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2008年4月

聖書に導かれた経緯ですが

聖書に導かれた経緯です。

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集スト被害の中でメディアに絶望した。それまで依存していた。(虐められていても)他に救いがあるのか知らなかった。

教会には通っていたが表面の取り繕いの生活しかできなかった。

信徒の方々にも忌まわしく思われていたようだ。

牧師先生は親切だったが理由が分からない。ある種のあわれみだったのかも知れない。

敬虔な信者の方々との出会いがあり、参考になる言葉を頂いたりした。「自己を見つめずに神様を見上げなさい」「自己を捨てて神様に従うこと」という物だった。当時常にうつむいていたが文字通り自我の固まりだった。

自己憐憫でもなく芝居じみていた。(無知と劣等意識から)

家などでは肉の生活(聖書と無関係の)だった。

礼拝メッセージもみことばも理解できない。10年間ほど伝道をして下さった方がいたがやはり悟れず集ストの苦しみを訴えると「サタンとの会話は止めるように」と言われたがある時業を煮やしたのか、あるトラクトを送って下さった。

「何故イエス様?」というトラクトだった。それを見て何か自己の無知さ加減と誤魔化し三昧とを見透かされていたような恥辱に襲われた。腹が立ち、

「なんだこれは親切に見せかけておいて人を馬鹿にしていたのだろうか」というような感想だった。

後にその方に「死にたい」旨を告げると「交流を止めたい」と言われた。(被害が激しくなった頃だった)今思うと幼児的な依存心を見透かされていたのかも知れない。

メディア徹底的に絶望した結果「聖書を真面目に学ぶ方が良いのでは」と思い、みことばのハンドブックを購入した。

それまで実に様々な人間にあわれみを乞う生活だった。(親、教会、知人等)何故か奇妙なほど拒絶された。憤り絶望し、恨みがましい手紙を書き、摂食障害の会に送り続けたりしてしまった。その後死ぬことを希望したが死ねなかった。

それで聖書以外には頼れる存在が無いのかも知れないと思い聖書を読み出した。当時手元にあったキリスト集会の会報にあった「絶えず祈れ」という本の広告を見て買い読んだ。

その本に示されていたとおりに祈ることに励んだ。

入院中にも余りの精神の苦痛に夜毎祈り求めていた。それが聞かれたので、退院後、抑圧の解放と過去の愚かさの自覚や認識が与えられたのかも知れない。

それが何故かメディアからの激しい虐めに繋がったようだ。抑圧の消滅により積年の怒りが暴発したためだったようだが、家の中で怒り狂っただけでも酷い嫌がらせがあったので如何に相手が酷い基地外か知れる。

家の中での動作を一々メディア使っていびられたり、部屋の内部を漫画で仄めかされた。これが今思えば加害者の本性であり威嚇によりちらつかせて被害者を制御していたのだ。加害者はよく虐め言葉にて「本性を現す」「本体を見せる」などと言っていたがやはり自分達のことだったようだ。得体が知れない事おびただしい。

それで聖書を必死の思いで読んでいた。聖書には確かに世の価値基準からの解放があった。

初めに心に留まったみことばは「善を行う者は一人もいない」だった。

ガイドブックでは「復讐は神に任せなさい」だった。

聖霊様のお働きにより自己の罪を知らされ、涙を流して悔い改めた。正直決まりが悪かった。

その後何度か霊的な慰めを覚えるような罪の自覚による涙を流した。

その少し後、「パワーフォーリビング」というトラクト本を配布された。それには「人生の支配権をイエスキリストに委ねましょう」とあり参考になりその様に祈り求めた。

しかしイエスキリスト御自身がメディアに拠って歪められていた為か祈りづらいのは確かだった。

その後漸く「イエス様が救い主である」と認識できた。

その更に後「十字架の購いの意味」が認識できた。つまり十字架の購いは最重要項目であり人間はこれにより救われる存在だと知りました。

十字架は魂の解放を意味する。理由は「自己を誇る必要が無くなる」からです。

自己を誇ろうとするのは非常に疲れる。自己を誇らずにすむのは感謝である。

神に信頼して委ねることの幸いが分かる。

神により生かされることになり自力の世界からの解放がある。

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☆神が与えて下さった恵み

○みことばが分かるようになった

○空の美しさが分かるようになった

○自然、花などの美しさが喜べるようになった

○人に対して虚栄心ではなく真に思いやる心を持ちたく思う

○悪の世界を忌み嫌うようになる

○肉の欲や思いを忌み嫌いたい

○過去の罪を知ることが出来た

○悔い改めをして悲しみではない感謝の涙を流した

○祈り求める習慣が付いた

○人に依存しなくなってきた

○劣等意識への拘りから解放された

○この世の価値観への固執、恐怖感から解放された

○悪人への恐怖感からの解放

○過去の信徒の方々の言葉の意味が分かる

○サタンの知恵を判別できる

○自己を誇る必要の無いことを喜べる

○神は必要を満たされる

○慰めと教えを与えられる

○人との交流を与えて下さる

○ペットを通じて慰めを与えて下さる

○可能な労働を厭わなくなる

○自己中心からの解放

○神は全てを造られ支配されていることを知る

○偏見やトラウマや拘りからの解放がある

○摂食障害(食べ吐き)からの解放があった

○精神薬の断薬が出来た

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メッセージのコピペです

礼拝説教
「悪い時代の中にあっても」
イザヤ書 1章2~20節
ルカによる福音書 9章37~43節

小堀 康彦牧師

 山の上で主イエスの姿は、モーセとエリヤと共に、栄光に輝く聖なる方としての姿に変わりました。そして、それを見たペトロは、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と申しました。ペトロは、本当に「私たちがここにいるのは素晴らしい」ことだと思ったのです。彼はこの素晴らしい光景を見て、この聖なる山で、この素晴らしい体験と共に生きていきたいと思ったのではないでしょうか。どの宗教にも、このような聖なる体験とも言うべきものがあるものです。キリスト教の歴史の中でも、たくさんあります。しかし、ペトロ達はその山にとどまることを許されなかったのです。次の日には、彼らは主イエスと共に山を下りなければならなかったのです。そして、山を下りるとそこには、今までと同じ様に大勢の群衆が主イエスを待っていたのです。病気におかされ、悪霊に取りつかれ、苦しみの中に生き、主イエスに救いを求める大勢の人々が待っていたのです。主イエスも弟子達も、聖なる山の上にとどまることはしなかったのです。それが父なる神様の御心だったからです。私共は山の上に教会を建てないのです。街の中に、人々の生活の中に教会を建ててきましたし、これからもそうしていくのです。それは、どこまでも、この世界に生きる人々と共に歩む為であります。私共はそのような者として召されているからです。

 主イエスと三人の弟子達、ペトロとヤコブとヨハネとが山を下りて来ますと、多分、他の9人の弟子達は山の下で待っていたのでしょう。その弟子達が追い出せなかった悪霊につかれた男の子の父親が、主イエスに大声で助けを求めました。この父親は、この一人息子を何としても助けたかったのです。そして、主イエスを追いかけてここまで来たのでしょう。ところが主イエスがおられない。山に登られていたからです。そこで、弟子達に悪霊を追い出してもらうよう願いましたが、弟子達はその悪霊を追い出せなかったというのです。9章の最初の所を見ると、主イエスの弟子達はすでに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」とを主イエスから授かっておりました。ところが、この時弟子達はこの悪霊を追い出すことが出来なかったのです。どうしてでしょうか。主イエスはこの時、41節「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」と言われました。「よこしまな時代」とは、口語訳では「曲がった時代」と訳されていました。曲がっている。まっすぐじゃない。何よりも神様に対してまっすぐじゃないのです。だから不信仰なのです。神様に対して全き信頼を持つことが出来ないのです。
 この言葉は誰に向けられた言葉なのでしょうか。私は第一に、この言葉は弟子達に向けられた言葉なのだと思います。私共は「イエス様が言う通りだ。今も不信仰な時代、曲がった時代だ、本当に困ったものだ。」そんなのんきなことを言ってはいられないのです。この言葉が、第一に弟子達に向けられたとするならば、それは私共に向けられた主イエスの言葉でもあるからです。どうして、主イエスは弟子達に向かって、「なんと信仰のない、よこしまな、曲がった時代だ。」と言われたのでしょうか。それは、弟子達にはすでに悪霊を追い出す力と権能、賜物を与えているにもかかわらず、それをちゃんと使うことが出来なかったからでしょう。その原因は、信仰がないからだ、神様に対してまっすぐでないからだと言われたのです。神様に対してまっすぐでない。それは、神様の力を信頼して、これに委ねる以上に、自分の力や能力や見通しに頼るということなのではないでしょうか。弟子達は9章の始めで、主イエスから与えられた力と権能をもって病を癒したのです。彼らには成功体験があったのです。自分たちは出来る。そういう自信もあったに違いない。しかし、そけが問題だったのではないでしょうか。いつの間にか、神様に対して真っ直ぐに、ただ神様を頼り、神様だけを信頼するということを忘れ、自分に力があるかのような錯覚をしてしまったのではないでしょうか。主イエスは、それを非難し、嘆かれたのだと思うのです。
 それでは神様に対して真っ直ぐであるとは、どういうことなのでしょうか。私共は信仰が与えられています。それにもかかわらず、信仰を持っていない人と同じ様に考え、見通し、行動するということがあるのではないでしょうか。信仰を持っているということ、人間の知恵・この世の知恵とはどういう関係にあるのでしょうか。これは大変難しい問題です。ただ、神様を信頼する。それは、人間の知恵を全て捨てるということなのでしょうか。しかし、私共がこの地上に生きている以上、この社会の流れ、動き、人間の知恵、そういうものと無縁ではあり得ないのです。何でもいいからただお祈りさえしていればいい。そういうことではないのだろうと思うのです。
 具体的に考えてみましょう。先週、私共は金沢キリスト教会の田口先生を招いて、伝道研修会を開きました。田口先生はアウトリーチ法という一つの伝道の方法を私共に教えて下さいました。アウトリーチ法というのは、こういうことです。一人の人が教会に初めて来た。その人に、誰一人声をかけない教会と、何人もの人に声をかけられ、その週のうちに5人もの人から、良く来られましたとのハガキが届く教会。あなたは、どちらの教会に行きたいですか。そういう話です。こういう話を聞くと、まるで会社がやっている営業の仕方や顧客管理とどう違うかと思う人がいると思います。その通りなのです。会社の営業や顧客管理と違わないのです。それと同じ知恵なのです。しかし、それを支えている動機、それをやる思いが全く違うのです。一人の人が教会に来た。この出来事をどう見るのかということです。どんな人であっても、この教会の玄関を入った人は、神様が送って下さった方だと私共は信じる。この信仰があるかどうかなのです。この信仰があるならば、この神様が使わされたゲストに対して、私共は最善を尽くして、主イエスの愛と恵みとを伝えなければならないでしょう。そこに知恵が生まれ、工夫が生まれる。その一つが、アウトリーチ法というものなのでしょう。当然、その全ての業の背後には、祈りが積み重ねられていかねばならないことは、言うまでもないことです。私共は、具体的な人間の知恵による「方法」を信じるのではないのです。ただ、神様の御業だけがなることを信じるのです。そして、その為に精一杯の、出来るかぎりの貧しい業を献げたいのです。神様は必ず、私共を用いて下さり、救いの出来事を起こして下さると信じるからです。もし、神様の業を信じると言いながら、大変だから、面倒だからということで、なすべきこと、出来ることをしないのなら、それは「なんと信仰のない、曲がった時代なのか。」という主イエスの言葉を、私共は聞かなければならないのではないかと思うのです。主を信じるのです。だから喜んで、私共の小さな、貧しい業を精一杯献げていきたいのです。自分に与えられている賜物を献げたいのです。
 弟子達には、主イエスの力と権能が与えられていたのです。しかし、それを十分に用いることが出来なかった。だから、主イエスは「なんと不信仰な、よこしまな、曲がった時代か。」との嘆きを口にされたのであります。私共にも、実に多くの豊かな賜物が与えられているのです。しかし、それが十分に神様に向かって献げられているかどうか、点検しなければならないと思います。献げることを拒もうとする心、それもまた曲がった心なのでしょう。神様のことよりも、自分のことを考えているからです。神様に対してまっすぐであること。それが私共にとって何より大切なことなのでしょう。この世の知恵も用いなければなりません。しかし、その知恵に頼るのではないのです。この世の知恵は、自分が得をする為にあります。しかし、私共がその知恵を用いるのは、神様の御業のために自分を献げる為にあるのです。

 第二に、この「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」という言葉は、この悪霊につかれた一人息子の父親を含めた、主イエスのもとに来た多くの群衆にも向けられていると思います。彼らは何を求め、何の為に主イエスのもとに来たのか。自分の痛み、苦しみから助けてもらう為でしょう。しかしそこには、自分を助けてくれるなら何でも良い。別に主イエスでなくても良い。神様というものは、自分に利益をもたらす方、自分にとって良いことをしてくれさえすれば良い。そんな思いが満ちていたのではないでしょうか。まして、そこには自分の罪を悔いる思いも、神様に対して曲がっている心をまっすぐにしたいという願いも、見ることは出来なかったのではないでしょうか。そこにあるのは、どこまでも、自分の願いであり、自分の利益であり、自分の平安を求めるというものだったのではないでしょうか。しかし、私共が神様の御前に集う時、何より大切なのは、「神様に造られた者として、本来の神の子、神の僕としての姿を回復させて欲しい。」そう願い、祈ることであり、「この様々な嘆きと悲惨が満ちているこの世界を、まっすぐな社会にして欲しい。」そう願い、祈ることでしょう。それがない所で、ただ自分に都合の良い神様の業だけを求めるなら、それも又不信仰な、曲がった時代と言われざるを得ないのであります。

 さて、主イエスは続けてこう言われました。「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」この言葉は、まるで主イエスが、弟子達や群衆に対して、「あなた方のような、不信仰な、曲がった人達と共にいるのは、耐えられない。いつまで一緒にいなければならないのか。ああ、もうイヤだ。」そう言っているようにも聞こえます。主イエスを自分に引きつけて、自分と同じ所で主イエスを理解しようとすると、こう聞こえてしまうのだろうと思います。そして、「イエス様も大変だったのだな。自分と同じだ。自分も良く、こんな奴らと一緒にやってられない」と思う。それと同じだ、と考えかねないのです。確かに、注解者の中にはそのように読む人もいるのです。しかし、そうではないと私は思います。何故なら、主イエスはこの直後に二度目の受難予告をされているのです。44節に「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」とあります。つまり、主イエスはご自身の十字架への道をはっきりと自覚されており、そのような状況の中でこの言葉を告げておられれるのです。主イエスは、我慢が出来ないほどにイヤな奴のために十字架にお架かりになろうとしていたのでしょうか。そうではないと思います。主イエスはちっとも判らない弟子達に対して、「自分はもうあなた方とこのように一緒にいることは出来ないのだ。それなのに、あなた方は、まだ神様を全く信頼して、神様に向かってまっすぐになっていない。そんなことでどうするのだ。」そう言われたのではないでしょうか。主イエスは、決して我慢出来ない程に嫌な者の為に十字架におかかりになられたのではない。主イエスは弟子達を愛し、弟子達に期待していたのです。その期待を裏切るばかりの弟子達を見て、群衆を見て、嘆いておられるのであります。だからこのような言葉が主イエスの口から出たのです。
 主イエスは今、私共を愛し、そして私共に期待しておられます。確かに、私共は今も主イエスを嘆かせてばかりいるのかもしれません。しかし、私共はこの主イエスの嘆きを知り、主イエスの私共に対しての期待を知っているのです。だから、何としても期待に応えたいと思うのではないでしょうか。主イエスの期待に応えるというのは、何か難しいことをすることではないのです。神様を全く信頼して、神様に対してまっすぐにあるということ、主イエスが私共に与えて下さっている賜物を献げ、主の御業にお仕えするということなのです。今の時代も不信仰で曲がっていることにはかわりありません。しかし、その時代の中にあって、私共は信仰を与えられました。私共は、神様に対してまっすぐであることが期待されているのです。自分の願いや利益よりも、主の救いの御業が現れることを第一に願うことが出来る者とされているし、そうすることを期待されているのです。自分の力を超えた神様の御業を信じることが出来る者として召されている。実にここに、私共の存在意義があるのであります。
 使徒パウロは、このことについてフィリピの信徒への手紙2章12~16節において記しています。少し長いですが読んでみましょう。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」私共は、自分という存在が、どれ程大きいかということを、本当のところでまだ十分に知らないのかもしれません。この時代の中にあって、キリストを信じる者として立てられているということは、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝いているということなのであります。「星のように輝いて」いるのです。人が何と言おうと、神様の目から見ればそうなのであります。これはまことに驚くべき光栄ではないでしょうか。この恵みの事実を心から感謝したいと思う。

[2006年3月19日]

http://w2322.nsk.ne.jp/~tkchurch/mes_k099.html
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「全てのことを疑わず呟かずにしなさい」というみことばは聖書にありますが確かにその通りに出来たらいいですが加害者の常時監視と粘着嘲弄の仕掛け地獄にいるとどうしても変にさせられます。
例えば緊張や不快から逃れたくて独り言をぐつぐつと言い続けてしまうなど。大変苦痛で困難さを覚えています。
後は一挙手一投足、表情に至るまでいびりネタにされてきたためにトラウマじみた物が酷いのだろう。いってみるとそこまでやるというのはきっと余程神経症にして潰したかったのかも知れません。
今は末端の異常粘着無意味攻撃と嘲弄がとても酷いですね。
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ピリピ2章
12)わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
13)あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
14)すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。
15)それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。
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14節みたいな事は実行できれば大変素晴らしいです。

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メッセージのコピペです

http://www5d.biglobe.ne.jp/~vcg/sub3.316
316 主の山に登ろう

聖書箇所 [ルカの福音書6章12節]

 福音書を読んでいるとイエスさまが山に登る場面に出会います。今回の題名は「主の山に登ろう」です。どういう意味でしょうか。主の視点からがあなた自身や物事を見るようにしましょう、です。すると何が起きるのでしょうか。高慢から救われます。6章12節から読み進めて行きますと、山からお降りになりますが、有名な文言に出会います。「貧しい者は幸いです」(20)。貧しい者とは内側にある高慢を捨てて貧しくなった者のことを指します。
 するとどんな恵みが?それは神の国のオーナーになれます。すばらしいではありませんか。神の国にはどんなものがあるのでしょうか。それを順に見て行きましょう。

愛されている確信

 愛されている確信くらいありがたいものはありません。幸せはこれによって保証されるですから。マタイの福音書17章1ー8節をお読み下さい。有名な山上の変貌の記事です。ペテロが慌てふためき、とんちんかんな応答をしていますね。なぜだと思いますか。大きな理由の一つは、彼には自分が愛されていることの確信が弱いか、あるいは少ないかのどちらかです。自分が愛されていることの確信が弱いと、「あーでもない、こーでもない」というふうに、さまざまな出来事に振り回されやすく非常に疲れやすいのです。自分が愛されている確信はどんな恵みをあなたに与えるでしょうか。心の傷や人生の傷を癒してくれます。あなたにはありますか。辛かった時の記憶が、悲しかった時の記憶が。とても重要な、そしてすでに日本語になった印象的なことばをここで紹介しましょう。
 ルカの福音書10章34節のある「傷」です。これはギリシア語でトラウマと言います。このトラウマにオリーブ油(聖霊)、ぶどう酒(イエスの血)を注ぎ、包帯(義の衣)を巻いたのはサマリヤ人(ユダヤ人から排斥された、という意味から彼はイエスを指す)でした。つまりあなたの傷を癒してくださるのはイエス・キリストです。あなたを愛してくださるのはイエス・キリストです。しかし少なくない人々が「私は寂しい!」と叫びます。このように言う人々は99匹の羊です。ルカの福音書15章7節をご覧下さい。99匹はいなくなった一匹の羊を追い掛けています。その間99匹は「私は寂しい!」と叫んでいます。だれか特定の人間に愛される以前に、イエス・キリストに愛される経験をしてください。これは他でもない、主の山において可能です。あなたは「私は主に愛されている!」と確信できます。

祈りの霊

 ルカの福音書6章12節から読み進めて行きますと、癒しのわざがイエスさまによってなされていることが分かります。主イエスさまは祈るために山に登られました。山において祈りの霊に満たされました。あなたはよく祈っておられますか。どうかたくさん、そして熱心に祈ってください。祈りには大きな力があります。祈りの霊をいただいて、あなたは大きなことをすることができます。ところでときどき「最近私は祈れない」、「祈っても空しい」という声を聞きます。これでは困りますね。少し祈りについて学びましょう。祈りと言いますと、すぐに「下さい!下さい!」というおねだりを連想するのではないでしょうか。確かにお願いをすることは正しいお祈りではあります。でもそれがお祈りのすべてではありません。もう一つ重要なものがあります。それは従順。あなたは神さまを信じておられますか。信じておられるでしょう。では信じることの意味はどのようなものでしょうか。信じるとは善意を信頼する事です。「神さまは私に良い事をしてくださる」という信頼です。するとあまりおねだリしなくてもいいのでは。万葉集にこういう旋頭歌があります。

 「白珠は人に知られず、知らずともよし、知らずとも我れ知れば、知らずともよし」。

 白珠は作者自身。こういうことを言っています。「私にはいろいろな才能があるのに、なかなか人はそれに気がつかないなあー。でもいいや自分が知っていれば」。こうして私たちは昔から自分・自我にこだわって来た事が分かります。主イエスさまのたとえ話に「お父さん、私の相続分をはやめにください」と言って、家を出て行った弟息子の話があります。何か事情があって自分の取り分が減りでもしたら大変、と考えたのでしょう。自分、自分、自分、です。この自分、自分、自分から私たちはなかなか逃げることができません。たとえクリスチャンになってもです。
 パウロはどうだったでしょうか。あるとき、アテネにやって来ました。当時はローマの時代、でも文化はギリシアが幅をきかせていました。彼はソクラテスも語った由緒あるアレオパゴスで福音を語りました。使徒の働き17章16節以下をお読み下さい。すばらしい彼の説教を知る事ができます。当時最高の教育を受けた者にふさわしく、高度の弁論術を駆使して力の限り語りました。その結果どのようなことが起きたでしょうか。32節の反応が彼を打ち砕きました。二種類の反応です。一つは「非科学的だ!」。そしてもう一つは「良い話だが、そのうち機会があったら叉聞いてみたい」と言いつつ、否定。今の日本で受ける反応と全く同じではありませんか。昔も今もどの世界でも福音に対する反応は同じなのです。彼の受けた挫折感は、しかし、かなりひどいものでした。「私は弱く、恐れおののいていました」(Ⅰコリント2:3)。でもこれが彼には良かった。彼は回心しました。
 祈りにも回心が必要です。回心させられなければならなかったのは明らかです。彼には野心があったからです。福音を彼は語りました。それは完全に正しい主張です。でも正しいことを語りながら悪い動機が隠されている場合があります。あなたもそのような人に出会ったことがあるのではないでしょうか。正しいことを言っている、でもなぜか納得できない。あなたはその人の中に隠されている悪い、別の動機を見抜いています。パウロはここで砕かれました。神さまは私たちに良い事をしてくださる方だから、従順であればいいのです。従順の祈りをしましょう。「神さまのおこころに任せます!」と言いましょう。このときあなたの中に祈りの霊が注がれ、あなたの祈りはとても満足できるものになります。主の山においてあなたはそれをすることができます。主の山であなたは主に会い、あなたの自我を差し出し、十字架につけるのです。

試練に勝つ力

 マタイの福音書4章1節からしばらく読み進めて行きましょう。荒野の誘惑の場面です。8節では主イエスさまが山に登られたことが分かります。この誘惑でも勝利なさいましたが、印象的です。さて厳しい試練を通り、それに打ち勝った人の人格はすばらしいものがあります。にじみ出て来るものはそばにいる人を圧倒します。そういう人の中でも主イエスさまはダントツです。彼のことばを聞きましょう。

「私はいのちのパンです」(ヨハネ6:48)、
「私は世の光です」(ヨハネ8:12)、
「私は羊の門です」(ヨハネ10:7)、
「私は良い牧者です」(ヨハネ10:11)。
「私はよみがえりです、いのちです」(ヨハネ11:25)、
「私が道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)など。

 どれ一つとっても重みのある、私たちを慰め、励まし、勇気を与えるものではありませんか。いったい他のだれがこのようなことを言うことができるのでしょうか。もしあなたが試練に悩む時、主イエスさまからおことばをいただくことができるとしたらなんとすばらしいことでしょう。
 
 あるご婦人が財布を落としてしまいました。2、3万円の現金が入っていたのですが、それはあきらめるにしてもクレジットカードが2枚(A社とB社のもの)入っていましたのでとても心配でした。さっそくA社に連絡したのですが、とても事務的な対応であまり良い印象は受けませんでした。B社では電話を受けた人が開口一番こう言いました。「ご安心ください!」。これでとても気持ちが落ち着いたと彼女は話しました。私はこの話を聞いて思いました。教会で電話を受ける時、まず、「ご安心ください!」と言うべきではないかと。「ご安心ください!」は実は主イエスさまのせりふです。

 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20:19) イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(同21)

 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。(同26)

 ところで試練は2方面からやって来ます。一つは外から。道を歩いているとき、後ろから車にぶつけられることがあります。こういうときには次のみことばを使いましょう。

 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(Ⅰコリント10:13)

 もう一つ。内から来るもの。肉の思いから私たちが自ら招いてしまうものです。ペテロはそれを経験しました。その場面を見ましょう。

 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」……彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。(ルカ22:31-62)

 なんとみじめな肉の思い一杯のペテロでしょうか。でもなお彼には希望がありました。主イエスさまが彼のために祈っていてくださったのです。あなたも肉の思いのゆえに失敗をするかも知れません。でも絶望する必要はありません。あなたが祈れなくても、友人があなたのために祈る事を忘れていたとしても安心です。主イエスさまがあなたのために祈っていてくださるのですから。主イエスさまはあなたを責めないで許し受け入れてくださるお方です。
 どうかおことばをくり返しくり返し聞いてください。あなたの中に試練に勝たせる力が沸き上がって来ます。みことばは主の山にあります。主の山に登るあなたに祝福がありますように。

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正しい事を言っているように見えるが実はそこに悪い動機があるために聞いていて不愉快であると言うことは多くの人が有ると思いますがしかし
加害者の場合は完璧なシラ切りのために悪い動機すらも見いだせないという特徴があるような気がします。
所謂演技性の病のせいかもしれませんが。自己を完璧に覆い隠した姿です。
しかし加害者らが普通人を装ってタイミング合わせで来るときにははっきりと不愉快ですね。それは言葉や動機ではなくその人に悪い霊が宿っているのを覚えるからです。
文章の中に覚える悪い動機じゃなくてその人に見える悪い霊です。

○一見正しい言葉の中にかいま見える悪い物
○一見普通人を装う中に見える悪い霊(凄く不愉快ですね。あれは)

と言う感じだろうか、常時監視で虫酸はしるためついついこういう事しか書けないです。

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神の招き

http://tsukuba-mikotoba.jp/message/m.cgi
神の招き(ルカ14:15~24)
2008年02月17日(日)

神の招き
 きょうは、前週に引き続き、ルカ14章から、「大宴会」のたとえを学びます。「前週に引き続き」と申しましたのは、14:14と14:15が、内容面でも、続いているからです。
なぜ内容的につながっているか。…「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14、終わりの日の報いのことを言っている)。終わりの日の祝福について、イエスさまはそれをしばしば「神の国で大宴会の席に着く」ことに譬えておられる。Cf.13:29。そのことをすでに知っていた客の一人が、「正しい者たちが復活するとき」のことについてイエスさまが話されるのを聞いたとき、即座に「神の国での食事」のことを思い描いたのだと思います。それで、この人は「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう」と言ったわけです。
 それに答えるような形で、主イエス、「大宴会」のたとえを話されます。Cf.「信友会」の新年懇親会。2月はじめ頃、阪神地区の教会の役員(牧師、長老、執事、伝道所委員)約200名くらい集まって夕食会をした。その時、年報の交換などして、前年度の教会の出来事などテーブルスピーチで報告する。神の国の大宴会のすばらしさを少しばかり体験することができた思い出がある。筑波みことば教会では、やはり、クリスマスやイースターの愛餐会がすばらしい。
 それで,聖書に戻りますが、この「大宴会」のたとえの特徴として二つのことが挙げられる。
1.二度招きがなされる(告げられる)という当時の習慣に重要な意味が込められていると言うこと。当時、婚宴やその他フォーマルな食事に客を招く場合、二度招きがなされた。第一回日目の招き…あらかじめ期日などを知らせて、ぜひ来てください,と客を招待する。言わば、招待状を送る段階である。そして、当日、食事の用意が整ったときに,もう一度、「用意が出来ましたから来てください」とお招きするわけである。Cf.16,17節。この中で「招いておいた人々」という言い方に注意。24節の「あの招かれた人たち」にも注意。
 2.このたとえの要素一つ一つが旧新約聖書の告げる「救いの歴史」の中での事柄と対応して意味を持っている。
 この大宴会の主催者である主人…父なる神。
 食事の準備ができたことを告げ知らせる僕…イエス・キリスト。
 初めに招待を受けながら宴会の用意ができたとき(イエスが来て福音を告げられたとき)次々と断った人たち…主イエスを受け入れようとしないユダヤ人のこと。
 「貧しい人、身体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(21)…イエスの福音に応答して、イエスを信じ、御国に入れられたユダヤ人民衆、徴税人や「罪人たち」を指す。
 僕が通りや小道に出て行って無理矢理連れてくるように命じられた人々…異邦人の中から御国に迎えられる人々。
 この中でも特に、始めに招かれた人たちについては、このたとえの中で,イエスさまは詳しく後に出席を断った事情を説明しておられます。18節以下をもう一度読みます。18~20節を読む。
 「畑を買う」、「牛を2頭ずつ5組を一度に購入する」、そして結婚…いずれも人生の一大事件です。旧約の申命記でも、これらの場合には、兵役が免除されるという規定があるほどです。Cf.申命記20:5~7、24:5(旧311,318)。このように、ここに挙げられているようなことは、兵役免除の理由とされたほどに、大きなことには違いありません。
 けれども、このたとえの主人は、そのようなことを理由に挙げて、招かれた大宴会への出席を断った人々に対して、怒りの感情を露わにしたのです。Cf.21~22節。ここに一つの重要なメッセージが込められています。すなわち、神の招きへの応答、神の救いへの招きに応えることを人生の最重要事項とせよと言うことです。
Cf.ウエストミンスター小教理31「有効召命について」。「これによって御霊は…福音において一方的に提供(ていきよう)されるイエス・キリストを私たちが受け入れるように説得し、受け入れさせてくださるのです。」
「イエス・キリストを受け入れるように」との神の招きを断るのではなく、神の招きに応えるということ。これが人生の最重要事項だと、イエスさまはこのたとえを通して私たちに諭しておられるのです。
 最初の人の場合、神の救いを得ることよりも「畑を買ったこと」の方が重要だった。そちらの方を優先させた。
 第二の人の場合、神の救いを得ることよりも「牛を5軛買ったこと」の方が重要だった。
 そして、第三の人の場合、神の救いを得ることよりも「妻と共に過ごすこと」の方がもっと重要だった。
 悲しいことですね。世俗主義ですね。初めに招いた主人が怒るのも無理はありません。
 私たちは、ここで、直接的には、イエスさまはご自身を神から遣わされたメシアとして受け入れなかった当時のユダヤ人のことを念頭においておられると申しました。しかし、私たちは、自分たちも同じような過ちに陥ってしまってはいないかどうか、鋭い自己吟味を迫られています。というのは、私たちも幼児洗礼や成人洗礼を受けて、ある意味では、招かれたものとして、教会生活を送ってきました。その中で、お金や財産を尊ぶこの世的なもの考え方にいつしか影響されて、イエスさまの救いのことは第2,第3のこととして考えたりする場合もありはしないか。神の救いへの招きに応え、神の救いに与ることよりも、仕事や家庭のことなど、様々な人生の重要事項を優先的考えてしまっているようなことはないかどうか、自己吟味を迫られるのであります。私たちはこの点で悔い改め、神の救いへの招きに応えることを人生の最重要事項としなさいと言うイエスさまの、このたとえのメッセージを自らに対するものとして聞きたいと思います。
 それで、次に21~24節を読む。特に私たちは23節から、伝道に向けてのメッセージを聞き取りたいと思います。
 招かれた客が皆次々と出席を断ってきましたので、主人は僕を町の広場や路地に遣わして、初めには招待を受けていなかったような貧しい人や身体の不自由な人々を連れてくるように命じます。そのような人々は皆喜んで招きに応じて席に着いたのであります。しかし、それ席はいっぱいにならなかった。
 「まだ席があります」(22)と僕は申します。この僕の言葉に注意して、今日の半日修養会に臨んでいただきたいと思うのです。「救われる人は少ないのでしょうか」との問(13:23ff)に対して、イエスさまは「そうだ、少ないのだ」とは言われませんでした。「狭い戸口から入るように努めなさい。入ろうとしても入れない人が多い」とだけ言われたのであります。ご自分を拒否するユダヤ人が入ろうといくら努力しても入ることが出来ないと言っておられるのです。14:24と同じ趣旨です。
 しかし、ここ(14:22)では、僕(すなわち、イエスさま)は「まだ席があります」と言い、家の主人(すなわち、父なる神さま)は「この家をいっぱいにしてくれ」 と言っておられます。父なる神は、御子主イエスの福音を聞いて信じて救われる人がもっともっと多くあってほしい、何としてもこの家をいっぱいにしてくれと言っておられるのであります。神は救われる人が多く起こされることを望んでおられるのであります。
 人々が救われるようにと願い給う神さまの熱心はすごいですね。それは、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と言う御言葉からも明らかですが、このたとえでも、神さまの熱心がよく伝わってきます。「まだ席があります」と言うと、主人は申します。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれ」 。
 このような神さまの召命に答えて、私たちはつくばの町に出て行って人々をかき集め、この会堂が一杯になるまで、神の招きを伝えてまいりたいと思うのです。
 それでは、お祈りいたします。

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伝道をすると多くの人が「神様についてはまだ良いです」「まだ暫くは自力でやれますから良いです」「宗教はいい(結構だという拒否)です」「違う宗教なので遠慮します」「忙しいから今はいい」「神様は不要なのでいいです」
他には黙って連絡を絶たれるとか敬遠されるとかがありました。絵に描いたようだと思いました。
真に信仰の目が開かされたことでいろいろと奇妙なる人の神様観という物を見ました。
偉そうですが私自身は神様についての漠然とした概念はあったがしかしキリスト教には無知でした。
それが真理の教えだと知ったので伝道をしたのですが上のような結果が多かったのです。つくづくと日本が混迷した宗教観の持ち主であると知りました。
日本人の神もやはり聖書の神であり他の宗教ではないです。
日本には様々な偶像礼拝がとても多いですね。
今の暴虐の理由もそれだと思います、慈悲深い神の怒りが下っているのです。
人間が情け深い神の愛を蹴って背き続け偶像の神を拝み続けたからだと思います。
聖書にそう書かれていると思いました。
人間に出来る最善は聖書の神に立ち返ることです。

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メッセージのコピペ

http://www.hat.hi-ho.ne.jp/inagekaigan-chur/message-luke102.htm
~失われた者を捜すために来た人の子なる主~
第103講「欠けているものが一つ」 ルカ18章15-30節 2002年3月17日

1.金持ちの善良な青年に欠けていたもの
 一人の金持ちの青年が、主イエスの許を訪ね、永遠の命を得るにはどうしたらよいかと尋ねました。彼は真面目で善良な青年でした。おそらくは他の青年のように遊び歩いたり、放蕩ざんまいをするということもなく、人生について真面目に考え、生きようとしていた人でした。幼いときから、父祖の教えに忠実で、神の御言葉を熱心に学び、かつそれを実行することに心掛けた人だったと推測できます。人目には立派の一言と言っていよい彼に、しかしなお悩みがありました。これで本当に自分は天国に行けるのだろうかという悩みです。その問いは、彼の心の中で増え広がり、どんな善い行いをしても打ち消すことができないほどに大きくなっていました。そこで彼は意を決して、高名なラビとおぼしき主イエスの許にやって来たのです。彼にとっては「善い人間」であることこそが、天国への入国条件と思われましたから、それに精進もしてきたのでした。しかしそこでなお、確信がなかったのです。しかしまさにそこに、彼の問題の核心がありました。自分では気づかない自分の問題点を、しかし主はしっかりと見抜いておられたのです。彼に問いかけたのは、十戒の二枚目の板にあたる、隣人への愛に関する戒めでした。この戒めを注意深く、十戒の二枚目の戒めと比較してください。主が意図的に抜かした大切な戒めがあることに気がつきます。そしてそれこそが、この善良な青年の問題点なのでした。ここには第十戒、つまり「隣人の家を貪ってはならない」が落ちています。主がこの青年に向かって、「あなたに欠けているものが一つある」と言われた、その「一つ」とは、彼の心に巣くう「貪り」の思いでした。たしかに善良な毎日を送り、律法にかなう生き方を努力してきた彼ですが、「貧しい者に施し」をし、「天に富を積む」ことにおいて、彼にはひっかかるところがありました。富んだ豊かさを手離してまで、神に従うことも、隣人を愛することも、彼にはごめんだったのです。その彼に主が求められたことこそ、その「貪り」の心を捨てて、主に従うということなのでした。

2.「天に富を積む」とは
 この貪りの心を捨てて、「天に富を積む」ということは、富んでいる人にはとても困難なことで、それは「らくだが針の穴を通る」よりも難しいと言われます。貪欲の心が、どれほど私たちの心にこびりつき、むしばんでいるかを知り尽くされた主ならではの言葉です。主は別の個所で、遺産相続でもめていた人の申し出から、この貪欲の問題を考え、「神の前に豊かになる」ことを教えられました(ルカ12章13-21節)。貪欲とは、もっと欲しいと思う心です。もう既にあるのに、それでは満ち足りず、満足せず、もっと欲しがる心です。どうして貪欲に注意する必要があるか、それは「人の命は財産によってどうすることもできない」からです。この「愚かな金持ち」は「愚か者」と言われます。この人の、一体どこが「愚か」と言われているのでしょうか。それは「神の前に富まない」ことでした。「自分のために富を積んでも」と、富や財産を自分のためだけに蓄え用いて、隣人へと心向けることがなかった、自分については贅沢三昧をしながら、貧しい隣人はびた一文恵んでやることがなかった、そんなあさましい心が問題にされているのです。この人の暮し向きは、堅実であったけれども、所詮自分のためだけの人生でした。その意味で隣人を富ませ、神の前に富むということがなかったのでした。

 私たちは「神の前に富む」と言うとき、たぶん「天に宝を積む」、つまりこの地上で良い業を行って、天国に貯金するような意味でそれを考えているかもしれません。この人は、神から豊かに与えられた財産を持って、それを自分のためだけに用いて、隣人のため、神のために用いなかった、そうして天に宝を積むことがなく、神の前に富む者とならなかった、それが愚かであると言われています。しかし主はここで、さらに別のことを話そうとしておられたのでした。「神の前に豊かになる」とは一体どういうことなのでしょうか。この人は、いつにない収穫がありそれを蓄えたとき、それでひと休みして、食べたり飲んだりしました。そのこと自体が問題だったのではなく、その喜びと平安の根拠が自分の蓄えにあったこと、それがこの人の問題でした。自分の安心の根拠を、倉に一杯収まった収穫物に置いたこと、それがこの人の愚かさでした。喜び楽しむことは多いに結構なことです。豊かな祝福をむしろ多いに感謝したら良いのです。それが問題なのではなく、この人はこの豊かな収穫が、一体どこから来たか、誰からの祝福かを顧みることがなかった、だから労苦した自分をねぎらい、自分を喜びました。そして倉に何年分もの蓄えが出来たから、安心して飲み食いしたのです。こうしてこの人は、自分の命の根拠を神にではなく、自分の財産に置いたのです。これだけ蓄えがあるから安心だ、自分の人生は安泰だと考えました。それがこの人の愚かさだったのです。

3.富のあるところに心もある
 この話のきっかけは「貪欲」でした。「貪欲」とはもっと欲しがる心、満ち足りることを知らない心です。この世の物を追求し、もっと豊かさを欲しがり、物に依存する心です。家や土地、財産や老後の貯金、そういった物があるから大丈夫だと安心し、それに依存する心です。この物に対する貪欲は、満ち足りるということを知りませんから、手に入れても手に入れても満足で来ません。そうやって次第に、物に心が占領され、物の奴隷になっていきます。あれがなければ幸せではない、これがなければ満ちたりない、それは物だけではなく、この世にある様々なことにあてはまります。地位、名誉、信用、評判、仕事、やりがい、生きがい、愛情、友情、家庭、家族などです。それを得ることが悪いとか、欲しがってはならないと言われているのではありません。禁欲的に生きて、必要以上を求めてはならないとか、豊かさを追求してはならないということでもありません。それを喜び楽しむことは駄目だというのでもありません。しかし私たちは、そういった豊かさを追求し、この世の物に囲まれて生きていくうちに、次第に自分が「貪欲」になっていることに気づくべきです。物自体に生活の基盤が置かれ、安心の根拠が物やこの世に置かれる、次第にそれ自体をますます得ることばかりを追求し、奔走し、物の奴隷となっていく、それがなければ心満ちたりず、安心することが出来なくなる、そういう心に気をつけなさいと言われているのです。貪欲は身を滅ぼします。もっと欲しがり、もっと追い求めて、物に一杯囲まれて豊かになりながら、けっして心が満ちたりるということがない、物に豊かで心が貧しいということになります。そしてますます満ち足りることを求め続けて、ますます貧しくなるのです。それがないと安心できなくなる、私たちは一体自分の安心をどこに置いているでしょうか。もし健康に置いているなら、病を得たとたんに平安を失います。財産に置いているなら、それを失えば不安です。地位や評判に置いているなら、人からの不評に怯えます。家や土地、老後の蓄えに置いているなら、それを失えば老後の夢は消え去ります。いいですか、蓄えをしたり財産を持ってはいけないと言ってるのではありません。しかし私たちは次第にそういったものに自分の安心の根拠を置いてはいないだろうか、そうであればそれは実にもろい土台にすぎないと言っているのです。私たちの人生を支えることはできないだけではなく、もう一つの現実に全く無力であるからです。それは「自分の死」です。

 「自分のために富を積みながら、その富が自分のためにならないではないか」。こうして私たちは、地上の事柄や地上の富に心奪われて、本当の求めるべきものを見失い、地上のものに奔走して生きている、それが「貪欲」なのです。その心があるかぎり、私たちの心は真実に自分の命へと、思いを向けることがありません。この金持ちの青年の問題は、そこにありました。それは自分の心がどこを向いているかということです。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もある」(ルカ12章34節)
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金持ちになり名声を得て立場を得て資産を増やし仕事を繁栄させているように見える加害者メディアの有名人の様子をマスコミの広告や出版物を通して垣間見たりするとき「果たしてやはりうらやむべき人なのだろうか」と、朧気ながらに思いました。
当時被害に苦しみしかしマスコミに目を向けることがあるとそう言う物を見たりしました。
虐め被害者の世界とは違って持て囃され資産を増やし仕事や人生の成功には恵まれ・・・
しかし「羨ましい物だと思わねばいけないのだろうか」という思いもありました。と言うのも当てつけがましく思えたからです。(被害妄想だと言われそうですが)それというのも自分はそのメディアからの虐め嘲弄が酷かったからです。

後にその世界には「闇と絶望と欺き」しかないのだという思う機会があり聖書に漸く手が伸びました。つまりそれ以前にはその虚しい世界への依存がありました。虚しい世界に慰めや気休めを求めていました。

聖書には明らかに「人はその栄華にとどまれない、悟りがなければ滅び失せる獣に等しい」というみことばがありました。
聖書には明らかに「この世」が見せてくる価値基準とは違うことが書かれていますね。だから悪の世界には嫌われ嘲りを受けるのか。

教会の礼拝説教を聞いて帰りに入った店の店内ラジオでは明らかに礼拝説教をバカにするような仄めかしがあったようです。
私は信仰の目が開かれていたのでその説教は理解でき感謝だったのですが。因みに「十人の花嫁の譬え」でした。

加害者の世界に取ればいたく虫酸が走る内容でしょうね。終末の裁きについてだからです。

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聖書メッセージより

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/1703/singen3.html
箴言第3章
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「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。
そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。」
(箴言3章1-2節)
 この箇所もまた、ユダヤ的背景に立っていますが、その勧めは、長生きを主の特別な祝福の証拠であると考える人々と同様、私たちにとっても、非常に重要です。というのは、ここにはすべての者に訴えかける勧めがあるからです。「私の命令を心に留めよ。」とは、今日何よりも必要とされています。これは義務に対する服従という以上に、神のみこころに対する愛ゆえの献身と言うべきでしょう。「あなたに罪を犯さないため、私はあなたのことばを心にたくわえました。」(詩篇119:11)と、詩篇作者は言いました。また、エズラについては、「エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである」と書かれています。この心の定めが、悲しいことに、真理を持っていると告白しながら、実際の生活にはその証がほとんど見られない人々たちには、欠けているのです。主に対する真実な奉仕の源は愛です。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:15)とは主ご自身のことばであり、主はさらに、次のようにもおっしゃっています。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」(ヨハネ14:23)これは、たとえ命じられていなくても、主のみこころが知らされたなら、喜んで主の道へと歩んでいきたいと願う心です。
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「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。
神と人との前に好意と聡明を得よ。」
(箴言3章3-4節)
「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:17)律法は真理ではあっても、それは恵みを欠いた真理でした。イエス・キリストによって実現した恵みと真理に関して、信者は愛をもって真理を語るように勧められています。(エペソ4:15)「真理を語る」という表現は原語においては一語であり、分詞です。J.N.ダービー氏は、「真理する」という言葉を作って、この語を表してはどうかと提案しています。それは単に真理を語ると言うことではありません。それは、真理によって特徴付けられ、しかも、すべてが愛のうちになされなければならないと言うことなのです。真理をあたかも律法の項目のようにし、自分と見解が全く同じでない者に対してあら探しをする、頑固でせっかちな不寛容の精神というものは、真理の御霊から遠くかけ離れています。しんらつで批判的な精神が、気の小さい人に、そのような精神を受け入れさせようとするのをやめるとき、真理は愛によって推薦されるようになります。恵みとまこととが首に結ばれていることによって人の目に触れ、心の板に書きしるされることによって神の好意を得るのです。
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「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
(箴言3章5-6節)
 ここには、厳粛な警告と貴重な確証とが、平安の道へと導かれることを願う者のために記されています。「自分の心に頼る者は愚かな者」(28:26)ですが、主に信頼する者は幸いです。自分自身を信頼する者は、折れたアシに寄りかかるようなものです。神は、私たちの人生のどんな小さな事においても、私たちを導くために、神のことばを与えてくださっています。こうして私たちは真理によってきよめられるのです。ですから、私たち自身の愚かで有限な知性に頼るなどと言うことは、弁解のできないことです。

 もし私たちが、自分の道において神を認めているなら、導きに欠けることはありません。なぜなら、神は忠実な方であり、私たちの道を導くと約束してくださっているからです。「もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい」(マタイ6:22)
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「自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて悪から離れよ。
それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。」
(箴言3章7-8節)
 自分を知恵のある者と思うことは、自分の悟りに頼ることと同じです。そして、真実に主を愛しているなら、悪を憎み、悪から離れるはずです。「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」(2テモテ2:19)こうして、力と新鮮さとが、その人の特徴となることでしょう。神のことばが罪に定めていることを行いながら、同時に神と共に歩むことは不可能です。祝福の道は、従順の道です。主が語られたなら、従順な魂は、のらりくらりと質問をするのではなく、ただちに従います。
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「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。
そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。」
(箴言3章9-10節)

 悪から離れることを学んだときに、心が主に向くようになります。それはただ主に第一の地位を与えることにとどまりません。心の中の一等地をキリストが持たれたと言うだけなら情けないことです。だれでも、主にあって、聖なる喜びと妨げられることのない交わりとを楽しみたいと望ならば、主にその人のすべてを捧げなければなりません。イスラエル人は、カナンの地の唯一の所有権が神のものであると認めたので、その印として初物を携えてきたのでした。主は言われました。「地は・・・売ってはならない。地はわたしのものであるから。」(レビ25:23)初物を捧げるということは、実にこれを認めるということなのです。ですから、信者が財産をもって主をあがめるのは、すべてが主のものであり、主の示されるところに従って用いられるべきであることを喜んで認めるからなのです。

 しかし主はとても良い方であられるので、主がこのようにあがめられるときに、自らを主のしもべと認める者たちのために、倉も酒ぶねも満たすと保証してくださっています。多くの聖徒たちが生活にあくせくしているのは、この原則に無頓着であるからです。すべてのものは神からのものですが、しかしなお、神は恵みをもってご自身が贖われた者からお受けになり、さらに大きく与えてくださる方です。借金の中に神を見いだす者はだれもいません。
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「わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。
父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。」
(箴言3章11-12節)

 これらのことばは、ヘブル書12章にある、主の「懲らしめ」に関する使徒の勧めの原文となっているものです。彼が聖霊の霊感を受けてこのみことばの解説をしたのは、私たちがこの貴重な聖句を頼りとするためです。私たちは自分の考えを信頼すべきではなく、聖書に従うことを大いに求めるべきです。そのとき、御霊の思いは私たちに十分に示されるのです。

 旧約聖書のページを通じて信仰の道を追い求め終わったところで、使徒は私たちの成長を妨げるすべての重荷を、除くように強く勧めています。そうすることでかつて私たちを悩ませた罪から離れることができるようにさせてくださり、私たち自身も忍耐を持って信仰の馳せ場を走るのです。キリストご自身が信仰の創始者また、完成者として私たちの前に置かれています。神のお心を占めているのは、かつて辱めと苦しみの道を歩まれ、今や「神の御座の右に着座された」御方です。「この方のことを考える」事が、元気を失い疲れ果ててしまわないための特効薬なのです。

 神は続けて、試みや困難を特別なものと考えないようにと語っておられます。すべては、私たちの訓練のためのものです。そしてここで、今私たちの学んでいる箴言の言葉が引用されています。表現の違いは、当時広く用いられていたギリシャ語の70人訳からの引用であるためです。

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。
 主に責められて弱り果ててはならない。
 主はその愛する者を懲らしめ、
 受け入れるすべての者にむちを加えられるからである。」

 ヨブ記の中にある、テマン人エリファズのことばの中にも、同様の表現が見いだされます。「ああ、幸いな事よ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。」(5章17節)

 主がご自分の聖徒たちを試練に会わせられるのは、新しい真理ではありません。神が彼らを懲らしめられるのは、実に、彼らが神のものであるからです。懲らしめには確かに報いという要素がありますが、必ずしも「罰する」という意味ではありません。むしろ第一の意味は、訓練すると言うことです。神は秩序の神であられます。神の家族が、神の懲らしめのもとにあるのは当然です。ですからヘブル書を書いた使徒はこう言っているのです。「神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」ですから、私が苦しみにあったからと言って、神が私のことを考えておられないと言う証拠にはなりません。賢明なる御父が、必要であるとお認めになって、与えてくださった訓練の一部にすぎないのです。実際、もし私がこの懲らしめという訓練の対象でないなら、神の子供ではないと言うことです。「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、本当の子ではないのです。」

 また主の懲らしめは、私たちが自分の家庭において行ってしまうような、自己中心的で、不確かなものではありません。「私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」地上の親たちは、子供を懲らしめるときに、いつも子供の益を第一に考えているとは限りません。子供に矯正しなければならない必要があるからと言うよりも、個人的な平穏を乱されたからと言う理由で怒ることが、とても多いのではないでしょうか。これは自分の都合で懲らしめていることになります。私たちの父なる神は、私たちをこのようには取り扱われません。神はいつも私たちの益を図ってくださいます。しかし、「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせる」ということもまた事実です。以上が、主の懲らしめに関する聖書の教えの概要です。

 願わくは、読者と筆者とに恵みが与えられ、何か予期せぬ事が起こったかのように、主に責められて弱り果ててしまったり、あるいはまた、主の懲らしめを軽んじて、主の御手を無視してしまうことがありませんように。むしろそれによって訓練されて、私たちと私たちの道とに平安な義の実が結ばれ、そうすることで私たちが神の聖さにあずかるものとされますように。
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「幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は。
それの儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。
知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない。
その右の手には長寿があり、その左の手には富と誉れがある。
その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である。
知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。」
(箴言3章13-18節)

 人というものは、大きな危険にも立ち向かうし、貴金属や輝く宝石を手にするためなら、すべての知恵を絞って務めるものです。しかし地上のどんな宝石も及びもつかないほどに値打ちのある宝石は、知恵の道に従うことによって見いだされます。知恵を見いだした者に対して、知恵は長寿と富と誉れを与え、さらにこれらに加えて、魂の平安と静けさをも与えます。これはふつう地上の蓄えによって減ってしまうものです。知恵の道はキリストにある道です。というのは、それは従う者の足をみことばが導いてくれる道だからです。そのような道は実に、「楽しい道であり、その通り道はみな平安である」のです。このように真の知恵を見いだすことは、いのちの木を食べることです。肉体において人の楽しむどのような幸いも、これとは比べものになりません。

 この知恵こそは、それによって主がこの地の基を定められた知恵であり、主はその知恵を私たちに与え、旅人である私たちの案内人としておられるのです。そのことについては、次の部分で学びましょう。
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「主は知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた。
深淵はその知識によって張り裂け、雲は露を注ぐ。」
(箴言3章19-20節)


 みことばの力をもってすべてを支配されるお方が、御自身でその被造物の歩みに気を配ってくださるということは、確かに測り知れない恵みです。神のことばは、知恵のもう一つの表現であり、この世界を存在させたものです。またこの神のことばは、「すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)
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「わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。
それらは、あなたの魂のいのちとなり、あなたの首の麗しさとなる。
こうして、あなたは安らかに自分の道を歩み、あなたの足はつまずかない。
あなたが横たわるとき、あなたに恐れはない。休むとき、眠りは心地よい。」
(箴言3章21-24節)

 ある人がこう言ったことがあります。「真理を捕らえているだけでは十分ではない。真理がその人を捕らえているのでなければ。」真理について神が明らかにされたものをしっかりと心に把握すれば、それによって思いと生き方とがコントロールされるのですが、それはあらゆる本の中で最も実際的であり、実用的であるこの本に頻繁に書かれているのです。「すぐれた知性と思慮とをよく見張る」なら、本当の人生とは何であるのかを体得することができ、また、恵みの首飾りをいただくことができるし、その足もつまずきから守られて真理の道に導かれるのです。休息と活力とは、主のことばをどんな人間的な思想よりも尊ぶ人すべてに、同じように分け与えられるのです。
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「にわかに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな。
主があなたのわきにおられ、あなたの足がわなにかからないように守ってくださるからだ。」
(箴言3章25-26節)

 みことばのすばらしい約束を捕らえてはなさないでいることのできる人のことを、従順な人と呼びますが、わがままで無法な人たちは、このようには呼ばれることはありません。真理に従って歩むならば、思いがけないときに襲ってくる恐怖も、無法者の脅しにもびくつくことはありません。というのは、神が正しく歩むすべての人たちの確信となってくださり、またその人たちの足を守られるからです。

 このように神によって自分のところを与えられれば、おのずと自分に何が与えられているかがわかるようになります。次の節がそれについて説いています。
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「あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな。
あなたに財産があるとき、あなたの隣人に向かい、『去って、また来なさい。明日、あげよう。』と言うな。」
(箴言3章27-28節)

 愛以外には何の借りもあってはならないとは、神の子供たちに下された命令です。与えることができるときに、当然与えるべきものを差し控えるなら、それは心に貪欲があり、貪欲に支配されるままにしていることの証拠です。こういうことによって貧乏な人たちはさらに苦しめられるのです。首を長くして生活のためのお金を待っているのに、彼らよりも金持ちの人たちによって、こういう理不尽な支払い延期がなされるならば、それは人々の苦痛と憎悪とを招く結果になるのです。クリスチャンの基準に照らせば、このような行為は絶対に行うべきではありません。払うべきお金は、自分のものではありません。それを自分のために使うことは不正直なことです。神の目はこのような行為を見ておられ、次のように言っておられます。「あなた方の罪の罰があることを思い知りなさい。」(民数記32:23)
------------------------------------------------------------
「あなたの隣人が、あなたのそばで安心して住んでいるとき、その人に、悪をたくらんではならない。」
(箴言3章29節)

 人の信頼を悪用することは、聖く真実である神の目に、忌み嫌われるものです。的外れの信頼によって滅んだ者は多くいます。クリスチャンであると告白している者が、そのように、人の信頼を悪用するなら、それは何と恐ろしい証となることでしょう。それは知識のない人を懐疑論者にしてしまったり、多くの人々を祝福に導くのに用いられたであろう働きを、破壊してしまうのです。
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「あなたに悪い仕打ちをしていないのなら、理由もなく、人と争うな。」
(箴言3章30節)


 ソロモンよりも偉大であられる方のことばによれば、「悪い者に手向かうな」(マタイ5:39)なのです。律法の下では、正当な理由なしに争うことは罪でしたが、恵みの下においては、神が私たちにしてくださったように、私たちもまた、負債のある人を赦すべきなのです。
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「暴虐の者をうらやむな。そのすべての道を選ぶな。
主は、よこしまな者を忌み嫌い、直ぐな者と親しくされるからだ。
悪者の家には、主ののろいがある。正しい人の住まいは、主が祝福される。
あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。
知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。」
(箴言3章31-35節)

 アサフは悪者たちの繁栄を見たときにうらやんで、主の聖所に入って彼らの最後を悟らせられるまではそう思っていたのですが、ついには自分の愚かさを知って、本当の喜びを得ました。地上の、やがては消えて行くはずのものに魂の満足を求めるならば、正しい者には知らされる主の助言について、何も知らないままでいることになります。彼らの最後は、うらやむには値しないものです。主ののろいが、彼らの家にあるからであり、また、主は彼らの高慢をお叱りになるからです。主の祝福は正しい人の家にとどまり、主はへりくだる者に恵みを授けられるのです。このように自らを低くして満足し、低いところを歩まれた主にならって歩む人は、うぬぼれて自分は賢いと思っている人たちから軽蔑を受けることでしょう。しかしその人は、最後は真実の栄光を継ぐのです。そのとき、この世の名声の偽りの輝きは永遠に消え去り、愚か者は恥を見ることになるのです。

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悪人へのうらやみはないですが只加害者らを見ると余りにも愚かしい行為を思考力なさげに延々と強硬的に続けてしかも日本語はろくに通じそうも無し或る程度分かるのだろうけれども基本的には隠れつつも絶対的な優越性や支配性や全能者面をし続けるという世界観にしがみつき続けるという感じがしてやりきれず又そう言った愚かしい行為も神から見ると本当に愚かで裁きなど有るのかと思ってしまうのです。

愚かしいけれども実は特殊な赦免状態にいるのかと思うほどです。或いは別の考えでは「史上最悪の罠にはまっているだけ」かも知れないし知り得ません。どちらでしょうかね。
「赦免人種」か、「最悪の罠」か。真面目に気になり鬱になります。
「ふっふふ」とか、今も音声で笑うしで。
果たしてですねこれは、「史上最悪のアホを演じている」のか、「赦免だからか」。わかり得ません。
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加害者らの高ぶりが尋常ではないレベルに達しているからです。
一秒の間も無しに粘着監視し続けた上に気に食わない状態だとハイテク音での威嚇、一体何だろうか?と思いたくなります。
完全に被害者を都合良く扱えるつもりの玩具扱いですね。余りにもシュールです。10年以上やられていて何ですが。加害者への諂いが長かったために被害者の変化が理解できないようです。今まで通りに「思い通りに制御できて脅せば幾らでも面白く扱える」とかそう言った感じだろうか。情けない限りです。此方は恐怖に支配されていたのみですが加害者らはその状態を是とし決してまともな人権など与えないようです。
加害者らは遠隔の脅し嘲弄が殆どなので気にせずに生活すれば良いだけですがそれが出来ないのが最大の問題ですね。
例えば車ではねるとか刺し殺しに来るとかの問題じゃなく遠隔心理虐待が問題なのです。
心理虐待を長年し続けた上にシラを切り責任を転嫁し続けた報いは果たしてあるのだろうか。正直不可解です。

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普通に言葉を言わずにジッと監視し続け変なタイミングで「ふふ」とか「バカ」とか言います。果たしてこういった変な行為(虐待だと思うが)への報いってありますかね。正直不可解です。ハイテク音声は鬱屈した小さな声で機械に寄るようです。後は陰部への微振動などの陰湿な行為をネチネチと続けます。

本当に信じがたい様な暗さの固まりですね。モニタ画面凝視生活だとそうなっても不思議ではないが。後はハイテクを片手に頑張り通しか。精神が狂いますね。こういう生活をすれば。おぞましいことです。

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音声を聞いていると変な生々しいような様子見で何とか効果的に嘲弄してやろうと言うようなグロテスクな性質を覚えます。それも何とかチキンなりに工夫して虐待の効果を上げようと言うような感じですね。必死でポーカーフェイスを貫いているあの加害者茶番工作員と同じかも知れません。

意外と加害者らの一瞬見せる隙というか真実の姿というか演技ではない素の出た姿というかそう言う物を見出すと面白そうですね。

加害者らの仄めかしには「ポーカーフェイス」がありますがあれはきっと彼ら自身が固執する物なのだろうか。絶対に感情や本心を見せないことに徹する、その為には基本的に姿を見せずに攻撃、又は一瞬のみ現れるのです。そうすれば体裁を繕い続けることは出来ますね。

しかし神は加害者のことは全てみているだろう、加害者への報いとは一体何か、不可解さの極みですね。

加害者らがポーカーフェイスを貫きたがるのも所詮は常時監視のチキン振りを隠したいのでしょうかね。緊張して張りつめているために絶対に素直な姿など見せられないし一瞬だけ現れて長時間は見せないことに徹するのだろう。

一瞬か短時間のみの登場で完璧な演技を目指すのでしょうか。一種の演技性人格障害です。一体何だろうかと言いたくなる人種ですね。うざいの一言です。

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被害者を攪乱して疲弊させてまやかしのトリックを見せつけて効果的な状態にするのですね。何というかやり切れない人種です。

身心の弱体化を目指し又社会的な殺人ですか。死ぬまで又ネチネチといびり続け何故か知らないがそう言った変な気味の悪い悦楽を貪りますね。

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メッセージ集のコピペ(引用)

http://www.hyuki.com/imit/imit1.html#i6
第6章 制御されていない感情
人は何かをあまりにも欲しがると、すぐに平安を失い始めます。傲慢で貪欲な人は決して安らぎを得ることがありません。一方、心貧しくへりくだっている人は平和の世界に生きるものです。抑制を効かせていない人はすぐに誘惑され、小さくてささいな悪に打ち負かされてしまいます。その人の霊は弱く、いくらか世俗的(肉的)で、感覚的な物事に向く傾向があります。世俗的な欲望を控えることはほとんどできません。ですから、欲望を手放すことは彼を悲しませます。そのような人はとがめだてされるとすぐに腹を立てます。しかし、かれが欲望を満足させると、自分の熱情に従ったことのために良心の呵責が彼をうちのめし、求めていた平安へと導かれることはありません。

だから、心の真の平安というのは、熱情に抵抗したところに見出されるのであって、熱情を満足させるところに見出されるのではありません。肉的な人、空しい魅力に魅せられている人には、平安はありません。熱心で霊的な人にのみ平安があるのです。

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第12章 逆境の価値
時として試練や困難に合うことは、私たちにとって良いことです。なぜならそれによって、私たちは見習い中の身であり、この世のいかなるものにも希望をおくべきではないことを忘れずに済むからです。親切に、よかれと思ってしているにもかかわらず人々から誤解されたり、反発に見舞われたりするのも良いことです。これらのことは、私たちがへりくだり、むなしい栄光から自らを守るのに役立つからです。表面上は誰からも認められない時、誰からもよく思われない時、そのような時こそ私たちは心をご覧になられる神を一層求めるようになります。ですから、人は人間からの慰めを必要としないですむように、神のなかに堅く根を張るべきです。

善良な人が邪悪な思索によってひどく苦しめられ、誘惑され、悩まされるとき、その人は自分に何よりも必要なのは神であり、この方なしには何の良いことも出来ないのだとはっきりと悟ります。そのような人は自らのみじめさと苦しみに悲しんで、嘆き、祈ります。これ以上生きることに疲れを覚え、消えてなくなりキリストと共にいられるようにと死を願うようになります。そのとき、完璧な安全と完全な平安は、地上には見いだせないのだと、彼ははっきりと理解します。

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第24章 裁きと罪の罰
すべてのことにおいて、終末を考えに入れなさい。何も隠すことができず、わいろも言い分けも通用しない、すべての公正なる裁きをなさる、あのお方の厳しい審判の前に、どのようにして耐えることができるでしょうか。そして、あなたよ、みじめで不幸な罪人であるあなたよ、怒った人の表情すら恐れているあなたよ、あなたのすべての罪をご存知の神に対してなんと答えるつもりですか。どうしてあなたは、裁きの日のために備えないのですか。その日には、どんな人も言い訳したりできず、誰しも自分の答えをするのに手一杯なので、誰かに弁護してもらったりすることもできないというのに。この人生において、あなたの労苦は報われ、あなたの涙は受け入れられ、あなたのため息は聞かれ、あなたの悲しみは慰められ、きよめられます。

忍耐強い人というものは、次のようなときに大きくて有益な苦難を通ります。それは、自分自身の傷よりも自分に傷を負わせた人の悪行のことを嘆くとき。彼が自分の敵のことをさっと祈り、敵の攻めに対して心から赦すとき。彼がためらわずに他の人の赦しを請うとき。怒りよりも哀れみのほうが心を動かすとき。自分自身を頻繁に責め、肉体を完全に霊に従わせようとするとき。

罪の悔い改めをして悪徳を刈り取ることを現在おこなうほうが、来るべき世において魂の浄化をするのを待つよりも良いのです。実際、私たちは肉体を愛する誤った助言によって自分自身をあざむきます。かの炎は我々の罪以外の何を燃料とするでしょうか。私たちが自分自身を惜しめば惜しむほど、肉体を満足させればさせるほど、清算するのは困難になり、炎で燃やされるものが多くなるのです。

というのは、人は自分が罪をおかした事柄において、よりひどく罰をうけるようになるからです。そこでは、怠け者は炎の先端に駆り立てられ、大食らいの人は話すことすらできないほどの空腹と乾きに苦しめられるのです。不貞を働く人や肉欲を愛する人は、燃えるピッチとむかつく硫黄に浴することになります。ねたみ深い人は、狂った犬のように嘆き吠えるでしょう。

いかなる悪も、それに応じた罰を伴うものです。高慢な人は、あらゆる混乱に直面するでしょうし、欲深な人は、最高にみじめな貧困に苦しむでしょう。 1時間あちらで苦しみを受けることは、 100年間こちらでもっとも厳しい懺悔を行うことよりもつらいでしょう。 (One hour of suffering there will be more bitter than a hundred years of the most severe penance here.) こちらの生活では、人はときどき労働から解放されて友からの慰めを受けますが、 damnedな人々は、休息を得ることや慰めを得ることはありません。

ですから、あなたがたは、いま自分の罪を取り扱い、悔い改め、裁きの日には恵みによって安息に入ることができるようにしなければなりません。というのは裁きの日には、the just will stand firm against those who tortured and oppressed them, and he who now submits humbly to the judgment of men will arise to pass judgment upon them. 貧しい者、へりくだるものは、大きな確信を得るでしょう。一方、傲慢な者は恐怖に打たれるでしょう。そのときになると、この世においては愚かとされ、キリストのために軽蔑されるような人が、実は賢明だったのだということが明らかになるでしょう。

その日には、すべての忍耐の中から生まれた試練は喜ばしいものとなり、邪悪な声は沈黙するでしょう。信仰深い者は喜び、不信心者は嘆くでしょう。はずかしめを受けた体は、ありとあらゆる快楽で甘やかされてきた体よりも、はるかに大きな喜びを得るでしょう。そのとき、安っぽい衣装は堂々と輝き、立派な衣装は色あせ、すり切れるでしょう。貧相で小さな家は、黄金の宮殿よりも賛美されるでしょう。その日には、辛抱強い忍耐力はこの世のすべての力よりも重要なものとされるでしょう。愚かなまでに一途な従順は、この世的ないかなる賢明さよりも高められるでしょう。善良できよい良心は、学識のある人の哲学よりも、人の心を喜ばせるでしょう。財産を軽視する態度は、この世のすべての宝よりも重用になるでしょう。

そしてあなたは、優雅に暮らすことよりも、熱心に祈ることのうちに、さらなる慰めを見出すでしょう。あなたは、だらだら続く噂話よりも沈黙を好むほど幸せになるでしょう。

多くのきれいな言葉よりも、聖なる働きは大きな価値を持つでしょう。人生の厳しさと激しいpenancesは、すべての世俗的な喜びよりも喜ばしいものとなるでしょう。

ですから、現在のささやかな苦しみを受けることを学びなさい。そうすれば、より大きな苦しみを永遠において受けることはないでしょう。ここで、自分が何に耐え得るかを示しなさい。現在、ほんの小さな苦しみにしか耐えられないなら、どうして永遠の苦しみに耐え得ることができるでしょう。もし、小さな苦しみにいま耐えられないなら、地獄の炎はどうなるでしょう。実際、あなたは二つの喜びを持つことはできません。この世の喜びを味わうことと、後の世にキリストとともに統べ治めることを同時に行うことはできません。

今、この時、あなたの人生が栄光と歓喜に満ちているならば、もし、あなたが死んだ瞬間、それが何の益になるでしょう。ですから、すべてはむなしいのです。ただ、神を愛することと神に仕えることだけがむなしくありません。

心の底から神を愛する人は、死を畏れず、罰や、裁きや、地獄を恐れません。なぜなら完全な愛が神との結びつきを保証するからです。

罪の喜びの中にまだいる人が、死や裁きを恐れることは不思議ではありません。

しかしながら、これはいいことです。愛がまだあなたを悪に向かうのを引き止めないとしても、少なくとも地獄に対する恐怖はあなたが悪に向かうのを引き止めるというのは。神への畏れを脇に投げ捨てるような人は、良いことのうちに永らえることはできず、あっというまに悪魔の罠におちいってしまうでしょう。

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このサイトには随分とはっきりしたことが書かれていますね。
私は正直最近はずっと「あの集団のみ免除だろうか、裁きは」などと思い煩っていました。余りにも無茶苦茶なことを自信たっぷりというか何の疑問も無しに繰り返し全く変化など無いからです。
と言うよりは思考停止にも見えますが。悪魔の罠に陥っている姿でしょうか?だとすれば何という残酷でやり切れない姿でしょうか。
神は何故にこういう変な人種を造り罪深い事をさせ続けるか。

彼らは実は「集スト行為すらも被害者のせいである」という工作までします。此方への心理工作と外側への物です。
集スト行為が被害者の性欲の故であると言う印象工作を一日中やり続けています。余りにも醜怪な物を覚えています。
果たして人間でしかないのにこういった醜怪な生き方で良いのか、更にそれのみで人生を満たしても?良いか。

加害者には最早修正などしようが無いように見える「出来上がっている」世界にいるのみに見える者もいます。
最早普通に言葉など無関係の変な世界にいるのが直ぐに分かる様な姿です。何故こういう変な人種に一々粘り着かれるのだろうかと不可解になりおぞましいです。
と言うよりも自己の行為自体が誰にも知られないという過信(盲信?)と謝りの世界にいるという不可解さに耐え難い思いがします。
それで「加害者だけは免除か」と思ってしまうのです。

加害者らは決して神を恐れることもなく徹底してその場凌ぎの演技のみを繰り返し変わらないことを繰り返します。分かったような演技をしてその後同じ事の繰り返しが繰り返されます。

「こうしておけば良いのだろう」、「こうしておけば相手は納得するだろう」、「こうすれば正当化できるのだろう」という価値観念体系で生きるためか、決して自分達の考え?や流儀?を変えません。きっと「おのれの腹」を神とするからだろうか。

そうだとすれば何を言おうが無意味かも知れませんが。覗き虐待を決して止めず徹底して続けます。そして自分達の行為を全て悉く被害者の性欲の故だという印象工作のみを繰り返します。それだけを一日中し続けているようです。

グロテスクと言えば本当にそうですが彼らに取ればいたく正当な行為でありそれのみに耽ることが人生化しているのだろうか。果たして彼らに何処まで内臓を貪られるかという感じですね。

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神の平安

http://www.eiko-church.com/message/archives/2007_03.php
2007年03月25日 : 荻窪チャペル
「キリストにある平安」      中島秀一師
聖 書:ヨハネ14章25節~31節


(25) これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。
(26) しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊
は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、こと
ごとく思い起させるであろう。(27) わたしは平安をあなたがたに残して行く。
わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなも
のとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。(28) 『わたし
は去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったの
を、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもと
に行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからであ
る。(29) 今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、
事が起った時にあなたがたが信じるためである。(30) わたしはもはや、あなた
がたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対
して、なんの力もない。(31) しかし、わたしが父を愛していることを世が知る
ように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さ
あ、ここから出かけて行こう。
 

 この世に生きる者として、平安な日々を望まない人は一人としていないでしょう。あまりにも高度に発達した時代、しかも喧騒な都会のど真ん中に暮らす者の周囲には小さな心をかき乱す不安材料が満ち溢れています。
どうすれば、心の安らぎを取り戻すことができるのでしょうか。それはこの時代に生きるすべての人々が抱える大きな課題です。
 キリストは「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」と言われました。ここに導きと慰めと勝利があります。

Ⅰ.聖霊によって導かれる平安 (25~26)
 キリストが「あなたがたを孤児とはしない」(18)と約束された通り、聖霊は復活後50日目に降られました。この聖霊は「助け主」と呼ばれ、「すべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせる」お方です。つまり聖霊は真理の言葉を思い起こさせ、その意味を理解させて下さるのです。自分一人の知恵や経験で生きていると思えば様々な不安や恐れが生じてきます。しかしいつも聖霊が共に居て下さっています。神は聖霊によって導かれる平安を与えて下さいます。

Ⅱ.キリストによって慰められる平安 (27)
 キリストは「わたしの平安を与える」と言われました。キリストが残された平安はキリストご自身の平安でした。キリストの生涯は、何一つ問題のない平安ではなく、むしろ貧困、中傷、迫害、裏切り、十字架の道を歩まれました。また嵐の中でも「わたしだ、恐れることはない」(6:20)と弟子たちを励まされました。復活されたキリストは、恐れる弟子たちに「安かれ」と慰めの言葉をかけられました。パウロは「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ4:6-7)と記しています。神は、キリストによって慰められる平安を与えて下さいます。

Ⅲ.神によって勝利する平安 (28~31)
神なき人生はいかに孤独で淋しいものでしょうか。過去の過ちに脅かされ、現在の困難に翻弄され、未来の生活に恐れと不安を抱えています。しかし幸いなことにキリスト者にはキリストの平安が与えられています。それはこの世が与える物質的なもの、逃避的なものではなく、霊的なもの、問題を克服する平和です。悪魔は「この世の君」と呼ばれています。しかしキリストは悪魔に勝利されました。同じ力が私たちにも与えられています。悪魔の最大の武器は「死」です。神はご自身によって勝利する平安を与えて下さいます。

 キリストにある平安によって、日々導かれ、慰められ、勝利する生涯を送らせて頂きましょう。

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ところでこの変な犯罪に遭ってから厳密には30年以上のようですが激しくなってから教会に導かれその後10年後に漸く信仰の目が開かれたのですが、神社に行くのが安らぎを覚えるようになりました。
神社は神道ですが、聖書の神様と関係があるようです。だからかも知れません。
人間は誰でも神との関わりがなければ極めて孤独で暗い生き方になるしかないと知りました。
過去にはそうでした、自己の愚かな思いに従い愚かさしかない生活でした。精神状態も非道い物でした。

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真の平安

http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Vega/1619/imamade2.htm

2001年9月のメッセージ
真の平安
牧師 松本 真平

 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。
わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな。    
(新約聖書ヨハネによる福音書14章27節)
 

 人間が常に求めているものは何でしょうか。それは、愛、希望、そして平安ではないでしょうか。人を愛し、愛されること、将来に対して希望が持てること、そして常に平安でいられること、心安らかであること、そうすれば幸福であると思われます。そういうことが可能なのでしょうか。

 人はいろいろの不安、心配、恐れがあり、心騒がせます。今日の日本の現実の中で、そうです。経済的な不況状態はまだ脱してはいません。先行きはなお不透明です。この先どんな痛みを伴うのでしょう。事業が破綻しそうであえいでいる人がいます。社会的にも、様々な事件事故が頻発しています。子供も学校も危ない。事件に巻き込まれてしまう。子供を取り巻く学校現場も、不登校や、いじめや暴カも後を絶たない現実があります。高齢社会で老後の不安を訴える人もいます。人生の終末を如何に生き、そして死ぬのでしょうか。死の恐れを感じる人もいます。人には、様々な恐れ、不安、心配があります。

 ヨハネ福音書の14章から16章は、イエスの弟子たちへの決別の説教と言われています。イエスがこの世を去る前に弟子たちに与えたメッセージであります。その一節が、前掲の言葉です。ユダヤ人は、シャローム(平安あれ)と挨拶をします。このイエスの言葉は、単なる挨拶ではなく、イエスから与えられる安寧、幸福の意味があります。イエスによる救いと関連があります。イエスに対する信仰の故に与えられる平安であります。これはこの世が与えるなにものにも代え難い平安であるというのであります。主イエスは、弟子たちに、世が与えるようなものとは異なる「わたしの平安」を与えると約束して下さいました。

 この世の様々な移り変わり、変化、激動の中で、変わらない主イエスにわたしたちの存在の根拠をおいて、確信を持って、力強い日々を歩いていきたいものであります。
           皆様の上に主イエスの平安がありますように。

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確かにこの世的な思い煩いからは解放されたようですがしかし加害者らの与えてくるブチ切れ効果のある嫌がらせには困り果てます。
ブチ切れするような理由はやはり悪霊の影響下にあるとしか思えない嫌なムードの加害者が如何にも「わたしのまともな姿を見てもらおう」と言いたげに気味悪く近付いてくることです。

過去に2ちゃんねるの書き込みにあったのは「加害者は如何にも自分達が被害者にとっての理想的な姿だと言いたげに気持ち悪く近寄ってくる」と書いていましたが、あれが正しくそうかも知れないなと今になり分かりました。
言い得て妙だというか日本人というのは洞察性があり冷静だと思います。

加害者らは単に被害者が反応するのを見たいだけ見たいですね。動物園の見世物と同じですね。(被害者は)情けないです。実に。
まるでどっかの悪趣味な映画みたいです。
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過去に見た藤子作品のアニメビデオ作品ではこういう物がありました。

ある主人公がある理由で欲望のままに生きるようになり次第に化け物化し、野獣じみた感じになると言う物ですが詳細は覚えていませんが正直創価の性質を見せられてから今になりこれを思い出し、創価みたいだと思いました。
ある創価の作家がデビルマンのようなイメージを作品に書いていたがそう言うのが好きなのだろうか。

他に藤子作品で、やはり人間が変な強い存在により虫けら見たく虐殺され玩具みたいに扱われたり串刺しにされたり標本じみた扱いになったりするような漫画がありましたがこれも今の暴虐に似ています。
歴代的に起きた変な残虐事件も彷彿とさせるように思います。

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神の報復

http://www.f-cc.jp/cover/ms0308.htm
2008年3月2日
「コントロール」

牧師 犬塚 契

へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。             フィリピの信徒への手紙 2:8

コントロール【control】[名] 1ちょうどよいぐあいに調節・統制すること。管理。2球技で、ボールを自分の思うところに投げたり蹴ったりすることができる能力。…他▲スポーツではないから、どちらかと言うと1である。けれども、そんな「ちょうよいぐあいに …」を超えて、「思い入れ」が強いほど、人をコントロールしようとする欲求は強くなるように感じることが多くなった。「正しい」と思われる時はなおさらだ。「思い入れ」「正しさ」がいつの間にか、人に服従を迫ることへ変化していくことがある。動機は、不純なものではなかったとしても、人が呼応しない寂しさ故か、末路を案ずる故か、不安が不満へと変わり、怒りとなる。そして、振り返って聖書の神の方法に驚くのである。▲神が求められるのは、服従ではなく、愛である。服従ならば世の為政者が試し、試している無数の方法がある。しかし、時間と手間と忍耐と労力と涙と……のかかる十字架の方法を神は選ばれた。そこにただ驚くのである。破壊する方法ではなく、あくまでも内から変化していくという方法を取られたのである。▲救いのために神は3つの屈辱を受けられたと呼んだ。「受肉」と「十字架」、そして「教会」であると。歴史の中で教会が愛ではなく、服従を求めたために失敗をしてきたことかと思う。そして、変わらず今もその誘惑の中にある。正しくても(残念ながら)人は操作できない。神がそれを望まれず、そうされなかった。ただ十字架の死に至るまで愛を示されたイエスキリスト姿が私たちの前にある。

ーーーーーーーーーーーーー
上の文を読み神の報復とはご自分の民が神を仰がずに偶像礼拝に走り更に真の神を侮り否定し更に高ぶって自己の力や知識だと勘違いをした結果、「人心マインドコントロール制御システム利用の変態人種」を臨ませることで報復されたのではないかと言うことです。
嫌な書き方ですが率直に言うとそう思いました。
真の神に従わずに高ぶった報いとして変態下劣な人種による馬鹿げたやり方の制御貶め報復を臨ませたと思います。

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神の与える平安

27)わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。


イザヤ書:第48章
22)主は言われた、「悪い者には平安がない」と。

イザヤ書:第57章
21)わが神は言われる、「よこしまな者には平安がない」と。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
悪人には平安がないとはどういう意味か、又イエスキリストが与える平安とはどういう意味か。

http://cgi.koluthse.jp/cgi-bin/webcal/daily.cgi?year=2008&mon=3&day=14
2008/3/14 (金) のみことば
十字架の中に平和がある
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。 ヨハネ14・27
 この聖句から知られることは、聖霊は、苦しみと悩みの中に沈んでいる人々にのみ与えられるということです。主のおっしゃったことばの意味は、わたしが与える平和は、世が与えるようなものと考えてはならないと、いうことです。苦しみが人から切り離される時、世はこれを平和と呼びます。たとえば、貧乏である場合、貧乏だからはげしい苦労をすると考え、もし貧乏がなくなれば、平和と富の中に生活できるのだがと、なんとかして貧乏からのがれる方法について思いめぐらします。また、きとくの状態におちいった場合、死からのがれることさえできれば、いのちと平和を持つことができると考えます。しかし、これはキリストの与える平和ではありません。むしろ、主は、悪が人の上にのせられ、ずっと圧迫し悩ませ続けるままにして、取り去られません。しかし、主は他のはかりごとを持っておられます、すなわち、その人自身を変えるのであって、人から悪を引き離すのではなく、悪から人を引き離すのです。

 このように、あなたがたは苦しみの中におかれていますが、主はその中であなたがたの方向を変え、勇気を与えて、ばら園の中にすわっているかのごとく思わせます。このようにして、死のさなかにもいのちがあり、逆境の最中にも平和と喜びがあります。これこそ、パウロがピリピ人への手紙(4・7)で言っているように、人知ではとうてい測り知ることのできない平安です。

1523年の説教から

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聖書のみことばより

哀歌第2章

01)ああ、主は怒りを起し、黒雲をもってシオンの娘をおおわれた。主はイスラエルの栄光を天から地に投げ落し、その怒りの日に、おのれの足台を心にとめられなかった。


02)主はヤコブのすべてのすまいを滅ぼして、あわれまず、その怒りによって、ユダの娘のとりでをこわし、これを地に倒して、その国とそのつかさたちをはずかしめられた。


03)主は激しい怒りをもって、イスラエルのすべての力を断ち、敵の前で、おのれの右の手を引きもどし、周囲を焼きつくす燃える火のように、ヤコブを焼かれた。


04)主は敵のように弓を張り、あだのように右の手を伸べて立ち、シオンの娘の天幕におるわれわれの目に誇る者を、ことごとく殺し、火のようにその怒りを注がれた。


05)主は敵のようになって、イスラエルを滅ぼし、そのすべての宮殿を滅ぼし、そのとりでをこわし、ユダの娘の上に憂いと悲しみとを増し加えられた。


06)主は園の小屋のようにおのれの幕屋を倒し、その祭の場所をこわされた。主は祭と安息日とをシオンに忘れさせ、激しい怒りによって、王と祭司とを捨てられた。

07)主はその祭壇を忌み、その聖所をきらって、もろもろの宮殿の石がきを敵の手に渡された。彼らは祭の日のように、主の宮で声をあげた。


08)主はシオンの娘の城壁を破壊しようと思い定めて、なわを張り、打ちこわして、その手をひかず、城壁と石がきとを悲しませられた。これらは共に衰える。


09)その門は地にうずもれ、主はその貫の木をこわし砕かれた。その王と君たちはもろもろの国民の中におり、もはや律法はなく、またその預言者は主から幻を得ない。


10)シオンの娘の長老たちは地に座して黙し、頭にちりをかぶり、身に荒布をまとった。エルサレムのおとめたちはこうべを地にたれた。

11)わが目は涙のためにつぶれ、わがはらわたはわきかえり、わが肝はわが民の娘の滅びのために、地に注ぎ出される。幼な子や乳のみ子が町のちまたに息も絶えようとしているからである。


12)彼らが、傷ついた者のように町のちまたで息も絶えようとするとき、その母のふところにその命を注ぎ出そうとするとき、母にむかって、「パンとぶどう酒とはどこにありますか」と叫ぶ。

13)エルサレムの娘よ、わたしは何をあなたに言い、何にあなたを比べることができようか。シオンの娘なるおとめよ、わたしは何をもってあなたになぞらえて、あなたを慰めることができようか。あなたの破れは海のように大きい、だれがあなたをいやすことができようか。


14)あなたの預言者たちはあなたのために人を欺く偽りの幻を見た。彼らはあなたの不義をあらわして捕われを免れさせようとはせず、あなたのために人を迷わす偽りの託宣を見た。

15)すべて道行く人は、あなたにむかって手を打ち、エルサレムの娘にむかって、あざ笑い、かつ頭を振って言う、「麗しさのきわみ、全地の喜びととなえられた町はこれなのか」と。


16)あなたのもろもろの敵は、あなたをののしり、あざ笑い、歯がみして言う、「われわれはこれを滅ぼした、ああ、これはわれわれが望んだ日だ、今われわれはこれにあい、これを見た」と。

17)主はその計画されたことを行い、警告されたことをなし遂げ、いにしえから命じておかれたように、滅ぼして、あわれむことをせず、あなたについて敵を喜ばせ、あなたのあだの力を高められた。


18)シオンの娘よ、声高らかに主に呼ばわれ、夜も昼も川のように涙を流せ。みずから安んじることをせず、あなたのひとみを休ませるな。


19)夜、初更に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ。

20)主よ、みそなわして、顧みてください。あなたはだれにむかってこのように行われたのですか。女は自分の産んだ子、その大事に育てた幼な子を食べるでしょうか。祭司と預言者が主の聖所で殺されていいでしょうか。


21)老いも若きも、ちまたのちりに伏し、わがおとめも、若人も、つるぎで倒されてしまった。あなたは、その怒りの日にこれを殺し、これをほふって、あわれむことをされなかった。

22)あなたは、わたしの恐れるものを、祭の日のように四方から呼び集められた。主の怒りの日には、のがれた者も残った者もなかった。わたしが、いだき育てた者をわたしの敵は滅ぼし尽した。
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この箇所には以下の日本の悲惨な状態と日本人が神に対して取るべき態度があると思うのですが、神様は詰まるところ日本人の頑なさや高慢度を打ち砕くためにはあの様な愚かしさの極みのような変な醜怪なる人種を造られ日本人に対して襲いかからせたのではないかと思います。
私もずっと被害が激しくなってから不可解さがまし、祈りによって何とか酷い状態から少しずつ健全な生活状態に戻そうとするときこの人種の如何に異常であるかが見て取られる気がし困惑し発狂し憤りで大変でした。昨日も神に向かい憤り怒鳴りました。

今日になり思ったことは、神様はあの様に異常すぎるどうにもならないような変な人種を造り日本人に粘着虐待をさせることにより(それこそ有り得ない方法で荒唐無稽に)日本人に深い嘆きを起こさせ絶望を起こさせて神により頼むようにさせることが目的であったのではないかと思ったのです。
人間は本当に自己や周囲に対して絶望を味遭わないと、真に神を求めることが出来ないようです。私がそうでした。
神様は人間が絶望と怒りの果てに「主よ、私の神よ」と呼び求めることを待たれているとあるサイトに書かれていました

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エレミヤ書
第9章

1)ああ、わたしの頭が水となり、わたしの目が涙の泉となればよいのに。そうすれば、わたしは民の娘の殺された者のために昼も夜も嘆くことができる。


2)ああ、わたしが荒野に、隊商の宿を得ることができればよいのに。そうすれば、わたしは民を離れて去って行くことができる。彼らはみな姦淫する者、不信のともがらだからである。

3)彼らは弓をひくように、その舌を曲げる。真実ではなく、偽りがこの地に強くなった。彼らは悪より悪に進み、またわたしを知らないと、主は言われる。


4)あなたがたはおのおの隣り人に気をつけよ。どの兄弟をも信じてはならない。兄弟はみな、押しのける者であり、隣り人はみな、ののしって歩く者だからである。


5)人はみな、その隣り人を欺き、真実を言う者はない。彼らは自分の舌に偽りを言うことを教え、悪を行い、疲れて悔い改めるいとまもなく、


6)しえたげに、しえたげを積み重ね、偽りに偽りを積み重ね、わたしを知ることを拒んでいると、主は言われる。


7)それゆえ万軍の主はこう言われる、「見よ、わたしは彼らを溶かし、試みる。このほか、わが民をどうすることができよう。


8)彼らの舌は殺す矢のようだ、それは偽りを言う。その口ではおのおの隣り人におだやかに語るが、その心では彼を待ち伏せる計りごとを立てる。

9)主は言われる、これらのことのために、わたしが彼らを罰しないだろうか。わたしがこのような民にあだを返さないだろうか。

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「7)それゆえ万軍の主はこう言われる、「見よ、わたしは彼らを溶かし、試みる。このほか、わが民をどうすることができよう。 」

↑上のみことばが神の御心を現していると思います。神は人間を造られた支配主ですので、人間が自分勝手に神を忘れてしかも忌まわしい偶像礼拝に傾けば怒られるのです。
偶像礼拝はつまり聖書の神以外の存在を崇め奉ることだそうです。
聖書の神様は聖書の中でご自分を唯一の神であると言われています。↓

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恐れてはならない。またおののいてはならない。
わたしはこの事を昔から、
あなたがたに聞かせなかったか。
又告げなかったか。
あなたがたは我が証人である。
わたしの他に神があるか。
わたしの他に岩はない。
わたしはそのあることを知らない。イザヤ書44:8

主、イスラエルの王、イスラエルを購う者、
万軍の主はこう言われる、
「わたしは初めであり、わたしは終わりである。
わたしの他に神はない。」イザヤ書44:6

主は言われる。「あなたがたは我が証人、
わたしが選んだ我が僕である。
それ故、あなたがたは知って、わたしを信じ、
わたしが主であることを悟ることが出来る。
わたしより前に造られた神はなく、

わたしよりも後にもない。
ただわたしのみ主である。
わたしの他に救う者はいない。
わたしは先に告げ、かつ救い、かつ聞かせた。
あなた方のうちには、他の神はなかった。
あなた方は我が証人である」と主は言われる。
「わたしは神である。今より後もわたしは主である。
我が手から救い出しうる者はない。
わたしが行えば、

誰が、それをとどめることが出来よう」。イザヤ書10-13

恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。
驚いてはならない。わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、
我が勝利の右の手を持って、あなたを支える。イザヤ書41:10

わたしは主である、
わたしの他に神はない、一人もない。
あなたがわたしを知らなくても、
わたしはあなたを強くする。
これは日の出る方から、又西の方から、
人々がわたしの他に神のないことを
知るようになるためである。
わたしは主である。わたしの他に神はない。

わたしは光を造り、また暗きを創造し、
繁栄を造り、また災いを創造する。
わたしは主である。
全てこれらのことを為す者である。
イザヤ書45:4-7

地の果てなる諸々の人よ。
わたしを仰ぎ望め、そうすれば救われる。
わたしは神であって、他に神はないからだ。
イザヤ書45:22

わたしはあなた方の年老いるまで変わらず、
白髪となるまで、あなた方を持ち運ぶ。
わたしは造った故、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。イザヤ書46:4

あなた方のうち主を恐れ、
その僕の声に聞き従い、
暗い中を歩いて光を得なくても、尚主の名を頼み、

おのれの神に頼る者は誰か。
イザヤ書50:10

「わたしこそあなたを慰める者だ。
あなたは何者なれば。死ぬべき人を恐れ、
草のようになるべき人の子を恐れるのか。
天を述べ、地の基を据えられた
あなたの造り主、主を恐れて、

何故、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、
青の憤りの故に常に終日恐れるのか。
しえたげる者の憤りは何処にあるか。
身をかがめている捕らわれ人は、速やかに解かれて、
死ぬことなく、穴に下ることなく、
その食物は尽きることがない。
わたしは海をふるわせ、
その波をなりどよめかすあなたの神、主である。
その名を万軍の主という。

イザヤ書12-14

見よ、炭火を吹きおこして、
その目的にかなう武器を造り出す鍛冶は、
わたしが創造した者、
また荒らし滅ぼす者も、わたしが創造した者である。
全てあなたを攻めるために造られる武器は、
その目的を達しない。
全てあなたに逆らいたって、争い訴える舌は、

あなたに説き破られる。
これが主の僕らの受ける嗣業であり、
又彼らがわたしから受ける義である」と
主は言われる。 イザヤ書54:16

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聖書のみことばより

ローマ人への手紙3章
21)しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。


22)それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。


23)すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、



24)彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。


25)神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、



26)それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。


27)すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。


28)わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。


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以上の箇所には「信仰義認」について書かれています。
人が義とされるのは律法に寄らず神への信仰によると言うことが聖書に書かれています。
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【詩篇第49篇】
聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌

 1もろもろの民よ、これを聞け、
  すべて世に住む者よ、耳を傾けよ。


 2低きも高きも、富めるも貧しきも、共に耳を傾けよ。

 3わが口は知恵を語り、わが心は知識を思う。

 4わたしは耳をたとえに傾け、
  琴をならして、わたしのなぞを解き明かそう。

 5わたしをしえたげる者の不義が
  わたしを取り囲む悩みの日に、

  どうして恐れなければならないのか。

 6彼らはおのが富をたのみ、
 その宝の多いのを誇る人々である。

  7まことに人はだれでも自分をあがなうことはできない。
  そのいのちの価を神に払うことはできない。

89とこしえに生きながらえて、墓を見ないために

  そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、
  それを満足に払うことができないからである。

 10まことに賢い人も死に、
  愚かな者も、獣のような者も、ひとしく滅んで、
  その富を他人に残すことは人の見るところである。

 11たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、
  墓こそ彼らのとこしえのすまい、

  世々彼らのすみかである。

 12人は栄華のうちに長くとどまることはできない、
  滅びうせる獣にひとしい。

 13これぞ自分をたのむ愚かな者どもの成りゆき、
  自分の分け前を喜ぶ者どもの果である。

 14彼らは陰府に定められた羊のように

  死が彼らを牧するであろう。
  彼らはまっすぐに墓に下り、そのかたちは消えうせ、
  陰府が彼らのすまいとなるであろう。

 15しかし神はわたしを受け入れるゆえ、
  わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。

 16人が富を得るときも、

  その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。

 17彼らは死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、
  その栄えも彼に従って下って行くことは
  ないからである。

 18たとい彼が生きながらえる間、自分が幸福だと思っても、
  またみずから幸いな時に、人々から賞賛されても、


 19彼はついにおのれの先祖の仲間に連なる。
  彼は絶えて光を見ることがない。

 20人は栄華のうちに長くとどまることはできない。
  滅びうせる獣にひとしい。

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以上の箇所は今日何故かトイレ時に頭に浮かんだ「これぞ自己を頼む者共の愚かさ」というみことばが入っている箇所です。
頭に浮かんだみことばが聖霊様の働きだと良いと思います。

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神の慈悲について

http://en.bibleinfo.com/old/H2/bil01756.htm

慈悲

主は慈悲深いお方です。 聖書の、イザヤ書第30章18節に記されてあります。「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである」、詩篇第103編13節は、「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる」と記されてあり、また、ミカ書第7章18節には「だれがあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のためにとがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず」と記されてあります。

  不従順なときに、わたしたちは神の慈悲を経験します。 聖書の、詩篇第6編2節に記されてあります。「主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます」。

  高慢な者は神の慈悲を経験しません。 聖書の、ルカによる福音書第18章13-14節に記されてあります。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

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今朝は流石に加害者への憤りが高じて神に対し罵声を挙げ怒号を撒き散らしました。

「何だろうかこれは。何とかしろよ!!何とかしろよ!!この変な人種を!!神様よ、何とかしろよ!!この変な人種をよ!!あんたが造られたのだろうが、何とかしてくれよ、限界なんだよ!!なんだよこのおかしな人種は!!ありえねーよ!!人間として・・・あんたは何でこういう変な人種を造るんだよ!!悪趣味じゃないか!!

いい加減にしろよ!!一体何処まで人間を苦しめるのだよ!!

いい加減にしろよ!!この馬鹿神!!糞神!!

もう此方は限界なんだよ!!限界だって言っているだろうが!!

いつまでやれば良いんだよ!!

地獄に落とせよ、此方は人間だよ。限界があるって言ってんだよ。

地獄に行かせればいいよ、彼奴らを何とかしないのであれば此方は自殺して地獄に行こうがもう良いです。

いい加減にしてください。お願いします。

何時までだろうか、

彼奴らは神が造ったのだ、何時まで人間を苦しめればいいのだ。人間のせいにするな!!」

(譬え人間の罪の故だろうか限界という物がある)

と言う感じで神に向かい怒りまくっていました。

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他に考え得る理屈としては

「神様よ、一体あんたは何を考えているのだ。何のためにあの様に・・・・

神様よ、答えてくれ、何故にああいう人種を造る?

何故だ?何故だい?教えてくださいよ。何でですか。

苦しんでいるのですが。何ですか、何なんですか。何ですかあれ。何ですかあれは。

神様教えてください、神様、教えてください。神よ何でですか。何ですかあれ。

教えてくださいよ。

日本語通じないんですよ、一体どうしろと言うのですか。

此方は人間です、人間ですよ。

何ですかあれは。何でしょうかあれは。

何ですか、あれは。

神様よ、教えてください。

裁きはないですか彼奴らの、赦免ですか、神様。教えてください。

私は苦しんでいるだけです。苦しいだけだって言っている。

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その後何故か空が大変きれいな風景は見れましたが散歩中も大変きれいな空が見れました。散歩中公園で祈ったがやはり帰っても嫌がらせは続いている。

神の見せてくださった凄い空の眺めは勿体ないばかりであった。

しかし加害者らの奇妙さが日に日に強まっていた。

此方が空をきれいだと思って感動することを変な茶番で貶める。卑しめる、腐す。

女性の変な扮装により。そして付きまとい、多量の車両で相変わらずの行進パレード。そして変な暗いアベックの見せつけ。

空にはとてもきれいな雲の眺めが360度展開していた。

家にいる間は相変わらずの音声での性的キーワードの繰り返しです。

鬱屈した小さな声での性的キーワードの連呼。数秒ごとに必ず連呼。

空はきれいで神の恵みを覚えたがそれを腐すような女性加害者を用いた茶番。あたかもその価値観が正当だと言いたげに。

此方は神の恵みに感謝するようになったが加害者らは変わらない茶番などを繰り返し、毎日毎日やってきては繰り広げる。暗い余裕がない顔付きにて。

いい年して何という不可解極まりなさだろうか。

彼らには思考力という物がないのか。不可解だしシュールすぎて苦痛の極みです。

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加害者はどうあっても、「自分達の行為は全て被害者の性欲の故」だと言うことにしたいらしいです。過去からずっとそう言った工作はされ、マスコミからもかなり凄いことをされているようです。

今時分もずっと一日中音声にて性的キーワードを「鬱屈した小さな声」で繰り返している。数秒ごとに一回は必ず。起きている間中、ずっとです。

自分達の行為「ハイテクの騒音」を、被害者の性欲と結びつけたい様な感じの工作ですね。これをかれこれ数ヶ月間、毎日毎日毎日毎日数秒に一度は起きている間中繰り返している。

自分達の行為を全て「被害者の性欲のせい」だと言うことにし続ける「必要性」があるようですね。

創価とやらの加害者様は。

一日中時折「うげえーーーー」などという音声も聞こえてくるが

創価とやらの加害者殿はきっと「ベッタリ覗き回し粘着行為を続けつつ被害者に自己嫌悪や罪責感を抱き続けて頂きたい」みたいですね。

つまり自分達の行為を逆に「被害者の自己嫌悪感」にすり代えることで「自分達の行為についての本質」を、全て誤魔化すわけです。

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メッセージのコピペです

http://www.8008amen.com/message/mes041031.html

自分を低くする者は高くされる
        
(ルカ14:711)

 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。  (ルカ1411


1.自分を低くするとは

 自分を低くする、それは謙虚に生きるということです。これは決して優しいことではありません。それだけではありません。私たちは案外、相手が神であっても、それでも神よりも自分を上に置きかねない。そして、神よりも自分を上に置くことを聖書では「罪」というのです。自分を低くする。それは神を神としてあがめるところから始まるのです。

2.一番末席につかれたイエス

 自分を低くするということは戦いです。けれどもイエスさまはこんな私たちのために自らを低くしてくださいました。一番高く上げられるべきお方が自らを低くしてくださったのです。人になり、馬小屋に生まれただけではありません。罪人として扱われてくださいました。弟子たちの間でも給仕する者のように彼らに仕え、十字架につけられる前の夜には、一人一人の足をまるで奴隷のように自らを低くされました。イエスは、つばきをかけられ、しばられ、傷つけられ、あざけられ、そして苦しみぬいて神にさえも呪われて、死んでくださったのです。神は、一番自らを低くし私たちの罪をも負ってくださったイエスさまの恵みで、本来は決して自分を低くできない私たちを下から支えて、神を神とし、人々に愛をもって仕えることのできる者にしてくださるのです。

3.運命の逆転

 けれども、イエスはそこに逆転が起きるというのです。自分を高くして、高慢に生きる者はやがては低くされる。そして自分を低くした者が高く上げられる日が来る。イエスはよみがえり、罪と死の力を全く滅ぼしてくださいました。そしてイエスは私たちを支えてくださいます。イエスのように人々に仕えていく時に、神は私たちを高く引き上げ、神の栄光にあずかる者として下さるのです。

 ここで語られているのは単に席順のことではありません。イエスさまは婚宴のたとえをよく終末における神の国にたとえられました。その意味では、まるで自分がここにいるのが当然だと思っている人は入れない。天国はかえって自分は本来は入ることのできない罪深い者なのだと言うことを知っている人がただ神のあわれみによって入るところなのです。

(10/31)

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人を無遠慮に24時間覗き回し当然の如しに変質者行為を繰り返しハイテク用いて虐待し性的貶め工作をし自己正当化の茶番を繰り広げマスコミ使って変な嫌がらせをさせ精神病に仕立て上げ悪人に仕立て上げ家族からも迫害されるように仕向け人権無視蹂躙身体への嫌がらせ一秒も休まぬ粘着介入行為、不特定多数からの虐待行為、堅く侵入、ゴミ捨て攻撃、悪の擦り付け行為、人格貶め攻撃、心理虐待、精神虐待、情報搾取、精神搾取、ハイテク虐待、社会的な貶め殺人、異常干渉、付きまとい、老若男女からの虐め、人生生活精神破壊、等々・・・・

個人への著しい攻撃の数々は自己利益追求と自己愛満たしのためかも知れないが、果たして何処まで高ぶれば?気が済むか・・・・・・・

過去の罪の故だとしても果たして不可解なところがとても多く困っている。

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デボーションのサイトより

http://www.kinpouden.com/oeiko/devotion/200602.htm

2006年2月21日(火)

聖書の箇所:ルカ14章1~35節/ 年間通読:マタイ20~22章

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」

(11節)

この世の慣わしでは高いものがさらに高くされ、力あるものがさらに力を得ていくのが常である。しかし、神の国は全くこの世のあり方とは正反対の法則に基づいて成り立っている。
人間の高さは神の怒りを生むが、へりくだりと従順さは神の祝福の源となる。ただ、へりくだり傲慢や、自己憐憫の類であってはならない。主にある愛と慎みをもって、主と人に仕えていくのだ。そこにはいつも主の前に出て、主の光に照らされて自分自身の心を吟味していく不断の取り組みが必要となる。

“わが心を謙らせ、あなたに喜ばれるものとし給え。アーメン”

ーーーーーーーーーーーーーーーー

2006年2月4日(土)

聖書の箇所:マルコ13章1~37節/ 年間通読:出エジプト6~9章

「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(31節)

罪によって人に死が、罪という壊れ、病が入り込み、さらに壊れてしまった人間を通し、“壊れ”が被造物全体に広がっていく。悲しいかな、その壊れた世界には必ず、終わりが来る。すべては壊れ、滅びていく。
しかし、その神の言葉が表す祝福の約束、永久の救いの契約、また神の言葉に溢れ、示されている私たちへの神の愛と慈しみは変わることはない。さらに、この壊れない神の言葉を信じ、それを土台として生きる私たちも朽ちないものを着て、滅びから、壊れから免れて生き続けることが出来る。ハレルヤ!

“今日も朽ちない神の言葉とそのキリストの命に溢れさせてください。アーメン”

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

キリスト教の教えは真理であり非常に素晴らしいがしかしあの粘着の加害者らは何だろうかと不可解さが増す。

彼らは一日中人にへばり付き自己正当化及び無意味な嘲弄を繰り返し続けている。

まともな言葉は聞かれない。一日中音声送信にて「ふふふふ」「あ」「ははは」「バカ」などと言っている。

後は機械による騒音で「ぶしゅーー」「しゅおーーー」「ぶいーーーーん」を繰り返し続ける。

家の外に出ると必ず待機していたのか車両が数台以上は通過していく。

外に出ると必ず、工作員が何かの変なメッセージ茶番をしてくる。それには「我らの世界観や価値基準が正しいのである、お前はこういった人物である(或いは今日はこれこれの人物評価である)というメッセージをする。カップルや普通人の扮装などでの年配加害者もいて、「常識的な人生者」という演技をしてくる。

後はハイテクの音にて動物の声の模倣を繰り返す。(犬の声、カラスのような声、少し前には小鳥のような声など)そして意味不明なタイミングにて「ひほほほ」などの変な嘲笑をハイテク技術にて聞かせてくる。

これらの行為を延々と毎日毎日繰り返すようだ、その状況にてか次第に手法が変化していくようだが。

これらの行為を一般人の振りする加害者らは黙殺しタイミング合わせで登場しつつも無表情のしれっとした態度を貫く。横向きになっている(歩く)姿を見せることが多い。

彼らは共産主義と言うことを聞きましたが神の不在を信じるそうですね。そうでしたらあの傲慢性も分かる気がしますが。神の裁きを嘲るような世界観にいれば無理もないのだろうか。

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以下のサイトにはキリスト教のメッセージがあります。

http://park6.wakwak.com/~sanda-ch/dailybible/9904/nikka9904.html

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http://www.kinpouden.com/oeiko/devotion/200602.htm

2006年2月21日(火)

聖書の箇所:ルカ14章1~35節/ 年間通読:マタイ20~22章

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」

(11節)

この世の慣わしでは高いものがさらに高くされ、力あるものがさらに力を得ていくのが常である。しかし、神の国は全くこの世のあり方とは正反対の法則に基づいて成り立っている。
人間の高さは神の怒りを生むが、へりくだりと従順さは神の祝福の源となる。ただ、へりくだり傲慢や、自己憐憫の類であってはならない。主にある愛と慎みをもって、主と人に仕えていくのだ。そこにはいつも主の前に出て、主の光に照らされて自分自身の心を吟味していく不断の取り組みが必要となる。

“わが心を謙らせ、あなたに喜ばれるものとし給え。アーメン”

ーーーーーーーーーーーーーーーー

2006年2月4日(土)

聖書の箇所:マルコ13章1~37節/ 年間通読:出エジプト6~9章

「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(31節)

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メッセージのコピペ

http://www.rock.sannet.ne.jp/hg31cc/parable.html/para25.html

主イエスのたとえ話

  
〈26〉パリサイ人と取税人

聖書
 9「自分を義人だと自任して他人を見下げている人達に対して、イエスはこのたとえをお話になった。
 10『二人の人が祈るために宮に上った。その一人はパリサイ人であり、もう一人は取税人であった。11パリサイ人は立って、一人でこう祈った、「神よ、私は他の人達のような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。12私は一週に二度断食をしており、全収入の十分の一を捧げています」。
 13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら言った、「神様、罪人の私をお赦しください」と。
 14あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう』。」
 ルカ18:9~14


Ⅰ.このたとえ話について
 ★主イエスのたとえ話は「種まきのたとえ」のように寓話的なものばかりでなく、現実の人間社会の出来事から拾った話でできているものもあります。このたとえ話とこれの直前の「不正な裁判官とやもめのたとえ」などがそれです。
 ★このたとえ話は「やもめのたとえ」と共に、「祈る時の心構え」を教えるために語られました。すなわち、先の「やもめのたとえ」では、この章のはじめの18:1に記されているように、「失望せずに常に祈るべきこと」を、そして、このたとえでは、「へりくだって祈るべきこと」を教えています。

Ⅱ.パリサイ人と彼の祈り
 ★パリサイ人とは当時のユダヤ教の三大会派(パリサイ・サドカイ・エッセネ)の一つのパリサイ派に所属する人々で、彼らは律法の表面的・外面的遵守
(じゅんしゅ)を重んじ、律法の心である正義・憐れみ・誠実・善意・謙遜といった内面をおろそかにしていました。
 ★パリサイ人の典型としてのこの人の祈りは、自己義認の宣言であり宣伝でした。彼の祈りは「祈り」と呼べるものではなく、自分は神から罪の赦しを祈り求める必要のない完全に清く善良で正しい人間であるという確信に満ちた自己宣伝でした。
 ★彼が主張している「
私は他の人達のような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもなく、週に二度断食をしており、全収入の十分の一を捧げています」 という証言は彼らが理解する律法の表面的意味では真実かもしれません。
 ★たとえ話〈24〉「新しいぶどう酒と古い皮袋のたとえ」で書きましたように、イスラエル民族全員が守るべき断食は、年に一回だけ第7の月の10日の「あがないの日」に行うように律法に規定されています(レビ16:29)。それなのに、彼は週2回の断食をしていたと言っています。更に、全収入の十分の一を献金していること、また、彼らが軽蔑する取税人・罪人が日常的に行っていた貪欲・不正・姦淫などの外面的な罪に手を染めていないこと、これらは善良なユダヤ国民の模範とすべき生活態度であったかもしれません。
 ★しかし、聖書の神が求める義なる生活とは、そのような外面的な、行いだけの義ではないのです。心の内側が清められ、清い心からにじみ出る聖く義しい生活なのです。
 ★そのような義は神から来るのであり、イエス・キリストの十字架のあがないを信じる信仰から来るのです。このパリサイ人が神に義とされなかったのは当然のことです。

Ⅲ.取税人とその祈り
 ★これに対して、取税人は
 「遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら、『神様、罪人の私をお赦しください』と言った」 とあります。
 ★取税人とはローマ帝国の高級税務官に雇われて税の徴収業務にあたる下請けのユダヤ人集金人で、同胞のユダヤ人からは異教国ローマの手先と見られ、また彼らの中には法定以上の税金を徴収する者もいて、軽蔑と嫌悪の目でみられていました。ユダヤ社会は彼らを売春婦と並ぶ罪人とみなしていました。
 ★パリサイ人が自分を、罪の赦しを必要としない義人であると見ていたのに対して、この取税人は自分の罪を深く自覚していました。
 ★「自分は神のみ座に近づく資格はもちろん、天を見上げる資格もない、全く罪深い人間です」と胸を打ちたたきながら、ただ一言「神様、罪人のこの私をお赦しください」との祈りの言葉を口にしただけでした。

 ★主イエスは言われました、「神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった(14節)

 ★「義とされる」とは聖書の用語で、「信仰によって、キリストの聖さ義しさが、その信仰者のものとみなされる」ことです。つまり、ただ単に「罪を赦される」ことに留まらず、「キリストのように聖く義しい人と、神の法廷で宣言される」ということです。そうです!「信仰による義認」とはとてつもなく大きな神の恵みなのです。
 ★私たちキリスト者はみな、神に対する巨額の借金6000億円(罪)をキリスト信仰のゆえに免除された者たちなのです(ご参照/
主イエスのたとえ話〈18〉仲間を赦さないしもべのたとえ)。

 
「キリストは神に立てられて、私たちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてある通りである」。 Ⅰコリント1:30後半~31

Ⅳ.高ぶる者は退けられ、へりくだる者は恵みを受ける
 ★聖書の神様ご自身が「謙遜な、心のへりくだったお方」なのです。

 「イエスは言われた、・・・『私は柔和で心のへりくだった者であるから、私のくびきを負うて、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう』」。マタイ11:29

 「・・・あなた(主)の助け(新改訳・聖書協会文語訳/謙遜)は私を大いなる者とされました」。

 ★また、聖書の神主は高ぶる者を退け、へりくだる者と共に住むお方です。

 「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『私は高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊を生かし、砕けたる者の心を生かす』」。イザヤ57:15

 「また、みな互いに謙遜を身に付けなさい。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを賜うからである」。Ⅰペテロ5:5

 
★だから、主は私たちにへりくだって主と共に歩むことを求めておられます。

 「人よ、彼はさきに良いことの何であるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義を行い、慈しみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」。ミカ6:8

Ⅴ.悔い改めと救いの条件としての罪の自覚
 
★行いによる義を追求するユダヤ人には、心の中の罪が分かりませんでした。心の中の罪が分からないと罪の悔い改めもキリスト信仰による救いも分かりません。
 ★私たちの同胞である日本人も、国家の法律違反以外の罪を知りません。聖書の神である天地創造の神とそのことばの聖書を聖霊によって教えられる時、そして心が砕かれへりくだる時、人は目からうろこが落ち、罪の何たるかを知り、キリストによる救いを求めるようになります。
 ★多くの同胞は、法律違反の罪でも人の目に隠れていさえすれば問題ないと考えています。しかし、隠れたところで見ている神がおられることをまじめに考え、信じるなら取税人のようにこうべを垂れ、胸を打ちたたいて、「神よ、罪人の私をお赦しください」と叫ぶ者となるでしょう。

 ★今精神的に荒廃している日本人の心に必要なものは、隠れたところで見ておられ、心の中の思いを裁かれる神を知り、キリストによる罪の赦しと清めを求めることです。


 「主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう」。 Ⅰコリント4:5の一部

 「隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださる」。マタイ6:4

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十人の花嫁の譬え

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主イエスのたとえ話

 
〈21〉10人の乙女のたとえ閉じられた扉のたとえ

 聖書 
〈十人の乙女のたとえ〉
 ★「そこで天国は、十人の乙女がそれぞれ明かりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者達は、明かりを持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分達の明かりと一緒に、入れ物の中に油を用意していた。
 ★花婿が来るのが遅れたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。その時、乙女達はみな起きて、それぞれ明かりを整えた。ところが、思慮の浅い女達が、思慮深い女達に言った、『あなたがたの油を私達に分けてください。私たちの明かりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女達は答えて言った、『私たちとあなたがたとに足りるだけは、十分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方が良いでしょう』。
 ★彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意の出来ていた女達は、花婿と一緒に婚宴の部屋にはいり、そして戸が閉められた。その後で他の乙女達も来て、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、開けてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、私はあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたには分からないからである」。マタイ25:1~13

〈閉じられた扉のたとえ〉
 ★さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。そこでイエスは、人々に向かって言われた、
 ★「狭い戸口から入るように努めなさい。事実入ろうとしても、入れない人が多いのだから。家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞ開けてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなた方がどこから来た人なのか、私は知らない』と言うであろう。
 ★その時、『私たちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたは私たちの大通りで教えて下さいました』と言い出しても、『あなた方がどこから来た人なのか、私は知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。
 ★あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国に入っているのに、自分達は外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
 ★それから人々が、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着くであろう。こうして後の者で先になる者があり、また、先の者で後になる者がある」。ルカ13:22~30


はじめに
 ★救い主イエス・キリストは約2000年前に乙女マリヤから生まれるという仕方で一度世を罪から救うために来られましたが、今度はキリスト教会の救いの完成と世界の裁きのために、天に昇られた時と同じ姿でもう一度世に来られます。これがキリストの再臨です。キリスト者はこの再臨に備えて、主がいつ来られてもOKという態勢をいつも整えていることを求められています。主を迎えるそのあり方について教える二つのたとえを学びましよう。


Ⅰ.これらのたとえ話の要約と解説
 A.要約
 a. 十人の乙女のたとえ

 ★十人の乙女達が、明かりを持って花婿の到来を待っていた。しかし、花婿の到来を告げる声が聞こえた時、愚かな五人の乙女らは明かりの油が足りないことに気付き、やむなく店に買いに行った。その間に、花婿が来て五人の賢い乙女は婚宴の部屋に迎え入れられたが、愚かな五人が到着した時には、部屋の戸は閉められ、中に入れてもらえなかった。

 
b. 閉じられた扉のたとえ
 ★天の御国に入る狭い戸口がいったん閉じられると、どのような申し立てをしようと決して開けてもらえない。

 
B.解説
 a.十人の乙女のたとえ

 ★このたとえには花嫁が登場して来ません。聖書の中で教会はキリストの花嫁と呼ばれています。十人の乙女たちとは花嫁の友人達のことです。
 ★「
だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたには分からないからである」(マタイ25:13)
この主イエスの御言葉から、このたとえは全てのキリスト者に向けて語られていることが分かります。
 ★
「ヨハネの弟子達がイエスのところに来て言った、『私たちとパリサイ人たちとが断食しているのに、あなたの弟子達は、なぜ断食をしないのですか』、するとイエスは言われた。『婚礼の客(新改訳/花婿の友人)は、花婿が一緒にいる間は、悲しんで居られようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう』」(マタイ9:14~15)
 ★上記の御言葉の中で、キリストが弟子達を婚礼の客または花婿の友人にたとえておられます。以上の理由から、十人の乙女達は個人としてのキリスト者を表し、このたとえでは隠れている花嫁は集合体としての教会を表すと見て良いでしょう。


 b.閉じられた扉のたとえ
 ★信仰義認(キリストを救い主と信じることによって罪を赦されるという聖書の教理)の間違った理解のために、「キリストを信じさえすれば後はどうでもいい、行いは要らない」と考えて、聖書が教える良い行いへの勧め
(ガラテヤ6:9~10など)を無視するクリスチャンがいます。
 ★こういう人々は、このたとえで主が語って居られることに謙虚に耳を傾け、終わりの日に
「私はあなたを全く知らない」と主に言われ、天の御国から締め出される者にならないように心がけてもらいたいものです。

Ⅱ.これらのたとえ話が教えること
 A.十人の乙女のたとえ
 a. キリスト再臨を待つ者たちは、明かりと油の用意が欠かせないこと

 ★十人の乙女の内五人は賢く(思慮深く)、五人は愚かでした。賢い娘の「賢い」というギリシャ語「フロニモス」はルカ6:1~13の
不正な家令(管理人)のたとえの中で「この世の子らはその時代に対しては、光の子等より利口である」(ルカ16:8)の「利口である(新改訳/抜け目が無い)」と訳されている語と同じことばです。
 ★この「フロニモス」は上記の意味の他に、「分別がある」「敏感である」といった意味があります。不正な家令のたとえによって主は、世の人々が自分の定年後、老後の備えに抜け目がないように、光の子等(クリスチャン)にキリスト再臨後または死後の命に備えて、思慮深く行動してほしいと語られました。
 ★主はこの乙女達のたとえによって、同じようにキリストの再臨と死後に備えて、この世にあって思慮深く日々を過ごすことを私達キリスト者に願っておられます。
 ★賢い乙女達は明かりと共に備えの油をしっかりと用意していました。「油」は聖書の中では「聖霊」を表します
(Ⅰヨハネ2:27;Ⅱコリント1:21~22)。「明かり」は、詩篇119:105の「あなたのみ言葉は我が足のともしび、我が道の光です」から御言葉(聖書)であると判断されます。
 ★日々御言葉をしっかり学び、御霊によって歩み、良いサマリヤ人の人格とキリストに似た品性を身につけ、隠れた所で見ておられる主の御前に良い業に励む生活こそ、油と明かりの備えのある生き方と言えるでしょう。

 
b. キリスト再臨はいつあるか分からないので、いつ来られてもいい備えを常にしておくべきこと
 ★キリスト再臨の日と並んで私たち一人一人が世を去る日が個人的な世の終わりの日であり、キリスト再臨の日です
(ヘブル9:27)。この二つの日はいつ来るか分からない日ではありますが、確実にやって来ます。世界がますます悪い方向に向かっており、裁きの日はいよいよ近づいている感があります。それと共に、私たち現代人は死と隣り合わせの生活を送っています。交通事故死と家庭内事故による死者が国内で年間それぞれ一万人前後に達する時代です。人は死を他人事とし、皆自分だけは死なないと思って生きています。
 ★自分の死ぬ日または、キリスト再臨の日が自分の永遠の住処の決定する日であるという重大かつ厳粛な事実を覚えて、常に備えを怠らないよう、主は再三聖書の中で私達に警告しておられます。

 
c. キリスト再臨の時、また死を通して世を去る時、他人の助けによって救いを獲得することはできないこと
 ★愚かな五人の娘達は花婿が到来したとの知らせに眠りから覚め、明かりを整えはじめましたが、油が足りないことに気付きました。賢い娘達に譲ってもらおうとしましたが、断られました。
 ★これは、キリスト再臨の日、または死ぬ時にあわてて天国への救いを求めても手遅れであることを語っています。自分の心の中にキリスト信仰をはぐくんでこなかった者は、親の信仰や友人の信仰を当てにしても無駄だということです。

 
B.閉じられた扉のたとえ
 a. 狭い戸口から入るよう努めること

 ★「努める(新改訳/努力する)」と言うギリシャ語「アゴーニゾマイ」は、主がゲッセマネの園で十字架を前にして血の滴りのような汗を流し「苦しみもだえて(エン・アゴーニア)」祈られた時の、「もだえ苦しむこと」(アゴーニア)と共に「アゴーン」(競技・苦闘・格闘)という語から派生しています。(ちなみに、英語のagony〈苦悶・苦悩の義〉という単語はこのギリシャ語から来ています)。
 ★競技者が栄冠を得るために、苦しみながら節制と鍛錬を重ねて自らを鍛えるように、キリスト者も天の御国に入るためには苦闘しなければならないことを主は明らかにしておられます。すなわち、私たちキリスト者は、サタン・この世・自分(生来の肉的性質)という三大仇敵と格闘しながら天の栄冠を目指す者でなければならないのです。
 ★クリスチャンは洗礼を受けた後は、棚ぼた式に救いの完成の日がやってくるのを口を開けて待っていればいいのだと思っていたら大間違いです。キリスト信仰さえあれば行いはどうでもいいと思っている人は、終わりの日に天国の扉から締め出されて歯軋りして悔やむことになります。

 
b. 最後まで耐え忍ぶ信仰以外に、救われるための特典や特権やコネのようなものは全く無いこと
 ★終わりの日に、閉じられた天国の扉をたたき、「私たちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたは私たちの大通りで教えて下さいました」と主に申し立てる人々がいると、主は言われます。
 ★「洗礼を受けて、しばらくクリスチャンとして主と共に歩んでいたことがあります」とか「教会の礼拝に出席して、聖書の話を熱心に聞いていたことがあります」とか言い訳を言っても、「あなた方がどこから来た人なのか、私は知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ」とはねつけられるのです。
 ★「悪事を働く者ども」は新改訳では「不正を行う者たち」となっています。終わりの日に天国の扉をたたく人々は、自分は当然天国に入れるものと高をくくっていたクリスチャンたちです。終わりの日に、天国から締め出された時に、その理由が明らかにされます。「悪事(不正・不義)を働く者」と主から判定を受けています。
 ★その悪事とは、主を裏切ったイスカリオテのユダのようにこっそり盗みを働いたのか、神より富を愛して堕落した予言者バラムのように巨額の報酬に目がくらんだのかも知れません。いや、それほど大きな悪事は働いてなかったが、金持ちとラザロの金持ちのように隣人愛のために自分の富を使わなかったことか、あるいは良いサマリヤ人の中の祭司やレビ人のように人の苦しみを見て見ぬ振りをしたためかも知れません。或いは、ミナやタラントのたとえの中の賜物を地に埋めて使わなかった人の様に、ただ主の御心を何もしなかったことだけかも知れません。
 
「為すべき善を知りながら行わなければ、それはその人の罪だからです」(ヤコブ4:17)

 
c.後の者が先になり、先の者が後になることがある
 ★主イエスの時代、取税人や遊女を地獄行きの罪人たちと見下して、自分らは当然天国だと思っていたパリサイ人、律法学者らは、終わりの日に自分達が天国の扉から締め出され、自分達が見下していた取税人や遊女が、悔い改めて天国に入っているのを見て愕然とすることでしょう。
 ★また、自分の教会の信徒が天国に入っているのに、自分は永遠の地獄の火炎に落とされて、歯軋りして悔やむ牧師も何人かは出て来ることしょう。なぜなら、「牧師(みことばの教師)は他の人達よりも、もっと厳しい裁きを受けるからです」
(ヤコブ3:1)
 ★
「だから、彼らがあなた方に言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることは、習うな。彼らは言うだけで実行しないから」(マタイ23:3)。これは律法学者、パリサイ人について主イエスが群集と弟子達に向かって語られた言葉です。この律法学者・パリサイ人のような牧師にならないようにと筆者はいつも自戒しています。

 
C.二つのたとえに共通する教え
 a.今は救いの時だが、救いを求めてもすでに手遅れの時がやって来ること

 ★ノアの箱船の時も、義の宣伝者ノア
(Ⅱペテロ2:5)の伝道説教に耳を貸さなかった人々は、ノアの箱船が完成した後、洪水が始まった時、船の入り口は最終的に神の御手によって閉じられ(創世記7:16)、人々は完全にシャッタウトされ、おぼれ死んだのです。
 ★
「見よ、今は恵みの時。見よ、今は救いの日である」(Ⅱコリント6:2)
 と聖書は言っています。今と言う時に救い主イエス・キリストを信じなければ、救いを求めても得られない、手遅れの時がやって来るのです。死は突然やって来るのです。そして、死後悔い改めるチャンスは永遠に無いのです。まだ信じて救いを得ていない人は今と言うこの時に、主イエスを心に迎え入れてください。

 
b. 当然、御国に入れるものと思い込んでいたのに、締め出される人々がいるということ
 ★
王子の婚宴のたとえの中の礼服を身に着けないで出席していた人が外に追い出されています。この人はイエス・キリストという義の衣を着ていない人であり、主イエスを信じていると口では言っていても行いがそれを否定している人々です。

 
c. 再臨の時、また死後キリストに「私はあなた方を知らない」と言われないために、そう言われた原因と対策を考えて見ましょう
 
1. 五人の愚かな乙女らは花婿が到来する時までの十分な油の備えが出来ていなかった
 ★当然予想される長期間待たされると言う事態に備えて内的力を養い、霊的体力をつけるためにみ言葉をしっかり学び、御霊によって祈るなどして、耐え忍ぶ力をつけていなかったこと。
 ★御言葉の学びと、御霊の親しい交わりによって主の御心を深く知り、キリストに似た者になる努力をして来なかったこと。

 
2. 天国の扉から締め出された人々は、悪事を働く者共と呼ばれている
 ★彼らは、自分達が当然天国に入れるものと考えていた。洗礼を受けて、クリスチャンだったかも知れない。しかしながら、

 「あなた方がどこから来た人たちなのか、私は知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ」
 と主に言われています。
 ★主イエスを信じて、御霊によって生まれた人々であるならば、父、御子、御霊から来た人として主イエスに認知されたでしょう。それが、認知されなかったということは、垣根を乗り越えて侵入して来た泥棒のようなサタンの子供であるということになります。
 ★悪事(不正・不義)を働く者とは、神の御言葉(聖書)の教えに反することを人々に教えたり、自ら実行したりしていたニセ預言者・ニセ牧師・にせクリスチャンのことです。

 
3.「私はあなたを知らない」と言われないために
 ★「私はあなたを知らない」と言われないためには、上記のように御言葉と御霊によって日々聖よく歩み、クリスチャン品性の形成に励むと共に、「神の御臨在の中に親しい神との交わりに生きる」訓練・修練を積むことです。
 
「信心(新改訳/敬虔)のために自分を訓練しなさい。身体の訓練は少しは益するところがあるが、信心(敬虔)は、今の命と後の世のいのちとが約束されているので、万事に益(有益)となる」(Ⅰテモテ4:7後半~8)
 「すなわち、自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ることになる」(ガラテヤ6:8)
 ★
「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と主イエスは約束していてくださる(マタイ28:20)のですから、私たちと共にいてくださる霊なる主との友情を育む訓練が欠かすことができません。
 「私たちの交わりとは、御父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」(Ⅰヨハネ1:3)

結び
 ★共産主義者は自分達を「りんご」と「トマト」の二種類に区別していると言われます。それは表面だけ赤いりんごのような名目的な共産主義者と外も中も赤い本物の共産主義者との区別のことです。共産主義は無神論と唯物論(神や人間の霊魂の存在を認めない思想)を土台とした思想であって、サタンの生み出した、反キリスト思想の一つです。
 ★このような悪魔に属する人々にも本物と偽者があるように、キリストに属する私たちキリスト者にも本物と偽者とがあります。世の終わりの日、主から
「善かつ忠なるしもべよ」(マタイ25:21)と呼ばれる内も外も聖よい本物のキリスト者と認められるよう日々励みたいものです。


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↑上のサイトにはキリスト教に関するメッセージがあります。

重要な内容があるみたいです。

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だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。

だれでも自分を高くする者は低くされ、
自分を低くする者は高くされるであろう。

(新訳聖書23:12)

自分の可能性を信じるのは、
大切なことだと思う。

しかしながら、
自分を何か偉い者かのように見せること、
権威ある者かのように見せることは、
空しい。

そして、それは、いずれ明らかになるのだから、
虚栄心もほどほどにした方がいい。

ーーーーーーーーーーーーーーー
ある格言サイトより↑
つまり全てのことは神様に見られているので、後に明らかにされるのであれば虚栄心ほど怖い物はないという意味だろうか。

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高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。

http://www.ubf.or.jp/modules/dailybread/dailybread-20061204.html
正しい者と悪者の人生に対する姿勢
□12月 4日(月)
箴言11:1-31

今日の御言葉:箴言 11:1~11:311
欺きのはかりは主に忌みきらわれる。正しいおもりは主に喜ばれる。

2
高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。

3
直ぐな人の誠実は、その人を導き、裏切り者のよこしまは、その人を破滅させる。

4
財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。

5
潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。

6
直ぐな人は、その正しさによって救い出され、裏切り者は、自分の欲によって捕えられる。

7
悪者が死ぬとき、その期待は消えうせ、邪悪な者たちの望みもまた消えうせる。

8
正しい者は苦しみから救い出され、彼に代わって悪者がそれに陥る。

9
神を敬わない者はその口によって隣人を滅ぼそうとするが、正しい者は知識によって彼らを救おうとする。

10
町は、正しい者が栄えると、こおどりし、悪者が滅びると、喜びの声をあげる。

11
直ぐな人の祝福によって、町は高くあげられ、悪者の口によって、滅ぼされる。

12
隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る。

13
歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める。

14
指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。

15
他国人の保証人となる者は苦しみを受け、保証をきらう者は安全だ。

16
優しい女は誉れをつかみ、横暴な者は富をつかむ。

17
真実な者は自分のたましいに報いを得るが、残忍な者は自分の身に煩いをもたらす。

18
悪者は偽りの報酬を得るが、義を蒔く者は確かな賃金を得る。

19
このように、義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る。

20
心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。

21
確かに悪人は罰を免れない。しかし正しい者のすえは救いを得る。

22
美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。

23
正しい者の願い、ただ良いこと。悪者の望み、激しい怒り。

24
ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。

25
おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。

26
穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。しかしそれを売る者の頭には祝福がある。

27
熱心に善を捜し求める者は恵みを見つけるが、悪を求める者には悪が来る。

28
自分の富に拠り頼む者は倒れる。しかし正しい者は若葉のように芽を出す。

29
自分の家族を煩わせる者は風を相続し、愚か者は心に知恵のある者のしもべとなる。

30
正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。

31
もし正しい者がこの世で報いを受けるなら、悪者や罪人は、なおさら、その報いを受けよう。

聖書引用(聖書の著作権):新改訳聖書(日本聖書刊行会)

「義を追い求める者はいのちに至り、」(19)

Ⅰ.正しい者の個人生活の知恵(1-8)
 正しい者は見えない神様を意識して、はかりをごまかしませんが、悪者は現実の利益のために欺きのはかりを用います(1)。正しい者は神様の御前で自分を低くし、謙遜に行ないますが、悪者は人の前で傲慢に行ないます(2)。正しい者は神様を意識して誠実に生きますが、悪者は自分の利益のために裏切ります(3)。悪者は財産を求めますが、正しい者は神様が喜ばれる正義を求めます(4)。しかし正しい者はその正しさによって道が平らにされ、悪者はその悪事によって倒れるようになります(5)。

Ⅱ.正しい者の共同体生活での知恵(9-31)
 悪者は隣人をさげすみ、他人の秘密を漏らし、隣人を滅ぼそうとします。しかし真実な人は隣人の秘密を隠し(9-13)、優しく、誉れをつかみます(16,17)。また自分だけが豊かになるために財産を独り占めせずに、隣人のためにばらまいて救済し、隣人を潤そうとします(24)。知恵のない者は財産中心の価値観を持っていますが、知恵ある者は財産より人をより尊く思います(28,30)。
 このように神様の知恵に従って生きる正しい者は共同体に喜びを与え(10)、人といのちを得て、平安を享受し(14,30)、誉れと財産を得て(16)、いのちに至ります(19,30)。与える生活をしても、さらに豊かになり、潤されるようになります(24,25)。



祈り:主よ!私が神様の知恵に従って利己心と裏切りと残忍を悔い改め、神様の御前で正直に行ない、他人を潤す生活をします。

一言:悪者の知恵に従って歩まず、正しい者の知恵に従いなさい

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加害者らが如何に異常ではないかと思ってもやはりこの異常性を顧みられない異常な状況への社会の無視状態が続くと流石にそれに対してはブチ切れする事を繰り返すのです。
人間である故に神ではないため地上のことを見通せる訳じゃないのでブチ切れします。不可解だからです。
加害者への正当な裁きなど有るのかと思います。流石にそう言う感じが出て来ます。疲弊しているのですがいっこうに止まず神のみわざは覚えても加害者らの愚かさはかいま見えようがやはりいっこうに止まないからです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

個人執着というか闇の世界で個人を弄くり回してその世界に耽溺しているように見えるしそれが如何に神から離れた世界であれ一体それは後に何を意味するかと不可解の極みです。

いわばやっていること自体が「恥ずかしすぎる」というか被害者ですら口に出すのも嫌になるほどの代物ですので、余計に書きづらい、それも正確な認識をさせないように心理印象工作までやらかされるのです。(例えば被害者に問題有りで変質者だとかの)

24時間覗き回した揚げ句に囲い込みで見えない場所からの陰湿粘着卑劣虐待ですから、普通恥ずかしくてばらせないし恥ずかしいほどに表向き、しれっとして体裁を繕うことに激しい拘りを見せることでしょうか。

いってみると人間の持ち合わせている最も根源的で恥ずかしい願望欲求などを集ストで満たしているところがありそれだけに結託もするし秘密裏に共謀もするかも知れません。

そしてそれを隠し通すためには何でも嘘を突き通すことでしょう。

人間はきっと体裁の良いことは声を大にして言いたがる物です。体裁の悪いことほど、表向きしれっとして器用に隠そうとする物かも知れません。

これは私自身がそう言う人間だったのでそう思います。

マスコミもそうであり最も根源的な欲望を満たすために必要なのですね。きっと。だから必死に隠すし絶対に認めたくないのでしょうか。

それはきっと、人間にとり認めたくないし意識もしたくないような「根源的な病理性を伴う神経症的な欲求」なのだろう。

無意識化に抱え込む抑圧されがちな欲求だと思います。

だからきっと犯罪自体も水面下に徹し決して表面化させてはいけないのです。

そうしなければきっと人格を著しく疑われるに違いありませんと言うことです。

だからきっと必死扱いて隠すしシラ切りに徹するのだろう。

ーーーーーーーーーーー

一つの言い方をすれば「幼児期にとっての母親みたく理不尽な欲求を突き付けても甘え続ける事が出来ます存在」が欲しいのかも知れませんが違うかも知れません。心理学の方向でどうしても考えるのですが。

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高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。箴言11:2

http://www.eclat.cc/home/fufufu/diary/2004/04/1082263860.html

4月17日(土) 晴れ
聖書日課

◆[ 高ぶりが来れば、恥もまた来る。
知恵はへりくだる者とともにある。]箴言11:2

「あいつは全然だめだ」と思われる人は、まあ、自分と同じ程度の人。
「あっ、ちょっとやるじゃない」という人は、自分よりはるか上の人だと思ったらよい
と言った人がありました。
ないようであるのは、うぬぼれと高ぶりではないでしょうか。
高ぶりは、魂の目が見えないことです。
・ まわりのよいものが見えない。それを認めず認めたくない。
・ 自分の弱さ・みにくさ・欠けたところが見えず、それを見たくない。
・ つまり、神が見えない。
暗やみの中に、神の明るさもきよさも愛のすばらしさも知らずに、しかも自分で何でも知っているように座っています。この世に自分しかいません。
高ぶる人は、自分がすぐれていると無理にも思いこんでいなければ、不安で仕方がありません。
外側は威風堂々としているように見えても、中身は弱くみじめです。
ところが、へりくだる人には知恵があって、まわりからいつも学んでいます。
・ 自然界に対して、心が開いている。
草や鳥や虫をいつくしみ、それを見て驚き、神秘に打たれます。
・ 他の人からも学ぶ。
他人の中にすぐれたものを敏感に感じとり、学び、取り入れます。
へりくだる人はいつも学びとる余裕があるのです。
またへりくだる人は、自分の不十分さを知って、心は神に向かい神を求めます。
そして、神によって最上・最高のもので満たされるのです。
今日の知恵・明日の知恵・・・・羽鳥明著


「心の貧しい者は幸いです。

天の御国はその人のものだからです」

マタイの福音書5:3
ーーーーーーーーーーーーーーー
私は加害者達が高慢に思えても彼らのみは「赦免」だろうかと変なことを
よく考えていました。この世でも裁きに遭わず死後も天国でも地獄でもない、
特殊な空間にでも送られるのか?等と思っていました。変かも知れませんが
それだけ加害者らは荒唐無稽過ぎます。
本当にあの様に荒唐無稽なことをしつつ高ぶる奴等に正しい裁きなどあるのか?
あるとすれば一体なんだというのだ。被害者らは荒唐無稽な苦痛を毎日毎日
味わうのです、それも一秒も休みなく。24時間監視で。
加害者らは面白いと言うだけで多分意味などありません。恐らくは此方が幼少時に
面白いからと言うだけの理由で無意味に蟻の巣をこわして遊んだと言うことと同じです。
自分より遙かに小さく無力で真面目に本能の摂理に従い生きるだけの存在を
面白いからと言って巣を壊した、それも何回も繰り返し。
残忍で無知です。それでいつつ自己は「何か全能者気取りになり喜んでいたというか
何処か退屈しのぎというかそう言う感じでした。
恐らくは実生活にて余程嫌な抑圧でもあったのだろうか。心は病んでいたことは
確かでした。
他にもいろいろと小動物への無自覚な虐待をしました。
自分では、単に面白いからでしかなくやられている方に取れば無自覚な虐待を
されているのです。
これの報いだろうかと思うことも多いのですが正直何時までかなとも思います。
それも考えることが出来ないほどの抑圧加害者に粘着され方が酷いですが。
ーーーーーーーーーーーーー
考えれば周囲には此方の不幸さ加減を内心面白がるのか白けた様子を保つ
陰険さを覚えるような加害者が多いのでかなり陰惨です。
地域には確かに苦しみなどを抱えているような真面目で普通の方もいると
思いますが目の前に出てくるのは如何にも「自分はまともな人間である、
普通である、常識的な標準形である」とでも言いたげな演技加害者です。
それも顔を見せないで横向きなどでかなり凄いすまし顔です。
これもある種の特徴です。
一体何時から日本国は此処まで異様な陰険さしかない人間だらけに
なったのだろうか等と思いたくなるのですが加害者らのある種の
心理印象工作があるのだろう。

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「それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。」

http://www.page.sannet.ne.jp/tcchp/mikotoba/shinkou.htm
「これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、
 その高ぶる者をねたんだからである。
 彼らには苦しみがなく、
 その身はすこやかで、つやがあり、
 ほかの人々のように悩むことがなく、
 ほかの人々のように打たれることはない。
 それゆえ高慢は彼らの首飾となり、
 暴力は衣のように彼らをおおっている。」

 彼らは成功と幸福を誇り、まるで高慢をネクタイにし、暴力をコートにしています。

ノンクリスチャンの魅力

 7節から10節

「彼らは肥え太って、その目はとびいで、
 その心は愚かな思いに満ちあふれている。
 彼らはあざけり、悪意をもって語り、
 高ぶって、しえたげを語る。
 彼らはその口を天にさからって置き、
 その舌は地をあるきまわる。
 それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、
 彼らのうちにあやまちを認めない。」

 すごくもうけた。成功している。社長になった。政治家になった。大きな邸宅をたてた。新聞やテレビに出る。そうなると、それに驚いて、気を取られて「彼らは良くない事をしている。罪を犯している。彼らの生き方にも、問題や間違いがある」などということは全然気になりません。問題にもなりません。
 11節

「彼らは言う、『神はどうして知り得ようか、
 いと高き者に知識があろうか』と。」

 これでは「神様だって実は何にもわかっちゃいないんだ」と言わざるを得ません。
 12節から14節



病気の河馬

 18節から20節まで

「まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、
 彼らを滅びに陥らせられる。
 なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、
 恐れをもって全く一掃されたことであろう。
 あなたが目をさまして
 彼らの影をかろしめられるとき、
 彼らは夢みた人の目をさました時のようである。」

 ここにある人が、
 「私は神を信じません。神に従いません。私は自分の方針によって自分の一生を送ります。私は福音を聞いたこともあるし、クリスチャンの生活も見ているけれども、私はクリスチャンにはなりません。」
 そういう場合、その人の方針が最後にその人をどういうところに導いてゆくでしょうか。結末まで神様が放置なさる場合があります。案外その人は自分の能力次第で、抵抗のないスムースな生活をするかもしれません。しかし、その「なめらかな所」は危険です。
 ちょうど医者に
 「もういいから心配しないで、これからは自由に食べたいものを食べ、したいことをして気楽に暮らしなさい」
などと言われれば、これはもう絶望の宣告も同じです。神様から「なめらかな所」に置かれるのもそれと同じです。
 最後に真相があらわれ、虚像が消滅します。その時、人々は夢がさめたようでしょう。どうかクリスチャンの心に重くのしかかっている虚像の消滅せんことを。
どうぞその誤った夢がさめて、信仰の眼の明らかにせられんことを。
 21節、22節
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。」
で検索したサイトです。(引用しました)
同じ誇るでも常識で理解できればいいが加害者は不可解すぎるため苦悩します。
地上には陰惨なりにも神のみわざは溢れていることを認識できるようにはなりましたが、加害者らは如何に空などがきれいで素晴らしくとも、構わずに着飾って現れて「自己正当化のための工作茶番劇」を続けています。
此方は空がきれいだな、加害者など出来れば見たくはないと思っても、彼らには無関係のようですね。
此方が空のきれいさを喜ぶことも変な演技で「変人扱い」し、下らないことのような解釈をしていることを表現します。
あたかも此方のすることを全てバカにし見下しあたかも自分達の思想などが最上であることを「誇示」したいみたいですね。
高原に行ったときも(家出で)雄大できれいなな風景に感動したがその中で道路を異様な雰囲気で変わらずに走っている付きまといを見、「この人らは一体・・・・・」と、不可解でした。
長野の高原でもそう言う光景を見ますので、如何に日本中が重篤な物に覆われているかが分かります。
何か何処に行こうが変わらずに「タイミング合わせで一瞬現れる技術」と、見せつけて誇りたがるような性質に、呆れるやら辟易するやらでした。
これは数ヶ月前のことでしたが未だに愚劣さが更にエスカレートし、変わらぬワンパターン工作を続けています。
小手先の行為を姑息に変えているようですがどんどん加害者の人格の異常性、卑小性が凄い物に思えるのを覚えます。
おや、外で「ぐちゃぐちゃ」言う音声が聞こえました。反応が詳細ですよね、やはり「日本語でも」屈辱的なことを書いているのが理解できますかね。
不可解ですね、極めて。

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キリスト教のサイト

今まで検索したキリスト教のサイトです、良ければ見てください。

永遠の刑罰
http://homepage2.nifty.com/grapes/RMM07.htm
天国と地獄の情報
http://www.eternal-lm.com/index.html
火事だ火事だ
http://homepage2.nifty.com/grapes/Ryle223.htm
天国と地獄の情報
http://www.tengokujigoku.info/
死後の永遠の滅び
http://www.geocities.co.jp/Bookend/4738/hell.htm

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イエスキリストの偉大さについて

http://gifukyokai.or.tv/page/seisho01.html メッセージコピペです

 キリスト教入門
 キリスト教とは、キリストのことである、と言われます。キリスト教は何かの宗教的な雰囲気でも、理念でもありません。もっぱらイエス・キリストというお方のご人格と、この方が為さったことに基づく宗教です。このキリストというお方を通して、神と出会い、神の民の一員として教会という共同体の行う、神礼拝に参加するのです。

 キリストは、2千年の昔のユダヤ(イスラエル)に30年ほどの生涯を送った人物です。そういう点では、当時のユダヤの人々と何ら変わるところのない一人の人でありました。何にもまして、苦しみということでは、決して逃避的ではなく、ことに隣りに生きる人の苦しみ悲しみに敏感に反応しました。だから、この人の近くにいる人は誰でも、言葉に表せないほど深く豊かな慰めを味わいました。人の苦しみに関わりそれを負うことに、その極みまで誠実であると、それは「死」(十字架)にそのまま直結します。このように、他人の苦しみのどん底まで共に苦しみ、死に至ることの出来るのは、人でありながら神でなければ不可能です。人でなければ苦しむことはありません。しかし同時に神でなければ他人の苦しみのどん底を共にすることは出来ないからです。普通人は苦しむ時は孤独に陥り、死ぬ時は誰でもたった一人です。キリストは私たちの仲間としての人でありつつ、同時に私たちが礼拝する神その方でもあるのです。このことを信じるのが、キリスト教です。

 聖書は、そのことを理念や思想である前に、具体的に人々が生きる生活や歴史の中で、イエス・キリストが人々と、どの様な時も共に生き死んで下さったお方であることを、物語ります。聖書を読み、キリストという神を礼拝すると、このことが、今の私たちにも、そのまま当てはまることに気付かされます。私たちが生きるどのような時も、どのような場所にも共にいて下さるキリストと、一緒に生きて行くことが、いかに豊かな人生であるかを、是非知って頂きたいと思います。あなたが自分でも自分を見限りたくなるようなどん底にいても、共にいて下さるキリストを知ると、あなたはもう自分に恰好を付ける必要はなくなります。自分の良い所取りをし、惨めな自分に素知らぬ顔をする無理をしなくて済むからです。あるがままの自分を受け容れることほどの開放感は他にありません。自分をあるがままに受け容れることが出来ると、自分とタイプの違う他人ばかりでなく、どうにも折り合いの付かなかった他人にも、苛立たずに寛容になれるはずです。色々な点で、ストレスが罹る現代の生活を乗り切る術が、生きたキリスト教生活にはあるのです。
ーーーーーーーーーーーーーー
惨めな自己に素知らぬ顔は長年私がしてきたことでした。神についても勘違いをしていて教会生活は体裁を繕う物でしたので、周囲にはいたく嫌がられていたことでしょう。
自己の過去には確かに惨めで屈辱が多いのですが神に苦しさから必死に祈った結果聖霊様が働かれてありのままの自己を思いかえすことが出来ました。それは嫌な自分に9関することを抑圧し封印していたことを解放する作業でした。決して格好の良い代物じゃなかったですが必要なことだったのです。
そして信仰の目が開かれた後は次第に解放され自己の罪を真に示されることに感謝を覚えるようになりました。
加害者らはどうも偽物の罪責感も与えますので、それで苦しめられたのですが聖霊様は真の罪を教えてくださいます。
自己の罪を真に知ることが出来るのは感謝です。
悪魔は実は真の罪は教えずに偽の思いを吹き込みます。そして真の罪の自覚から遠ざけることもすると思います。
悪魔の教えてくる恐怖感に支配され間違った方向に恐れを抱くと神の御心に沿った悔い改めより更に遠ざかると思います。
神を恐れるよりも人を恐れるように仕向けられるからです。

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聖書のみことばより

コリント第一1章
18)十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。

19)すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。

20)知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。

21)この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

22)ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。

23)しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるか、

24)召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

25)神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

26)兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。

27)それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、

28)有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無に等しい者を、あえて選ばれたのである。

29)それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。

30)あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、議と聖とあがないとになられたのである。

31)それは、「誇る者は主に誇れ」と書いてあるとおりである。
ーーーーーーーーーーーーーー
聖書には虐げ被害者には有り難いみことばがありますね。
ーーーーーーーーー
使徒行伝17章

24)この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。

25)また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、

26)また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。

27)こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。

28)われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。

29)このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。

30)神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。

31)神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。

32)死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
神について詳しい説明が為されています。

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神の武具

「神の武具」で検索しました。コピペしませんが良かったら読んでください。基本的にはどのサイトでも同じ内容のメッセージです。(つまり趣旨が)

http://www.yukinoshita.or.jp/tsuushin/pray0611.htm

http://www.alles.or.jp/~biyo/s000813.htm

http://www.paw.hi-ho.ne.jp/maranatha/message050220.htm

http://penguinclub.net/nakao/sermons/eph/eph6-13.html
http://www.jhcs2.org/doich/messge/06nen3g5.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~bereshit/Eph611.htm
http://www.jhcs2.org/doich/messge/06nen3g26.htm
http://www2.plala.or.jp/Arakawa/kokoro408.htm
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kz864au3/sy20061203.html
http://www.enjoy.ne.jp/~asaasa6/sekkyo/sekkyo020203.htm

http://www.ne.jp/asahi/happy/jollyboy/akuma06.htm
http://penguinclub.net/nakao/sermons/eph/eph6-18.html
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/~fasa/message_log/message2002/020728.html
http://wwwa.pikara.ne.jp/bap8saki/20051120Eng-j.html
http://homepage3.nifty.com/osaka-nishi/message/040309.htm
http://www.allaboutfollowingjesus.org/japanese/spiritual-warfare.htm
http://homepage2.nifty.com/bebrave/essey/04_07/7_14_essey.html
http://www.ageo-church.org/r990124.htm
http://www5e.biglobe.ne.jp/~aobacc/message/2005/20050918.htm
http://www2.plala.or.jp/Arakawa/job03.htm
http://qt.swim.org/user_dir/japanlife/user_print_web.php?edit_all=2007-06-15
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/ists1970/eph990117fr.html
http://www3.tokai.or.jp/holy.s/sub1_010.htm

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迫害する者のために祈れ(メッセージのコピペです)

http://www.geocities.jp/smkyb240/setukyou20050717.html
2005年7月17日

  迫害する者のために祈れ

『「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことはあなたがた

の聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う、

「敵を愛し(赦し)、迫害する者のために祈れ。こうして天にいま

すあなたの父の子となるためである」』。

(マタイ福音書5章43節)

この「敵を愛し(赦し)、迫害する者のために祈れ」というイエ

スの教えを聞いたユダヤ人たちは驚きました。何故なら、これまで

自分たちが教えられてきたものとは全く異なった教えだったからで

す。彼らは「隣り人を愛し、敵を憎め」と教えられていましたが、

これはまさしく復讐の精神です。38節に『目には目を、歯には歯を』

とありますが、もし自分の目に危害を加えられたら、相手の目に相

当の復讐をしてもいい、また歯を折られたら、相手の歯を折っても

いいというのです。

あるクイズで「聖書の中に、目には目を、歯には歯を、という有

名な言葉がありますが、その後はなんと続きますか」という出題で

した。わたしはたぶん答えられないだろうと見ていましたら、若い

人がボタンを押して正解しました。これは出エジプト記21章25節に

あります。『目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷に

は焼き傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない』とあ

ります。おそらくその青年はクリスチャンでしょう。それにしても

よく知っていたものだと感心しました。

このようにユダヤ人は復讐心にとんだ人たちですから旧約時代に

は「逃れの町」が設定されたとあります。これは彼らの領内に6ケ

所に、どこからでも48キロの間隔で設けられ、過失で人を殺した場

合、ここに逃げ込んだら正当な裁判を受けさせてくれるというもの

です。これはユダヤ人独特の制度で、こうしないと復讐をされるか

らです。

ところがイエスが唱えたのは「赦し」であったので、ユダヤ人た

ちは驚いたのです。事実イエスは十字架で処刑されるとき『父よ、

彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないからで

す』(ルカ福音書23章34節)と、迫害する者のために祈っておられ

ます。ローマ書12章21節に『善をもって悪に勝ちなさい』とありま

すが、悪に対して悪に報いることはさほど難しいことではありませ

んが、悪に対して善をもって報いることはよほど神から力をいただ

かなければできないことです。

列王紀下6章9節に、ドタンの町で捕らえられたスリヤの略奪隊

のことが書いてあります。北イスラエル王国の北にスリヤとうい国

があって、毎年収穫期が終わった頃にやって来て、百姓たちが一年

間丹精をかけた作物を略奪していくので、イスラエルの人たちから

は恐れられ、嫌われる存在でした。ところがあるとき預言者エリシ

ャの力によって捕虜になってしまいました。

喜んだヨラム王は預言者のところに来て、「捕虜を殺してもいい

ですか」と言ってきたのです。これは積年の恨みを晴らしたいと考

えたからです。この当時は戦争で捕虜になった者は殺されるか、奴

隷に売られるのが通例だったからです。

ところが預言者の返事は「彼らにパンと水を与えて主君のもとに

返せ」ということでした。これでは積年の恨みを晴らすことはでき

ません。でも尊敬する預言者の言葉ですから、その通りにして彼ら

に「盛んな振る舞い」をして解放しましたので、王はイスラエルの

善意を察し、『略奪隊は再びイスラエルの地にこなかった』と話を

結んでいます。もし当時の習慣どおりに捕虜を虐殺していたらスリ

ヤの王は復讐のために新手の軍隊を送り込んできたに違いありませ

ん。これこそ『善をもって悪に勝った』のです。

わたしたちもこの世の人々から迫害を受けたり、無理な取り扱い

を受けても、クリスチャンは憎んだり、恨みを晴らすようなことは

しません。迫害する者たちを赦していくのです。

友人が東京の郊外に新しい土地を得て教会を建てましたので、お

祝いに行きました。広い敷地に大きな教会が建っていましたので、

よくこんなお金があったものだと感心していましたら、その友人は

こんな話をしてくれました。前の教会の隣りの山林が宅地として整

理され、そこにマンションを建てることになりました。ところがい

ざ工事をはじめるという段取りになったとき、そのマンションの予

定地を取り囲むようにして建っている住宅の住民たちが、「こんな

狭い道路にダンプカーが出入りしては困る」と反対し、建築計画は

頓挫してしまいました。

困った施主さんと建築業者が教会に来て「教会の庭を通らせてほ

しい」と言ってきたのです。友人は教会にダンプカーが出入りする

のに抵抗を感じ、どう言って断ろうかと、しばらく目をつぶって断

りの言葉を考えていました。そのとき、こんな場合、イエスならど

うされるだろうかと示されました。そこで「いいです、お使いくだ

さい」と返事をしましたら、牧師が目をつぶって返事をしないので

てっきりダメかと諦めようとしたとき、この返事があったので、彼

らは喜びました。そして「有り難うございます。ところで幾ら払っ

たらいいでしょうか」と言いましたので、その牧師は「いいです。

お金はいりません。困ったときはお互いさまです」と言うものです

から、施主さんは二度びっくりして帰っていきました。

その翌日から建築工事がはじまりましたが、朝早くから礼拝堂の

講壇の裏をダンプカーがガタガタと走るので、朝から夕方までまる

で地震かと思えるような振動に悩まされ、奥様はノイローゼのよう

な状態に陥ってしまいました。

ところがある日、牧師が外から帰ってきて驚きました。礼拝堂が

真っ暗なのです。窓を開けてみると敷地いっぱいのところに工事の

ための矢板が張られいたのです。「折角親切にしてやったのに、こ

んな酷いことをする」と腹が立って友人の弁護士に相談したところ

が、工事を差し止めることは無理だ、慰謝料もたいしたものはとれ

ない、と教えられましたので、教会を移転することを決めました。

そして近所の不動産屋に仲介を依頼しましたが、買い手はありませ

んでした。

そこで施主さんと建築業者を呼んで、「こんな状態では教会とし

てやっていけないから、よそに移転するから買い取ってくれ」と交

渉をしました。すると施主さんが「分かりました。買い取らせて貰

います。ところで幾ら希望ですか」と言いますので、「二億三千万

円ではどうでしょうか」と何の考えもなく口から出任せに言ってし

まいました。すると先方は「分かりました。その金額で買い取らせ

ていただきます」と即決をしたのです。

教会が売れたことを知った不動産屋がやってきて、「先生、幾ら

で売れましたか」と聞きましたので、「二億三千万円です」と正直

に言いますと、その不動産屋は「先生は商売が上手ですね」といい

ますので、「普通、どれくらいが相場ですか」と聞きますと、「一

億にもならない」という返事でした。

勿論、施主さんもそのことは重々承知のうえでした。でも工事を

するとき道路が使えなくて困っていたとき教会は心よく通してくれ

保証金も全然とらないという教会の態度に感謝していたので、法外

な価格で引き取ってくれたのです。

そのお金で郊外に新しい教会を建てることができました。また業

者もその土地をマンションの玄関口とし、道路から直接出入りをす

る事が出来るようになり「一挙両得」の解決となりました。「情け

は人のためならず」という言葉がありますが、多くの人はこれを誤

解しているふしがあります。彼らは「情けをかけると、その人のた

めによくない」と理解をしていますが、本当の意味は「人に情けを

かけておけば、いつかは必ず報われる」という意味です。

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メッセージのコピペです。

http://www.page.sannet.ne.jp/mayumy/link.sin21.htm
新約聖書篇

誓うな。

マタイ5:33~48 

 次にイエスは誓いについて語られた。

 「また、昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。(マタイ5:32,33)と続き、地を指して誓うな、エルサレムを指して誓うな。と、何に対しても誓うことをやめるように言われた。

 以前テレビで、大統領が宣誓しているシーンがあった。いいなと思った。国民に対して日本のトップは誓うべきだ。そのくらい言葉には責任を持って欲しいと思う。言った、言わないでもめる。誓いを立てることは、人の記憶に残ることなので、その後のあり方の誠実さに差が出てくるように思う。しかし、日本にはそれがない。だから、いいわいいわになってしまうように思う。残念だ。

 旧約聖書の民数記にはこう書いてある。

 もし人が主に誓願をかけ、またはその身に物断ちをしようと誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。口で言ったことおりにすべて行わなければならない。(民数記30:2)

 主に誓いをかけたことは必ず行わなければならないと言う。なんだか、怖いような気がする。誓いをかけたときは果せると思っていても、その後に状況が変わり、また気持ちも変わり、結果的には果すことができなくなることがある。人生とはそういうものだ、なかなか思っているようにいかないと分かっているから、果すことができなかったとしても、その人を責める気持ちにはなれない。その時確かに果そうとしていた、今も果したいと願っているなら、その気持ちで十分である。もちろん、最初から果たす気がない、言葉で信用させてごまかそうとしている人については論外だ。

 旧約聖書では誓ったことすべて行え。誓ったことを破ることは許されぬと言う。それだけ、言葉には責任があるものだ。いい加減に物を言ったり、誓ったりしてはいけないと言っていのだ。納得できる。自分を含めてついつい適当に物を言ってしまう。果すことに自信がないので誓わないようにしているふしもある。それをイエスは誓うなと言う。

 あなたがた言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。(マタイ5:37)

 何を言っているかよく分からなかったので、リビングバイブルの方を読むと、ただ『はい、そうします』とか、『いいえ、そうしません』とだけ言いなさい。それで、十分です。誓いを立てることで約束を信じてもらおうとするのは、悪いことです。とある。誓いを立てることで信用させようとするのは悪いと言っている。ということは、日頃、発する言葉は、信用できるものではないということになる。だから、信用を得るために誓う。誓った時だけは真実だ、その言葉については責任を持つというのだ。そういうことをイエスは禁じておられるのだと思う。言葉は誓った時だけではなく、誓わない時であっても、常に真実でありなさいと。そんなことを言ったら、何も言えなくなってしまうと思うだろう。だいたい、言葉が多ければいいというものではない。その逆だ。しゃべればしゃべるほど、余計なことや思ってもいないお世辞、つまらぬうわさ話しをすることになる。自分のおしゃべりをコントロールすることは難しい。だったら、黙っていた方が賢明かもしれない。でも、いくら口数を少なく努めたからといっても、常に真実であることはあり得ない。言葉による害や罪が口数多いよりも少ないだけ、ただそれだけのことである。

 言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者には知恵がある。(箴言10:19)

しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。(マタイ15:18)

 言葉は大切だ。一度口から出た言葉はもう戻ってくることはない。言葉によって、人は傷つき、殺してしまうことだってある。しかし、口が勝手にしゃべり、人を傷つけるのではない。心の中にある思いがでるのである。ついうっかりでた言葉は、確かに本音である。ああ言っちゃったと思うこと、しばしばである。だから、神様に醜い嫉妬心、妬み、憎しみ、…そういう心を清めていただければならないと思うのである。

 言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである。(ルカ12:12)

 いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。(コロサイ4:6)

 なにより、神様が、言うべきことを導いてくださるというのである。びくびくすることはない。言葉によって犯される罪を含め全部、キリストが負ってくださったのだ。それを思う時、自分が発する言葉の責任を感じ、いいかげんにしゃべることはできない。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。(マタイ5:38,39)この『目には目を、歯には歯を』というのがくせものである。なんだ、聖書はきちんと仕返しをするようにすすめているのかと思われるかもしれない。そうではなく、人間は、目をやられたら目だけでは済まない。目をやられたら、顔も足もいうことになってしまうのだ。ささいなことから憎しみをふくらませ仕返しをする。そして、また仕返しをし、どんどんエスカレートしていく。だから、目をやられたら、仕返しは目だけにしておきなさいよ。憎しみを膨らませてはいけませんよという戒めなのである。

 下着を取ろうとする者には、上着も与えなさい。一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。

 これではまるっきりやられっぱなしではないか。こんな無抵抗でいいのか。こういうことがキリストの愛だとするならば、わたしには釈然としないものがあった。

 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。(同5:43,44)

 これはすごい言葉だ。いったい誰が、自分の敵を愛し、祈ることができるのだろうか。 

 その理由として、父なる神は悪い者にも良い者にも分け隔てなく、太陽を昇らせ、雨を降らすではないか。自分を愛する者を愛したからといって、気の合う友達だけと仲良くしたからといって、何を自慢できるのか。そんなことは、神様を信じない人(聖書では、取税人、異邦人を例に出している)でもしているではないかという。確かにそうである。だいたい知り合いや身内には親切にできる。自分に関係する人だけ上手くやっていればいいと思っている。だから、全く知らない人は関係ない。親切にする必要を感じない。それは自分の周りの人だけに親切にしておけば、自分はいい人だと思われるであろう、困った時は、あの時親切にしたのだから、助けてもらえるだろう。そういう期待があってのことなのだ。

 これら、侮辱されても抵抗しないで受け入れる、自分を憎む者を愛し、その人のために祈る。すべてがキリストの姿なのだ。十字架上でイエスは自分を迫害した者のために祈られた。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカ23:34)

それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい。(マタイ5:48)神は、わたしたちがキリストのようになることを望んでおられる。また、そのように導いて下さるというのだ。聖霊によって生まれた者は、神の子どもであるから、神のような性質に造られる。これは命令ではなく、保障なのだ。安心して神様に委ねればいい。




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メッセージのサイトです。

http://www.mikageshinai.com/MissionOlive/mikotobabackno.2006.7-8.htm
長い文なのでコピペしませんが読んでくだされば幸いです。

http://yonatan.cocolog-nifty.com/blog/
メッセージの書かれた日記です。

http://yonatan.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/index.html
メッセージの書かれた日記です。「拒絶感」について書かれています。

メッセージのコピペです。 ↓

http://members2.jcom.home.ne.jp/gokenheiwa/yosimura.htm
キリストのつぎの言葉こそ真理と考えます。

「隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」

(新約聖書 マタイ福音書5:43-44)

この精神は必然的に武力による戦争を否定することにつながっています。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/aikikai-nara/goodnews/church/kasiharakirisuto/2002/message2002.05_06.htm
↑メッセージのサイトです。良ければ読んでください。





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敵を愛することについて(メッセージのコピペです)

http://uriahmito.hp.infoseek.co.jp/sub156.htm
水戸中央教会 説教             2006年5月21日

「願いなさい、そうすれば与えられる」
ヨハネによる福音書16章12~24節

 12:言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
13:しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。
 その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、
 また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
14:その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
15:父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。
 だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。

 16:「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、
  またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
17:そこで、弟子たちのある者は互いに言った。
 「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』
 とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
18:また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。
 何を話しておられるのか分からない。」
19:イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。
 「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、
 わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
20:はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。
 あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
21:女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。
 しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
22:ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。
 しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。
 その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
23:その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。
 はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、
 父はお与えになる。
24:今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。
 願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
 

本日わたしたちに与えられた聖書の御言葉は、ヨハネ福音書16章12~24節です。
イエス様が弟子たちに最後に語られた、いわゆる決別説教の終わりのほうの一部です。


 16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、
 あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、
 聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16:14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。

 「真理の霊」とは、神の霊、つまり聖霊のことです。
父なる神、子なるキリスト、そして聖霊は、この三つが一つなのだと、
キリスト教の中心的教義として有名な三位一体論は言います。
 最近では、小泉首相が「三位一体の改革」などとおっしゃっていますが、
これとは全く違うものです。
まるでスーパーの安売り三点セットみたいで、頭に来ているクリスチャンの方は少なくないと思いますが、
わたしたちも自分の知らない文化についてとんでもない思い違いをすることはありますから、
腹の立つところをぐっと堪えることにいたしましょう。せせら笑うなどもってのほかです。

 天地を創られた創造主である父なる神、
そして罪なくして十字架に架けられ復活された神の子イエス・キリストについて
考えることは比較的簡単なのですが、この聖霊となると
「何か実体がはっきりしない。一体何なのだろうか?」
と、疑問に思う方は少なくありません。

 聖霊について理解し、それが何であるかを把握し、語ることはなかなか難しいことです。
 このように感じることは単なる不信仰ということではありません。
それは聖霊の本質に関することだからです。

 なぜならば、聖霊は、わたしたちが、それが何であるかを捕らえ、理解し、
語る対象ではないからです。
 そうではなくて、聖霊が、わたしたちを捕らえ、理解させ、語らせる方なのです。

 聖霊は語ることの出来ない摩訶不思議なもの、理解を拒絶した不合理なもの、
捕らえることの出来ない実体のない幽霊のようなものではありません。
 そうではなくて、わたしたちに神の救いの御業を語らせ、神の真理を悟らせ、
永遠の命を得させて下さる方です。
 それはわたしたちの内にいらっしゃって、わたしたちに語りかけ、
わたしたちの心と精神を導かれる方です。

 パウロはコリント人への手紙Ⅰにおいて次のように言っています。

1コリント
12:3 そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも
 「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、
 だれも「イエスは主である」と言うことができない。

 聖霊の力によって、わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰を与えられ、
告白することが出来るのです。

 丁度、何かを見ている目の神経を見たり、
臭いや味を感じる神経そのものの臭いや味を味わうことが出来ないように、
わたしたちを語らせる聖霊を語ることは出来ません。
 ですから聖霊は、目に見ることの出来ない風にたとえられます。
風が吹けば、吹いていることは感じられますが、それを見ることは出来ないからです。

 聖霊派またはペンテコステ派というキリスト教の一派があります。
聖霊の働きを重んじる教派です。
 ペンテコステ派にも色々な立場があるようですから一概には言えませんが、
総じてこの教派では異言を語ることが重んじられます。
 「異言」というのは、「異なる言葉」ということで、
祈りの中で、普通の人間には理解できない言葉で祈ることです。
 これは神への賛美が高まって人間の通常の言語の領域を越えてしまった場合に
起こってくる現象と考えられます。
 このような教派の集会に出られたことのある方は、初めは少し驚かれたのではないかと思います。
異言も確かに聖霊による業ですが、この異言が語れない者は、信仰が薄いとか言い出すとそれは問題です。

 聖霊の働きは、異言のように普通の人には意味の分からない言葉を語らせるだけではありません。
イエスの復活後、50日目に集まって祈っていた弟子たちに聖霊が臨み、
弟子たちの上に聖霊が炎のように留まり、彼らは、様々な国々の言語で、
神の福音を語り始めた出来事をペンテコステと言います。
 この出来事がペンテコステ派の名前の由来です。

 しかし、ペンテコステに語られた言葉は、異言ではありませんでした。
そうではなくて弟子たちが、それまで習ったことも、話したこともない外国語で突然、
聖霊の力によって、神の偉大な業について語ったのです。
 そして、その言葉を母国語とする外国人には彼らの語っていることの意味が理解できたのです。

 キリスト教会最初の殉教者として伝えられるステファノは、聖霊に満たされて、
人々に訳の分からない異言を語ったのではありません。
彼は、きちんとした福音の説教を人々にしました。聖書にはこうあります。

使徒言行録
7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、
7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、
 自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、
 「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
7:60 それから、ひざまずいて、
 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。
 ステファノはこう言って、眠りについた。

 聖霊に満たされることは、決して突然、訳の分からない言葉を語り出したり、
地面に突然倒れたりすることだけではありません。
 聖霊を信じることは、理性と知性を放棄することではありません。
 聖霊は、わたしたちに通常の人間の理性と知性を越えた悟りを与えて下さいます。
 ステファノは、天を見上げて、幻覚を見たのではありません。
その証拠は、彼の最後の言葉です。
「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」
と、彼は赦しを語っています。
 このステファノのような他者への赦しと平安を幻覚はもたらすことがありません。
幻覚がもたらすのは憎悪と不安と混乱です。

 弟子たちに与えられる聖霊について語った後、イエス様は続けておっしゃいます。

16:16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、
 またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

 この後、イエス様は捕らえられて十字架に架けられ、墓に葬られて、三日目に復活されます。
「しばらくすると、わたしを見なくなり、またしばらくすると、わたしを見るようになる」
とは、この十字架と復活の出来事を指していると考えられます。
 そしてまた、このイエス様の言葉は、わたしたちにも起こる信仰の出来事にも共通しています。
それは、わたしたちに聖霊がどのようにして与えられるかということです。

16:20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。
 あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。
 しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、
 もはやその苦痛を思い出さない。

 聖霊は、悲しみと苦悩を通して与えられます。
このことは非常に多くのクリスチャンが実際に経験する真実です。
 挫折を通じて、人々は信仰の道を見出します。悲しみと苦悩と絶望の中にあるとき、
神はあなたを見捨てているのではありません。
 そうではなくて、神がまさにあなたをこの世から救い出そうとしている時です。
この世でのわたしたちの苦悩は、
わたしたちが永遠の世界に生まれ出ようとする新たな人間の誕生に他なりません。

 この世での苦悩を恐れてはなりません。悲しみに怯えてはなりません。
神はわたしたちを死の陰の谷を通して、緑の水辺に導かれるのです。
苦悩の彼方に神の栄光は輝いています。 
 聖霊は、わたしたちの魂に深く、強く働きます。聖霊は物質的あるいは霊的な力ではなくて、
わたしたちに語りかけて下さる方です。

 先週、わたしは久しぶりに、東京品川の入国管理局に、
逮捕されたインドネシアのA兄弟を訪問する機会を与えられました。
 わたしたちと交流のある大洗ベツレヘム教会のデッキー牧師がたまたま帰国されていたので、
その代理をさせていただきました。
 オーバーステイで捕らえられ強制送還されようとしているこのA兄弟は、
「これは神のご計画の内にあることだと示されました。明日、本国へ強制送還されますが、
明後日はわたしの娘の誕生日です。その誕生日に出席出来ます」
と、何か決然として自分を励ますようにおっしゃいました。
 弱気なところを見せたくないという強がりのようにも最初は思いました。
けれども、わたしに同行してくださったインドネシアのB兄弟がA兄弟を励ますのを聴きながら、
これは強がりではないと分かりました。

 日系で滞在権を持っているB兄弟は、こう語りました。
「これは神のご計画の内にある。必ず本国にあって道は開ける。神様のご計画を信じなさい。
捕まってしまったことは、悲しい出来事であるけれど、日本にいて働き続けることも大変なことだ。
日本の政府を赦しなさい。そして日本の政府のために祝福を祈りなさい。」

 みなさんは自分が法律を犯して、不法滞在で捕まったのに、
「日本政府を赦しなさい」
というのは、なんかおかしいのではないかと思われるかも知れません。
 しかし、わたしは彼らの論理が何かよく理解できる気持ちがいたしました。
そして、聖霊の働きを彼らの内に感じたのです。

 確かにオーバーステイという法律違反をA兄弟は承知で犯していましたが、
彼は、もはや日本人の働きたがらない魚の加工工場や畑で決して高いとは言えない賃金で
長時間労働を続けてきました。
 その勤務態度は、誉められこそすれ、非難されるようなものではないことをわたしは知っています。
そして、現在、日本経済は彼らのような外国人労働者なしに成り立ちません。
 そのことをA兄弟は身をもってよく知っています。
なぜなら、彼の働く会社の労働者は外国人ばかりだからです。
 それに加えてインドネシア本国の貧しさもあります。
彼の仕送りで生活している家族があります。
 基本的には変化の著しい社会に法律が追いついていない状況です。
法律はどこに正義の基準を設けていいのか模索中という状態です。

 聖霊の働きをわたしが感じたのは、
「日本政府を赦します。祝福します」
というA兄弟とB兄弟の祈りです。
 彼らにとって逮捕は不当なことであり、納得のいかないことです。
もちろん、それが仕方のないことだということも彼らには分かっています。
 けれども自分自身の過去を振り返ると、自分に正義が少しでもあるならば、人を赦し、
祝福すると言うことはいたしません。

 人間は自分の正義を探し求め、こだわり続けるものです。
彼らの祈りは、彼らの肉の人間としての思いから出ているものではありません。
 彼らの祈りは、
ローマ人への手紙12:14 「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。」
という聖書の言葉に従ってなされています。

16:22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。
 しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。
 その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。
 あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。
 そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

 わたしたちは敵を赦し、そのために祈るという愚かさに生きることが出来るでしょうか。
なかなか難しいことです。
 やはり最近、ビザも運転免許もある日系外国人クリスチャンのCさんが、事故に巻き込まれ、
車を田圃に落とされてしまい、その田圃の持ち主と損害賠償のことで困っていると相談されました。
 とりあえず田圃の持ち主のところへ事情を伺いに行きましたら、
まぁこれがヤクザまがいの人で、散々、怒鳴りつけられました。
 その怒鳴り方を聴いていて、
「この人は、相手が日本語もよく分からない外国人であることをいいことに威張り散らし、
巻き上げようということなのだ。」
とわたしは理解しました。
 その場は話を伺って、というか、罵声を浴びるだけ浴びて、どうもご迷惑かけましたと帰ってきました。

 もちろん、そのお宅を出て、車の中で、
「どうぞ、この田圃の持ち主の方に神様の恵みを祝福がありますように」
と、同行したCさんと一緒に祈りましたよ。
 しかし、後で思い出すと段々腹が立って来ました。ホントに腹が立ちました。
今でも思い出すと腹が立ってきます。「どうしてくれようか」という思いがわき上がってきます。

 クリスチャンであるということは、素晴らしいことです。
 主の御言葉は素晴らしいものです。
 本当に今も腹が立ちますけれど、いざ祈るとなれば、
もちろん一時は裁きを求める祈りと相手を打ちのめしてくださいという祈りも口をついて出ますが、
それでも相手を祝福し取りなそうという祈りをすることが出来るのです。
 ただそれは主が命じられたから、というだけの理由から、
そう祈ることがわたしにすら出来るのです。

 わたしたちの主イエス・キリストと主の御言葉はいかに力に満ちていることでしょうか?
 わたしたちは主と共に勝利者です。
「恐れてはなりません。おののいてはなりません。」
相手への怒りに支配されそうになるとき、わたしたちは祈り求めましょう。
「どうぞ、神様、彼らをお許し下さい。彼らは自分たちが何をしているかを知らないのです。」
と言うことが出来るように聖霊の恵みを祈り求めましょう。
 主はわたしたちに必ずこの言葉を言うことが出来るようにして下さり、
わたしたちを完全な喜びで満たして下さいます。
この言葉に、わたしたちの人生の勝利がかかっています。
 そして、この言葉において、
わたしたちは世界中のクリスチャンと共に手を取り合って歩んでいることを確認するのです。

わたしたちの主に栄光が限りなくありますように。


1987,1988

テモテ牧師礼拝説教へ


補足   2006.5.27

 今回の説教の例話で、その主旨は、説教の下記の部分の後半なのです。
「けれども・・・」以下です。

 ***************
 聖霊の働きをわたしが感じたのは、
 「日本政府を赦します。祝福します」
 というA兄弟とB兄弟の祈りです。
  彼らにとって逮捕は不当なことであり、納得のいかないことです。
 もちろん、それが仕方のないことだということも彼らには分かっています。
 けれども自分自身の過去を振り返ると、自分に正義が少しでもあるならば、人を赦し、
 祝福すると言うことはいたしません。
 **************** 

 この「けれども・・・」以下の一文は、私自身を振り返り、
また私が体験してきた人間関係の中で、自分の方に正しい言い分があると、
人を赦すということが非常に難しいのです。
 これに対して、A&B兄弟が自分たちの論理の中では正義があると思いつつも、
政府を赦し、祝福するというのは、人間の肉の思いから出ているのではないと考えたのです。

 「けれども」以下をもっと明確に強調して置くべきだったと反省しています。


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あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。

メッセージのコピペです。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/JESUS/yashinai/roma12.14-21.htm

「平和を作り出すために」

ローマ人への手紙12:14-21

12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。
12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
12:16 互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。
12:17 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。
12:18 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
12:19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
12:20 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。
12:21 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。

平和というテーマで3回シリーズで学んでいますけれども、前回は神様との平和、平安、これは聖書では同じ言葉ですけれども、その神様の平和とは、私たちが、神様の前に正しくありたいと願いながら、そうあれない自分。神様の律法を守りたいと願いながらも、そうできないゆえに律法に裁かれ、自分でも裁いている自分。そういう自分の中で自己分裂している状態ゆえに自分の心の中に平安も平和もない。そこにまさにイエス様の十字架の犠牲の恵みが注がれて、私たちの罪の責めをイエス様が負って下さったゆえに、もう自分で自分を責めるような自己分裂な状態から解放され、神様との関係も回復され、神の平安、平和を味わうようになるというお話をいたしました。イエス様が私たちの代わりに、神様の責めを受けられたのに、まだ自分で自分を責め続けることはない、ということですね。そんなお話をいたしました。

こういう平安、平和はクリスチャンだけが知ることのできる平安、平和ですね。信仰によって御霊が宿り、分裂していた心の中に、調和が訪れ、平和が訪れる。

 クリスチャンの定義はいろいろあると思うのですけれども、たとえば神様の子どもであるとか、罪赦された罪びとであるとか、いろいろ定義ができるとおもうのですけれども、もうひとつ、定義するならば、神の平和を知り味わっているゆえに、クリスチャンは、平和を作り出す人であるという定義ができるのではないかと思うわけです。

イエス様は山上の説教で、 5:9 「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」と言われましたけれども、神の子とされたクリスチャンとはすなわち、平和を作り出す人なんですよと、イエス様は言われているわけですね。

平和な状態を作り出していれば、誰でも神の子なのではなくて、神の子だから、神の平安を知っているから、平和を作り出していくわけです。まず、自分のうちに神の平安、平和を持たなければ、平和を作り出していくということは難しいですね。逆を言いますと、クリスチャンといえども、心が不安のうちに占領されていましたり、恐れに心が支配されていますと、積極的に平和を作り出すという余裕をうしなって、自己防衛にばかり目が向けられて、平和を作り出せないということも起こりうるのではないかと思っているわけです。

アメリカのサウスイーストの教会でイラク攻撃について行われたアンケート調査がありまして、クリスチャン新聞に載ったその資料の一部抜粋を持ってきましたので、ご覧ください。

テロに対する恐れがイラクに対する武力行使を支持する動機になっているということがお分かりかと思います。

心理的な恐れや不安は、当然のごとく自己防衛に向かわせますし、そして、攻撃は最大の防御ですから、やられるのがいやなんですから、やられる前にやってしまうのが一番安心なわけであります。日本でも有事立法の成立がもうほとんど決まったようなものですけれども、この法律の中身や、そもそも有事立法が必要か必要でないかという話は、置いておきまして、不思議なのは、なぜ、今まで40年近くも議論することさえタブーであった有事立法が、こんなにいとも簡単に衆議院のほとんどの議員の賛成を得て成立してしまったのかということではないでしょうか。そこにあるのは、今、多くの日本人が共有している、北朝鮮の核に対する脅威、恐れ、不安。それもかなり高いレベルで共有されている、そのような不安や恐れというものを背景として、今回いとも簡単に有事立法が成立していこうとしていることの意味。つまり、過剰な恐れは平和を作り出す余裕を奪い、私たちを自己防衛に向かわせていくのではないかということですね。それはクリスチャンもまったく同様で、やはり、神様に赦され、愛されている平安平和、また、全てを支配されている神様にゆだねる平和、平安をいただいて、人々を疑っては、過剰な自己防衛に走るのではなくて、神様の平安をいただいて、自分の周りから平和を作り出していくものでありたいと願うわけであります。

先程読んだローマ人の手紙の12章はクリスチャンの生き方について書いてあるわけですけれども、神様と和解して神様の愛と平安をいただいた私たちは、それゆえに、互いに愛し合いなさい、と3節あたりから、13節あたりまでは、主にクリスチャン同士が愛し合うようにという勧めがなされておりまして、そして、今日読んだ14節以下は、クリスチャンではない人をも含めて、つまり、この世界の中に生きるものとして、平和を作り出していきなさいというお勧めであるわけです。


14節から始まって、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。」と言われ、17節18節で、「12:17 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。12:18 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」と薦められております。

ローマにある教会は、初期の時代、それこそ迫害につぐ迫害をうけて、あるときは競技場でライオンのえさにされたり、木に縛り付けられてたいまつのかわりに燃やされたりしたそういう時代を生きたクリスチャンたちにとって、このパウロの言葉は、私たち以上に、本当に大きなチャレンジであったと思います。そして、実際、初期のクリスチャンは、この通り生きたわけですね。彼らはほとんど自己防衛をしないわけであります。もちろん迫害から逃れて逃げるということはありましたけれども、クリスチャン同士集まって、武装して攻撃するとか防衛するとか、そういうことは一切ない。要するにやられっぱなしなわけですね。ところがそれなのに、クリスチャンの人数はますます増えて、とうとう、ローマの国教にまでなってしまったわけです。この教訓は、今の時代に生きるクリスチャンに対するひとつの問いかけではないかと思います。
 見方によっては、御言葉に単純に生きた初代教会の人々。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。」という御言葉に生き抜いた人々の流した血は、小さな種となり地に植えられ、やがて大きな大木になってローマを占領した。そこにまさに、人の無力さを通してなされる神様の御業があったのだと見ることもできるのではないかともいます。

ところが、キリスト教は西暦313年に勅令が出てローマの公認の宗教になってから、少し状況が変わってきて、国家の政治と教会を切り離すことが不可能になったわけであります。そして、キリスト者も戦争に参加することを余儀なくされたわけです。この時代以降、正義の戦い、正戦ということが言われるようになってきまして、正しい動機を持って正しいやり方で行う戦争は肯定されることになってきたわけであります。宗教改革者などもその路線ですけれども、正戦論を説く人も、聖書から根拠を持ってくるわけですね。たとえば、「よきサマリア人」(ルカ10:30-37)のたとえ話がありますけれども、あの話を引き合いに出して、もしあのサマリア人が追いはぎによる犯行の現場に出くわしたとするなら、どうしただろうかと問いかけるわけです。また、イエス様は弟子たち対し、だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさいと教えたけれども、「抑圧を受けている人がもう一方の頬も打たれるように、弟子たちはそれをてつだってやるべきだとイエス様は教えなかったでしょう」というわけであります。つまり、自分はやられてもいいかもしれないが、他人がやられているのを見て見ぬ振りするなら、それは愛がないのじゃないか。危機にさらされている者や抑圧されている者を救い出すことこそが、愛の行為じゃないか。そのためにたとえ武力を用いることが必要とされても、そうすべきであるというわけです。この正戦論と絶対非戦論はどちらが完全に正しいと言い切れない難しい問題だと私は思っています。正戦論も、その動機としては確かに、自分が不安だから自己防衛したくて戦争するのでも、侵略や復讐のためにというわけではない。よく引き合いに出されますけれども、あなたは目の前で自分の家族が殺されそうとしているのに、その相手と戦わないのですか、と、そういわれるわけです。だから、正義のために戦うということが、時にあるのだという。皆さんどう思われますか?。

しかし、私はやはり、限界ある人間、罪を負った人間は、完全なる正しい戦いをすることなどできないと思っているわけです。自己防衛のつもりでも、つい過剰防衛になってしまったり、非戦闘員を巻き込んでいったり。そういうことが必ず起こる。それに、そもそも人間が偏ることなく、正義を正しく判断することができるのかという問題ですね。最近もイスラエルでテロがありましたけれども、どちらも自分の尺度による正義の戦争をしているわけで、それゆえに、いつまでたっても終わらないわけです。そして、世界中で誰も、イスラエルとパレスチナのどちらが正しくてどちらが間違っているか正しく判断できないでしょう。どちらも正しくてどちらも間違っているとしか言いようがない。正戦論じゃ決着つかないわけです。そして、実はもっとたちの悪いことに、これは聖戦だというわけですね。神様のお墨付きをいただいて、自分の立場を絶対化する。そうなりますと、解決はかなり難しくなるわけです。

パウロは、19節でこういいますね。
「12:19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

つまり、正義の正しい判断は、神様がするから、その神様の怒りに任せなさいと、ここでパウロは言います。神様を信じて、神様こそ絶対的な正義をおこなってくださるかたであることを信じてゆだねる。それは言い方を変えれば、自分の正義を振りかざすのをやめるということであります。神様こそが絶対的な正義な方であり、正しく裁かれることにゆだねるとき、自分こそが正義だと思わなくてもよくなる。神様を信じるということは、そういうことではないでしょうか。神を信じるということは、逆を言えば、自分は神ではないのだと認めることですから、自分の正義を絶対化することから解放されるわけです。そして、自分の正義ではなくて、神様の御言葉にただしたがって善を行う。

そして、パウロはそんな一見無力なようなあり方こそ、勝利なんだと言うわけです。
12:21 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。

悪に負けてはいけない、といっても、だから正しい戦いをして悪をやっつけろといっているのではなくて、善をもって悪に勝ちなさい。善とは、神様の価値観です。まさに、律法に示されている神の価値観。神を愛し自分を愛するように隣人を愛する価値観を持って、それを生きることをもって、悪に勝ちなさい。というわけであります。

むかし、愛は勝つという歌がありましたけれども、そういうことですね。愛こそが悪にかつ本当の力。それはまさに、あのイエス様の十字架の愛こそが、人を愛するものに変えていくのであって、力ずくで無理やり私を愛させようとしたって無理なわけです。まず、自分から愛することをはじめるとき、愛は広がる。そして、神の愛は必ず勝利する。

クリスチャンとして、平和を作り出していく方法は、正義の戦いによるのではなくて、善をもって悪に勝つ。つまり愛によって悪に勝つ。まず、自分からへりくだって、十字架についてくださったイエス様のように、人々を愛することによって、平和は広げられていく。それは時に無力に見えるかもしれないけれども、しかし、初代教会が、まさにそのように生き、やがてローマをイエス様に勝ち取ったように、神の愛は必ずかつのだと信じて、悪に悪をもって、また正義に正義をもって戦うのではなく、神の愛をもって、平和を作り出していくものでありたいと思わされましたので、お分かちいたします。

2003年5月20日ルツ会

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写真は和菓子の詰め合わせか何かのパンフレットからです。

きれいだったので。

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キリスト教の神の計画の成就のためには凄まじい信徒の忍耐と信仰による貴い犠牲があったのだろうか、神様の御心とは計り知れません。

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聖書のみことばより

使徒行伝4章
19)ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。

5章
29)これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。
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人間は神から遠い状態にあるとき様々な罪を犯しつい間違った考えでも自己に他者を従わせるか他者に従属するか他者を盲信するかに至ります。私もそうでしたがそれは滅びに向かう道です。


38)そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。
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そうですか、幾ら栄えて見えようが人間的な企みは自滅するのですね。


39)しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、
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これは怖いみことばですね。神を敵に回すとはどういったことでしょうか、私はそれを少なくとも恐れるに至りました。


7章
42)そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた。預言者の書にこう書いてあるとおりである、『イスラエルの家よ、四十年のあいだ荒野にいた時に、いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。
ーーーーーーーーー
神から御顔を背けられると言うことはつまり放置だそうです。それはきっと恐ろしいことです。


43)あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう』。
ーーーーーーーーーーー
バビロンとは何でしょうか、黙示録では倒される獣のような敵らしいですが。


9章
15)しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
16)わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
ーーーーーーーーーーー
パウロ先生がイエスキリストの啓示により迫害者から伝道者になるのですがイエスキリストの御名により苦しむことが示されています。

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加害者の粘着性のきつさに苦悩し祈り続けましたが今朝に漸く与えられた物は「加害者のために祈ること」という思いでした。それまでもそう言う祈りは試みましたがどう考えても不可能でした。聖書には有名な言葉で「汝の敵を愛せよ」というのがあるようです。非現実的な言葉だと思いましたがやはり現実の戒めとして受け止めねばいけないのではと思います。クリスチャンは皆そうしているのだろうか。敵と言っても常軌を逸するような事をし続ける敵なので苦悩します。

マタイによる福音書:第5章
44)しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

ヨハネによる福音書:第15章
20)わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。

使徒行伝:第26章
14)わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』。

(↑刺のある鞭というのは自分の場合加害者を意味しそうですね。「愚かな者に向かい腹を立てればそれは相手の胸にとどまる」というみことばもありました。つまり加害者への憤りや悪態皮肉などが何の意味もないというのはこの事ですね。彼らはますます憤りと報復心を燃やしつつ迫り狂うだけですね。その通りでした、絵に描いたように。)

ローマ人への手紙:第12章
14)あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。

テモテへの第1の手紙:第1章
13)わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。

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敵のために祈れ等とあるが所詮はこの様な荒唐無稽な加害者へも適用するのか、それは不可能ではないかと思いましたがやはり神の言葉は真理として受け止めねばいけません、そうすることできっと全き平安が与えられると知りました。

自分も所詮は過去に犯した罪だらけの状態を憐れみを与えられて救いに預かったので、所詮は加害者を見下したりバカにしたところで五十歩百歩かも知れません。

蟻の巣壊しは蟻に取れば得体知れぬ巨大な破壊者それも無知で基地外と同様です。

しかし壊す方にすれば「面白い」「気晴らし」「気分が良い」「全能感がある」と言うことです、自己の事ながら無知は怖いと知りました。

こういった無知から来る救いがたい罪を犯していながら救いに預かるように恵みを与えられたために加害者へも同じように救いに預かるような祈りをするべきだと思います。人間は所詮は人を裁けないため神の戒めに従うしかないです。そう悟りました。

神様が全ての正しい裁きをするからです。

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写真は北海道の函館にあるというトラピスト修道院のパンフレットの物です。

親が仕事で行ったときに持ち帰ってくださいました。

修道院で製造されているというクッキーや乳製品は有名だそうですね。

過去に教会でクッキーの空き箱を見て「何とまあ清楚で地味で簡素なデザインか」などと感心し「一体どういうクッキーなのか」と思いました。

この度食べる機会に恵まれましたが軽い口当たりで重さがないという味わいでした。

修道院の生活が書かれていましたがそれは朝の3時に起床し夜は8時に寝ると書かれていて驚きましたが他には「世の俗社会から隠れた生活」とも書かれていました。単純にこういう生活には変な加害者による苦悩は存在しなさそうだと思いましたがそれ程単純でもない事情はあるのだろうか。

私は加害者によって強制的に世の楽しみと無縁に近くなりましたがそのお陰で聖書を学びそれが真理だと知れて良かったです。迫害は続くのですが世での惨めさ加減は気にするだけ無駄かも知れません。聖書が真理であればそれを軽んじることは恐れでしかないです。

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パウロ先生の生涯はイエスキリストに出会う前にはキリスト教徒の迫害者であったがキリストとの霊的な出会いから後には伝道者となり素晴らしい働きをしたがその間中すごい迫害に会い続け最後には牢に入れられた状態で聖書を書き処刑されたという凄まじい人生ですね。
聖書の神様の御心は大変計り知れないです。

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メッセージのコピペ

NO.592 強いものに打ち勝つ

”テキスト:ルカ11:
17 しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。
18 サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。
19 もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。2
20 しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。
21 強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。
22 しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
23 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。”
 

本日は強いものに打ち勝つという題でメッセージをしたいと思います。
テキストに沿って見ていきたいと思います。

”17 しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。
18 サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。”

ここでは、サタンの国について書かれています。後の節では、神の国に関して
書かれています。
さて、神の国とは何のことをさすのでしょう?はたまたサタンの国とは?
このことがわからないとこの箇所の意味合いは本当には理解できません。

神の国とは、その意味するところは、実は教会を意味すると以前理解しました。
そうです、

神の国とは、教会です。それは、今の時代にあって、神によって支配される人々のことです。そして、サタンの国とは、それと反対の国、神に支配されず、
サタンに支配されている人々、国のことです。

世界の国は、国連に加盟している国にしても100以上ありますが、神の目、聖書的な
観点からいうと、たった2つの国しかありません。

すなわち、神の国とサタンの国です。
そして歴史とは簡単にいうと、この2つの国の争いの歴史ということができます。

歴史をどう見るかということを史観といいます。プロレタリア史観だの、
皇国史観だの色々ありますが、唯一正しいのが聖書にたった史観、
聖書史観とでもいうものです。

世界には多くの国があるようではありますが、実は聖書によれば、世界にはたった2つの国しかありません。すなわち、神の国とサタンの国です。世界の全ての人はどちらかの国の住民です。

「サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう」
 

ここでいっていることは、サタンに支配されている国には分裂、仲間割れはなく、
一貫しており、統率されているということです。
 

このことは、確かです。サタンが人を惑わし、神などいない、
死後のさばきなどないと盲信させるのに、大いに貢献したのは、ダーウイン進化論やら、
マルクス無神論共産主義ですが、これらの教えはこの世、サタンについた国においては、
大いに発展し、推賞されました。20世紀において、
ソ連、中国、東欧諸国など、多くの国が相次いで無神論共産主義に走りました。
この教えが発展、広がるのは早かったのです。無神論は、サタン、神を憎む存在に
とっては望ましい教えです。
それで、この教えは世において、すみやかに広がったのです。
逆に私達はこの神を否定する教えがすみやかに広がったことを見て、この世、
サタンの国においては、仲間割れがなく、また国が大いに立ち行き、発展していることを
見るのです。

”19 もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。2
20 しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。”

ここでは、悪霊を追い出すことと神の国との関係が書かれています。
悪霊を追い出すこと、それが、神の国を来たらすことに通じる、そう理解できます。
言い方を変えると悪霊が支配できなくなるところ、そこが神の国である、そうも理解できます。
どちらにしても私の理解では、聖書的にはこの世界にはたった二つの国しかありません。
神の国とサタンの国です。
どちらかが増えればどちらかが減ります。
ここでいえば、悪霊が追い出されれば、結果として神の国が到来します。
そう考えれば、「神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」とのことばが理解できます。


21 強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。

私達クリスチャンの望みまた、我々の使命、兵士としての役割は
この世界に神の国をもたらすことですが、しかし、その前に、前提として理解すべきことがあります。
敵がどの様な存在かということです。
相手の国がどこの国なのか、自分が戦うのがどの様な敵なのかを知らずに戦争に行く兵隊はいません。
私達も主の兵として戦いに出ていくものではありますが、まず、敵を知らなければなりません。
そして、この箇所は、私達の敵に関して書いてある箇所です。

ここには、その敵が「強い者であること」「十分な武器をもっていること」そして
彼の持ち物となっている人々は安全である」すなわち、
敵の国はそれなりに安定しており、ちょっとやそっとでは、動揺がない、攻め込むには手強い
存在であることが書かれています。

私達が敵の領土に攻め込み、人々を獲得し、救われる人を増やそうとする時、この
箇所が言っていることを正しく正しく認識すべきと思われます。

今のキリスト教会で神の国を広げること、すなわち伝道やら、救霊を考えるとき、
まずどんなことを考慮するでしょうか。
奉仕者の人数を集めること、大きな伝道会、クルセードを開くこと、
費用をかけて宣伝をすること、一流の福音歌手を招くこと、そんなことでしょうか。
聖書的にいうなら、これらも大事かもしれませんが、しかし、第一優先ではありません。

日本のキリスト教会は、よくも悪くもアメリカ、獣の国の影響を受けています。
結果、伝道も教理もみな、アメリカゆずりなのです。いわばアメリカ礼讃、獣の国崇拝状態です。
しかし、黙示録によれば、アメリカ、獣を拝むものは呪われる行いです。
日本のキリスト教会は愚かにも獣を拝する愚を犯しており、結果、的外れ、ギリシャ語でいう
「罪」状態となり、伝道に関しても的外れなことに力を費やしています。

日本のキリスト教会の伝道における問題とは何か。私も偉そうなことはいえませんが、しかし、
聖書に基づいて、私の身にあまることを論じます。
それは敵を見ていないということです。

戦う場合、なんと言っても大事なことは、敵を見ること、
理解すること、把握することです。

生涯一度も負けたことがないという剣豪、宮本武蔵は敵を見て戦い方を変えました。
相手が物干竿の異名を持つ、長い刀を持つ佐々木小次郎であった時は、相手に
合わせて武器を変えました。船の櫂をけずって、長い木刀を作り勝利したのです。

我々も相手を見、戦いの方法を考えなければなりません。

「強い人」

聖書は敵に関してひとこと、強い人と語っています。
サタンは強いものであり、我々かよわい人間と比べたら圧倒的な体力差があるのです。
まずこれを認識しなければなりません。
聖書によれば、明らかに人は弱い存在です。羊というクリスチャンをたとえる動物もその弱さをあらわします。我々の戦いとは弱い羊がプロレスラーの様に強い人に立ち向かうものであり、そこには
大変な体力差がある、それを認識しなければなりません。

「十分に武装して自分の家を守っている」

サタンは強いものであり、かつ彼らには十分な武器がある、このことをも知らなければなりません。
この武器とは鉄砲や、飛行機ではなく、しかし、霊的なもの、感情、思索、思考に影響するものであることが予想されます。
かつての日、エデンの園でサタンは彼の有効な武器を用いました。その結果、
我々の先祖である、アダム、エバは感情、思考を刺激され、惑わされ、死へ導く実が「見るによく、
食べるによく、賢くなるにふさわしい」ものに見えたのです。

また、同じくサタンはこの感情、思索に働く武器を用い、神の子イエスを攻撃しました。
彼にかかわり合う、パリサイ人、律法学者の心情に働き、イエスへの憎しみ、怒り、
殺害の思いをわきたたせ、遂には神の子を十字架につけることに成功したのです。
また、12弟子の一人であるイスカリオテユダの心に働き掛け、イエスに対する疑念を起こさせ、ついには、裏切りを起こさせ、神の子を死に売りわたすことに成功したのです。

これらの武器は有効に働いたかに思え、サタン王国を揺るがす、敵の将ナザレのイエスは
倒され、サタン国の安泰はこれからも続く様に思えたのです。
サタン国の大勝利です。

しかし、あにはからんや、これは実際は神の国の大勝利であり、このイエスの死、
あがないの死を通して、神の国へ入る人々が続出するようになったのです。
すなわち、新約の神の国、教会が誕生したのです。

しかし、しぶといサタンとその軍勢は、あきらめずに猛然と反抗を企てます。
誕生したばかりの教会をつぶそうと、ユダヤ人パリサイ人、祭司達の心に働き掛け、
12弟子の筆頭であるペテロ、ヨハネを捕縛しました。
さらに国王ヘロデの思いに働き、ヤコブを殺害しました。

敵の武器は大いに有効的に用いられていることがわかります。
また、敵は一枚岩の様に団結し、要所要所、ポイントごとに適格な攻撃をしかけていることが
わかります。主のいわれた「強い人が十分に武装して自分の家を守っている」とは、
絵空事でも空想の世界の話でもなく、逆に今の私達の目の前に起きている現実なのです。

さらにキリスト教会の期待の星、パリサイ派から回心した、後の日に
大活躍をするあの使徒パウロに関しても、いち早く敵の軍団、サタンの国は
その重要性を見抜きました。そして、神の国の拡張を防ぎ、サタンの国の安定をめざすべく、
パウロへの総攻撃を開始したのです。使徒行伝を見ていくとき、このパウロを殺すためにあらゆる、
陰謀と計画が行われたことが理解できます。サタンの有効な武器、頼みとしている
武器である人の感情、思索に働く武器がうまく用いられ、パウロを殺すまでは何も食べないと誓う人々まで、現れます。また、民衆が暴動を起こしてそれにより、興奮した群集にパウロが殺されそうになったことも何度もあります。また、ユダヤ人たちはパウロ殺害の意志を固め、何度も裁判でパウロをしつこく
訴えています。

これらはパウロが人から憎まれる性格だったから、あらゆる悪を重ねた人だから、
というわけではありません。逆に彼は同族愛に燃えた愛の人だったのです。
では何故彼がこの様に憎まれ攻撃されたのか?彼が憎まれた
その理由は、サタン国と神の国との攻防戦、はたまた見えない敵、サタンの有効な武器、人の
感情を動かすという武器を
考えに入れなければ理解できません。

使徒行伝の真の主役は聖霊であるという人がいいます。見えない神の霊がこの書の主役、それは確かでしょう。
しかし、使徒行伝は戦いの記録であることを思い起こすと、戦いのもう一方の主役、見えない敵、
サタン国の将の働きを見ないことには、この書を正確には、解説できないともいえるでしょう。

その持ち物は安全です。」
 

安全ですと言う言葉は、KJVでは平和ということばが使われています。サタンの支配は、揺るぎなく、
戦いはなく、落ち着いており、平和が保たれていると言うのです。
平和とは戦いがない状態のことです。敵はいても取るにたらない、相手にならない、だから
サタンの王国には揺るぎがないということを現すのでしょう。

このことはたとえば、日本の現在の社会を見ると、残念ながら、現実です。
私達が読む新聞は進化論は正しい、神なんかいないことを前提に記事が書かれており、
創造論をとなえる人のことなど、カルト扱いです。神は否定され、サタン国が大いに安定し、
平和を保っているのです。

日本では、家々を回るものみの塔が輸血拒否等の問題を起こすため、聖書だとか、キリストなんて
いう人は危ない人だということになり、伝道はやりにくいことこの上ありません。
ここでもサタンの優勢は揺るぎません。

そのうえ、最近は団地やら、アパートに個別ちらしを入れることが刑法上に問題になる、逮捕されるとの
判決が起き、結果、伝道ちらし、トラクトさえ配りにくくなっています。
ここでもサタン国がさらに一歩歩みを固め、神の国閉め出しに成功しているのです。

世の中のキリストに関する記事はみな悪い記事のみ歓迎され、発表されています。
キリストの復活はなかったとする、ダビンチコード、キリストの墓に関する映画などが
もてはやされるのです。
ここでもサタン国は優勢であり、揺るぎもなく平和を保っているのです。

"
22 しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。"

さて、それでは我々はどうやって戦うのでしょうか?
サタンが強いものであり、我々人間より、はるかに強いものであることは
わかったとして、しかし、それだけでは解決になりません。
一体我々の勝算は、どこにあるのでしょうか。
ここに答えが書いてあり、勝利は我々の間にさらに強い方が来られることにあります。

これが聖書の方法であり、手段なのです。このことはよくよく理解すべきと思います。
ここでは、神の国が広がること、簡単にいえば、伝道を進め、人が救われていくために、
我々、一般の理解と違うことが書かれています。

我々の理解では、伝道と言うと何枚トラクトを配ったとか、
どう宣伝するかということに強調点を起きますが、しかし、ここでは、
明らかにここで、神の国を広げる、伝道すると言うことは、強いものどおしの
戦いであると書かれているのです。

このことは正しく理解しなければなりません。それとともにはっきり理解しなければならないのは、
敵は強いものであること、そして我々は弱いものであるということです。

我々だけでは戦えない戦いである、このことも明確に理解しなければなりません。
強いものとはたとえていえば、東京中をこわしまくる怪獣みたいなものでしょうか。
ビルをこわし、戦車も相手にせず、もう我々には、対抗手段がないのです。
そんなとき、どうするかというと普通はウルトラマンを呼ぶのです。
ウルトラの星から来たヒーローウルトラマンは、怪獣よりさらに強く、この怪獣を退治してくれるのです。

聖書のことばに戻るなら、神の国が広がる、すなわち伝道とは、強いものとの戦いであり、
さらに強い方に働いていただけるかどうかにポイントがあるのです。
働いてもらうにはどうするのか?
具体的には祈りなのです。

ブレイナードの日記を以前読んだことがあります。
イギリスから アメリカに渡り、 インデイアンへの伝道を進めていた彼には
思うようには道が開けず伝道は進みませんでした。それで彼はどうしたのか?
大規模なクルセードでも開いたのか?4つの法則パンフレットを効果的に
用いたのか?はたまた、テレビ伝道を開始したのか?
彼はそんなことをしませんでしたし、それらが勝因でもありませんでした。
彼は断食と祈りを続けたのです。

敵の反撃も強く、感情思索に働き、彼は何度も精神的にうちのめされそうになりました。しかし、
引かずに祈りを貫いたのです。結果、
ある日、強いものが縛られる日が来ました。酔っ払いの通訳者を通した彼のメッセージで、
多くのインデイアンが神を見い出すようになったのです。
彼の方法は現代の伝道セオリーどおりではないかもしれませんが、
しかし、まさしく聖書の王道を行っており、聖書のセオリー通りだったのです。

祈りの中でさらに強い方に働いてもらい、彼らインデイアンをとりこにする強いもの、サタンを縛る、
この方法を彼は正しく行ったのです。

彼の頼みにしていた武具を奪い」

強いものより、さらに強い方、キリストが働かれると、敵の頼みの武具が奪われます。
敵の武具とは、私の理解では先程述べたように、人の心に働くものと思われます。
人の感情、思索、行動に影響を及ぼし、洗脳する敵の武器が奪われてしまう、結果として
この攻撃は無効になってしまう、そう理解できます。

分捕り品を分けます。」

その武器とははたまた、未信者の心をくらます固定観念、神を否定するあらゆる形の
議論、思想かもしれません。それらがどれ程強固であっても、その武器は、さらに
強い方が来られる時、取り上げられます。

そしてその結果、敵の分捕り品となっていた人々は、
解放され、キリストに勝ち取られるのです。


23 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。”
 
 

この箇所は、世界にはたった二つしか国がないことを理解すれば、わかりやすい箇所です。
世界には、聖書によれば、たった二つしか国がありません。
その一つは神の国、もう一つはサタンの国です。私達が一つの国に味方するなら、結果として、
もう一つの国に対しては敵対することになるのです。

私達はどちらかを選ばなければなりません。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/
 
 
 

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主に身を避ける

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2006年12月3日「主に身を避ける人」詩篇11:1-7
              
序-ダビデは、とても苦しい立場に置かれていました。ダビデは、神様だけ頼って、目の前の危機を克服しようと心に決めていたのでが、側近たちは色々な手段を提案して困難から逃れることを進言したのです。部下たちの情のこもった忠告に従うのか、それとも、神様に頼って待つのかについて、ダビデは迅速に決定しなければなりませんでした。世に生きている私たちも、このような決定を下なければならない時がしばしばあります。信仰でするのですか、世の方法でするのですか。

Ⅰ-どこに身を避けますか、友人の勧めは-
 サウルの執拗さは、ダビデがイスラエルのどこに逃げようとも、隈なく探し出し、彼を助ける人を皆殺しにするほどでした。人々は密告もしました。ダビデはやるせない思いでした。忠実に仕えていたのに、地位も妻も奪われて、身一つで逃れ回る身の上となったからです。現代のことで言えば、他社のせいで会社が潰れ、家も財産も無くし、債権者から逃れるため一人であちこち逃げ回るというような感じでしょうか。自分は懸命に働き、真面目に生きているのに、何かのことで責め立てられる、地位を奪われる、執拗な圧迫を受ける、助けてくれる人がいない、そんな状況に陥る人々も、ダビデのような心境でしょうか。
 そのような時、どこへ身を避ければよいのでしょうか。1-2節。ここで、ダビデは「主に身を避ける」と言っています。これは、どんな意味なのでしょうか。詩篇56:11,118:5-9。消極的な意味では、この世には自分の身を避ける所がどこにもないから、ということです。サウル王の追っ手や密告によって、ダビデが安心できる所がなかったからです。積極的な意味では、困難な中でも絶対に絶望しないで、むしろもっと神様の御言葉に信頼して祈りながら、神様の助けを待ち望む、ということです。
 しかしそれは、彼を人間的に愛して、大切に思う人々には、大変愚かなことに見えたのです。それで、彼らは良かれと思い、忠告したのです。1節後半。詩的な「鳥のようにおまえたちの山に飛んで行け」という表現には、忠告者のどんな意図があると見ることができますか。「おまえたちの山」とは、人間的な方法を言っています。ただ愚かに神様の助けを待つのを止めて、いろいろ計画を立てて、頼める所へ頼んで逃げ込めばいいのに、ということです。神様に頼らないで、人間的な方法を取れと言っているのです。エレミヤ42:7-19。世の方法を取って、ノブの祭司たちの所へ逃げ込んだ時、匿ってくれた人々が皆殺しにされました。
 ここには、信仰によって生きる人とそうでない人の違いがあります。信仰のよって生きる人は、究極的には自分の計画を持ちません。その代わり、すべてことを神様に委ねて、一日一日信仰で生きて行こうとします。そうすれば、毎日神様の御言葉が自分に恵みとなって、聖霊の感動を体験させるようになります。しかし、そうでない人は、自分の力で生きて行こうとするために、一日中苦心します。それで、藁をも掴みたい心境になってあのことに望みを託し、この人に話して助けを求めます。しかし、淡い期待で終わってしまうのです。
 「鳥のように自分の山に飛んで行く」、すなわち人間的世の方法を取れば、「悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている」ことになると言うのです。2節。自分のことすべてが悪人の手に握られているようなものだ、という意味です。詩的な表現ですが、愚かな恐ろしいことです。ですから、悪者の弓で射られないようにして下さいと祈りながら、主に委ねるのです。
 今詩人がどのほどの患難の中にあるかと言えば、生活の基礎のすべてが破壊されていて、生活の基盤がない、世の人々が拠り所とするものすべてが無いということです。3節。しかし、ダビデは、このような圧迫感の中でも、神様に拠り頼んでいたので、絶望することはありませんでした。なぜなら、神様が責任を取って下さることを信じているからです。イエス様も、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言われました。マタイ8:20。イエス様は世におられた時には、本当にご自身の体一つも安全に委ねる所がありませんでした。救い主も経験されたことを覚えて、私たちは慰めと励ましを受けます。

Ⅱ-神様の行なわれる方式-4 
 現実が厳しく、辛い状況にある人は、どのようにすればいいのでしょうか。多くの人は酒に逃避しようとします。しばらくは酔いに現実を忘れるためです。そうでなければ、空想に浸る方法もあります。しかし、酒や空想はしばしば私たちを現実から遠ざからせて、現実感を失わせて、もっと困難を乗り越えることを難しくさせます。それで、結局身を滅ぼしてしまいます。イエス様を信じる聖徒たちが主に身を避けるとは、どんな方法でしょう。まず一つは、神様について深い黙想をすることです。4節。困難の中にいる時、神様を深く覚えることは現実逃避ではありません。患難の中で、神様にしっかり自分自身を委ねることです。ちょうど嵐や洪水の時、大きな木に自分自身を巻きつけてしまうようなものです。
 そして、そのような時、自分が何を思うかということが重要です。もし、自分なんて駄目だ考えて過去の愚かな失敗などを思い出すなら、結局耐えることができなくて、自暴自棄になってしまうでしょう。しかし、神様の御言葉を思い出すなら、その人は再び力を得ることができるのです。ですから、もう一つの方法とは、以前に神様が下さった恵みを思い出すことです。過去に神様が下さった恵みは、私たちの大切な資産です。なくなってしまいそうだった信仰、教会が、今はあきる台BCとその聖徒となって回復されているという恵みは、私たちが困難の中で寄って立つべき恵みです。神様が困難な時、私たちの祈りを聞いて下さったと思い出す時、今心にある傷が癒され始めます。希望が生じて来ます。これが神様の恵みの回復です。
 重要なことは、神様の王座が天にあるということです。4節。「王座」とは、統治を示しています。人の統治は気まぐれで罪に翻弄されますが、そのような人の統治の上に神様の王座があります。それで、結局は悪い統治者の思い通りにはならないのです。初代教会の聖徒たちは、迫害する皇帝の上にキリストの王座があることを見ていました。そして、迫害と患難に耐え、信仰の勝利を得て行ったのです。私たちも、今日の統治や人の権力を見ても、同じように思うことです。悪者の思い通りにならないように祈りましょう。神様の統治を確信しましょう。
 「その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。」4節。これは、神様が天の王座から見ておられるので、ご覧になることができないものは何一つない、という意味です。巨大な迷路も上空から見れば、どの道を行けばいいか分かります。ですから、私たちが、御言葉と祈りで神様に繋がっていれば、絶対に滅びることはありません。私たちが道でない方へ行こうとしたら、神様が遮り、従順について行くなら、道があるのです。ですから、重要なことは、神様との通信です。
 神様は見ておられれるだけではありません。義人を愛し、悪者を憎まれます。5-7節。ですから、すでに義人が勝利するように定められているのです。では、なぜ神様は沈黙を守り、悪者が暴れるように放っておかれるのでしょうか。それは、神様が沈黙しておられる間に、人々の心の中にあることが、曝け出されるためです。正しい者は、困難な時期を通して自分の中にあることが曝け出されて、悪い者も神様が黙っておられる期間を通じて、自分の中にある悪いことすべてを曝け出すようになるのです。苦難の意味って、こういうことだったのです。
 ですから、主に身を避ける者は、困難な中でもっと聖くなって、もっと多く祈り、もっと神様を愛するようになります。一方、世の方法取る人はもっと高慢に、もっと暴虐的に、もっと堕落するのです。神様は人々の中に入っている考えと思いを明るみに出させるために、十分な時間を下さり、後で弁明できなくなります。6節、エペソ5:8-13,Ⅰコリント4:5。決定的な瞬間には、神様は悪者を網を張って捕らえます。悪い者の偽善や嘘が曝け出されれば、その後彼らに目を向ける人が誰もいなくなるのです。
 「彼らの杯への分け前となろう」(6)とありますが、昔王様に杯を捧げる宦官に対して、王は信頼する者の杯から飲み、反逆の心を持った者の杯を捨てたそうです。恵みを受けようとするなら、自分の心の杯に良いものを盛らなければなりません。他の人に呪いを浴びせ、罵る者はいつか自分にそれが返って来ます。人を妬み踏みにじるなら、結局は自分自身がその杯を飲むことになります。神様が見ておられ、仕業に応じられるのです。
 素直に確信をもって生きれば、神様の「御顔を仰ぎ見る」者となります。7節,Ⅰヨハネ3:21-22。正直であるならば、大胆になることができます。神様が守って下さるという確信を持つことができます。そのような人は、危機の中でも顔と顔を合わせるように神様を見る者となるのです。やがてダビデを妬み憎んで執拗に追い回したサウル王は戦いに死に、ダビデは堂々と神様を礼拝することができるようになります。神様の栄光を体験しようとするなら、終わりまで忍耐して待たなければなりません。患難の時に御言葉を通して神様を知って、神様について深く黙想することです。私たちは、そうしている間に霊的成長し、広い心を持つようになり、私たちを苦しめていた問題も自然と解決するようになります。箴言16:20。
詩篇11:1 主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。
11:2 それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。
11:3 拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」
11:4 主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。
11:5 主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。
11:6 主は、悪者の上に網を張る。火と硫黄。燃える風が彼らの杯への分け前となろう。
11:7 主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。

詩篇 56:10 神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。
56:11 私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。
56:12 神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。私は、感謝のいけにえを、あなたにささげます。
56:13 あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。

詩篇118:5 苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。
118:6 主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。
118:7 主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。
118:8 主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。
118:9 主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい

エレミヤ42:17 エジプトに行ってそこに寄留しようと決心した者たちはみな、そこで剣とききんと疫病で死に、わたしが彼らに下すわざわいをのがれて生き残る者はいない。』

マタイ8:20 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

詩篇138:6 まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。
138:7 私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。

エペソ5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
5:9 ――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――
5:10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
5:11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
5:12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。

Ⅰコリント4:5 ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。

Ⅰヨハネ3:21 愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、
3:22 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。

箴言16:20 みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである

ーーーーーーーーーーーーーー

神の沈黙には人々の心のことが明らかにされるためという意味があるのですか。

それが篩い分けでしょうか。福音書にあるみことばの「覆い被されていることで現されないことはない」という箇所が複数ありますがそれがこの事を意味するのでしょうか。

確かにこの虐待は激しく苦痛ですがしかし過去の汚れた罪が思い起こされることは事実です。それを全てやろうとすると後一体どれ程苦痛に耐えるのかと思いますが。

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礼拝メッセージ

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2006年1月22日「愚か者でなく知恵ある者となる」伝道者の書10:1-20

序-イエス様を信じた人が、その信仰を享受するには、御言葉に聴いて、聖霊に導かれて歩まなければなりません。自分の意思でしっかり生きる人が力ある人ではありません。自分の意思のままではなくて、御言葉の導きを求めて生きるのです。これが、クリスチャンの本質です。伝道者の書は、空しい人生を歩まないように、御言葉の知恵によって生きるように教えています。特に、10章は、知恵ある者となって生きるようにと、その反対の愚か者の姿を面白く、象徴的に描き、列挙しています。インパクトがあり、思い当たって痛く感じます。

Ⅰ-小さいことを軽んじないように-
 まず、始めから非常にインパクトのある言葉です。「死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」と言うのです。1節。香油製造者が作った香油に、蝿一匹入っても原料全体が駄目になってしまいます。ほんの少しの愚かさが、知恵よりもはるかに大きな影響を与えてしまう、愚かさは人生を台無しにしてしまうということです。ですから、どんなにできた人でも、どんなに頭がいい人でも、御言葉の知恵に聞いていかなければならないということです。
 愚か者とは、頭がよくないから言うのではありません。小さいことを見くびると、愚か者になるのです。救いはとても単純で簡単なものです。イエス様が私の罪と滅びの代わりに十字架にかかり、死んでよみがえられた、ということを信じるだけです。それで、天国へ行けるのです。それなのに、どうして人々は滅びる道に進んで行くのでしょうか。頭が悪いのではありません。とても頭はいいのです。ただ、救いはとても単純で簡単なので、小さいことと軽んじるためです。マタイ22:10-13。救いは小さいもののように思えますが、それによって命を得、人生が一変するのです。
 人生に成功する人と人生に失敗する人、神様に認められる人と救いから漏れてしまう人の違いは、とても小さいものです。たとえば、一つの礼拝において命に関わるメッセージに出会うかもしれません。礼拝は小さいように見えるけれども、軽んじないようにしなければなりません。一度の礼拝が私たちの人生を変えることができるのです。祈りや御言葉の黙想、そのほんの少しの時間が人生を左右するのです。御言葉の適用を軽んじないで下さい。どんなに頭がよくても、しっかりしていても、自分の肉の思いを優先して行ったら、人生全体を空しくしてしまうのです。信仰の本質は、イエス様中心、御霊に支配されて生きることです。

Ⅱ-愚かな者の心は悪い方に向く-
 次に、「知恵ある者の心は右に向き、愚かな者の心は左に向く。」とはどういうことでしょうか。2節。つまり、神様のこと、命のこと、良いことはみな右側で、サタンに属すること、滅びること、悪いことは左側と言っているのです。マタイ23:33-34。だからと言って、右側左側にこだわらないで下さい。ただ神様の対象の方向を右側と言っているだけです。詩篇16:8。知恵ある者の心は神様の側に向いていて、愚かな者の心は、サタンの側に、してはならないこと、世のことに向いているということです。
 聖書の知恵に寄る者は、神様を畏れ敬い、正しいことをしようと努力します。一方、愚かな者は肉の思い赴くままに罪になることを思いながら生きます。犯罪者の多くは、普通の人よりも頭のいい人々です。最近の金融関係や情報関係の犯罪は、相当頭が良くなければできません。このような人々は、どうしたら人を騙せるかいつも考えています。自分の能力を正しいことにではなく、人に害を及ぼすことに用いるのです。これが、愚か者の心です。同じ頭を持っていても、向けることが違うのです。
 韓国教界の会議について聞いたことですが、普段信仰的なことを言わないで出席するだけの人が、揉め事になると俄然活動し、発言を独占し、命をかけるそうです。残念ながら日本でも同じようです。私たちは、救いや真理に関わることならば、命をかけるべきですが、死ぬか生きるか、真理か真理でないかに関わる問題でないなら、円満にすべきです。愚かな者は、命をかけなくてもよいことに、必ず力を注ぐというのです。
 私たちの心がどこに向いているか、確認しましょう。神の国のために力を注いでいるでしょうか。向けなくてもよい所に執着して生きると空しくなります。家や車に人生をかける人がいますが、あってもなくてもいいことは、どちらでもいいのです。本当に重要なこと、主のことに集中することが大事です。それ心が右を向いている心です。詩篇16:8 。自分の意思を追求するのではなくて、御霊の導きを求める人生が、聖徒の本性です。

Ⅲ-愚か者は落とし穴を掘って落ちる-
 また、愚かな者は、隣人に害を与えようと、結局自分が害を被るようになるということです。8-9節。穴を掘れば自分が落ち、石垣を崩せば蛇に咬まれ、石を切り出して石で傷つき、木を割るとその木で危険にさらされるということです。知恵ある者は穴を掘りません。イエス様に喜ばれようとして生きる人は、むしろ、人を助けようとして生きて行きます。反対に、愚かな者は、人に害を及ぼすことに力を傾け、自分がその害を受けるようになります。詩篇7:14-16。おのれの作った穴に落ち込む、とは面白いことですが、神様がそうされることを忘れてはなりません。
 最近のニュースを見ても、本当にそうだなと思います。他の会社を飲み込もうとしてマネーゲームをし、それによって自分の会社を駄目にしてしまいました。無理やり輸入させようとしても、その際約束したことで輸入ストップとなりました。私たちの周りにも、穴を掘る者や石垣を崩すような姿が見られます。心痛むことです。
 ダビデの優れた所はどこにあるでしょう。ダビデは、どんなにサウル王に苦しめられても自分で復讐しない、という信念でした。神様が立てた王だから、と言ってやっつける機会があってもしませんでした。20節。この決意のために、ダビデは王となることができました。人生を生きて行くと、怨念や鬱憤を持った人々に出会います。限りある大事な人生を鬱憤晴らししながら生きようとするのでしょうか。勿体無い、残念なことです。イエス様が、人々の怨念や鬱憤をその十字架に負って下さいました。十字架に委ねて下さい。そこから解放されて生きて行くなら、甲斐ある人生を生きることができます。10節。掘ったままの穴がありますか。すぐに埋めて下さい。そうしないと、自分に返って来ます。

Ⅳ-愚か者は軽率に話すが、知恵のある人の舌は人をいやす-
 そして最後に、愚かな者の特徴は、その言葉に節操が無いことです。12-15節。箴言にはもっとはっきり書いてあります。「愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。」箴言12:16,18 。その人が、知恵ある者なのか、愚かな者なのか、その言葉を聞けば分かります。信仰が成長し、霊的に成熟した証拠は、その人の使う言葉に表れます。イザヤ50:4。
 愚かな者は、破壊的な言葉を言います。自分の怒りをすぐ現わし、ひどいことを言います。軽率に話して人を剣で刺すような言葉を言います。私たちも言ってしまったことないでしょうか。言われた傷があるのではないでしょうか。ですから、イエス様に救われた者は、神様の愛と赦しを受けた者として、知恵ある言葉を使って行くのです。御言葉に従って生きて行くのです。はずかしめを受けても黙っていることできるようになります。かえって、知恵のある人の舌は人をいやすことが出来ます。
 4節に例が出ています。愚かな上司があなたに対していきり立つことがあっても、冷静を保ちなさい、落ち着きが大きなトラブルも静めてくれる、ということです。冷静の原意には、癒すという意味があります。知恵ある者の冷静な落ち着いた態度が、怒っている相手の心を癒すと言うことです。詩篇107:20。愚かな者の理不尽な態度に会うことがあるでしょう。愚かな者の不公平な扱い、不当な仕打ちに耐えなければならないこともあるでしょう。私たちは、そんな時、赦しの思いをもって、冷静な態度で接したいのです。トラブルも静めてくれるでしょう。愚かな者の心を癒す知恵ある言葉で話したいのです。相手の心を落ち着かせ、癒してくれるでしょう。
 私たちの周りにも愚かな人がいます。愚かな者は、挫折させるような言葉を言います。平気で否定して、心を萎えさせます。イエス様は様々な人々を励まし、慰め、希望を与える言葉をかけて下さいました。イエス様の弟子となる私たちは、イエス様に倣いたいのです。人を励まし、望みを生じさせる言葉を話したいのです。人の言葉も重要ですが、神様の言葉を正しく証しする時、その御言葉を通して多くの魂が生き返るようになります。神様の栄光に帰すようにしようとするなら、どんなことをするにしても、人を助けることをして、御言葉を証ししながら、人を生かすことのできる知恵ある人となります。皆さんが、伝道者の書の勧めに従って、知恵ある神様の民となることを願います。イザヤ50:4, 詩篇107:20。

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加害者達が神の被造物で裁きの対象に過ぎないとすれば彼らは愚か者ですがしかし彼らは神を侮り聖書を嘲ります。裁きなど無いと真に思うのだろう。

その証拠に全てをその場凌ぎの縁起のみで済ませます。後は又再び同じ事を繰り返します。これは何が何でもその自分達のワンパターンの行為に真実があると信じたいようです。

これは私も過去にそう言う感じでしたので分かる気もします。他者特に教会の人が言っていることや行いなどを侮り自己の思考停止した話題などへの迎合を求め、求めるような対応を得られなければ怒り恨みます。

相手の言うことは理解できませんがその場凌ぎの事だけで接していました。そして相手を正しく理解しないで自己の価値基準や世界観に当て嵌めるだけでした。侮っていたのです。

神様を知らずに過ごした頃は文字通り確かに罪深いことをしながら自覚できず他者に対して体裁さえ繕えればいいと言う呆れた生活でした。それはある種の依存心と僻み、劣等意識や甘えなどもありました。

他者の言うことが理解できないために自分で学ぶことをせずに都合の良い世界に浸りそしてその理解できない相手を侮るという生活でした。

加害者らの性質との共通点は覚えますが、彼らはきっと多勢に無勢の理屈でおかしな事も勢力次第で通せるという考えかも知れません。そうしなければ不安だという変な性質もあるのだろうか。しかし彼らが神を全く知らない状態であることも又事実です。

そしてその愚かな民は神が造られたのです。どういった御心かは知りませんが日本人の偶像礼拝の罪を思い知らせるためであると解釈しています。

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救いについて

メッセージのサイトです。

http://homepage1.nifty.com/kameari/worship/2003/06/0608.html

「罪の結果からの救い」  ローマ5:19-21

2003/06/08 鈴木 靖尋牧師

日本は罪というよりも、恥の文化だと言われています。また、加害者というよりも、被害者意識が強いとも言われています。しかし、どういう文化であろうと、罪の問題を避けて救いを語る事は出来ません。なぜなら、日本人が意識しようと、しまいと、罪とその結果が人類全体に働いているからです。たとえば、日本人でも生まれた限りは、死はやってきます。病室には4号室というのはありません。ある病院は4階がなく、3階の次の階が5階になっていました。そんなふうにしても、死はやってくるのです。なぜなら、死はアダムが罪を犯した結果だからです。

1.罪のはじまり

 ローマ5:12「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死がはり、こうして死が全人類に広がった」と書かれています。17節にも「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようなった」、18節「こういうわけで、ちょうど1つの違反によってすべての人が罪に定められた」、19節「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた」と同じようなことが繰り返し書かれています。ひとりの人とはだれでしょうか?それは人類の先祖、最初の人、アダムであります。アダムが罪を犯したので、人類全体に罪と死が入り込んできたのです。それはまるで、放射能汚染のように、遺伝子が狂ってしまったのです。また、川の上流で、だれかが毒を入れたので、川下に住む人たち全部がその毒の被害を受けているのと同じです。戦前、群馬県の山から鉱毒が流れ、佐野市一体の住民が被害にあいました。日本はちょうど富国強兵の時代だったので、公害問題なんて眼中になかったのであります。それと同じで、今なお、罪の毒によって、アメリカ人であろうと、日本人であろうと、同じ被害にあっているのです。それでは、一番悪い、アダムのことを創世記から少しだけお話します。

 創世記2章3章をみますと、主なる神は、園の中央にいのちの木と、それから善悪の知識の木とを生えさせたと書かれています。主はアダムに「あなたは園のどの木からも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われました。『漢字に秘められた聖書物語』と言う本があります。禁止と「禁」は2本の木が上にあり、下に示すという字になっています。示すという字は「神を」を表わすそうです。だから、神がエデンの園の中央にあった二つの木に対して命令したことが連想されると解説していました。ところで、裸という字があります。アダムとエバが食べてはならない木から取って食べてしまったとき、自分たちが裸であることを知りました。裸は、衣辺に果実と書きます。二人は神に背いたために、エデンの園から追い出されることになりました。園という字の外側の囲いがなくなり、歩かされたわけです。園―口+しんにょうで、遠いという文字になります。その時から、人間は神から遠ざかったままでさまよってということです。

園の中央の木は、神の主権をあらわわしていました。その木から取って食べるということは、神の主権を犯す、自ら善悪を判断する神になるということなのです。その結果、人類に罪と死とのろいが入ることになったのです。創世記3:16以降にはいくつかの罪の結果が銘記されています。女性には産みの苦しみが与えられ、さらに夫との間に軋轢が生じるようになりました。男性は、土地がのろわれたので苦しんで食を得なければならなくなりました。労働の苦しみです。土地にはいばらとあざみが生えてしまいましたが、これは呪いを象徴しています。さらに、人は土に帰る、つまり死が入り込みました。裸は自分の恥を象徴しますが、最初はいちじくの木の葉で隠しました。しかし、神様はアダムとその妻のために、皮の衣を作って、彼らに着せてあげました。エデンの園ではじめて動物が殺され、血を流したということです。これは将来、イエス・キリストの贖いによる、義の衣を象徴しています。今も、人々は自分の恥や罪、弱さを人工的なもので覆い隠そうとしていますが、無理です。神様からいただく、救いの衣を着るしかないのです。被う(おおう)という漢字があります。被服の被ですが、これは衣辺に、皮と書きます。

2.罪の解決

 アダムが犯した罪が全人類に罪と死とのろいをもたらしてしまいました。これは、日本人であろうと、アフリカ人であろうと、ヨーロッパ人であろうと、なんら差別はありません。全人類に罪が入ったために、死が生じてしまったのです。老いも病気も死の弱いかたちと言えます。万有引力から逃れられないように、だれ一人として、アダムの罪から逃れられる人はいません。しかし、ここに最後のアダム、イエス・キリストが登場しました。彼は何をしたのでしょうか?ローマ5:15後半「もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ち溢れるのです」。17節の後半「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです」。18節後半「1つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです」。19節後半「ひとりの従順によって多くの人が義とされるのです」。これらの聖句からわかりますように、イエス・キリストによって、別の流が生じたということです。川の上流から流れてきた毒を中和する、きよい水が流れてきたらどうでしょう。死の川とは別に、恵みと命の川が流れてきたらどうするでしょうか。なぜイエス・キリストはこんなことができるのでしょうか。それは、アダムが犯した罪を、ご自分が帳消しにしたのです。どうやって?第一に、イエス様は人間の代表となり、アダムができなかった、神様への従順を全うされました。第二に、アダムから来た罪を、十字架の血潮によって帳消しにしました。第三に、十字架につけられ、自ら呪われたことによって、呪いを打ち砕きました。第四に、死んで復活して、死を滅ぼされたのです。第五に、エデンの園にまさる御国をご用意されました。御国には、アダムが食べそこなった命の木の実が用意されています。

 それでは、自動的に全人類が救われるのでしょうか。残念ながら、そうではありません。神様は信仰という手段を私たちのために残されました。救いは行ないによって勝ち取るのではなく、信仰によって受け取るものです。アダムにあるなら、罪と死とのろいがその人を支配します。しかし、キリストにあるなら赦しと命と祝福がやってきます。信仰とは「キリストにある」人生を選び取るということです。今日は、3名の男性が洗礼を受けることになりました。正直言って、これら方々は、役員会を通過していません。電話承諾という形をとらせていただきました。洗礼準備会があるんですが、完全に終わっていない方もおられます。本当に大丈夫なんでしょうか?しかし、この信仰というのは、いわく言い難いものであります。目に見えないんですから、それを受け取ると言っても…私も今だそこいらへんを説明できないところがあります。なぜなら、2000年前の出来事を私のためだと信じること自体無理です。こちらに、イエス様の十字架があり、こちらに私たちがいます。「なんで、私と関係あるの?」と当然思うかもしれません。目の前のお三方、本当に信じていますか?おそらく、この世の一般の人たちが、イエス様を信じて洗礼を受けるなどと言うと、「洗脳されているか、もしくは気がふれているんじゃないか」と馬鹿にされるでしょう。はっきり言って、この世の知恵では、神を知ることが出来ません。禁断の木の実をアダムが食べてから、私たちは霊的に死に、目に見えるものしか信じられなくなったのです。ところが、聖霊の助けによって、聖書のことやキリストによる救いが一瞬わかるときがあります。それはいつもとは限りません。神が備えられたときだけ、ドアの向こうが見えるのです。そのとき、飛び込まなければ、またふさがれてしまい、次いつ来るか分かりません。もしかしたら、死ぬ直前までないかもしれません。聖霊が臨んだときだけ、信じるという能力が与えられます。その時に、「信じます」と告白するなら、あなたは救われ、信じ続けることができるのです。信じられるのも、神からの恵みです。

 あなたが信じるときに、死の川から命の川へと移されます。呪いから祝福、罪人から義人へと立場が一変します。あなたがもっと神様にゆだね、自分の力や知恵ではなく、神様の下さる力と知恵にたよっていくならば、信仰の歩みがだんだんと確立されていきます。おなかの赤ちゃんは、お母さんの中で10ヶ月ほど生きてきました。誕生とともに、肺呼吸が始まり、自分が外から栄養を吸収して生きるようになります。私たちはそうやって生きてきました。しかし、そのままではいつか死んでしまいます。生身では天国で永遠に暮らすことはできません。そのため、神様はイエス様を信じるときに、聖霊による誕生を与えて下さいます。いつどこでそのようなことが起こるのかは、聖霊様しかわかりません。聖霊は風のように目には見えません。でも、木の葉が揺れたときに、分かります。同じように、聖霊がその人を霊的に生まれ変わらせることができます。これを新生と言います、英語ではボーン・アゲィン、再び生まれると言います。新生したあとの人は今度どのように生きるでしょうか。肺で呼吸はしますが、祈りという霊的な呼吸をします。みことばを食べ、神の家族と交わります。そして、肉体の五感だけではなく、信仰という6番目の機能を用いて生活するようになります。つまり、目には見えず、耳で聞こえない、手でも触れなくても、神様がともにおられることを認識します。そして、神様のみこころを求めながら、みことばの約束を信じて、生きるようになります。この世で生きながら、すでに、天国でも生きています。動物に、両生類というのがいます。クリスチャンは、この世で生きながら、天国でも生きているのです。肺呼吸だけではなく、霊的呼吸をしています。ハレルヤ!救いはあるのです。救いは信じた時から始まる、継続的なものなのです。この世に、神の国がすでに入り込んでいます。クリスチャンはこの世で生活しながら、神の国の住人なのです。だから、この世の法律も守りますが、神の国の法律も守ります。神の国の最大の戒めは、神を愛することと、隣人を愛することです。

3.罪からの解放

 クリスチャンはアダムの子孫から、神の子どもへと身分が変えられました。別の言い方をしますと、アダムの木から切り取られて、キリストに接ぎ木されたのです。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。「キリストのうちにあるなら」は、「キリストに接ぎ木されるなら」とも言い換えることができます。つまり、クリスチャンは神から独立した古い歩き方ではなく、キリストから神のいのちをいただく新しい生き方をする存在です。エペソ5:8「あなたがたは、以前は、暗やみでしたが、今は、キリストにあって、光となりました。光のこどもらしく歩みなさい」というみことばがあります。これは、私たちが暗やみの中にいただけではなく、闇そのものだったということです。しかし、キリストにあって、光そのものになり、光の中を歩むんだとうことです。私たちクリスチャンはすでに、罪から切り離され、罪とは関係のないキリストの中を歩む存在になりました。すべての罪はキリストの十字架で清算されました。しかし、1つだけ問題が残ります。クリスチャンも罪を犯してしまうという現実があります。罪の代価が支払われているのはすばらしいことですが、これからも罪を犯し続けるなら、淋しい気がします。私は本当に生まれ変わったのだろうか?それども、救いなどないのだろうか?迷ってしまいます。

 罪の木はとっても良くわかるたとえです。想像してください。ここに大きな罪の樹木があります。罪の樹木には、さまざまな罪が実を結んでいます。怒り、憎しみ、不品行、盗み、悪い考え、貪欲、ねたみ、高ぶり、姦淫、汚れ、好色、むさぼり、酩酊、遊興、分裂、分派、偶像礼拝…限りがありません。クリスチャンになっても、これらの罪と戦って行くのでしょうか?でも、これらの罪の実を結ぶ、根があります。これは原罪というアダム以来の罪です。これこそが、罪を生産する根本的な罪です。この根に属している限りは、生活の中でどんどん、どんどん罪が実を結んでしまいます。どうしたら良いのでしょうか。そうです。さきほど、学びましたように、クリスチャンとは、罪の木から切り取られ、キリストに接ぎ木された存在です。するとどういうことが起こるでしょう。根本的な性質がまず変わります。つまり、罪を犯すことが自然でなくなります。これまでは、罪を犯しても、全然平気だったんですが、小さな罪でも気持ち悪くなります。ああ、こんなのやめようと思うわけです。Ⅰヨハネ3:9「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです」と書いてあります。これはどういうことかと言いますと、罪を犯すことはあっても、罪を好んで犯し続けることはない。つまり、性質が変わり、罪を犯すのが普通ではなくなるということです。どうぞご安心ください。切り倒された木の枝に、アダム以来の罪の残りはまだ含まれているかもしれません。でも、罪の根っこは切り離されているので、時間の問題です。キリスト様からどんどん、神様の聖さが供給されますから、質的にもだんだん変えられて行きます。

 2000年からゴスペルが始まり、25名以上の方々がゴスペルから救われました。その中で一番古い人でも、3年未満だと思います。2年、1年前という人がざらにいると思います。きょう、どのくらい来られていますか?ゴスペル関係で救われた方、挙手をお願いします。はい。その方々に質問をいたします。洗礼を受けてから、罪から少しずつ解放され、質的にも変えられつつあると思っているお方は、また、挙手をお願いします。アーメン。このことからも分かりますように、救われたら、神のいのちが入るので、栄光から栄光へと変えられて行くということです。しかし、そのために大切な条件があります。それは罪を悔改めるという作業です。罪を悔改める作業こそが、切り取られた枝に染み込んでいた、アダム以来の罪を取り除くために重要なのです。もう、根っこからは移され、キリストに接ぎ木されました。でも、枝の中にまだ残留していた罪があるのです。クリスチャンはその罪からきよめられ、解放される必要があります。ではどうしたらよいか。私たちは罪の中にいた記憶があるので、無意識のうちに罪を犯します。つい怒ったり、つい悪い言葉を吐いたり、つい汚れた思いを抱くのです。大切なのは、罪を犯しても神の子の身分はなくさないということです。罪を犯したから、もう親でも子でもないということはありません。罪を犯してなくすのは、神様との親しい交わりです。だから、もし罪を犯してしまった時には、告白して、悔改めるのです。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」。悔改めるとどうなるか、罪はもちろん赦されますが、悪から、つまり罪の性質からもきよめられていくのです。つまり、だんだん罪を犯さなくなり、新しい性質がその人を支配していくということです。

クリスチャンになるときの悔改めは、端的に言いますと、方向転換でした。神に背いて自己中心的な歩みをしていたわけです。しかし、福音を聞いて、方向転換して、信じますと告白しました。クリスチャンになるために、これまで犯した罪を洗いざらい告白しなさいとは言いません。救いは、無条件であり行ないではありません。ですから、罪の悔改めも救いの条件ではありません。信じるだけで良いのです。狭い箱の中に入って、これまで犯したすべての罪を懺悔しなさいということは申しません。でも、矛盾しているようですが、クリスチャンになってから、熱心に罪を悔改めてください。それまでは、霊的に死んでいたので、何が罪か、何が罪でないかさっぱりわかりませんでした。釘を踏んで血を流しているのに、ちっとも痛みを感じていなかった。しかし、霊的に生まれ、ああ、あの罪、この罪と感覚が与えられます。あるいは、サタンから訴えられている罪があるかもしれません。私は洗礼を受ける前に、これまでの罪をレポート用紙に思い出す限り書きました。すると、レポート用紙3枚になりました。行商屋さんのリヤカーからソーセージを盗んだこと、嘘、不品行…いろいろ。ぜひ、みなさん。サタンから訴えられているなーという過去の罪、自分自身が赦していない罪、罪責感にとらわれているなら、イエス様の前に告白して下さい。どうしても、というなら牧師や兄弟姉妹の前に告白して、祈ってもらってください。習慣的な罪は、告白して他の兄弟姉妹から祈ってもらうと効き目があるからです。どうしても直らない悪い癖は、十字架につけましょう。十字架は悪い性質を打ち砕く力があります。そして、その場所に、新しい命をいただきましょう。十字架と復活を魂の中にも適用しましょう。そうしますと、罪から解放され、きよめられていく度合いが高くなります。

 きょうは罪に関して学びました。最後にすばらしいニュースを申し上げて終わります。イエス様は十字架で死んでくださりよみがえりました。そして、今どこにいらっしゃるでしょうか。今、天の父の御前で私たちのために弁護しておられます。さらに、もう1つあります。私たちが罪に打ち勝ち、聖い生活を送ることができるように、私たちの内に聖霊を送って下さっているのです。聖霊はイエス様と同じ、助け主であり、世の終わりまでも、いつも共にいて下さるのです。

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加害者らのようなケースはと、つい苦悩するが。

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義なる神

http://homepage3.nifty.com/shirakawa-eikou/message/2003year/0406.htm

失望せずに常に祈れ(ルカ 第18章 1~8節)

2003年4月6日礼拝にて

トラブルで悩むやもめは執拗に裁判官に訴えますが、不義な裁判官はまるで相手にしません。世の終わりが近つ゛くにつれ、人々はますます傍若無人に振舞うようになります(マタイ 24・3~14)。世の終わりの近い今、理不尽なことが少なくありません。そのような現実に直面したり、祈り続けても答えられなかったりすると、「祈っても祈らなくても同じだ。なるようにしかならない」と思いがちです。そして祈らなくなると、世に飲み込まれてしまいます。

「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」とイエスが言われたとおりです。世との戦いに勝利し、再臨の主の前に恐れなく立つためにも、「失望せずに常に祈る」ことが不可欠です。神を畏れない人々に囲まれて生活しているからこそ、神に「日夜叫び求める」祈りなしにはやっていけません。

  不義な裁判官ですら、やもめの執拗な願いを遂に聞き入れました。ましてや義なる神が神の子たちの叫びをお聞き入れないことがあるでしょうか。「正しい裁きをするかたに、いっさいをゆだねておられた」イエスの「模範」(書き方練習帳の意)に倣い(Ⅰペテロ 2・21~24)、神に祈り委ねながら、苦難を耐え忍びましょう。神は必ず正しくさばき、勝利をとって下さいます。

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不正な裁判官ですらついには訴えに負けて対応するのであるので、義なる神様が正しい裁きをしないはずもないと言う意味らしいですが妙な譬えが出てくるのですね。

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神を避け所にする

http://homepage3.nifty.com/shirakawa-eikou/message/2003year/0504.htm

人生の避け所なる神(詩篇 第46篇 1~11節)

2003年5月4日礼拝にて

①天地創造の神

聖書は開口一番、「はじめに神は天と地とを創造された」と宣言します(創世記 1・1)。永遠の初めからおられる

唯一の神が天地万物を創造し、今も保持しておられます。私たち人間もそうです。「神を恐れ、その命令を守れ。

これはすべての人の本分である」(伝道の書 12・13)。神を信じ、神の命令に従って生きることこそ、神に造られた人間の本分です。この本分が忘れられているところに、生きがいがない、人生の意味が分からない等の根本.原因があります。

  ②愛なる神

おまけの一羽のすずめさえも忘れず、顧みておられる神がすずめよりはるかに優れた人間を顧みて下さらないことがあるでしょうか。(ルカ 12・6~7、マタイ 10・29)。人々は神の愛を無視して自分勝手に歩んでいます。

この神に対する不信仰こそ「罪」の根源、祝福を奪い去る元凶です。しかし、全人類の罪の身代わりとして十字架上で死なれたキリストを信じるならば、すべての罪が赦され、神と共なる人生が始まります。試練や戦いに直面して

も、恐れる必要はありません(2~3節)。「神はわれらの避け所また力・・・悩める時のいと近き助け」となり、必ず勝利させて下さるからです(1・8~9節)。
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今も苦しいのですがもしも聖書を読まずにいたらどうであったかと思うともっと酷い状態になっていたかも知れません。加害者らは奇妙で不可解なほどに粘着を激しくし虐待し無意味な嘲弄を続けますがそれも不可解なほどのしつこさです。

これは確かにもの凄い苦痛ですが自己の罪認識や神の摂理や恵みやみことばの意味合いが分かったというのは御恩寵かも知れません。

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神の愛

http://homepage3.nifty.com/shirakawa-eikou/message/2003year/0427.htm

さわやかに生きよう(イザヤ書 第43章 4節)

2003年4月27日礼拝にて

人は共にいてくれる存在を求めています。「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13・5) 

と言われるイエスを信じ、イエスと共に歩む人生ほど幸いなことはありません。

さわやかさを失わせる原因の一つに、機能主義的な考え方があります。できない人は簡単に切り捨てられてしまう社会にあって、自分の存在そのものをどのように捉えるかで人生は大きく左右されます。自分の存在価値を低く見積もり、自信を失っていませんか。しかし神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(新改訳)と言われます。

これは、何ができてもできなくても、私たちの存在そのものに価値を認めた言葉です。神は毎日、「あなたの存在おめでとう」と呼びかけて下さいます。

  それは、私たちのために莫大な犠牲が払われたからです。神に背を向けた人生は、やがて永遠の滅びを刈り取り

ます。本来、私たちが受けるべき罰を、神の御子イエスが十字架上で代わって受けて下さいました。神の前に「損在」でしかないような者を「尊在}と認め、御子を十字架の死に渡して下さいました。この神の無条件の愛が私たちに注が

れています。この愛に感謝し、信頼するならば、失望に終わることはないのです。(ロ-マ 5・1~5)

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今はきっと「自虐性を強制するような集団」のために変な世界になっているのかも知れません、見えづらいルールで人を縛り上げ差別意識を蔓延化させています。

最悪のことに何と監視行為を利用しつつ人を辱め絶望に陥らせています。そして「何という恥ずかしい人間か」というような自己像を植え付けて殺します。(身心を)

私はそうでしたが聖書にはその点極めて奇妙なことが書かれ又世に置いて苦しめられた価値基準と違うことが書かれているため聖書というのは世では迫害を受けやすいのだと思います。

ねじ曲げられていたり都合よく利用されたりねつ造されたり改竄されたりと言うことがあるようです。

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神の助け

http://homepage3.nifty.com/shirakawa-eikou/message/2003year/0525.htm

恐れてはならない(イザヤ書 第41章 8~16節)

2003年5月25日礼拝にて

①神の選びゆえに恐れるな(8~9節)

アブラハムに選ばれた神は、アブラハムが罪を犯しても捨てませんでした。この神が「天地を造られる前から、キリスト

にあってわたしたちを選び」(エペソ 1・4、ヨハネ 15・16)、十字架の血潮によって罪と滅びから救い出し、「高価で尊い」

「宝の民」として下さったのです(43・1、4、申命記 7・4)。そのような私たちを、神はどうして見捨てたりなさるでしょうか。

最後の一息まで導き続けて下さいます。

  ②神の臨在のゆえに恐れるな(10a節)

人生には、「水の中・・・川の中・・・火の中」を行くような試練に会うことがあります(43・2~3)。しかしそのような試練の

真っ只中でも、「決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われる神は(ヘブル 13・5~6)、「世の終わりまで、いつ

も」共にいて下さいます(マタイ 28・20)。いざという時、真に頼りとなるのはこの臨在の神のみです。

  ③神の助けのゆえに恐れるな(10c節)

私たちを「強くし」て下さる神により頼むならば、人間的に到底不可能と思えることでも可能となります(ピリピ 4・13)

試練の中でも私たちを「助け」(詩篇 46・1)、紅海の水をせき止めた「勝利の右の手をもって・・・ささえ」てくださいます。

(出エジプト記 15・6~12、申命記 33・27)。
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まだ死なないで生かされているのであれば目的意識を持つ事が大切でしょうか。

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主を待ち望む

http://homepage3.nifty.com/shirakawa-eikou/message/2003year/0101.htm

主を待ち望む(イザヤ書 第40章 27~31節)

2004年01月01日礼拝にて

バビロンの脅威を前に、イスラエルは主への不信仰、愚痴で一杯になっていました。それは主がいかなるお方かを忘

れていたからです(27~29節)。

 今年、「わが道は主に隠れている」と言いたくなるような試練に襲われることや、「わが訴えはわが神に顧みられない」

という、いくら祈っても聞かれないことがあるかもしれません。しかし主は、どんなに時代が変わろうとも絶対に変わること

のない「とこしえの神」であり、天地万物を創造し、さらに御子を信じる者を新創造する「地の果の創造者」です(Ⅱコリント

5・17、新聖歌21番4節)。また、「弱ることなく、また疲れることなく」全能の御手をもって支え続け(申命記 33・27)、「その

知恵ははばかりがたい」全知による最高最善のご計画を用意し、遂行されるお方です(エレミヤ 29・11)。

  この偉大な主を人生の味方とする秘訣は、「主を待ち望む」ことです。「主を待ち望む」とは、まず何よりも人間的な知

恵や手段により頼むことを一切放棄して、祈りのうちに御言葉を待ち望み、語りかけられた御言葉を信じて立ち上がり、

主と御言葉にのみより頼み、期待し、行動することです。そうするならば、いかなる逆境にあっても「新たなる力を得・・・

疲れることなく・・・弱ることはない」力強い人生を歩むことができます。
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祈りのうちにみことばを待ち望みですか、難しいですね。生存権を一秒すらも与えられないからです。と言うのは人権蹂躙ですが生きる状態が地獄と言っても良いような苦渋状態を起きている間中味わっているからです。しかしその様な方は多いのでしょうか。

加害者のことを不可解だと嘆くよりは神が全てのことを支配しておられますので神のみことばに聞き祈り求める方が良いです、加害者は空っぽなのだろう。空っぽの虐待衝動の餌食なのだろう。おぞましいことですがどうにもなりません。

空っぽ人種でしかないのであれば気に病むことは無意味ですね。(悪魔の性質として「空っぽ」「暗さ」「否定的」があるそうですが正しくその通りですね。)

そうでしたらばやはり生かされていることを何科の意味合いと捕らえて前向きに祈り求め、何をすればいいかを聞くことが最善かも知れません。

悪魔の支持者は所詮は死ぬ(滅びに向かっている)のみです、彼らは実に虚しい人生だがこの世では繁栄して見えるため騙されるのです。

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神の平安

神の平安

メッセージのサイトです。

http://www.eonet.ne.jp/~church/youyaku/1997-02-16.html

御言葉に聞く

「思い煩いからの解放」

「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」ピリピ人への手紙4章4節~7節

私たちは、本当に様々な思い煩いの中に生きています。その中に居続けるならば、私たちは決して喜びに溢れた生き方などできません。むしろそこからは苛立ちや諦め、そしてついには絶望にまでいたることだってあるのです。
 そのような思い煩いに生きている私たちに対して、聖書が語る言葉は「思い煩うな」ということです。主イエスは何度も言葉を重ねて「思い煩うな」と言われました(マタイによる福音書6章25節以下)。パウロもまた私たちに「何事も思い煩ってはならない」と語るのです。
 思い煩いの中にとらわれている私たちにとって、これらの聖書の御言葉にすぐに「ハイ!」と言って従うことのできない事柄かも知れません。次から次に思い煩わなければならないことが押し寄せてくる。「思い煩うな」と言われても、どんどん自分では処理できないほどに私たちには思い煩いが襲ってくるのです。
 パウロが「思い煩ってはならない」と語る根拠、それは何でしょうか。それは何よりも「主にある」ということです。あなたがたは主に捉えられ、愛され、すべてを導かれているではないか。ちっぽけな私たちであるけれども、そのすべてを主が支配していて下さっているではないか...。だからすべてを委ねたらいいんだよ...。そう言おうとしているのではないでしょうか。
 「ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」と言われています。祈りと願いを神さまにささげるがよい。すべての事を神さまに伝え、聞いていただいたら良いではないか。神さまは必ずその言葉を聞いて下さるのだ。そして必ず、私たちの想像を遥かに越える方法によって、神さまが思い煩いの中に生きる私たちに良き道を備えて下さるはずだとパウロは語っているのです。その言葉に生きる時、神さまは私たちを思い煩いから解放してくれるのではないでしょうか。
 パウロは、思い煩いからの解放が「人知では計り知れない平安が私たちをつつむ」と言います。神によって私たちは何物にも代え難い平安を約束されているのです。神から与えられている恵みを忘れて、思い煩いの中を漂っている私たちを平安へと確かな手で導いていって下さるのです。

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思い煩う事からの解放、と言うよりも、思い煩う事は止めるようになりましたが(祈りにより頼む)ただ加害者が非言語的なハイテク虐待をするようになりそれも意識への介入による恥辱心与え攻撃を執拗にするためしんどい状態です。

神は何時まで何故にこういう目に遭わせ続けるのだろうかと祈り求めていますが答えは今のところ過去の罪の重さくらいでしょうか、それと聖書のみことばと合致するような心理状態に置かれていることを知るほどです。もしかするとそれが神からの恩寵かも知れませんが。

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詩篇:第一巻 1
25)わが魂はちりについています。み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。

↑上のみことばが丁度当て嵌まりそうです。魂の死滅状況かも知れません。祈り求める気力や意欲もないからです。加害者が下劣すぎるのと、その行為に何時まで耐えさせられるのかと言う思いからかも知れません。

加害者の音声は「うふ?」でしたが。祈る気力はなくなりますね。正直。これも神様の御心だろうか。

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http://www.kinpouden.com/oeiko/devotion/200501.htm

2005年1月10日(月)

聖書の箇所:詩篇119篇 25~32節/ 年間通読:創世記32~35章

「魂がちりにつく」とは、悲しみと逆境の中で、心が打ちひしがれて、全く生きる力もなくなってしまった状態である。
ダビデもサウルから逃げて、敵のペリシテの町チクラグにいた時、民と自分の妻子がアマレクの捕虜になり、民が心を痛め、ダビデを石で撃とうとした時、「神によって自分を力づけた」とある(サムエル記上30:6)。
そのように、神が、即ち、神の御言葉こそがわたくしたちを生かし、勇気づけて下さるのである。

“主よ、あなたの御言葉によって打ちひしがれた時、このわたくしを生き返らせて下さい。アーメン”

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みことばによるショートメッセージのサイトがありました。

http://mikotoba.jugem.jp/?month=200708

神の慰めを体験する方法5

「わが魂はちりについています。み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。」詩篇119:25

神様は霊ですから、手で触ったり、目で見たりすることはできません。ではどのようにして神様は私達に出会って下さるのでしょうか?それは「言葉」によってです。聖書の言葉を用いて神様は私達に出会い、私達の心に触れ、慰めを与えて下さいます。神様を求めて聖書の言葉に静聴しましょう。

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