじたゆえ、自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる。
思慮のない者の不従順はおのれを殺し、愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす。しかし、わたしに聞き従う者は安らかに住まい、災に会う恐れもなく、安全である」。箴言1:20~33

 この箇所を良く読んでみてください。何だか今の日本を特定しているように思いませんか。セレブだグルメだと欲望だけにうつつを抜かして、神を知る知識を軽んじているのではありませんか。「あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかった」「彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじた」。
その結果は「恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む」のです。「その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない」。残念ながら、日本人が心から神を求めるのはこの通りになる時でしょう。私はこうならない状態での日本の“リバイバル”など信じません。

わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。そうすれば、あなたは神と人との前に恵みと、誉とを得る。
心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。3:1~8

 あなただけはこう在ってください。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ」これが全ての元です。教育もこの御言葉に従う他に救う道は無いのです。

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はっきり言って今の日本を揺るがすあの暴虐集団がきっと神の怒りの表れかも知れません。
と言ってもこの民族はきっと申命記にある「人とは言えない愚かな民」という記述とあっている気がします。
その際にも民の背信が理由で愚かな民による暴虐を書いています。
今の日本の状態に当て嵌まる恐ろしい内容です。
日本人の救いのためには文字通り神さまに立ち返り仰ぐことです。

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霊的な解放についてのメッセージ

http://members.jcom.home.ne.jp/rh-pkf/message2k505.htm

霊的奴隷解放

No. 200505   

ドイツが東と西に分けられ、厚いコンクリートの壁によってベルリンの町が東と西に隔てられていた間に、自由を求めて西側に逃れようとして失敗し命を落とした人々は数え切れません。彼らにとって自由はそれほど大切でした。

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5章1節)

リンカーン大統領はアメリカの国から奴隷制度をなくしました。今ではアフリカにある一つの国を除いては地球上に奴隷制度が全くなくなりました。人はみな自由であり平等であるべきです。

けれども、私たちには別の意味で奴隷にする力が働いています。

罪の奴隷になってはいけません

ある人は悪い習慣に捕らえられて、やめなければいけないと分かっていながらそこから逃れられずに悩んでいます。中には、著しく寿命を縮めてしまうほどの悪影響を与える習慣があります。それが誰にも分かっていて、警告もされているのにやめられないのです。その習慣がその人を奴隷にしているのです。

パウロはそのように罪に陥りやすい人間の性質をこう説明しています。

「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」(ローマ7章19-21節)

誘惑に陥りやすい私たちの性質は、悪い習慣のように単に体に悪影響を与えることだけに限られていません。それは、心やたましいを危うくするもっと重大なことにかかわっているのです。イエスはこう言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8章34節)

罪は神の意思に逆らう性質です。神が備えてくださった様々な良いことに対して反逆し敵対する性質です。私たちは生まれながらにこの性質を持っています。この性質は私たちから平安を奪い、愛を遠ざけ、光から背を向けさせます。

今、世界中で伝統的な隣人愛や人の徳を高めることが忘れられ、融和と協調の精神が軽んじられています。それは神の教えに信頼せず、神を神としてあがめることもせず、神を抜きに事を進める方がより良いと考える習慣が政治にも教育にも社会全体にも持ち込まれて、人々の心を神から遠ざけているからです。



悪の力に抵抗しなさい

私たちはこのような罪の奴隷制度に抵抗すべきです。そうしないと、その考えはますます世界中の人々の心をとりこにし、支配するようになります。人が神に信頼を置かないことが罪の始まりだからです。

けれども、大きな社会運動を始めるというのではありません。私たち一人一人が神を第一とした生活をし、神に信頼を置く態度を示すことから始めるのです。決して難しいことではありません。

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4章7節)

今、心の貧しい者、悲しんでいる者、飢え渇いている者ほど幸いです。今すぐ神により頼み神に信頼することが出来るからです。

善なるものを求めなさい

全ての良いものは神から来るのです。私たちはもともと神の御心である良い行いをするために造られたのです。神は私たちのためにその良い行いさえも準備してくださいます。良い行いは、私たちを罪の誘惑から解放してくれるのです。

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2章10節)

あなたの周りにも実践すべき良い行いがあふれています。

神の力に頼りなさい

心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。(箴言3章5節)

私たちは弱いのです。自分の力だけに頼ると失敗します。なぜなら、罪の法則がまだ働いているからです。

「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7章19、24節)

このように自分の弱さを正直に告白しているパウロは次のように続けています。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7章25節)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ8章1、2節)

ですから、キリスト・イエスにある者は本当に解放されているのです。
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聖書の教えを徹底して嘲りまるで此方が信仰を持つこと自体を否定し自分達のふざけきったゲームへの迎合を強いるような嫌がらせを繰り返す加害者らについては一体どうした物かと神に祈りましたが
聖書には「訓練と思い耐え忍べ」「忍耐は高ぶる心に勝る」「神に敬虔に生きるときは迫害を受ける」等のみことばがあります。

しかし今のマスメディアは、何と遠隔状況に置いて尚も「自分達のふざけた残虐心理虐待ゲームの餌食であるべきであり健全普通にする事は悪である」とまで言うようなメッセージを、仄めかしにより送りつけます。
何といやしくも人を性的に貶めるように嫌がらせを繰り広げてまでですがしかしこういった問題は所詮は妄想扱いな為に余り言えません。しかし神は全てのことを何れ正しく裁かれると聖書に書かれています。
それにしても上記の文章は素晴らしいですが今の日本は一体何処まで病みきっているのだろうか。
権力者が無知蒙昧な嫌がらせに加担しているし正しい人間が病気扱いされて廃人にさせられているようです。

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人生を明るみに出す

http://www.d2.dion.ne.jp/~otk/0406092newpage.htm
人生行路の灯台
0406092newpage.htm


 人生の海の嵐に、もまれ来しこの身も、不思議なる神の手により、命拾い死ぬ。
 いと静けき港に着き吾はいま安らう、救い主イエスの手にある身はいとも安し。(聖歌#472)
 
 聖歌を歌う人で、聖歌472番を知らない人は恐らくいないであろう。70歳を越えるキリスト信者ならば誰もが、貧富の差別なく、嵐の人生を通過されたに違いない。それほどに昭和の暦は激動のページでした。個人の希望が通用しなかった時代でした。
 昭和16年以後に生まれた戦争を知らない世代とは、あらゆる面で共通項を見付けることが出来ないのも致し方のないことです。「老兵は死なず、消え去るのみ」との言葉を残し、現役を解任されたマッカサー元帥の悲嘆を、今わが身にひしひしと痛感しています。
そうした日々、老いた魂を慰め、励ましてくれるのが、聖書の言葉です。
箴言3章1節~12節
3:1 わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。
3:2 そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
1~2節: 若い人々に、日々の歩む基本コースを指示しておられます。
3:3 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
3:4 そうすれば、あなたは神と人との前に/恵みと、誉とを得る。
   3節で語られたことに服従するなら、4節の褒美が与えられると、神は約束された。
3:5 心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
   途方にくれた日々、人々は己に頼ることをやめて、神からの指図があるのを待ったらよい。
3:6 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
  神に主導権を献上しよう。そのとき、不思議なように神からの電波が送られてくる。
3:7 自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
  物事が成功するとき、人は危機に臨んでいることを警戒しなければならない。失敗の最中に、緊張  を失う人はいない。怖いのは成功の日々である。悪の温床が、用意されるからだ。主があなたを   観察されること忘れないように。
  3:8 そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。
  主のテストをパス出来れば、あなたは主に守られ、たくましい人に生まれ変わる。
3:9 あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。
  次に大事なことは、感謝を忘れてはいけない。あなたの升に、蔵に揺すり入れられた宝をもって、  感謝しよう。
3:10 そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる。
  主から戻される恵みの豊かさが示されている。嘘だと思うなら試してみなさい。
3:11 わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、その戒めをきらってはならない。
  神である私はあなたの父である。私の厳しさを、軽蔑したり、敬遠したりしないように。
3:12 主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように。
  自分の子供を甘やかす親など、本当の親であるはずはない。

 人が老年期を経験するというのは、素晴らしい宝物を神から頂いたようなものである。このように自分を評価できるのは、造り主を信仰すると言う精神状態が備わっていればこそのことです。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私は正直言うと過保護な親に育てられました。施しだけは凄い良くやってくれましたが皮肉にも過保護が過ぎたのか私自身は腐れた墓みたいな者になったようでした。
しかし自殺などは幾らやろうが死ねませんでした。
その希望も失いかけたときに漸く世に絶望し聖書を読むように導かれました。
神様は教師であると言うみことばもヨブ記にあります。
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ヨブ記:第36章

22)見よ、神はその力をもってあがめられる。だれか彼のように教える者があるか。


詩篇:第一巻 1

10)もろもろの国民を懲らす者は罰することをしないだろうか、人を教える者は知識をもたないだろうか。
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以下のみことばは悪人にとり人生は闇であると言っているようですね。
具体的な意味が知りたいです。


箴言:第4章

19)悪しき人の道は暗やみのようだ、彼らは何につまずくかを知らない。

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自己の知識に頼るな

テキスト:創世記47章
テーマ :『自信過剰になるな』
中心聖句:創世記47:9
「私の齢いの年月はわずかで、ふしあわせで、
わたしの先祖のたどった齢の年月には及びません」
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これはヤコブがパロ王に言った言葉です。ヤコブの父祖アブラハムは175才で
この世を去り、彼の父イサクは180才で亡くなっているのに対し、147才の生
涯を終えたヤコブは決してわずかの年数ではなかったのです。しかし、彼の生涯は
わずかに思えたのでしょう。考えてみると、ヤコブの生涯は戦いの連続でした。若
い頃には、兄エサウに憎まれ、両親のもとを離れて異国の地で20年以上も生活し、
その間も争いは絶えず、息子や娘のために苦労の連続でした。それは一体なぜでし
ょうか。それはヤコブが終始、自分の力を過信して己の力ですべてを押し通そうと
した所に原因があります。彼はいつも神のみこころを問うことをせず、自分の知恵
で物事を判断し、実行しようとしたのです。彼は人の目には意思の強い立派な人に
見えたでしょう。しかし、晩年になって自分の生涯をふりかえった時、「私の齢い
の年月はわずかで、ふしあわせで」と告白せざるを得なかったのです。このことは
現代の私たちに大切な教訓です。もし私たちが自分の知識や才能にのみ頼るならば、
ヤコブと同じ結末になることでしょう。聖書は『心をつくして主に信頼せよ、自分
の知識にたよってはならない』といいます。

◎Iペテロ5:7を読んで祈ろう。

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旧約聖書の前半の内容はなかなか読み取れないために余り理解できませんがヤコブとはそう言う人でしたか。聖書には様々な事が書かれているのですね。

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神様の導きに従う

http://vip-club.tv/sasaki/lead01.htm
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主の導きに従う No.1
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弁護士 佐々木 満男


■本稿は“恵みの雨”連載記事「あらゆる問題は解決できる」の98年9月号の原稿です。


私たちが問題に直面したときに五番目になすべきことは、「主の導きに従う」ことです。


1.「天命」が先か、「人事」が先か

「人事を尽くして天命を待つ」という諺があります。一般にはこれが問題解決の秘訣であるとされています。クリスチャンの中にもこのように主張される方がいるようです。

「多くのクリスチャンが祈ってばかりいて何もしないでいます。だから問題が解決しないのです。まず自分の知恵と自分の力でできる限りの努力をして初めて、主から問題解決というごほうびをいただけるのです」と言うのです。もしそうだとすると神を信じていても信じていなくても同じことです。

しかし本当にそうなのでしょうか。もしそのようにして問題が解決すると、「私があれだけがんばって努力をしたから問題が解決したのだ」と思ってしまいます。それは「自画自賛」という高慢につながります。そういう人は律法主義に傾いて他の人を裁いてしまいます。

逆に、そのようにしても問題が解決しないと、「きっとこれが神の御心にちがいない、このままでいいのだ」とあきらめてしまうか、「そもそも神の御心など人間にはわからないのだ」と信仰の破綻を来たしてしまいます。またある方は、「あれほどがんばったのに、神は応えて下さらなかった」と、神を恨んだり、呪ったりします。

私たちが主に祈るのは、問題解決のために主の導きを得るためです。主は全知全能なるお方です。ですから、私たちの問題の全てを知っておられ、全ての問題を解決する力をお持ちなのです。

聖書を読めばよくわかりますが、主は時と場合に応じていろいろな導き方をなさいます。ある時はいくら祈っても何の導きもないように思えます。ある時は「何もしないで待ちなさい」と導かれます。ある時は「○○さんに助けてもらいなさい」と導かれます。またある時は「○○をしなさい」と導かれます。とにかく、主を信頼して、主の導きに忠実に従っていくときに、主による問題解決という恵みを受けるのです。



2.天命を待って人事を尽くす

ですから、「天命を待って人事を尽くす」のが神を信じる者の生き方であると思います。「天命を待つ」とは、まずよく祈って「主の導きを待ち望む」ということです。

私たちの肉性は、すぐに問題解決の現実の結果を得ようと動いてしまいます。しかし「信じる者はあわてることはない」(イザヤ28章16節)とありますように、私たちの人生の全ては主の御手の内にあるのですから、あわてることは何もないのです。「人事を尽くす」とは、主の導きがあったときに、それに忠実に従うために全力を尽くすということです。

祈っても主の導きがないか、主の導きが「何もしないで待ちなさい」ということであれば、何もしないで待たなければなりません。状況がどんどん動いているときに何もしないで待つことはつらいことです。また、結論が出るまで長期間かかるときは、何もしないで待ち続けることは、もっと大変です。

主の導きが「○○さんに助けてもらいなさい」ということであれば、その方に助けてもらわなければなりません。その方が自分の気に入らない方かもしれません。また自分の思いどおりに動いてくれないかもしれません。でも、その方の助けにまかせなければならないのです。

また、主の導きが「○○をしなさい」ということであれば、そのことがどんないやなことであっても、全力を尽くしてそれをしなければなりません。


3.連続幼児殺人事件


かつて私が心から信頼していた方から重大な相談を受けました。当時世間を大きく騒がせ、恐怖に陥入れていた連続幼児殺人事件のことでした。

その方の知人のご主人(X氏)に犯人のモンタージュ写真がそっくり似ていることや、性格、素行、精神状況や住居地から見て、X氏が犯人に間違いないと言うのです。大至急、私の知っている筋を通して警察庁か検察庁に内密に調査を依頼してほしいと頼まれました。X氏は某大手建設会社の設計技師をしているということです。

その事件の犯人が1日でも早く捕まるように祈っていましたので、その話を聞いて私は、「これは重大だ。すぐに手を打たないと次々に犠牲者が出たら大変なことになる」と思い、その場で友人の検事に電話をしようとしました。

でもとっさに、「もし万一X氏が犯人でなかったらとんでもないことになってしまう。これだけの大事件だから、有力犯人ということでマスコミにも大きく取り上げられるであろう。そうしたら、X氏や家族や勤務先にも回復しがたい損害を与えてしまうことになりかねない」と思いました。

また、X氏が無実の罪で有罪にされてしまう可能性や、X氏に捜査の関心が集中している間に真犯人による次の殺害の可能性も考えられました。

そこでまず主に祈って、主の導きを求めることにしたのです。ところが祈っても祈っても、なかなか主から明確な導きが与えられません。どんどん日が経っていきます。放っておいて次の犠牲者が出たら大変だという思いと、万一まちがっていたら大きな迷惑をかけてしまうという思いの板ばさみにあって、非常に苦しみました。

日々のニュースを追えば追うほど、X氏が犯人にまちがいないという確信が強まってきます。何度も何度も受話器を手にして検事に電話をしようとしました。しかしその都度、「いやこれは重大なことだ。まず主の導きがなければしてはいけない」と思いとどまりました。

数週間が過ぎたある日、各新聞の第一面にでかでかと犯人逮捕のニュースが載りました。X氏ではありませんでした。私は呆然としてしまいました。犯人はX氏だとほぼ99パーセント思い込んでいたからです。

やはり私にゴー・サインを出さなかった主が正しかったのです。主の導きに従おうとしていて本当によかったと思いました。自分の知識と思いに従っていたら、きっととんでもない大混乱を引き起こしてしまったことでしょう。

 

心をつくして主に信頼せよ。自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる(箴言3章5節、6節)。

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神を知らないと様々な惑わしにあい、高慢や傲慢や欺きに遭いやすく何度でも騙され愚かさから抜け出せないことになるようです。私の場合はそうでした。
つまり上にあるように「自画自賛状態」に陥り自惚れや勘違い、都合の良い妄想などに陥り酷い場合は自己愛性人格障害状態になります。私はそうでした。
 

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神の導きを乞う

http://www2u.biglobe.ne.jp/~church/message_no109.html
第109回 導いて下さる神様/確かな信仰⑬

2001/03/11(Su)

■詩篇78:52-53

78:52 こうして神はおのれの民を羊のように引き出し、彼らを荒野で羊の群れのように導き、
78:53 彼らを安らかに導かれたので/彼らは恐れることがなかった。しかし海は彼らの敵をのみつくした。



人間は生きるために誰かによって導かれるのです。

人間は母の体内から生まれて成長し年老いて世を去るまで長い人生の中でいろいろな人々によって助けられ守られて導かれて人生を全うするのです。
人と言う言葉は人が立っている形から出来た字であります。人は互いに支えるという意味だと言われています。人間は生まれてから人々に支えられて生きられるのです。
日本では無数の神々がいます。その神々に自分の願いを祈ります。そしてお守りを買います。そのお守りを身につけられている時、神々が自分に宿り、自分を守ってくれると信じています。人々は力があり、絶対者に自分を安全に導いて下さるようにお願いをするのです。
聖書ではこのような御言葉があります。

●箴言3:5-6節
心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

お守りを買っていつまでも身につけると私たちは守られると信じています。でも聖書では主に信頼し主を認めるとき、私たちの人生の道を神様が責任を持って真っ直ぐにして下さるという意味の言葉であります。
神様を信頼する者の中で生き詰まりや苦しみや悩みを神様御自身が責任を持って私たちを導いて下さるという約束であります。

今回は神様はどのようにして私たちを導いて下さるのかを考えたいと思います。



1.先頭に立って導いて下さる神様

●78:52 こうして神はおのれの民を羊のように引き出し、彼らを荒野で羊の群れのように導き、

神様とイスラエルとの特別な関係で、民は羊、神様は羊飼いとして表現しています。
ひつじかい 羊飼い ヘブル語ローエは「世話をする,牧する」という意味する. 羊飼いのおもな仕事は,羊の群が十分に食べることができるような牧草地に導き,また飲み水を与えることである.牧草のない時期には,飼料を与えて養わなければならない.冷害やかんばつのために牧草や飼料が十分でない時は,多くの羊ややぎが死ぬことがあった.また羊飼いは野獣の来襲から群を守るために,常に長い杖を持ち歩き,野獣を追い払った.また石投げを携えていた.時には犬を連れて羊を守ることもあった.羊は迷いやすく,牧者に導かれなければならない動物であった.牧者と羊の関係が,神とその民,また神の指導者とその群との関係に,象徴的に描かれているのです。

神様はイスラエル民たちを荒野を通るとき、羊を導くように神様御自身が羊飼いになられて安全に先導に立ってイスラエル民たちを導いて下さいました。
時々私たちの人生を荒野と譬えをします。
荒野: 一般的に言って,植物があまり生育せず,人の居住にも適さない荒れ果てた地域を指します。
生きる中で私たちも健康や仕事や家庭や様々な問題に直面します。どこに行けばいいのかどうすればいいのか人生の方向が分からないときがあります。
その時、神様は迷っている羊のような私たちを先頭に立って安全な所に導いて下さるのです。

●出エジプト13:21-22節
13:21 主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。
13:22 昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。
『〈雲の柱〉〈火の柱〉による導きは,超自然的でありつつ人格的な神の導きであることを示している.イスラエルは,この神の導きなしに危険な荒野の旅に踏み出すことは出来なかった』



2.神様の目は私たちを見ておられる

● 詩篇32:8節
32:8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。

子供が公園で遊んでいるときお母さんの目線はどこにありますか?
恐らく自分の子供に目線があると思います。天のお父さんである神様は地上にいる私たちに目を止めて下さるのです。倒れてないのか、つまずかないのか神様は一度も休まないで私たちを見つめておられます。

●詩篇78:52-53
78:52 こうして神はおのれの民を羊のように引き出し、彼らを荒野で羊の群れのように導き、
78:53 彼らを安らかに導かれたので/彼らは恐れることがなかった。しかし海は彼らの敵をのみつくした。

神様が私たちを注目して下さるので我々は安らかに導かれるのです。
自分の知識に頼ってはならない。神様は依存している人々は確実に私たちの歩みを導いて下さるのです。


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羊は愛らしい動物ですが上記の通りだと言うことと後何処か別の所での記述を読むと正しく愚鈍と言う言葉も当て嵌まりそうですがしかしそうだとすれば私に当て嵌まります。
聖書を読む前には何と人前では見栄を張り取り繕うだけで人の見ていない場所ではストレスによる食べ吐きなどをしょっちゅうするような人間でした。完全に病んだ状態でした。

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神に信頼する

優先

神の優先されることがわたしのものになった時に、彼はわたしを導くと約束なさいました。 聖書の、箴言第3章5-6節に記されてあります。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」。

  もしも、わたしたちの優先するものが正しければ、すべてが正しくなります。 聖書の、マタイによる福音書第6章33節に記されてあります。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」。
http://en.bibleinfo.com/old/H2/bil01797.htm

ーーーーーーーーーーーーーー
昔は何を求めていたか、それは安心感かも知れません。
その為に返って暗闇と神経症的な苦しみに満たされたようでした。
自己中心になりどんどん病的な状態になったようです。
ーーーーーーーーーーーーーーー
http://mikotoba.jugem.jp/?cid=6
2008.04.15 Tuesday
神に心を全開せよ
信仰 のはなし
「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」詩81:10

神様の大きな恵みを受けるには、小さく凝り固まった心を捨て去り、飛躍することを期待するところから始めなくてはなりません。何かを得るには、先ず心と精神でそれを感じなくてはいけないのです。飛躍するために心を大きく持てば、神は必要なものを下さるのです。自分の勝手な固定観念で未来を見ているうちは、神の恵みはもたらされません。自分で決めた枠をはずし、神様に心を全開してみましょう。
ーーーーーーーーーー
固定観念による未来像という物は世が教えてくる物だと思いますがそれのために絶望し自殺志願があったようです。後は摂食障害になり妄想病になったり自己愛性人格障害になったりでした。
徹底して追い込まれて真の闇を覚えたときに「聖書をきちんと学ぶことが必要かも知れない」と思ったのです。
そしてその時に手元に有った物は「みことば便利ブック」という冊子の広告でしたがそれを買い読んだら意外なみことばがあり聖書へのイメージが覆されたのです。
それは「愛する皆さん、自分で復讐してはいけません。復讐は神に任せなさい」という箇所でした。それはリビングバイブルという聖書のものでした。リビングバイブルは現代風の言葉で親しみやすい表現だそうです。因みに以下のみことばは口語訳の同箇所です。

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ローマ人への手紙:第12章

19)愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

へブル人への手紙:第10章

30)「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。

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あるブログ、サイトよりコピペです

http://blogs.yahoo.co.jp/daniel1996ny/6453922.html
自分の知識にたよってはならない。
2008/4/17(木) 今日のみことば
心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言 3:5-6

Trust in the Lord with all your heart, And lean not on your own understanding;
In all your ways acknowledge Him, And He shall direct your paths.
Proverbs 3:5-6

 すべての出来事で主の導きを求めることは大変たいせつなことだと思います。主はすべての出来事を最善に導いて下さります。でも、クリスチャン同士や教会内では、お互いに主に信頼しているはずなのに意見が異なるということがよくあります。もちろん、愛をもって譲るべきことは譲り、解決することが聖書的だと思います。

NKJVと口語訳を較べてみると、口語訳では自分の知識にたよってならない。とありますが、NKJVでは
lean not on your own understanding.と記されており、自分の理解に頼ってはならないという意味です。(新改訳は、自分の悟りにたよるな。でNKJVに近い。)

 自分の知識というよりも、聖書や主に対する理解が偏っていたら、主は喜ばれないでしょう。いかに私達が聖書をまっすぐに理解できるか? それにはやはり祈りがかかせないということでしょうか?
ーーーーーーーーーーーー
普通に生活できていれば単にしんどいのでつい自分の知恵などに頼り
加害者からの監視状態であればついしんどさから自己の知識に頼る。

前者は単に面倒くさいときがあるという意味で
後者は屈辱で恥ずかしいという意味です。
加害者らは只でさえ聖書を嘲るからです。
しかし聖書の神様はご自分の言葉を恥とする者を退けるとも書かれています。
「人を恐れると罠にかかる」という言葉通りですね。

ーーーーーーーーーーーーーー

http://www.bmp.jp/kokoro/85.htm
85.すべて主にたよれ

「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。」(箴言 3:5~8)

 台風11号の影響を受けて37日間遭難した武智三繁さんが奇跡的に救助されたニュースをテレビで見ました。どうして生き抜くことができたのでしょうか。第一に彼は海で生きるために確かな知恵を持っていたということです。彼の舟には大きい波にも耐えられる装置を持っていました。それはアクアシュートと呼ばれる海中パラシュートです。これを舟に繋いでおくと、実験によると5メートルぐらいの横波をくらっても、吸収されて沈まないそうです。

 彼の小舟につけているアクアシュートのために簡単に沈まないと知っていたから、彼は平静になれたのではないかと思います。それに加えて彼の楽観的な性格が生き延びるに役立ったと云うことです。西瓜が流れて来ないかと思ったり、魚を捕って食べ、水がなくなったきは、海水を沸かして蓋についた湯気をなめて水分を補給したり、陽差しの強い日中は日陰で休み体力の消耗を避けたことなどです。

 誰でも頼る確かなものがなければそのような時にパニック状態になり、折角持っている知恵も有効に生かすことが出来ないし、また必要な行動も起こせないでしょう。丁度、武智さんが、命綱とも言えるアクアシュートに舟を繋いでいたように、先ずは全能なる主に頼るなら、すべての道は備えられるのです。
黙想:すがる拠りどころを確かめましょう。
賛美:讃美歌291「主にまかせよ、汝が身を」
祈り:主よ、あなたの力で守りたまえ。アーメン。
ーーーーーーーーーーーーーー
昔は自己の腹か又は虚栄心などに拠り頼んでいたようです。
情けないですが。その為にかなりの無駄な労力や出費や心の病に襲われたようでした。



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主に信頼する

http://www.jhcs2.org/doich/messge/08nen3g30.html
主の言葉を聴く

ヨシュア記9章.2008.3/30

中心聖句
ヨシュア記9章14節「男たちは彼らの食糧を受け取ったが、主の指示を求めな  かった。」

箴言3章5節「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

  今週からヨシュア記に戻ります。ヨシュア記から、エリコとアイの町を攻略した事を学んで参りました。その勝利の後、ヨシュアは、イスラエルの民をエバル山に集めて、律法を石に刻んで読み上げました。

 それは、自分達が神の民とされている事を再確認しアイデンティティを確立する為でした。この事は、クリスチャンも、節目節目で、自分が十字架で救われ、神の民とされている事を確認する必要がある事を示していると思います。

 このイスラエルの民の集結は、ヨルダン川西岸周辺の国々にとっては脅威に映ったようです。そこでヘテ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王達は連合を組んでイスラエルと戦おうとしたのでした。

 そうした中、ヨシュアが率いるイスラエルが、征服しようとしていた三つ目の町は、ギベオンでした。今までの二回、エリコとアイへの侵攻では、戦いがありましたが、このギベオン侵攻は無血入城でした。周辺の国が連合を組んでイスラエルに立ち向かおうとしていた時、どうしてギベオン人は、周囲の国々と共にイスラエルと戦わなかったのでしょうか?

 ギベオンは大きな町でしたが、エリコとアイの町の陥落において、イスラルと共に神がおられるという話を聴いて、自分達の危機を悟ったからでした。神が共にいるイスラエルと戦っても勝てないと思ったのでした。

 そこでギベオン人達は策略を練りました。あたかも遠くからきた民族のように変装して和平交渉をしたのです。

 ぼろぼろのカバン、ぶどう酒を入れる皮袋も破れを繕った物を持ち、靴も着物も古びたものを身につけたのでした。更に、カラカラに渇いたパンを持ち、顔にもドロをつけ、つかれきった演技をしながら、「我々は遠い国からやってきました。それで今、我々と契約を結んでください」(ヨシュア記9章6節)とヨシュアに訴えたのでした。

 イスラエルの社会は契約社会でした。日本も世界の潮流に飲み込まれて、契約社会になりつつあります。特に、”イスラエルの社会の契約は絶対”でした。それは、”神の御前で約束を交わす事を意味していたから”です。

 それゆえイスラエル人は契約には慎重でした。この時も、初めはギベオン人を近くに住む民かも知れないと疑ったのでした。けれども丁寧に近づく彼等の姿に騙されて、”イスラエルはギベオン人の食料を受け取り共に食事をした”のです。

 この”食卓を共に囲む契約”は、先週もお話しましたが、”食卓に招いた家の主人が、客人に対して「私の全存在を持って、命がけで、あなたを守る」という契約”でありまして、それが、”主の食卓である聖餐に続いている”のです。

 ここで、”イスラエルはギベオン人と、「あなた達を殺さず。守り抜きます」という契約(シャローム)を結んでしまった”のでした。シャロームというのは、イスラエルの挨拶の言葉で、「神の平安があるように」という意味があります。神のご加護の約束は、人に心底の平安を与える事から、”契約をシャーローム”と呼ぶようになったと思われます。
  
 この時、”ヨシュアは、一つの大きな失敗”をしていたのです…それは、”主の指示を求めようとしなかった事”でした…この、”主の指示”という言葉には、直訳しますと、「主の口」という意味があります。

 つまり、”「イスラエルが主の御声に聴こうとしなかった」と言っている”のです。ヨシュア達は、”自分達の考えだけで決めてしまう”という間違いを犯してしまったのでした。

 イスラエルは、前のアイとの戦いに於いて、始め敗北しました。敗因はいくつかありますが、そのーつが、”神に尋ねる事をしなかった事”でした。ついこの前、失敗したばかりなのに、ここでも同じ失敗を繰り返したのです。
 ”信仰生活は、敗北の原因を顧みて、悔い改めませんと、必ず同じ失敗を繰り返してしまい”ます…”試練の中で神の愛から目を離してしまったり、御言葉に聴く事を忘