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2008年3月

箴言より

http://sugano.web.infoseek.co.jp/sei/yoko/singen-0.htm

箴言22章
5よこしまな者の道にはいばらとわながあり、
 たましいを守る者は遠くこれを離れる。

箴言24章
12あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、
 心をはかられる者はそれを悟らないであろうか。
 あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。
 彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか。

(つまりこれは集スト現象にも通じますね。)

15悪しき者がするように、
 正しい者の家をうかがってはならない。
 その住む所に乱暴をしてはならない。

(覗きや虐待への戒めです。)

16正しい者は七たび倒れても、また起きあがる、
 しかし、悪しき者は災によって滅びる。

(今高ぶる者共にもわざわいが忍び寄るのでしょう)

20悪しき者には後の良い報いはない、
 よこしまな者のともしびは消される。

21わが子よ、主と王とを恐れよ、
 そのいずれにも不従順であってはならない。

22その災はたちまち起こるからである。
 この二つの者からくる滅びをだれが知り得ようか。

(人間には知り得ないことが起きるのでしょうか)Bafe31a0

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写真は道端で見た大根花8c6c1c7a

と、最近写した空(暗い写真ですね)

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地獄について

『 地獄 』で検索した結果です。  検索結果は 15 件です。

22)しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

29)もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。

30)もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。

28)また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

9)もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。

15)偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

33)へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。

43)もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。

44)〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

45)もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。

46)〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

47)もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。

48)地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。

5)恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。

6)舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。
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聖書では「地獄」について複数の表現で記述しているようです。(「陰府」とか「地の底知れぬ所」など)

「地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。」と言う記述を、マルコの福音書内で3回も繰り返されています。これを持ち地獄を如何に恐れねばいけないと言うことが書かれているのか分かります。罪を犯すくらいならばかたわになる方がマシであるといいたげです。(表現が悪いですが)Ad8c2303

写真は増えたプリムラ

(家族が買ってきた時には花が写真の半分以下でした。とてもよく数が増えました。

とてもきれいです、神の恵みだと思います。ついでに言うと他の鉢のパンジーもよく増えて生え茂っています。今までに見たこともないような増え方でした。)

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虐待拷問について

へブル人への手紙11章

26)キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。

28)信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。

29)信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。

30)信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。

31)信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。

32)このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。

33)彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、







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聖書にはかなり怖いことが書かれています。

キリストの栄光に預かるために著しい虐待を忍んだというのです。

確かにすごい話ですが今の時代はそう言う心配のない時代だというメッセージも見ました。

しかし今時分為されている犯罪者組織からの拷問虐待行為は荒唐無稽で気味が悪いほどです。このために自殺者が出ているようです。犯罪事件を起こす者もいるようです。

何故かその組織に傅いていなければ普通に生活も出来ないという憂き目に遭い個々の立場、状況などでいたく差別されたり理不尽な目にあったりするようです。

差別社会になっていると言うことでしょうか。
私も明らかに地域加害者より慰み者にされています。嫌になるが加害者の現実の方が強いようです。

しかし聖書には確かにこうあります。神はその愛する子を懲らすと。それがない場合は私生児だとまで書かれています。みことばは時代によって解釈が変わるわけではなくきちんと成就するようになっているのかも知れません。

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19)すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
コリント第一11章
(地獄ではうじと焼かれる火に永遠に見舞われると書かれています。悪人共は信じませんが)
8)だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
(聖書にはすごいことが書かれていますね。)
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(正直の所笑ってしまいます。不遜な意味ではないですが今の暴虐が神の計画されたとは言えシュール性のある代物に思えるからです。)







(加害者共は何故か「真面目ぶるんじゃないよ」といいたげの嘲弄が激しいですので苦痛ですね)


(これはある意味世の命を重んじる余りに悪に魂を売り渡そうとする者への戒めと取れます)

(それはとても厳しい話ですね)












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イエスキリストの弟子達も救い主の処刑に及び恐れて「無関係です」と言い張った。或いは売り渡したのですよね、
考えるとこれも集ストの心理構造と同じですね。
「仲間だなどと言えば自分も酷い目に遭う」という心理です。
イエスキリスト御自身も何と集スト被害者と同様の苦痛(つまり近親者の裏切り)を味わいました。今気が付きましたが。そして罪人たちと共に十字架の辱めと苦痛を味わったのです。
それも処刑役の人より嘲りまで受けたそうですね。
それは大変なことですよね。

聖書では「神はその愛する子に鞭を加えられる」と書かれています。
「誰で儲ける懲らしめがなければそれは私生児である」とも書かれています。
だから今時分虐げに遭う人間は神に選ばれた救われるべき人間であるのかも知れません。
聖書の神様はご自分が鞭打たれて苦しまれたためにその愛する子にも同じようにしご自分の清さに預からせるのだと思います。
聖書にはその様にも書かれています。私見ですが。
そう考えると聖書には深いヒントは多く隠されていると思います。

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エレミヤ書より

エレミヤ書50章
























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私はどうも、聖書をどうしても都合よく解釈してしまいますがしかし今現在起こっている出来事も聖書になぞらえて考えねばどうにもなりません。

加害者らは明らかに神への高ぶりを露呈しています。

おまけに他者を言われもなく見世物扱いにして高ぶっています。

こういう奴等には相応の報いが下ればいいと思います。どう考えても。

人間の手には負えないために神に聞くしかないです。

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(掲示板への書き込みです)

伝道の書12章
13)事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
14)神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。
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本分とは本来負うべき義務のことだそうです。
人間は神に従わないことで既に罪とされます。
しかも隠れたことを善悪共に裁かれる方がいるとすれば
悔い改める方が良いに決まっています。

加害者らは聖書のみことばを全力で嘲る。何故かも言わずに。
ただ「力がある」「特別な技術がある」「隠れているし擁護されている」などのことで愚かしく高ぶるのだろう。
加害者らが前述のみことばの如しに「晒し者になるとき」を待ち望みたく思います。
そう言う風に言いたくなるマジで。
あの立派なチキン共ならさぞかしや面白い見世物になるであろう。うひひ。
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加害者らの悪質さに切れているために此方も凶悪化しています。
加害者らが忌まわしいです。4e25105a

写真はレンギョウの花

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「この世」についてのみことば

みことばの検索サイトで「この世」で検索しました。
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マタイによる福音書:第4章
8)次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて

32)また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。


7)この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。

30)これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。

8)ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。

34)イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、

16)神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

17)神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

19)そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。

33)神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。

23)イエスは彼らに言われた、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。

5)わたしは、この世にいる間は、世の光である」。

39)そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。

9)イエスは答えられた、「一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。 1

27)マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。 1

25)自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。

31)今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。

46)わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。

47)たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。

1)過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。

17)それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

30)わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。

18)もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。

19)もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

11)さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。

20)よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。

21)女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。

28)わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。

33)これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

9)わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです。

11)わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。

25)正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。

20)イエスは答えられた、「わたしはこの世に対して公然と語ってきた。すべてのユダヤ人が集まる会堂や宮で、いつも教えていた。何事も隠れて語ったことはない。

36)イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。

37)そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」

24)この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。

31)神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。

6)断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。

12)このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

2)あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

20)知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。

21)この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

27)それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、

28)有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無に等しい者を、あえて選ばれたのである。

6)しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。

8)この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者はひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主が十字架につけはしなかったであろう。

12)ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜った恵みを悟るためである。

18)だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。

19)なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕らえる」と書いてあり、

13)ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。

10)それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。

3)あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。

4)それだのに、この世の事件が起こると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。

31)世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。

33)結婚している男子はこの世のことに心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとして、その心が分かれるのである。

34)未婚の婦人とおとめとは、主のことに心をくばって、身も魂もきよくなろうとするが、結婚した婦人はこの世のことに心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとする。

32)しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。

19)もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在である。

12)さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇であって、良心のあかしするところである。

4)彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。

10)神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。

3)それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。

14)しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

21)彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

2)かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。

12)またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。

23)わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。

15)それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。

26)その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。

20)もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、

15)「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。

7)わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。

17)この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、


12)そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、

11)しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、

5)それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。

3)信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

38)(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。

5)愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。

11)愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。

20)彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。

17)わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。

15)第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。

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聖書は「この世」についてはっきりとある概念を語っていますね。

つまりこの世に固執するような価値観だと神を信じなくなり結果悪に加担するしかなくなるのかも知れません。或いは自殺など。神様から見ると「神を否定すること」も悪だと思います。

F3c5da11 

写真は近所の椿の木

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エレミヤの部屋より

「終末の預言」よりコピペです。部分的に引用します。
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NO. 588成就するダニエルの像に関する預言

鉄、粘土は、7つの頭と10本の角を持つ終末の獣の国アメリカです。
そして、この国がその日、主の再臨の日に、砕け、あとかたもなくなることが書かれています。
そして、その像を打った石すなわち、キリストが全土に満ちることが書かれています。
ここで、言わんとしていることは、要するにこの世の国の支配が終わり、
キリスト統治の時代に移るということです。

ですから、私達は、キリストの再臨またそれにより、起こるキリストの統治、治める国ということを
そろそろ真面目に視野に入れて、予定に入れて行動しなければなりません。

キリストの再臨、統治なんていうと、おとぎ話の類い、非現実なSF小説みたいに考えている
人もいるかもしれませんが、もうそういうのんきなことをいっている時代ではないのです。

長く続いた江戸時代が終わる頃には、もう次の時代の事を考えなければなりません。
何故なら、もう長い間続いた武士の時代は終わり、次の時代、明治の時代に入ろうとしているからです。
いつまでも刀を持つことにこだわったり、武士だ、町人だと言っている人は
次の時代についていけません。

同じ意味合いで、我々は、ダニエルの預言した像の足の時代に今います。この後起きることは、この像が
破壊され、その後、石が地に満ちることなのです。そうです、我々はかつて、江戸時代の
終わりにいた人々がしばらくして、全く違う時代、文明開化の明治の時代に突入したように、
まったく違う時代、キリストの統治の時代に入ろうとしているのです。その
備えをなすべきです。

ーーーーーーーーーーー
像を打った石とは、別名再臨のキリストのことです。
ですから、キリストの再臨とは今世界をおおう悪、アメリカやら、それを操る偽ユダヤの
横暴に対する報復、仕返し、リベンジという意味合いがあります。
彼らの国は滅ぼされ、後にはゲヘナの火が待ち受けています。

石が大きな山となって全土に満ちるとは、キリストの支配が全土に及ぶということです。
キリストが地を支配する、再臨するなんて、あまり現実感のない人々がおりますが、現実のこととして
計算に入れるべきです。
バビロン、メデイアペルシャ、ギリシャ、アメリカに至る世界帝国は現実の存在、歴史的な
存在です。それなら、それと併記して書かれている、この全土に満ちる石、キリストの支配も
夢物語なのではなく、現実のことなのです。

そうもうこの世のことに拘泥したり、つきまとわれている場合ではないのです。
かつて、あまりにも自分達の町のことがらに巻き込まれたソドム、ゴモラの町の
人々は町といっしょに滅んでしまいました。
この世のことがらに巻き込まれ過ぎてはいけないのです。

ーーーーーーーーーー
聖書は終末のしるしてとして、獣の国の出現に関して語り、それは何と私達の目の
前にすでに出現しているのです。
このことを正しく正しくとらえましょう。
もう終わりの時代はすでに始まっているのです。

終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/
(全文はサイト内の「今週のメッセージ」を見てください)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
(被害者が救われる鍵)

石が大きな山となって全土に満ちるとは、キリストの支配が全土に及ぶということです。
キリストが地を支配する、再臨するなんて、あまり現実感のない人々がおりますが、現実のこととして
計算に入れるべきです。
バビロン、メデイアペルシャ、ギリシャ、アメリカに至る世界帝国は現実の存在、歴史的な
存在です。それなら、それと併記して書かれている、この全土に満ちる石、キリストの支配も
夢物語なのではなく、現実のことなのです。

そうもうこの世のことに拘泥したり、つきまとわれている場合ではないのです。
かつて、あまりにも自分達の町のことがらに巻き込まれたソドム、ゴモラの町の
人々は町といっしょに滅んでしまいました。
この世のことがらに巻き込まれ過ぎてはいけないのです。
ーーーーーーーーー
この世は狂乱に満ちている状態ですね。
しかしそれも悪魔の策略かも知れません。
クリスチャンはこの世に固執しないという教えを聖書に頂いています。
と言う自分は巻き込まれすぎていますが。
この世を如何にも絶望状態に見せかけて神など居ないと思わせ、悪への加担や迎合を正しい道だと思わせます。
或いは自殺などに追い込みます。
しかし聖書でははっきりと「この世に調子を合わせてはいけません。」と書かれています。
寧ろ神の御心にかなう生き方をするように戒めています。
そうしたいと願っても加害者達の執拗さに負けて悪態を吐き散らしていました。ある種の絶望がそうさせるのかも知れません。
加害者達は心理工作で如何にも被害者が卑しさの固まりであるとし聖書を学ぶ気力をそがれるようにも工作するようですね。
しかし地獄行きになりたくなければ加害者への諂いは死を招くだけです。祈りたく思います。

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ローマ人への手紙12章
2)あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

コリント人への手紙第一7章

29)兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、

30)泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、

ーーーーーーーーーー
このみことばはこの世的な価値観からの解放があると思います。
しかし加害者らは望まぬ世界観を擦り付けに執拗に粘着し
切れさせて信仰の躓きを起こさせるようです。厄介な敵です。Cc306bd6
写真は近所の空

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箴言より

箴言14章

27)主を恐れることは命の泉である、人を死のわなからのがれさせる。

(死の罠とは何でしょうか、罪への無自覚でしょうか)

(確かに悟れる方が思考停止になるよりは良いです。報復は創価じみた組織の価値基準の餌食になりやすいかも知れません。)

(穏やかになりきれないことで満たされているために困りますが。)

箴言15章

3)主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。

(そうですかそれは有り難いことです)

4)優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。

(優しい言葉で生活したいが難しい状況です。努力したいですが)

10)道を捨てる者には、きびしい懲らしめがあり、戒めを憎む者は死に至る。

(今の時代はそう言う者が増えているようですね、自分もそうだったがその時まだ信仰の目は開かれて無かったです)

(宴会は持ち得ますがしかし加害者が五月蠅いのです、むかつく奴等です)

16章

3)あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。

(為すべき事があればそれが知りたいが疲弊が酷くて生きているのが正しいかどうかと思う事態です)

4)主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られた。

(悪人が神からのものですか。しかし彼奴らをどうしろと言うのでしょうかね。)

33)人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。

(くじ引きとは「人生の選択」かも知れませんね)

箴言17章

1)平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。

(平和であればたといパンの耳だけの食事でも良いがご馳走が溢れていても陰惨では・・・うちがそうかも知れませんが)

3)銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である。

(人の心は恐らくは今時分の状況にて試されている)

5)貧しい者をあざける者はその造り主を侮る、人の災を喜ぶ者は罰を免れない。

(大いに嘲りを毎日受けとります。災いもきっと嬉しいことだろう。加害者はアホですね)

(背いてきたのは正しく今の日本人だ、残忍すぎるような加害者らは在日創価かも知れない)

2)愚かな者が愚かな事をするのに会うよりは、子をとられた雌ぐまに会うほうがよい。

(そうですね腐れ加害者共との遭遇よりは良いです。あれらは気分悪くなり鬱になりますね)

18章

4)人の口の言葉は深い水のようだ、知恵の泉は、わいて流れる川である。

(知恵の書は聖書ですね)

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写真は近所の雑草(仏の座)





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箴言より

第13章



1)知恵ある子は父の教訓をきく、あざける者は、懲らしめをきかない。

(加害者らの滑らかさは如何に?)


2)善良な人はその口の実によって、幸福を得る、不信実な者の願いは、暴虐である。

(ええそうですね。初めから虐げによる騒乱を希望しています)


3)口を守る者はその命を守る、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。

(口の罪についての戒めは多いのですが私は悪い無駄口が多いために苦しめられるのか)


4)なまけ者の心は、願い求めても、何も得ない、しかし勤め働く者の心は豊かに満たされる。


5)正しい人は偽りを憎む、しかし悪しき人は恥ずべく、忌まわしくふるまう。

(確かに加害者らの動き方、振る舞いなどは忌まわしさの極みですね)


6)正義は道をまっすぐ歩む者を守り、罪は悪しき者を倒す。


7)富んでいると偽って、何も持たない者がいる、貧しいと偽って、多くの富を持つ者がいる。


8)人の富はその命をあがなう、しかし貧しい者にはあがなうべき富がない。


9)正しい者の光は輝き、悪しき者のともしびは消される。


10)高ぶりはただ争いを生じる、勧告をきく者は知恵がある。

(加害者らの異常粘着への対処法が分からずに苦しんでいます)


11)急いで得た富は減る、少しずつたくわえる者はそれを増すことができる。


12)望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ。


13)み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。


14)知恵ある人の教は命の泉である、これによって死のわなをのがれることができる。


15)善良な賢い者は恵みを得る、しかし、不信実な者の道は滅びである。


16)おおよそ、さとき者は知識によって事をおこない、愚かな者は自分の愚を見せびらかす。

(加害者らは人の反応を引き起こすために愚行をしてみせるがしかしそれへの報いは当人へ返る。)


17)悪しき使者は人を災におとしいれる、しかし忠実な使者は人を救う。

(この犯罪自体には幼少時より遭っていました。村社会的差別虐めがあったのです。宿命でしょうか)


18)貧乏と、はずかしめとは教訓を捨てる者に来る、しかし戒めを守る者は尊ばれる。


19)願いがかなえば、心は楽しい、愚かな者は悪を捨てることをきらう。


20)知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害をうける。


21)災は罪びとを追い、正しい者は良い報いを受ける。


22)善良な人はその嗣業を子孫にのこす、しかし罪びとの富は/正しい人のためにたくわえられる。


23)貧しい人の新田は多くの食糧を産する、しかし不正によれば押し流される。


24)むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。

(私の母も、懲らしめ無しで過保護で腐らせ、真の救いは与えないのですね。聖書により救われました。聖書がなければどうなっていたのか。破滅です。廃人です。)


25)正しい者は食べてその食欲を満たす、しかし悪しき者の腹は満たされない。

(「千と千尋の神隠し」という映画に出て来た「かおなし」というキャラクターのようですね。私も摂食障害の「食べ吐き」をしていた頃、満たされる事はなかったのです)



第14章



1)知恵はその家を建て、愚かさは自分の手でそれをこわす。


2)まっすぐに歩む者は主を恐れる、曲って歩む者は主を侮る。

(侮っていますね確かに。)


3)愚かな者の言葉は自分の背にむちを当てる、知恵ある者のくちびるはその身を守る。

(私も悪態が酷いために酷い目に遭っているのかも知れません。)


4)牛がなければ穀物はない、牛の力によって農作物は多くなる。


5)真実な証人はうそをいわない、偽りの証人はうそをつく。


6)あざける者は知恵を求めても得られない、さとき者は知識を得ることがたやすい。

(加害者らは毎日毎日嘲り続けていますが恐るべしワンパターン行為しかしませんね、思考停止しているのか)


7)愚かな者の前を離れ去れ、そこには知識の言葉がないからである。

(見えない場所よりハイテク犯罪者の粘着はどうした代物か)


8)さとき者の知恵は自分の道をわきまえることにあり、愚かな者の愚かは、欺くことにある。

(人を騙して自己利益に繋げるとか言う意味でしょうか)


9)神は悪しき者をあざけられる、正しい者は、その恵みを受ける。

(神の嘲りとは恐ろしい物ですね。加害者らは「見えないところから」嘲りますがそれも神の監視下でしょう)


10)心の苦しみは心みずからが知る、その喜びには他人はあずからない。


11)悪しき者の家は滅ぼされ、正しい者の幕屋は栄える。


12)人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。

(そう言う人には何言っても無駄だろうか。私も長年愚かだったが)


13)笑う時にも心に悲しみがあり、喜びのはてに憂いがある。


14)心のもとれる者はそのしわざの実を刈り取り、善良な人もまたその行いの実を刈り取る。


15)思慮のない者はすべてのことを信じる、さとき者は自分の歩みを慎む。


16)知恵ある者は用心ぶかく、悪を離れる、愚かな者は高ぶって用心しない。

(用心というか、その場凌ぎの誤魔化しだけですね。あの加害者らは。虫酸が走ります。過去の私もそうであったのか)


17)怒りやすい者は愚かなことを行い、賢い者は忍耐強い。


18)思慮のない者は愚かなことを自分のものとする、さとき者は知識をもって冠とする。


19)悪人は善人の前にひれ伏し、悪しき者は正しい者の門にひれ伏す。


20)貧しい者はその隣にさえも憎まれる、しかし富める者は多くの友をもつ。


21)隣り人を卑しめる者は罪びとである、貧しい人をあわれむ者はさいわいである。


22)悪を計る者はおのれを誤るではないか、善を計る者にはいつくしみと、まこととがある。


23)すべての勤労には利益がある、しかし口先だけの言葉は貧乏をきたらせるだけだ。

(口だけの者にはなりたくないですが・・・)


24)知恵ある者の冠はその知恵である、愚かな者の花の冠はただ愚かさである。


25)まことの証人は人の命を救う、偽りを吐く者は裏切者である。


26)主を恐れることによって人は安心を得、その子らはのがれ場を得る。


27)主を恐れることは命の泉である、人を死のわなからのがれさせる。

(神を恐れない者共が多いのですね今は。加害者らは荒唐無稽で嫌になります。いつ頃辱めに遭うのだろうか)


28)王の栄えは民の多いことにあり、君の滅びは民を失うことにある。


29)怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。

(切れてはいけないと言うことですね。難しいが加害者らは限界を超えることをし続けるからです)


30)穏やかな心は身の命である、しかし興奮は骨を腐らせる。

(骨腐れとは骨粗鬆症や、座骨神経痛とかとは違うでしょうか、痛風だろうか)


31)貧しい者をしえたげる者はその造り主を侮る、乏しい者をあわれむ者は、主をうやまう。

(ええ確かに加害者らは聖書を嘲りますね)


32)悪しき者はその悪しき行いによって滅ぼされ、正しい者はその正しきによって、のがれ場を得る。


33)知恵はさとき者の心にとどまり、愚かな者の心に知られない。


34)正義は国を高くし、罪は民をはずかしめる。

(日本人はいたく恥を見させられているがこれも偶像礼拝の故だろう)


35)賢いしもべは王の恵みをうけ、恥をきたらす者はその怒りにあう。



第15章



1)柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。


2)知恵ある者の舌は知識をわかち与え、愚かな者の口は愚かを吐き出す。


3)主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。

(見張っていますか。それは有り難いです。加害者らは「見えないところに隠れている」ことに高ぶるからです)


4)優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。

(悪態吐き散らしで傷付いています。母にも過去に暴言はいて傷付きました)


5)愚かな者は父の教訓を軽んじる、戒めを守る者は賢い者である。


6)正しい者の家には多くの宝がある、悪しき者の所得には煩いがある。


7)知恵ある者のくちびるは知識をひろめる、愚かな者の心はそうでない。


8)悪しき者の供え物は主に憎まれ、正しい者の祈は彼に喜ばれる。


9)悪しき者の道は主に憎まれ、正義を求める者は彼に愛せられる。

(創価の特殊異常ルールには虫酸はしるし疲弊します)


10)道を捨てる者には、きびしい懲らしめがあり、戒めを憎む者は死に至る。

(信仰を捨てた者が多いのかも知れません。うちの母もそうです嫌になります)


11)陰府と滅びとは主の目の前にあり、人の心はなおさらである。


12)あざける者は戒められることを好まない、また知恵ある者に近づかない。


13)心に楽しみがあれば顔色も喜ばしい、心に憂いがあれば気はふさぐ。


14)さとき者の心は知識をたずね、愚かな者の口は愚かさを食物とする。


15)悩んでいる者の日々はことごとくつらく、心の楽しい人は常に宴会をもつ。

(宴会ですか常に持つのは容易ですが加害者が五月蠅い)


16)少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる。


17)野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる。


18)憤りやすい者は争いをおこし、怒りをおそくする者は争いをとどめる。


19)なまけ者の道には、いばらがはえしげり、正しい者の道は平らかである。


20)知恵ある子は父を喜ばせる、愚かな人はその母を軽んじる。


21)無知な者は愚かなことを喜び、さとき者はまっすぐに歩む。

(愚かと言えば「生体通信技術」とかで嬌声上げていることもそうですかね)


22)相はかることがなければ、計画は破れる、はかる者が多ければ、それは必ず成る。

(複数人で協力せよと言うことですね。難しいが)


23)人は口から出る好ましい答によって喜びを得る、時にかなった言葉は、いかにも良いものだ。


24)知恵ある人の道は上って命に至る、こうしてその人は下にある陰府を離れる。


25)主は高ぶる者の家を滅ぼし、やもめの地境を定められる。


26)悪人の計りごとは主に憎まれ、潔白な人の言葉は彼に喜ばれる。

(謀だらけの国ですね)


27)不正な利をむさぼる者はその家を煩わせる、まいないを憎む者は生きながらえる。

(創価の加害者はそうみたいだが)


28)正しい者の心は答えるべきことを考える、悪しき者の口は悪を吐き出す。


29)主は悪しき者に遠ざかり、正しい者の祈を聞かれる。

(加害者が神と無縁の世界にいることは空のきれいさにも無関心でワンパターン愚劣行為を病的にしておることで明らかですが。祈りについては困難さを覚えている。)


30)目の光は心を喜ばせ、よい知らせは骨を潤す。


31)ためになる戒めを聞く耳をもつ者は、知恵ある者の中にとどまる。


32)教訓を捨てる者はおのれの命を軽んじ、戒めを重んじる者は悟りを得る。


33)主を恐れることは知恵の教訓である、謙遜は、栄誉に先だつ。



第16章



1)心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。


2)人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。

(確かに立派に見える人間はいますが)


3)あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。


4)主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られた。

(あの嫌な悪人も神からのものですか、嫌ですね)


5)すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、確かに、彼は罰を免れない。

(今時分加害者らは滑らかに見えるが実態は?)


6)いつくしみとまことによって、とがはあがなわれる、主を恐れることによって、人は悪を免れる。


7)人の道が主を喜ばせる時、主はその人の敵をもその人と和らがせられる。


8)正義によって得たわずかなものは、不義によって得た多くの宝にまさる。

(陰謀計画によって得た物は無価値と言うことですね)


9)人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。

(人生計画ですね。自己の道は自己で知り得ないと言うことですね)


10)王のくちびるには神の決定がある、さばきをするとき、その口に誤りがない。


11)正しいはかりと天びんとは主のものである、袋にあるふんどうもすべて彼の造られたものである。


12)悪を行うことは王の憎むところである、その位が正義によって堅く立っているからである。


13)正しいくちびるは王に喜ばれる、彼は正しい事を言う者を愛する。


14)王の怒りは死の使者である、知恵ある人はこれをなだめる。

(創価みたいな感じでしょうか)


15)王の顔の光には命がある、彼の恵みは春雨をもたらす雲のようだ。


16)知恵を得るのは金を得るのにまさる、悟りを得るのは銀を得るよりも望ましい。

(金儲けに腐心するなと言うことですね)


17)悪を離れることは正しい人の道である、自分の道を守る者はその魂を守る。


18)高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。

(加害者共の高ぶり様は信じがたいです)


19)へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる。

(貧しい者と共にいたいが出会いがないですし行動する気力もない)


20)慎んで、み言葉をおこなう者は栄える、主に寄り頼む者はさいわいである。


21)心に知恵ある者はさとき者ととなえられる、くちびるが甘ければ、その教に人を説きつける力を増す。


22)知恵はこれを持つ者に命の泉となる、しかし、愚かさは愚かな者の受ける懲らしめである。


23)知恵ある者の心はその言うところを賢くし、またそのくちびるに人を説きつける力を増す。


24)ここちよい言葉は蜂蜜のように、魂に甘く、からだを健やかにする。


25)人が見て自分で正しいとする道があり、その終りはついに死にいたる道となるものがある。

(自己の判断に頼るなと言うことですね)


26)ほねおる者は飲食のためにほねおる、その口が自分に迫るからである。


27)よこしまな人は悪を企てる、そのくちびるには激しい火のようなものがある。


28)偽る者は争いを起し、つげ口する者は親しい友を離れさせる。


29)しえたげる者はその隣り人をいざない、これを良くない道に導く。

(今の犯罪で行われていますね)


30)めくばせする者は悪を計り、くちびるを縮める者は悪事をなし遂げる。


31)しらがは栄えの冠である、正しく生きることによってそれが得られる。

(毛染めなどで隠すことは無益なのですね。正しく生きていない証拠だろうか?)


32)怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。

(ある時より切れっぱなしです。しかし過去には肉の欲への歯止めがありませんでした。)


33)人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。

(くじとは人生の選択みたいですね)



第17章



1)平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。

(そうですねご馳走があっても陰惨では無意味です)


2)賢いしもべは身持の悪いむすこを治め、かつ、その兄弟たちの中にあって、資産の分け前を獲る。


3)銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である。

(悪と善との篩い分けかも知れません)


4)悪を行う者は偽りのくちびるに聞き、偽りをいう者は悪しき舌に耳を傾ける。

(悪人は偽りを好むと言うことですね)


5)貧しい者をあざける者はその造り主を侮る、人の災を喜ぶ者は罰を免れない。

(加害者のことですね)


6)孫は老人の冠である、父は子の栄えである。


7)すぐれた言葉は愚かな者には似合わない、まして偽りを言うくちびるは/君たる者には似合わない。


8)まいないはこれを贈る人の目には幸運の玉のようだ、その向かう所、どこでも彼は栄える。


9)愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる。

(風評流布もそうですね)


10)一度の戒めがさとき人に徹するのは、百度の懲らしめが愚かな人に徹するよりも深い。

(私は数十回戒めを受けたと思うが悟れませんでした。アホですね)


11)悪しき者はただ、そむく事のみを求める、それゆえ、彼に向かっては残忍な使者がつかわされる。

(私にも当て嵌まりますし日本にも当て嵌まるでしょう)


12)愚かな者が愚かな事をするのに会うよりは、子をとられた雌ぐまに会うほうがよい。

(そうですね加害者は見たくありませんね鬱になるし)


13)悪をもて善に報いる者は、悪がその家を離れることがない。

(私もそう言うことをしましたしされているかも知れません)


14)争いの初めは水がもれるのに似ている、それゆえ、けんかの起らないうちにそれをやめよ。


15)悪しき者を正しいとする者、正しい者を悪いとする者、この二つの者はともに主に憎まれる。

(今はそれが多いですね)


16)愚かな者はすでに心がないのに、どうして知恵を買おうとして/手にその代金を持っているのか。


17)友はいずれの時にも愛する、兄弟はなやみの時のために生れる。


18)知恵のない人は手をうって、その隣り人の前で保証をする。


19)争いを好む者は罪を好む、その門を高くする者は滅びを求める。

(加害者からの粘着挑発に困り果てています)


20)曲った心の者はさいわいを得ない、みだりに舌をもって語る者は災に陥る。

(私も過去に良く親などに屁理屈コネまくりでした)


21)愚かな子を生む者は嘆きを得る、愚か者の父は喜びを得ない。


22)心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす。

(魂の悲しみは結局は自己の罪からです)


23)悪しき者は人のふところからまいないを受けて、さばきの道をまげる。

(賄賂ですか今の悪はそれが多そうです)


24)さとき者はその顔を知恵にむける、しかし、愚かな者は目を地の果にそそぐ。

(地の果て・・・よくアーチストの作り出す歌にありそうです)


25)愚かな子はその父の憂いである、またこれを産んだ母の痛みである。


26)正しい人を罰するのはよくない、尊い人を打つのは悪い。

(今の日本でし放題です)


27)言葉を少なくする者は知識のある者、心の冷静な人はさとき人である。


28)愚かな者も黙っているときは、知恵ある者と思われ、そのくちびるを閉じている時は、さとき者と思われる。

(無駄口言いまくりです)



第18章



1)人と交わりをしない者は口実を捜し、すべてのよい考えに激しく反対する。

(人と交わりたいと思うが敬遠される)


2)愚かな者は悟ることを喜ばず、ただ自分の意見を言い表わすことを喜ぶ。

(今の日本人の聖書に無関係の議論好きみたいですね)


3)悪しき者が来ると、卑しめもまた来る、不名誉が来ると、はずかしめも共にくる。


4)人の口の言葉は深い水のようだ、知恵の泉は、わいて流れる川である。


5)悪しき者をえこひいきすることは良くない、正しい者をさばいて、悪しき者とすることも良くない。


6)愚かな者のくちびるは争いを起し、その口はむち打たれることを招く。

(私は自己の悪態のためにこうも酷い目に遭うのだろうか、きつい話だ。過去にも親に悪態で絡みついたが)


7)愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分を捕えるわなとなる。


8)人のよしあしをいう者の言葉は/おいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ。


9)その仕事を怠る者は、滅ぼす者の兄弟である。


10)主の名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救を得る。


11)富める者の富はその堅き城である、それは高き城壁のように彼を守る。


12)人の心の高ぶりは滅びにさきだち、謙遜は栄誉にさきだつ。


13)事をよく聞かないで答える者は、愚かであって恥をこうむる。


14)人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えようか。

(肉体よりは精神の苦痛の方がきついと言いますが

地獄での焼かれる火とうじは果たして魂の苦悩の問題かも知れない)


15)さとき者の心は知識を得、知恵ある者の耳は知識を求める。


16)人の贈り物は、その人のために道をひらき、また尊い人の前に彼を導く。


17)先に訴え出る者は正しいように見える、しかしその訴えられた人が来て、それを調べて、事は明らかになる。

(明らかにされない裁判も多いですね、いつ頃暴露されるか)


18)くじは争いをとどめ、かつ強い争い相手の間を決定する。


19)助けあう兄弟は堅固な城のようだ、しかし争いは、やぐらの貫の木のようだ。


20)人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。


21)死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。


22)妻を得る者は、良き物を得る、かつ主から恵みを与えられる。


23)貧しい者は、あわれみを請い、富める者は、はげしい答をする。

(激しい答えですか、言い得て妙ですね、しかし言葉を使わない激しさもありますね。粘着ハイテク身心いびりなど。異常ですね嫌になります)


24)世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。


第19章



1)正しく歩む貧しい者は、曲ったことを言う愚かな者にまさる。

(屁理屈を言っても災いに陥ると言うことですね)


2)人が知識のないのは良くない、足で急ぐ者は道に迷う。


3)人は自分の愚かさによって道につまずき、かえって心のうちに主をうらむ。


4)富は多くの新しい友を作る、しかし貧しい人はその友に捨てられる。


5)偽りの証人は罰を免れない、偽りをいう者はのがれることができない。

(逃れられないとは意味深です。加害者らは「見えないし捕まらない」と言うことで高ぶっているからです)


6)気前のよい人にこびる者は多い、人はみな贈り物をする人の友となる。


7)貧しい者はその兄弟すらもみなこれを憎む、ましてその友はこれに遠ざからないであろうか。言葉をかけてこれを呼んでも、去って帰らないのである。


8)知恵を得る者は自分の魂を愛し、悟りを保つ者は幸を得る。


9)偽りの証人は罰を免れない、偽りをいう者は滅びる。

(加害者らは偽りで満たされています)


10)愚かな者が、ぜいたくな暮しをするのは、ふさわしいことではない、しもべたる者が、君たる者を治めるなどは、なおさらである。

(そう言う過去はありました、今もそうですが自力ではどうにもなりません)


11)悟りは人に怒りを忍ばせる、あやまちをゆるすのは人の誉である。

(しかしつい愚痴りたくなりますが。今の状態でどうしろと)


12)王の怒りは、ししのほえるようであり、その恵みは草の上におく露のようである。


13)愚かな子はその父の災である、妻の争うのは、雨漏りの絶えないのとひとしい。


14)家と富とは先祖からうけつぐもの、賢い妻は主から賜わるものである。


15)怠りは人を熟睡させる、なまけ者は飢える。


16)戒めを守る者は自分の魂を守る、み言葉を軽んじる者は死ぬ。

(みことばは私も軽視してしまっていましたが恐ろしいことなのですね)


17)貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ、その施しは主が償われる。


18)望みのあるうちに、自分の子を懲らせ、これを滅ぼす心を起してはならない。

(うちの親、私を懲らしめしないで駄目にして廃人化する事を望んでいたように思えるのだが)


19)怒ることの激しい者は罰をうける、たとい彼を救ってやっても、さらにくり返さねばならない。

(毎日激しく怒り狂いまくりですが、どうしろと言いたくなります)


20)勧めを聞き、教訓をうけよ、そうすれば、ついには知恵ある者となる。


21)人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。

(悪の計画はたくましいようです)


22)人に望ましいのは、いつくしみ深いことである、貧しい人は偽りをいう人にまさる。


23)主を恐れることは人を命に至らせ、常に飽き足りて、災にあうことはない。


24)なまけ者は、手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをしない。


25)あざける者を打て、そうすれば思慮のない者も慎む。さとき者を戒めよ、そうすれば彼は知識を得る。


26)父に乱暴をはたらき、母を追い出す者は、恥をきたらし、はずかしめをまねく子である。


27)わが子よ、知識の言葉をはなれて人を迷わせる/教訓を聞くことをやめよ。

(そう言う類の言葉は多いかも知れませんね)


28)悪い証人はさばきをあざけり、悪しき者の口は悪をむさぼり食う。

(確かに嘲っていますね。「裁きなどありません」と。絵に描いたようです)


29)さばきはあざける者のために備えられ、むちは愚かな者の背のために備えられる。

(加害者らは嘲り続けますねしかも聖書も。聖書により頼む姿を嘲ります。祈りも嘲りますね。彼らの行為は荒唐無稽すぎて逆に理解できません。)

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詩篇より

詩篇より







































詩篇22編
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上の記述は恐らくはイエスキリストが処刑される状況に思えますが、「しかし私は虫けらです、人間ではない」と言うのは虐待被害者の状況と似ていますね。
加害者らはまるで「虫けらを殺す」様に虐待をしている。
私もそうですが今までに話をした人間が結構過去に生物への虐待をしている。それも何か暗い心理的事情があった結果のようです。
特に虫などは悲惨ですねまるで神経など無いかの如くに扱われ千切られたり切られたり踏みつぶされたり殺虫剤まかれたり水漬けにされたり洗剤漬けになったり標本化されたり。私は無力な野生の蟻の巣を壊して遊ぶという残酷なことをしましたがこれも蟻の立場に立てば馬鹿げた愚行です。
言われ無き存在に認識も出来ない状態で破壊されるのです。それも何十倍も何百倍も大きな存在ですね。人間と蟻では。
私は当時なにも考えずにただただ愉悦に浸るために蟻の巣壊ししていました。
足で踏みつぶしたりしていました。
逃げまどい何も分からずに恐慌に陥る蟻の姿が愉快でした。
当時自分自身が何かの強い抑圧下にあったのでしょうか。
今の暴虐はその当時にしていた行為への報いとも言えます。
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ところで、過去に「藤子不二雄」という作家の作品を読んでいましたがこれにも今で言う「藤子・F・不二雄」という作家の人間が描いた作品に人間を鋭く批判するような物がありました。それは人間をまるで虫けらの如しに虐殺し、標本じみた扱いすらする存在があるという物です。
それも何か、当時の時点で高ぶる人間への強烈な警告じみた物に思えました。
はっきり言ってグロテスクな内容でしたがリアルな感じがしました。

世に言う「警告を発する」タイプの作家先生はその様な賜物を神より与えられていたのですね。きっと。

今までいろいろと発されていた警告は聞く必要のある物だったのですね。

しかしその様な事柄も聖書には書かれているようでした。

今の世の事象とは聖書に初めから預言されていたかも知れません。366af196

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写真は最近写した空(暗い写真ですね。)

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加害者共の心理

聖書のみことばより引用します
ヨブ記 第25章
1)そこでシュヒびとビルダデは答えて言った、
2)「大権と恐れとは神と共にある。彼は高き所で平和を施される。
3)その軍勢は数えることができるか。何物かその光に浴さないものがあるか。
4)それで人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生れた者がどうして清くありえようか。
5)見よ、月さえも輝かず、星も彼の目には清くない。
6)うじのような人、虫のような人の子はなおさらである」。
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(掲示板への書き込みをコピペします)
>加害者の心理状態は家畜を虐殺する行為に等しいです。

この表現の意味合いが今朝になり漸く理解できました。
私も幼い時分によく生物への無自覚虐待をしていました。
蟻の巣を突き回して破壊していたのです。
旅行先の山荘によく、大きめの赤蟻が木の枝などできれいな巣を造っていたので、何の考えも無しにそれを棒などでかき回し、壊して、蟻共が驚き逃げ回り慌てる様を面白がっていました。
考えると愚かしい行為です。今になり思い出しました。
蟻のように小さい生物も、所詮は神が知恵を持ち造られた存在に過ぎない、それが理解できませんでした。
当時小学生くらいだったがきっと精神的にはかなり荒みきっていたのだろう。
他にも生物への虐待はもしかすると山ほどしています。
ーーーーーーーーー
集ストが酷くなってからはメディア被害などのストレスでそれも加害者への諂いをしていたために精神が病み飼っていたペットへの虐待をしました。明らかに自己を虐待している存在への諂いが弱者(つまり家畜であるペット)虐めに繋がりました。抑圧の結果だと思います。
ーーーーーーーーー
そして今時分被害者共を面白おかしく(マジで)苛めまくり生活や精神を破壊しつつ楽しんでいる加害者つまりは虐待者共は、正しく「当時蟻の巣を何の考えも無しに面白半分に破壊し逃げまどう様を見て悦に入る」自分と同じですね。心理的には似ているでしょう、と言うか同じかも知れません。
そしてその、生活体系を築いて生きているだけの蟻の巣をいきなり破壊し面白がる私は単に「親にへばり付いて依存しつつ生きているのみの無知で幼い者」に過ぎませんでした。

破壊する虐待加害者の心理を考えるとこういう物だと思うと感覚的には分かりやすい気もしますが彼らに何を言おうが無駄だと言うことの理由も少しは分かる気もします。
「面白い快楽だしかも私達は擁護されているし相手は卑しい存在で自分達は高等生物だから良いし」
と言うような感じなのかも知れません。
恐ろしいことですがそれが一つの現実である気もします。
どれ程までにおぞましくてやり切れず理不尽であったとしてもですね、やはり自己の咎が何処かで関わっている。
全てのことは神より出ているとすればそう考えるしかない。
悔い改めをすることは今の人間にとり最重要項目だと思います。
神に立ち返ることで必ず救われます。



蟻共は本能に基づき単に立派な巣を造り生活しているだけだ。
しかしそこに高慢な破壊者がいきなり棒で突き回して破壊する。
「面白い」と言うだけの理由、他には何もない。
その破壊している相手への恨みもない、単なる「憂さ晴らし」であります。
私も何かの家庭内での抑圧が酷かったのかも知れません、それが弱者生物への虐待に繋がったのだろう。

蟻は単に本能に従って生物体系通りにやっているだけ。
しかしそこに変な高慢な存在が破壊しにかかる。そして悦にいる。
それが私のしていたことでした。

今の加害者共の行為は正しくそれを彷彿とさせる、
加害者共の異常性が理解できないのも分かる。
神が人間(この場合私)に対し戒めを込めてしていたのです。
人間とは思えないほどの凄さ、異常性、高ぶり、不可解さ。

当時何の考えも無しに蟻の巣を破壊し楽しみ偉くなったようなつもりでいた自分と同じかも知れません。
そう言うことを考えました。


母親の幼児虐待のニュースを、少し前に散髪屋のテレビで聞きました。それを見聞きした後散髪屋の人間に聞くと「毎日毎日何かと事件が起きているのでよく分からなくなりますね」などと言われていたようです。
地域には明らかに集スト現象でおかしくなっているがそれに触れたがる人間はいません。

所で幼児虐待のことですがこれも私が敵(つまり加害者共)への変な諂いによって精神的に変になり何もしていないはずのペットを勝手な憤りより虐待をした。自己中心な怒りによって殴ったりしていました。しかしそれに苦しんでいました。「何故だろうか」などと。

しかし後に「加害者への不自然な諂い」が理由だと思いました。その為に抑圧が酷くなり歪んだのだろう。加害者に対し常に気を遣い諂っていたのは恐怖からです。対立したら何が起きるか知れないと言うことです。
結果的には此方が限界ブチ切れし、その結果激しく集ストが展開されたが。いとも分かりやすい性質だという気もします。(加害者は)

母親の幼児虐待なども何処かで強い抑圧傾向があった結果かも知れません。その為に無力なはずの幼児を虐待する、そして苦しむのです。

そして幼児虐待に至るまでの下地も又、加害者のメディア等によってなされているかも知れません。
そう言う人間は被害者側であり創価などの家族には逆になさそうだという気もします。決めつけですが彼らは根っから腹黒い事を子にも植え付けてしまうみたいだからです。
しかしそのツケは果たして見えるときは来るだろうか。

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箴言より

箴言5章

21人の道は主の目の前にあり、
 主はすべての、その行いを見守られる。

(↑神に全てを見守られていると言うことですね。)

22悪しき者は自分のとがに捕えられ
 自分の罪のなわにつながれる。

(悔い改めがなければ後で嫌な目にに遭うと言うことですね。)

23彼は、教訓がないために死に、
 その愚かさの大きいことによって滅びる。

(滅びというのは要するに地獄のことだそうです)

箴言6章

16主の憎まれるものが六つある、
 否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。

17すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、
 罪なき人の血を流す手、

18悪しき計りごとをめぐらす心、
 すみやかに悪に走る足、

19偽りをのべる証人、
 また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。

(↑まるで集ストのことみたいですね)


32女と姦淫を行う者は思慮がない。
 これを行う者はおのれを滅ぼし、

33傷と、はずかしめとを受けて、
 その恥をすすぐことができない。

34ねたみは、その夫を激しく怒らせるゆえ、
 恨みを報いるとき、容赦することはない。

35どのようなあがない物をも顧みず、
 多くの贈り物をしても、和らがない。

(上の箇所は恐らくは霊的な姦淫つまり偶像礼拝のことだと思います。神様を「夫」に喩えているのだと思います。神の怒りは何よりも恐ろしいと言うことです。私もそれを覚えています。)

箴言7章

1わが子よ、わたしの言葉を守り、
 わたしの戒めをあなたの心にたくわえよ。

2わたしの戒めを守って命を得よ、
 わたしの教えを守ること、ひとみを守るようにせよ。

3これをあなたの指にむすび、
 これをあなたの心の碑にしるせ。


24子供らよ、今わたしの言うことを聞き、
 わが口の言葉に耳を傾けよ。

25あなたの心を彼女の道に傾けてはならない、
 またその道に迷ってはならない。

26彼女は多くの人を傷つけて倒した、
 まことに、彼女に殺された者は多い。

27その家は陰府へ行く道であって、
 死のへやへ下って行く。

(25-27は創価の事みたいですね)

箴言8章
10あなたがたは銀を受けるよりも、わたしの教えを受けよ、
 精金よりも、むしろ知識を得よ。

(金に固執することよりも神の戒めの方が重要だと書かれています。)

11知恵は宝石にまさり、
 あなたがたの望むすべての者は、
 これと比べるにたりない。

12知恵であるわたしは悟りをすみかとし、
 知識と慎みとをもつ。

13主を恐れることは悪を憎むことである。
 わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、
 偽りの言葉を憎む。

(高ぶりはどうしても私が陥りがちの罪ですが人間はどうしても上の要素を持ち合わせているのかも知れません。)

14計りごとと、確かな知恵とは、わたしにある、
 わたしには悟りがあり、わたしには力がある。

(全てのことは神様より出ているそうです。)

箴言8章
23愚か者は、戯れ事のように悪を行う、
 さとき人には賢い行いが楽しみである。

(確かに加害者達は虐げをゲームだと言いますね。)

24悪しき者のおそれることは自分に来たり
 正しい者の願うことは与えられる。

(加害者らの恐れることは何でしょうか。自己の姿や実態の暴露でしょうか。)

箴言11章
2高ぶりが来れば、恥もまた来る、
 へりくだる者には知恵がある。

(私も高ぶりからしょっちゅう恥をかいています。)

31もし正しい者がこの世で罰せられるならば、
 悪しき者と罪人は、なおさらである。

(あの滑らか三昧に見える悪人共が裁きと報いに遭うとは今のところ想像出来づらいですね。残念ですが。)

箴言12章

2善人は主の恵みをうけ、
 悪い計りごとを設ける人は主に罰せられる。

(加害者らは「はかりごと」の名人ですね。それで成り立つようです。)

箴言13章
13み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、
 戒めを重んじる者は報いを得る。

(加害者らは徹底してそれを嘲りますが私も何処かで軽んじてしまう嫌いがあります。人に言っても理解されそうもないなどで)


21災は罪びとを追い、
 正しい者は良い報いを受ける。

(災いに追い回されている気もしますがそれは加害者らの威嚇嘲弄干渉粘着であります、他のことはそれ程気になるわけではないかも知れません。コミュニケーション無しに粘着嫌がらせがきついですね。)

4f5361e3 ーーーーーーーーーー

写真は最近写した空(暗い写真ですね)

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詩篇より

詩篇120編      

3欺きの舌よ、おまえに何が与えられ、何が加えられるであろうか。

4ますらおの鋭い矢と、えにしだの熱い炭とである。

詩篇125編    

4主よ、善良な人と、心の正しい人とに、さいわいを施してください。

5しかし転じて自分の曲がった道に入る者を

主は、悪を行う者と共に去らせられる。イスラエルの上に平安があるように。

詩篇141編    

6彼らはおのれを罪に定める者にわたされるとき、

主のみ言葉のまことなることを学ぶでしょう。

7人が岩を裂いて地の上に打ち砕くように、

彼らの骨は陰府の口にまき散らされるでしょう。

(「彼らはおのれを罪に定める者にわたされるとき」というみことばは加害者らに当て嵌まると思います。彼らは自分達の悪を裁く存在など無きが如くに高ぶるからです。現に聖書の戒めやみことばを絵に描いた餅見たく嘲っています。)

詩篇146編

6主は天と地と、海と、その中にあるあらゆるものを造り、
とこしえに真実を守り、

7しえたげられる者のためにさばきをおこない、飢えた者に食物を与えられる。
主は捕われ人を解き放たれる。

8主は盲人の目を開かれる。主はかがむ者を立たせられる。
主は正しい者を愛される。

詩篇147編      

3主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。

4主はもろもろの星の数を定め、すべてそれに名を与えられる

5われらの主は大いなる神、力も豊であって、その知恵ははかりがたい。

6主はしえたげられた者をささえ、悪しき者を地に投げ捨てられる。

11主はおのれを恐れる者とそのいつくしみを望む者とをよみせられる。

15主はその戒めを地に下される。そのみ言葉はすみやかに走る。

(詩篇書き写しサイト↓)

http://sugano.web.infoseek.co.jp/sei/yoko/sihen.htm

ーーーーーーーーーーーーー

箴言1章

7主を恐れることは知識のはじめである、
 愚かな者の知恵と教訓を軽んじる。

箴言3章

5心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。

6すべての道で主を認めよ、
そうすれば、主はあなたの道をまつすぐにされる。

7自分を見て賢いと思ってはならない、
 主を恐れて、悪を離れよ。

8そうすれば、あなたの身を健やかにし、
 あなたの骨に元気を与える。


11わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、
 その戒めをきらってはならない。

12主は、愛する者を、戒められるからである、
 あたかも父がその愛する子を戒めるように。

箴言4章

6知恵を捨てるな、それはあなたを守る。
 それを愛せよ、それはあなたを保つ。

7知恵の初めはこれである、知恵を得よ、
 あなたが何をなし得るにしても、悟りを得よ。

13教訓をかたくとらえて、離してはならない、
 それを守れ、それはあなたの命である。


19悪しき人の道は暗やみのようだ、
 彼らは何につまづくかを知らない。

(悪人の躓きとは何でしょうか、早い所見たい物です)


20わが子よ、聞け、わたしの言葉に心をとめ、
 わたしの語ることに耳を傾けよ。

21それを、あなたの目から離さず、
 あなたの心のうちに守れ。

22それは、これを得る者の命であり、
 またその全身を健やかにするからである。

23油断することなく、あなたの心を守れ、
 命の泉は、これから流れ出るからである。

ーーーーーーーーーー

箴言が書かれているサイトです↓

http://sugano.web.infoseek.co.jp/sei/yoko/singen-0.htm

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詩篇より

詩篇35篇 ダビデの歌
1主よ、わたしと争う者とあらそい、わたしと戦う者と戦ってください。
2盾と大盾とを執って、わたしを助けるために立ちあがってください。
3やりと投げやりとを抜いて、わたしに追い迫る者に立ちむかい、
    「わたしはおまえの救である」と、わたしに言ってください。
4どうか、わたしの命を求める者を/はずかしめ、いやしめ、
    わたしにむかって悪をたくらむ者を退け、あわてふためかせてください。

(そうなると良いですね)

5彼らを風の前のもみがらのようにし、主の使に彼らを追いやらせてください。
6彼らの道を暗く、なめらかにし、主の使に彼らを追い行かせてください。

(暗く滑らかは正しく加害者の姿ですね)

7彼らはゆえなくわたしのために網を隠し、ゆえなくわたしのために穴を掘ったからです。
8不意に滅びを彼らに臨ませ、みずから隠した網にとらえられ、彼らを滅びに陥らせてください。


9そのときわが魂は主によって喜び、その救をもって楽しむでしょう。
10わたしの骨はことごとく言うでしょう、「主よ、だれかあなたにたぐうべき者がありましょう。
    あなたは弱い者を強い者から助け出し、弱い者と貧しい者を、
    かすめ奪う者から助け出される方です」と。

(助け出してくださるのですか、それは感謝です)

11悪意のある証人が起って、わたしの知らない事をわたしに尋ねる。
12彼らは悪をもってわたしの善に報い、わが魂を寄るべなき者とした。

(暗闇の生活でした)

13しかし、わたしは彼らが病んだとき、荒布をまとい、断食してわが身を苦しめた。
    わたしは胸にこうべをたれて祈った、
14ちょうど、わが友、わが兄弟のために/悲しんだかのように。
    わたしは母をいたむ者のように/悲しみうなだれて歩きまわった。


15しかし彼らはわたしのつまずくとき、喜びつどい、ともに集まってわたしを責めた。
    わたしの知らない他国の者は/わたしをののしってやめなかった。

(マスコミの嫌がらせみたいです)

16彼らはますます、けがす言葉をもってあざけり、わたしにむかって歯をかみならした。
17主よ、いつまであなたはながめておられますか、
    わたしを彼らの破壊から、わたしのいのちを若きししから救い出してください。
18わたしは大いなるつどいの中で、あなたに感謝し、
    多くの民の中で、あなたをほめたたえるでしょう。
19偽ってわたしの敵となった者どもの/わたしについて喜ぶことを許さないでください。
    ゆえなく、わたしを憎む者どもの/たがいに目くばせすることを許さないでください。
20彼らは平和を語らず、国のうちに穏やかに住む者にむかって
    /欺きの言葉をたくらむからです。
21彼らはわたしにむかって口をあけひろげ、
    「あはぁ、あはぁ、われらの目はそれを見た」と/言います。

(加害者のことのようです)

22主よ、あなたはこれを見られました。もださないでください。
    主よ、わたしに遠ざからないでください。
23わが神、わが主よ、わがさばきのため、わが訴えのために奮いたち、目をさましてください。
24わが神、主よ、あなたの義にしたがってわたしをさばき、
    わたしの事について彼らを喜ばせないでください。
25彼らにその心のうちで、「あはぁ、われらの願ったことが達せられた」と
    /言わせないでください。また彼らに「われらは彼を滅ぼしつくした」と
    /言わせないでください。
26わたしの災を喜ぶ者どもを/ともに恥じ、あわてふためかせてください

   
わたしにむかって誇りたかぶる者どもに/恥と、はずかしめとを着せてください。
27わたしの義を喜ぶ者をば/喜びの声をあげて喜ばせ、
    「そのしもべの幸福を喜ばれる主は大いなるかな」と/つねに言わせてください。
28わたしの舌はひねもすあなたの義と、あなたの誉とを語るでしょう。

36篇
聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌
1とがは悪しき者にむかい、その心のうちに言う。その目の前に神を恐れる恐れはない。
2彼は自分の不義があらわされないため、また憎まれないために、
    みずからその目でおもねる。

(加害者のことのようです)

3その口の言葉はよこしまと欺きである。彼は知恵を得ることと、善を行う事とをやめた。
4彼はその床の上でよこしまな事をたくらみ、よからぬ道に身をおいて、悪をきらわない。

(加害者のことがよく表現されていますね)

5主よ、あなたのいつくしみは天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶ。
6あなたの義は神の山のごとく、あなたのさばきは大きな淵のようだ。
    主よ、あなたは人と獣とを救われる。
7神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。
    人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、
8あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。
    あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる。
9いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。
10どうか、あなたを知る者に絶えずいつくしみを施し、心の直き者に絶えず救を施してください。
11高ぶる者の足がわたしを踏み、悪しき者の手がわたしを追い出すことを
    /ゆるさないでください。

12悪を行う者はそこに倒れ、彼らは打ち伏せられて、起きあがることはできない。

37篇
ダビデの歌
1悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
2彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。
3主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
4主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。
5あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
6あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。
7主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
8怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。

(難しいことですが秘訣があれば知りたい)

9悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。


10悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。
11しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。
12悪しき者は正しい者にむかって/はかりごとをめぐらし、これにむかって歯がみする。
13しかし主は悪しき者を笑われる、彼の日の来るのを見られるからである。

(悪人にも終わりが来ると言うことですね)


14悪しき者はつるぎを抜き、弓を張って、貧しい者と乏しい者とを倒し、直く歩む者を殺そうとする。
15しかしそのつるぎはおのが胸を刺し、その弓は折られる。
16正しい人の持ち物の少ないのは、多くの悪しきの者の豊かなのにまさる。
17悪しき者の腕は折られるが、主は正しい者を助けささえられるからである。
18主は全き者のもろもろの日を知られる。彼らの嗣業はとこしえに続く。

19彼らは災の時にも恥をこうむらず、ききんの日にも飽き足りる。
20しかし、悪しき者は滅び、主の敵は牧場の栄えの枯れるように消え、煙のように消えうせる。
21悪しき者は物を借りて返すことをしない。しかし正しい人は寛大で、施し与える。
22主に祝福された者は国を継ぎ、主にのろわれた者は断ち滅ぼされる。
23人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。
24たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。
25わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が/食物を請いあるくのを見たことがない。
26正しい人は常に寛大で、物を貸し与え、その子孫は祝福を得る。
27悪をさけて、善を行え。そうすれば、あなたはとこしえに住むことができる。

28主は公義を愛し、その聖徒を見捨てられないからである。正しい者はとこしえに助け守られる。しかし、悪しき者の子孫は断ち滅ぼされる。
29正しい者は国を継ぎ、とこしえにその中に住むことができる。
30正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を述べる。
31その心には神のおきてがあり、その歩みはすべることがない。
32悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。
33主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
34主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の/断ち滅ぼされるのを見るであろう。
35わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。

36しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
37全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。
38しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。
39正しい人の救は主から出る。主は彼らの悩みの時の避け所である。
40主は彼らを助け、彼らを解き放ち、彼らを悪しき者どもから解き放って救われる。彼らは主に寄り頼むからである。

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生ける神

「生ける神」で検索しました。

http://www.hat.hi-ho.ne.jp/inagekaigan-chur/nyuumon1.htm

~信仰入門講座 第1講~

第1講 生けるまことの神

「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」

イザヤ46章3、4節

1.「どう信じるか」と「何を信じるか」
 「なにものの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」とは、西行法師が伊勢神宮を参拝した折に詠った句とされています。ここに、日本人の宗教観がみごとに示されています。つまり日本人にとって宗教というのは、「何(誰)を信じるか」が問題であるよりも、信じる自分自身の信心や熱心さが問題だということです。お参りしている神社やお寺に何が祭られ、そこで何を拝んでいるかが大切なのではなくて、相手がどなたであれ自分がどれほど相手に対して熱心に帰依しているか、信心しているかが大切で、その自分の信念が、いわば神通力となって神や仏を動かし、そこで祈願することをかなえてもらうというわけです。だからお百度を踏んだり、滝に打たれて修業したり、座禅を組んで修養したり、多額の賽銭(さいせん)をしたりしますが、いずれも自分が神や仏に「何をするか」が大切と考えます。しかしそこで自分が一体、何を拝み誰を信じているのかについては、とんと御無沙汰しているのです。「いわしの頭も信心」、何であれ、信じている心が大切だと思うからです。

2.わたしたちを背負う神
 それに対して、聖書の神は、「あなたは誰を神として信じているか」と問い、「信仰の相手(対象)」が何であるかを求めます。「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は、わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ」(イザヤ45章5、22節)。ですから聖書では、偶像礼拝といって、神でもない木や石で造られた像を拝み、それを神として信じることの愚かさが語られます。聖書にでてくる話しですが、あるきこりが山で木を切り、寒いのでその木で火を起こし、疲れたのでその火でパンを焼いて食べました。木が残っていたのでそれで自分の神を造り、それを拝んで「お救いください、あなたはわたしの神」と祈りました(イザヤ44章9-20節)。これがいわゆる世の宗教、つまり偶像の実体であり正体だと聖書は見抜きます。

 それらにはわたしたちを救う力はありません。高額な壷、霊験あらたかなお守り、寺社仏閣の祈願や御祓(おはら)いなど何の意味も、力もないことを聖書は明らかにします。そういう偶像は動物や人間に背負われて、それらの重荷となるだけです。偶像とは、わたしたちを助けるようで、実はわたしたちの重荷となるものにすぎません。そんなものにどれだけひれ伏しても、何の助けも救いも得ることはできません。「それを肩に担ぎ、背負って行き、据え付ければそれ(偶像の神々)は立つが、そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず、悩みから救ってはくれない」からです(イザヤ46章7節)。しかしまことの神は、そんな重荷にあえぐわたしたちを「背負い、担う神」だと言われるのです。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と(イザヤ46章3、4節)。「また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださった」(申命記1章31節)とうけあってくださるのが、まことの神なのです。

3.まことの神のほかに神はいない
 子どもが小さいころ、よく家族で一緒にデパートやら近くの海へ出掛けました。はじめは「早く、早く」とせかす子どもですが、帰りはたいてい疲れて眠りこんでしまいます。寝た子はすごく重くなりますが、帰りはたいてい寝た子をだっこするかおんぶして帰るはめになります。自分もひどく疲れているのに、そのうえ眠って重くなった子をだっこして帰る、つらいものでした。しかし聖書の神、まことの神は、わたしたちをこれまでそうしてきたし、今もそうしているし、これからもそうしてくださると約束してくださる神なのです。「父が子を背負うように、あなたを背負ってくださった」と約束される神なのです。それに対して偽りの神々、偶像は、わたしたちを救うことはできないし、背負うこともありません。むしろわたしたちの「重荷」となり、わたしたちがそれを背負わされるはめになるものにすぎないのです。それがどれほど美しく、見事な出来栄えであったとしても、その見かけの美しさがわたしたちを救うわけではなく、救うこともできません(イザヤ37章18-20節、詩編115編4-8節)。それは木や石にすぎず、無力で哀れな「人間に似せて造られた像、人間にかたどられたもの」にすぎないからです(イザヤ40章18-26節)。

「人間に似せて造られた神」とは、「人間をご自身に似せて造られた神」のパロディーです。人間が神に似せて造られたのであって(創世記1章27節)、神が人間に似せて造られるのではありません。にもかかわらず人間は、自分に似せた無力な神々を造り出し、それを神だと誤解し続けているのです。人間には人間を救うことはできません。これまであなたは、神を信じることもなく、神を知ることもなかったかもしれません。自分は無神論者だ、神など信じられないと言われるでしょう。しかしそれはあなたが、まことの神を知らず、偽りの神々、人間が空想して造りだした偽りの神しか知らず、まことの神に出会ってこなかったからです。聖書も、その意味で無神論です。なぜならまことの神以外を認めず、偽りの神々、偶像の神を否定するからです。「世の中に偶像の神などはなく、また唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです」(1コリント8章4-6節)と。

4.わたしを仰いで、救いを得よ
 こうして聖書は、何でもいいから信じれば救われるというのではなく、何でも神にして拝みさえすればよいというのでもなく、救われるかどうかは、何を信じ誰を拝むかによっているのであり、あなたが何を神とし、誰に依り頼むかということが大切であることを教えます。信じるあなたの「心」(信心)が大切なのではなくて、信じる「相手」が大切なのです。ですから「まことの救い、まことの命」にいたるために、「まことの神」を求めていきましょう。わたしたちにまことの救いを与えることができる、まことの神を。「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は、わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ」。こうわたしたちに呼びかけることのできる神こそ、「生けるまことの神」です。

生ける神とは、わたしたちに語りかけ、呼びかける神です。死んだ神は、口があっても語りかけ、呼びかけることはできません。ましてわたしたちを救うことはできません。わたしたちを、その悩みから救いだし、わたしたちを背負いつづけてくださる、生けるまことの神へと心を向け、救いを求めていってください。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。

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神様への目が開かれてからは神の被造物への目がいくようになりましたがそれの一つ一つはとても精密に出来ていて自然の成り行きには思えません。例えば空の様々な素晴らしい眺めや植物の数々の種類の形の多用さや美しい造形など

後はそれと共に見苦しさや不気味さを覚えるような形状の物もあります。

神の造られた物には確かに気味の悪い物もありますがこれらも人間を一々例えて言ったりするときに使うことが出来ると言うことがあります。

例えば「蛆虫」「ゴキブリ」「蜘蛛」「蜂」「白アリ」「百足」「げじ虫」

「犬」「豚」「馬」「牛」「羊」「猫」「熊」「山羊」「鳥」「狸」「狐」など。

人間の人柄などを表すときに使えそうですね。

人間には悪玉も善人もいるようですがこれらも全て神の造られた物だそうです。

神が悪人やわざわいをも造り出しているのです。

だから災いの時には神を知るための機会が与えられているのです。

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生ける神

へブル人への手紙10章

29)神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。



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「生ける神の御手の内に陥ることは恐ろしい」そうです。加害者はシュールな存在ですね。神の言葉により頼む者を殊更嘲り続けますが。彼らはそれ程すごい人物達でしょうか。隠れたところより個人にしか知り得ない方法で陰湿卑劣な嫌がらせをし、内部事情への口も割りません。隠れた場所よりの陰湿卑劣な嫌がらせの裏にはどういう人格があるだろうか。正直分かり得ない。彼らは頭が変になっているのだろうか?大胆不敵にも聖書を嘲るとは。私も過去には神を侮る事しかできなかったが。

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テモテへの第1の手紙:第5章
22)軽々しく人に手をおいてはならない。また、ほかの人のに加わってはいけない。自分をきよく守りなさい。

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加害者が如何に粘着執拗な行為を続けていても所詮は犯罪者かも知れません。普通に考えると重篤な悪ですね。

犯罪者達の行為に対して一々悪態を持ち迎合することは愚かなのでしょう。

彼らは重罪人に過ぎないとすればイエスキリストに自己の罪を購って頂き後は犯罪者のことは無視することが最善ですね。此方が一々丁寧に迎合的な行為(つまり悪態吐き)するために加害者らは「被害者が面白がっているし喜んでいるので我らは正しいのである」等という考えをするのかも知れません。

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詩篇より

この様な暴虐により神は居ないし死んだ等の言葉を聞きましたがしかし聖書には神の御約束の言葉が書かれています。それには神の支配は永久に続くという記述があります。

【詩篇第136篇】



      1主に感謝せよ、主は恵みふかく、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      2もろもろの神の神に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      3もろもろの主の主に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      4ただひとり大いなるくすしきみわざを
      なされる者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      5知恵をもって天を造られた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      6地を水の上に敷かれた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      7大いなる光を造られた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      8昼をつかさどらすために日を造られた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      9夜をつかさどらすために月と、
      もろもろの星とを造られた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない

     10エジプトのういごを撃たれた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない

     11イスラエルをエジプトびとの中から
      導き出された者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     12強い手と伸ばした腕とをもって、
      これを救い出された者に感謝せよ、

     13そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
      紅海を2つに分けられた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     14イスラエルにその中を通らせた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     15パロとその軍勢とを紅海で
      打ち敗られた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     16その民を導いて荒野を通らせた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     17大いなる王たちを撃たれた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     18名ある王たちを殺された者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     19アモリびとの王シホンを殺された者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     20バシャンの王オグを殺された者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     21彼ら地を嗣業として与えられた者に感謝せよ、
      そのいつくしみは絶えることがない。

     22そのしもべイスラエルに嗣業として
      これをあたえられた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     23われらが卑しかった時に
      われらをみこころにとめられた者に感謝せよ
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     24われらのあだからわれらを
      助け出された者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     25すべての肉なる者に食物を与えられる者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     26天の神に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

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【詩篇第150編】


       1主をほめたたえよ。
      その聖所で神をほめたたえよ。
      その力のあらわれる大空で主をほめたたえよ。

      2その大能のはたらきゆえに主をほめたたえよ。
      そのすぐれて大いなることのゆえに
      主をほめたたえよ。

      3ラッパの声をもって主をほめたたえよ。
      立琴と琴とをもって主をほめたたえよ。

      4鼓と踊りとをもって主をほめたたえよ。
      緒琴と笛とをもって主をほめたたえよ。

      5音の高いシンバルをもって主をほめたたえよ。
      鳴りひびくシンバルをもって主をほめたたえよ。

      6息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。
      主をほめたたえよ。

ーーーーーーーーー

息のある全ての物に主を褒め称えさせよとはすごいことを言っていますが虫けらや家畜などにもそう言う能力があると言うことですね。

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詩篇より

詩篇89編

34わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。
35わたしはひとたびわが聖によって誓った。わたしはダビデに偽りを言わない。
36彼の家系はとこしえに続き、彼の位は太陽のように常にわたしの前にある。
37また月のようにとこしえに堅く定められ、大空の続くかぎり堅く立つ」。〔セラ

ーーーーーーーーー

詩篇92編

7たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです。

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詩篇94編

1あだを報いられる神、主よ、あだを報いられる神よ、光を放ってください。
2地をさばかれる者よ、立って/高ぶる者にその受くべき罰をお与えください。
3主よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
4彼らは高慢な言葉を吐き散らし、すべて不義を行う者はみずから高ぶります。
5主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたの嗣業を苦しめます。
6彼らはやもめと旅びとのいのちをうばい、みなしごを殺します。
7彼らは言います、「主は見ない、ヤコブの神は悟らない」と。
8民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
9耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、目を造った者は見ることをしないだろうか。
10もろもろの国民を懲らす者は/罰することをしないだろうか、人を教える者は知識をもたないだろうか。
11主は人の思いの、むなしいことを知られる。
12主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
13あなたはその人を災の日からのがれさせ、悪しき者のために穴が掘られるまで/その人に平安を与えられます

14主はその民を捨てず、その嗣業を見捨てられないからです。
15さばきは正義に帰り、すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。
16だれがわたしのために立ちあがって、悪しき者を責めるだろうか。だれがわたしのために立って、不義を行う者を責めるだろうか。
17もしも主がわたしを助けられなかったならば、わが魂はとくに音なき所に住んだであろう。
18しかし「わたしの足がすべる」と思ったとき、主よ、あなたのいつくしみは/わたしをささえられました。
19わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
20定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者は/あなたと親しむことができるでしょうか。
21彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告します。
22しかし主はわが高きやぐらとなり、わが神はわが避け所の岩となられました。

23主は彼らの不義を彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。われらの神、主は彼らを滅ぼされます。

ーーーーーーーー

詩篇104編

35どうか、罪びとが地から断ち滅ぼされ、悪しき者が、もはや、いなくなるように。わがたましいよ、主をほめよ。主をほめたたえよ。
ーーーーーーーーーーー

(聖書では真の父なる神様が、ダビデの家系は永久に続くと言われています。私見ですがダビデの家系は日本の天皇家ではないかと思います。ダビデの王宮にある六角形の星形マークは日本の伊勢神宮の裏家紋となっています。他にも聖書の内容と日本の風習には共通性を覚えることが多いようです。)

参考サイト

「秘められた十字架」

http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/jyubu.html

「日本の秘密」

http://www.ican.zaq.ne.jp/euael900/episode14.html

「日本とヘブライの共通点」

http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb010.html

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愚痴ですが

ある女性とメールのやり取りをしていて創価の事についてこういわれていました。北風と太陽の譬えのようだと。考えればその通りですね。
神様と悪人との譬えに思えます。
神様は太陽として人間に光と慈愛を与えてくださる。
悪人は北風の如くに人間から暴利を貪り強風の如くに恐怖や不快や威嚇などを与えて剥ぎ取ったり操作をしたがる。

神様のご愛は人間の頑なな心を溶かしますが、悪人の冷たい強風じみた制御操作態勢は人の心を狂わせる。
そう言う意味でそっくりな譬えです。

余りにもはっきりしている。悪に迎合し加担しても心を狂わせそれにも無自覚になる。自己防衛に凝り固まりどれ程変なことをして他者を苦しめても自己正当化のことにのみ知恵を働かせる。
その様な生き方は幸いでしょうか。

神である太陽は来る日も来る日も人間に明るい光を提供し続けています。時には雲と結託して美しい風景を見せてくださいます。
暖かな温度やきれいな陽射しや陰を見せてくださいます。
水に映ればキラキラと映えてきれいです。
花も太陽の光を浴びれば嬉しそうですね。
木々も光が当たればとても美しい光景を生み出しています。

そう言う違いははっきりしているのですね。
だから光を造り出して下る神に反逆し嘲っても幸いなど無いに決まっているのです。

加害者らは長野県の高原にも現れましたが何と、彼らは周囲の雄大なる景色など全く目に留まらぬ様子で此方への付きまとい嫌がらせ行為を働いていました。
地元と同じような異様な型の黒っぽい車で。
中の人間はと言うと横顔を見せて何処か得意そうです。

それを見てある種の絶望を覚えました。
彼らの脳みそは一体なんだろうか。

空が如何にきれいでも、雲が如何に美しくても、自然が如何に素晴らしくても、
精神破壊活動たる集スト活動を機械的にするのみです。
彼らは本当に幸せなのでしょうか?

監視情報を盾に高ぶることがそれ程すごく魅力的な生き方でしょうか?
集ストの得体の知れぬ付きまとい技術を何処に行こうが見せつけることがそれ程すごいことだろうか?

普通に暮らしたいだけの個人を家庭破壊に導いてまでも覗き続け無意味な音声による嘲弄にしがみつき続けることはそれ程立派でしょうか?

彼らは隠れていることに高ぶる。
そして変な技術があることに高ぶる。
そして下半身を嫌がらせできることに高ぶる。

彼らの実態とは何でしょうか。一体どういう暮らしぶりでしょうか。
日がな一日家にいようがお構いなしに覗き回し音声や機械による音やつきまといで威嚇、苦痛を与え続ける。

此方は少なくとも聖書が真理だと知るために宣伝するだけですが彼らはそれをも無意味に嘲り続ける。普通の言葉は聞かない。人間の言葉を言わない。
ただ意味不明の嘲り音声のみ。

それでも彼らは何か「自分達は正しくてすごい集団である」と思うのでしょうか。

根拠はきっと「捕まる心配なし」「機械がある」等でしょうかね。
日本は何時になれば正常化してくださるのか。
ーーーーーーーー
彼らの異常性は「神の御心が働いている結果に過ぎない」のかも知れない。

普通に考えてこれ程シュールで信じがたい人種などいません。

初めて付きまといを見たときにも思ったのです「何か見てはいけない物を見たが日本にいる人間にしては信じがたい日本に何故ああいう変な存在がいるのだろうか」と言うことでした。それ程すごい衝撃でした。

後に在日朝鮮人という人間の存在を知り或る程度納得はしましたが。

そして私にもその血は入っているらしいので或る程度嫌な気持ちにもなったが、今はどうもその在日創価の異常性はやはり尋常じゃないのだろうかと思い苦悩している。

在日の人間にも真面目で普通に生きる人間はいるが創価に洗脳されると変になる、確実に。私も考えると創価のメディア虐待で変になりました。自己愛性人格障害にならされます。

今の末端見るとその障害をきつくしたような印象がありますね。

ーーーーーーーーーー

神はこの様な異常性のきつい人種を造り出し日本人に襲わせることで何かの偉大なる計画を成就するのかも知れません。私はそれしか考えようがないと思います。

神は悪魔の働きを通じても、ご自分の栄光を現すためにそれを用いるそうです。

しかし加害者らの性質はどうにかならないだろうか、何も理解できないのに痛く寒く見栄張り続けているし姿が見えないので誤魔化せているつもりに思えて気持ちが悪いすごく。助けて欲しい。マジで。叫びたくなります。

○姿を隠している

○変な機械技術を持つ

この二つでどれ程のアホでも自分達を神格化できると思うのかも知れません。

正直そう言う考えしか出来ません。嫌になるが。

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聖書に全ての解決がある

聖書に全ての解決がある で検索しました。

http://church.shalom.vu/gospel.htm

福音について

ここでは、キリスト教の中心テーマについて、ご紹介いたします。どのように受けとめるかはご自由ですが、聞いたことが無いものを信じることは出来ませんので、耳を傾けてください。

多くの人はキリスト教というと道徳的なことを教えていると思っています。しかし、聖書の中心的教えはそのような道徳ではなく、福音(よい知らせ)と呼ばれるものです。いったい何がよい知らせなのでしようか。


神はあなたを愛しています

神はわたしたち(人間)を愛し、わたしたちのためにこの世界を創造されました。神にとってわたしたち人間はひとりひとりが高価で尊い存在です。どのような生まれであるとか、性別年齢、性格や能力などによって神の評価が変わることは有りません。何故なら、神があなたの創造主だからです。神は、わたしたちの人生にすばらしい計画を持っておられるのです。神が天地を創造なさった時、それは非常に良いものであったと聖書は言っています。


全ての人は神に逆らって生きています

しかし、最初の人間アダムは神の命令に背いて罪を犯しました。その罪がアダムの子孫であるわたしたちにまで受け継がれているため、この世界には悪がはびこっています。聖書で言う罪とは、いわゆる犯罪のことではありません。わたしたちの心の中にある自己中心の思いです。憎しみ、ねたみ、悪いこととはわかっていても誰も見ていなければやってしまう行為などです。このような思いを持っていない人が果たしているのでしようか。誰もいません。聖書がすべての人は罪人ですと言っているのはそういう意味です。


良い行いをしても問題は解決しません

この罪は、自分の努力で解決することは出来ません。どのような良い行いも、学問も、宗教も、罪の解決とはなり得ないのです。罪によって、神と人との間には人間の力で越えることの出来ない、深い溝が出来てしまったのです。そればかりか罪を持っている者には、死後裁きがあると聖書は言っています。すべての人は罪人ですから、すべての人が死後自分の人生について神に申し開きをしなければなりません。ではわたしたちはこのまま滅びてしまうしか無いのでしようか。


イエス様が救い主です

いいえ、神はわたしたちのために救いの道を開いてくださいました。それが救い主イエス・キリストです。イエス・キリストは神ご自身です。神が、全く罪の無い人間として地上に来られ、十字架の上でわたしたちの罪を負って、身代わりに死んでくださいました。そればかりか、イエス・キリストは罪と死に打ち勝ってよみがえり、今も生きておられます。しかし、その事を知的に知ったことが救いではありません。救われるためには、信仰をもってイエス・キリストを信じ受け入れることが必要です。


信仰の告白が必要です

この救いは、誰でも心に信じて、口で告白する者に与えられます。自分に罪があることが分かるなら、今、この場所で信仰の告白をすることも出来るのです。信じるとイエス様が、あなたの心の中に入って来てくださいます。そして、あなたをきよめ、神の子供としてくださいます。まわりは罪の世界ですから、苦しみが無くなることはありませんが、神はわたしたちにその苦しみに打ち勝つ力を、与えてくださいます。そして、キリストの愛によって積極的に生きていくことが出来るようになります。



今回初めてキリスト教のことを聞いた方は、一度で理解できなかったかもしれません。さらに詳しく説明を受けたい方は、教会にお問い合わせ下さい。
ーーーーーーーーーー

神は何故にこういう変な人種(加害者達)を造られたのだろう、彼らがもし洗脳によって変にされているのであればその過程を知りたい。又この様な変な人種に日々日夜苛まれることで何をどうしろと言うのかと思う、不可解でつい愚痴が出る。

罪の悔い改めをし自己義認には関心が無くなったが依然としてこういう苦痛にあっているとすればどう考えればいいのか。悪態を吐き散らしては地獄を覚える日々です。世には自分よりも正しい人生を送るように見えながら不可解な不幸に晒されている人間もいるかも知れないので、余り文句を言っても意味がないのだろう。

寧ろ何故か知らないが悪への加担や迎合する人間が優遇されるような状態らしい。

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聖書に全ての解決がある

http://www.kemigawa.org/071111_msg.html

上のサイトには「思い煩いからの解放の方法」が書かれています。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~kz864au3/cs200109.html

↑聖書によって人生を変えられた方の証しです。

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聖書に全ての解決がある

聖書に全ての解決がある で検索しました。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/6957/

みなさん、ようこそいらっしゃいました!

はじめまして。このサイトを作成したソフィーと申します。
数あるHPから、このサイトに来てくださったことを感謝いたします!

本当に情報が溢れた時代です。
ありすぎて、何が本当に大切なのか、日本人が
混乱している時代です。生きる方向性を、見失った時代。

けれども、素晴らしいニュースがあります。
それは、聖書です。
聖書は、世界で一番読まれているベストセラーです。
世界で最初に印刷されたのは、まぎれもなく聖書でした。

当サイトは、聖書から心身とも満たされる
アドバイスをお伝えしています

人生の全てにおいて、役立つ聖書の知識が満載です!

聖書で神様は、皆様に次のように言っています。
 
 「
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
  わたしはあなたを愛している

                  (イザヤ43:4)新改訳(公式HP)
                         
 あなたは、誰からも愛されていないとか、
 自分などいなくても同じだと、思っているなら。
 そのような状況にこそ、このサイトとつきあってください!
                               
 今、この画面を見てくださっているあなたに
 ただ一つだけ、伝えたいことがあります。
 それは、2001年から、
 このサイトの産声があがったときから、
 ずーっと言い続けてきました。

 このサイトの、ほかの事は
 全て忘れてくださってもかまいません。
 
 ただし
 あなたは神さまに愛されている!
                       ということ。

 性格改善など、すべてを完璧にできる方はいません。
 なぜなら、神様は最高の計画によって
 今のあなたを創造なされたからです。
 大切に大切に、あなたを作られました。
 
 神様は今のあなたを愛しています
 今の自分を好きになろう。それでいいのです。
 あなたがあなただから、いいのです!

 さあ、大きく道は開かれています。
 回復への道。喜びへの道。共にステップしましょう!

 

聖書は集スト被害者の抱えている苦悩にも答えることが出来ます。

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聖書に全ての解決がある

「聖書に全ての解決がある」で検索しました。

http://blog.kansai.com/jesus

医者を必要とする者とは?
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」(12節)私たちは、イエス・キリストのこの御言葉の「理屈(真理)」を、十分過ぎるほど知っています。医者の仕事は、健康(五体満足)な者を診断するのではなく、何らかの「病い」を患って、苦しんでいる人々を治療することです。同様にイエス・キリストが、「この世」に来られた真の理由は、「自分正しい。自分は罪人ではない。自分はルール(律法)を守っているから大丈夫だ!」と思っている当時の宗教家集団に対して、彼らとは逆の「福音」を説きました。つまりイエス・キリストは、人間関係の中で差別的待遇を受けている人々や、生まれつき「呪われた家系」などの、悪しきレッテルを貼られた人々、そして今回の主役であるマタイなど、卑しい職業に就いた人々の元を訪問し、彼らの「苦しみ」や「問題」などを、全て一掃し解放するために、自分は父なる神から「救い主」として遣わされたことを、マタイの家で説かれたのです。

 日本社会において、かつては経済的な面で中産階級の人々が、より多く存在していたのですが、今日の経済情勢から判断しても、「勝ち組(富める者)」と「負け組み(低所得者)」という、二極化(格差社会)が進んでいます。しかしイエス・キリストは、そのような日本社会に暮らす人々の中にも、必ず訪れて下さる方です。今日の日本という国家は、霊的に一つの「体」として見るならば、決して健康的(健全)な国家とは言えません。ある面で、様々な部分に「歪(霊的な病い)」が生じてしまい、「将来は、一体どうなることやら?」などの社会不安が増加しています。今回のストーリーの、最重要ポイントとして覚えて戴きたいことは、「真の医者であり、救いと解放をもたらす方は、イエス・キリストだけである。そして、この方が来られた目的は、将来に対して不安を抱く人々や、自分の生活環境の中において、様々な問題で苦しんでいる人々を救うべく、必ず訪れて下さる!」という、断固とした信仰を持つこと、そしてその「事実」を人々に証言していくことです。

従って来なさい!
 マタイを取税人として見る人々の視線は、その殆どが軽蔑し嫌悪する(見下す)類のものでした。しかしイエス・キリストの場合、彼はマタイのことを対等の者として取扱うべく、その人の「霊」に直接向き合う、そのような視線をもって、マタイのことをご覧になられました。そして、イエス・キリストはマタイに対して、他の弟子たちの時と同様に、「私に従いなさい」(9節)という、神が定めた彼の本来の人生に対する、「正しい答え」を示されたのです。この御言葉は究極的には、彼(マタイ)が従事している、今の仕事(取税業)を放棄することを意味します。マタイは、イエス・キリストから命じられた、この御言葉を聞いた瞬間に、「何もかも捨てて立ち上がり」(ルカ福音書5章28節) イエスに付き従いました。つまり彼は、今まで税を取り立てて築いた財(資産)ばかりでなく、彼の取税人としての委託的権力(ローマ帝国による資格)をも放棄したのです。

 彼が、イエス・キリストの「ご命令」に信頼し、その通りに大胆に実行するという、「思い(決心)」と「力」を与えたのは、まさしくイエス・キリストの唇を通して語られた、父なる神の「命の言葉」によるのです!三次元的な判断、つまり常識的に考えるならば、私たちはこの「御言葉」に躊躇し、最終的には反抗(言い訳)します。ところが、イエス・キリストが語られる「言葉」というものは、それが聖書を読んで示される御言葉であったり、或いは祈りを通して示される「啓示」や「教え」、またある人を通して語られる、神からの「預言」や「知恵の言葉」であっても、その「御言葉」は必ず成就する!このことを覚えて下さい。イエス・キリストが「命の言葉」を発せられた以上、それはシャボン玉のように、最初は空気中に浮かんで目に見えるものであっても、いつかは弾けて消滅してしまう、そんな低レベルの次元には存在しません。必ず語られた(発せられた)以上、それには「成就する!」という、神の責任(摂理)も伴ってくるのです。

 それ故、この「私(イエス・キリスト)に従いなさい」という御言葉の中にも、父なる神の「保証」が同時に与えられています。しかし、私たちはその「保証の時」を、自分の時の概念で勝手に推し量るため、それが早く成就しない場合に、不信仰に陥ってしまうのです。「神の時至りて、父なる神の命の言葉は、必ずその通りになる!」これが私たちの持つべき、正しい信仰姿勢です。私たちに与えられる「命の言葉」は、植物の種の成長法則と同様に、今は「実(結果)」が目に見えてこないかも知れません。しかし、神の定められた「その時」に、必ず結実の時を迎え、私たちは「まさしく神の為されることが、全てがアーメン(その通りになる)!」と、告白できるものなのです。それ故、ユダを除いた弟子たち全員が、イエス・キリストの語られた「私に従いなさい」の御言葉に、全面的に放棄し従順しました。ところがユダは、自分の大事な「財布」だけは放棄せず、いつも懐に入れていたのではないでしょうか!

 イエス・キリストの視点から見る限り、「義人」は一人もいません!全ての人々が「罪人」、つまり真の医者なるイエス・キリストの、霊的な訪問診療を必要とする者なのです。「義人」に至る道は唯一つ、即ちイエス・キリストの「命の言葉」のみを欲し、その御言葉に聞き従うことです。しかし私たちは、ご存知のように神の「命の言葉」よりも、自分の「考え(判断)」や「計画」などを優先し、それに従う(自分の力で遂行する)という、愚かな道を歩んでいます。

 真の医者(イエス・キリスト)を必要とする者は誰ですか?あなたはその一人ですか?もし真の医者を求めるのであれば、私たちは素直に自分の「罪」を認め、「義人」に至る道、つまり神の「命の言葉」に、全面的に聞き従って参りましょう!ユダやアナニヤ・サッピラの如くに、懐の中に「自分のもの」を残しておくこと、これは神に「聞き従う」ことではありません。イエス・キリストに、全面的に聞き従う「あなた」の元に、いつか必ず「誰か」が訪れることでしょう。それは「あなた」の中にある、イエス・キリストによる「真の救い」が、確実に目に見えてくるからです。

 病人が医者の「診断」を必要とするように、多くの人々が「あなた」に訪ね求めて来ることでしょう。「その時」に、あなたは「何」を提供するのでしょうか?それは、イエス・キリストの「命の言葉」を伴う、次のような明確な「証言」です。「私はイエス・キリストを、自分の救い主として信じた時から、今に至るまで何も心配すること無く、父なる神が必要なものを備えて下さっています。たとえ苦しい時にも、何か困った不測の事態に陥った時にも、父なる神はその困難から(私を)過ぎ越して下さり、神の定めたその時に、必要な救い(恵み)を施して下さいます!」と。
ーーーーーーーーーーーーー

「医者」と言えば聖書のみことばは確かに人間や組織団体の治療者よりも優れた治療書ですね。私は長きにわたり摂食障害で苦しんできましたが、医者や薬や自助グループでは駄目でした。聖書にみことばによってのみ、それからの解放がありました。理由は自己中心から解放されたからだと思います。結局その病の理由は自己中心から来ていました。しかし自力でどうにかなる物ではないために神のみことばによる霊的な解放が必要だったのです。

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聖書に全ての解決がある

「聖書に全ての解決がある」で検索しました。

http://homepage1.nifty.com/oyamada-church/4.htm


救いについて


普段、余り聞かない言葉かもしれません。
余程の苦しいことに出会わないと「救われたい」と思うこともないでしょう。
けれども、私たちは気付かないで、心のどこかで救いを求めています。
日本人の多くは「自分は無宗教だ。」と思っているでしょう。
その反面、日本のどこに行っても、神社やお寺があり、新興宗教も大変盛んです。
このことは私たち日本人が実は宗教的な国民であり、
神や救いを求めていることを示していると思います。

それでは、聖書は救いについて何を教えているのでしょうか?

【Q1】救いとは何ですか?

【A1A1】聖書の「救い」とは、罪と永遠の滅びからの救いのことです。
私たちは生きる以上、色々つらい目に遭います。
職場や学校で周りの人たちとどうもうまく行かない、
仕事の責任から来るプレッシャーで潰されそうだ、
就きたい職業に就けない、…とにかく人生と苦しみとは切り離せません。
この苦しみを何とかして自分の力で切り抜けられる場合もありますが、
自分の能力を超えた困難も確かにあります。
そんな時、「神でも仏でも何でもいいから私を助けて欲しい」と
何かにすがりたくなるかもしれません。

しかし、人生の表面に出て来る苦しみの根本が解決しないと救いとは言えないのです。
聖書では人間の罪こそ苦しみの根本であると教えています。
私たちを造られ、愛される神から離れ、自分勝手に生きるという罪が
私たち自身の人生を悲惨にしているのです。
ですから、私たちが本当に幸せになろうと思ったら、
どうしても神と人に対して犯して来た罪を清算しなければなりません。
そして神と正しい関係に入る必要があります。

【Q2】どうすれば罪の問題は解決するのですか?

【A1】神にあなたの罪を赦してもらうことです。
私たちは神に対して罪を犯すのですから、神にその罪を赦して頂く必要があります。
人間同士の間であれば、犯した罪の大きさに従って償いをすれば、
少なくとも法律上は問題は解決します。
しかし、人間が神に対して犯した罪は余りに大き過ぎて、人間には償うことが出来ません。
聖書には次のように書いてあるからです。

「罪から来る報酬は死です。」

私たちがどう頑張ってみても、自分の罪を取り消すことは出来ません。
どんなに立派な道徳的行いや慈善活動をしても、
神に対して犯した罪を償うことは出来ません。

では、どうすれば良いのでしょう?
一体、誰が罪から救われると言うのでしょうか?
神は人間には出来ないことをして下さいました。
罪に対して全く何も出来ない私たちを神は憐れまれ、
ご自分の独り子イエス・キリストを身代わりとして、
この方に私たちの罪を背負わせて下さいました。

人間の親で、死刑囚を釈放するために、
自分の最愛の一人息子を身代わりとして絞首刑に差し出す人がいるでしょうか?
しかし、神はご自分に反逆する私たちを救うために
神の子キリストを惜しげも無く、十字架刑に差し出されました。
ここに神の私たちに対する愛がはっきりと示されたのです。

イエス・キリストは神であられるのに、人となられ、
十字架の上で私たちの罪に対する神の恐ろしい裁きを受けて下さったのです。
全く罪を犯さなかったキリストが罪人として十字架に架けられ、
苦しみの極みまで味わわれ、ののしられながら死んでゆかれたのは、
何よりも私たちの罪を赦すためだったのです。
聖書には次のように書いてあります。

「もし、罪はないと言うなら、
私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 「神はキリストの十字架において、私の罪を全て赦して下さった。」
このように信じて、自分の罪を神に告白するなら、その罪はすべて赦され、救われます。
たとえ人殺しのような重大な罪を犯したとしてもです。
神の前に赦されない罪はありません。
そして、神と正しい関係に入り、どんなに苦しいことや困難があっても、
神の素晴らしい平安の中に憩うことが出来るのです。

それだけではありません。救われた人は神の子とされ、
永遠のいのちを頂くことが出来ます。
地上での生涯が終わったら、苦しみも悲しみもない天国に行くことが出来ます。
本当に素晴らしいことです。

どうか、この文章を読んで下さった皆さんも
イエス・キリストの救いを信じ、神と共に歩む最高の人生を歩んで下さい。

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>私たちを造られ、愛される神から離れ、自分勝手に生きるという罪が
私たち自身の人生を悲惨にしているのです。

↑表面だけを真面目そうにしていても内心は自己中心の固まりでした。その頃は確かに今よりも不幸でした。他者への自然な思いやりも持てずただ肉の欲望だけを満たすような生活でした。それはつまり虚栄心、自己中心、見た目の欲、好奇心、依存心、そう言う心に関することの欲望もあります。虚栄心が酷かったので人前ではおとなしい人間を演じ内心は暗い自己中心の固まりでした。気弱な人間に見えるのですが優しいわけでもなく自然への慈愛などもなく神の被造物への感動もなく感謝もない生活でした。確かに悲惨です。

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イエスキリストの救い

http://members3.jcom.home.ne.jp/0715273401/index.html

上のサイトには、イエスキリストの救いについての情報が多く書かれています。生活感覚に基づいた分かりやすいサイトです。

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希望の光

「希望の光」という電話のサービスがあります。キリスト教のメッセージ電話です。それのサイトのようです。

http://www.pat.hi-ho.ne.jp/~fasa/tel_msg/msg_km.htm

「愛して下さるお方」  

 はい、こちらは瀬谷キリスト教会の希望のダイヤルです。 あなたは誰かに愛されていると感じる事は有るでしょうか? 私はこの教会で色々なお話を聞き、そして感じていることは、私は愛されていると言うことで、これは本当に実感できます。それは人と言うことではなく、誰かに愛されていること、そしてそれは神様に愛されていると言う事です。

 以前の私はその事が全くわからず、誰かに愛されたい、誰かを愛したいと思い、嘘をついたり、また演技をしたりして人間関係に疲れる毎日を送っていました。愛する事は人からのみ愛されることと思っていたこんな私ですが、神様は聖書の中で『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』と言われ、その言葉だけでなくイエス・キリストはすべての人のため、私のためにも身代わりとなり十字架にかかり、全ての罪の罰を受け、死んで葬られ三日目に死に勝利し復活されました。このイエス・キリストを自分の救い主と信じる者は全ての罪から解放され死んだら天国、生きている間は復活の勝利の力が与えられ、どんな試練の中にあっても導き助けを受け圧倒的な勝利者として生きる希望が与えられます。イエスさまの十字架は犠牲的な愛に寄るもので十字架の縦棒は、信じる者は神の愛を頂き平和があり、その神の愛と平和を頂いている者で、その横棒は人との関係で人をも愛することが出来、その交わりには平和があるのです。「また、神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のために神が全てのことを働かせて益としてくださる事を私達は知っています。」と、有ります。ですからたとえどんな困難や問題があっても神が全てを益に導いてくださる約束があるので感謝しています。ですから、誰かに愛されたいと演技までしても満たされないその心は、本当の愛、それは神様からの惜しみない愛を知る事で解決が与えられた事を覚えています。この最高の時を忘れる事は有りません。これは決して特別なことではなく、誰でも得られる体験です。どうかあなたも体験していただきたいと思います。

 当教会では日曜日の午前10時20分から神様の礼拝があります。是非、おいで頂けるよう、お祈りしております。  お電話ありがとう御座いました。また、お掛け下さい。お待ちしております。 ではさようなら!!

>嘘をついたり、また演技をしたりして人間関係に疲れる毎日を送っていました。

↑これは私にも言えます。長年にわたり「どうしたら人に軽蔑されずにすむのか」「どうすれば人から見下され馬鹿にされずにすむのか」などのことで苦悩していました。これは何のことはなくつまりは集スト策謀により必要以上にそう言う苦悩をするようにされていた帰来はあるようです。(言われ無き巧妙な虐めにより自己嫌悪感を植え付ける)

結果どうなったかというと「人前で徹底的に演技をする」事でした。そうしなければ受け入れて頂けないし馬鹿にされそうだし軽蔑されるかも知れない等の勘違いをしていました。しかしそうした結果どうなったかというと「真の友人などが出来ずに皆から敬遠されていく、表面でしか人と関われない、人の本心を知ることが恐ろしくなる、拠って虚栄心のみで人と接し物質的な恩を売って気を紛らわす。」と言うことになりました。

一人の時はどうだったかというと「ダイエット、食物のカロリー計算、明日の日程計画、他者への無駄な暗い憶測や被害妄想、食べ物のことで頭を満たして精神のきつさを紛らわす、音楽を麻薬代わりに流してきつさを紛らわす、他者への依存心を隠した絡み付き態度など」でした。

そして服装の見た目などに固執し無駄な買い物をしメディアの創造物を気休めに買い込んでは捨てたり売るという事を繰り返し、毎日同じような習慣を繰り返さねば気が済まず、思考は停止する、他者への柔軟な想像力は皆無となるなどの弊害に苦しんだようでした。

洗脳目的か知らないが虐めによりそう言う風に愚かにされたのです。イエスキリストの救いに預かることで先ず虚栄心をはぎ取られることとなり気取ったり虚勢を張る必要もなくなります。他者への諂いにより自己防衛する必要もなくなります。そう言う恵みがあると思います。

この犯罪の被害者で精神弊害を被る人には是非ともイエス様の救いは必要だと思います。イエスキリストの救いは人間を全ての霊的な束縛より救い出す力があります。

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メルマガ

http://www.melma.com/backnumber_151487_3997265/

上のサイトでは「成長するクリスチャン」という題名のメルマガが読めます。バックナンバーも読めるようですので良かったら読んでみてください。

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聖書に全ての解決がある

「聖書に全ての解決がある」で検索しました。

http://www.igmtokyo.com/sermon/1999/11/sermon991107.html

第1コリント15章50-58節

中心聖句

15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

(15章節)

アウトライン

復活の体は、地上の体が死によって解体された後に得られるもので、物質的にまったく同じものではない。

 復活はキリストの再臨のときに起こる。そのときには、生きている人達も、主にあって死んだ人達も皆が栄光の体に変えられる。それは一瞬のうちに、しかし皆にわかるような合図とともに起こる。

 死に対する恐怖心は今も大きな力を持って人類を苦しめている。死がもつ力は、人間の罪から来ている。つまり、死んだあとに地上で犯した罪の裁きを受けなければならないという潜在意識が、死に対する恐怖の理由である。

 死の不安に対する解決は、律法にはなく、キリストの十字架の救いにのみある。全ての罪とそれに対する刑罰はイエス様が十字架の上で徹底的に苦しむことによって終えられたのだ。

 社会や家庭で様々な問題と出会っても、イエス・キリストに目を向けている限り動揺する必要は無い。そして、与えられた立場に応じて仕事や、学業にまい進することにより神の栄光をすとき、今の世と復活の世において、神様が十分な報いを与えてくださるという希望を持って、与えられた人生をめいっぱい進もう。

教訓:死の恐怖に対する勝利は、キリストの十字架の救いにあり
 

教訓:死の恐怖に対する勝利は、キリストの十字架の救いにあり

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「与えられた仕事に学業」と言った物からは見放されているというか今時分は加害者からの激しい粘着虐待により疲弊して何も出来ない状態ですがそう言う状態の時にもイエスキリストを見上げる信仰が重要なのだと思いました。

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聖書に全ての解決があります

「聖書に全ての解決がある」で検索しました。

http://www.bbnradio.org/japanese/bbs/read.asp?id=6&page=1&table=WTBT

第6章


I. 罪とは何ですか。

 聖書を読み進むと、罪とその原因と解決がずいぶん強調されていることに、誰でも気づくでしょう。罪と言われれば、すぐ法律を破ることや殺人犯に関連したことなどを思い浮かべます。しかし、聖書でいう「罪」とは、神様が完全であられることに対して、欠けていることを意味します。 ローマ3:23に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」と書いてあります。「神様の栄光」とは、神様が100満点の完全なお方であると考えれば、罪というのは合格点に満たないということです。全ての人は罪人です。聖書の中で、罪は次のようにも表現されています。

A. 神様の立法を破ること。 ローマ5:13
B. 神様に対する反逆、または不法。 1ヨハネ3:4〔口語訳〕
C. 道徳的な不純。 詩篇32:5
D. 悪い行いと同じくらい、悪い思いも罪です。 マタイ5:28


II. 罪の起源

 記録されている一番最初の罪は、天で行われました。ル-シファと言う天使が、神様と同等の地位を求めたのです。 イザヤ14:12-14 その高慢の罪のために天から追い出され、聖書のほかの箇所では悪魔、またはサタンと呼ばれるようになりました。

 地上での最初の罪は、創世記3章に描写されています。エデンの園で行われました。神様は、善悪の知識の木の実を食べてはいけないと、アダムとエバに命じられたのです。彼らは、神様にそむいて禁じられた木の実を食べ、罪を犯した人となりました。

III. 罪の結果

A. 人類の祖先であるアダムとエバは、知識の木の実を食べて罪を犯し、自分たちが裸であることに気がついて、神様から隠れようとしました。
創世記 3:7-8 

B. 罪の罰は、死です。アダムは、罪を犯して霊的に死にました。そのために、神様から離れ、神様のみ許から追放されました。そして、肉体的にも死ぬようになりました。もちろんすぐには死にませんでしたが、アダムの体は死ぬように定められたのです。 ローマ5:12

C. アダムの罪の性質は、全人類にまで及びました。罪のある親の子供として生まれたのですから、人は皆生まれながらにして、選択の余地もなく、行動においてもみな罪人なのです。アダムの長男カインも、人を殺しました。このようにして、全人類に罪の影響が及ぶようになったのです。人は皆罪人として生まれてくるので、霊的に死んでいるし、やがて肉体的にも死ぬように定まっています。この点については、ローマ5:12-18をよく読んでください。

D. 人間の罪のために、全ての被造物が、神様に呪われたものとなりました。アダムの長男は人殺しになりました。茨とアザミはこの呪いのしるしと言えるでしょう。 創世記3:14-19に、ほかのしるしも述べられています。現代人は、人間の堕落を、ただ人間的な失敗や間違いの結果だと説明します。ある心理学者は、知識や技術に関する進歩を指して、人間はだんだんよくなって来ていると説得します。けれども、墓地、刑務所、病院、また葬儀屋がある限り、罪がなくなっているというわけではありません。どんな名目であれ、涙、病気、悲しみ、痛み、および死は、罪による結果の明らかなしるしなのです。人間はなぜ罪を犯すでしょうか。ヨハネ8:44を読んでください。罪は天で始まり、地獄で終わるのす。 黙示録20:10

IV. 罪の刑罰

 「罪が支払う報酬は死です。」 ローマ6:23 神様は、罪の刑罰が死であることを定められました。人間が、神様のみ前で認められるように、自分を完全にする方法はありません。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」 ローマ3:23 これが、霊的な死と肉体的な死を意味することは、もう学びました。この刑罰は償われなければなりません。神様は、罪のために私達を罰するか、あるいは私達を清めてその罪を赦す、いずれかの方法を取るのです。

 人間が罪の中で生きている限り、霊的には死んでいるし、肉体的な死にも直面しています。死ぬ時にまだ罪の中にいるなら、永遠の死を受けるのです。それは、永遠に神様から追放され、自分の罪のために火の池の中で苦しむという意味です。これは、黙示録20:14に語られている第二の死です。


V. 罪の解決

 神様は、人間が自分の罪のために、永遠に苦しまないように、解決方法を備えてくださいました。人間の罪を解放するために、御自分の御子を世に送ってくださったのです。主イエス・キリストは、処女マリヤから生まれました。処女から生まれたのは、罪の性質を持たないで生まれるために、絶対必要でした。これによって、アダムの罪の性質を受け継がなかったのです。全ての人間の中で、イエス様だけが罪のない人間でした。自らの意思で、十字架上で人の罪の罰を受け、聖なる神様のすべての要求を満たしてくださったのです。イエス様によって罪の罰が償われました。自分が罪人だと告白して、主イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる人に、神様は永遠の命を授けてくださるのです。 2コリント5:21 このことは、「救い」の項で、さらに詳しく説明されます。)

 人がキリストを信じたら、罪の魔力と罰から救われます。これは、人がもはや罪を犯さないという意味ではありません。しかし、人の過去と現在と将来の罪が全部赦されて、そのために裁かれないという意味なのです。キリストが死なれたのは、まだあなたが生まれる前であり、しかもあなたの罪のためだったことを思い出してください。キリストにあるクリスチャンは、罪とサタンの力と快楽のために生きるのではなく、神様のために生きる力を勝ち得ているのです。

 イエス・キリストが十字架の上で死んでくださったのは、このためなのです。
「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」1ペトロ(ペテロ)2:24


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このサイトには他にも重要なメッセージがありますので読んでみてください。

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聖書に全ての解決がある

聖書に全ての解決がある で検索しました。

http://www.jbbf.org/tokyo/komichi/sk_03.html

神の言葉の力

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
(ヘブル四・一二)

人間の心に真に働きかけるのは神のことば(聖書)であります。
このことは言葉に言い表せないほど驚くべきことです。
私たちはもっとこの事実に着目する必要がありましょう。
普通の生活の中ではあまり感じないかも知れませんが、クリスチャンとして、人間の魂に興味を持つようになりますと、人間というものがどんなに悪魔のとりこになっており、
真理に対して盲目で、滅びに向かってひた走りに走っているかが分かります。
個人伝道をしても神や聖書の真理をいっこうに評価してくれません。
問題の原因が明らかな場合でも私たちの説明など耳も傾けて貰えない時が多いのです。
これを聞いてくれたら・・・もし分かって貰えたら・・・とどんなに願うことでしょうか。
こんな時、私たちは人間の魂に切り込んでいく鋭い両刃の剣、聖書の言葉と聖霊の御働きとに心をとめるべきでしょう。
神の言葉は生きている。
実にその通りです。
「光あれと言い給いたれば、光ありき」なのです。
神はみことばにより天と地とを創造されました。
みことばそのものと呼ばれる神のみ子イエス・キリストはこの世の光として来られ、私たちのうちにあっていまだ誰も聞いたこともない様な神さまについての真の部分を説き明かして下さいます。
私たちの心の中のいろいろな考えやはかりごとに光をあてて判別させてくれる決定的な力は神のことば(聖書)にあるのです。
もちろん私たち自身、どうにもならない自分の心も祈りをもって聖書に向かい、神に向えば常に解決があるのです。
(一九八三年一月二三日)

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聖書に全ての解決があるとは実に有り難いことですね。どうか聖書を読んでみてください。

http://homepage2.nifty.com/tokyobible/sekyou/se010527.htm

上のサイトには「道は開ける」という題名のメッセージがありますが、他の説教集にも面白そうなタイトルがありますので、良ければ読んでみてください。

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聖書に全ての解決がある

聖書に全ての解決がある で検索しました。

http://www2.odn.ne.jp/shinsyo/message/2007/070311.htm

『いのちと祝福の源泉』


説教:重本 基師

聖書箇所:ヨハネ7:37-38
 
 神召教会は山奥深くにある源泉のような教会。祝福がここから流れていく教会です」先日行われた神召聖会で最初に語られた講師の言葉が心に残っています。神召教会が“いのちと祝福の源泉”として恵みに溢れ、真にいのち溢れる霊的な水を世に流していくならば人々は自ずからこの場所に集まってくるでしょう。そしてその水はこの地を潤し生かすようになるのです。

■キリストこそ“いのちと祝福の源泉”である(37)

 なぜ教会は“いのちと祝福の源泉”となることができるのでしょうか。それは私たち人間が何か努力をするからではありません。教会が主イエス・キリストのからだであり、一切のもので満ち満ちておられる方が住まわれる所であるからです(エペソ1:23)。

イエスは“祭りの終わりの大いなる日”に立ち上がって「誰でも渇いている者は私のところにきて飲みなさい」と大声で叫ぶと、人々をご自身の元へ招かれました(37)。それはユダヤ三大祭の一つで仮庵の祭と呼ばれるお祭りの最終日の出来事でした。毎年最終日のこの日には必ずシロアムの池から祭司が水を汲んできて神殿の中にある祭壇に注ぐという特別な儀式が行われました。それは全ての祝福は神様から来ることを象徴する儀式だったのです(参:エゼキエル47:1-12)。つまり、イエスはこの時にご自分こそ生ける神の子キリストであって、心の渇きをいやし、いのちと全ての祝福を与える源泉であることを力強く公言されたのです。イエスが与える水は心(霊)の渇きをいやすものであって、そればかりかその水は泉のようにその人の内で湧き上がり、川のように流れていき他の人々にも祝福が流れていくようになると約束されています(38)。

 現代は多くの人々が渇いている時代です。本当に心を満たしてくれるものを求めています。しかし、私たちの周りにあるのは争いや偽りなのです。聖書はそれらは私たちの内側にある罪に起因していると教えています(ローマ1章)。私たち人間を造られた天の父なる神を忘れ、無視し、そのみこころを求めようともせず、自分勝手に生きている私たちの自我(エゴ)が、私たち自身に渇きを起こしているというのです。

 なぜイエス・キリストは私たちの渇きを満たすことができるのでしょうか。それはこのお方こそ、天の父なる神に背いてそのいのちと祝福を受けられなくしている私たちの罪を身代わりに背負ってくださったお方だからです。父なる神と私たちの間に立ってくださったこのイエス・キリストを通してのみ私たちは神の祝福と恵みを相続することができるのです(テトス3:5-7)。だから、私たちは何をさておいてもまず主イエスの元に行くことが必要です。問題や困難がやってきた時、人間的な策略は一度横において、イエスの元に静まりひざまずいてその御名を呼び求めるのです。なぜなら、そこに全ての解決があるからです。

■いのちと祝福の水を受けるための大切なこと

①イエスに飢え渇くこと(37)

 イエスは飢え渇いている人々に呼びかけられました。イエスへの飢え渇きがあるところが主の働かれる場所になります。また、主は時に私たちに試練や困難を与えることによって主イエスへの飢え渇きを起こさせようとされることがあります。難しい問題がやってきた時は主イエスの元へ行くことがチャレンジされている時だと覚えましょう。

②イエスの元に行くこと(37)

 源泉に行かなければ水は得られません。また往々にして源泉は人里離れた山奥や森の中の注意深くしなければ見落としてしまうようなところにあるのです。祈り(話すこと)とみことばの黙想(聴くこと)を通して神の前に出て行くのです。主はあなたを招いておられます。

③イエスを信じる(信頼する)こと(38)

 神に近づくためには信仰(信頼)が必要です(参:ヘブル11:6)。多くのユダヤ人達はイエスの元に行こうとしませんでした。イエスを信じられなかったのです。神の元に行くことを妨げるものは「不信仰」、「プライド」、「恐れ」です。逆に、弱さを持った人や罪人と呼ばれた人々が単純な信仰を持ってイエスの元に行き“いのちと祝福の水”を受けたのです。

■分かち合いのための小さな質問

①メッセージで一番心に残ったことは何でしたか?

②いのちと祝福の源泉はどこにありますか?(37節)どうしてそう言えるのでしょうか?

③自分のうちに主イエスの元に行くことを妨げているものはありませんか?それは何ですか?分かち合って互いに祈りあいましょう。

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>神の元に行くことを妨げるものは「不信仰」、「プライド」、「恐れ」です。逆に、弱さを持った人や罪人と呼ばれた人々が単純な信仰を持ってイエスの元に行き“いのちと祝福の水”を受けたのです。

↑「プライド」という言葉は過去に礼拝説教で良く耳にしていました。嫌な言葉だなあと正直思っていました。何故ならそれは自分の隠された恥であったからでしょう。私の場合は「真の自尊心」ではなくて「臆病さから来る見栄」だという物かも知れません。

しかし「恥ずかしい」という感情に負けて真の自己と向き合わないのであれば又それも「プライドが邪魔している」事になるのでしょうか。当時惨めな状況に置かれていながらまだ何処かで一生懸命に「自己を誇ろうと」していました。それも無くされるようにと、神が導かれました。幻想から突き放され真の自己を見せつけられ「何という恥ずかしく惨め極まりない人生だろうか」と思いやり切れずそれに気付いたことを又誇ろうとしたことで罪に陥り真の絶望と祈りに導かれました。

そうすることで真の罪という物を知らされることになりました。それは無数にあるという感じの代物でした。「失敗の連続」は罪だと言うよりは事実に過ぎず真の罪はもっと違うところに潜んでいたようです。悪魔サタンというのは「事実に過ぎないこと」を罪だというように教えようとします。例えば社会的脱落や親不孝、過食症、金を無駄にしてしまったことなど。

しかし真の罪は悪を行いながらそれに無自覚でいることかも知れません。それと心の内側で常に犯している罪です。前者は不信仰、偶像礼拝、嘘を付く、悪への麻痺、悪い習慣、陰口、下劣な物を見聞きする、生き物や食べ物を粗末にする、感謝しない、ゴミを無駄に出す、環境を汚すなど。

後者は陰険さ、狡猾さ、虚栄心、姑息さ、軽薄さ、真実でない、傲慢さ、高慢さ、好色さ、貪欲さ、邪さ、暗さ、捻くれた考え、自惚れ、依存心など。そう言ったことかも知れません。

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聖書に全ての解決がある

「聖書の全ての解決がある」で検索しました。以下引用します。

http://www5.ocn.ne.jp/~yorichap/sinkou1.htm

4 教会外の問題の規範でもある

人間の運命

聖書はすべての人間の運命を握っています。

主イエスを信じない人々は、キリスト教を、イスラム教、仏教、ヒンズー教などと並ぶ一宗教に過ぎないと思っています。そして、聖書は、多くの宗教書の中の一つに過ぎないと見なしています。しかし、そうではありません。万物の創造し、支配している主なる神は、全ての人が守るべき規範として、聖書を与えたのです。そして、キリスト教信者でない者たちをも、聖書を基準として裁くのです。すべての人間の活動は、聖書によって吟味され、判断されて、祝福を受けるか,呪いを受けるかが決定されるのです。

聖書は、主イエスを信じる者は、罪を赦され、永遠のいのちを与えられる、と述べています。それゆえに、主イエスを信じる者は、罪を赦されて、永遠のいのちを与えられるのです。聖書が述べている通りなのです。また、主イエスを信じない者は、罪に定められ、滅びると述べています。それゆえに、信じない者は罪に定められ、滅びるのです。聖書が述べている通りなのです。信じる者も、信じない者も、聖書が述べている通りになるのです。聖書は、信じる者の運命も、信じない者の運命も決定するのです。聖書はあらゆる問題の規範だからです。

信じる者も、信じない者も、クリスチャンも、クリスチャンでない者も、無神論者も、人間の全ての活動が、聖書によって吟味され、批判されるのです。たとえ、聖書を信じていなくても、聖書を踏みにじれば、それに対する裁きが、神から来るのです。聖書は単に、信仰者の活動だけを規定しているのではありません。すべての人間の活動を規定しているのです。そして、聖書に従う者は祝福され、聖書を踏みにじる者は呪われるのです。例えば、聖書は「人を殺してはならない」と命じています。それゆえに、人を殺す者は、キリスト教国であっても、非キリスト教国であっても、神に呪われます。聖書を知らなくても、聖書の教えを守れば、祝福され、聖書の教えを踏みにじれば、呪いを招くのです。

社会生活

聖書は、クリスチャンの教会生活の規範であるだけではなく、社会生活全体の規範なのです。私たちは、家庭においても、社会においても、職場においても、常に聖書によって吟味されるのです。そして聖書に従うならば、祝福され、聖書に違反するならば、呪われるのです。

聖書は、隣人を愛し、人々と平和に暮らすことを命じています。それゆえに、信仰者であっても、非信仰者であっても、隣人を愛し、人々と平和に暮らすように努めるべきです。そうすれば、神の祝福を受け、そうしなければ、神の呪いを受けるのです。聖書は社会生活の規範だからです。

この世には、神の御心にかなわない多くの罪深い習慣や制度があります。私たちは、神の栄光を汚すような罪深いしきたりや制度には従ってはなりません。パウロは言いました。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12・2)それゆえに、罪深い制度に従う者は、神の呪いを受けるのです。それに従うことを拒否する者は、神の祝福を受けるのです。

神の御心に違反する職業には、どんなに大きな利益が約束されても、ついてはなりません。キリスト教以外の宗教活動をする職業、偶像崇拝や占いに関する職業、詐欺同然の商法を行なう会社、セックス産業などには関わってはなりません。それらの職業についていると、どんなに誠実に働いても、神の祝福はありません。

しかし、それら以外で、神が与えてくださった職業ならば、恐れたり、ためらったりすることなく、安心して働き、誠実に働くことを通して、神の祝福を受けるのです。聖書は社会生活の規範です。信仰者にとっても、非信仰者にとってもです。聖書に従えば、神の祝福が来ますが、聖書に背けば、神の呪いが来るのです。

偶像崇拝は、神に憎まれる行為です。それゆえに、偶像崇拝を行なうべきではありません。偶像崇拝を行なうならば、神に呪われるのです。クリスチャンであっても、クリスチャンでなくても、同様です。仏教徒なら、偶像崇拝が許される、というようなことはありません。この世では許されても、神の御前では許されないのです。それゆえに、神の呪いを受けるのです。クリスチャンは、偶像崇拝を強要されたなら、信仰の証を立てるべき機会だと信じて、拒否しなければなりません。

ローマ書13章1節は、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」と述べています。「上に立つ権威」とは政治権力のことです。クリスチャンは、非キリスト教国家であっても、政府に反対してはなりません。なぜならば、そうすることは、聖書に反するからです。人間は政治権力に従って、法律を守り、税を納めなければなりません。キリスト教国家であっても、非キリスト教国家であっても同様です。それゆえに、非キリスト教国家であっても、クリスチャンは革命運動などに加わるべきではありません。聖書がそれを禁じているからです。そして、その 禁止を破れば、神の裁きが来るのです。

しかしながら、私たちは、聖書の権威に真っ向から反対する政府には従うべきではありません。神に従うことが基本ですから、神に反対する政府には従うことができません。それゆえに、主イエスを信じることを禁じたり、宣教活動を妨害するような政府には従うことはできません。また、圧政を行なったり、差別を行なったり、他国を侵略するような政府を支持することはできません。そのような政府は神の御心にそぐわないのですから、改革されなければなりません。

ドイツでは、大勢のクリスチャンが、ナチ政権に反対しました。殉教した人もいました。ユダヤ人虐殺を命じた政府を支持することは、聖書の教えに反することだったので、そのような政府に反対することは当然でした。

社会の運命

神は、教会外の社会全体を、聖書に従って吟味するのです。教会外の世界は、直接的には、聖書とかかわりをもっていません。政治や経済の政策などは、聖書とは関係なく意志決定がなされ、活動が進展していきます。しかし、私たちの神は万物を創造した方であり、教会中も、教会外も支配しており、聖書を唯一の規範としているのです。そして、神は、社会や国家も、聖書に照らして吟味し、祝福するか、呪うかを決定するのです。それゆえに、聖書に背いた政策を取る国家は、たとえ非キリスト教国家であっても、神の呪いを受けるのです。

例えば、日本の江戸時代、徳川幕府はキリスト教を禁止し、日本中を偶像崇拝で満たしました。聖書は偶像崇拝を罪としています。それゆえに、神はその言葉の通り、江戸時代の日本を罪に定めたのです。その時代、日本の社会は暗くなり、不正が満ち溢れ、人々は奴隷化され、たましいの真の自由を知ることができませんでした。江戸時代の日本には、神の祝福は宿りませんでした。聖書に書かれている通りになったのです。たとえ聖書を無視しても、抹殺しても、聖書が定めた規範を否定することは出来ないのです。

江戸時代の日本人が、神の法廷に引き出されて、「なぜ、クリスチャンを迫害したのか」と問われたとき、「徳川幕府から命令されたので、やむを得ずに迫害しました。」と、言い逃れることは出来ません。言い逃れは、神の前には通用しないのです。もちろん、命令した者の罪はいっそう重いのですが、命令を実行した者も罪があるのです。

聖書が造られる以前は、聖書は存在しませんでしたが、その時代の人々の行為も、聖書によって吟味されました。アダムからノアにいたる時代の人々は、聖書を持っていませんでしたが、聖書は彼らを罪に定め、その時代の文明を滅ぼしたのです。聖書は、「暴虐が地に満ちた」と述べています。神は大洪水を起こして、ノアと彼の家族を除いて、その時代のすべての人々を滅亡させ、その文化を滅ぼしたのです。その滅亡は徹底していて、廃墟すら残しませんでした。聖書はまだ存在していなかったにもかかわらず、その時代の人々は聖書にしたがって裁かれたのです。

洪水以後、主イエスの来臨までの間、人類は古代文明を築き上げました。その時代に生きた人々は、イスラエル民族を除いて、神を信じませんでした。古代文明はことごとく、神に呪われ、裁かれ、滅び去りました。現在、古代文明は廃墟と化しています。古代文明の中で、現在まで生き残った民族は、信仰の道を歩いたイスラエル民族だけです。古代の文化は聖書を無視したので、聖書に従って滅ぼされたのです。そして、イスラエル民族は、聖書に従って、生き残ることが出来たのです。どちらも、聖書が述べている通りになったのです。

聖書には、己を神とすることは、恐ろしい罪であると述べられています。たとえ聖書を認めない者でも、己を神とするならば、神の怒りを招き、滅ぼされるのです。その時代の王たちは、己を神とし、絶対化し、己を拝ませ、己以外のすべての人間を奴隷化しました。恐ろしい奴隷制度が、地上を覆っていたのです。その文化は奴隷制度の上に築かれたものでした。そして、聖書に従って滅ぼされたのです。

たとえキリスト教国であっても、聖書に反することを行なうならば、神の裁きに会うのです。第二次世界戦争の時代のドイツは、ヒットラーの独裁的な政策によって、ユダヤ人を虐殺しました。それは全く聖書に反する行為でした。それゆえに、ナチ政権は、聖書によって滅亡に定められたのです。

5 聖書は全てについて真理を語る

聖書は誤りなき神の言葉です。私たちは、聖書は、どんなことについても真理を語っている、と信じます。

私たちは、聖書が歴史記述や自然の描写においても、誤りがないと信じます。私たちは、聖書に記された天地創造の物語、人類の初期の物語、イスラエル民族の歴史、主イエスの生涯と弟子たちの活動の記録などは誤りがない、と信じます。

キリスト教の信仰は、歴史を離れたものではなく、むしろ聖書が伝える歴史が正しいという信仰に立脚しているのです。キリスト教は歴史的な宗教であり、聖書は歴史書でもあるのです。そして、歴史書というものは真実を伝えなければ、価値がありません。私たちは、聖書は最高に価値のある歴史書であり、真実を伝えていると信じます。それゆえに、聖書の主張と明確に矛盾する歴史観は、正しいものではありません。ヘーゲルの観念論的歴史観も、マルクスの唯物史観も、その他の歴史家たちが主張する歴史観も、聖書に従っていないならば、間違っているのです。

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この犯罪行為にあったことで人間に対して絶望し、聖書に手が伸びました。聖書はこの世における様々な自分を苦しめた価値観よりの解放を覚えるみことばがありました。それまでは厳しいことを書いている難しい教条書という感じを抱き読めませんでした。読んでみても頭にも心にも入らず辞めてしまうのです。絶望的な状態でした。

それはきっと悪魔的な創造物に気を取られ、それに依存することを辞められなかったせいかもしれません。例えばメディアのものです。音楽や占いや、本や漫画や精神医学書や心理学の本やエッセイ集等です。

他には辛さを紛らわせるためのダイエット願望や食物や菓子やコンビニの商品や虚栄心や他者への依存や何かです。

ある時ダイエットに挫折し過食し食べ物で苦しみを味わい惨めさを味わい更にメディアからの激しい苛めに遭い絶望しました。それで漸く聖書に手が伸びました。

当時依存していた人間関係は何故か遠ざかり誰もいない状態でした。「聖書にしか救いがないのだろうか?聖書を学ぶ方が良いのかも知れない」と思い聖書の学び関連の本を買い読んだところ「祈ることが重要」と書かれていたので祈り求めました。その際見栄を張った体裁を繕う祈りでは意味がないため恥も外聞もなく祈り続けました。

その内に自己の罪が分かり何度か悔い改めました。聖書のみことばが心に入るようになりました。聖書にはこの世の教えに吹き回されて苦しめられた者への処方箋のようなみことばが多かったのです。この世というのは悪魔の支配下にあり聖書はその支配から救い出されるための書でありました。

聖書は生ける神のみことばです。人間は不確かであり嘘を付いたり裏切ったり見栄を張りますが聖書にはその様なことはありません。真実の言葉です。

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哀歌

「哀歌」をコピペします。哀歌には慰められるみことばがあります。

http://bible.monochro.com/index/22137/#ln22137

(確かに人をぎたぎたに苦しめつつなおも嘲笑を聞かせ続ける加害者は多いのです、不可解ですね正直の所)

(被害者の方が胡散臭く思われるように演出はされますが今はその演出加害者しかいないようです)

(確かに滅ぼすことに執着しそれを誇ることは不可解な性質です)

(道行く人は皆何処か冷淡ですし宇宙人的に見えます、個々の心の内側など計り知れません、粘着加害者は一秒すらも休むことなく虐め行為を続けます)

(確かに安眠妨害はされるし一秒も安らげないしで衰えざるを得ません)

(確かにそうですね。丸腰の個人に対して無数の集団、しかも、機械やハイテクや車や監視行為、マスコミ、組織企業、警察行政の無視や加担など、信じがたい状況です)

(そういえば卑しい人物であるかのような風評を流布されましたし、嫌な映像や写真を配布されたのかも知れません、それを上回るような有名人の盗撮画像や一般人の盗撮画像を一々仄めかすようなサイト、流通映像などもありますね)

(確かにそれに近い状態ですね)

(敵は被害者が苦しむのが嬉しい性質のようですが、考えれば加害者共は信じがたい性質です、一日中信じがたい虐待をしつつなおも粘り着いて虐めによる快楽を覚えようとするかのようです、理解できませんので困惑します、こういう変な人種がいるだろうか)

(嘆きは多く心は弱り果て・・・確かにそうです)

(まるで今の日本のようですが戦後の日本もそうだったのでしょうか)

(日本は今時分滅ぼされにかかっているのだろうか?)

(敵は良く嬌声は聞かせています)

(主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せというみことばは慰めになります)

(まるで被害者のことのようです、暴虐な行いの被害者はみなそうですが)

(光の感じ取れない状態に置かれたことは事実です)

(終日加害者の虐待に遭わされている状態みたいですね)

(八方ふさがりという感じですね)

(確かに惨めですね、この世的にはとても)

(加害者よりの滅多刺し攻撃に通じますね)

(まるで被害者の事みたいですね)

(確かに毎日獣じみた怒りの声を上げていましたし、普通の感覚を失ったようです)

(若い頃重荷をおわされることはよいことだそうです)

(このみことばは厳しいですね、私にはとても出来ず抗ってばかりです)

(災いも幸いも神の御口より出ていると書かれています)

(私は呟くどころか毎日悪態を吐き通しでしたので余計に苦しめられているのだろうか)

(人体実験虐待や心理実験虐待ゲームの事のようです)

(神は全てのことを知られるという意味だと思います)

(被害者の知らない加害者の悪態や誹りも神は知られるそうです)

(集ストに限って言うとそう言う感じですね)

(まるでメディア被害のことのようです)

(ソドムの罰は直ぐに終わったが今の罰は十数年以上は続けられていますね)

(まるで当てにならない外国の民に救いを求めることのようです)

(酔うとは罠にかかると言うことで、裸になると言うのは辱めを受けるという意味かも知れません)

(不義は必ず罰され罪は隠されていても、表されると言うことだと思います)

(これも何か集スト状況と似ています、外出したり買い物にすら行くことも何か、危険極まりない状態に耐えつつ行かねばいけませんし買い物にも行けなくなり餓死することもあるようです)

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詩篇より

詩篇81編
8わが民よ、聞け、わたしはあなたに勧告する。イスラエルよ、あなたがわたしに聞き従うことを望む。
9あなたのうちに他の神があってはならない。あなたは外国の神を拝んではならない。
10わたしはエジプトの国から、あなたをつれ出したあなたの神、主である。あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。
11しかしわが民はわたしの声に聞き従わず、イスラエルはわたしを好まなかった。
12それゆえ、わたしは彼らを/そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。
13わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。
14わたしはすみやかに彼らの敵を従え、わが手を彼らのあだに向けよう。
15主を憎む者も彼らに恐れ従い、彼らの時はとこしえに続くであろう。
16わたしは麦の最も良いものをもってあなたを養い、岩から出た蜜をもってあなたを飽かせるであろう」。
ーーーーーーーーーー

聖書の神様は人間に対して「他の神を拝んではいけない、神の道に聞き従うことを臨む」と言われています。聖書を書かれた神様は創造主の神であり全知全能の神様です。

ーーーーーーーーーー

みことば検索サイトで「罰」で検索しました。引用してコピペします。

ーーーーーーーーーー

4)どうぞ、そのわざにしたがい、その悪しき行いにしたがって彼らに報い、その手のわざにしたがって彼らに報い、その受くべきを彼らに与えてください。

5)万軍の神、主よ、あなたはイスラエルの神です。目をさまして、もろもろの国民をし、悪をたくらむ者どもに、あわれみを施さないでください。〔セラ

27)彼らに、を加え、あなたの赦免にあずからせないでください。

32)わたしはつえをもって彼らのとがをし、むちをもって彼らの不義をする。

2)地をさばかれる者よ、立って高ぶる者にその受くべきをお与えください。

10)もろもろの国民を懲らす者はすることをしないだろうか、人を教える者は知識をもたないだろうか。

箴言:第11
21)確かに、悪人はを免れない、しかし正しい人は救を得る。

31)もし正しい者がこの世でせられるならば、悪しき者と罪びととは、なおさらである。
2)善人は主の恵みをうけ、悪い計りごとを設ける人は主にせられる。
箴言:第16章
5)すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、確かに、彼はを免れない。

箴言:第17章
5)貧しい者をあざける者はその造り主を侮る、人の災を喜ぶ者はを免れない。

26)正しい人をするのはよくない、尊い人を打つのは悪い。
箴言:第19章
5)偽りの証人はを免れない、偽りをいう者はのがれることができない。
箴言:第19章
9)偽りの証人はを免れない、偽りをいう者は滅びる。
19)怒ることの激しい者はをうける、たとい彼を救ってやっても、さらにくり返さねばならない。

箴言:第20章
26)知恵ある王は、箕をもってあおぎ分けるように悪人を散らし、車をもって脱穀するように、これをする。

箴言:第21章
11)あざけるものがをうけるならば、思慮のない者は知恵を得る。知恵ある者が教をうけるならば知識を得る。

箴言:第22章
3)賢い者は災を見て自ら避け、思慮のない者は進んでいって、をうける。

箴言:第27章
12)賢い者は災を見て自ら避け、思慮のない者は進んでいって、をうける。

箴言:第28章
20)忠実な人は多くの祝福を得る、急いで富を得ようとする者はを免れない。

3)あなたがたは刑の日がきたなら、何をしようとするのか。大風が遠くから来るとき、何をしようとするのか。あなたがたはのがれていって、だれに助けを求めようとするのか。また、どこにあなたがたの富を残そうとするのか。
イザヤ書:第10章
12)主がシオンの山とエルサレムとになそうとすることを、ことごとくなし遂げられた時、主はアッスリヤ王の無礼な言葉と、その高ぶりとをせられる。
イザヤ書:第13章
11)わたしはその悪のために世をし、その不義のために悪い者をし、高ぶる者の誇をとどめ、あらぶる者の高慢を低くする。

21)その日、主は天において、天の軍勢をし、地の上で、地のもろもろの王をせられる。
14)死んだ者はまた生きない。亡霊は生き返らない。それで、あなたは彼らをして滅ぼし、彼らの思い出をことごとく消し去られた。

21)見よ、主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義をせられる。地はその上に流された血をあらわして、殺された者を、もはやおおうことがない。

1)その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレビヤタン、曲りくねるへびレビヤタンをし、また海におる龍を殺される。

2)ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑を主の手から受けた」。

9)わたしはこれらの事のために彼らをしないでいられようか。このような国民にあだを返さないであろうか」と主は言われる。

29)主は言われる、わたしはこのような事のために、彼らをしないであろうか。わたしはこのような民に、あだを返さないであろうか」。

6)万軍の主はこう言われる、「あなたがたは彼女の木を切り倒し、エルサレムにむかって塁を築け。これはすべき町である、そのうちにはただ圧制だけがある。

15)彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。すこしも恥ずかしいとは思わず、また恥じることを知らなかった。それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。わたしが彼らをするとき、彼らは倒れる」と主は言われる。

12)彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。すこしも恥ずかしいとは思わず、また恥じることを知らなかった。それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。わたしが彼らをするとき、彼らは倒れると、主は言われる。

9)主は言われる、これらのことのために、わたしが彼らをしないだろうか。わたしがこのような民にあだを返さないだろうか。

25)主は言われる、「見よ、このような日が来る。その日には、割礼をうけても、心に割礼をうけていないすべての人をわたしはする。
15)これらは、むなしいもので、迷いのわざである。せられる時に滅びるものである。
3)主は仰せられる、わたしは四つの物をもって彼らをする。すなわち、つるぎをもって殺し、犬をもってかませ、空の鳥と地の獣をもって食い滅ぼさせる。

23)主よ、あなたは彼らがわたしを殺すためにめぐらしている計略を皆ごぞんじです。その悪をゆるすことなく、その罪をあなたの前から消し去らないでください。彼らをあなたの前に倒れさせてください。あなたのお怒りになる時に彼らをしてください。

14)わたしはあなたがたを、その行いの実によってする。またその林に火をつけて、その周囲のものをみな焼き尽すと、主は言われる」。

12)それゆえ、彼らの道は、おのずから暗黒の中にあるなめらかな道のようになり、彼らは押されてその道に倒れる。わたしが彼らのせられる年に、災をその上に臨ませるからであると、主は言われる。
34)そして、『主の重荷』と言うその預言者、祭司、または民のひとりを、その家族と共にわたしはする。

12)主は言われる、七十年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデヤびとの地を、その罪のためにし、永遠の荒れ地とする。

29)見よ、わたしの名をもって呼ばれるこの町にさえ災を下すのだ。どうしてあなたがたがを免れることができようか。あなたがたはを免れることはできない。わたしがつるぎを呼び寄せて、地に住むすべての者を攻めるからであると、万軍の主は仰せられる』。

8)バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、バビロンの王のくびきを自分の首に負わない民と国とは、わたしがつるぎと、ききんと、疫病をもってし、ついには彼の手によってことごとく滅ぼすと主は言われる。

32)主はこう仰せられる、見よ、わたしはネヘラムびとシマヤとその子孫をする。彼は主に対する反逆を語ったゆえ、彼に属する者で、この民のうちに住み、わたしが自分の民に行おうとしている良い事を見るものはひとりもいない」。

11)主は言われる、わたしはあなたと共にいて、あなたを救う。わたしはあなたを散らした国々をことごとく滅ぼし尽す。しかし、あなたを滅ぼし尽すことはしない。わたしは正しい道に従ってあなたを懲らしめる。決してしないではおかない。
20)その子らは、いにしえのようになり、その会衆はわたしの前に堅く立つ。すべて彼らをしえたげる者をわたしはする。

31)わたしはまた彼とその子孫とその家来たちをその罪のためにする。また彼らとエルサレムの民とユダの人々には災を下す。この災のことについては、すでに語ったけれども、彼らは聞くことをしなかった』」。

13)わたしはエルサレムをしたように、つるぎと、ききんと、疫病をもってエジプトに住んでいる者をする。
29)主は言われる、わたしがこの所であなたがたをするしるしはこれである。わたしはこのようにしてわたしがあなたがたに災を下そうと言った事の必ず立つことを知らせよう。
21)そのうちにいる雇兵でさえ、肥えた子牛のようだ。彼らはふり返って共に逃げ、立つことをしなかった。彼らの災難の日、そのせられる時が来たからだ。
28)主は言われる、わたしのしもべヤコブよ、恐れることはない、わたしが共にいるからだ。わたしはあなたを追いやった国々をことごとく滅ぼし尽す。しかしあなたを滅ぼし尽すことはしない。わたしは正しい道に従って、あなたを懲らしめる、決してしないではおかない」。

44)恐れをさけて逃げる者は穴におちいり、穴をよじ上って出る者は、わなに捕えられる。わたしがモアブに、そのせられる年に、これらのものを臨ませるからであると主は言われる。

8)デダンに住む者よ、逃げよ、のがれよ、深い所に隠れよ。わたしがエサウの災難を彼の上に臨ませ、彼をする時をこさせるからだ。

12)主はこう言われる、「もし、杯を飲むべきでない者もそれを飲まなければならなかったとすれば、あなたはを免れることができようか。あなたはを免れない。それを飲まなければならない。
18)それゆえ万軍の主、イスラエルの神は、こう言われる、見よ、わたしはアッスリヤの王をしたように、バビロンの王とその国にを下す。

27)その雄牛をことごとく殺せ、それを、ほふり場に下らせよ。それらのものはわざわいだ、その日、そのを受ける時がきたからだ。

31)主なる万軍の神は言われる、高ぶる者よ、見よ、わたしはおまえの敵となる、あなたの日、わたしがおまえをする時が来た。

6)バビロンのうちからのがれ出て、おのおのその命を救え。そのにまきこまれて断ち滅ぼされてはならない。今は主があだを返される時だから、それに報復をされるのである。

9)われわれはバビロンをいやそうとしたが、これはいえなかった。われわれはこれを捨てて、おのおの自分の国に帰ろう。そのが天に達し、雲にまで及んでいるからだ。

18)それらは、むなしいもの、迷いのわざである。せられる時になれば滅びるものである。

44)わたしはバビロンでベルをし、そののみこんだものを口から取り出す。国々が川のように彼に流れ入ることはなくなる。バビロンの城壁は倒れた。
47)それゆえ見よ、わたしがバビロンの偶像をする日が来る。その全地ははずかしめられ、その殺される者はみなその中に倒れる。
52)主は言われる、それゆえ見よ、わたしがその偶像をする日が来る、傷つけられた者が、その全国にうめくようになる。
39)生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、人は自分の罪のせられるのを、つぶやくことができようか。
06)わが民の娘のうけた懲らしめは、ソドムのよりも大きかった。ソドムは昔、人の手によらないで、またたくまに滅ぼされたのだ。
22)シオンの娘よ、あなたの不義のは終った。主は重ねてあなたを捕え移されない。エドムの娘よ、主はあなたの不義をし、あなたの罪をあらわされる。
4)あなたはまた自分の左脇を下にして寝なさい。わたしはあなたの上にイスラエルの家のを置く。あなたはこのようにして寝ている日の間、彼らのを負わなければならない。
5)わたしは彼らのの年数に等しいその日数、すなわち三百九十日をあなたのために定める。その間あなたはイスラエルの家のを負わなければならない。

17)これは彼らをパンと水とに乏しくし、互に驚いて顔を見合わせ、そののために衰えさせるためである。
15)わたしが怒りと、憤りと、重い懲とをもって、あなたに対してさばきを行う時、あなたはそのまわりにある国々のあざけりとなり、そしりとなり、戒めとなり、驚きとなる。これは主であるわたしが語るのである。
3)いま、あなたの終りが来た。わたしはわが怒りをあなたに漏らし、あなたの行いに従って、あなたをさばき、あなたのもろもろの憎むべき物のためにあなたをする。
4)わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またあなたをあわれまない。わたしはあなたの行いのためにあなたをする。あなたの憎むべき事があなたのうちにある。これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。
8)今わたしは、すみやかにわたしの憤りをあなたの上に注ぎ、わたしの怒りをあなたに漏らし尽し、あなたの行いに従ってあなたをさばき、あなたのもろもろの憎むべき事のためにあなたをする。
9)わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またあなたをあわれまない。わたしはあなたの行いのためにあなたをする。あなたの憎むべき事があなたのうちにある。これによって、あなたがたは、主であるわたしがあなたを撃つことを知るようになる。
1)時に彼はわたしの耳に大声に呼ばわって言われた、「町をする者たちよ、おのおの滅ぼす武器をその手に持って近よれ」と。
8)それゆえ、主なる神はこう言われる、「あなたがたはむなしいことを語り、偽りの物を見るゆえ、わたしはあなたがたをすると主なる神は言われる。
10)彼らはそのを負う。その預言者のは、問い求める者のと同様である。
21)主なる神はこう言われる、わたしが人と獣とを地から断つために、つるぎと、ききんと、悪しき獣と、疫病との四つのきびしいをエルサレムに送る時はどうであろうか。
25)汚れた悪人であるイスラエルの君よ、あなたの終りの刑の時であるその日が来る。
29)彼らがあなたに偽りの幻を示し、偽りを占ったゆえ、これは殺さるべき悪しき者の首の上に置かれる。彼らの終りの刑の時であるその日がきている。
3)言え。主なる神はこう言われる、自分のうちに血を流して、その刑の時をまねき、偶像を造ってその身を汚す町よ、
17)わたしは怒りに満ちた懲をもって、大いなる復讐を彼らになす。わたしが彼らにあだを返す時、彼らはわたしが主であることを知るようになる」。
5)あなたは限りない敵意をいだいて、イスラエルの人々をその災の時、終りの刑の時に、つるぎの手に渡した。
13)また彼女が耳輪と宝石で身を飾り、その恋人たちを慕って行って、わたしを忘れ、香をたいて仕えたバアルの祭の日のために、わたしは彼女をすると主は言われる。
9)それゆえ祭司も民と同じようになる。わたしはそのわざのために彼らをし、そのおこないのために彼らに報いる。
14)わたしはあなたがたの娘が淫行をしてもしない。またあなたがたの嫁が姦淫を行ってもしない。男たちみずから遊女と共に離れ去り、宮の遊女と共に犠牲をささげているからである。悟りのない民は滅びる。

13)彼らは犠牲を好み、肉をささげてこれを食べる。しかし主はこれを喜ばれない。今、彼らの不義を覚え、彼らの罪をせられる。彼らはエジプトに帰る。

7)刑の日は来た。報いの日は来た。イスラエルはこれを知る。預言者は愚かな者、霊に感じた人は狂った者だ。これはあなたがたの不義が多く、恨みが大きいためである。
9)彼らはギベアの日のように、深くおのれを腐らせた。主はその不義を覚え、その罪をせられる。
2)主はユダと争い、ヤコブをそのしわざにしたがってし、そのおこないにしたがって報いられる。

3)主はこう言われる、「ダマスコの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼らが鉄のすり板で、ギレアデを踏みにじったからである。
6)主はこう言われる、「ガザの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼らが人々をことごとく捕えて行って、エドムに渡したからである。
9)主はこう言われる、「ツロの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼らが人々をことごとくエドムに渡し、また兄弟の契約を心に留めなかったからである。
11)主はこう言われる、「エドムの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼がつるぎをもってその兄弟を追い、全くあわれみの情を断ち、常に怒って、人をかき裂き、ながくその憤りを保ったからである。

1)主はこう言われる、「モアブの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼がエドムの王の骨を焼いて灰にしたからである。

4)主はこう言われる、「ユダの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼らが主の律法を捨て、その定めを守らず、その先祖たちが従い歩いた偽りの物に惑わされたからである。

6)主はこう言われる、「イスラエルの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼らが正しい者を金のために売り、貧しい者をくつ一足のために売るからである。
8)彼らはすべての祭壇のかたわらに質に取った衣服を敷いて、その上に伏し、金をもって得た酒を、その神の家で飲む。

2)「地のもろもろのやからのうちで、わたしはただ、あなたがただけを知った。それゆえ、わたしはあなたがたのもろもろの罪のため、あなたがたをする。
14)わたしはイスラエルのもろもろのとがをする日にベテルの祭壇をする。その祭壇の角は折れて、地に落ちる。
4)彼らの最もよい者もいばらのごとく、最も正しい者もいばらのいけがきのようだ。彼らの見張びとの日、すなわち彼らの刑の日が来る。いまや彼らの混乱が近い。

3)主は怒ることおそく、力強き者、主はすべき者を決してゆるされない者、主の道はつむじ風と大風の中にあり、雲はその足のちりである。

8)主の犠牲をささげる日に、「わたしはつかさたちと王の子たち、およびすべて異邦の衣服を着る者をする。
9)その日にわたしはまた、すべて敷居をとび越え、暴虐と欺きとを自分の主君の家に満たす者をする」。

12)その時、わたしはともしびをもって、エルサレムを尋ねる。そして滓の上に凝り固まり、その心の中で『主は良いことも、悪いこともしない』と言う人々をわたしはする。
3)「わが怒りは牧者にむかって燃え、わたしは雄やぎをする。万軍の主が、その群れの羊であるユダの家を顧み、これをみごとな軍馬のようにされるからである。

5)これを買う者は、これをほふってもせられない。これを売る者は言う、『主はほむべきかな、わたしは富んだ』と。そしてその牧者は、これをあわれまない。
15)今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みてもせられない』」。
33)へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑をのがれることができようか。

51)彼を厳に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

46)そして彼らは永遠の刑を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
46)その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。
22)それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑の日であるからだ

10)そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたをする者はなかったのか」。

11)女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたをしない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕

21)そこで、彼らはふたりを更におどしたうえ、ゆるしてやった。みんなの者が、この出来事のために、神をあがめていたので、その人々の手前、ふたりをするすべがなかったからである。
11)それから、いたるところの会堂で、しばしば彼らをして、無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、迫害の手をのばすに至りました。

8)むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らがせられるのは当然である。

3)律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪をせられたのである。
6)そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処しようと、用意しているのである。
9)そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑を受けるであろう。
29)神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑に価することであろう。

25)あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。
14)あるいは、悪を行う者をし善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。
10)特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々をして、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。

12)これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとしてを受け、必ず滅ぼされてしまうのである。
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高ぶりと偶像礼拝の罪が最も重いのかも知れません。

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イザヤ書より

聖書のイザヤ書には慰めと励ましのみことばが書かれています。
みことば検索サイト→http://bible.monochro.com/







(上の記述はまるで今の日本への言葉のようです)











(神様が何故か論じ合おうと言っています。そして人間の罪が如何に重くともそれは清まると言われています。)


(神に従う者は恵まれ背く者は滅ぼされると神様は言われています)

(まるで今の日本みたいですね)




(日本の混沌とした状態を直すという意味かも知れません)






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イザヤ書第10章
(たといどの様な権力者であっても神の刑罰からは逃れられません)

27章
2)その日「麗しきぶどう畑よ、このことを歌え。

(神の焼き尽くすような裁きに耐えられないのであれば神と和らげと言われています。)
28章
(嘲る人々はきっと偽りに頼むことで裁きを免れると信じたのでしょうか)

(神の公正な裁きは行われると書かれていると思います)

29章
14)それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」。

(神が全てを造り全知全能の方であると書かれています)
(上のみことばはまるで加害者の姿ですね)
30章