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2008年3月

箴言より

http://sugano.web.infoseek.co.jp/sei/yoko/singen-0.htm

箴言22章
5よこしまな者の道にはいばらとわながあり、
 たましいを守る者は遠くこれを離れる。

箴言24章
12あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、
 心をはかられる者はそれを悟らないであろうか。
 あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。
 彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか。

(つまりこれは集スト現象にも通じますね。)

15悪しき者がするように、
 正しい者の家をうかがってはならない。
 その住む所に乱暴をしてはならない。

(覗きや虐待への戒めです。)

16正しい者は七たび倒れても、また起きあがる、
 しかし、悪しき者は災によって滅びる。

(今高ぶる者共にもわざわいが忍び寄るのでしょう)

20悪しき者には後の良い報いはない、
 よこしまな者のともしびは消される。

21わが子よ、主と王とを恐れよ、
 そのいずれにも不従順であってはならない。

22その災はたちまち起こるからである。
 この二つの者からくる滅びをだれが知り得ようか。

(人間には知り得ないことが起きるのでしょうか)Bafe31a0

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写真は道端で見た大根花8c6c1c7a

と、最近写した空(暗い写真ですね)

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地獄について

『 地獄 』で検索した結果です。  検索結果は 15 件です。

22)しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

29)もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。

30)もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。

28)また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

9)もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。

15)偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

33)へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。

43)もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。

44)〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

45)もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。

46)〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

47)もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。

48)地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。

5)恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。

6)舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。
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聖書では「地獄」について複数の表現で記述しているようです。(「陰府」とか「地の底知れぬ所」など)

「地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。」と言う記述を、マルコの福音書内で3回も繰り返されています。これを持ち地獄を如何に恐れねばいけないと言うことが書かれているのか分かります。罪を犯すくらいならばかたわになる方がマシであるといいたげです。(表現が悪いですが)Ad8c2303

写真は増えたプリムラ

(家族が買ってきた時には花が写真の半分以下でした。とてもよく数が増えました。

とてもきれいです、神の恵みだと思います。ついでに言うと他の鉢のパンジーもよく増えて生え茂っています。今までに見たこともないような増え方でした。)

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虐待拷問について

へブル人への手紙11章

26)キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。

28)信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。

29)信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。

30)信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。

31)信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。

32)このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。

33)彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、







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聖書にはかなり怖いことが書かれています。

キリストの栄光に預かるために著しい虐待を忍んだというのです。

確かにすごい話ですが今の時代はそう言う心配のない時代だというメッセージも見ました。

しかし今時分為されている犯罪者組織からの拷問虐待行為は荒唐無稽で気味が悪いほどです。このために自殺者が出ているようです。犯罪事件を起こす者もいるようです。

何故かその組織に傅いていなければ普通に生活も出来ないという憂き目に遭い個々の立場、状況などでいたく差別されたり理不尽な目にあったりするようです。

差別社会になっていると言うことでしょうか。
私も明らかに地域加害者より慰み者にされています。嫌になるが加害者の現実の方が強いようです。

しかし聖書には確かにこうあります。神はその愛する子を懲らすと。それがない場合は私生児だとまで書かれています。みことばは時代によって解釈が変わるわけではなくきちんと成就するようになっているのかも知れません。

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19)すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
コリント第一11章
(地獄ではうじと焼かれる火に永遠に見舞われると書かれています。悪人共は信じませんが)
8)だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
(聖書にはすごいことが書かれていますね。)
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(正直の所笑ってしまいます。不遜な意味ではないですが今の暴虐が神の計画されたとは言えシュール性のある代物に思えるからです。)







(加害者共は何故か「真面目ぶるんじゃないよ」といいたげの嘲弄が激しいですので苦痛ですね)


(これはある意味世の命を重んじる余りに悪に魂を売り渡そうとする者への戒めと取れます)

(それはとても厳しい話ですね)












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イエスキリストの弟子達も救い主の処刑に及び恐れて「無関係です」と言い張った。或いは売り渡したのですよね、
考えるとこれも集ストの心理構造と同じですね。
「仲間だなどと言えば自分も酷い目に遭う」という心理です。
イエスキリスト御自身も何と集スト被害者と同様の苦痛(つまり近親者の裏切り)を味わいました。今気が付きましたが。そして罪人たちと共に十字架の辱めと苦痛を味わったのです。
それも処刑役の人より嘲りまで受けたそうですね。
それは大変なことですよね。

聖書では「神はその愛する子に鞭を加えられる」と書かれています。
「誰で儲ける懲らしめがなければそれは私生児である」とも書かれています。
だから今時分虐げに遭う人間は神に選ばれた救われるべき人間であるのかも知れません。
聖書の神様はご自分が鞭打たれて苦しまれたためにその愛する子にも同じようにしご自分の清さに預からせるのだと思います。
聖書にはその様にも書かれています。私見ですが。
そう考えると聖書には深いヒントは多く隠されていると思います。

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エレミヤ書より

エレミヤ書50章
























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私はどうも、聖書をどうしても都合よく解釈してしまいますがしかし今現在起こっている出来事も聖書になぞらえて考えねばどうにもなりません。

加害者らは明らかに神への高ぶりを露呈しています。

おまけに他者を言われもなく見世物扱いにして高ぶっています。

こういう奴等には相応の報いが下ればいいと思います。どう考えても。

人間の手には負えないために神に聞くしかないです。

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(掲示板への書き込みです)

伝道の書12章
13)事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
14)神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。
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本分とは本来負うべき義務のことだそうです。
人間は神に従わないことで既に罪とされます。
しかも隠れたことを善悪共に裁かれる方がいるとすれば
悔い改める方が良いに決まっています。

加害者らは聖書のみことばを全力で嘲る。何故かも言わずに。
ただ「力がある」「特別な技術がある」「隠れているし擁護されている」などのことで愚かしく高ぶるのだろう。
加害者らが前述のみことばの如しに「晒し者になるとき」を待ち望みたく思います。
そう言う風に言いたくなるマジで。
あの立派なチキン共ならさぞかしや面白い見世物になるであろう。うひひ。
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加害者らの悪質さに切れているために此方も凶悪化しています。
加害者らが忌まわしいです。4e25105a

写真はレンギョウの花

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「この世」についてのみことば

みことばの検索サイトで「この世」で検索しました。
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マタイによる福音書:第4章
8)次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて

32)また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。


7)この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。

30)これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。

8)ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。

34)イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、

16)神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

17)神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

19)そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。

33)神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。

23)イエスは彼らに言われた、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。

5)わたしは、この世にいる間は、世の光である」。

39)そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。

9)イエスは答えられた、「一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。 1

27)マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。 1

25)自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。

31)今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。

46)わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。

47)たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。

1)過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。

17)それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

30)わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。

18)もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。

19)もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

11)さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。

20)よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。

21)女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。

28)わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。

33)これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

9)わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです。

11)わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。

25)正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。

20)イエスは答えられた、「わたしはこの世に対して公然と語ってきた。すべてのユダヤ人が集まる会堂や宮で、いつも教えていた。何事も隠れて語ったことはない。

36)イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。

37)そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」

24)この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。

31)神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。

6)断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。

12)このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

2)あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

20)知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。

21)この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

27)それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、

28)有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無に等しい者を、あえて選ばれたのである。

6)しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。

8)この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者はひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主が十字架につけはしなかったであろう。

12)ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜った恵みを悟るためである。

18)だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。

19)なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕らえる」と書いてあり、

13)ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。

10)それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。

3)あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。

4)それだのに、この世の事件が起こると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。

31)世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。

33)結婚している男子はこの世のことに心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとして、その心が分かれるのである。

34)未婚の婦人とおとめとは、主のことに心をくばって、身も魂もきよくなろうとするが、結婚した婦人はこの世のことに心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとする。

32)しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。

19)もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在である。

12)さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇であって、良心のあかしするところである。

4)彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。

10)神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。

3)それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。

14)しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

21)彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

2)かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。

12)またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。

23)わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。

15)それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。

26)その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。

20)もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、

15)「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。

7)わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。

17)この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、


12)そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、

11)しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、

5)それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。

3)信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

38)(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。

5)愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。

11)愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。

20)彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。

17)わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。

15)第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。

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聖書は「この世」についてはっきりとある概念を語っていますね。

つまりこの世に固執するような価値観だと神を信じなくなり結果悪に加担するしかなくなるのかも知れません。或いは自殺など。神様から見ると「神を否定すること」も悪だと思います。

F3c5da11 

写真は近所の椿の木

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エレミヤの部屋より

「終末の預言」よりコピペです。部分的に引用します。
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NO. 588成就するダニエルの像に関する預言

鉄、粘土は、7つの頭と10本の角を持つ終末の獣の国アメリカです。
そして、この国がその日、主の再臨の日に、砕け、あとかたもなくなることが書かれています。
そして、その像を打った石すなわち、キリストが全土に満ちることが書かれています。
ここで、言わんとしていることは、要するにこの世の国の支配が終わり、
キリスト統治の時代に移るということです。

ですから、私達は、キリストの再臨またそれにより、起こるキリストの統治、治める国ということを
そろそろ真面目に視野に入れて、予定に入れて行動しなければなりません。

キリストの再臨、統治なんていうと、おとぎ話の類い、非現実なSF小説みたいに考えている
人もいるかもしれませんが、もうそういうのんきなことをいっている時代ではないのです。

長く続いた江戸時代が終わる頃には、もう次の時代の事を考えなければなりません。
何故なら、もう長い間続いた武士の時代は終わり、次の時代、明治の時代に入ろうとしているからです。
いつまでも刀を持つことにこだわったり、武士だ、町人だと言っている人は
次の時代についていけません。

同じ意味合いで、我々は、ダニエルの預言した像の足の時代に今います。この後起きることは、この像が
破壊され、その後、石が地に満ちることなのです。そうです、我々はかつて、江戸時代の
終わりにいた人々がしばらくして、全く違う時代、文明開化の明治の時代に突入したように、
まったく違う時代、キリストの統治の時代に入ろうとしているのです。その
備えをなすべきです。

ーーーーーーーーーーー
像を打った石とは、別名再臨のキリストのことです。
ですから、キリストの再臨とは今世界をおおう悪、アメリカやら、それを操る偽ユダヤの
横暴に対する報復、仕返し、リベンジという意味合いがあります。
彼らの国は滅ぼされ、後にはゲヘナの火が待ち受けています。

石が大きな山となって全土に満ちるとは、キリストの支配が全土に及ぶということです。
キリストが地を支配する、再臨するなんて、あまり現実感のない人々がおりますが、現実のこととして
計算に入れるべきです。
バビロン、メデイアペルシャ、ギリシャ、アメリカに至る世界帝国は現実の存在、歴史的な
存在です。それなら、それと併記して書かれている、この全土に満ちる石、キリストの支配も
夢物語なのではなく、現実のことなのです。

そうもうこの世のことに拘泥したり、つきまとわれている場合ではないのです。
かつて、あまりにも自分達の町のことがらに巻き込まれたソドム、ゴモラの町の
人々は町といっしょに滅んでしまいました。
この世のことがらに巻き込まれ過ぎてはいけないのです。

ーーーーーーーーーー
聖書は終末のしるしてとして、獣の国の出現に関して語り、それは何と私達の目の
前にすでに出現しているのです。
このことを正しく正しくとらえましょう。
もう終わりの時代はすでに始まっているのです。

終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/
(全文はサイト内の「今週のメッセージ」を見てください)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
(被害者が救われる鍵)

石が大きな山となって全土に満ちるとは、キリストの支配が全土に及ぶということです。
キリストが地を支配する、再臨するなんて、あまり現実感のない人々がおりますが、現実のこととして
計算に入れるべきです。
バビロン、メデイアペルシャ、ギリシャ、アメリカに至る世界帝国は現実の存在、歴史的な
存在です。それなら、それと併記して書かれている、この全土に満ちる石、キリストの支配も
夢物語なのではなく、現実のことなのです。

そうもうこの世のことに拘泥したり、つきまとわれている場合ではないのです。
かつて、あまりにも自分達の町のことがらに巻き込まれたソドム、ゴモラの町の
人々は町といっしょに滅んでしまいました。
この世のことがらに巻き込まれ過ぎてはいけないのです。
ーーーーーーーーー
この世は狂乱に満ちている状態ですね。
しかしそれも悪魔の策略かも知れません。
クリスチャンはこの世に固執しないという教えを聖書に頂いています。
と言う自分は巻き込まれすぎていますが。
この世を如何にも絶望状態に見せかけて神など居ないと思わせ、悪への加担や迎合を正しい道だと思わせます。
或いは自殺などに追い込みます。
しかし聖書でははっきりと「この世に調子を合わせてはいけません。」と書かれています。
寧ろ神の御心にかなう生き方をするように戒めています。
そうしたいと願っても加害者達の執拗さに負けて悪態を吐き散らしていました。ある種の絶望がそうさせるのかも知れません。
加害者達は心理工作で如何にも被害者が卑しさの固まりであるとし聖書を学ぶ気力をそがれるようにも工作するようですね。
しかし地獄行きになりたくなければ加害者への諂いは死を招くだけです。祈りたく思います。

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ローマ人への手紙12章
2)あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

コリント人への手紙第一7章

29)兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、

30)泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、

ーーーーーーーーーー
このみことばはこの世的な価値観からの解放があると思います。
しかし加害者らは望まぬ世界観を擦り付けに執拗に粘着し
切れさせて信仰の躓きを起こさせるようです。厄介な敵です。Cc306bd6
写真は近所の空

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箴言より

箴言14章

27)主を恐れることは命の泉である、人を死のわなからのがれさせる。

(死の罠とは何でしょうか、罪への無自覚でしょうか)

(確かに悟れる方が思考停止になるよりは良いです。報復は創価じみた組織の価値基準の餌食になりやすいかも知れません。)

(穏やかになりきれないことで満たされているために困りますが。)

箴言15章

3)主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。

(そうですかそれは有り難いことです)

4)優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。

(優しい言葉で生活したいが難しい状況です。努力したいですが)

10)道を捨てる者には、きびしい懲らしめがあり、戒めを憎む者は死に至る。

(今の時代はそう言う者が増えているようですね、自分もそうだったがその時まだ信仰の目は開かれて無かったです)

(宴会は持ち得ますがしかし加害者が五月蠅いのです、むかつく奴等です)

16章

3)あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。

(為すべき事があればそれが知りたいが疲弊が酷くて生きているのが正しいかどうかと思う事態です)

4)主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られた。

(悪人が神からのものですか。しかし彼奴らをどうしろと言うのでしょうかね。)

33)人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。

(くじ引きとは「人生の選択」かも知れませんね)

箴言17章

1)平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。

(平和であればたといパンの耳だけの食事でも良いがご馳走が溢れていても陰惨では・・・うちがそうかも知れませんが)

3)銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である。

(人の心は恐らくは今時分の状況にて試されている)

5)貧しい者をあざける者はその造り主を侮る、人の災を喜ぶ者は罰を免れない。

(大いに嘲りを毎日受けとります。災いもきっと嬉しいことだろう。加害者はアホですね)

(背いてきたのは正しく今の日本人だ、残忍すぎるような加害者らは在日創価かも知れない)

2)愚かな者が愚かな事をするのに会うよりは、子をとられた雌ぐまに会うほうがよい。

(そうですね腐れ加害者共との遭遇よりは良いです。あれらは気分悪くなり鬱になりますね)

18章

4)人の口の言葉は深い水のようだ、知恵の泉は、わいて流れる川である。

(知恵の書は聖書ですね)

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写真は近所の雑草(仏の座)





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箴言より

第13章



1)知恵ある子は父の教訓をきく、あざける者は、懲らしめをきかない。

(加害者らの滑らかさは如何に?)


2)善良な人はその口の実によって、幸福を得る、不信実な者の願いは、暴虐である。

(ええそうですね。初めから虐げによる騒乱を希望しています)


3)口を守る者はその命を守る、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。

(口の罪についての戒めは多いのですが私は悪い無駄口が多いために苦しめられるのか)


4)なまけ者の心は、願い求めても、何も得ない、しかし勤め働く者の心は豊かに満たされる。


5)正しい人は偽りを憎む、しかし悪しき人は恥ずべく、忌まわしくふるまう。

(確かに加害者らの動き方、振る舞いなどは忌まわしさの極みですね)


6)正義は道をまっすぐ歩む者を守り、罪は悪しき者を倒す。


7)富んでいると偽って、何も持たない者がいる、貧しいと偽って、多くの富を持つ者がいる。


8)人の富はその命をあがなう、しかし貧しい者にはあがなうべき富がない。


9)正しい者の光は輝き、悪しき者のともしびは消される。


10)高ぶりはただ争いを生じる、勧告をきく者は知恵がある。

(加害者らの異常粘着への対処法が分からずに苦しんでいます)


11)急いで得た富は減る、少しずつたくわえる者はそれを増すことができる。


12)望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ。


13)み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。


14)知恵ある人の教は命の泉である、これによって死のわなをのがれることができる。


15)善良な賢い者は恵みを得る、しかし、不信実な者の道は滅びである。


16)おおよそ、さとき者は知識によって事をおこない、愚かな者は自分の愚を見せびらかす。

(加害者らは人の反応を引き起こすために愚行をしてみせるがしかしそれへの報いは当人へ返る。)


17)悪しき使者は人を災におとしいれる、しかし忠実な使者は人を救う。

(この犯罪自体には幼少時より遭っていました。村社会的差別虐めがあったのです。宿命でしょうか)


18)貧乏と、はずかしめとは教訓を捨てる者に来る、しかし戒めを守る者は尊ばれる。


19)願いがかなえば、心は楽しい、愚かな者は悪を捨てることをきらう。


20)知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害をうける。


21)災は罪びとを追い、正しい者は良い報いを受ける。


22)善良な人はその嗣業を子孫にのこす、しかし罪びとの富は/正しい人のためにたくわえられる。


23)貧しい人の新田は多くの食糧を産する、しかし不正によれば押し流される。


24)むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。

(私の母も、懲らしめ無しで過保護で腐らせ、真の救いは与えないのですね。聖書により救われました。聖書がなければどうなっていたのか。破滅です。廃人です。)


25)正しい者は食べてその食欲を満たす、しかし悪しき者の腹は満たされない。

(「千と千尋の神隠し」という映画に出て来た「かおなし」というキャラクターのようですね。私も摂食障害の「食べ吐き」をしていた頃、満たされる事はなかったのです)



第14章



1)知恵はその家を建て、愚かさは自分の手でそれをこわす。


2)まっすぐに歩む者は主を恐れる、曲って歩む者は主を侮る。

(侮っていますね確かに。)


3)愚かな者の言葉は自分の背にむちを当てる、知恵ある者のくちびるはその身を守る。

(私も悪態が酷いために酷い目に遭っているのかも知れません。)


4)牛がなければ穀物はない、牛の力によって農作物は多くなる。


5)真実な証人はうそをいわない、偽りの証人はうそをつく。


6)あざける者は知恵を求めても得られない、さとき者は知識を得ることがたやすい。

(加害者らは毎日毎日嘲り続けていますが恐るべしワンパターン行為しかしませんね、思考停止しているのか)


7)愚かな者の前を離れ去れ、そこには知識の言葉がないからである。

(見えない場所よりハイテク犯罪者の粘着はどうした代物か)


8)さとき者の知恵は自分の道をわきまえることにあり、愚かな者の愚かは、欺くことにある。

(人を騙して自己利益に繋げるとか言う意味でしょうか)


9)神は悪しき者をあざけられる、正しい者は、その恵みを受ける。

(神の嘲りとは恐ろしい物ですね。加害者らは「見えないところから」嘲りますがそれも神の監視下でしょう)


10)心の苦しみは心みずからが知る、その喜びには他人はあずからない。


11)悪しき者の家は滅ぼされ、正しい者の幕屋は栄える。


12)人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。

(そう言う人には何言っても無駄だろうか。私も長年愚かだったが)


13)笑う時にも心に悲しみがあり、喜びのはてに憂いがある。


14)心のもとれる者はそのしわざの実を刈り取り、善良な人もまたその行いの実を刈り取る。


15)思慮のない者はすべてのことを信じる、さとき者は自分の歩みを慎む。


16)知恵ある者は用心ぶかく、悪を離れる、愚かな者は高ぶって用心しない。

(用心というか、その場凌ぎの誤魔化しだけですね。あの加害者らは。虫酸が走ります。過去の私もそうであったのか)


17)怒りやすい者は愚かなことを行い、賢い者は忍耐強い。


18)思慮のない者は愚かなことを自分のものとする、さとき者は知識をもって冠とする。


19)悪人は善人の前にひれ伏し、悪しき者は正しい者の門にひれ伏す。


20)貧しい者はその隣にさえも憎まれる、しかし富める者は多くの友をもつ。


21)隣り人を卑しめる者は罪びとである、貧しい人をあわれむ者はさいわいである。


22)悪を計る者はおのれを誤るではないか、善を計る者にはいつくしみと、まこととがある。


23)すべての勤労には利益がある、しかし口先だけの言葉は貧乏をきたらせるだけだ。

(口だけの者にはなりたくないですが・・・)


24)知恵ある者の冠はその知恵である、愚かな者の花の冠はただ愚かさである。


25)まことの証人は人の命を救う、偽りを吐く者は裏切者である。


26)主を恐れることによって人は安心を得、その子らはのがれ場を得る。


27)主を恐れることは命の泉である、人を死のわなからのがれさせる。

(神を恐れない者共が多いのですね今は。加害者らは荒唐無稽で嫌になります。いつ頃辱めに遭うのだろうか)


28)王の栄えは民の多いことにあり、君の滅びは民を失うことにある。


29)怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。

(切れてはいけないと言うことですね。難しいが加害者らは限界を超えることをし続けるからです)


30)穏やかな心は身の命である、しかし興奮は骨を腐らせる。

(骨腐れとは骨粗鬆症や、座骨神経痛とかとは違うでしょうか、痛風だろうか)


31)貧しい者をしえたげる者はその造り主を侮る、乏しい者をあわれむ者は、主をうやまう。

(ええ確かに加害者らは聖書を嘲りますね)


32)悪しき者はその悪しき行いによって滅ぼされ、正しい者はその正しきによって、のがれ場を得る。


33)知恵はさとき者の心にとどまり、愚かな者の心に知られない。


34)正義は国を高くし、罪は民をはずかしめる。

(日本人はいたく恥を見させられているがこれも偶像礼拝の故だろう)


35)賢いしもべは王の恵みをうけ、恥をきたらす者はその怒りにあう。



第15章



1)柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。


2)知恵ある者の舌は知識をわかち与え、愚かな者の口は愚かを吐き出す。


3)主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。

(見張っていますか。それは有り難いです。加害者らは「見えないところに隠れている」ことに高ぶるからです)


4)優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。

(悪態吐き散らしで傷付いています。母にも過去に暴言はいて傷付きました)


5)愚かな者は父の教訓を軽んじる、戒めを守る者は賢い者である。


6)正しい者の家には多くの宝がある、悪しき者の所得には煩いがある。


7)知恵ある者のくちびるは知識をひろめる、愚かな者の心はそうでない。


8)悪しき者の供え物は主に憎まれ、正しい者の祈は彼に喜ばれる。


9)悪しき者の道は主に憎まれ、正義を求める者は彼に愛せられる。

(創価の特殊異常ルールには虫酸はしるし疲弊します)


10)道を捨てる者には、きびしい懲らしめがあり、戒めを憎む者は死に至る。

(信仰を捨てた者が多いのかも知れません。うちの母もそうです嫌になります)


11)陰府と滅びとは主の目の前にあり、人の心はなおさらである。


12)あざける者は戒められることを好まない、また知恵ある者に近づかない。


13)心に楽しみがあれば顔色も喜ばしい、心に憂いがあれば気はふさぐ。


14)さとき者の心は知識をたずね、愚かな者の口は愚かさを食物とする。


15)悩んでいる者の日々はことごとくつらく、心の楽しい人は常に宴会をもつ。

(宴会ですか常に持つのは容易ですが加害者が五月蠅い)


16)少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる。


17)野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる。


18)憤りやすい者は争いをおこし、怒りをおそくする者は争いをとどめる。


19)なまけ者の道には、いばらがはえしげり、正しい者の道は平らかである。


20)知恵ある子は父を喜ばせる、愚かな人はその母を軽んじる。


21)無知な者は愚かなことを喜び、さとき者はまっすぐに歩む。

(愚かと言えば「生体通信技術」とかで嬌声上げていることもそうですかね)


22)相はかることがなければ、計画は破れる、はかる者が多ければ、それは必ず成る。

(複数人で協力せよと言うことですね。難しいが)


23)人は口から出る好ましい答によって喜びを得る、時にかなった言葉は、いかにも良いものだ。


24)知恵ある人の道は上って命に至る、こうしてその人は下にある陰府を離れる。


25)主は高ぶる者の家を滅ぼし、やもめの地境を定められる。


26)悪人の計りごとは主に憎まれ、潔白な人の言葉は彼に喜ばれる。

(謀だらけの国ですね)


27)不正な利をむさぼる者はその家を煩わせる、まいないを憎む者は生きながらえる。

(創価の加害者はそうみたいだが)


28)正しい者の心は答えるべきことを考える、悪しき者の口は悪を吐き出す。


29)主は悪しき者に遠ざかり、正しい者の祈を聞かれる。

(加害者が神と無縁の世界にいることは空のきれいさにも無関心でワンパターン愚劣行為を病的にしておることで明らかですが。祈りについては困難さを覚えている。)


30)目の光は心を喜ばせ、よい知らせは骨を潤す。


31)ためになる戒めを聞く耳をもつ者は、知恵ある者の中にとどまる。


32)教訓を捨てる者はおのれの命を軽んじ、戒めを重んじる者は悟りを得る。


33)主を恐れることは知恵の教訓である、謙遜は、栄誉に先だつ。



第16章



1)心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。


2)人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。

(確かに立派に見える人間はいますが)


3)あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。


4)主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られた。

(あの嫌な悪人も神からのものですか、嫌ですね)


5)すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、確かに、彼は罰を免れない。

(今時分加害者らは滑らかに見えるが実態は?)


6)いつくしみとまことによって、とがはあがなわれる、主を恐れることによって、人は悪を免れる。


7)人の道が主を喜ばせる時、主はその人の敵をもその人と和らがせられる。


8)正義によって得たわずかなものは、不義によって得た多くの宝にまさる。

(陰謀計画によって得た物は無価値と言うことですね)


9)人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。

(人生計画ですね。自己の道は自己で知り得ないと言うことですね)


10)王のくちびるには神の決定がある、さばきをするとき、その口に誤りがない。


11)正しいはかりと天びんとは主のものである、袋にあるふんどうもすべて彼の造られたものである。


12)悪を行うことは王の憎むところである、その位が正義によって堅く立っているからである。


13)正しいくちびるは王に喜ばれる、彼は正しい事を言う者を愛する。


14)王の怒りは死の使者である、知恵ある人はこれをなだめる。

(創価みたいな感じでしょうか)


15)王の顔の光には命がある、彼の恵みは春雨をもたらす雲のようだ。


16)知恵を得るのは金を得るのにまさる、悟りを得るのは銀を得るよりも望ましい。

(金儲けに腐心するなと言うことですね)


17)悪を離れることは正しい人の道である、自分の道を守る者はその魂を守る。


18)高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。

(加害者共の高ぶり様は信じがたいです)


19)へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる。

(貧しい者と共にいたいが出会いがないですし行動する気力もない)


20)慎んで、み言葉をおこなう者は栄える、主に寄り頼む者はさいわいである。


21)心に知恵ある者はさとき者ととなえられる、くちびるが甘ければ、その教に人を説きつける力を増す。


22)知恵はこれを持つ者に命の泉となる、しかし、愚かさは愚かな者の受ける懲らしめである。


23)知恵ある者の心はその言うところを賢くし、またそのくちびるに人を説きつける力を増す。


24)ここちよい言葉は蜂蜜のように、魂に甘く、からだを健やかにする。


25)人が見て自分で正しいとする道があり、その終りはついに死にいたる道となるものがある。

(自己の判断に頼るなと言うことですね)


26)ほねおる者は飲食のためにほねおる、その口が自分に迫るからである。


27)よこしまな人は悪を企てる、そのくちびるには激しい火のようなものがある。


28)偽る者は争いを起し、つげ口する者は親しい友を離れさせる。


29)しえたげる者はその隣り人をいざない、これを良くない道に導く。

(今の犯罪で行われていますね)


30)めくばせする者は悪を計り、くちびるを縮める者は悪事をなし遂げる。


31)しらがは栄えの冠である、正しく生きることによってそれが得られる。

(毛染めなどで隠すことは無益なのですね。正しく生きていない証拠だろうか?)


32)怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。

(ある時より切れっぱなしです。しかし過去には肉の欲への歯止めがありませんでした。)


33)人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。

(くじとは人生の選択みたいですね)



第17章



1)平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。

(そうですねご馳走があっても陰惨では無意味です)


2)賢いしもべは身持の悪いむすこを治め、かつ、その兄弟たちの中にあって、資産の分け前を獲る。


3)銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である。

(悪と善との篩い分けかも知れません)


4)悪を行う者は偽りのくちびるに聞き、偽りをいう者は悪しき舌に耳を傾ける。

(悪人は偽りを好むと言うことですね)


5)貧しい者をあざける者はその造り主を侮る、人の災を喜ぶ者は罰を免れない。

(加害者のことですね)


6)孫は老人の冠である、父は子の栄えである。


7)すぐれた言葉は愚かな者には似合わない、まして偽りを言うくちびるは/君たる者には似合わない。


8)まいないはこれを贈る人の目には幸運の玉のようだ、その向かう所、どこでも彼は栄える。


9)愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる。

(風評流布もそうですね)


10)一度の戒めがさとき人に徹するのは、百度の懲らしめが愚かな人に徹するよりも深い。

(私は数十回戒めを受けたと思うが悟れませんでした。アホですね)


11)悪しき者はただ、そむく事のみを求める、それゆえ、彼に向かっては残忍な使者がつかわされる。

(私にも当て嵌まりますし日本にも当て嵌まるでしょう)


12)愚かな者が愚かな事をするのに会うよりは、子をとられた雌ぐまに会うほうがよい。

(そうですね加害者は見たくありませんね鬱になるし)


13)悪をもて善に報いる者は、悪がその家を離れることがない。

(私もそう言うことをしましたしされているかも知れません)


14)争いの初めは水がもれるのに似ている、それゆえ、けんかの起らないうちにそれをやめよ。


15)悪しき者を正しいとする者、正しい者を悪いとする者、この二つの者はともに主に憎まれる。

(今はそれが多いですね)


16)愚かな者はすでに心がないのに、どうして知恵を買おうとして/手にその代金を持っているのか。


17)友はいずれの時にも愛する、兄弟はなやみの時のために生れる。


18)知恵のない人は手をうって、その隣り人の前で保証をする。


19)争いを好む者は罪を好む、その門を高くする者は滅びを求める。

(加害者からの粘着挑発に困り果てています)


20)曲った心の者はさいわいを得ない、みだりに舌をもって語る者は災に陥る。

(私も過去に良く親などに屁理屈コネまくりでした)


21)愚かな子を生む者は嘆きを得る、愚か者の父は喜びを得ない。


22)心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす。

(魂の悲しみは結局は自己の罪からです)


23)悪しき者は人のふところからまいないを受けて、さばきの道をまげる。

(賄賂ですか今の悪はそれが多そうです)


24)さとき者はその顔を知恵にむける、しかし、愚かな者は目を地の果にそそぐ。

(地の果て・・・よくアーチストの作り出す歌にありそうです)


25)愚かな子はその父の憂いである、またこれを産んだ母の痛みである。


26)正しい人を罰するのはよくない、尊い人を打つのは悪い。

(今の日本でし放題です)


27)言葉を少なくする者は知識のある者、心の冷静な人はさとき人である。


28)愚かな者も黙っているときは、知恵ある者と思われ、そのくちびるを閉じている時は、さとき者と思われる。

(無駄口言いまくりです)



第18章



1)人と交わりをしない者は口実を捜し、すべてのよい考えに激しく反対する。

(人と交わりたいと思うが敬遠される)


2)愚かな者は悟ることを喜ばず、ただ自分の意見を言い表わすことを喜ぶ。

(今の日本人の聖書に無関係の議論好きみたいですね)


3)悪しき者が来ると、卑しめもまた来る、不名誉が来ると、はずかしめも共にくる。


4)人の口の言葉は深い水のようだ、知恵の泉は、わいて流れる川である。


5)悪しき者をえこひいきすることは良くない、正しい者をさばいて、悪しき者とすることも良くない。


6)愚かな者のくちびるは争いを起し、その口はむち打たれることを招く。

(私は自己の悪態のためにこうも酷い目に遭うのだろうか、きつい話だ。過去にも親に悪態で絡みついたが)


7)愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分を捕えるわなとなる。


8)人のよしあしをいう者の言葉は/おいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ。


9)その仕事を怠る者は、滅ぼす者の兄弟である。


10)主の名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救を得る。


11)富める者の富はその堅き城である、それは高き城壁のように彼を守る。


12)人の心の高ぶりは滅びにさきだち、謙遜は栄誉にさきだつ。


13)事をよく聞かないで答える者は、愚かであって恥をこうむる。


14)人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えようか。

(肉体よりは精神の苦痛の方がきついと言いますが

地獄での焼かれる火とうじは果たして魂の苦悩の問題かも知れない)


15)さとき者の心は知識を得、知恵ある者の耳は知識を求める。


16)人の贈り物は、その人のために道をひらき、また尊い人の前に彼を導く。


17)先に訴え出る者は正しいように見える、しかしその訴えられた人が来て、それを調べて、事は明らかになる。

(明らかにされない裁判も多いですね、いつ頃暴露されるか)


18)くじは争いをとどめ、かつ強い争い相手の間を決定する。


19)助けあう兄弟は堅固な城のようだ、しかし争いは、やぐらの貫の木のようだ。


20)人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。


21)死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。


22)妻を得る者は、良き物を得る、かつ主から恵みを与えられる。


23)貧しい者は、あわれみを請い、富める者は、はげしい答をする。

(激しい答えですか、言い得て妙ですね、しかし言葉を使わない激しさもありますね。粘着ハイテク身心いびりなど。異常ですね嫌になります)


24)世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。


第19章



1)正しく歩む貧しい者は、曲ったことを言う愚かな者にまさる。

(屁理屈を言っても災いに陥ると言うことですね)


2)人が知識のないのは良くない、足で急ぐ者は道に迷う。


3)人は自分の愚かさによって道につまずき、かえって心のうちに主をうらむ。


4)富は多くの新しい友を作る、しかし貧しい人はその友に捨てられる。


5)偽りの証人は罰を免れない、偽りをいう者はのがれることができない。

(逃れられないとは意味深です。加害者らは「見えないし捕まらない」と言うことで高ぶっているからです)


6)気前のよい人にこびる者は多い、人はみな贈り物をする人の友となる。


7)貧しい者はその兄弟すらもみなこれを憎む、ましてその友はこれに遠ざからないであろうか。言葉をかけてこれを呼んでも、去って帰らないのである。


8)知恵を得る者は自分の魂を愛し、悟りを保つ者は幸を得る。


9)偽りの証人は罰を免れない、偽りをいう者は滅びる。

(加害者らは偽りで満たされています)


10)愚かな者が、ぜいたくな暮しをするのは、ふさわしいことではない、しもべたる者が、君たる者を治めるなどは、なおさらである。

(そう言う過去はありました、今もそうですが自力ではどうにもなりません)


11)悟りは人に怒りを忍ばせる、あやまちをゆるすのは人の誉である。

(しかしつい愚痴りたくなりますが。今の状態でどうしろと)


12)王の怒りは、ししのほえるようであり、その恵みは草の上におく露のようである。


13)愚かな子はその父の災である、妻の争うのは、雨漏りの絶えないのとひとしい。


14)家と富とは先祖からうけつぐもの、賢い妻は主から賜わるものである。


15)怠りは人を熟睡させる、なまけ者は飢える。


16)戒めを守る者は自分の魂を守る、み言葉を軽んじる者は死ぬ。

(みことばは私も軽視してしまっていましたが恐ろしいことなのですね)


17)貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ、その施しは主が償われる。


18)望みのあるうちに、自分の子を懲らせ、これを滅ぼす心を起してはならない。

(うちの親、私を懲らしめしないで駄目にして廃人化する事を望んでいたように思えるのだが)


19)怒ることの激しい者は罰をうける、たとい彼を救ってやっても、さらにくり返さねばならない。

(毎日激しく怒り狂いまくりですが、どうしろと言いたくなります)


20)勧めを聞き、教訓をうけよ、そうすれば、ついには知恵ある者となる。


21)人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。

(悪の計画はたくましいようです)


22)人に望ましいのは、いつくしみ深いことである、貧しい人は偽りをいう人にまさる。


23)主を恐れることは人を命に至らせ、常に飽き足りて、災にあうことはない。


24)なまけ者は、手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをしない。


25)あざける者を打て、そうすれば思慮のない者も慎む。さとき者を戒めよ、そうすれば彼は知識を得る。


26)父に乱暴をはたらき、母を追い出す者は、恥をきたらし、はずかしめをまねく子である。


27)わが子よ、知識の言葉をはなれて人を迷わせる/教訓を聞くことをやめよ。

(そう言う類の言葉は多いかも知れませんね)


28)悪い証人はさばきをあざけり、悪しき者の口は悪をむさぼり食う。

(確かに嘲っていますね。「裁きなどありません」と。絵に描いたようです)


29)さばきはあざける者のために備えられ、むちは愚かな者の背のために備えられる。

(加害者らは嘲り続けますねしかも聖書も。聖書により頼む姿を嘲ります。祈りも嘲りますね。彼らの行為は荒唐無稽すぎて逆に理解できません。)

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詩篇より

詩篇より







































詩篇22編
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上の記述は恐らくはイエスキリストが処刑される状況に思えますが、「しかし私は虫けらです、人間ではない」と言うのは虐待被害者の状況と似ていますね。
加害者らはまるで「虫けらを殺す」様に虐待をしている。
私もそうですが今までに話をした人間が結構過去に生物への虐待をしている。それも何か暗い心理的事情があった結果のようです。
特に虫などは悲惨ですねまるで神経など無いかの如くに扱われ千切られたり切られたり踏みつぶされたり殺虫剤まかれたり水漬けにされたり洗剤漬けになったり標本化されたり。私は無力な野生の蟻の巣を壊して遊ぶという残酷なことをしましたがこれも蟻の立場に立てば馬鹿げた愚行です。
言われ無き存在に認識も出来ない状態で破壊されるのです。それも何十倍も何百倍も大きな存在ですね。人間と蟻では。
私は当時なにも考えずにただただ愉悦に浸るために蟻の巣壊ししていました。
足で踏みつぶしたりしていました。
逃げまどい何も分からずに恐慌に陥る蟻の姿が愉快でした。
当時自分自身が何かの強い抑圧下にあったのでしょうか。
今の暴虐はその当時にしていた行為への報いとも言えます。
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ところで、過去に「藤子不二雄」という作家の作品を読んでいましたがこれにも今で言う「藤子・F・不二雄」という作家の人間が描いた作品に人間を鋭く批判するような物がありました。それは人間をまるで虫けらの如しに虐殺し、標本じみた扱いすらする存在があるという物です。
それも何か、当時の時点で高ぶる人間への強烈な警告じみた物に思えました。
はっきり言ってグロテスクな内容でしたがリアルな感じがしました。

世に言う「警告を発する」タイプの作家先生はその様な賜物を神より与えられていたのですね。きっと。

今までいろいろと発されていた警告は聞く必要のある物だったのですね。

しかしその様な事柄も聖書には書かれているようでした。

今の世の事象とは聖書に初めから預言されていたかも知れません。366af196

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写真は最近写した空(暗い写真ですね。)

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加害者共の心理

聖書のみことばより引用します
ヨブ記 第25章
1)そこでシュヒびとビルダデは答えて言った、
2)「大権と恐れとは神と共にある。彼は高き所で平和を施される。
3)その軍勢は数えることができるか。何物かその光に浴さないものがあるか。
4)それで人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生れた者がどうして清くありえようか。
5)見よ、月さえも輝かず、星も彼の目には清くない。
6)うじのような人、虫のような人の子はなおさらである」。
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(掲示板への書き込みをコピペします)
>加害者の心理状態は家畜を虐殺する行為に等しいです。

この表現の意味合いが今朝になり漸く理解できました。
私も幼い時分によく生物への無自覚虐待をしていました。
蟻の巣を突き回して破壊していたのです。
旅行先の山荘によく、大きめの赤蟻が木の枝などできれいな巣を造っていたので、何の考えも無しにそれを棒などでかき回し、壊して、蟻共が驚き逃げ回り慌てる様を面白がっていました。
考えると愚かしい行為です。今になり思い出しました。
蟻のように小さい生物も、所詮は神が知恵を持ち造られた存在に過ぎない、それが理解できませんでした。
当時小学生くらいだったがきっと精神的にはかなり荒みきっていたのだろう。
他にも生物への虐待はもしかすると山ほどしています。
ーーーーーーーーー
集ストが酷くなってからはメディア被害などのストレスでそれも加害者への諂いをしていたために精神が病み飼っていたペットへの虐待をしました。明らかに自己を虐待している存在への諂いが弱者(つまり家畜であるペット)虐めに繋がりました。抑圧の結果だと思います。
ーーーーーーーーー
そして今時分被害者共を面白おかしく(マジで)苛めまくり生活や精神を破壊しつつ楽しんでいる加害者つまりは虐待者共は、正しく「当時蟻の巣を何の考えも無しに面白半分に破壊し逃げまどう様を見て悦に入る」自分と同じですね。心理的には似ているでしょう、と言うか同じかも知れません。
そしてその、生活体系を築いて生きているだけの蟻の巣をいきなり破壊し面白がる私は単に「親にへばり付いて依存しつつ生きているのみの無知で幼い者」に過ぎませんでした。

破壊する虐待加害者の心理を考えるとこういう物だと思うと感覚的には分かりやすい気もしますが彼らに何を言おうが無駄だと言うことの理由も少しは分かる気もします。
「面白い快楽だしかも私達は擁護されているし相手は卑しい存在で自分達は高等生物だから良いし」
と言うような感じなのかも知れません。
恐ろしいことですがそれが一つの現実である気もします。
どれ程までにおぞましくてやり切れず理不尽であったとしてもですね、やはり自己の咎が何処かで関わっている。
全てのことは神より出ているとすればそう考えるしかない。
悔い改めをすることは今の人間にとり最重要項目だと思います。
神に立ち返ることで必ず救われます。



蟻共は本能に基づき単に立派な巣を造り生活しているだけだ。
しかしそこに高慢な破壊者がいきなり棒で突き回して破壊する。
「面白い」と言うだけの理由、他には何もない。
その破壊している相手への恨みもない、単なる「憂さ晴らし」であります。
私も何かの家庭内での抑圧が酷かったのかも知れません、それが弱者生物への虐待に繋がったのだろう。

蟻は単に本能に従って生物体系通りにやっているだけ。
しかしそこに変な高慢な存在が破壊しにかかる。そして悦にいる。
それが私のしていたことでした。

今の加害者共の行為は正しくそれを彷彿とさせる、
加害者共の異常性が理解できないのも分かる。
神が人間(この場合私)に対し戒めを込めてしていたのです。
人間とは思えないほどの凄さ、異常性、高ぶり、不可解さ。

当時何の考えも無しに蟻の巣を破壊し楽しみ偉くなったようなつもりでいた自分と同じかも知れません。
そう言うことを考えました。


母親の幼児虐待のニュースを、少し前に散髪屋のテレビで聞きました。それを見聞きした後散髪屋の人間に聞くと「毎日毎日何かと事件が起きているのでよく分からなくなりますね」などと言われていたようです。
地域には明らかに集スト現象でおかしくなっているがそれに触れたがる人間はいません。

所で幼児虐待のことですがこれも私が敵(つまり加害者共)への変な諂いによって精神的に変になり何もしていないはずのペットを勝手な憤りより虐待をした。自己中心な怒りによって殴ったりしていました。しかしそれに苦しんでいました。「何故だろうか」などと。

しかし後に「加害者への不自然な諂い」が理由だと思いました。その為に抑圧が酷くなり歪んだのだろう。加害者に対し常に気を遣い諂っていたのは恐怖からです。対立したら何が起きるか知れないと言うことです。
結果的には此方が限界ブチ切れし、その結果激しく集ストが展開されたが。いとも分かりやすい性質だという気もします。(加害者は)

母親の幼児虐待なども何処かで強い抑圧傾向があった結果かも知れません。その為に無力なはずの幼児を虐待する、そして苦しむのです。

そして幼児虐待に至るまでの下地も又、加害者のメディア等によってなされているかも知れません。
そう言う人間は被害者側であり創価などの家族には逆になさそうだという気もします。決めつけですが彼らは根っから腹黒い事を子にも植え付けてしまうみたいだからです。
しかしそのツケは果たして見えるときは来るだろうか。

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箴言より

箴言5章

21人の道は主の目の前にあり、
 主はすべての、その行いを見守られる。

(↑神に全てを見守られていると言うことですね。)

22悪しき者は自分のとがに捕えられ
 自分の罪のなわにつながれる。

(悔い改めがなければ後で嫌な目にに遭うと言うことですね。)

23彼は、教訓がないために死に、
 その愚かさの大きいことによって滅びる。

(滅びというのは要するに地獄のことだそうです)

箴言6章

16主の憎まれるものが六つある、
 否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。

17すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、
 罪なき人の血を流す手、

18悪しき計りごとをめぐらす心、
 すみやかに悪に走る足、

19偽りをのべる証人、
 また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。

(↑まるで集ストのことみたいですね)


32女と姦淫を行う者は思慮がない。
 これを行う者はおのれを滅ぼし、

33傷と、はずかしめとを受けて、
 その恥をすすぐことができない。

34ねたみは、その夫を激しく怒らせるゆえ、
 恨みを報いるとき、容赦することはない。

35どのようなあがない物をも顧みず、
 多くの贈り物をしても、和らがない。

(上の箇所は恐らくは霊的な姦淫つまり偶像礼拝のことだと思います。神様を「夫」に喩えているのだと思います。神の怒りは何よりも恐ろしいと言うことです。私もそれを覚えています。)

箴言7章

1わが子よ、わたしの言葉を守り、
 わたしの戒めをあなたの心にたくわえよ。

2わたしの戒めを守って命を得よ、
 わたしの教えを守ること、ひとみを守るようにせよ。

3これをあなたの指にむすび、
 これをあなたの心の碑にしるせ。


24子供らよ、今わたしの言うことを聞き、
 わが口の言葉に耳を傾けよ。

25あなたの心を彼女の道に傾けてはならない、
 またその道に迷ってはならない。

26彼女は多くの人を傷つけて倒した、
 まことに、彼女に殺された者は多い。

27その家は陰府へ行く道であって、
 死のへやへ下って行く。

(25-27は創価の事みたいですね)

箴言8章
10あなたがたは銀を受けるよりも、わたしの教えを受けよ、
 精金よりも、むしろ知識を得よ。

(金に固執することよりも神の戒めの方が重要だと書かれています。)

11知恵は宝石にまさり、
 あなたがたの望むすべての者は、
 これと比べるにたりない。

12知恵であるわたしは悟りをすみかとし、
 知識と慎みとをもつ。

13主を恐れることは悪を憎むことである。
 わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、
 偽りの言葉を憎む。

(高ぶりはどうしても私が陥りがちの罪ですが人間はどうしても上の要素を持ち合わせているのかも知れません。)

14計りごとと、確かな知恵とは、わたしにある、
 わたしには悟りがあり、わたしには力がある。

(全てのことは神様より出ているそうです。)

箴言8章
23愚か者は、戯れ事のように悪を行う、
 さとき人には賢い行いが楽しみである。

(確かに加害者達は虐げをゲームだと言いますね。)

24悪しき者のおそれることは自分に来たり
 正しい者の願うことは与えられる。

(加害者らの恐れることは何でしょうか。自己の姿や実態の暴露でしょうか。)

箴言11章
2高ぶりが来れば、恥もまた来る、
 へりくだる者には知恵がある。

(私も高ぶりからしょっちゅう恥をかいています。)

31もし正しい者がこの世で罰せられるならば、
 悪しき者と罪人は、なおさらである。

(あの滑らか三昧に見える悪人共が裁きと報いに遭うとは今のところ想像出来づらいですね。残念ですが。)

箴言12章

2善人は主の恵みをうけ、
 悪い計りごとを設ける人は主に罰せられる。

(加害者らは「はかりごと」の名人ですね。それで成り立つようです。)

箴言13章
13み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、
 戒めを重んじる者は報いを得る。

(加害者らは徹底してそれを嘲りますが私も何処かで軽んじてしまう嫌いがあります。人に言っても理解されそうもないなどで)


21災は罪びとを追い、
 正しい者は良い報いを受ける。

(災いに追い回されている気もしますがそれは加害者らの威嚇嘲弄干渉粘着であります、他のことはそれ程気になるわけではないかも知れません。コミュニケーション無しに粘着嫌がらせがきついですね。)

4f5361e3 ーーーーーーーーーー

写真は最近写した空(暗い写真ですね)

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詩篇より

詩篇120編      

3欺きの舌よ、おまえに何が与えられ、何が加えられるであろうか。

4ますらおの鋭い矢と、えにしだの熱い炭とである。

詩篇125編    

4主よ、善良な人と、心の正しい人とに、さいわいを施してください。

5しかし転じて自分の曲がった道に入る者を

主は、悪を行う者と共に去らせられる。イスラエルの上に平安があるように。

詩篇141編    

6彼らはおのれを罪に定める者にわたされるとき、

主のみ言葉のまことなることを学ぶでしょう。

7人が岩を裂いて地の上に打ち砕くように、

彼らの骨は陰府の口にまき散らされるでしょう。

(「彼らはおのれを罪に定める者にわたされるとき」というみことばは加害者らに当て嵌まると思います。彼らは自分達の悪を裁く存在など無きが如くに高ぶるからです。現に聖書の戒めやみことばを絵に描いた餅見たく嘲っています。)

詩篇146編

6主は天と地と、海と、その中にあるあらゆるものを造り、
とこしえに真実を守り、

7しえたげられる者のためにさばきをおこない、飢えた者に食物を与えられる。
主は捕われ人を解き放たれる。

8主は盲人の目を開かれる。主はかがむ者を立たせられる。
主は正しい者を愛される。

詩篇147編      

3主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。

4主はもろもろの星の数を定め、すべてそれに名を与えられる

5われらの主は大いなる神、力も豊であって、その知恵ははかりがたい。

6主はしえたげられた者をささえ、悪しき者を地に投げ捨てられる。

11主はおのれを恐れる者とそのいつくしみを望む者とをよみせられる。

15主はその戒めを地に下される。そのみ言葉はすみやかに走る。

(詩篇書き写しサイト↓)

http://sugano.web.infoseek.co.jp/sei/yoko/sihen.htm

ーーーーーーーーーーーーー

箴言1章

7主を恐れることは知識のはじめである、
 愚かな者の知恵と教訓を軽んじる。

箴言3章

5心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。

6すべての道で主を認めよ、
そうすれば、主はあなたの道をまつすぐにされる。

7自分を見て賢いと思ってはならない、
 主を恐れて、悪を離れよ。

8そうすれば、あなたの身を健やかにし、
 あなたの骨に元気を与える。


11わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、
 その戒めをきらってはならない。

12主は、愛する者を、戒められるからである、
 あたかも父がその愛する子を戒めるように。

箴言4章

6知恵を捨てるな、それはあなたを守る。
 それを愛せよ、それはあなたを保つ。

7知恵の初めはこれである、知恵を得よ、
 あなたが何をなし得るにしても、悟りを得よ。

13教訓をかたくとらえて、離してはならない、
 それを守れ、それはあなたの命である。


19悪しき人の道は暗やみのようだ、
 彼らは何につまづくかを知らない。

(悪人の躓きとは何でしょうか、早い所見たい物です)


20わが子よ、聞け、わたしの言葉に心をとめ、
 わたしの語ることに耳を傾けよ。

21それを、あなたの目から離さず、
 あなたの心のうちに守れ。

22それは、これを得る者の命であり、
 またその全身を健やかにするからである。

23油断することなく、あなたの心を守れ、
 命の泉は、これから流れ出るからである。

ーーーーーーーーーー

箴言が書かれているサイトです↓

http://sugano.web.infoseek.co.jp/sei/yoko/singen-0.htm

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詩篇より

詩篇35篇 ダビデの歌
1主よ、わたしと争う者とあらそい、わたしと戦う者と戦ってください。
2盾と大盾とを執って、わたしを助けるために立ちあがってください。
3やりと投げやりとを抜いて、わたしに追い迫る者に立ちむかい、
    「わたしはおまえの救である」と、わたしに言ってください。
4どうか、わたしの命を求める者を/はずかしめ、いやしめ、
    わたしにむかって悪をたくらむ者を退け、あわてふためかせてください。

(そうなると良いですね)

5彼らを風の前のもみがらのようにし、主の使に彼らを追いやらせてください。
6彼らの道を暗く、なめらかにし、主の使に彼らを追い行かせてください。

(暗く滑らかは正しく加害者の姿ですね)

7彼らはゆえなくわたしのために網を隠し、ゆえなくわたしのために穴を掘ったからです。
8不意に滅びを彼らに臨ませ、みずから隠した網にとらえられ、彼らを滅びに陥らせてください。


9そのときわが魂は主によって喜び、その救をもって楽しむでしょう。
10わたしの骨はことごとく言うでしょう、「主よ、だれかあなたにたぐうべき者がありましょう。
    あなたは弱い者を強い者から助け出し、弱い者と貧しい者を、
    かすめ奪う者から助け出される方です」と。

(助け出してくださるのですか、それは感謝です)

11悪意のある証人が起って、わたしの知らない事をわたしに尋ねる。
12彼らは悪をもってわたしの善に報い、わが魂を寄るべなき者とした。

(暗闇の生活でした)

13しかし、わたしは彼らが病んだとき、荒布をまとい、断食してわが身を苦しめた。
    わたしは胸にこうべをたれて祈った、
14ちょうど、わが友、わが兄弟のために/悲しんだかのように。
    わたしは母をいたむ者のように/悲しみうなだれて歩きまわった。


15しかし彼らはわたしのつまずくとき、喜びつどい、ともに集まってわたしを責めた。
    わたしの知らない他国の者は/わたしをののしってやめなかった。

(マスコミの嫌がらせみたいです)

16彼らはますます、けがす言葉をもってあざけり、わたしにむかって歯をかみならした。
17主よ、いつまであなたはながめておられますか、
    わたしを彼らの破壊から、わたしのいのちを若きししから救い出してください。
18わたしは大いなるつどいの中で、あなたに感謝し、
    多くの民の中で、あなたをほめたたえるでしょう。
19偽ってわたしの敵となった者どもの/わたしについて喜ぶことを許さないでください。
    ゆえなく、わたしを憎む者どもの/たがいに目くばせすることを許さないでください。
20彼らは平和を語らず、国のうちに穏やかに住む者にむかって
    /欺きの言葉をたくらむからです。
21彼らはわたしにむかって口をあけひろげ、
    「あはぁ、あはぁ、われらの目はそれを見た」と/言います。

(加害者のことのようです)

22主よ、あなたはこれを見られました。もださないでください。
    主よ、わたしに遠ざからないでください。
23わが神、わが主よ、わがさばきのため、わが訴えのために奮いたち、目をさましてください。
24わが神、主よ、あなたの義にしたがってわたしをさばき、
    わたしの事について彼らを喜ばせないでください。
25彼らにその心のうちで、「あはぁ、われらの願ったことが達せられた」と
    /言わせないでください。また彼らに「われらは彼を滅ぼしつくした」と
    /言わせないでください。
26わたしの災を喜ぶ者どもを/ともに恥じ、あわてふためかせてください

   
わたしにむかって誇りたかぶる者どもに/恥と、はずかしめとを着せてください。
27わたしの義を喜ぶ者をば/喜びの声をあげて喜ばせ、
    「そのしもべの幸福を喜ばれる主は大いなるかな」と/つねに言わせてください。
28わたしの舌はひねもすあなたの義と、あなたの誉とを語るでしょう。

36篇
聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌
1とがは悪しき者にむかい、その心のうちに言う。その目の前に神を恐れる恐れはない。
2彼は自分の不義があらわされないため、また憎まれないために、
    みずからその目でおもねる。

(加害者のことのようです)

3その口の言葉はよこしまと欺きである。彼は知恵を得ることと、善を行う事とをやめた。
4彼はその床の上でよこしまな事をたくらみ、よからぬ道に身をおいて、悪をきらわない。

(加害者のことがよく表現されていますね)

5主よ、あなたのいつくしみは天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶ。
6あなたの義は神の山のごとく、あなたのさばきは大きな淵のようだ。
    主よ、あなたは人と獣とを救われる。
7神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。
    人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、
8あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。
    あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる。
9いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。
10どうか、あなたを知る者に絶えずいつくしみを施し、心の直き者に絶えず救を施してください。
11高ぶる者の足がわたしを踏み、悪しき者の手がわたしを追い出すことを
    /ゆるさないでください。

12悪を行う者はそこに倒れ、彼らは打ち伏せられて、起きあがることはできない。

37篇
ダビデの歌
1悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
2彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。
3主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
4主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。
5あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
6あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。
7主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
8怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。

(難しいことですが秘訣があれば知りたい)

9悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。


10悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。
11しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。
12悪しき者は正しい者にむかって/はかりごとをめぐらし、これにむかって歯がみする。
13しかし主は悪しき者を笑われる、彼の日の来るのを見られるからである。

(悪人にも終わりが来ると言うことですね)


14悪しき者はつるぎを抜き、弓を張って、貧しい者と乏しい者とを倒し、直く歩む者を殺そうとする。
15しかしそのつるぎはおのが胸を刺し、その弓は折られる。
16正しい人の持ち物の少ないのは、多くの悪しきの者の豊かなのにまさる。
17悪しき者の腕は折られるが、主は正しい者を助けささえられるからである。
18主は全き者のもろもろの日を知られる。彼らの嗣業はとこしえに続く。

19彼らは災の時にも恥をこうむらず、ききんの日にも飽き足りる。
20しかし、悪しき者は滅び、主の敵は牧場の栄えの枯れるように消え、煙のように消えうせる。
21悪しき者は物を借りて返すことをしない。しかし正しい人は寛大で、施し与える。
22主に祝福された者は国を継ぎ、主にのろわれた者は断ち滅ぼされる。
23人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。
24たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。
25わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が/食物を請いあるくのを見たことがない。
26正しい人は常に寛大で、物を貸し与え、その子孫は祝福を得る。
27悪をさけて、善を行え。そうすれば、あなたはとこしえに住むことができる。

28主は公義を愛し、その聖徒を見捨てられないからである。正しい者はとこしえに助け守られる。しかし、悪しき者の子孫は断ち滅ぼされる。
29正しい者は国を継ぎ、とこしえにその中に住むことができる。
30正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を述べる。
31その心には神のおきてがあり、その歩みはすべることがない。
32悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。
33主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
34主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の/断ち滅ぼされるのを見るであろう。
35わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。

36しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
37全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。
38しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。
39正しい人の救は主から出る。主は彼らの悩みの時の避け所である。
40主は彼らを助け、彼らを解き放ち、彼らを悪しき者どもから解き放って救われる。彼らは主に寄り頼むからである。

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生ける神

「生ける神」で検索しました。

http://www.hat.hi-ho.ne.jp/inagekaigan-chur/nyuumon1.htm

~信仰入門講座 第1講~

第1講 生けるまことの神

「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」

イザヤ46章3、4節

1.「どう信じるか」と「何を信じるか」
 「なにものの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」とは、西行法師が伊勢神宮を参拝した折に詠った句とされています。ここに、日本人の宗教観がみごとに示されています。つまり日本人にとって宗教というのは、「何(誰)を信じるか」が問題であるよりも、信じる自分自身の信心や熱心さが問題だということです。お参りしている神社やお寺に何が祭られ、そこで何を拝んでいるかが大切なのではなくて、相手がどなたであれ自分がどれほど相手に対して熱心に帰依しているか、信心しているかが大切で、その自分の信念が、いわば神通力となって神や仏を動かし、そこで祈願することをかなえてもらうというわけです。だからお百度を踏んだり、滝に打たれて修業したり、座禅を組んで修養したり、多額の賽銭(さいせん)をしたりしますが、いずれも自分が神や仏に「何をするか」が大切と考えます。しかしそこで自分が一体、何を拝み誰を信じているのかについては、とんと御無沙汰しているのです。「いわしの頭も信心」、何であれ、信じている心が大切だと思うからです。

2.わたしたちを背負う神
 それに対して、聖書の神は、「あなたは誰を神として信じているか」と問い、「信仰の相手(対象)」が何であるかを求めます。「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は、わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ」(イザヤ45章5、22節)。ですから聖書では、偶像礼拝といって、神でもない木や石で造られた像を拝み、それを神として信じることの愚かさが語られます。聖書にでてくる話しですが、あるきこりが山で木を切り、寒いのでその木で火を起こし、疲れたのでその火でパンを焼いて食べました。木が残っていたのでそれで自分の神を造り、それを拝んで「お救いください、あなたはわたしの神」と祈りました(イザヤ44章9-20節)。これがいわゆる世の宗教、つまり偶像の実体であり正体だと聖書は見抜きます。

 それらにはわたしたちを救う力はありません。高額な壷、霊験あらたかなお守り、寺社仏閣の祈願や御祓(おはら)いなど何の意味も、力もないことを聖書は明らかにします。そういう偶像は動物や人間に背負われて、それらの重荷となるだけです。偶像とは、わたしたちを助けるようで、実はわたしたちの重荷となるものにすぎません。そんなものにどれだけひれ伏しても、何の助けも救いも得ることはできません。「それを肩に担ぎ、背負って行き、据え付ければそれ(偶像の神々)は立つが、そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず、悩みから救ってはくれない」からです(イザヤ46章7節)。しかしまことの神は、そんな重荷にあえぐわたしたちを「背負い、担う神」だと言われるのです。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と(イザヤ46章3、4節)。「また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださった」(申命記1章31節)とうけあってくださるのが、まことの神なのです。

3.まことの神のほかに神はいない
 子どもが小さいころ、よく家族で一緒にデパートやら近くの海へ出掛けました。はじめは「早く、早く」とせかす子どもですが、帰りはたいてい疲れて眠りこんでしまいます。寝た子はすごく重くなりますが、帰りはたいてい寝た子をだっこするかおんぶして帰るはめになります。自分もひどく疲れているのに、そのうえ眠って重くなった子をだっこして帰る、つらいものでした。しかし聖書の神、まことの神は、わたしたちをこれまでそうしてきたし、今もそうしているし、これからもそうしてくださると約束してくださる神なのです。「父が子を背負うように、あなたを背負ってくださった」と約束される神なのです。それに対して偽りの神々、偶像は、わたしたちを救うことはできないし、背負うこともありません。むしろわたしたちの「重荷」となり、わたしたちがそれを背負わされるはめになるものにすぎないのです。それがどれほど美しく、見事な出来栄えであったとしても、その見かけの美しさがわたしたちを救うわけではなく、救うこともできません(イザヤ37章18-20節、詩編115編4-8節)。それは木や石にすぎず、無力で哀れな「人間に似せて造られた像、人間にかたどられたもの」にすぎないからです(イザヤ40章18-26節)。

「人間に似せて造られた神」とは、「人間をご自身に似せて造られた神」のパロディーです。人間が神に似せて造られたのであって(創世記1章27節)、神が人間に似せて造られるのではありません。にもかかわらず人間は、自分に似せた無力な神々を造り出し、それを神だと誤解し続けているのです。人間には人間を救うことはできません。これまであなたは、神を信じることもなく、神を知ることもなかったかもしれません。自分は無神論者だ、神など信じられないと言われるでしょう。しかしそれはあなたが、まことの神を知らず、偽りの神々、人間が空想して造りだした偽りの神しか知らず、まことの神に出会ってこなかったからです。聖書も、その意味で無神論です。なぜならまことの神以外を認めず、偽りの神々、偶像の神を否定するからです。「世の中に偶像の神などはなく、また唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです」(1コリント8章4-6節)と。

4.わたしを仰いで、救いを得よ
 こうして聖書は、何でもいいから信じれば救われるというのではなく、何でも神にして拝みさえすればよいというのでもなく、救われるかどうかは、何を信じ誰を拝むかによっているのであり、あなたが何を神とし、誰に依り頼むかということが大切であることを教えます。信じるあなたの「心」(信心)が大切なのではなくて、信じる「相手」が大切なのです。ですから「まことの救い、まことの命」にいたるために、「まことの神」を求めていきましょう。わたしたちにまことの救いを与えることができる、まことの神を。「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は、わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ」。こうわたしたちに呼びかけることのできる神こそ、「生けるまことの神」です。

生ける神とは、わたしたちに語りかけ、呼びかける神です。死んだ神は、口があっても語りかけ、呼びかけることはできません。ましてわたしたちを救うことはできません。わたしたちを、その悩みから救いだし、わたしたちを背負いつづけてくださる、生けるまことの神へと心を向け、救いを求めていってください。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。

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神様への目が開かれてからは神の被造物への目がいくようになりましたがそれの一つ一つはとても精密に出来ていて自然の成り行きには思えません。例えば空の様々な素晴らしい眺めや植物の数々の種類の形の多用さや美しい造形など

後はそれと共に見苦しさや不気味さを覚えるような形状の物もあります。

神の造られた物には確かに気味の悪い物もありますがこれらも人間を一々例えて言ったりするときに使うことが出来ると言うことがあります。

例えば「蛆虫」「ゴキブリ」「蜘蛛」「蜂」「白アリ」「百足」「げじ虫」

「犬」「豚」「馬」「牛」「羊」「猫」「熊」「山羊」「鳥」「狸」「狐」など。

人間の人柄などを表すときに使えそうですね。

人間には悪玉も善人もいるようですがこれらも全て神の造られた物だそうです。

神が悪人やわざわいをも造り出しているのです。

だから災いの時には神を知るための機会が与えられているのです。

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生ける神

へブル人への手紙10章

29)神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。



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「生ける神の御手の内に陥ることは恐ろしい」そうです。加害者はシュールな存在ですね。神の言葉により頼む者を殊更嘲り続けますが。彼らはそれ程すごい人物達でしょうか。隠れたところより個人にしか知り得ない方法で陰湿卑劣な嫌がらせをし、内部事情への口も割りません。隠れた場所よりの陰湿卑劣な嫌がらせの裏にはどういう人格があるだろうか。正直分かり得ない。彼らは頭が変になっているのだろうか?大胆不敵にも聖書を嘲るとは。私も過去には神を侮る事しかできなかったが。

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テモテへの第1の手紙:第5章
22)軽々しく人に手をおいてはならない。また、ほかの人のに加わってはいけない。自分をきよく守りなさい。

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加害者が如何に粘着執拗な行為を続けていても所詮は犯罪者かも知れません。普通に考えると重篤な悪ですね。

犯罪者達の行為に対して一々悪態を持ち迎合することは愚かなのでしょう。

彼らは重罪人に過ぎないとすればイエスキリストに自己の罪を購って頂き後は犯罪者のことは無視することが最善ですね。此方が一々丁寧に迎合的な行為(つまり悪態吐き)するために加害者らは「被害者が面白がっているし喜んでいるので我らは正しいのである」等という考えをするのかも知れません。

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詩篇より

この様な暴虐により神は居ないし死んだ等の言葉を聞きましたがしかし聖書には神の御約束の言葉が書かれています。それには神の支配は永久に続くという記述があります。

【詩篇第136篇】



      1主に感謝せよ、主は恵みふかく、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      2もろもろの神の神に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      3もろもろの主の主に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      4ただひとり大いなるくすしきみわざを
      なされる者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      5知恵をもって天を造られた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      6地を水の上に敷かれた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      7大いなる光を造られた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      8昼をつかさどらすために日を造られた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

      9夜をつかさどらすために月と、
      もろもろの星とを造られた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない

     10エジプトのういごを撃たれた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない

     11イスラエルをエジプトびとの中から
      導き出された者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     12強い手と伸ばした腕とをもって、
      これを救い出された者に感謝せよ、

     13そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
      紅海を2つに分けられた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     14イスラエルにその中を通らせた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     15パロとその軍勢とを紅海で
      打ち敗られた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     16その民を導いて荒野を通らせた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     17大いなる王たちを撃たれた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     18名ある王たちを殺された者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     19アモリびとの王シホンを殺された者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     20バシャンの王オグを殺された者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     21彼ら地を嗣業として与えられた者に感謝せよ、
      そのいつくしみは絶えることがない。

     22そのしもべイスラエルに嗣業として
      これをあたえられた者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     23われらが卑しかった時に
      われらをみこころにとめられた者に感謝せよ
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     24われらのあだからわれらを
      助け出された者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     25すべての肉なる者に食物を与えられる者に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

     26天の神に感謝せよ、
      そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

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【詩篇第150編】


       1主をほめたたえよ。
      その聖所で神をほめたたえよ。
      その力のあらわれる大空で主をほめたたえよ。

      2その大能のはたらきゆえに主をほめたたえよ。
      そのすぐれて大いなることのゆえに
      主をほめたたえよ。

      3ラッパの声をもって主をほめたたえよ。
      立琴と琴とをもって主をほめたたえよ。

      4鼓と踊りとをもって主をほめたたえよ。
      緒琴と笛とをもって主をほめたたえよ。

      5音の高いシンバルをもって主をほめたたえよ。
      鳴りひびくシンバルをもって主をほめたたえよ。

      6息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。
      主をほめたたえよ。

ーーーーーーーーー

息のある全ての物に主を褒め称えさせよとはすごいことを言っていますが虫けらや家畜などにもそう言う能力があると言うことですね。

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詩篇より

詩篇89編

34わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。
35わたしはひとたびわが聖によって誓った。わたしはダビデに偽りを言わない。
36彼の家系はとこしえに続き、彼の位は太陽のように常にわたしの前にある。
37また月のようにとこしえに堅く定められ、大空の続くかぎり堅く立つ」。〔セラ

ーーーーーーーーー

詩篇92編

7たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです。

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詩篇94編

1あだを報いられる神、主よ、あだを報いられる神よ、光を放ってください。
2地をさばかれる者よ、立って/高ぶる者にその受くべき罰をお与えください。
3主よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
4彼らは高慢な言葉を吐き散らし、すべて不義を行う者はみずから高ぶります。
5主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたの嗣業を苦しめます。
6彼らはやもめと旅びとのいのちをうばい、みなしごを殺します。
7彼らは言います、「主は見ない、ヤコブの神は悟らない」と。
8民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
9耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、目を造った者は見ることをしないだろうか。
10もろもろの国民を懲らす者は/罰することをしないだろうか、人を教える者は知識をもたないだろうか。
11主は人の思いの、むなしいことを知られる。
12主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
13あなたはその人を災の日からのがれさせ、悪しき者のために穴が掘られるまで/その人に平安を与えられます

14主はその民を捨てず、その嗣業を見捨てられないからです。
15さばきは正義に帰り、すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。
16だれがわたしのために立ちあがって、悪しき者を責めるだろうか。だれがわたしのために立って、不義を行う者を責めるだろうか。
17もしも主がわたしを助けられなかったならば、わが魂はとくに音なき所に住んだであろう。
18しかし「わたしの足がすべる」と思ったとき、主よ、あなたのいつくしみは/わたしをささえられました。
19わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
20定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者は/あなたと親しむことができるでしょうか。
21彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告します。
22しかし主はわが高きやぐらとなり、わが神はわが避け所の岩となられました。

23主は彼らの不義を彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。われらの神、主は彼らを滅ぼされます。

ーーーーーーーー

詩篇104編

35どうか、罪びとが地から断ち滅ぼされ、悪しき者が、もはや、いなくなるように。わがたましいよ、主をほめよ。主をほめたたえよ。
ーーーーーーーーーーー

(聖書では真の父なる神様が、ダビデの家系は永久に続くと言われています。私見ですがダビデの家系は日本の天皇家ではないかと思います。ダビデの王宮にある六角形の星形マークは日本の伊勢神宮の裏家紋となっています。他にも聖書の内容と日本の風習には共通性を覚えることが多いようです。)

参考サイト

「秘められた十字架」

http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/jyubu.html

「日本の秘密」

http://www.ican.zaq.ne.jp/euael900/episode14.html

「日本とヘブライの共通点」

http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb010.html

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愚痴ですが

ある女性とメールのやり取りをしていて創価の事についてこういわれていました。北風と太陽の譬えのようだと。考えればその通りですね。
神様と悪人との譬えに思えます。
神様は太陽として人間に光と慈愛を与えてくださる。
悪人は北風の如くに人間から暴利を貪り強風の如くに恐怖や不快や威嚇などを与えて剥ぎ取ったり操作をしたがる。

神様のご愛は人間の頑なな心を溶かしますが、悪人の冷たい強風じみた制御操作態勢は人の心を狂わせる。
そう言う意味でそっくりな譬えです。

余りにもはっきりしている。悪に迎合し加担しても心を狂わせそれにも無自覚になる。自己防衛に凝り固まりどれ程変なことをして他者を苦しめても自己正当化のことにのみ知恵を働かせる。
その様な生き方は幸いでしょうか。

神である太陽は来る日も来る日も人間に明るい光を提供し続けています。時には雲と結託して美しい風景を見せてくださいます。
暖かな温度やきれいな陽射しや陰を見せてくださいます。
水に映ればキラキラと映えてきれいです。
花も太陽の光を浴びれば嬉しそうですね。
木々も光が当たればとても美しい光景を生み出しています。

そう言う違いははっきりしているのですね。
だから光を造り出して下る神に反逆し嘲っても幸いなど無いに決まっているのです。

加害者らは長野県の高原にも現れましたが何と、彼らは周囲の雄大なる景色など全く目に留まらぬ様子で此方への付きまとい嫌がらせ行為を働いていました。
地元と同じような異様な型の黒っぽい車で。
中の人間はと言うと横顔を見せて何処か得意そうです。

それを見てある種の絶望を覚えました。
彼らの脳みそは一体なんだろうか。

空が如何にきれいでも、雲が如何に美しくても、自然が如何に素晴らしくても、
精神破壊活動たる集スト活動を機械的にするのみです。
彼らは本当に幸せなのでしょうか?

監視情報を盾に高ぶることがそれ程すごく魅力的な生き方でしょうか?
集ストの得体の知れぬ付きまとい技術を何処に行こうが見せつけることがそれ程すごいことだろうか?

普通に暮らしたいだけの個人を家庭破壊に導いてまでも覗き続け無意味な音声による嘲弄にしがみつき続けることはそれ程立派でしょうか?

彼らは隠れていることに高ぶる。
そして変な技術があることに高ぶる。
そして下半身を嫌がらせできることに高ぶる。

彼らの実態とは何でしょうか。一体どういう暮らしぶりでしょうか。
日がな一日家にいようがお構いなしに覗き回し音声や機械による音やつきまといで威嚇、苦痛を与え続ける。

此方は少なくとも聖書が真理だと知るために宣伝するだけですが彼らはそれをも無意味に嘲り続ける。普通の言葉は聞かない。人間の言葉を言わない。
ただ意味不明の嘲り音声のみ。

それでも彼らは何か「自分達は正しくてすごい集団である」と思うのでしょうか。

根拠はきっと「捕まる心配なし」「機械がある」等でしょうかね。
日本は何時になれば正常化してくださるのか。
ーーーーーーーー
彼らの異常性は「神の御心が働いている結果に過ぎない」のかも知れない。

普通に考えてこれ程シュールで信じがたい人種などいません。

初めて付きまといを見たときにも思ったのです「何か見てはいけない物を見たが日本にいる人間にしては信じがたい日本に何故ああいう変な存在がいるのだろうか」と言うことでした。それ程すごい衝撃でした。

後に在日朝鮮人という人間の存在を知り或る程度納得はしましたが。

そして私にもその血は入っているらしいので或る程度嫌な気持ちにもなったが、今はどうもその在日創価の異常性はやはり尋常じゃないのだろうかと思い苦悩している。

在日の人間にも真面目で普通に生きる人間はいるが創価に洗脳されると変になる、確実に。私も考えると創価のメディア虐待で変になりました。自己愛性人格障害にならされます。

今の末端見るとその障害をきつくしたような印象がありますね。

ーーーーーーーーーー

神はこの様な異常性のきつい人種を造り出し日本人に襲わせることで何かの偉大なる計画を成就するのかも知れません。私はそれしか考えようがないと思います。

神は悪魔の働きを通じても、ご自分の栄光を現すためにそれを用いるそうです。

しかし加害者らの性質はどうにかならないだろうか、何も理解できないのに痛く寒く見栄張り続けているし姿が見えないので誤魔化せているつもりに思えて気持ちが悪いすごく。助けて欲しい。マジで。叫びたくなります。

○姿を隠している

○変な機械技術を持つ

この二つでどれ程のアホでも自分達を神格化できると思うのかも知れません。

正直そう言う考えしか出来ません。嫌になるが。

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聖書に全ての解決がある

聖書に全ての解決がある で検索しました。

http://church.shalom.vu/gospel.htm

福音について

ここでは、キリスト教の中心テーマについて、ご紹介いたします。どのように受けとめるかはご自由ですが、聞いたことが無いものを信じることは出来ませんので、耳を傾けてください。

多くの人はキリスト教というと道徳的なことを教えていると思っています。しかし、聖書の中心的教えはそのような道徳ではなく、福音(よい知らせ)と呼ばれるものです。いったい何がよい知らせなのでしようか。


神はあなたを愛しています

神はわたしたち(人間)を愛し、わたしたちのためにこの世界を創造されました。神にとってわたしたち人間はひとりひとりが高価で尊い存在です。どのような生まれであるとか、性別年齢、性格や能力などによって神の評価が変わることは有りません。何故なら、神があなたの創造主だからです。神は、わたしたちの人生にすばらしい計画を持っておられるのです。神が天地を創造なさった時、それは非常に良いものであったと聖書は言っています。


全ての人は神に逆らって生きています

しかし、最初の人間アダムは神の命令に背いて罪を犯しました。その罪がアダムの子孫であるわたしたちにまで受け継がれているため、この世界には悪がはびこっています。聖書で言う罪とは、いわゆる犯罪のことではありません。わたしたちの心の中にある自己中心の思いです。憎しみ、ねたみ、悪いこととはわかっていても誰も見ていなければやってしまう行為などです。このような思いを持っていない人が果たしているのでしようか。誰もいません。聖書がすべての人は罪人ですと言っているのはそういう意味です。


良い行いをしても問題は解決しません

この罪は、自分の努力で解決することは出来ません。どのような良い行いも、学問も、宗教も、罪の解決とはなり得ないのです。罪によって、神と人との間には人間の力で越えることの出来ない、深い溝が出来てしまったのです。そればかりか罪を持っている者には、死後裁きがあると聖書は言っています。すべての人は罪人ですから、すべての人が死後自分の人生について神に申し開きをしなければなりません。ではわたしたちはこのまま滅びてしまうしか無いのでしようか。


イエス様が救い主です

いいえ、神はわたしたちのために救いの道を開いてくださいました。それが救い主イエス・キリストです。イエス・キリストは神ご自身です。神が、全く罪の無い人間として地上に来られ、十字架の上でわたしたちの罪を負って、身代わりに死んでくださいました。そればかりか、イエス・キリストは罪と死に打ち勝ってよみがえり、今も生きておられます。しかし、その事を知的に知ったことが救いではありません。救われるためには、信仰をもってイエス・キリストを信じ受け入れることが必要です。


信仰の告白が必要です

この救いは、誰でも心に信じて、口で告白する者に与えられます。自分に罪があることが分かるなら、今、この場所で信仰の告白をすることも出来るのです。信じるとイエス様が、あなたの心の中に入って来てくださいます。そして、あなたをきよめ、神の子供としてくださいます。まわりは罪の世界ですから、苦しみが無くなることはありませんが、神はわたしたちにその苦しみに打ち勝つ力を、与えてくださいます。そして、キリストの愛によって積極的に生きていくことが出来るようになります。



今回初めてキリスト教のことを聞いた方は、一度で理解できなかったかもしれません。さらに詳しく説明を受けたい方は、教会にお問い合わせ下さい。
ーーーーーーーーーー

神は何故にこういう変な人種(加害者達)を造られたのだろう、彼らがもし洗脳によって変にされているのであればその過程を知りたい。又この様な変な人種に日々日夜苛まれることで何をどうしろと言うのかと思う、不可解でつい愚痴が出る。

罪の悔い改めをし自己義認には関心が無くなったが依然としてこういう苦痛にあっているとすればどう考えればいいのか。悪態を吐き散らしては地獄を覚える日々です。世には自分よりも正しい人生を送るように見えながら不可解な不幸に晒されている人間もいるかも知れないので、余り文句を言っても意味がないのだろう。

寧ろ何故か知らないが悪への加担や迎合する人間が優遇されるような状態らしい。

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聖書に全ての解決がある

http://www.kemigawa.org/071111_msg.html

上のサイトには「思い煩いからの解放の方法」が書かれています。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~kz864au3/cs200109.html

↑聖書によって人生を変えられた方の証しです。

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聖書に全ての解決がある

聖書に全ての解決がある で検索しました。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/6957/

みなさん、ようこそいらっしゃいました!

はじめまして。このサイトを作成したソフィーと申します。
数あるHPから、このサイトに来てくださったことを感謝いたします!

本当に情報が溢れた時代です。
ありすぎて、何が本当に大切なのか、日本人が
混乱している時代です。生きる方向性を、見失った時代。

けれども、素晴らしいニュースがあります。
それは、聖書です。
聖書は、世界で一番読まれているベストセラーです。
世界で最初に印刷されたのは、まぎれもなく聖書でした。

当サイトは、聖書から心身とも満たされる
アドバイスをお伝えしています

人生の全てにおいて、役立つ聖書の知識が満載です!

聖書で神様は、皆様に次のように言っています。
 
 「
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
  わたしはあなたを愛している

                  (イザヤ43:4)新改訳(公式HP)
                         
 あなたは、誰からも愛されていないとか、
 自分などいなくても同じだと、思っているなら。
 そのような状況にこそ、このサイトとつきあってください!
                               
 今、この画面を見てくださっているあなたに
 ただ一つだけ、伝えたいことがあります。
 それは、2001年から、
 このサイトの産声があがったときから、
 ずーっと言い続けてきました。

 このサイトの、ほかの事は
 全て忘れてくださってもかまいません。
 
 ただし
 あなたは神さまに愛されている!
                       ということ。

 性格改善など、すべてを完璧にできる方はいません。
 なぜなら、神様は最高の計画によって
 今のあなたを創造なされたからです。
 大切に大切に、あなたを作られました。
 
 神様は今のあなたを愛しています
 今の自分を好きになろう。それでいいのです。
 あなたがあなただから、いいのです!

 さあ、大きく道は開かれています。
 回復への道。喜びへの道。共にステップしましょう!

 

聖書は集スト被害者の抱えている苦悩にも答えることが出来ます。

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聖書に全ての解決がある

「聖書に全ての解決がある」で検索しました。

http://blog.kansai.com/jesus

医者を必要とする者とは?
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」(12節)私たちは、イエス・キリストのこの御言葉の「理屈(真理)」を、十分過ぎるほど知っています。医者の仕事は、健康(五体満足)な者を診断するのではなく、何らかの「病い」を患って、苦しんでいる人々を治療することです。同様にイエス・キリストが、「この世」に来られた真の理由は、「自分正しい。自分は罪人ではない。自分はルール(律法)を守っているから大丈夫だ!」と思っている当時の宗教家集団に対して、彼らとは逆の「福音」を説きました。つまりイエス・キリストは、人間関係の中で差別的待遇を受けている人々や、生まれつき「呪われた家系」などの、悪しきレッテルを貼られた人々、そして今回の主役であるマタイなど、卑しい職業に就いた人々の元を訪問し、彼らの「苦しみ」や「問題」などを、全て一掃し解放するために、自分は父なる神から「救い主」として遣わされたことを、マタイの家で説かれたのです。

 日本社会において、かつては経済的な面で中産階級の人々が、より多く存在していたのですが、今日の経済情勢から判断しても、「勝ち組(富める者)」と「負け組み(低所得者)」という、二極化(格差社会)が進んでいます。しかしイエス・キリストは、そのような日本社会に暮らす人々の中にも、必ず訪れて下さる方です。今日の日本という国家は、霊的に一つの「体」として見るならば、決して健康的(健全)な国家とは言えません。ある面で、様々な部分に「歪(霊的な病い)」が生じてしまい、「将来は、一体どうなることやら?」などの社会不安が増加しています。今回のストーリーの、最重要ポイントとして覚えて戴きたいことは、「真の医者であり、救いと解放をもたらす方は、イエス・キリストだけである。そして、この方が来られた目的は、将来に対して不安を抱く人々や、自分の生活環境の中において、様々な問題で苦しんでいる人々を救うべく、必ず訪れて下さる!」という、断固とした信仰を持つこと、そしてその「事実」を人々に証言していくことです。

従って来なさい!
 マタイを取税人として見る人々の視線は、その殆どが軽蔑し嫌悪する(見下す)類のものでした。しかしイエス・キリストの場合、彼はマタイのことを対等の者として取扱うべく、その人の「霊」に直接向き合う、そのような視線をもって、マタイのことをご覧になられました。そして、イエス・キリストはマタイに対して、他の弟子たちの時と同様に、「私に従いなさい」(9節)という、神が定めた彼の本来の人生に対する、「正しい答え」を示されたのです。この御言葉は究極的には、彼(マタイ)が従事している、今の仕事(取税業)を放棄することを意味します。マタイは、イエス・キリストから命じられた、この御言葉を聞いた瞬間に、「何もかも捨てて立ち上がり」(ルカ福音書5章28節) イエスに付き従いました。つまり彼は、今まで税を取り立てて築いた財(資産)ばかりでなく、彼の取税人としての委託的権力(ローマ帝国による資格)をも放棄したのです。

 彼が、イエス・キリストの「ご命令」に信頼し、その通りに大胆に実行するという、「思い(決心)」と「力」を与えたのは、まさしくイエス・キリストの唇を通して語られた、父なる神の「命の言葉」によるのです!三次元的な判断、つまり常識的に考えるならば、私たちはこの「御言葉」に躊躇し、最終的には反抗(言い訳)します。ところが、イエス・キリストが語られる「言葉」というものは、それが聖書を読んで示される御言葉であったり、或いは祈りを通して示される「啓示」や「教え」、またある人を通して語られる、神からの「預言」や「知恵の言葉」であっても、その「御言葉」は必ず成就する!このことを覚えて下さい。イエス・キリストが「命の言葉」を発せられた以上、それはシャボン玉のように、最初は空気中に浮かんで目に見えるものであっても、いつかは弾けて消滅してしまう、そんな低レベルの次元には存在しません。必ず語られた(発せられた)以上、それには「成就する!」という、神の責任(摂理)も伴ってくるのです。

 それ故、この「私(イエス・キリスト)に従いなさい」という御言葉の中にも、父なる神の「保証」が同時に与えられています。しかし、私たちはその「保証の時」を、自分の時の概念で勝手に推し量るため、それが早く成就しない場合に、不信仰に陥ってしまうのです。「神の時至りて、父なる神の命の言葉は、必ずその通りになる!」これが私たちの持つべき、正しい信仰姿勢です。私たちに与えられる「命の言葉」は、植物の種の成長法則と同様に、今は「実(結果)」が目に見えてこないかも知れません。しかし、神の定められた「その時」に、必ず結実の時を迎え、私たちは「まさしく神の為されることが、全てがアーメン(その通りになる)!」と、告白できるものなのです。それ故、ユダを除いた弟子たち全員が、イエス・キリストの語られた「私に従いなさい」の御言葉に、全面的に放棄し従順しました。ところがユダは、自分の大事な「財布」だけは放棄せず、いつも懐に入れていたのではないでしょうか!

 イエス・キリストの視点から見る限り、「義人」は一人もいません!全ての人々が「罪人」、つまり真の医者なるイエス・キリストの、霊的な訪問診療を必要とする者なのです。「義人」に至る道は唯一つ、即ちイエス・キリストの「命の言葉」のみを欲し、その御言葉に聞き従うことです。しかし私たちは、ご存知のように神の「命の言葉」よりも、自分の「考え(判断)」や「計画」などを優先し、それに従う(自分の力で遂行する)という、愚かな道を歩んでいます。

 真の医者(イエス・キリスト)を必要とする者は誰ですか?あなたはその一人ですか?もし真の医者を求めるのであれば、私たちは素直に自分の「罪」を認め、「義人」に至る道、つまり神の「命の言葉」に、全面的に聞き従って参りましょう!ユダやアナニヤ・サッピラの如くに、懐の中に「自分のもの」を残しておくこと、これは神に「聞き従う」ことではありません。イエス・キリストに、全面的に聞き従う「あなた」の元に、いつか必ず「誰か」が訪れることでしょう。それは「あなた」の中にある、イエス・キリストによる「真の救い」が、確実に目に見えてくるからです。

 病人が医者の「診断」を必要とするように、多くの人々が「あなた」に訪ね求めて来ることでしょう。「その時」に、あなたは「何」を提供するのでしょうか?それは、イエス・キリストの「命の言葉」を伴う、次のような明確な「証言」です。「私はイエス・キリストを、自分の救い主として信じた時から、今に至るまで何も心配すること無く、父なる神が必要なものを備えて下さっています。たとえ苦しい時にも、何か困った不測の事態に陥った時にも、父なる神はその困難から(私を)過ぎ越して下さり、神の定めたその時に、必要な救い(恵み)を施して下さいます!」と。
ーーーーーーーーーーーーー

「医者」と言えば聖書のみことばは確かに人間や組織団体の治療者よりも優れた治療書ですね。私は長きにわたり摂食障害で苦しんできましたが、医者や薬や自助グループでは駄目でした。聖書にみことばによってのみ、それからの解放がありました。理由は自己中心から解放されたからだと思います。結局その病の理由は自己中心から来ていました。しかし自力でどうにかなる物ではないために神のみことばによる霊的な解放が必要だったのです。

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聖書に全ての解決がある

「聖書に全ての解決がある」で検索しました。

http://homepage1.nifty.com/oyamada-church/4.htm


救いについて


普段、余り聞かない言葉かもしれません。
余程の苦しいことに出会わないと「救われたい」と思うこともないでしょう。
けれども、私たちは気付かないで、心のどこかで救いを求めています。
日本人の多くは「自分は無宗教だ。」と思っているでしょう。
その反面、日本のどこに行っても、神社やお寺があり、新興宗教も大変盛んです。
このことは私たち日本人が実は宗教的な国民であり、
神や救いを求めていることを示していると思います。

それでは、聖書は救いについて何を教えているのでしょうか?

【Q1】救いとは何ですか?

【A1A1】聖書の「救い」とは、罪と永遠の滅びからの救いのことです。
私たちは生きる以上、色々つらい目に遭います。
職場や学校で周りの人たちとどうもうまく行かない、
仕事の責任から来るプレッシャーで潰されそうだ、
就きたい職業に就けない、…とにかく人生と苦しみとは切り離せません。
この苦しみを何とかして自分の力で切り抜けられる場合もありますが、
自分の能力を超えた困難も確かにあります。
そんな時、「神でも仏でも何でもいいから私を助けて欲しい」と
何かにすがりたくなるかもしれません。

しかし、人生の表面に出て来る苦しみの根本が解決しないと救いとは言えないのです。
聖書では人間の罪こそ苦しみの根本であると教えています。
私たちを造られ、愛される神から離れ、自分勝手に生きるという罪が
私たち自身の人生を悲惨にしているのです。
ですから、私たちが本当に幸せになろうと思ったら、
どうしても神と人に対して犯して来た罪を清算しなければなりません。
そして神と正しい関係に入る必要があります。

【Q2】どうすれば罪の問題は解決するのですか?

【A1】神にあなたの罪を赦してもらうことです。
私たちは神に対して罪を犯すのですから、神にその罪を赦して頂く必要があります。
人間同士の間であれば、犯した罪の大きさに従って償いをすれば、
少なくとも法律上は問題は解決します。
しかし、人間が神に対して犯した罪は余りに大き過ぎて、人間には償うことが出来ません。
聖書には次のように書いてあるからです。

「罪から来る報酬は死です。」

私たちがどう頑張ってみても、自分の罪を取り消すことは出来ません。
どんなに立派な道徳的行いや慈善活動をしても、
神に対して犯した罪を償うことは出来ません。

では、どうすれば良いのでしょう?
一体、誰が罪から救われると言うのでしょうか?
神は人間には出来ないことをして下さいました。
罪に対して全く何も出来ない私たちを神は憐れまれ、
ご自分の独り子イエス・キリストを身代わりとして、
この方に私たちの罪を背負わせて下さいました。

人間の親で、死刑囚を釈放するために、
自分の最愛の一人息子を身代わりとして絞首刑に差し出す人がいるでしょうか?
しかし、神はご自分に反逆する私たちを救うために
神の子キリストを惜しげも無く、十字架刑に差し出されました。
ここに神の私たちに対する愛がはっきりと示されたのです。

イエス・キリストは神であられるのに、人となられ、
十字架の上で私たちの罪に対する神の恐ろしい裁きを受けて下さったのです。
全く罪を犯さなかったキリストが罪人として十字架に架けられ、
苦しみの極みまで味わわれ、ののしられながら死んでゆかれたのは、
何よりも私たちの罪を赦すためだったのです。
聖書には次のように書いてあります。

「もし、罪はないと言うなら、
私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 「神はキリストの十字架において、私の罪を全て赦して下さった。」
このように信じて、自分の罪を神に告白するなら、その罪はすべて赦され、救われます。
たとえ人殺しのような重大な罪を犯したとしてもです。
神の前に赦されない罪はありません。
そして、神と正しい関係に入り、どんなに苦しいことや困難があっても、
神の素晴らしい平安の中に憩うことが出来るのです。

それだけではありません。救われた人は神の子とされ、
永遠のいのちを頂くことが出来ます。
地上での生涯が終わったら、苦しみも悲しみもない天国に行くことが出来ます。
本当に素晴らしいことです。

どうか、この文章を読んで下さった皆さんも
イエス・キリストの救いを信じ、神と共に歩む最高の人生を歩んで下さい。

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>私たちを造られ、愛される神から離れ、自分勝手に生きるという罪が
私たち自身の人生を悲惨にしているのです。

↑表面だけを真面目そうにしていても内心は自己中心の固まりでした。その頃は確かに今よりも不幸でした。他者への自然な思いやりも持てずただ肉の欲望だけを満たすような生活でした。それはつまり虚栄心、自己中心、見た目の欲、好奇心、依存心、そう言う心に関することの欲望もあります。虚栄心が酷かったので人前ではおとなしい人間を演じ内心は暗い自己中心の固まりでした。気弱な人間に見えるのですが優しいわけでもなく自然への慈愛などもなく神の被造物への感動もなく感謝もない生活でした。確かに悲惨です。

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イエスキリストの救い

http://members3.jcom.home.ne.jp/0715273401/index.html

上のサイトには、イエスキリストの救いについての情報が多く書かれています。生活感覚に基づいた分かりやすいサイトです。

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希望の光

「希望の光」という電話のサービスがあります。キリスト教のメッセージ電話です。それのサイトのようです。

http://www.pat.hi-ho.ne.jp/~fasa/tel_msg/msg_km.htm

「愛して下さるお方」  

 はい、こちらは瀬谷キリスト教会の希望のダイヤルです。 あなたは誰かに愛されていると感じる事は有るでしょうか? 私はこの教会で色々なお話を聞き、そして感じていることは、私は愛されていると言うことで、これは本当に実感できます。それは人と言うことではなく、誰かに愛されていること、そしてそれは神様に愛されていると言う事です。

 以前の私はその事が全くわからず、誰かに愛されたい、誰かを愛したいと思い、嘘をついたり、また演技をしたりして人間関係に疲れる毎日を送っていました。愛する事は人からのみ愛されることと思っていたこんな私ですが、神様は聖書の中で『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』と言われ、その言葉だけでなくイエス・キリストはすべての人のため、私のためにも身代わりとなり十字架にかかり、全ての罪の罰を受け、死んで葬られ三日目に死に勝利し復活されました。このイエス・キリストを自分の救い主と信じる者は全ての罪から解放され死んだら天国、生きている間は復活の勝利の力が与えられ、どんな試練の中にあっても導き助けを受け圧倒的な勝利者として生きる希望が与えられます。イエスさまの十字架は犠牲的な愛に寄るもので十字架の縦棒は、信じる者は神の愛を頂き平和があり、その神の愛と平和を頂いている者で、その横棒は人との関係で人をも愛することが出来、その交わりには平和があるのです。「また、神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のために神が全てのことを働かせて益としてくださる事を私達は知っています。」と、有ります。ですからたとえどんな困難や問題があっても神が全てを益に導いてくださる約束があるので感謝しています。ですから、誰かに愛されたいと演技までしても満たされないその心は、本当の愛、それは神様からの惜しみない愛を知る事で解決が与えられた事を覚えています。この最高の時を忘れる事は有りません。これは決して特別なことではなく、誰でも得られる体験です。どうかあなたも体験していただきたいと思います。

 当教会では日曜日の午前10時20分から神様の礼拝があります。是非、おいで頂けるよう、お祈りしております。  お電話ありがとう御座いました。また、お掛け下さい。お待ちしております。 ではさようなら!!

>嘘をついたり、また演技をしたりして人間関係に疲れる毎日を送っていました。

↑これは私にも言えます。長年にわたり「どうしたら人に軽蔑されずにすむのか」「どうすれば人から見下され馬鹿にされずにすむのか」などのことで苦悩していました。これは何のことはなくつまりは集スト策謀により必要以上にそう言う苦悩をするようにされていた帰来はあるようです。(言われ無き巧妙な虐めにより自己嫌悪感を植え付ける)

結果どうなったかというと「人前で徹底的に演技をする」事でした。そうしなければ受け入れて頂けないし馬鹿にされそうだし軽蔑されるかも知れない等の勘違いをしていました。しかしそうした結果どうなったかというと「真の友人などが出来ずに皆から敬遠されていく、表面でしか人と関われない、人の本心を知ることが恐ろしくなる、拠って虚栄心のみで人と接し物質的な恩を売って気を紛らわす。」と言うことになりました。

一人の時はどうだったかというと「ダイエット、食物のカロリー計算、明日の日程計画、他者への無駄な暗い憶測や被害妄想、食べ物のことで頭を満たして精神のきつさを紛らわす、音楽を麻薬代わりに流してきつさを紛らわす、他者への依存心を隠した絡み付き態度など」でした。

そして服装の見た目などに固執し無駄な買い物をしメディアの創造物を気休めに買い込んでは捨てたり売るという事を繰り返し、毎日同じような習慣を繰り返さねば気が済まず、思考は停止する、他者への柔軟な想像力は皆無となるなどの弊害に苦しんだようでした。

洗脳目的か知らないが虐めによりそう言う風に愚かにされたのです。イエスキリストの救いに預かることで先ず虚栄心をはぎ取られることとなり気取ったり虚勢を張る必要もなくなります。他者への諂いにより自己防衛する必要もなくなります。そう言う恵みがあると思います。

この犯罪の被害者で精神弊害を被る人には是非ともイエス様の救いは必要だと思います。イエスキリストの救いは人間を全ての霊的な束縛より救い出す力があります。

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メルマガ

http://www.melma.com/backnumber_151487_3997265/

上のサイトでは「成長するクリスチャン」という題名のメルマガが読めます。バックナンバーも読めるようですので良かったら読んでみてください。

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聖書に全ての解決がある

「聖書に全ての解決がある」で検索しました。

http://www.igmtokyo.com/sermon/1999/11/sermon991107.html

第1コリント15章50-58節

中心聖句

15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

(15章節)

アウトライン

復活の体は、地上の体が死によって解体された後に得られるもので、物質的にまったく同じものではない。

 復活はキリストの再臨のときに起こる。そのときには、生きている人達も、主にあって死んだ人達も皆が栄光の体に変えられる。それは一瞬のうちに、しかし皆にわかるような合図とともに起こる。

 死に対する恐怖心は今も大きな力を持って人類を苦しめている。死がもつ力は、人間の罪から来ている。つまり、死んだあとに地上で犯した罪の裁きを受けなければならないという潜在意識が、死に対する恐怖の理由である。

 死の不安に対する解決は、律法にはなく、キリストの十字架の救いにのみある。全ての罪とそれに対する刑罰はイエス様が十字架の上で徹底的に苦しむことによって終えられたのだ。

 社会や家庭で様々な問題と出会っても、イエス・キリストに目を向けている限り動揺する必要は無い。そして、与えられた立場に応じて仕事や、学業にまい進することにより神の栄光をすとき、今の世と復活の世において、神様が十分な報いを与えてくださるという希望を持って、与えられた人生をめいっぱい進もう。

教訓:死の恐怖に対する勝利は、キリストの十字架の救いにあり
 

教訓:死の恐怖に対する勝利は、キリストの十字架の救いにあり

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「与えられた仕事に学業」と言った物からは見放されているというか今時分は加害者からの激しい粘着虐待により疲弊して何も出来ない状態ですがそう言う状態の時にもイエスキリストを見上げる信仰が重要なのだと思いました。

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聖書に全ての解決があります

「聖書に全ての解決がある」で検索しました。

http://www.bbnradio.org/japanese/bbs/read.asp?id=6&page=1&table=WTBT

第6章


I. 罪とは何ですか。

 聖書を読み進むと、罪とその原因と解決がずいぶん強調されていることに、誰でも気づくでしょう。罪と言われれば、すぐ法律を破ることや殺人犯に関連したことなどを思い浮かべます。しかし、聖書でいう「罪」とは、神様が完全であられることに対して、欠けていることを意味します。 ローマ3:23に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」と書いてあります。「神様の栄光」とは、神様が100満点の完全なお方であると考えれば、罪というのは合格点に満たないということです。全ての人は罪人です。聖書の中で、罪は次のようにも表現されています。

A. 神様の立法を破ること。 ローマ5:13
B. 神様に対する反逆、または不法。 1ヨハネ3:4〔口語訳〕
C. 道徳的な不純。 詩篇32:5
D. 悪い行いと同じくらい、悪い思いも罪です。 マタイ5:28


II. 罪の起源

 記録されている一番最初の罪は、天で行われました。ル-シファと言う天使が、神様と同等の地位を求めたのです。 イザヤ14:12-14 その高慢の罪のために天から追い出され、聖書のほかの箇所では悪魔、またはサタンと呼ばれるようになりました。

 地上での最初の罪は、創世記3章に描写されています。エデンの園で行われました。神様は、善悪の知識の木の実を食べてはいけないと、アダムとエバに命じられたのです。彼らは、神様にそむいて禁じられた木の実を食べ、罪を犯した人となりました。

III. 罪の結果

A. 人類の祖先であるアダムとエバは、知識の木の実を食べて罪を犯し、自分たちが裸であることに気がついて、神様から隠れようとしました。
創世記 3:7-8 

B. 罪の罰は、死です。アダムは、罪を犯して霊的に死にました。そのために、神様から離れ、神様のみ許から追放されました。そして、肉体的にも死ぬようになりました。もちろんすぐには死にませんでしたが、アダムの体は死ぬように定められたのです。 ローマ5:12

C. アダムの罪の性質は、全人類にまで及びました。罪のある親の子供として生まれたのですから、人は皆生まれながらにして、選択の余地もなく、行動においてもみな罪人なのです。アダムの長男カインも、人を殺しました。このようにして、全人類に罪の影響が及ぶようになったのです。人は皆罪人として生まれてくるので、霊的に死んでいるし、やがて肉体的にも死ぬように定まっています。この点については、ローマ5:12-18をよく読んでください。

D. 人間の罪のために、全ての被造物が、神様に呪われたものとなりました。アダムの長男は人殺しになりました。茨とアザミはこの呪いのしるしと言えるでしょう。 創世記3:14-19に、ほかのしるしも述べられています。現代人は、人間の堕落を、ただ人間的な失敗や間違いの結果だと説明します。ある心理学者は、知識や技術に関する進歩を指して、人間はだんだんよくなって来ていると説得します。けれども、墓地、刑務所、病院、また葬儀屋がある限り、罪がなくなっているというわけではありません。どんな名目であれ、涙、病気、悲しみ、痛み、および死は、罪による結果の明らかなしるしなのです。人間はなぜ罪を犯すでしょうか。ヨハネ8:44を読んでください。罪は天で始まり、地獄で終わるのす。 黙示録20:10

IV. 罪の刑罰

 「罪が支払う報酬は死です。」 ローマ6:23 神様は、罪の刑罰が死であることを定められました。人間が、神様のみ前で認められるように、自分を完全にする方法はありません。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」 ローマ3:23 これが、霊的な死と肉体的な死を意味することは、もう学びました。この刑罰は償われなければなりません。神様は、罪のために私達を罰するか、あるいは私達を清めてその罪を赦す、いずれかの方法を取るのです。

 人間が罪の中で生きている限り、霊的には死んでいるし、肉体的な死にも直面しています。死ぬ時にまだ罪の中にいるなら、永遠の死を受けるのです。それは、永遠に神様から追放され、自分の罪のために火の池の中で苦しむという意味です。これは、黙示録20:14に語られている第二の死です。


V. 罪の解決

 神様は、人間が自分の罪のために、永遠に苦しまないように、解決方法を備えてくださいました。人間の罪を解放するために、御自分の御子を世に送ってくださったのです。主イエス・キリストは、処女マリヤから生まれました。処女から生まれたのは、罪の性質を持たないで生まれるために、絶対必要でした。これによって、アダムの罪の性質を受け継がなかったのです。全ての人間の中で、イエス様だけが罪のない人間でした。自らの意思で、十字架上で人の罪の罰を受け、聖なる神様のすべての要求を満たしてくださったのです。イエス様によって罪の罰が償われました。自分が罪人だと告白して、主イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる人に、神様は永遠の命を授けてくださるのです。 2コリント5:21 このことは、「救い」の項で、さらに詳しく説明されます。)

 人がキリストを信じたら、罪の魔力と罰から救われます。これは、人がもはや罪を犯さないという意味ではありません。しかし、人の過去と現在と将来の罪が全部赦されて、そのために裁かれないという意味なのです。キリストが死なれたのは、まだあなたが生まれる前であり、しかもあなたの罪のためだったことを思い出してください。キリストにあるクリスチャンは、罪とサタンの力と快楽のために生きるのではなく、神様のために生きる力を勝ち得ているのです。

 イエス・キリストが十字架の上で死んでくださったのは、このためなのです。
「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」1ペトロ(ペテロ)2:24


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このサイトには他にも重要なメッセージがありますので読んでみてください。

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聖書に全ての解決がある

聖書に全ての解決がある で検索しました。

http://www.jbbf.org/tokyo/komichi/sk_03.html

神の言葉の力

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
(ヘブル四・一二)

人間の心に真に働きかけるのは神のことば(聖書)であります。
このことは言葉に言い表せないほど驚くべきことです。
私たちはもっとこの事実に着目する必要がありましょう。
普通の生活の中ではあまり感じないかも知れませんが、クリスチャンとして、人間の魂に興味を持つようになりますと、人間というものがどんなに悪魔のとりこになっており、
真理に対して盲目で、滅びに向かってひた走りに走っているかが分かります。
個人伝道をしても神や聖書の真理をいっこうに評価してくれません。
問題の原因が明らかな場合でも私たちの説明など耳も傾けて貰えない時が多いのです。
これを聞いてくれたら・・・もし分かって貰えたら・・・とどんなに願うことでしょうか。
こんな時、私たちは人間の魂に切り込んでいく鋭い両刃の剣、聖書の言葉と聖霊の御働きとに心をとめるべきでしょう。
神の言葉は生きている。
実にその通りです。
「光あれと言い給いたれば、光ありき」なのです。
神はみことばにより天と地とを創造されました。
みことばそのものと呼ばれる神のみ子イエス・キリストはこの世の光として来られ、私たちのうちにあっていまだ誰も聞いたこともない様な神さまについての真の部分を説き明かして下さいます。
私たちの心の中のいろいろな考えやはかりごとに光をあてて判別させてくれる決定的な力は神のことば(聖書)にあるのです。
もちろん私たち自身、どうにもならない自分の心も祈りをもって聖書に向かい、神に向えば常に解決があるのです。
(一九八三年一月二三日)

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聖書に全ての解決があるとは実に有り難いことですね。どうか聖書を読んでみてください。

http://homepage2.nifty.com/tokyobible/sekyou/se010527.htm

上のサイトには「道は開ける」という題名のメッセージがありますが、他の説教集にも面白そうなタイトルがありますので、良ければ読んでみてください。

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聖書に全ての解決がある

聖書に全ての解決がある で検索しました。

http://www2.odn.ne.jp/shinsyo/message/2007/070311.htm

『いのちと祝福の源泉』


説教:重本 基師

聖書箇所:ヨハネ7:37-38
 
 神召教会は山奥深くにある源泉のような教会。祝福がここから流れていく教会です」先日行われた神召聖会で最初に語られた講師の言葉が心に残っています。神召教会が“いのちと祝福の源泉”として恵みに溢れ、真にいのち溢れる霊的な水を世に流していくならば人々は自ずからこの場所に集まってくるでしょう。そしてその水はこの地を潤し生かすようになるのです。

■キリストこそ“いのちと祝福の源泉”である(37)

 なぜ教会は“いのちと祝福の源泉”となることができるのでしょうか。それは私たち人間が何か努力をするからではありません。教会が主イエス・キリストのからだであり、一切のもので満ち満ちておられる方が住まわれる所であるからです(エペソ1:23)。

イエスは“祭りの終わりの大いなる日”に立ち上がって「誰でも渇いている者は私のところにきて飲みなさい」と大声で叫ぶと、人々をご自身の元へ招かれました(37)。それはユダヤ三大祭の一つで仮庵の祭と呼ばれるお祭りの最終日の出来事でした。毎年最終日のこの日には必ずシロアムの池から祭司が水を汲んできて神殿の中にある祭壇に注ぐという特別な儀式が行われました。それは全ての祝福は神様から来ることを象徴する儀式だったのです(参:エゼキエル47:1-12)。つまり、イエスはこの時にご自分こそ生ける神の子キリストであって、心の渇きをいやし、いのちと全ての祝福を与える源泉であることを力強く公言されたのです。イエスが与える水は心(霊)の渇きをいやすものであって、そればかりかその水は泉のようにその人の内で湧き上がり、川のように流れていき他の人々にも祝福が流れていくようになると約束されています(38)。

 現代は多くの人々が渇いている時代です。本当に心を満たしてくれるものを求めています。しかし、私たちの周りにあるのは争いや偽りなのです。聖書はそれらは私たちの内側にある罪に起因していると教えています(ローマ1章)。私たち人間を造られた天の父なる神を忘れ、無視し、そのみこころを求めようともせず、自分勝手に生きている私たちの自我(エゴ)が、私たち自身に渇きを起こしているというのです。

 なぜイエス・キリストは私たちの渇きを満たすことができるのでしょうか。それはこのお方こそ、天の父なる神に背いてそのいのちと祝福を受けられなくしている私たちの罪を身代わりに背負ってくださったお方だからです。父なる神と私たちの間に立ってくださったこのイエス・キリストを通してのみ私たちは神の祝福と恵みを相続することができるのです(テトス3:5-7)。だから、私たちは何をさておいてもまず主イエスの元に行くことが必要です。問題や困難がやってきた時、人間的な策略は一度横において、イエスの元に静まりひざまずいてその御名を呼び求めるのです。なぜなら、そこに全ての解決があるからです。

■いのちと祝福の水を受けるための大切なこと

①イエスに飢え渇くこと(37)

 イエスは飢え渇いている人々に呼びかけられました。イエスへの飢え渇きがあるところが主の働かれる場所になります。また、主は時に私たちに試練や困難を与えることによって主イエスへの飢え渇きを起こさせようとされることがあります。難しい問題がやってきた時は主イエスの元へ行くことがチャレンジされている時だと覚えましょう。

②イエスの元に行くこと(37)

 源泉に行かなければ水は得られません。また往々にして源泉は人里離れた山奥や森の中の注意深くしなければ見落としてしまうようなところにあるのです。祈り(話すこと)とみことばの黙想(聴くこと)を通して神の前に出て行くのです。主はあなたを招いておられます。

③イエスを信じる(信頼する)こと(38)

 神に近づくためには信仰(信頼)が必要です(参:ヘブル11:6)。多くのユダヤ人達はイエスの元に行こうとしませんでした。イエスを信じられなかったのです。神の元に行くことを妨げるものは「不信仰」、「プライド」、「恐れ」です。逆に、弱さを持った人や罪人と呼ばれた人々が単純な信仰を持ってイエスの元に行き“いのちと祝福の水”を受けたのです。

■分かち合いのための小さな質問

①メッセージで一番心に残ったことは何でしたか?

②いのちと祝福の源泉はどこにありますか?(37節)どうしてそう言えるのでしょうか?

③自分のうちに主イエスの元に行くことを妨げているものはありませんか?それは何ですか?分かち合って互いに祈りあいましょう。

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>神の元に行くことを妨げるものは「不信仰」、「プライド」、「恐れ」です。逆に、弱さを持った人や罪人と呼ばれた人々が単純な信仰を持ってイエスの元に行き“いのちと祝福の水”を受けたのです。

↑「プライド」という言葉は過去に礼拝説教で良く耳にしていました。嫌な言葉だなあと正直思っていました。何故ならそれは自分の隠された恥であったからでしょう。私の場合は「真の自尊心」ではなくて「臆病さから来る見栄」だという物かも知れません。

しかし「恥ずかしい」という感情に負けて真の自己と向き合わないのであれば又それも「プライドが邪魔している」事になるのでしょうか。当時惨めな状況に置かれていながらまだ何処かで一生懸命に「自己を誇ろうと」していました。それも無くされるようにと、神が導かれました。幻想から突き放され真の自己を見せつけられ「何という恥ずかしく惨め極まりない人生だろうか」と思いやり切れずそれに気付いたことを又誇ろうとしたことで罪に陥り真の絶望と祈りに導かれました。

そうすることで真の罪という物を知らされることになりました。それは無数にあるという感じの代物でした。「失敗の連続」は罪だと言うよりは事実に過ぎず真の罪はもっと違うところに潜んでいたようです。悪魔サタンというのは「事実に過ぎないこと」を罪だというように教えようとします。例えば社会的脱落や親不孝、過食症、金を無駄にしてしまったことなど。

しかし真の罪は悪を行いながらそれに無自覚でいることかも知れません。それと心の内側で常に犯している罪です。前者は不信仰、偶像礼拝、嘘を付く、悪への麻痺、悪い習慣、陰口、下劣な物を見聞きする、生き物や食べ物を粗末にする、感謝しない、ゴミを無駄に出す、環境を汚すなど。

後者は陰険さ、狡猾さ、虚栄心、姑息さ、軽薄さ、真実でない、傲慢さ、高慢さ、好色さ、貪欲さ、邪さ、暗さ、捻くれた考え、自惚れ、依存心など。そう言ったことかも知れません。

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聖書に全ての解決がある

「聖書の全ての解決がある」で検索しました。以下引用します。

http://www5.ocn.ne.jp/~yorichap/sinkou1.htm

4 教会外の問題の規範でもある

人間の運命

聖書はすべての人間の運命を握っています。

主イエスを信じない人々は、キリスト教を、イスラム教、仏教、ヒンズー教などと並ぶ一宗教に過ぎないと思っています。そして、聖書は、多くの宗教書の中の一つに過ぎないと見なしています。しかし、そうではありません。万物の創造し、支配している主なる神は、全ての人が守るべき規範として、聖書を与えたのです。そして、キリスト教信者でない者たちをも、聖書を基準として裁くのです。すべての人間の活動は、聖書によって吟味され、判断されて、祝福を受けるか,呪いを受けるかが決定されるのです。

聖書は、主イエスを信じる者は、罪を赦され、永遠のいのちを与えられる、と述べています。それゆえに、主イエスを信じる者は、罪を赦されて、永遠のいのちを与えられるのです。聖書が述べている通りなのです。また、主イエスを信じない者は、罪に定められ、滅びると述べています。それゆえに、信じない者は罪に定められ、滅びるのです。聖書が述べている通りなのです。信じる者も、信じない者も、聖書が述べている通りになるのです。聖書は、信じる者の運命も、信じない者の運命も決定するのです。聖書はあらゆる問題の規範だからです。

信じる者も、信じない者も、クリスチャンも、クリスチャンでない者も、無神論者も、人間の全ての活動が、聖書によって吟味され、批判されるのです。たとえ、聖書を信じていなくても、聖書を踏みにじれば、それに対する裁きが、神から来るのです。聖書は単に、信仰者の活動だけを規定しているのではありません。すべての人間の活動を規定しているのです。そして、聖書に従う者は祝福され、聖書を踏みにじる者は呪われるのです。例えば、聖書は「人を殺してはならない」と命じています。それゆえに、人を殺す者は、キリスト教国であっても、非キリスト教国であっても、神に呪われます。聖書を知らなくても、聖書の教えを守れば、祝福され、聖書の教えを踏みにじれば、呪いを招くのです。

社会生活

聖書は、クリスチャンの教会生活の規範であるだけではなく、社会生活全体の規範なのです。私たちは、家庭においても、社会においても、職場においても、常に聖書によって吟味されるのです。そして聖書に従うならば、祝福され、聖書に違反するならば、呪われるのです。

聖書は、隣人を愛し、人々と平和に暮らすことを命じています。それゆえに、信仰者であっても、非信仰者であっても、隣人を愛し、人々と平和に暮らすように努めるべきです。そうすれば、神の祝福を受け、そうしなければ、神の呪いを受けるのです。聖書は社会生活の規範だからです。

この世には、神の御心にかなわない多くの罪深い習慣や制度があります。私たちは、神の栄光を汚すような罪深いしきたりや制度には従ってはなりません。パウロは言いました。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12・2)それゆえに、罪深い制度に従う者は、神の呪いを受けるのです。それに従うことを拒否する者は、神の祝福を受けるのです。

神の御心に違反する職業には、どんなに大きな利益が約束されても、ついてはなりません。キリスト教以外の宗教活動をする職業、偶像崇拝や占いに関する職業、詐欺同然の商法を行なう会社、セックス産業などには関わってはなりません。それらの職業についていると、どんなに誠実に働いても、神の祝福はありません。

しかし、それら以外で、神が与えてくださった職業ならば、恐れたり、ためらったりすることなく、安心して働き、誠実に働くことを通して、神の祝福を受けるのです。聖書は社会生活の規範です。信仰者にとっても、非信仰者にとってもです。聖書に従えば、神の祝福が来ますが、聖書に背けば、神の呪いが来るのです。

偶像崇拝は、神に憎まれる行為です。それゆえに、偶像崇拝を行なうべきではありません。偶像崇拝を行なうならば、神に呪われるのです。クリスチャンであっても、クリスチャンでなくても、同様です。仏教徒なら、偶像崇拝が許される、というようなことはありません。この世では許されても、神の御前では許されないのです。それゆえに、神の呪いを受けるのです。クリスチャンは、偶像崇拝を強要されたなら、信仰の証を立てるべき機会だと信じて、拒否しなければなりません。

ローマ書13章1節は、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」と述べています。「上に立つ権威」とは政治権力のことです。クリスチャンは、非キリスト教国家であっても、政府に反対してはなりません。なぜならば、そうすることは、聖書に反するからです。人間は政治権力に従って、法律を守り、税を納めなければなりません。キリスト教国家であっても、非キリスト教国家であっても同様です。それゆえに、非キリスト教国家であっても、クリスチャンは革命運動などに加わるべきではありません。聖書がそれを禁じているからです。そして、その 禁止を破れば、神の裁きが来るのです。

しかしながら、私たちは、聖書の権威に真っ向から反対する政府には従うべきではありません。神に従うことが基本ですから、神に反対する政府には従うことができません。それゆえに、主イエスを信じることを禁じたり、宣教活動を妨害するような政府には従うことはできません。また、圧政を行なったり、差別を行なったり、他国を侵略するような政府を支持することはできません。そのような政府は神の御心にそぐわないのですから、改革されなければなりません。

ドイツでは、大勢のクリスチャンが、ナチ政権に反対しました。殉教した人もいました。ユダヤ人虐殺を命じた政府を支持することは、聖書の教えに反することだったので、そのような政府に反対することは当然でした。

社会の運命

神は、教会外の社会全体を、聖書に従って吟味するのです。教会外の世界は、直接的には、聖書とかかわりをもっていません。政治や経済の政策などは、聖書とは関係なく意志決定がなされ、活動が進展していきます。しかし、私たちの神は万物を創造した方であり、教会中も、教会外も支配しており、聖書を唯一の規範としているのです。そして、神は、社会や国家も、聖書に照らして吟味し、祝福するか、呪うかを決定するのです。それゆえに、聖書に背いた政策を取る国家は、たとえ非キリスト教国家であっても、神の呪いを受けるのです。

例えば、日本の江戸時代、徳川幕府はキリスト教を禁止し、日本中を偶像崇拝で満たしました。聖書は偶像崇拝を罪としています。それゆえに、神はその言葉の通り、江戸時代の日本を罪に定めたのです。その時代、日本の社会は暗くなり、不正が満ち溢れ、人々は奴隷化され、たましいの真の自由を知ることができませんでした。江戸時代の日本には、神の祝福は宿りませんでした。聖書に書かれている通りになったのです。たとえ聖書を無視しても、抹殺しても、聖書が定めた規範を否定することは出来ないのです。

江戸時代の日本人が、神の法廷に引き出されて、「なぜ、クリスチャンを迫害したのか」と問われたとき、「徳川幕府から命令されたので、やむを得ずに迫害しました。」と、言い逃れることは出来ません。言い逃れは、神の前には通用しないのです。もちろん、命令した者の罪はいっそう重いのですが、命令を実行した者も罪があるのです。

聖書が造られる以前は、聖書は存在しませんでしたが、その時代の人々の行為も、聖書によって吟味されました。アダムからノアにいたる時代の人々は、聖書を持っていませんでしたが、聖書は彼らを罪に定め、その時代の文明を滅ぼしたのです。聖書は、「暴虐が地に満ちた」と述べています。神は大洪水を起こして、ノアと彼の家族を除いて、その時代のすべての人々を滅亡させ、その文化を滅ぼしたのです。その滅亡は徹底していて、廃墟すら残しませんでした。聖書はまだ存在していなかったにもかかわらず、その時代の人々は聖書にしたがって裁かれたのです。

洪水以後、主イエスの来臨までの間、人類は古代文明を築き上げました。その時代に生きた人々は、イスラエル民族を除いて、神を信じませんでした。古代文明はことごとく、神に呪われ、裁かれ、滅び去りました。現在、古代文明は廃墟と化しています。古代文明の中で、現在まで生き残った民族は、信仰の道を歩いたイスラエル民族だけです。古代の文化は聖書を無視したので、聖書に従って滅ぼされたのです。そして、イスラエル民族は、聖書に従って、生き残ることが出来たのです。どちらも、聖書が述べている通りになったのです。

聖書には、己を神とすることは、恐ろしい罪であると述べられています。たとえ聖書を認めない者でも、己を神とするならば、神の怒りを招き、滅ぼされるのです。その時代の王たちは、己を神とし、絶対化し、己を拝ませ、己以外のすべての人間を奴隷化しました。恐ろしい奴隷制度が、地上を覆っていたのです。その文化は奴隷制度の上に築かれたものでした。そして、聖書に従って滅ぼされたのです。

たとえキリスト教国であっても、聖書に反することを行なうならば、神の裁きに会うのです。第二次世界戦争の時代のドイツは、ヒットラーの独裁的な政策によって、ユダヤ人を虐殺しました。それは全く聖書に反する行為でした。それゆえに、ナチ政権は、聖書によって滅亡に定められたのです。

5 聖書は全てについて真理を語る

聖書は誤りなき神の言葉です。私たちは、聖書は、どんなことについても真理を語っている、と信じます。

私たちは、聖書が歴史記述や自然の描写においても、誤りがないと信じます。私たちは、聖書に記された天地創造の物語、人類の初期の物語、イスラエル民族の歴史、主イエスの生涯と弟子たちの活動の記録などは誤りがない、と信じます。

キリスト教の信仰は、歴史を離れたものではなく、むしろ聖書が伝える歴史が正しいという信仰に立脚しているのです。キリスト教は歴史的な宗教であり、聖書は歴史書でもあるのです。そして、歴史書というものは真実を伝えなければ、価値がありません。私たちは、聖書は最高に価値のある歴史書であり、真実を伝えていると信じます。それゆえに、聖書の主張と明確に矛盾する歴史観は、正しいものではありません。ヘーゲルの観念論的歴史観も、マルクスの唯物史観も、その他の歴史家たちが主張する歴史観も、聖書に従っていないならば、間違っているのです。

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この犯罪行為にあったことで人間に対して絶望し、聖書に手が伸びました。聖書はこの世における様々な自分を苦しめた価値観よりの解放を覚えるみことばがありました。それまでは厳しいことを書いている難しい教条書という感じを抱き読めませんでした。読んでみても頭にも心にも入らず辞めてしまうのです。絶望的な状態でした。

それはきっと悪魔的な創造物に気を取られ、それに依存することを辞められなかったせいかもしれません。例えばメディアのものです。音楽や占いや、本や漫画や精神医学書や心理学の本やエッセイ集等です。

他には辛さを紛らわせるためのダイエット願望や食物や菓子やコンビニの商品や虚栄心や他者への依存や何かです。

ある時ダイエットに挫折し過食し食べ物で苦しみを味わい惨めさを味わい更にメディアからの激しい苛めに遭い絶望しました。それで漸く聖書に手が伸びました。

当時依存していた人間関係は何故か遠ざかり誰もいない状態でした。「聖書にしか救いがないのだろうか?聖書を学ぶ方が良いのかも知れない」と思い聖書の学び関連の本を買い読んだところ「祈ることが重要」と書かれていたので祈り求めました。その際見栄を張った体裁を繕う祈りでは意味がないため恥も外聞もなく祈り続けました。

その内に自己の罪が分かり何度か悔い改めました。聖書のみことばが心に入るようになりました。聖書にはこの世の教えに吹き回されて苦しめられた者への処方箋のようなみことばが多かったのです。この世というのは悪魔の支配下にあり聖書はその支配から救い出されるための書でありました。

聖書は生ける神のみことばです。人間は不確かであり嘘を付いたり裏切ったり見栄を張りますが聖書にはその様なことはありません。真実の言葉です。

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哀歌

「哀歌」をコピペします。哀歌には慰められるみことばがあります。

http://bible.monochro.com/index/22137/#ln22137

(確かに人をぎたぎたに苦しめつつなおも嘲笑を聞かせ続ける加害者は多いのです、不可解ですね正直の所)

(被害者の方が胡散臭く思われるように演出はされますが今はその演出加害者しかいないようです)

(確かに滅ぼすことに執着しそれを誇ることは不可解な性質です)

(道行く人は皆何処か冷淡ですし宇宙人的に見えます、個々の心の内側など計り知れません、粘着加害者は一秒すらも休むことなく虐め行為を続けます)

(確かに安眠妨害はされるし一秒も安らげないしで衰えざるを得ません)

(確かにそうですね。丸腰の個人に対して無数の集団、しかも、機械やハイテクや車や監視行為、マスコミ、組織企業、警察行政の無視や加担など、信じがたい状況です)

(そういえば卑しい人物であるかのような風評を流布されましたし、嫌な映像や写真を配布されたのかも知れません、それを上回るような有名人の盗撮画像や一般人の盗撮画像を一々仄めかすようなサイト、流通映像などもありますね)

(確かにそれに近い状態ですね)

(敵は被害者が苦しむのが嬉しい性質のようですが、考えれば加害者共は信じがたい性質です、一日中信じがたい虐待をしつつなおも粘り着いて虐めによる快楽を覚えようとするかのようです、理解できませんので困惑します、こういう変な人種がいるだろうか)

(嘆きは多く心は弱り果て・・・確かにそうです)

(まるで今の日本のようですが戦後の日本もそうだったのでしょうか)

(日本は今時分滅ぼされにかかっているのだろうか?)

(敵は良く嬌声は聞かせています)

(主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せというみことばは慰めになります)

(まるで被害者のことのようです、暴虐な行いの被害者はみなそうですが)

(光の感じ取れない状態に置かれたことは事実です)

(終日加害者の虐待に遭わされている状態みたいですね)

(八方ふさがりという感じですね)

(確かに惨めですね、この世的にはとても)

(加害者よりの滅多刺し攻撃に通じますね)

(まるで被害者の事みたいですね)

(確かに毎日獣じみた怒りの声を上げていましたし、普通の感覚を失ったようです)

(若い頃重荷をおわされることはよいことだそうです)

(このみことばは厳しいですね、私にはとても出来ず抗ってばかりです)

(災いも幸いも神の御口より出ていると書かれています)

(私は呟くどころか毎日悪態を吐き通しでしたので余計に苦しめられているのだろうか)

(人体実験虐待や心理実験虐待ゲームの事のようです)

(神は全てのことを知られるという意味だと思います)

(被害者の知らない加害者の悪態や誹りも神は知られるそうです)

(集ストに限って言うとそう言う感じですね)

(まるでメディア被害のことのようです)

(ソドムの罰は直ぐに終わったが今の罰は十数年以上は続けられていますね)

(まるで当てにならない外国の民に救いを求めることのようです)

(酔うとは罠にかかると言うことで、裸になると言うのは辱めを受けるという意味かも知れません)

(不義は必ず罰され罪は隠されていても、表されると言うことだと思います)

(これも何か集スト状況と似ています、外出したり買い物にすら行くことも何か、危険極まりない状態に耐えつつ行かねばいけませんし買い物にも行けなくなり餓死することもあるようです)

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詩篇より

詩篇81編
8わが民よ、聞け、わたしはあなたに勧告する。イスラエルよ、あなたがわたしに聞き従うことを望む。
9あなたのうちに他の神があってはならない。あなたは外国の神を拝んではならない。
10わたしはエジプトの国から、あなたをつれ出したあなたの神、主である。あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。
11しかしわが民はわたしの声に聞き従わず、イスラエルはわたしを好まなかった。
12それゆえ、わたしは彼らを/そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。
13わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。
14わたしはすみやかに彼らの敵を従え、わが手を彼らのあだに向けよう。
15主を憎む者も彼らに恐れ従い、彼らの時はとこしえに続くであろう。
16わたしは麦の最も良いものをもってあなたを養い、岩から出た蜜をもってあなたを飽かせるであろう」。
ーーーーーーーーーー

聖書の神様は人間に対して「他の神を拝んではいけない、神の道に聞き従うことを臨む」と言われています。聖書を書かれた神様は創造主の神であり全知全能の神様です。

ーーーーーーーーーー

みことば検索サイトで「罰」で検索しました。引用してコピペします。

ーーーーーーーーーー

4)どうぞ、そのわざにしたがい、その悪しき行いにしたがって彼らに報い、その手のわざにしたがって彼らに報い、その受くべきを彼らに与えてください。

5)万軍の神、主よ、あなたはイスラエルの神です。目をさまして、もろもろの国民をし、悪をたくらむ者どもに、あわれみを施さないでください。〔セラ

27)彼らに、を加え、あなたの赦免にあずからせないでください。

32)わたしはつえをもって彼らのとがをし、むちをもって彼らの不義をする。

2)地をさばかれる者よ、立って高ぶる者にその受くべきをお与えください。

10)もろもろの国民を懲らす者はすることをしないだろうか、人を教える者は知識をもたないだろうか。

箴言:第11
21)確かに、悪人はを免れない、しかし正しい人は救を得る。

31)もし正しい者がこの世でせられるならば、悪しき者と罪びととは、なおさらである。
2)善人は主の恵みをうけ、悪い計りごとを設ける人は主にせられる。
箴言:第16章
5)すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、確かに、彼はを免れない。

箴言:第17章
5)貧しい者をあざける者はその造り主を侮る、人の災を喜ぶ者はを免れない。

26)正しい人をするのはよくない、尊い人を打つのは悪い。
箴言:第19章
5)偽りの証人はを免れない、偽りをいう者はのがれることができない。
箴言:第19章
9)偽りの証人はを免れない、偽りをいう者は滅びる。
19)怒ることの激しい者はをうける、たとい彼を救ってやっても、さらにくり返さねばならない。

箴言:第20章
26)知恵ある王は、箕をもってあおぎ分けるように悪人を散らし、車をもって脱穀するように、これをする。

箴言:第21章
11)あざけるものがをうけるならば、思慮のない者は知恵を得る。知恵ある者が教をうけるならば知識を得る。

箴言:第22章
3)賢い者は災を見て自ら避け、思慮のない者は進んでいって、をうける。

箴言:第27章
12)賢い者は災を見て自ら避け、思慮のない者は進んでいって、をうける。

箴言:第28章
20)忠実な人は多くの祝福を得る、急いで富を得ようとする者はを免れない。

3)あなたがたは刑の日がきたなら、何をしようとするのか。大風が遠くから来るとき、何をしようとするのか。あなたがたはのがれていって、だれに助けを求めようとするのか。また、どこにあなたがたの富を残そうとするのか。
イザヤ書:第10章
12)主がシオンの山とエルサレムとになそうとすることを、ことごとくなし遂げられた時、主はアッスリヤ王の無礼な言葉と、その高ぶりとをせられる。
イザヤ書:第13章
11)わたしはその悪のために世をし、その不義のために悪い者をし、高ぶる者の誇をとどめ、あらぶる者の高慢を低くする。

21)その日、主は天において、天の軍勢をし、地の上で、地のもろもろの王をせられる。
14)死んだ者はまた生きない。亡霊は生き返らない。それで、あなたは彼らをして滅ぼし、彼らの思い出をことごとく消し去られた。

21)見よ、主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義をせられる。地はその上に流された血をあらわして、殺された者を、もはやおおうことがない。

1)その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレビヤタン、曲りくねるへびレビヤタンをし、また海におる龍を殺される。

2)ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑を主の手から受けた」。

9)わたしはこれらの事のために彼らをしないでいられようか。このような国民にあだを返さないであろうか」と主は言われる。

29)主は言われる、わたしはこのような事のために、彼らをしないであろうか。わたしはこのような民に、あだを返さないであろうか」。

6)万軍の主はこう言われる、「あなたがたは彼女の木を切り倒し、エルサレムにむかって塁を築け。これはすべき町である、そのうちにはただ圧制だけがある。

15)彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。すこしも恥ずかしいとは思わず、また恥じることを知らなかった。それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。わたしが彼らをするとき、彼らは倒れる」と主は言われる。

12)彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。すこしも恥ずかしいとは思わず、また恥じることを知らなかった。それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。わたしが彼らをするとき、彼らは倒れると、主は言われる。

9)主は言われる、これらのことのために、わたしが彼らをしないだろうか。わたしがこのような民にあだを返さないだろうか。

25)主は言われる、「見よ、このような日が来る。その日には、割礼をうけても、心に割礼をうけていないすべての人をわたしはする。
15)これらは、むなしいもので、迷いのわざである。せられる時に滅びるものである。
3)主は仰せられる、わたしは四つの物をもって彼らをする。すなわち、つるぎをもって殺し、犬をもってかませ、空の鳥と地の獣をもって食い滅ぼさせる。

23)主よ、あなたは彼らがわたしを殺すためにめぐらしている計略を皆ごぞんじです。その悪をゆるすことなく、その罪をあなたの前から消し去らないでください。彼らをあなたの前に倒れさせてください。あなたのお怒りになる時に彼らをしてください。

14)わたしはあなたがたを、その行いの実によってする。またその林に火をつけて、その周囲のものをみな焼き尽すと、主は言われる」。

12)それゆえ、彼らの道は、おのずから暗黒の中にあるなめらかな道のようになり、彼らは押されてその道に倒れる。わたしが彼らのせられる年に、災をその上に臨ませるからであると、主は言われる。
34)そして、『主の重荷』と言うその預言者、祭司、または民のひとりを、その家族と共にわたしはする。

12)主は言われる、七十年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデヤびとの地を、その罪のためにし、永遠の荒れ地とする。

29)見よ、わたしの名をもって呼ばれるこの町にさえ災を下すのだ。どうしてあなたがたがを免れることができようか。あなたがたはを免れることはできない。わたしがつるぎを呼び寄せて、地に住むすべての者を攻めるからであると、万軍の主は仰せられる』。

8)バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、バビロンの王のくびきを自分の首に負わない民と国とは、わたしがつるぎと、ききんと、疫病をもってし、ついには彼の手によってことごとく滅ぼすと主は言われる。

32)主はこう仰せられる、見よ、わたしはネヘラムびとシマヤとその子孫をする。彼は主に対する反逆を語ったゆえ、彼に属する者で、この民のうちに住み、わたしが自分の民に行おうとしている良い事を見るものはひとりもいない」。

11)主は言われる、わたしはあなたと共にいて、あなたを救う。わたしはあなたを散らした国々をことごとく滅ぼし尽す。しかし、あなたを滅ぼし尽すことはしない。わたしは正しい道に従ってあなたを懲らしめる。決してしないではおかない。
20)その子らは、いにしえのようになり、その会衆はわたしの前に堅く立つ。すべて彼らをしえたげる者をわたしはする。

31)わたしはまた彼とその子孫とその家来たちをその罪のためにする。また彼らとエルサレムの民とユダの人々には災を下す。この災のことについては、すでに語ったけれども、彼らは聞くことをしなかった』」。

13)わたしはエルサレムをしたように、つるぎと、ききんと、疫病をもってエジプトに住んでいる者をする。
29)主は言われる、わたしがこの所であなたがたをするしるしはこれである。わたしはこのようにしてわたしがあなたがたに災を下そうと言った事の必ず立つことを知らせよう。
21)そのうちにいる雇兵でさえ、肥えた子牛のようだ。彼らはふり返って共に逃げ、立つことをしなかった。彼らの災難の日、そのせられる時が来たからだ。
28)主は言われる、わたしのしもべヤコブよ、恐れることはない、わたしが共にいるからだ。わたしはあなたを追いやった国々をことごとく滅ぼし尽す。しかしあなたを滅ぼし尽すことはしない。わたしは正しい道に従って、あなたを懲らしめる、決してしないではおかない」。

44)恐れをさけて逃げる者は穴におちいり、穴をよじ上って出る者は、わなに捕えられる。わたしがモアブに、そのせられる年に、これらのものを臨ませるからであると主は言われる。

8)デダンに住む者よ、逃げよ、のがれよ、深い所に隠れよ。わたしがエサウの災難を彼の上に臨ませ、彼をする時をこさせるからだ。

12)主はこう言われる、「もし、杯を飲むべきでない者もそれを飲まなければならなかったとすれば、あなたはを免れることができようか。あなたはを免れない。それを飲まなければならない。
18)それゆえ万軍の主、イスラエルの神は、こう言われる、見よ、わたしはアッスリヤの王をしたように、バビロンの王とその国にを下す。

27)その雄牛をことごとく殺せ、それを、ほふり場に下らせよ。それらのものはわざわいだ、その日、そのを受ける時がきたからだ。

31)主なる万軍の神は言われる、高ぶる者よ、見よ、わたしはおまえの敵となる、あなたの日、わたしがおまえをする時が来た。

6)バビロンのうちからのがれ出て、おのおのその命を救え。そのにまきこまれて断ち滅ぼされてはならない。今は主があだを返される時だから、それに報復をされるのである。

9)われわれはバビロンをいやそうとしたが、これはいえなかった。われわれはこれを捨てて、おのおの自分の国に帰ろう。そのが天に達し、雲にまで及んでいるからだ。

18)それらは、むなしいもの、迷いのわざである。せられる時になれば滅びるものである。

44)わたしはバビロンでベルをし、そののみこんだものを口から取り出す。国々が川のように彼に流れ入ることはなくなる。バビロンの城壁は倒れた。
47)それゆえ見よ、わたしがバビロンの偶像をする日が来る。その全地ははずかしめられ、その殺される者はみなその中に倒れる。
52)主は言われる、それゆえ見よ、わたしがその偶像をする日が来る、傷つけられた者が、その全国にうめくようになる。
39)生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、人は自分の罪のせられるのを、つぶやくことができようか。
06)わが民の娘のうけた懲らしめは、ソドムのよりも大きかった。ソドムは昔、人の手によらないで、またたくまに滅ぼされたのだ。
22)シオンの娘よ、あなたの不義のは終った。主は重ねてあなたを捕え移されない。エドムの娘よ、主はあなたの不義をし、あなたの罪をあらわされる。
4)あなたはまた自分の左脇を下にして寝なさい。わたしはあなたの上にイスラエルの家のを置く。あなたはこのようにして寝ている日の間、彼らのを負わなければならない。
5)わたしは彼らのの年数に等しいその日数、すなわち三百九十日をあなたのために定める。その間あなたはイスラエルの家のを負わなければならない。

17)これは彼らをパンと水とに乏しくし、互に驚いて顔を見合わせ、そののために衰えさせるためである。
15)わたしが怒りと、憤りと、重い懲とをもって、あなたに対してさばきを行う時、あなたはそのまわりにある国々のあざけりとなり、そしりとなり、戒めとなり、驚きとなる。これは主であるわたしが語るのである。
3)いま、あなたの終りが来た。わたしはわが怒りをあなたに漏らし、あなたの行いに従って、あなたをさばき、あなたのもろもろの憎むべき物のためにあなたをする。
4)わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またあなたをあわれまない。わたしはあなたの行いのためにあなたをする。あなたの憎むべき事があなたのうちにある。これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。
8)今わたしは、すみやかにわたしの憤りをあなたの上に注ぎ、わたしの怒りをあなたに漏らし尽し、あなたの行いに従ってあなたをさばき、あなたのもろもろの憎むべき事のためにあなたをする。
9)わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またあなたをあわれまない。わたしはあなたの行いのためにあなたをする。あなたの憎むべき事があなたのうちにある。これによって、あなたがたは、主であるわたしがあなたを撃つことを知るようになる。
1)時に彼はわたしの耳に大声に呼ばわって言われた、「町をする者たちよ、おのおの滅ぼす武器をその手に持って近よれ」と。
8)それゆえ、主なる神はこう言われる、「あなたがたはむなしいことを語り、偽りの物を見るゆえ、わたしはあなたがたをすると主なる神は言われる。
10)彼らはそのを負う。その預言者のは、問い求める者のと同様である。
21)主なる神はこう言われる、わたしが人と獣とを地から断つために、つるぎと、ききんと、悪しき獣と、疫病との四つのきびしいをエルサレムに送る時はどうであろうか。
25)汚れた悪人であるイスラエルの君よ、あなたの終りの刑の時であるその日が来る。
29)彼らがあなたに偽りの幻を示し、偽りを占ったゆえ、これは殺さるべき悪しき者の首の上に置かれる。彼らの終りの刑の時であるその日がきている。
3)言え。主なる神はこう言われる、自分のうちに血を流して、その刑の時をまねき、偶像を造ってその身を汚す町よ、
17)わたしは怒りに満ちた懲をもって、大いなる復讐を彼らになす。わたしが彼らにあだを返す時、彼らはわたしが主であることを知るようになる」。
5)あなたは限りない敵意をいだいて、イスラエルの人々をその災の時、終りの刑の時に、つるぎの手に渡した。
13)また彼女が耳輪と宝石で身を飾り、その恋人たちを慕って行って、わたしを忘れ、香をたいて仕えたバアルの祭の日のために、わたしは彼女をすると主は言われる。
9)それゆえ祭司も民と同じようになる。わたしはそのわざのために彼らをし、そのおこないのために彼らに報いる。
14)わたしはあなたがたの娘が淫行をしてもしない。またあなたがたの嫁が姦淫を行ってもしない。男たちみずから遊女と共に離れ去り、宮の遊女と共に犠牲をささげているからである。悟りのない民は滅びる。

13)彼らは犠牲を好み、肉をささげてこれを食べる。しかし主はこれを喜ばれない。今、彼らの不義を覚え、彼らの罪をせられる。彼らはエジプトに帰る。

7)刑の日は来た。報いの日は来た。イスラエルはこれを知る。預言者は愚かな者、霊に感じた人は狂った者だ。これはあなたがたの不義が多く、恨みが大きいためである。
9)彼らはギベアの日のように、深くおのれを腐らせた。主はその不義を覚え、その罪をせられる。
2)主はユダと争い、ヤコブをそのしわざにしたがってし、そのおこないにしたがって報いられる。

3)主はこう言われる、「ダマスコの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼らが鉄のすり板で、ギレアデを踏みにじったからである。
6)主はこう言われる、「ガザの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼らが人々をことごとく捕えて行って、エドムに渡したからである。
9)主はこう言われる、「ツロの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼らが人々をことごとくエドムに渡し、また兄弟の契約を心に留めなかったからである。
11)主はこう言われる、「エドムの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼がつるぎをもってその兄弟を追い、全くあわれみの情を断ち、常に怒って、人をかき裂き、ながくその憤りを保ったからである。

1)主はこう言われる、「モアブの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼がエドムの王の骨を焼いて灰にしたからである。

4)主はこう言われる、「ユダの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼らが主の律法を捨て、その定めを守らず、その先祖たちが従い歩いた偽りの物に惑わされたからである。

6)主はこう言われる、「イスラエルの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれをしてゆるさない。これは彼らが正しい者を金のために売り、貧しい者をくつ一足のために売るからである。
8)彼らはすべての祭壇のかたわらに質に取った衣服を敷いて、その上に伏し、金をもって得た酒を、その神の家で飲む。

2)「地のもろもろのやからのうちで、わたしはただ、あなたがただけを知った。それゆえ、わたしはあなたがたのもろもろの罪のため、あなたがたをする。
14)わたしはイスラエルのもろもろのとがをする日にベテルの祭壇をする。その祭壇の角は折れて、地に落ちる。
4)彼らの最もよい者もいばらのごとく、最も正しい者もいばらのいけがきのようだ。彼らの見張びとの日、すなわち彼らの刑の日が来る。いまや彼らの混乱が近い。

3)主は怒ることおそく、力強き者、主はすべき者を決してゆるされない者、主の道はつむじ風と大風の中にあり、雲はその足のちりである。

8)主の犠牲をささげる日に、「わたしはつかさたちと王の子たち、およびすべて異邦の衣服を着る者をする。
9)その日にわたしはまた、すべて敷居をとび越え、暴虐と欺きとを自分の主君の家に満たす者をする」。

12)その時、わたしはともしびをもって、エルサレムを尋ねる。そして滓の上に凝り固まり、その心の中で『主は良いことも、悪いこともしない』と言う人々をわたしはする。
3)「わが怒りは牧者にむかって燃え、わたしは雄やぎをする。万軍の主が、その群れの羊であるユダの家を顧み、これをみごとな軍馬のようにされるからである。

5)これを買う者は、これをほふってもせられない。これを売る者は言う、『主はほむべきかな、わたしは富んだ』と。そしてその牧者は、これをあわれまない。
15)今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みてもせられない』」。
33)へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑をのがれることができようか。

51)彼を厳に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

46)そして彼らは永遠の刑を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
46)その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。
22)それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑の日であるからだ

10)そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたをする者はなかったのか」。

11)女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたをしない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕

21)そこで、彼らはふたりを更におどしたうえ、ゆるしてやった。みんなの者が、この出来事のために、神をあがめていたので、その人々の手前、ふたりをするすべがなかったからである。
11)それから、いたるところの会堂で、しばしば彼らをして、無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、迫害の手をのばすに至りました。

8)むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らがせられるのは当然である。

3)律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪をせられたのである。
6)そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処しようと、用意しているのである。
9)そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑を受けるであろう。
29)神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑に価することであろう。

25)あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。
14)あるいは、悪を行う者をし善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。
10)特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々をして、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。

12)これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとしてを受け、必ず滅ぼされてしまうのである。
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高ぶりと偶像礼拝の罪が最も重いのかも知れません。

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イザヤ書より

聖書のイザヤ書には慰めと励ましのみことばが書かれています。
みことば検索サイト→http://bible.monochro.com/







(上の記述はまるで今の日本への言葉のようです)











(神様が何故か論じ合おうと言っています。そして人間の罪が如何に重くともそれは清まると言われています。)


(神に従う者は恵まれ背く者は滅ぼされると神様は言われています)

(まるで今の日本みたいですね)




(日本の混沌とした状態を直すという意味かも知れません)






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イザヤ書第10章
(たといどの様な権力者であっても神の刑罰からは逃れられません)

27章
2)その日「麗しきぶどう畑よ、このことを歌え。

(神の焼き尽くすような裁きに耐えられないのであれば神と和らげと言われています。)
28章
(嘲る人々はきっと偽りに頼むことで裁きを免れると信じたのでしょうか)

(神の公正な裁きは行われると書かれていると思います)

29章
14)それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」。

(神が全てを造り全知全能の方であると書かれています)
(上のみことばはまるで加害者の姿ですね)
30章
(善と悪の篩い分け作業のことかも知れません)
31章



(まるで加害者のことですね)
33章
(高慢な民とはまるで加害者のことですね)
40章
(神は唯一真の存在であると言うことを言っています。)
(神様は天上の方におられて人間を虫けらの如しに見ると書かれています)






(神に信頼する者は力が与えられると書かれています)






(神様は初めであり終わりであると言われています)


(このみことばは多くのクリスチャンにとり励ましとなっているようです)



(神様はあなたを助けて下さると言われています)


42章
(悪魔の教えの支配下にあった者を救い出すという意味だと思います)




(暴虐の民に荒らさせた者は神であると書かれています。それは人間の背信が理由だそうです)
(過去に起きた残虐な暗い事件も神の支配下で起きたのでそれは結局は神からの警告であったのです)
(上のみことばは神様が愛の神であることを表した有名さがあるそうです)
(神様にしか人間は救えないと書かれています)
(つまり神の裁きより救い出される者はいないと言うことで、神の御前に罪を犯し神を否定し嘲っていても無意味だと言うことです)
(罪赦されたのは自己の正しさや能力故ではないと言うことですね。)
44章
(神様以外に頼ることが出来る存在はないと言われています)
(神に覚えられていない人間はいないという意味だと思います)
(神様御自身が神に立ち返るようにと言われています)
(胎内に造られたのも神の御心による物であると書かれています)
25)偽る物のしるしをむなしくし、占う者を狂わせ、賢い者をうしろに退けて、その知識を愚かにする。
(神様の御口より幸いとわざわいが造り出されると書かれています)
(神と争う者は災いだと書かれています。神に反逆したり抗議することは災いだそうです。ましてや嘲りなどはいかがな物だろうか)
(「何故私は生まれてきたのか」と言ってはいけないのだろうか)
(神様に一々抗議してはいけないのかも知れません)
(神様は一々自己顕示性を発揮したりしないのかも知れません)
(つまり世界で起きることは何かも計画に基づいているという意味だと思います)
(「神様が何をしてくれるのだろうか」という否定性の教えは悪魔の教えだと思います)
(私を仰ぎ臨みなさいと神ははっきりと言われています)
46章
(神様は人間の一生を責任持って負うと言われています)
(神様に等しい者はいないと言われています。神に信頼することが無駄だと思わせることは悪魔の働きです)
(今の日本人には多そうですね)
48章
(苦しみは神の試練だと言うことですね)


49章
(このみことばの意味はよく分かりませんが、酔わせるというのは「罠に掛ける」事を意味している気がします)
50章
(真っ暗闇の中にいても尚神を呼び求めよと言うことだと思います)
51章




(他者というのは誹りと罵りを何故か浴びせる存在ですね)

(人を恐れるのは止めるようにと言うことだと思います)
(虐げる者を恐れることは無意味だと書かれています)
(神の怒りの大杯とは災いによる苦しみのことだと思います)
(怒りの大杯が敵の手に渡るときが来ると書かれていると思います。)
52章
(奴隷というか人身売買に掛けられているような状態ですね)
54章
(悪人も神の被造物だそうです)
55章
(神に聞くとは聖書の通読や祈りに拠り頼むと言うことだと思います)
(神の御心は人間のそれとは違っていると書かれています)
57章
(高ぶる者共には平安がないそうです)
58章
(神様は罪人の言うことはお聞きにならないとも書かれていました)
60章
(辱めにあった者達は結果的には恵みを2倍にして与えられると書かれています)
63章
(神への感謝をせずに背信になると神からの報復が来ると言うことが書かれています)
64章
(人間にとり神様はそれを形作られた存在だと書かれています)
(神様からのメッセージはそこかしこにあったのだろう)
(神様は終日人間を招いていたと書かれています)
66章
(神様は心砕かれ悔いた心、そして聖書のみことばを恐れる者を顧みると書かれています)
(神の与える慰めは、さながら母が子を慰めるが如しと書かれています)
(神への反逆は決して良い終わりがないことを表すみことばです。)5eaaaf1
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写真は仏の座などの雑草

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メッセージ

http://www.enjoy.ne.jp/~asaasa6/sekkyo/sekkyo000611.htm

礼拝メッセージより

説教題:「求めよ」 2000年6月11日 聖書:ルカによる福音書11章1-13節

ペンテコステ

     今日はペンテコステ、教会の誕生日と言われている。詳しいことは使徒言行録の2章に書かれている。聖霊、つまり神の霊、イエス・キリストの霊がイエスの弟子達に注がれ、その時から弟子達はイエスを伝えていくようになった。

主の祈り

     弟子達に教えられた祈り。日常的な言葉による祈り。かしこまった飾った言葉を用いるのではなく、普段使っている言葉。神に対しても父よ、と呼びかけるようにいわれる。父の腕の中に抱かれているような、あるいは膝の上に座っているような、神と私たちとの間はそんな関係があるということだ。そしてそんな関係がある中で祈る。父よ、と。
     そして「御名が崇められますように。御国が来ますように。」と祈るように言われる。神の御心のようになるように、神の支配のままになるように、神が良いと思われるようになるように、ということがまず最初に来る。祈りはただ私たちの願い事を神に言うことであるように思うことがある。しかしイエスは神の支配が行われるようにと祈れと言う。私たちは自分の願うようになればそれがいいと思う。しかし現実には私たちのそれぞれの願いがそれぞれ叶うわけもない。そしてその願いが叶うことが必ずしも良いことかどうかということも分からない。それよりもまず、神が良しとすることが行われること、神の支配の通りの世界となること、それこそが実は自分にとっても一番いいことなのだろう。神の支配の中に生きることができる、その支配の中に生かされていることを知ること、それこそが大事なことなのだろう。
     しかしそれだけではなく、自分たちの願いも祈るようにという。毎日の切実な願いを祈るように、しかも食べ物のことをも祈れと言われる。とても具体的な、なんともばかげたような祈りにも聞こえる。しかしそれさえも祈りとなる、それさえも神が心配し配慮してくれる事柄だということだ。

わたしたち

     そして後半の祈りは、私たちに必要な糧を与え、私たちの罪を赦し、私たちを誘惑に遭わせないで、とみんな私たちとなっている。私に必要な糧を与え、私の罪を赦し、私を誘惑に遭わせないで、ではない。
     わたしたちとはいったい誰のことなのか。自分の家族、自分の教会、自分の国のことなのか。きっと私たちとは、全世界の者のことなのだろう。自分の隣にいる人もそうであるし、地球の裏側にいる人もそうなのだろう。主の祈りは全人類の祈りなのだ。
     そして祈りは、それに対して神の恵みを期待する、と同時にこの祈りに対する神の声をも聞いていくことでもある。私たちはただ願い事を一所懸命に言って、それで終わりのようになることが多い。結構一方的な祈りになりがちである。しかし祈りとは神の言葉を聞くことでもある。聖書を通して、あるいは誰かの言葉を通して語りかけられる言葉をじっくりと聞くこと、それも祈りの大事な部分である。

執拗に?

     イエスは続けて、執拗に祈るようにと言われる。真夜中に友達が来たときに、パンを借りにいったとき、最初は面倒だからと断られても、何回も頼めば与えてくれるという。友達だからということでは与えてくれないが、しつように頼めば与えてくれる、という。
     いったいどういう状況なのだろうか。真夜中に友達が来るということがよくあったのか。その友のためにパンを用意しようという気持ちを持っているというのもまたすごい。しかも別の友のところに借りに行ってまで。自分の家にパンがない、用意できないというほど貧しいということか。それでも友のために食べ物を用意しようというのか。なんとしてもその友のために、ということなのか。
     イエスはそういう風に祈れといわれているようだ。しつように祈れということらしい。友達だからということではなく、執拗に祈れば聞かれるという。
     私たちは神の友達なのか。友達というほど立派でも信仰深くもない。神に頼めばすぐに聞いてもらえる、無理も言えるというような貸しがあるわけでもない。私のいうことだから聞いてもらえるだろう、というような力も持っていない。友達だから、なんていうことが何にもない。しかしそれがなくても、執拗に頼むこと、執拗に祈ることを神は聞いてくれるということだ。何もない私たちにも祈ることができるということだ。執拗に祈ることができるということだ。取り引きするものが何にもなくても、お土産がなんにもなくてもいいのだ。ただ真剣に祈ること、何も持っていない私たちが真剣に祈る、その祈りを神は聞いて下さるのだ。

求めよ

     だからイエスは求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、と言われる。そうすれば、受け、見つけ、開かれると言う。人間の父も子どもが求める時には良い物を与える、天の父は、神は尚更良い物を、聖霊を与えられるというのだ。私たちの願ったそのものよりももっと良い物を与えられるということだ。聖霊を、神の霊を、イエス・キリストの霊を与えられるというのだ。つまり神自身を与えるということだ。
     ある人は、祈りとは、私たちの心の中にイエス・キリストを迎え入れることである、と言っている。私たちが神を呼び、こっちを向いてくれ、私の言うことを聞いてくれ、と言うよりも先に、イエス・キリストが私たちの心の扉を叩いてくれている、だからこそそれに答えて心の扉を開けイエス・キリストを心の中に迎え入れる、それが祈りである、と言っている。

祈り

     祈りとはまた神の働きを見いだすこと。発見すること。
     今神が現実に働いていることを見いだすこと。神の働きを探し求めること、それが祈り。神が聖霊を通して働いているということを知ること、それが祈り。だからこそ、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」のだろう。
     父親がこどもに良いものを与えるように、天の父は、神は私たちに聖霊を与えてくれるというのだ。神が私たちに働きかけてくれるということだ。聖霊を通して今も私たちに働いておられるということだ。それは、神は私たちが今この現実の中で神の働きを見いだすことができるようにしてくれるということだ。
     祈ることで初めて神が働いてくれるというわけではない。祈らなければ神は何もしてくれない、というわけではない。神はすでに働いていてくれているのだ。私たちが気づこうと気づかなかろうと神は働いておられる。その働きに気づかせてもらうこと、神が今も働いておられること、私たちのことを見つめておられること、私たちのことを心配してくれていること、私たちのことを愛しておられること、そのことに気づかせてくれる、それこそが聖霊の働きだ。それを知ること、神を知ること、神の働きを知ること、神が私たちを愛しておられることを知ること、それこそが私たちにとって最も良いものなのだろう。
     私たちを根底から支えている神の支えを発見していくこと、それも祈りなのだろう。決してひとりぼっちではないこと、いつも神が共にいて、私たちを見つめ、私たちを心配し、私たちを愛している、そのことを知ることこそが祈りなのだろう。
     私たちはえてして祈ることで奇跡的な出来事が起こることを期待する。今ないものを与えられることを求める。確かにそういうこともあるだろう。そんな願いが叶うこともあるだろう。そんな恵みが与えられることもあるだろう。しかし恵みはもうすでに与えられれていることも多いのだ。私たちの祈りの力によって神が私たちを恵まれるのではない。私たちが神を動かすのではない、もうすでに神は恵みを与えられている、もうすでに神は私たちの心の戸を叩いておられる。その恵みに気づいていくこと、私たちの心の戸を開いてイエス・キリストを心に迎え入れること、それが祈りなのだ。
     こんな話がある。ある人が貧しく苦しむ人のことを神に祈った、神さまどうしてこの人がこんなに貧しく苦しむままにされているのでしょうか。どうして何かをしてくださらないのですか、と。神はそれに答えて、私はもう何かをした。私はあなたを作った。
     私たちも神に向かって、これをどうしてこうしてくれないのですか、この大変な状況をどうにかして下さらないのですか、この人のことをどうして放っているのですか、どうして奇跡を起こしてあの人を救って下さらないのですかと祈る。神は私たちに向かっても、私はあなたを造ったと言われているのではないか。そこにあなたを遣わしたと言われているのではないか。私はあなたを通して恵みを与えられる、あなたを通して栄光を表す、あなたがそこにいることが私の計画なのだ、と言われているのではないでしょうか。その神の計画の中に、神の支配の中に私自身も参加させてもらう、神の計画、神の支配に気づいて私もそれに加えてもらう、それも祈りなのだろう。
     隣人と生きるための力を、誰かと共に生きる力を神はすでに私たちに与えられている。大変な状況をどうにかする知恵と力をもうすでに私たちに与えられている。誰かと一緒に生きるための恵みをもうすでに与えられている、そしてこれからも与えて下さる、だからその誰かと一緒に生きなさい、と言われているのではないか。私たちに与えられているものを生かして、誰かと共に生きなさい、励まし合い、いたわり合って生きなさいと言われているのではないか。
     そして、神は、すべては私が支配している、すべては私の手の中にあることだ、だから思い煩わないで生きなさい、私の声に聞きつつ生きなさい、と私たちに言われているのではないか。
    ーーーーーーーーーーー

    加害者らの特徴は「嘲り」「嘘」「誤魔化し」「卑劣さ」「虚栄」「虚勢」「卑小さ」「猥褻性」「暗さ」「小心さ」「隠れている」「シラを切る」「ハイテク頼み」「粘着性」「ワンパターン」「犯罪性」「残忍性」「虚仮威し」などかも知れません。

    しかし彼らは何故か知りませんが「自分達が正しくて規準的な存在である、私らの考え方が規準で正しくて世間的である」などのことを誇示します。私の所では相変わらずそうです。

    又彼らは「私達は何でもよく見抜くし見えているし見通しているし知っている」と言うことを誇示したがります。

    しかし前述の加害者の特徴を見るにつけ決して神の良しとされるような性質ではないことが分かります。

    だから加害者らが一日中不快に喚いているように見えても気にする意味がないと言うことにもなります。

    神に聞くことが最善だと思います。

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    メッセージ

    http://www5e.biglobe.ne.jp/~aobacc/message/2003/20031109.htm

    2003年11月9日

    「それがどうした」 ローマ人への手紙8:26~29

     「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
     人は誰でも本当は神様のことを知りたいと願っていると言います。人は大昔から神を求めてきました。そして、さまざまな神、さまざまな宗教を作ってきました。人が、大いなる方の存在を認め、求めるのはある意味、神が存在しておられる確かな証拠のひとつではないかと思います。

     使徒パウロは当時の世界の中心にあったローマに生まれた教会に対して大胆に語りました。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。(ローマ1:20)」彼の言葉によれば、人間には神を知ることにおいて弁解の余地はないというのです。世界中で起こっている全ての問題は、本当の神様を知らないことから起こり、知っているといいながら、的外れなことをしていることから起こっているとパウロは指摘しているのです。言い方を変えれば、神の意図されていない私たちの苦しみや悲しみは、神様の法則と基準を無視して生きているところに存在するということです。イエスさまも神を求める者の幸いを語っておられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。(マタイ7:7-10)」

     毎日の出来事に偶然はありません。神さまが知らないで起きている出来事など一つもありません。私たちと共にいてくださることを神は私たちに知って欲しいのです。

     フランスの自然科学者、数学者、哲学者、そして神学者であったパスカルは、幼い頃より天才と呼ばれました。しかし、彼はやがて心の空白、魂の渇きを自覚するに至り、ついにキリストを自らの救い主と信じ、「イエス・キリストは、われわれが傲慢にならずに近づくことができ、絶望に陥らずにひれ伏すことができる神である。」とさえ証言しました。また、彼は人の不信仰に対し、「人々は、宗教を軽蔑している。宗教を憎み、宗教が真実であることを恐れている。」と言い、人間の心の空洞が、この世のもの何をもってしても埋めることはできず、ただ神のみによってしか埋めることができないことを証ししました。確かに、目に見えぬ神を認め、神に従って生きることは困難なことです。できれば自分の思い通りに生きたいのが人間です。しかし、私たちの神への不信に対するどんな言い訳や弁解の言葉にも神はきっとこう言われるに違いありません。So What! 「それがどうした。」神は、私たちが神を知ろうとさえすれば、見つけようとさえするなら現れてくださると言うのです。パスカルは言います。「神がある人たちを盲目にし、他の人たちを照らしたいと願われたことを出発点として受け入れなければ、われわれは神のみ業を何一つ理解することはできない。」「信仰がなければ、大空も鳥たちも神を証明することはできない。」万事が益となって働くために必要なことは、神を知り、神を愛する者と私たちが変わることです。信仰を持つことです。神を信じることなしに、人生の不条理や矛盾を益としていくことはできません。そして、弱い私たちに神は神を信じる力と慰めを与え、とりなして下さる霊、聖霊を送ってくださいます。

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    このメッセージは神を知るために書かれたメッセージのようです。

    しかし今時分の暴虐にはどうした物かという問題が頭をもたげてしまいます。祈って問題解決法を求めるしかないのだろうか。

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    キリスト教は有名な宗教として知られているのでしょうか、私はせいぜいが漫画の挿絵で見た程度でした(イエスキリストの十字架刑の絵)
    イエスキリストという方は世界で最も有名な人物だという情報を何処かで見てその程度でした。しかも「何故有名なのか」と言うことを思った程度です。
    教会に関わってからも長きにわたりイエスキリストが神の御子だと言われてもピンと来ず「何だろうかそれは」と漠然と思う程度でした。
    結局は聖書を読まねば分かり得ないことだと知りました。
    聖書を読み出した一年後くらいに漸く認識できました。
    イエスキリストとは「神と人との仲介者」であります。

    この方の十字架の購いを信じることで漸く救われて天国に行くことが出来ます。
    その様に漸く認識できました。
    人間の罪とは凄惨極まりない十字架の刑罰を神の御子が受けねばいけないほどの罪であります。
    そう考えると分かりやすい気がします。

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    祈りについて

    祈りについて書かれたメッセージがありました。以下部分的に引用します。

    http://www.shalomchapel.com/sekkyou/200707029.html

    3.どうして祈れないのか

     さて、このたとえ話の内容はきわめて簡単です。旅の友人がたとえ話の主人公のところに宿泊することになりました。ところが困ったことに食事のためのパンがありません。時間はすでに真夜中になっていて、パンを簡単に用立てることは困難に近い。そこで彼は近所の家を訪ねて「パンを貸してください」と願い出ます。ところが既に、その家の人は寝る準備に入っていて、「こんな時間に迷惑をかけないでほしい」と言って、願いに応じてくれないのです。そこで彼はどうしたか。あきらめないで、何度も何度も、同じ願いを繰り返しました。そうするとしかたがなくその家の主人はその願いを聞き入れることになるとイエスは語るのです。「友達だから」と言う理由では動かない人でも、何度も頼み込めば、最後には根負けして何とかしてくれるだろうとイエスは言うのです。何かこれだと私たちの知っている悪徳セールス商法と同じような気がします。玄関のドアを一度開けたら最後、商談が成立するまではそこから動こうとしないあのセールスマンのようなことをするように、そうイエスは教えているようにも聞こえます。

     ここで私たちが注目したいのは先ほども取り上げた、このたとえ話のキーワードとも呼べる「しつように頼めば」と言う言葉です。この言葉は原文の意味を直接訳せば「恥も、外聞もなく」とか「恥知らず」と言う意味の言葉です。言い換えれば「他人の目など気にしている場合ではない」と言った言葉になると思います。そう言われると私たちは「恥も外聞もなく」祈る、「恥知らず」なほど祈ると言う姿勢からはほど遠いところに生きているような気がするのです。
     以前、鎌倉雪の下教会のカテキズムを学んでいたときに、その著者である加藤牧師が自分の祈りの生活に触れて、それは自分だけの秘密の事柄であって、人に話すべきことではないと言っていたことを思い出します。自分がどんな風に祈っているか。もし、そこで私たちが「恥知らず」に「恥も、外聞もなく」祈っているなら、あえてそれを他人に伝えると言うのはおかしなことになってしまうのかもしれません。しかし、そこで本当に私たちは「恥知らず」に「恥も、外聞もなく」祈ることができるのか。それが問題となってくるところなのです。
    ーーーーーーーーー

    24時間監視状態だと流石に体裁を繕うことは無理ですが加害者は一種の基地外なのでしょう、だからといってあの変な暴虐や変な技術機械について祈ることは大変困難でした。苦しめられているが「一体どうしろと言うのか」と言いたくなります。

    忌まわしい技術や機械や加害者達の事態の暴露などを熱心に祈ることは正しいでしょうか、正しいと思わねばおかしいという気もしますがどうなのでしょうか。

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    メッセージ

    以下のサイトのメッセージに、カルト団体の洗脳について記述がありましたので部分的にコピペします。

    http://www2.plala.or.jp/Arakawa/christ_srm152.htm

     また、トマスを非難したくないもう一つの理由があります。簡単に信じることが、必ずしも良いとは言えないと思うからです。新興宗教やカルト集団にはまっていく若者たちのルポルタージュを読んでみますと、あまりにも軽薄な理由で入信するケースが多いことに驚きます。教理や教義など何もしらないまま、まるで大学のサークルにでも入るかのような気軽さで入信し、その勢いで教団のマインドコントロールのカリキュラムに組み込まれていってしまうのです。世の中には信じてはいけないものもたくさんあるのですから、疑いを持ち、自分で確かめ、納得しようという姿勢は、非常に大切なことだろうと思うわけです。

     キリスト教の信仰を持つという場合でも同じ事です。盲目になって信じればいいということではありません。本当の信仰の体験には、疑いの体験が必ず含まれているのです。疑いを超えるような体験を経て信仰に至ることによって、その信仰に確信が伴うようになるわけです。しかし、わけもなく信じる盲信には、確信が伴いません。マインド・コントロールされた人間もそうです。恐怖などによって、疑うことができない精神状態にされているだけでありまして、確信ではないのです。
    ---------------

     どんなに辛くても、苦しみや悲しみから目をそらして、自分には何事もないような振りをして生きてはいけません。分からないことだらけなのに、悟ったような顔をして生きてもいけません。苦しい時には苦しむ。悲しいときには悲しむ。疑問のある時には問い続ける。それが生きることに対する真剣さ、真面目さです。それが求めること、探すこと、門を叩くことなのです。そうすれば、神様の恩寵として求めているものが与えられ、探しているものを見いだし、閉ざされた門が開かれるであろうと、イエス様は約束してくださったのです。

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    何事もないようなふりをするというのは抑圧行為かも知れませんが私は長きにわたりそうでした。今はその様なことを余りしなくなりましたが抑圧行為は様々な病理状態を生み出すと思います。弱者虐めもそうだと思います。

    加害者は確かに洗脳されているが何処かで悪を自覚するために証拠が残らぬようにとか逃げ足早いとか顔や姿を隠すとか集団とか機械技術に高ぶるとかシラを切るとか代理人に手を汚させるとかそう言う卑劣さがあります。

    卑劣さは現実と向き合う事ではないかも知れませんが加害者は卑劣さへの自覚もなさそうに見えます。

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    メッセージ

    http://www7a.biglobe.ne.jp/~kuriyamakyokai/back_070527.htm

    「聖霊という賜物」 ルカによる福音書11章5~13節

    何かを望む時に大切なことは、一体何のため、誰のためかということです。

    …ある人が夜遅く、友だちのところにパンを借りに行きます。子どもたちは寝ているし夜遅いから、と断られますが、あきらめずに頼み続け、友だちも最後には折れてパンをくれたのでした。

     この例え話の中で求められたパンは、夜遅くに着いた旅人のためのものでした。


     何かを望む時に大切なことは、一体何のため、誰のためかということです。

     祈りが叶えられるかどうかに、立場は関係ありません。クリスチャンだから他の人より祈りが聞かれることはありません。神は、全ての命の生みの親。誰であろうと、正しい動機から必死に祈れば、必ず聞いてくださいます。

     難しいのは、何が正しい動機かということ。人それぞれ人生の歩みは異なります。正しいかどうかは、祈ってみなければ分かりません。

     ではどう祈れば良いのでしょうか。イエスは捕らわれる直前に、こういう祈りを献げられています。

    「この杯を、この苦しみを、わたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

     イエスですら、苦しみを取り除いてくださいと祈られました。私たちは、苦難の叫びを神にぶつけてよいのです。

     どんなに祈り続けても聞かれないというなら、その時こそ、自分の祈りを見つめる必要があるでしょう。

     祈っても祈っても取り除かれない苦しみは、意味のある苦しみです。

     あなたに与えられた苦しみは、大切なメッセージかもしれませんし、魂の成長に欠かせない試練かもしれません。


     私たちは辛く苦しいことを、神の罰だと考えてしまいがちです。

     しかし、神は、罰をくだされる恐ろしい方ではありません。どんな時にも、愛と慈しみで見守ってくださる方です。

     問題は、私たちが目に見えることで幸、不幸を判断してしまうということです。

     例えば、私たちは、健康を求め、人生は健康が一番だと言います。

     確かに、健康を保つために努力することは大切でしょう。自分の体調を管理するということは、自分自身を良く見つめることでもあるからです。

     しかし、健康であることが人生の目的ではありませんし、幸せの条件でもありません。病気になったから、障がいがあるから不幸なのではありません。

     病気が気づかせてくれることがあります。それは、「無理してたよ。ちょっと休みなさい」という知らせかもしれません。「自分を見失っていないか?」という問いかけかもしれません。病気は、「人生にやり残した課題があるよ」と教えてくれているのかもしれません。


     正しい祈りなどありませんが、「神さまに確かに聴かれる祈り」はあります。

     それは、「どうか、この試練を乗り越える知恵と力を与えてください」と祈ること。

     目の前の現実と向き合い、受け入れ、祈るなら、試練を乗り越えるための知恵と力が、必ず与えられます。神への信頼が祈りに力を与えます。


     あなたがどんなに自分のことが嫌いでも、神はあなたを愛しておられます。あなたが自分自身を信じられなくても、神はあなたを信じておられます。

     私たちには聖霊が与えられています。聖霊とは、自由に吹く風のように何者にも捕らわれないもの、神からあなたへの命のメッセージです。

     神の言葉を邪魔できるものはありません。神のメッセージはあなたに届いています。あなたのやるべきこと、歩むべき道は、示されています。

     ですから、祈りを献げましょう。祈りを献げるとは、神に向かって心を開くこと。あなたが心の扉をほんの少し開ければ、神からのメッセージが聖霊の風にのって吹き込んできます。

    【2007年5月27日・三浦亮平】

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    苦しみを試練と捕らえることが出来ることは謙遜な事だと思います。私にはどうしても出来ず「この様な恥ずかしい嫌がらせ行為が試練だとは何としても認める気になれない」という感じです。
    しかし自分が犯してきてしまった罪への報いと考えるとさもありなんと言う気がします。しかし何時まで続くのかという思いがありそれも素直に認識できずブツブツと見苦しく悪態や愚痴吐きをするのみで祈るときも余り素直な祈りは出来ません。

    加害者の行為に過剰反応して悪態を吐き散らすのも所詮は近親憎悪かも知れません。それを認識することもありますが一体何時までかと思うとろくに自己と向き合う気力もなくなります。

    この一見嫌らしい陰湿な行為もやはり魂の成長のために必要でしょうか、結果的には聖書の学びをする結果になっていますが。死を希望するのはやはり「これ以上生き恥晒すのもしんどい」と言うことですが神が全てを支配しておられるのであれば死も自己都合では出来ません。

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    メッセージ

    http://yourchurch.jp/jp/shuho%20back/2003/030511.html

    *2003年5月11日メッセージノート

    黄金法則 (ゴールデンルール) マタイ7:1-14

    SARSが特に中国で猛威を振るっています。かかってしまった人の癒しと、これ以上の蔓延が広がらないように祈りましょう。先週のニュースでは、北京で「ヤクルト」がよく売れているとのことです。ヤクルトは日本の健康飲料ですが、「日本で発症しないのは、みんながヤクルトを飲んでいるからだ」という噂がたったからだそうです。多分そんなに多くの人が飲んでいるわけではないと思いますから、私はむしろ韓国に広がらないのは「キムチ」のおかげだと見ていますので、中国の人には「キムチ」を試すことを勧めたいと思います。どちらにしても思いつきに過ぎませんが、実際にやってみて広く効果が認められるということになると、それは「法則」と呼ばれるようになります。これは科学で使われるような学問的な意味での「法則」ではなく日常生活の中でなるほどと感じられる事柄のことです。みなさんは「マーフィーの法則」をご存知ですか。「車を洗うと雨が降る」「午後に予定があると決まって牧師の話は長い」とか、最近私が発見したのは「本屋で立ち読みをしていると一番面白いところに限ってスリップが入っていてすぐには読めない」皮肉なことがおこりやすいというもので、大抵の「何とかの法則」というのと同じように面白いけれど役に立つものではありません。

     今朝は聖書の中で「ゴールデンルール」と呼ばれているイエス様の言葉についてお話します。これはほかのどの「法則」よりも役に立ち、逆に使わなければ大きな損失となるのでよく聞いてあなたの人生の法則にしてほしいのです。

    ◆人を裁くな (7:1-6)

    「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

    1)あなたに裁判官の資格はない(ローマ14)

    裁いてはいけない理由は二つあります。ひとつは人を裁く権利はその人の主である神様しかもっていないからです。あなたを裁くのも同じ主であり、誰よりも正しくあなたを裁かれます。もしあなたがその権利もないのに人を裁くなら、あなたは神様の保護の外に出て、人間同士の果てしない裁き合いを選ぶということになるのです。

    2)あなたも完全ではない(ローマ12:14-21)

    第二の理由はもっと実際的なことです。本当の裁判の重要な判決でも何年も後になって間違っていたことがはっきりすることがあります。あなたが人の言葉や行いを見てする判断も一面的であることが多いのです。ひと時の判断で人を裁いてしまうと後悔が残ります。

    3)共に神を見上げる人間関係を大切にする(ローマ15)

    あなたの直面している人間関係が友好的なものであれ敵対的なものであれ、お互いに不完全であり、間違うことがあるということを認め、相手が自分の受け入れられないことを言ったりしたりしたときには、両方の主であるイエス様に正しい裁きを願ったらよいのです。相手がクリスチャンであればどんなに大きな行き違いがあってお互いに顔も見たくないと思っていたとしても、相手が同意すれば、共に主を見上げることだってできるのです

    ◆神に求め、人に与えなさい (7:7-12)

    「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

    今までお話したことはイエス様のゴールデンルールの内容の一部です。その中心は人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさいというところです。イエス様はこのルール有効である理由として「神様はどういうお方なのか」ということから話し始められました。

    1)答えを与えてくださる神様

    その理由とは神様があなたに本当に必要なものを本当に必要なときに与えてくださるということです。だから私たちは自分のことは心配せずに与えることができるのです。先週お話した6章にも同じ内容のことが書かれていたのを憶えていますか?「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」(33)とありました。だから一方的に与え続けることに不安を持つ必要はないのです。

    2)黄金法則(ルカ6:37-38)

    ルカ6:37-38を開いてみるとゴールデンルールがもたらす結果が記されています。開いてみましょう。12節の終わりに、このゴールデンルールは律法と預言者そのものですとありますが、それは「旧約聖書」そのものだという意味です。旧約聖書の本質が、このゴールデンルールなのです。問題はそれをどう身に付けることができるかということです。

    ◆狭い門から入りなさい (7:13-14)

    「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

    それでは、旧約聖書を与えられながら神様に従い通すことのできなかったユダヤの民のどこに問題があったのでしょうか?それは旧約を自分の力で守ると考えたところです。黄金法則の問題点はイエス様を信じない人には使えないという点です。いくら与えなさいといわれても、確かなリソースがなければ続けることはできません。

    1)安易な道は滅びに向かっている

    この国ではクリスチャン人口は1パーセントくらいですが、キリスト教国といわれるアメリカやイギリスでは、クリスチャンになることは狭い道ではないように思えます。でも自分を捨て自分の十字架を負って日々イエス様に従って歩いている人(ルカ9:23)は今も昔もどこの国でもそう多くはありません。でもイエス様はあなたにそのように歩んでもらいたいと願っておられます。

    2)少数派であることを恐れない

    多数派の中に身をおくことは気楽なことです。私たちは時々クリスチャンの良心に従おうとすると、馬鹿にされたり時には迫害されたりすることもあります。そのためにイエス様はいつも一緒にいてくださり、必要な仲間・知恵・勇気を与えてくださるのです。

    3)見出すことのできた恵みに感謝しよう

    この狭い道に入って来る者が少ないのは、広くて面白そうな滅びの道の入り口ばかりが目立っていて、その入り口を自分の力や判断では見出すことができないからです。主を信じて従おうという決心は、神様が私たちの心に一方的に与えてくださる恵みなのです。

    メッセージのポイント

    誰でも自分の判断が正しいと思いがちですが、その判断はいつでも正しいとは限りません。相手の善悪や価値を決め付けてはいけない理由は、私たちがそれをする能力も資格もないからです。もちろん社会の中では正義や善が追求されなければなりません。そこで大切なことは自分を絶対とするのではなく、また相手を絶対とするのでもなく、お互いが不完全なものとして、共に神様を見上げ赦し合う存在だと認めることです。「自分の必要は神様に求めて、相手には与えることを求める」というゴールデンルールに従う生き方を神様はあなたに求めておられます。この生き方は始めてみると素晴らしさが実感できるのですが、入り口は大変狭く見えるのです。自分の価値観や生活の優先順位を見直すよりも、従来どおりの、自分の欲望に従って行くほうがずっと安易に感じられるからです。

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    加害者の人間達は不可解な人種ですが(脳みそが)彼らの存在メリットは何かというと悪魔の働きによって逆に神の御栄光を現す結果となっているそうです。その様に記述しているサイトがありました。

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    メッセージ

    http://www.nskk.org/tokyo/church/nerima/service/Message/2007/jul.html

    今週のメッセージ――主日の説教から

    2007年07月29日(日)(聖霊降臨後第9主日 C年) 晴れ
    「 しつように願う 」

    ――今日の聖句――
    <しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て 必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。>[ルカによる福音書 11:8-10]

     今日の聖句は、主イエスが、弟子たちに、「祈り」について教えられた個所です。この中に、「しつように頼めば」という言葉があります。私が、この言葉を聞いて思うことは、「わたしたちの祈りは、本当に真剣な祈りになっているか」ということです。

     真剣な祈りを妨げるような現実があります。例えば、信仰の年月を重ねるに従って、神さまにくどくどと願い事をするのは余り高級な祈りではない、キリスト教はご利益信仰ではない、感謝や賛美、平和への祈りが高級な祈りだと考え始めることです。

     また、歳を取るに従って、いろいろな失敗や挫折、幻滅を経験します。逆に、祈らなくても、結構うまくやっていけることも経験します。このようにして、人生経験を積むうちに、祈っても祈らなくても現実はそう変わらない、神さまは、あまりこのようなことには関与してくださらない、という思いに支配されていくことです。その結果、「祈らないと、やっていけない」という気持ちが次第に希薄になっているのではないかということです。

     信仰生活にとって、「祈りは呼吸のようなもの」といわれます。その呼吸が、浅かったり、途絶えたとしたら、信仰生活は、息苦しくなり、生活は乱れていきます。

     旧約聖書には、真実に信仰に生きた人々が登場します。彼らは、一様にどのような苦難の中にあっても、「しつように願う」ことをやめなかった人たちです。

     旧約聖書の義人ヨブの物語はよくご承知だと思います。神とサタンは、彼の信仰について賭けをします。彼は信仰を確かめられるために、不幸のどん底に突き落とされます。息子たちは皆殺しにされ、何百、何千といた羊や牛などの財産はすべて奪われ、自身は、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからされます。それでも、ヨブは、神から離れようとしません。彼の妻でさえ、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言います。しかし、ヨブは、「これほどの仕打ちを受けるほどの罪を犯した覚えは無い」と、しつように神に食い下がります。

     <黙ってくれ、わたしに話させてくれ。どんなことがふりかかって来てもよい。たとえこの身を自分の歯にかけ、魂を自分の手に置くことになってもよい。そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。>[ヨブ記 13:13-15]

    切々たる願いです。祈りともいえます。ヨブは、長い魂の葛藤の末、遂に、神に出会います。その時、神は、「ヨブは正しく語った」と言われました。教会の宣教は、いつの時代もどこにおいても楽なときはありませんでした。また、わたしたち一人ひとりも、「神はおられるのか」と叫びたくなるような苦しみに遭遇する時があります。そのような時、わたしたちも、ヨブのように、神にしがみつき、しつように願いたいと思います。そうすることによって、わたしたちは、現実から遊離せず、しっかり現実に密着して課題を果たしていくことができるのです。

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    ヨブ記は、正しい人であるヨブが、著しい災厄に遭い、神に抗議するような祈りが出てくるのですが、神様はご自分のみわざの偉大さを示し、ヨブの自己義認を打ち砕かれるようです。ヨブは自分が詰まらぬ者だと神の御前に悔い改め、それまでの2倍の祝福を神から受けたと言うことのようです。

    神様は「高ぶる者を退け、謙る者に恵みを授ける方」だそうです。自己を誇り神のみまえに「私は正しい者である」という者は逆に罪に定められると言うことのようです。

    聖書では「この世には罪を犯さない正しい者は一人もいない」と書かれています。人間の罪はキリストが凄惨な苦しみを味わって死なれた十字架により購われるような物だそうです。だからキリストの十字架を「自己とは無関係」だと言うことも又大きな罪だといえます。

    しかし悔い改めた後もまだ暴虐に晒され続けたときどうすればいいかはよく分かりません。聖書には「イエスキリストに敬虔に生きようとする者は皆迫害を受けます」と書かれていました。又イエスキリストは山上の垂訓でこういわれています。

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    マタイの福音書 第5章

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    上のみことばによると今時分の迫害が必ずしも悪いこととは限らないのかも知れません。

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    「求めよ、さらば与へられん」 

    http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat49.html

    マタイによる福音書・連続説教 49 

    「求めよ、さらば与へられん」 

    ●聖書 マタイによる福音書7章7~11

     「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

     「求めよ、さらば与へられん」とは、文語の聖書の言葉です。
     いつどこでこの文語の言葉を覚えたのかは思い出せません。しかし、いつかどこかで私はこの言葉を覚えてしまったのです。その独特の響きと言いますか、力強さと言いますか、分かりやすいと言うだけなら、口語の言葉のほうがわかりやすいのでしょうが、なにか文語の言葉が耳についてしまって、私の座右の銘となってしまったのです。
     文語の聖書ではこの7~8節はこう書いてあります。「求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり」。まことに現代のワープロというものは便利なようで文語を打ち出そうとするとこれが全く役に立たなくて、困るのですが、「與へられん」となっているところが面白くて、また何か新鮮な気がするのです。
     この言葉は私の座右の銘だと言いましたが、この言葉なしに私は今日まで神を信じてやってくることはできなかったと思うほどです。そのように私はいつもこのイエスさまの言葉に支えられて歩んでくることができました。

    単純すぎて疑ってしまう?

     きょうの聖書の言葉は、きわめて単純な言葉です。求めれば与えられるし、探せば見つかるし、門をたたけば開いてもらえるというものです。きわめて単純な、わかりやすい言葉です。あまりに単純で、私たちは「この言葉には何か裏があるのではないか?」と疑ってしまいたくなるほどです。あるいは、「何か額面通り受け取ってはいけない、またなにかギリシャ語か何かのトリックがあるのではないか?」と疑いそうになるほどです。
     しかしそのような心配のない言葉なのです。額面通り、きわめて単純な言葉なのです。むしろ私は、このイエスさまの語られた単純明快な言葉を、汚してしまいはしないだろうか、と恐れるほどです。イエスさまがこのように愛を持ってはっきりと、「求めなさい。そうすれば与えられる。」とおっしゃった、その熱烈な言葉を、私が水をかけて冷ましてしまうのではないかと恐れるばかりです。もしそういうことを私がしたのなら、もう私は講壇に立つことはできません。
     「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」とおっしゃったのは、イエスさまです。そのイエスさまの言葉を、私が少しでも割引することはゆるされません。あるいは、「求めても与えられることばかりではないよ。門をたたいても、開けてもらえることばかりではないよ。探しても見つかることばかりではないよ。‥‥」と言うことができたのなら、私はどんなに楽だし、説教を聴いた人から責められることもないことだろうかと思うのです。「求めたけれども与えられなかったよ」と言って。
     でもこれを言われたのはイエスさまです。だからそれを曲げて語るわけにはいきません。もし責めるならば、イエスさまを責めてください。

    求め続ける、たたき続ける

     さて、そういう前提のもとに、少しこの言葉の説明をします。
     まず「求めなさい」という言葉ですが、この「求めなさい」という言葉は、聖書の原文で見ると、たった1回求めなさい、ということではないのです。つまり1回求めてみて、だめだったらあきらめなさい、ということではないのです。この「求めなさい」という言葉の原文のギリシャ語というのは、現在命令形という文法になっていまして、そう言われても私もあんまり語学は得意ではないので困るのですが、神学校のギリシャ語の教科書を書いた左近義慈先生流に詳しく訳せば、「求め続けなさい」とでもいうような言葉なのです。つまり、1回求めてダメだからあきらめて帰った、というようなものではなく、答えがあるまで求め続けると言いますか、続けて求めるというような言葉なのです。熱心に求める、と言ってもよいでしょう。
     そしてこれは次の、「探しなさい」というのもそうですし、「門をたたきなさい」という言葉も同じです。熱心に探し続ける、熱心に門をたたき続けるのです。反対に言えば、少し求めて、「何の答えもない」と言って帰ってしまうようなのは、ここの「求めなさい」ということからはほど遠いのです。少し探してみて、「見つからないや」といってやめてしまうのは、ここの「探しなさい」ということとはほど遠いのです。あってもなくても良いものを探すのではなく、無くては困るものを探すのです。開けてもらってもらわなくてもよい門をたたくのではなく、開けてもらわなければ困る門をたたくのです。

    熱心に求める、熱心に門を叩く

     一昨年、酪農学園大学の礼拝に奉仕に行ったとき、そこの宗教主任の山口先生が自分が北海道に来てから死ぬかと思った体験談をしてくれました。或る冬の夜、すごい吹雪になったそうです。北海道は寒いですから、それが地吹雪になると全く前が見えなくなる。そんな中を自動車で家に帰る途中、ついに雪の吹き溜まりに車が突っ込んで、動かなくなってしまったそうです。外は氷点下十度以下。ほかに車は通らない。そのまま車で過ごせば良いではないかと思いますが、北海道では時々そうやって死ぬ人がいるそうです。ガソリンが無くなってしまえば暖房もできませんしこごえ死んでしまう。また排気管が雪で詰まってしまうと、排気ガスが逆流して命に関わるのだそうです。ですからとにかく、車を雪の中から掻き出さなければいけない。ところが運悪く、ちょうど車にはスコップが積んでなかったそうです。それで車を出て、どこかに家はないかと道を歩いて探し始めた。外は猛吹雪。しかも、山口先生は、コートもジャンパーも何も他に持っていなかった。ただいつもと同じ背広を着て、背広の下はワイシャツ1枚だったというのです。それで氷点下十何度の夜の吹雪の中を歩いて家を探しに出た。ところが行けども行けども家1件ない。さすがに死ぬかと思ったそうです。しかし車に戻っても死ぬしかありません。そうしてあきらめかけたとき、ようやく1件の農家を見つけたそうです。ドアを必至にたたいた。しかし何の返事もない。いないのでしょうか。見ると、外にスコップが立てかけてあった。それで申し訳ないが、黙ってそれを借りたというのです。そしてまた吹雪の中を戻って、車を雪の中から掻き出し、ようやくの思いで脱出して家に戻ることができたそうです。
     先生は、スコップ一本を探して歩いて、見つけるまで探したのです。この場合、少し探して「ないや」と言ってあきらめるでしょうか?そんなことはないでしょう。誰だって、必至になって探すはずです。
     きょうの御言葉の、「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」という言葉は、そのようないわば「熱心に求め続ける」「熱心に探し続ける」「熱心に門をたたき続ける」というような意味の言葉なのです。

    誰に向かって求めるのか? それが肝心だ

     そしてもう一つ、解説しますと、これはただ格言や人生訓のように、「求めれば与えられる」ということわざのようなことを言っているのではないのです。むしろことわざや人生訓のようなことで言えば、「求めても与えられない」「探しても見つからない」「門をたたいても開けてもらえない」ということが多いものです。それで「人生あきらめが肝心」などと言ったりするものです。そしてそれはその通りで、あきらめが悪いと嫌われるのです。
     ではここでは何を言っているのか? それは、「誰に向かって求めるのか」ということを忘れてはならないのです。きょうのイエスさまの言葉で言えば、11節に「父」という言葉が出てまいります。この「父」とはもちろん、「父なる神さま」のことです。つまり今日の主イエスの言葉は、父なる神さまに向かって「求める」、父なる神さまのもとで「探す」、父なる神さまの「門をたたく」ということになります。
     私たちは、この世の誰かに向かって求めても、与えられないかもしれません。しかし父なる神さまは与えてくださいます。そういうことです。神さまを抜きにして探しても見つからないかもしれません。しかし神さまは、見つけてくださる方です。この世の人の門をたたいても開けてもらえないかもしれません。追い返されるかもしれません。しかし父なる神さまは、開けてくださいます。‥‥そういうことです。
     父なる神さまに向かって、熱心に求め続けなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つけることができる。神さまの門をたたきなさい。そうすれば開けてもらえる。主イエス様は、そのようにおっしゃいます。

    親は子供の求めるものを、すべて買い与えるか?

     なぜ神さまはそうするのか?その答えが、9節~11節です。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」
     親が、愛する我が子に、もっとも必要な良いものを与えてくださるごとくに、私たちを愛してくださっている父なる神様は、私たちに与えてくださるのだとおっしゃるのです。
     さて、最後の疑問が残ります。では神さまは、何を与えてくださり、何を与えてくださらないのだろうか、ということです。何でもかんでも与えるのは、悪い親だということを私たちは知っているからです。「テレビゲーム機がほしい」と子供が言えば、すぐに買い与え、「新しいゲームソフトがほしい」と言えば、どんなに高いものでもすぐにその望むものを買い与える、それは悪い親です。子供をダメにします。そう言うことを私たちは知っています。
     だから、神さまは、では何を与えてくださり、何を与えてくださらないのだろうか?そこに疑問が残るのです。神さまは、「良い物を」与えるとイエスさまがおっしゃっておられる。では何がよい物で、何が悪い物なのだろうか。それが私たちに分かるのでしょうか?‥‥つまり何を求めれば良くて、何は求めてもダメなのか?
     その答えを与えるのは私ではありません。私はそれをしたり顔で語ることはできません。それがきょうの御言葉を語るときに、一番私が恐れることです。その答えは、どうぞみなさんが神さまご自身から頂いてください。神さまが答え、神さまが教えてくださるでしょう。

    神は人を正しい方向へ導く

     元ヤクザのクリスチャンの伝道団体、ミッション・バラバのメンバーの一人、Yさんが、以前富山に来たときのあかしのテープを手に入れて、聞いてみました。体が震える思いでした。私が思ったのは、「主は、よくこのような人を回心させたものだ」と感心してしまいました。もちろん、その時私は、自分もまた全く罪人という点では同じだったことに気がつき、そのように思ったことを反省させられたのですが。
     Yさんのことは前にもお話ししましたが、超大物ヤクザでした。覚醒剤などの元締めの組長でした。結婚した奥さんが韓国人で、熱心なクリスチャンでした。Yさんは、かつてそれが気に入らなくて、3年間、奥さんをいじめ抜いたそうです。それでも奥さんは屈しなかった。殴られても蹴られても、「イエスさま信じなさい」「イエスさま信じたらすばらしいですよ」と言い続け、また祈り続けたのです。
     あんまり奥さんが熱心に祈るものだから、ヤクザの組の運営がだんだんうまくいかなくなった。神さまが事業をつぶしにかかったのです。それで、何十億とあったお金が、どんどん無くなって、借金がかさむようになったそうです。それでようやく、クリスチャンの奥さんの方を向くようになって、一緒に教会に通うようになった。しかしその時は、とにかくお金がほしいから教会に行ってお祈りしたのだそうです。それは奥さんの祈りがあんまりよく聞かれるのをみてきたから。だから、「神さまお金下さい」と祈った。しかし祈っているうちに、だんだん清められたというのです。熱心に祈っているうちに、「ああ、これは祈ったらあかんのやなあ」「ああ、これも祈ったらダメなんだなあ」ということが、どんどん分かってくる。祈ることによって、神さまご自身が清めてくださっていったのです。
     そうして、ある時、組の若い衆が他の組のもんにひどい目にあった。「おやっさん、どうしましょうか?」と言われた。教会へ行く前だったら、拳銃渡して「殺してこい!」と言ったものだそうです。しかし、そのように祈るようになっていたその時、はじめて「恐れ」が来たのだそうです。ケンカが恐ろしくなったら、ヤクザをやっていられない。それでヤクザをやめたそうです。そうしてクリスチャンとなってしまった。奥さんの祈りが聞かれたのです。
     彼は、最初奥さんと一緒に教会へ行って祈り始めたときは、お金がほしい、ということで、それは私たちが聞いたら目を丸くしそうなひどい祈りだったかもしれません。しかし神さまはその祈りに耳をふさがずに、ちゃんとつきあってくださったのです。そして、その祈りを通して、逆に彼を導き、清め、何が正しいことで何が悪いことかを教えてくださっていったのです。
     みなさん、これは私たちも全く同じことです。わたしもそうでした。


    神様に向かって求める、さがす、門を叩き続ける

     何よりもきょうの御言葉が私たちに命ずることは、神様に向かって「求める」ことです。「探す」ことです。「門をたたく」ことです。熱心になって求め続ける、熱心になって探し続ける、熱心になって門をたたき続ける。答えは神さまがしてくださいます。
     私たちの祈る相手は、「全能の」神さまですよ。「信仰告白」にそう書いてありませんか。だったら、たくさん求めることがあるのではないですか?神さま何でもできるんですよ。
     私はいつもこの御言葉によって支えられ、生かされ、そして神さまは答えてくださいました。求めましょう。探しましょう。門をたたきましょう。そしてどうぞそのあかしを聞かせてください。
    --------------

    加害者共の忌まわしい技術の秘密や加害者達自身の隠れた情報や居場所や本心や実態なども祈り求めることで明かされることがあるでしょうか。それについて祈ることは果たして正しいでしょうか。それがあるためについ怠惰になります。

    加害者共の存在は忌まわしすぎるがしかし神の支配下で起きていることに何時までも謎につままれた状態で耐えれるかという問題があります。祈り求めるしかないのでしょうか。
    Dec9e9e1

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    聖書のみことばより

    エレミヤ書50章

    ↑上の言葉が是非とも加害者への物であったらと願ってしまう。

    申命記:第32章
    21)彼らは神でもない者をもって、わたしにねたみを起させ、偶像をもって、わたしを怒らせた。それゆえ、わたしは民ともいえない者をもって、彼らにねたみを起させ、愚かな民をもって、彼らを怒らせるであろう。

    ↑これは偶像礼拝の民への神の怒りが下ったと言うことだと思いますが今の日本へも当て嵌まります。

    ーーーーーーーー

    申命記 第32章

    1)「天よ、耳を傾けよ、わたしは語る、地よ、わたしの口の言葉を聞け。

    2)わたしの教は雨のように降りそそぎ、わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように、青草の上にくだる夕立のように。

    3)わたしは主の名をのべよう、われわれの神に栄光を帰せよ。

    4)主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である。

    5)彼らは主にむかって悪を行い、そのきずのゆえに、もはや主の子らではなく、よこしまで、曲ったやからである。

    6)愚かな知恵のない民よ、あなたがたはこのようにして主に報いるのか。主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか。

    7)いにしえの日を覚え、代々の年を思え。あなたの父に問え、彼はあなたに告げるであろう。長老たちに問え、彼らはあなたに語るであろう。

    8)いと高き者は人の子らを分け、諸国民にその嗣業を与えられたとき、イスラエルの子らの数に照して、もろもろの民の境を定められた。

    9)主の分はその民であって、ヤコブはその定められた嗣業である。

    10)主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。

    11)わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、

    12)主はただひとりで彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった。

    13)主は彼に地の高き所を乗り通らせ、田畑の産物を食わせ、岩の中から蜜を吸わせ、堅い岩から油を吸わせ、

    14)牛の凝乳、羊の乳、小羊と雄羊の脂肪、バシャンの牛と雄やぎ、小麦の良い物を食わせられた。またあなたはぶどうのしるのあわ立つ酒を飲んだ。

    15)しかるにエシュルンは肥え太って、足でけった。あなたは肥え太って、つややかになり、自分を造った神を捨て、救の岩を侮った。

    16)彼らはほかの神々に仕えて、主のねたみを起し、憎むべきおこないをもって主の怒りをひき起した。

    17)彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々、近ごろ出た新しい神々、先祖たちの恐れることもしなかった者である。

    18)あなたは自分を生んだ岩を軽んじ、自分を造った神を忘れた。

    19)主はこれを見、そのむすこ、娘を怒ってそれを捨てられた。

    20)そして言われた、『わたしはわたしの顔を彼らに隠そう。わたしは彼らの終りがどうなるかを見よう。彼らはそむき、もとるやから、真実のない子らである。

    21)彼らは神でもない者をもって、わたしにねたみを起させ、偶像をもって、わたしを怒らせた。それゆえ、わたしは民ともいえない者をもって、彼らにねたみを起させ、愚かな民をもって、彼らを怒らせるであろう。

    22)わたしの怒りによって、火は燃えいで、陰府の深みにまで燃え行き、地とその産物とを焼きつくし、山々の基を燃やすであろう。

    23)わたしは彼らの上に災を積みかさね、わたしの矢を彼らにむかって射つくすであろう。

    24)彼らは飢えて、やせ衰え、熱病と悪い疫病によって滅びるであろう。わたしは彼らを獣の歯にかからせ、地に這うものの毒にあたらせるであろう。

    25)外にはつるぎ、内には恐れがあって、若き男も若き女も、乳のみ子も、しらがの人も滅びるであろう。

    26)わたしはまさに言おうとした、「彼らを遠く散らし、彼らの事を人々が記憶しないようにしよう」。

    27)しかし、わたしは敵が誇るのを恐れる。あだびとはまちがえて言うであろう、「われわれの手が勝ちをえたのだ。これはみな主がされたことではない」』。

    28)彼らは思慮の欠けた民、そのうちには知識がない。

    29)もし、彼らに知恵があれば、これをさとり、その身の終りをわきまえたであろうに。

    30)彼らの岩が彼らを売らず、主が彼らをわたされなかったならば、どうして、ひとりで千人を追い、ふたりで万人を敗ることができたであろう。

    31)彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。

    32)彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から出たもの、またゴモラの野から出たもの、そのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦い。

    33)そのぶどう酒はへびの毒のよう、まむしの恐ろしい毒のようである。

    34)これはわたしのもとにたくわえられ、わたしの倉に封じ込められているではないか。

    35)彼らの足がすべるとき、わたしはあだを返し、報いをするであろう。彼らの災の日は近く、彼らの破滅は、すみやかに来るであろう。

    36)主はついにその民をさばき、そのしもべらにあわれみを加えられるであろう。これは彼らの力がうせ去り、つながれた者もつながれない者も、もはやいなくなったのを、主が見られるからである。

    37)そのとき主は言われるであろう、『彼らの神々はどこにいるか、彼らの頼みとした岩はどこにあるか。

    38)彼らの犠牲のあぶらを食い、灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。立ちあがってあなたがたを助けさせよ、あなたがたを守らせよ。

    39)今見よ、わたしこそは彼である。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かし、傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出しうるものはない。

    40)わたしは天にむかい手をあげて誓う、「わたしは永遠に生きる。

    41)わたしがきらめくつるぎをとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは敵にあだを返し、わたしを憎む者に報復するであろう。

    42)わたしの矢を血に酔わせ、わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」』。

    43)国々の民よ、主の民のために喜び歌え。主はそのしもべの血のために報復し、その敵にあだを返し、その民の地の汚れを清められるからである」。

    44)モーセとヌンの子ヨシュアは共に行って、この歌の言葉を、ことごとく民に読み聞かせた。

    45)モーセはこの言葉を、ことごとくイスラエルのすべての人に告げ終って、

    46)彼らに言った、「あなたがたはわたしが、きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ、子供たちにもこの律法のすべての言葉を守り行うことを命じなければならない。

    47)この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう」。

    48)この日、主はモーセに言われた、

    49)「あなたはエリコに対するモアブの地にあるアバリム山すなわちネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ。

    50)あなたは登って行くその山で死に、あなたの民に連なるであろう。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に連なったようになるであろう。

    51)これはあなたがたがチンの荒野にあるメリバテ・カデシの水のほとりで、イスラエルの人々のうちでわたしにそむき、イスラエルの人々のうちでわたしを聖なるものとして敬わなかったからである。

    52)それであなたはわたしがイスラエルの人々に与える地を、目の前に見るであろう。しかし、その地に、はいることはできない」。

    ーーーーーーーー

    上のみことばには神様が偶像礼拝の民に怒りを下されると言うことが説明されています。

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    メッセージ

    http://shibamata-church.ftw.jp/u41995.html

    疲れていませんか? マタイ11:28

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    メッセージ

    http://shalom.holy.jp/bible/n-page/index29.html

    2007元旦礼拝「恵みに満ちたクリスチャン生活の秘訣」 ( 1.11/2007 )

    2007元旦礼拝

    「恵みに満ちたクリスチャン生活の秘訣」

    マタイ6:19-34   説教者 横田武幸師

    6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
    6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
    6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。
    6:22 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
    6:23 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
    6:24 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
    6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
    6:26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
    6:27 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
    6:28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
    6:29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
    6:30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
    6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
    6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
    6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
    6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。


     祝福の秘訣とは、どのようなものでしょうか。

    1.神の国と神の義を求めること(33)。
     人生において、基本的姿勢をどこに求めるかが大切です。神様の御言葉は、社会が大変な状態にある現代においても、神の民を励ます真実なものです。人間は基本的に怠け者で、罪深いものです。大切な事は、時代が変わろうと変わらない神様の御言葉を持つことです。まず神の国と神の義を求めて参りましょう。神様に心と生活、人生を支配して頂き、導いて頂くように求め、神様が良しとされる生活を送るように致しましょう。御言葉に導きを求め(詩篇1:2-3)、御言葉が生き方の根本となり、御言葉が生活の指針でありますように。

    2.愛の種を蒔くこと

     神様の原則は、多く蒔く者は多く刈り取り、少なく蒔く者は少なく刈り取るということです。たゆまないでいると、時が来ると実を結ぶのです。これは、当たり前のようですが、信じる事が大切です。お祈りは大事ですが、種も蒔かないで実を結ぶ事はできません。愛と親切の種を蒔いて参りましょう。隣人を愛する事は小さい事の積み重ねなのです。

    3.謙遜であること

     祝福されればされるほど、恵まれれば恵まれるほど、謙遜になりましょう。神様はへり下る者に恵みを賜い、高ぶる者を退けられます。へり下る者とは、自分がどこから救われたか、自分がどういう人だったか知っている人の事です。今日あるのは、ただ主の恵みです。全てを主の栄光に帰す事です。祝福されればされるほど、主に栄光を帰しましょう。

    (文責 中山真美子)

    ーーーーーーーーー

    >神様はへり下る者に恵みを賜い、高ぶる者を退けられます。

    これは厳しい言葉ですね。私もよく高ぶりました。信仰の目が開かれた直後に。情けありませんが。他者へのむやみな裁きや自己義認、他者への悪魔悪霊扱いなど。その後更に苦しみを与えられて打ち砕かれましたが今でもやはり高慢になります。毎日悪態吐きが酷いためにそう言う意味でへりくだれません。加害者の荒唐無稽さにどうすれば堪え忍べるかが分かりません。何か秘訣はあるのでしょうか。加害者への適切な対処法などの。

    高ぶると言えば加害者はこの上なく高ぶっていますが。まるで自分達が忌まわしきルールを握るのだと言わんばかりです、隠れた場所よりの高ぶりは真の自尊心ではないのかも知れませんが高ぶりは劣等意識と比例するのかも知れません。私もそうでした。

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    ショートメッセージ

    http://www.tcc-nara.org/pk-writings/s-messages/vol034.html

    2001/1/13

     新年ももう半月ほど過ぎてしまいました。皆様いかがお過ごしでしょうか? 今年は21世紀のスタートの年でもあり、それぞれに決意、決心をされたのではないではないでしょうか? しかし意外に継続することが難しいことは、私もよく経験があります。

     決意、決心を継続する秘訣は第一に、その目標を声に出して繰り返すことです。聖書の中に、人は声に出すことで物事を行うことが出来る、とあります(申命記30章14節)。あなたの口で語り続けることが継続のカギです。

     第二に、挫折感に負けないことです。私たちはどうしてもさまざまな理由でその決心、決意を守れないことがあるものです。しかしそれで挫折したり失望して止めてはいけません。継続することの最大の敵は完全主義です。皆さん、この世で完全無欠なるお方は神様以外におられません。私たちは何度も失敗するものです。しかしその失敗にくじけず失敗を赦されてまた立ち上がることが出来るようにしてくださるのです。それがイエス・キリストの恵みです。キリストの弟子の一人ペテロは、あらかじめ警告されていながら、3度もキリストを否定しました。しかし彼にイエス・キリストは現れて、赦しと立ち直る力を与えられたのです(ヨハネ福音書21章)。

     さて第三に継続するためには、毎日、毎日必要な力を神様からいただくことです。「一日一生」という言葉がありますが、毎日を精一杯生きることがカギです。「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイ福音書6章34節:口語訳)」と、イエス・キリストは語られました。今日一日決心、決意を守ることに集中してください。

     私たちを古い過去の悪い習慣、罪悪へと引き戻そうとする悪魔の力に打ち勝つためには、イエス・キリストの十字架の救いが必要です。あなたも新しい生まれ変わりを経験してください。キリスト教会にぜひ足をお運び下さい。歓迎いたします。

    ーーーーーーーーー

    毎日毎日繰り返される加害者よりのワンパターンの極みのような嫌がらせに耐え難くなり悪態を吐き散らすことも悪い習慣だとすればどうすればその地獄沼より抜け出せるでしょうか。イエスキリストは人間を全ての苦しみより解放して下さるそれはきっと悪よりの解放である。祈るしかないのだと思います。しかし加害者の行為は何処まで続きいつ頃裁きに遭うのだろうかと気にかかります。

    「悪はどんな悪でも避けるように」とのみことばがありますが実は悪への無視や生活の清さを求めると加害者が「きれいぶるんじゃねえよ」とでも言いたげに嘲り工作をします。ご都合主義と言えばそうですが悪質な心理工作が好きですね。

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    コラム

    http://www.t-n-jesus.or.jp/Pastor/Column/2003/030202.html

    週報コラム 030202

    今日一日だけの分を思い煩う



    ★「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」ご存知のように、これは山上の説教に収められている主イエスの言葉であります。正直な所を言えば、この言葉が安息の源となるためには多少越えなければならない課題があるように思えます。
    と言いますのも、「目鼻がつく」という言葉にも表されているように、物事が大体でき上がるような状態でない限り、人の心は基本的に安心できません。中途で物事を放棄したり、手を抜いたり、いい加減な事が嫌いな人にとっては、この傾向はなおさらの事です。★ここで「思い煩う」ということを考えてみましょう。思い煩うとは、中心的なことを言えば、先行きの不安定さ・不確実さ(危険)を先取りし、心が不安を抱え込む事だと言えます。しかも、人間は、自分の身を危険から守るための心理規制として防衛本能を持っていますから、先行きの危険を先取りする事は、一面おかしな行為ではないわけです。確かに、程度問題であると言われてしまえばそれまでですが、不安な人には、その不安が限りなくつきまとうわけです。★それなら、この言葉はどのようにして私たちにとって真理となるのでしょう。少々手荒な方法ですが、不安を抱えたまま、人間的な手立てを一度やめてみるのです。当然ですが、人によっては不安の渦に巻き込まれるような感覚を覚えるかもしれません。しかし、不安がもたらすものは不安だけであって、現実の結果とはあまり関連していない事に気づくはずです。手を抜くわけではないのです。「主イエスがそう言われるんだから、そうしてみようか」。これが始めの一歩です。
    ーーーーーーーーー

    人間の手のわざを止めろと言うことですね。私は聖書を読まぬうちにはこれが理解できないが故に(当たり前ですが)先々のことをしきりに気にし、狭い世界で汲々としまくる生活でした。(集スト沈静渦中の暗闇生活でしたが)例えば一週間先に使うような物を大量に買い込むとかそう言う感じです。

    聖書を読み祈るうちに明日のことを心配することが無くなりました。自己の思いのみの世界で力む状態よりの解放がありました。自己の思いに固執していたからこそ全てが上手くいかず自己嫌悪や傲慢や自己中心や不平不満や愚痴や悪態や陰口や高慢や自惚れや自虐や虚栄心等に苦しむのです。集スト沈静渦中にそう言う状態でした。

    信仰の目が開かれ真理に目が覚めると皮肉なことに何と今度は加害者よりのブチ切れ工作に悪態を吐き散らすことになりました。しかし沈静渦中は何と加害者への諂いで生きておりましたので勘違いの方向に攻撃性を向けていました。例えば慰め手であるペットなど。

    集ストが激しくなった発端は将来への絶望状態より人を卑しめるための手紙を書き送りそれへの戒めで苦しみにあったと思います。将来に関してきちんときっちりとした計画に基づき順調にいっているように見えた友人帯が羨ましく自己への絶望激しく暗闇に襲われ罪を犯したのです。

    元々無能者と言う劣等意識があり自力でどうにもならぬ歯痒さがあり更に廃人コースに乗せられたのかと思い恨みの固まりになり卑しめの手紙を書いたのです。聖書を読んでおればよかったのですがどうしてもそれが出来なかったのです。虐げに拠り自己嫌悪が酷かったのだと思いますが何かの計画でもあるかも知れません。

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    写真とみことばのサイト

    http://www.apple.fm/~sdasendai/mikotoba/html/tori.html

    上のサイトにはみことばと共に美しい写真が載せられていました。

    ↓「神を造る罪」と言う題名のメッセージです。偶像礼拝の罪について書かれています。

    http://www.jhcs2.org/doich/messge/03nen9gtu21.htm

    他に、神との会話とは何かを説明しています。

    (引用)

    神に対しても同じ事です…聖書を読んだりお祈りする事は、神の言を聴き、神と話す事なのです…”神に愛され神を愛する者は、律法から解放され、愛から生まれる自由によって、自然に礼拝し、聖書から神の言を聴き、お祈りをして神と話す”のです。

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    思い煩いからの自由

    http://cplus.if-n.biz/5001032/article/0028534.html

    思い煩いからの自由 マタイ6:25-34

    「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:34)
     
     私たちの人生にとってとても大切な事はいったい何でしょうか。色々な事が言えると思うのであります。愛しあう事、豊かな生活、健康、……。聖書もそのことを私たちに考えさせてくれます。
     標記の聖書の御言葉は、主イエスが山に上られて多くの人に語られた事の中の一つです。このところで、主イエスは私たちがどのように生きるべきかと言うことを語られています。それは「明日の事を思いわずらわずに生きよ」ということです。
     思い煩う、これは大人だけの事ではありません。子供の中にも起こる心の乱れです。分からない事に対する不安です。明日の事は私たちには本当は分かりません。分からない事をわかろうとし、それが分からないために、不安を覚えるのです。その不安がまた私たちを不安に引きずり込んでいくのです。この思い煩いが、どれだけ私たちの生活を憂鬱にしてしまうか、多かれ少なかれ経験している事ではないでしょうか。
     科学は私たちの生活に多くの事を教えてくれました。しかし、一番分からない事が、未来の事です。地震や台風で大きな被害が今年も起こってしまいました。犠牲者も出ました。これらの自然災害に対していつも思わされる事は、この様な被害が起こる前に何とかならなかったのか、と言う事です。地震についてはまだまだの感がありますが、台風などはかなり予知出来るようになっています。進路もある程度解るようになりました。けれどもそれに対してどうにも出来ないのも現実です。ましてや地震となりますと予測もままならないのです。色々の兆候はあったと良く言われますが、それは結果論にすぎません。それほどに科学の力を借りても、明日の事を正しく見極める事が出来ないのです。
     主イエスが上記のお話しをなさった時、今ほど科学が発達していたわけではありません。しかし、良くよく考えて見ますと、人間の心と言うものはそれほど発達したとは考えられないのです。いつの時代も、どこにいても、明日の事が分からない中で、生きているといえるのです。そして、時に不安と思い煩いにとらわれてしまうのです。
     主イエスはここで、思い煩いから自由になるようにと勧められました。それは、明日の事を考えないで、刹那的に、その場限りに生きていく事ではありませんでした。江戸っ子は宵越しの金を持たない、と言われたそうですが、その日暮らしで生きる事を主イエスは勧めておられるのではないのです。
     そこで第一に考えるべき事は、私たちが本当に見るべきものに目を注いで生きる、と言う事です。「見るがよい」「考えて見るがよい」と主イエスは語られていますが、それは空の鳥、野の花と言う全く無力な存在に、神はどの様にされているかと言うことに気付く事だ。そして、その神は私たちにとってどういうお方であるか、と言う事に気付く事です。それは、私たちが神に愛されている存在なのだ、と言う自覚に生きると言うことなのです。
     私の母は若くして亡くなったのですが、戦後の食料難の時代に、子供たちに食べさせるために、自分はろくに食べず、そのための栄養不足で、十年後不治の病になってしまいました。栄養を取らなければ体が駄目になる、病気になる、それは誰もがわかっている事です。しかしそれを知りつつも、その食べるものを子供に与えるのは、何によってでしょうか。愛によるのです。
     聖書は父なる神の愛を語っています。神はもっと大きな愛をもって私たちに心を掛けておられる、と。そして、このところでは、空の鳥、野の花を例にしながら、主イエスは神の愛を語るのです。私たちは神に愛されているのだ、大切に思われているのだ。だから思い煩わないで、お任せして生きなさい。
     もっと、大切にすべき事は、今日の命を喜び、感謝する事だ、というのです。私たちは今日どんな思いで始められたでしょうか。感謝ですか、愚痴ですか。感謝の心、それはどこから生れて来ますか。愛されている事、生かされている事、護られている事、そこに尽きないでしょうか。父なる神は、私たちを忘れず、どこまでも真実を尽くして下さるのです。そのことが鮮やかに示されたのが、イエス・キリストの存在です。どうかこの神の愛をいただいて、与えられた一日一日を感謝して歩んでいただきたいと願います。

    ーーーーーーーーーーー

    加害者の場合は何でしょうか、朝起きると共に爆音機械音音声送信身体への嫌がらせ・・・・マスコミからの嫌がらせ・・・・新聞朝刊での嫌がらせ・・・ラジオでの嫌がらせ・・・・

    トイレ行っても嫌がらせ・・・・顔洗うときにも・・・食事中にも・・・・寝る際にも・・・・パソコンやっても・・・・人と会話しても・・・・・散歩中にも・・・・・

    と言うわけで生活全てに渡りネチネチとした陰湿陰険なる嫌がらせの洪水ですね。これだと流石に自殺したくなっても不思議ではない。おまけに24時間監視し酷ければ一秒すらも休まぬ嫌がらせ。

    流石に「これは一体何かどうしろと言うのか、、加害者のことをどう理解せよと言うのか、どうしろと言いたいのか」などの苦悩がわき起こります。

    しかし「逆境の日には考えよ」というみことばもあります。恐らくは私の場合安穏とした生活であれば「聖書を読むことはなかったかも知れない」のです。だから理にかなった苦しみを与えられていると言えばそうです。

    他者を見て確かに一見平穏そうに見えるが神への盲人振りが目立つ方が多いのです。正直の所。私の場合は苦しみに遭わねば神はわかり得ませんでした。苦しみとはその為にあるのだと思います。確かに愚かしく悪態を吐き散らす日々なのですが。

    加害者は嘲ります。しかし彼らが本当に幸いなのかは後で分かります。

    悪を行うために「滑らかな場所に置かれている」だけかも知れないしそれは罠かも知れません。聖書にはそれが書かれています。

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    メッセージのコピペ

    http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2000msg/000116.htm

    メッセージ 2000 1・16     小 石 泉 牧師

    Simple Life in God
    (神に在る簡素な生活)

    昨晩、何気なくつけたテレビに釘ずけになってしまいました。それはガンジス河の上流、ヒマラヤ山脈の谷間にある小さな村の話でした。峨々とそびえる6000メートル級の山々は、クイーンズティアラ(女王の王冠)と呼ばれる美しい峰々です。しかし、2500メートルの高さにあるこの村の周りはほとんど草木の無い荒涼とした岩の大地に、そこだけオアシスのように緑の村があります。ここを日本の女優さんが訪れるのですが、そこには電気もなくあるのは風と花の香りと人のぬくもりだけです。私はふとカラーテレビでこういう情景を見れるのは幸せだなあと思いながら、いや待てよ、カラーテレビもないこの村に住む人と私はどっちが幸せなのだろうと思いました。
    私たちはものに溢れ、便利極まりない国に生活しています。しかし、反面、犯罪は極限まで増加し、凶悪になり、人々の心は不安に満ち、イカサマ宗教が人々の心を撹乱しています。今、私たちはもっと人間の原点に戻るべきではないのでしょうか。

    「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」マタイ6:25~34

    イエス様の言葉は平安に満ちています。私たちはあくせくあくせくと何を求めて生きているのでしょうか。それらは本当に必要なものなのでしょうか。毎日、新聞と共に入ってくる分厚い広告の中のどれ一つも私には欲しいと思うものがありません。私たちはある種の催眠術に掛かっていないでしょうか。もう一度本当に必要なものを確認してみましょう。

    「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』」16:24~26

    全世界を手に入れても! 人は満足しないでしょう。今、私たちに必要なものはもっと多くの物ではなく、神とともに生きるシンプルライフです。こんな話をご存知でしょうか。ある実業家が南の島に行きました。すると島の人々がのんびりと暮らしていました。彼は人々に言いました「なぜ君たちはもっと働かないのかね」すると一人が答えました「働いてどうするのですか」「働いて金を儲けるのだ」「金を儲けてどうするのですか」「うんと金を儲けて、南の島に別荘を作ってのんびり暮らすのだ」「そんなことならもう私たちはやっていますよ」。 私たちの追い求めている豊かな生活も視点を変えればみじめな貧乏暮らしです。イエス様はこう言っておられます。

    「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」黙示録3:16~19

    これは正に現代の私たちの姿ではありませんか。本当に必要な神への信仰、愛、喜びを忘れていませんか。それ以外のものは瞬く間に失われ、“添えて与えられるもの”に過ぎません。イエス様が栄華を極めたと言われたソロモンは言っています。

    「私は心の中で言った。『さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。』しかし、これもまた、なんとむなしいことか。笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」伝道の書2:1~11

    “風を追うようなものだった。”何と空しい叫びでしょうか。これから来る人々は自分以上の贅沢は出来ないとソロモン言っています。それは空しいものだったと。私たちは空しいものを追い求めるのは止めましょう。神に在る簡素な生活。それを求めるべきです。

    「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。」Ⅰテモテ6:6~11

    “満ち足りる心”“衣食があればそれで満足しなさい”。若い人にとっては少し酷かもしれません。聖書は30歳以上の成人を対象にしているとはカール・ヒルティーの言葉です。そして教会は禅寺ではありません。しかし、今はあまりにも物質に流され過ぎています。せめて壮年者や婦人たちはこの言葉を自分のものとしていただきたいのです。
    知らず知らずのうちに私たちを蝕んでいる物質文明の毒。その毒に犯されて、しなくても良い苦労をし、やらなくても良いことをやり、心をわずらわせていませんか?
    Simple Life in God.それを求めましょう。

    ーーーーーーーーー

    神のお言葉は所詮は崇高すぎまして愚かで卑しき自分に取ればせいぜいが「他者(加害者共)を罵倒する為の口実」に過ぎません。実際に実践するのは難しいですが被害者となり否応なしにはぎ取られた感があり否が応でも聖書にしか救いが無くなると言うこともまた神の御恩寵かも知れません。

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    だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

    素晴らしいメッセージがありました。

    http://homepage3.nifty.com/osaka-nishi/message/990914.htm

    1999年9月14日 『明日のことも分からぬ身』 武田晨一牧師
    ヤコブ4章13節-17節

       「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」
     善人も悪人も、金持ちも貧乏人も、頭のよい人も悪い人も、皆等しく、平等に死んで行きます。人間は「しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」と聖書は語ります。この事実をどのように理解したらよいのでしょうか。ヤコブは一つの例を挙げます。それは、商売人が金儲けのために、綿密な計画を立てて、決断をもって商いに出て行ったと言うお話です。商売に限らず、何か大きな事をする時には、細心且つ大胆な計画と行動が必要です。しかしここで重要なことは、人間の考え、計画が、将来の全てを保証するのではないということです。明日の自分の命がどうなるかは分かりません。そのことを少しも考えないところに、高慢な傲りと高ぶりが起こります。自分の人生、自分の存在、自分の命の、真の主が誰であるかを正しく認識しないところに、人間の致命的な欠陥があります。自分の将来は、自分の力で支配できるのではありません。聖書に「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導くのは主である」と記されています。この主なる神に信頼する信仰から、謙遜さが生まれてきます。自意識から解放された大胆な生き方が生まれてきます。人の命は、自分の思いや、人の束縛以前に、主なる神のみ手に握られているのであり。そのことを知る時「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事もこの事もしよう」という、全てを神のみ心に委ねて生きる姿勢が現れて来ます。その信仰によって人生を受け止め、取り組んで行くところに、人生の確かな根拠と方向性が与えられ、祈りつつ精一杯生き様とする力が湧いてきます。最早如何なる結果も恐れず、ただ主のみ心を最前とする謙虚な、そして決して揺らぐことのない平安と、生きる勇気が与えられます。では神のみ心とは何でしょうか。その中心は「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終わりの日によみがえらせるであろう」ということであります。この御言が信じられる時「だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。……だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と言う慰めに満ちた言葉が、あなたの現実となり、大きな平安となるのであります。

    (1999年9月14日)

    だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

    (マタイによる福音書 6章34節)

    ーーーーーー

    上のみことばは究極のみことばですね。

    加害者は明日死ぬかも知れぬ命を浪費しつつ何も悟らぬ愚か者です。自己の死後すらもろくに考えられない者共です。哀れむべき存在ですね。

    何時死ぬかも知れないのであれば神を恐れて謙遜に生きる方が良いが加害者達は虚しく高ぶることにエネルギーを消費しています。馬鹿な連中ですね。

    こういう悪態しかはけぬ者も又哀れですがしかしどうも虫酸が走るためについ書いてしまいます。

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    エゼキエル書より

    みことば検索サイト↓
    5章


    (上のみことばはまるで集ストを初めとする今の日本への様々な不可解な災いの事みたいですね、)

    ーーーーーーーーー

    5章
    11)それゆえ、主なる神は言われる、わたしは生きている。あなたはその忌むべき物と、その憎むべき事とをもって、わたしの聖所を汚したので、わたしは必ずあなたの数を減らす。わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またわたしはあなたをあわれまない。

    12)あなたの三分の一はあなたの中で疫病で死に、ききんで滅び、三分の一はあなたのまわりでつるぎに倒れ、三分の一は四方の風に散らされる。わたしはつるぎを抜いてそのあとを追う。

    13)こうしてわたしは怒りを漏らし尽し、憤りを彼らの上に漏らして、満足する。こうして、わたしの憤りを彼らの上に漏らし尽した時、彼らは主であるわたしが熱心に語ったことを知るであろう。

    14)わたしはまわりにある国々の中と、すべてそばを通る者の目の前であなたを滅亡とあざけりに渡す。

    15)わたしが怒りと、憤りと、重い懲罰とをもって、あなたに対してさばきを行う時、あなたはそのまわりにある国々のあざけりとなり、そしりとなり、戒めとなり、驚きとなる。これは主であるわたしが語るのである。

    (日本はどうも諸外国中の物笑いになっているようですね。)

    16)すなわち、わたしがあなたを滅ぼすききんの矢、滅亡の矢をあなたに放つ時、わたしはあなたを滅ぼすために放つのだ。わたしはあなたの上にききんを増し加え、あなたがつえとするパンを打ち砕く。

    17)わたしはあなたにききんと野獣を送って、あなたの子を奪い取り、また疫病と流血にあなたの中を通らせ、またつるぎをあなたに送る。主であるわたしがこれを言う」。

    (野獣、流血、剣、と言うのは今の日本へも臨んでいると思います。)

    6章
    8)わたしは、あなたがたのある者を生かしておく。あなたがたが、つるぎをのがれて国々の中におり、国々に散らされる時、

    9)あなたがたのうちののがれた者は、その捕え移された国々の中でわたしを思い出す。これはわたしが、彼らのわたしを離れた姦淫の心と、偶像を慕って姦淫を行う目をくじくからである。そして彼らはそのもろもろの憎むべきことと、その犯した悪のために、みずからをいとうようになる。

    10)そして彼らはわたしが主であることを知る。この災を彼らに対して下すと、わたしが言ったのは決してむなしい事ではない」。

    (神が起こされた災いは決して無意味なことではないと言うことです)

    7章




    (この災いは一体何故かというと神の怒りから来ていると言うことを書いています。)
    ーーーーーーーー
    7章
    (暴虐に満ちていると言えばそうです、何処の地域でもそうですね)

    (悪い者共というとまるで、あの悪質な集団のことのようですね)


    (日本には少し前より異常なほどの異常犯罪や事件が相次いでいます。)


    9章
    (↑まるで今の犯罪天国となった日本のことのようですね)

    11章


    (偶像に心を慕わせる事への警告だと思います)

    12章


    14章
    (災いにも理由がないわけではなくそれは神からの警告であることが示されています)
    16章











    (大仏像などは確かに男性をかたどるようです)


    (神から与えられた食物の恵みを偶像の神様に与えた罪のことだと思います。)




    A86ba908 ーーーーーーーーーー
    病院内の椿(だと思います)Dec9e9e1
    ←病院周辺にある林

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    エレミヤ書

    エレミヤ書には気になるみことばが繰り返し書かれています。

    ーーーーーーーーー

    9)わたしはこれらの事のために彼らを罰しないでいられようか。このような国民にあだを返さないであろうか」と主は言われる。

    29)主は言われる、わたしはこのような事のために、彼らを罰しないであろうか。わたしはこのような民に、あだを返さないであろうか」。

    9)主は言われる、これらのことのために、わたしが彼らを罰しないだろうか。わたしがこのような民にあだを返さないだろうか。
    ーーーーーーーーーー
    エレミヤ書 第5章
    (上の御言葉は「偶像礼拝」のことだと思います。)
    (↑少し前まで「この国は平和だ」という方が多かったようです。)
    (日本には無神論を唱える方が多いです。)
    (悪人は確かに潜みます。)
    (悪しき行いに際限がない・・・確かにそうですね)
    (↑まるで今の日本のことのようです。)
    ーーーーーーーーーーー
    エレミヤ書 第9章




    (今の世のそうです、兄弟も隣人も信じることが困難になりました)


    (↑まるで今の日本みたいです)

    (焼き尽くすような火の試練と言うことだと思います)

    (まるで集スト状況みたいですね)






    (バアルとは「偶像の神」という意味だそうです。)












    ーーーーーーーー
    ←大栗川近くの梅の木(学校敷地内)

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    「偶像」についてのみことば

    『 偶像 』で検索した結果です。

    http://bible.monochro.com/

    みことば検索サイト↑

    1)あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。

    30)わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の祭壇を倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を投げ捨てて、わたしは心にあなたがたを忌みきらうであろう。

    17)またあなたがたは木や石や銀や金で造った憎むべき物と偶像とが、彼らのうちにあるのを見た。

    21)彼らは神でもない者をもって、わたしにねたみを起させ、偶像をもって、わたしを怒らせた。それゆえ、わたしは民ともいえない者をもって、彼らにねたみを起させ、愚かな民をもって、彼らを怒らせるであろう。

    23)そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。




    13)これはバアシャのもろもろの罪と、その子エラの罪のためであって、彼らが罪を犯し、またイスラエルに罪を犯させ、彼らの偶像をもってイスラエルの神、主を怒らせたからである。

    26)彼はネバテの子ヤラベアムのすべての道に歩み、ヤラベアムがイスラエルに罪を犯させ、彼らの偶像をもってイスラエルの神、主を怒らせたその罪を行った。

    26)彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリびとがしたように偶像に従って、はなはだ憎むべき事を行った。

    12)また主が彼らに「あなたがたはこの事をしてはならない」と言われたのに偶像に仕えた。

    15)そして彼らは主の定めを捨て、主が彼らの先祖たちと結ばれた契約を破り、また彼らに与えられた警告を軽んじ、かつむなしい偶像に従ってむなしくなり、また周囲の異邦人に従った。これは主が、彼らのようにおこなってはならないと彼らに命じられたものである。

    11)「ユダの王マナセがこれらの憎むべき事を行い、彼の先にあったアモリびとの行ったすべての事よりも悪い事を行い、またその偶像をもってユダに罪を犯させたので、




    8)アサはこれらの言葉すなわちオデデの子アザリヤの預言を聞いて勇気を得、憎むべき偶像をユダとベニヤミンの全地から除き、また彼がエフライムの山地で得た町々から除き、主の宮の廊の前にあった主の祭壇を再興した。

    18)彼らはその先祖の神、主の宮を捨てて、アシラ像および偶像に仕えたので、そのとがのために、怒りがユダとエルサレムに臨んだ。


    15)また主の宮から、異邦の神々および偶像を取り除き、主の宮の山とエルサレムに自分で築いたすべての祭壇を取り除いて、町の外に投げ捨て、

    6)あなたはむなしい偶像に心を寄せる者を憎まれます。しかしわたしは主に信頼し、

    7)すべて刻んだ像を拝む者、むなしい偶像をもってみずから誇る者ははずかしめをうける。もろもろの神は主のみ前にひれ伏す。

    36)自分たちのわなとなった偶像に仕えた。

    4)彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。

    15)もろもろの国民の偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。

    8)また彼らの国には偶像が満ち、彼らはその手のわざを拝み、その指で作ったものを拝む。

    18)こうして偶像はことごとく滅びうせる。

    20)その日、人々は拝むためにみずから造ったしろがねの偶像と、こがねの偶像とを、もぐらもちと、こうもりに投げ与え、

    10)わが手は偶像に仕える国々に伸びた。その彫った像はエルサレムおよびサマリヤのものにまさっていた。

    11)わたしはサマリヤとその偶像に行ったように、エルサレムとその偶像に行わぬであろうか」。

    1)エジプトについての託宣。見よ、主は速い雲に乗って、エジプトに来られる。エジプトのもろもろの偶像は、み前に震えおののき、エジプトびとの心は彼らのうちに溶け去る。

    3)エジプトびとの魂は、彼らのうちにうせて、むなしくなる。わたしはその計りごとを破る。彼らは偶像および魔術師、巫子および魔法使に尋ね求める。

    7)その日、あなたがたは自分の手で造って罪を犯したしろがねの偶像と、こがねの偶像をめいめい投げすてる。

    19)偶像は細工人が鋳て造り、鍛冶が、金をもって、それをおおい、また、これがために銀の鎖を造る。

    17)刻んだ偶像に頼み、鋳た偶像にむかって「あなたがたは、われわれの神である」と言う者は退けられて、大いに恥をかく。

    9)偶像を造る者は皆むなしく、彼らの喜ぶところのものは、なんの役にも立たない。その信者は見ることもなく、また知ることもない。ゆえに彼らは恥を受ける。

    10)だれが神を造り、またなんの役にも立たない偶像を鋳たか。

    17)そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。

    16)偶像を造る者は皆恥を負い、はずかしめを受け、ともに、あわてふためいて退く。

    5)いにしえから、かの事をあなたに告げ、その成らないさきに、これをあなたに聞かせた。そうでなければ、あなたは言うだろう、『わが偶像がこれをしたのだ、わが刻んだ像と、鋳た像がこれを命じたのだ』と。

    13)あなたが呼ばわる時、あなたが集めておいた偶像にあなたを救わせよ。風は彼らを運び去り、息は彼らを取り去る。しかしわたしに寄り頼む者は地を継ぎ、わが聖なる山をまもる。

    3)牛をほふる者は、また人を殺す者、小羊を犠牲とする者は、また犬をくびり殺す者、供え物をささげる者は、また豚の血をささげる者、乳香を記念としてささげる者は、また偶像をほめる者である。これはおのが道を選び、その心は憎むべきものを楽しむ。

    19)聞け、地の全面から、わが民の娘の声があがるのを。「主はシオンにおられないのか、シオンの王はそのうちにおられないのか」。「なぜ彼らはその彫像と、異邦の偶像とをもって、わたしを怒らせたのか」。

    5)その偶像は、きゅうり畑のかかしのようで、ものを言うことができない。歩くこともできないから、人に運んでもらわなければならない。それを恐れるに及ばない。それは災をくだすことができず、また幸をくだす力もないからだ」。

    8)彼らは皆、愚かで鈍く、偶像の教は、ただ木にすぎない。

    14)すべての人は愚かで知恵がなく、すべての金細工人はその造った偶像のために恥をこうむる。その偶像は偽り物で、そのうちに息がないからだ。

    18)わたしはその悪とその罪の報いを二倍にする。彼らがその忌むべき偶像の死体をもって、わたしの地を汚し、その憎むべきものをもって、わたしの嗣業を満たしたからである」。


    38)その水の上に、ひでりが来て、それはかわく。それは、この地が偶像の地であって、人々が偶像に心が狂っているからだ。

    17)すべての人は愚かで知恵がなく、すべての金細工人はその造った偶像のために恥をこうむる。その偶像は偽り物で、そのうちに息がないからだ。

    47)それゆえ見よ、わたしがバビロンの偶像を罰する日が来る。その全地ははずかしめられ、その殺される者はみなその中に倒れる。

    52)主は言われる、それゆえ見よ、わたしがその偶像を罰する日が来る、傷つけられた者が、その全国にうめくようになる。

    4)あなたがたの祭壇は荒され、あなたがたの香の祭壇はこわされる。わたしはあなたがたの偶像の前に、あなたがたの殺された者を投げ出す。

    5)わたしはイスラエルの民の死体を彼らの偶像の前に置き、骨をあなたがたの祭壇のまわりに散らす。

    6)すべてあなたがたの住む所で町々は滅ぼされ、高き所は荒される。こうしてあなたがたの祭壇はこわし荒され、あなたがたの偶像は砕かれて滅び、あなたがたの香の祭壇は倒され、あなたがたのわざは消し去られる。

    9)あなたがたのうちののがれた者は、その捕え移された国々の中でわたしを思い出す。これはわたしが、彼らのわたしを離れた姦淫の心と、偶像を慕って姦淫を行う目をくじくからである。そして彼らはそのもろもろの憎むべきことと、その犯した悪のために、みずからをいとうようになる。

    13)彼らの殺される者がその偶像の中にあり、その祭壇のまわりにあり、すべての高き丘の上にあり、すべての山の頂にあり、すべての青木の下にあり、すべての茂ったかしの木の下にあり、彼らがこうばしいかおりを、すべての偶像にささげた所にある時、あなたがたはわたしが主であることを知るのである。

    20)彼らはその美しい飾り物を高ぶりのために用い、またこれをもってその憎むべき偶像と忌むべき物を造った。それゆえわたしはこれを彼らに対して汚れたものとする。

    3)彼は手のようなものを伸べて、わたしの髪の毛をつかんだ。そして霊がわたしを天と地の間に引きあげ、神の幻のうちにわたしをエルサレムに携えて行き、北に向かった内庭の門の入口に至らせた。そこには、ねたみをひき起すねたみの偶像があった。

    5)時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門の北にあたって、その入口に、このねたみの偶像があった。

    10)そこでわたしがはいって見ると、もろもろの這うものと、憎むべき獣の形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、まわりの壁に描いてあった。

    12)時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行う事、すなわちおのおのその偶像の室で行う事を見るか。彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」。

    3)「人の子よ、これらの人々は、その偶像を心の中に持ち、罪に落しいれるところのつまずきを、その顔の前に置いている。わたしはどうして彼らの願いをいれることができようか。

    4)それゆえ彼らに告げて言え、主なる神は、こう言われる、イスラエルの家の人々で、その偶像を心の中に持ち、その顔の前に罪に落しいれるところのつまずくものを置きながら、預言者のもとに来る者には、その多くの偶像のゆえに、主なるわたしは、みずからこれに答をする。

    5)これはその偶像のために、すべてわたしを離れたイスラエルの家の心を、わたしが捕えるためである。

    6)それゆえイスラエルの家に言え、主なる神はこう言われる、あなたがたは悔いて、あなたがたの偶像を捨てよ。あなたがたの顔を、そのすべての憎むべきものからそむけよ。

    7)イスラエルの家の者およびイスラエルに宿る外国人のだれでも、わたしから離れ、その心に偶像を持ち、その顔の前に罪に落しいれるところのつまずきを置きながら、預言者に来て、心のままにわたしに求めるときは、主であるわたしは、みずからこれに答をする。

    36)主なる神はこう言われる、あなたがその恋人と姦淫して、あなたの恥じる所をあらわし、あなたの裸をあらわし、またすべての偶像と、あなたが彼らにささげたあなたの子どもらの血のゆえに、

    6)山の上で食事をせず、また目をあげてイスラエルの家の偶像を仰がず、隣り人の妻を犯さず、汚れの時にある女に近づかず、

    12)乏しい者や貧しい者をしえたげ、物を奪い、質物を返さず、目をあげて偶像を仰ぎ、憎むべき事をおこない、

    15)山の上で食事せず、目をあげてイスラエルの家の偶像を仰がず、隣り人の妻を犯さず、

    7)わたしは彼らに言った、あなたがたは、おのおのその目を楽しませる憎むべきものを捨てよ。エジプトの偶像をもって、その身を汚すな。わたしはあなたがたの神、主であると。

    8)ところが彼らはわたしにそむき、わたしの言うことを聞こうともしなかった。彼らは、おのおのその目を楽しませた憎むべきものを捨てず、またエジプトの偶像を捨てなかった。それで、わたしはエジプトの地のうちで、わたしの憤りを彼らに注ぎ、わたしの怒りを彼らに漏らそうと思った。

    16)これは彼らがその心に偶像を慕って、わがおきてを捨て、わが定めに歩まず、わが安息日を汚したからである。

    18)わたしはまた荒野で彼らの子どもたちに言った、あなたがたの先祖の定めに歩んではならない。そのおきてを守ってはならない。その偶像をもって、あなたがたの身を汚してはならない。

    24)これは彼らがわがおきてを行わず、わが定めを捨て、わが安息日を汚し、彼らの目にその先祖の偶像を慕ったからである。

    31)あなたがたは、その供え物をささげ、その子供に火の中を通らせて、今日まですべての偶像をもって、その身を汚すのである。イスラエルの家よ、わたしは、なおあなたがたに尋ねられるべきであろうか。わたしは生きている。わたしは決してあなたがたに尋ねられるはずはないと、主なる神は言われる。

    39)それで、イスラエルの家よ、主なる神はこう言われる、あなたがたはわたしに聞かないなら、今も後も、おのおのその偶像に行って仕えるがよい。しかし再び供え物と偶像とをもって、わたしの聖なる名を汚してはならない。

    3)言え。主なる神はこう言われる、自分のうちに血を流して、その刑罰の時をまねき、偶像を造ってその身を汚す町よ、

    4)あなたはその流した血によって罪を得、その造った偶像によって汚れ、あなたの日を近づかせ、あなたの年の定めの時はきた。それゆえわたしはあなたをもろもろの国民のあざけりとなし、万国の物笑いとする。

    7)彼女は彼らに淫行を供えた。彼らはすべてアッスリヤのえり抜きの人々である。彼女はまた、そのこがれたすべての者のもろもろの偶像をもって、おのれを汚した。

    30)すなわち、あなたが異邦人を慕って姦淫を行い、彼らの偶像をもって身を汚したゆえに、これらのことがあなたに臨むのだ。

    37)彼らは姦淫を行い、血が彼らの手の上にある。彼らはその偶像と姦淫を行い、またわたしに産んだ子らを、食物のために彼らにささげた。

    39)彼らはその子らを、偶像にささげるためにほふった同じ日に、わたしの聖所にきて、これを汚した。見よ、彼らがわたしの家の中でしたことはこれである。

    49)あなたがたの淫乱の報いは、あなたがたの上にくだり、あなたがたはその偶像礼拝の罪を負い、そしてわたしが主なる神であることを知るようになる」。

    13)主なる神はこう言われる、わたしは偶像をこわし、メンピスで偶像を滅ぼす。エジプトの国には、もはや君たる者がなくなる。わたしはエジプトの国に恐れを与える。

    25)それゆえ、あなたは彼らに言え、主なる神はこう言われる、あなたがたは肉を血のついたままで食べ、おのが偶像を仰ぎ、血を流していて、なおこの地を所有することができるか。

    18)彼らが国に血を流し、またその偶像をもって、国を汚したため、わたしはわが怒りを彼らの上に注ぎ、

    25)わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。

    23)彼らはまた、その偶像と、その憎むべきことどもと、もろもろのとがとをもって、身を汚すことはない。わたしは彼らを、その犯したすべての背信から救い出して、これを清める。そして彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となる。

    10)またレビ人であって、イスラエルが迷った時、偶像を慕い、わたしから迷い出て、遠く離れた者は、その罪を負わなければならない。

    12)彼らはその偶像の前で民に仕え、イスラエルの家にとって、罪のつまずきとなったゆえ、主なる神は言われる、わたしは彼らについて誓った。彼らはその罪を負わなければならない。

    17)エフライムは偶像に結びつらなった。そのなすにまかせよ。

    4)彼らは王を立てた、しかし、わたしによって立てたのではない。彼らは君を立てた、しかし、わたしはこれを知らない。彼らは銀と金をもって、自分たちの滅びのために偶像を造った。

    5)サマリヤの住民は、ベテアベンの子牛のためにおののき、その民はこれがために嘆き、その偶像に仕える祭司たちは、その栄光のうせたるがために泣き悲しむ。

    6)その子牛はアッスリヤに携えられ、礼物として大王にささげられ、エフライムは恥をうけ、イスラエルはおのれの偶像を恥じる。

    2)そして彼らは今もなおますます罪を犯し、その銀をもって自分のために像を鋳、巧みに偶像を造る。これは皆工人のわざである。彼らは言う、これに犠牲をささげよ、人々は子牛に口づけせよと。

    8)エフライムよ、わたしは偶像となんの係わりがあろうか。あなたに答え、あなたを顧みる者はわたしである。わたしは緑のいとすぎのようだ。あなたはわたしから実を得る。

    8)むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。

    7)その彫像はみな砕かれ、その獲た価はみな火で焼かれる。わたしはその偶像をことごとくこわす。これは遊女の価から集めたのだから、遊女の価に帰る。

    18)刻める像、鋳像および偽りを教える者は、その作者がこれを刻んだとてなんの益があろうか。その作者が物言わぬ偶像を造って、その造ったものに頼んでみても、なんの益があろうか。

    4)「わたしはユダとエルサレムのすべての住民との上に手を伸べる。わたしはこの所からバアルの残党と、偶像の祭司の名とを断つ。

    2)万軍の主は言われる、その日には、わたしは地から偶像の名を取り除き、重ねて人に覚えられることのないようにする。わたしはまた預言者および汚れの霊を、地から去らせる。

    41)そのころ、彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた。

    43)あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう』。

    20)ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。

    29)それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。

    16)さて、パウロはアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。

    25)異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてある」。

    22)姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。

    10)それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。

    11)しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。

    9)それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、

    1)偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。

    4)さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。

    7)しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。

    10)なぜなら、ある人が、知識のあるあなたがたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。

    7)だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。

    14)それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。

    19)すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。

    2)あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれて行ったことは、あなたがたの承知しているとおりである。

    16)神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。

    20)偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、

    5)あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。

    5)だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

    9)わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、

    3)過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。

    21)子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。

    14)しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。

    20)しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。

    20)これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金・銀・銅・石・木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。

    8)しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。
    15)犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
    ーーーーーーーーーー
    「絞め殺された者を避けよ」という言葉で思いましたが、聖書に出てくるユダという弟子はイエスキリストを金で売り裏切りました。そしてその後首を吊り自殺したそうです。
    今の日本には自殺者が数年連続で多く続いていますがやはり首吊りが多いかも知れません。首吊りは安楽に死ねるという理由かと思いました他にも理由がありこのユダの裏切った末の首吊りに帰来しているのでは等と思いました。
    首吊り自殺などをする者の多くは神に絶望するからかも知れませんがユダという神を裏切った者の名前は日本人の先祖だとか言われているそうなユダ族の名称と無関係ではないかも知れないなどと思いました。自殺者に首吊りが多いのもユダの首吊りに帰来するかも知れません。
    偶像礼拝は神の忌み嫌われることであると聖書に繰り返し書かれていることが分かります。
    そう言ったことですので今の日本への大変な災いも、日本人の著しい偶像礼拝から来ていると思います。
    キリスト教への偏見等を植え付けるためのメディアの情報操作などもあるかも知れません。
    ーーーーーーーーー
    エレミヤ書:第17章
    5)主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。








    ーーーーーーーーーー

    イエスキリストを裏切ったユダが首吊りで死んだことも何かの意味があるという気がしました。日本は長きにわたり著しい偶像礼拝を行ったために主ののろいに遭っているのだと思います。

    しかし聖書には神の怒りの大杯が敵の手に渡されるときが来ると書かれています。

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    ねたむ神

    「ねたむ神」で検索しました。

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    5)それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、

    14)あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。

    24)あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である。

    9)それを拝んではならない。またそれに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて三、四代に及ぼし、
    ーーーーーーーーー
    聖書には「偶像礼拝の罪」についてのみことばが多く書かれています。神はねたむ神とご自分で言われているため「偶像礼拝の罪」は決して犯すべきではない罪だと分かります。
    偶像礼拝の罪についてのみことばは聖書の預言書と言われる書に多く書かれています。









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    「むち」についてのみことば

    「むち」で検索しました。

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    4)たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。

    32)わたしはつえをもって彼らのとがを罰し、むちをもって彼らの不義を罰する。

    13)さとき者のくちびるには知恵があり、知恵のない者の背にはむちがある。

    24)むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。

    3)愚かな者の言葉は自分の背にむちを当てる、知恵ある者のくちびるはその身を守る。

    6)愚かな者のくちびるは争いを起し、その口はむち打たれることを招く。

    29)さばきはあざける者のために備えられ、むちは愚かな者の背のために備えられる。

    30)傷つくまでに打てば悪い所は清くなり、むちで打てば心の底までも清まる。

    15)愚かなことが子供の心の中につながれている、懲らしめのむちは、これを遠く追いだす。

    13)子を懲らすことを、さし控えてはならない、むちで彼を打っても死ぬことはない。

    14)もし、むちで彼を打つならば、その命を陰府から救うことができる。

    3)馬のためにはむちがあり、ろばのためにはくつわがあり、愚かな者の背のためにはつえがある。

    15)むちと戒めとは知恵を与える、わがままにさせた子はその母に恥をもたらす。


    4)正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。


    01)わたしは彼の怒りのむちによって、悩みにあった人である。

    47)主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。

    23)彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。

    6)主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。

    ーーーーーーーーー

    神の御子であるイエスキリストが鞭打たれて磔刑で殺されたため、その御子の購いに預かる者達も又鞭打たれる必要があると言うことでしょうか。 

    受けるべきこらしめを受けない者は「私生子」扱いになっていると聖書には書かれています。↓

    へブル人への手紙:第12章
    8)だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。



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    「懲らしめ」についてのみことば

    「懲らしめ」で検索しました。

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    http://bible.monochro.com/

    11)わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、その戒めをきらってはならない。

    23)戒めはともしびである、教は光である、教訓の懲らしめは命の道である。

    17)教訓を守る者は命の道にあり、懲らしめを捨てる者は道をふみ迷う。

    1)戒めを愛する人は知識を愛する、懲らしめを憎む者は愚かである。

    1)知恵ある子は父の教訓をきく、あざける者は、懲らしめをきかない。

    24)むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。

    10)道を捨てる者には、きびしい懲らしめがあり、戒めを憎む者は死に至る。

    22)知恵はこれを持つ者に命の泉となる、しかし、愚かさは愚かな者の受ける懲らしめである。

    10)一度の戒めがさとき人に徹するのは、百度の懲らしめが愚かな人に徹するよりも深い。

    15)愚かなことが子供の心の中につながれている、懲らしめのむちは、これを遠く追いだす。

    17)あなたの子を懲らしめよ、そうすれば彼はあなたを安らかにし、またあなたの心に喜びを与える。


    16)主よ、彼らは悩みのとき、あなたに求めた。彼らがあなたの懲らしめにあったとき、祈をささげた。

    32)主が懲らしめのつえを彼らの上に加えられるごとに鼓を鳴らし、琴をひく。主は腕を振りかざして、彼らと戦われる。


    19)あなたの悪事はあなたを懲らしめ、あなたの背信はあなたを責める。あなたが、あなたの神、主を捨てることの悪しくかつ苦いことであるのを見て知るがよい。わたしを恐れることがあなたのうちにないのだ」と万軍の神、主は言われる。

    3)主よ、あなたの目は、真実を顧みられるではありませんか。あなたが彼らを打たれても、痛みを覚えず、彼らを滅ぼされても、懲らしめを受けることを拒み、その顔を岩よりも堅くして、悔い改めることを拒みました。

    11)主は言われる、わたしはあなたと共にいて、あなたを救う。わたしはあなたを散らした国々をことごとく滅ぼし尽す。しかし、あなたを滅ぼし尽すことはしない。わたしは正しい道に従ってあなたを懲らしめる。決して罰しないではおかない。


    28)主は言われる、わたしのしもべヤコブよ、恐れることはない、わたしが共にいるからだ。わたしはあなたを追いやった国々をことごとく滅ぼし尽す。しかしあなたを滅ぼし尽すことはしない。わたしは正しい道に従って、あなたを懲らしめる、決して罰しないではおかない」。

    06)わが民の娘のうけた懲らしめは、ソドムの罰よりも大きかった。ソドムは昔、人の手によらないで、またたくまに滅ぼされたのだ。

    12)彼らが行くとき、わたしは彼らの上に網を張って、空の鳥のように引き落し、その悪しきおこないのゆえに、彼らを懲らしめる。

    10)わたしは来てよこしまな民を攻め、これを懲らしめる。彼らがその二つの罪のために懲らしめられるとき、もろもろの民は集まって彼らを攻める。

    12)わが神、主、わが聖者よ。あなたは永遠からいますかたではありませんか。わたしたちは死んではならない。主よ、あなたは彼らをさばきのために備えられた。岩よ、あなたは彼らを懲らしめのために立てられた。

    2)これはだれの声にも耳を傾けず、懲らしめを受けいれず、主に寄り頼まず、おのれの神に近よらない。

    7)わたしは言った、『これは必ずわたしを恐れ、懲らしめを受ける。これはわたしが命じたすべての事を見失わない』と。しかし彼らはしきりに自分の行状を乱した」。

    32)しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。

    9)人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、

    18)愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。

    19)すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。


    ーーーーーーーーー

    以上のみことばを見ると世の終わりが来るまでに主のこらしめを受けると言うことは幸いであると思います。

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    昨夜考えたことですが

    イエスキリストが十字架におかかりになって死なれたのは人間の罪を処罰するためであった。この十字架を信じて心に受け入れる者は天国に行ける。

    逆に考えると人間という存在は神の御子が究極の苦しみを味わって死なねばならないほどの罪を犯している。人間は自己を誇ることは間違っている。自己を誇ることは疲れる。

    神は真実で正しい御方であるので人間をそのままで天国に行かせることは出来ず神の御子の死による購いが必要だった。この購いを信じて拠り頼む者が天国に行くことが出来ます。

    神様は天地万物を造られた方であると聖書に書かれています。この世のことは全て神の支配下にあります。

    神様は人間を深く愛されているが人間が神に背いて偶像礼拝などの罪に走ったので神の怒りが下ると言うことになります。

    今の日本への激しい災いは神の怒りの大杯が下っていると思います。

    神様は日本の民を深く愛されているが故にその偶像礼拝を決して赦すことが出来ずに大いなる災いを下された。

    愛情の対極は無視や放置だと思います。もし神が人間の罪を放置しそのままでも天国に行けますよなどと言ったらどうなるかというと天国は不義のままの人間で満ちてしまう。

    だから神様は愛されている対象をご自分の清さに預からせるために鞭打つのだと思います。

    日本への激しい災いは神様の深い愛情の証しのような物だと思います。

    聖書には「ねたむ神」と言う言葉が出てくるようです。

    箴言には「鞭打つことで心が清まる」という言葉もありました。

    聖書の複数箇所には「神はその愛する子を懲らしめるのである」とも書かれています。

    言ってみると今時分苦しみに遭わされていると言うことは神の懲らしめに遭わされていると言うことで逆に幸いだと思います。

    聖書にはその事があちこちに書かれています。

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    神の恵み

    以下は神の恵みが分かるための解説です。

    http://members.jcom.home.ne.jp/rh-pkf/message2k407.htm
    神の恵みの届かない場所

    No. 200407

    神に見捨てられたと感じるとき

    神の恵みを勘違いして理解している人がいます。神の恵みをあたかも私たちが人に親切にしたり、優しい心を持ったりするのと同じように考えて、私は神に見捨てられてしまったのではないかと思うのです。人は親切にしたら当然感謝されるものと思います。感謝されないともう親切にするのをやめてしまったり、逆に怒ったり恨んだりすることさえあります。けれども神の恵みはそんなものとは違います。たとえ私たちが不忠実であっても神の恵みは変わりません。私たちが神を神と思わない罪びとであったときにさえ、神の愛は私たちに注がれていました。

    しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

    (ローマ5章8節)

    ですから、どんな理由があるにせよ神に見捨てられたと感じることは大きな間違いです。それは、神の愛をあまりにも小さく考え過ぎているからです。

    あなたがどんな大きな失敗をしたとしても神があなたを見捨てるようなことは決してありません。むしろ、そういう時にこそいっそうあなたを力づけて立ち直ることが出来るように導いてくださいます。

    神を認めたくない人

    世の中には神の存在を認めたくない人がいます。機会があれば神はいないと思い込もうとします。けれども、神の恵みはそういう人々にも注がれます。どんな人でも神の大きな恵みの外にいるわけではありません。たとえ今は神を認めず信じることもしない人に対しても神は忍耐をして、信じる心を持つことが出来る時まで待ってくださいます。そういう人もやがて時が来ればさまざまな経験や数々の困難を通して神の愛を知るようになるからです。私はそういう人を大勢知っています。

    神が無理やりには立ち入らないところ

    けれども、確かに神の恵みが届かないところがあります。それは遠い宇宙の果てではありません。たとえどんなに遠い宇宙のかなたであっても神の恵みは隅々にまでいき届いていて、そこから何億年もかけてやっと今届く星の光の中にさえも恵みが満ちています。その小さな光を見たとき、私たちは神の思いやりと愛を感じることが出来るのです。

    では、神の恵みの届かないところとはいったいどこでしょう。

    それは、神を拒み続ける心です。

    神の恵みを恵みとして受けることを拒むなら神の恵みはその人には届きません。何か大きな失敗を犯したり、とんでもない悪いことをしてしまったりしたからではありません。神の恵みはどんな悪人にも注がれています。神の恵みが届かない唯一つの場所、それは、はっきりと自分の意思で神の恵みを拒む心だけです。どんなに大きな恵みがそこにあってもそれを心に受け入れることを拒むならその恵みはその人のものにはならないのです。

    私は子どもの頃、「冥王星から見た太陽」という絵を見てとても驚いたことがありました。そこでは太陽は周りにあるたくさんの普通の星より少しは大きく輝いていましたが、あまりにも遠くにあって、いつもの明るさや暖かさを与えるほどではありませんでした。まして、熱や大きなエネルギーを感じることも出来ません。あたりは青白い闇に包まれて凍り付いていました。太陽はあまりにも遠くてその恩恵を示す命の躍動は何一つ感じられません。そんなところに住んでいなくて良かったと思いました。

    そういう星に対しても太陽の引力は働いていて、その星がどこまでも遠くの闇の中へ離れていってしまうことはありません。

    神の恵みが届かなくなるのは距離のためではありません。まして私たちの小ささやいたらなさによるのではありません。

    人は罪を犯したり大きな失敗をしたりすれば周りの人々に迷惑をかけるだけでなく自分自身が苦しみ、損失をこうむりますが、それによって神の恵みがなくなることはありません。

    神を忘れて自分勝手な道を歩んでいれば、空しさや失望を感じ、貴重な時間を無駄にしたり、困難に立ち向かう力や勇気を十分に発揮できず不安になったりするでしょうが、それによって神の恵みがなくなってしまったわけではありません。悔い改めてたち帰ったとき、神の恵みはいつでも直ぐそばにあったことに気がつきます。永遠から永遠に続く神の恵みと愛は私たちが考えるほどもろいものではありません。

    私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

    しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8章35、37節)

    はっきりとした意思で拒むこと以外に神の恵みを締め出すことはありません。どうか安心してもう一歩神の恵みに近づいてください。
    ーーーーーーーーーー
    写真は梅の木(病院敷地内)
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    聖書と文盲

    ある日記サイトの記事をコピペします。

    http://www.dousen.com/article/23726694.html

    2006年09月14日

    静かに待つ

    ハバククは、社会悪の中で苦しみ続けた。

    「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。 私が「暴虐。」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。 なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。 暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。 それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。 悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています。」

    これは、いまでも変わらない現実である。 弱肉強食、優勝劣敗。 卑劣・残虐な行為の横行。 どんなに理屈をつけようが、これが現実なのである。

    神の創造の痕跡、神の愛、神の義なんか、この世界には、一切残されていない。 「世界は人間活動の総和」でしかないのである。

    信仰者とは、この後、神が約束通りのことを本当にされるのかどうかを、見張り台に立って、しっかりと待ち続けるだけだ。 祈っても、願っても、断食しても、答えはないのである。 「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。」 というのがハバククの信仰観だった。

    神が直接、指導しない世界を、神の指導を受けているように生きるのが信仰者の道である。 「私は聞き、私のはらわたはわななき、私のくちびるはその音のために震える。 腐れは私の骨のうちに入り、私の足もとはぐらつく。 私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を、私は静かに待とう。」

    「私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日」を、静かに待てる人である。 「悩みの日」とは、新約聖書でいうと「イエスの再臨」の時になる。

    いや、神が答えないのは、「それは旧約聖書の神だからだ。」 「新約聖書のイエスさまは、ちゃんと応えてくださいます」 という人々の多いこと。 イエスも、また、「沈黙」であることは、通読すればちゃんと分かる。

    使徒から一つだけ事例を挙げる。16章7節から11節。 「こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。 それでムシヤを通って、トロアスに下った。 ある夜、パウロは幻を見た。 ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。』と懇願するのであった。 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。

    神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。 そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。」 ビテニヤ行きを聖霊によって制止された。 ムシヤから、トロアスへ行くのも、聖霊の導きではない。 マケドニヤ人とは、この後、パウロと行動を共にする医者・ルカであることは、この節以降を読めば明らかだ。

    「私たち」とは、パウロとルカは、「彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」 「確信」とは、固く信じて疑わないことをいう。 パウロとルカの意見の一致で行動したのである。 聖霊の導きで行動したのではない。 新約聖書は、イエスの直接の導き、十字架以降は聖霊の導き、そしてここで信仰的判断の時代へと移っていく。

    信仰的判断とは、聖書的な物事のとらえ方であり、聖書的な考え方であり、聖書的な対応の仕方である。 時間感覚で言えば、「永遠」という認識。 500年、1000年は問題にならない。 「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」 このペテロⅡ 3章8節は、聖書的な時間感覚を養うことへの奨励である。

    空間的には、聖書の素材が、全世界に及んでいることでも分かるように、世界的認識を持つことになる。 信仰的判断を養う方法は、唯一、聖書の通読を繰り返すしかない。 「狭い門からはいりなさい。 滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。 そして、そこからはいって行く者が多いのです。」マタイ7章13節。

    旧約聖書をイエスが解釈したように解釈する道を示した言葉である。 それは「狭い門」である。 しかし、いまここに、そのすべての解釈が「新約聖書」として完全に残されている。 これを「最高・最善の導き」とせずに、どんな導きを望もうとするのか。

    「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。」テモテⅠ 4章13節。 聖書(新約聖書に「聖書」と書かれている場合は、「旧約聖書」)を重視する言葉を挙げればきりがない。 また、「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない」と命令されているのは、新約聖書が旧約聖書の公的解釈だからである。

    初代教会では、「聖書」と「イエス」は同義語として使われていた。 (預言者は、自国のあり方に警告をしているのであり、他国のことではない。イエスによって、イスラエルから、役割が教会へ転換した。したがって、預言者の警告は、そのまま教会への警告である) ハバクク書には、キリスト預言はない。

    ーーーーーーーーー

    この記事では正直何を言っているのかよく理解できませんが部分的に良いことを述べている気がします。

    『信仰的判断を養う方法は、唯一、聖書の通読を繰り返すしかない。』

    『「悩みの日」とは、新約聖書でいうと「イエスの再臨」の時になる。』

    ↑上の言葉などです。しかしながら『悩みの日』というのが何と、イエスキリストのご再臨の時だというのは初めて知りました。 と言うことはそれまでの間は悪人はやりたい放題ですかね。正直しんどいですね。

    私はてっきり『主の再臨前に悪人への報いは跳ね返ってくるのではないか』などと思っていました。しかし違うのでしょうか。 悪を行う者達の前に普通の人間は為す術無しで待ち望む以外にないと言うことでしょうか。 8d657a45

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    病院敷地内の山茶花78341b6e

    病院敷地内のサボテンの鉢植え

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    高ぶりについて

    みことば検索サイトにより「高ぶり」で検索しました。

    http://bible.monochro.com/

    箴言:第8章 13)主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む。

    箴言:第11 2)高ぶりが来れば、恥もまた来る、へりくだる者には知恵がある。

    箴言:第13章 10)高ぶりはただ争いを生じる、勧告をきく者は知恵がある。

    箴言:第16章 18)高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。

    箴言:第18章 12)人の心の高ぶりは滅びにさきだち、謙遜は栄誉にさきだつ。

    箴言:第21章 24)高ぶりおごる者を「あざける者」となづける、彼は高慢無礼な行いをするものである。

    箴言:第29章 23)人の高ぶりはその人を低くし、心にへりくだる者は誉を得る。

    箴言:第30章 32)あなたがもし愚かであって自ら高ぶり、あるいは悪事を計ったならば、あなたの手を口に当てるがよい。

    イザヤ書:第3章 5)民は互に相しえたげ、人はおのおのその隣をしえたげ、若い者は老いたる者にむかって高ぶり、卑しい者は尊い者にむかって高ぶる。

    イザヤ書:第16章 6)われわれはモアブの高ぶりのことを聞いた、その高ぶることは、はなはだしい。われわれはその誇と、高ぶりと、そのおごりとのことを聞いた、その自慢は偽りである。

    エレミヤ書:第13章 9)「主はこう仰せられる、これと同じように、わたしはユダの高ぶりとエルサレムの大いなる高ぶりを、破るのである。

    エレミヤ書:第13章 17)もしあなたがたが聞かないならば、わたしの魂はひそかな所で、あなたがたの高ぶりのために悲しむ。また主の群れが、かすめられたために、わたしの目はいたく泣いて、涙を流すのである。

    エレミヤ書:第48章 29)われわれはモアブの高慢な事を聞いた、その高慢は、はなはだしい。すなわち、その尊大、高慢、横柄、およびその心の高ぶりのことを聞いた。

    エレミヤ書:第49章 16)岩の割れ目に住み、山の高みを占める者よ、あなたの恐ろしい事と、あなたの心の高ぶりが、あなたを欺いた。あなたは、わたしのように巣を高い所に作っているが、わたしはその所からあなたを取りおろすと主は言われる。

    エゼキエル書:第7章 10)見よ、その日を。また見よ、かの日が来た。あなたの最後の運命が来た。不義は花咲き、高ぶりは芽を出した。

    エゼキエル書:第7章 20)彼らはその美しい飾り物を高ぶりのために用い、またこれをもってその憎むべき偶像と忌むべき物を造った。それゆえわたしはこれを彼らに対して汚れたものとする。

    エゼキエル書:第7章 24)わたしは国々のうちの悪い者どもを招いて、彼らの家をかすめさせる。わたしは強い者の高ぶりをやめさせる。また彼らの聖所は汚される。

    エゼキエル書:第16章 49)見よ、あなたの妹ソドムの罪はこれである。すなわち彼女と、その娘たちは高ぶり、食物に飽き、安泰に暮していたが、彼らは、乏しい者と貧しい者を助けなかった。

    エゼキエル書:第16章 50)彼らは高ぶり、わたしの前に憎むべき事をおこなったので、わたしはそれを見た時、彼らを除いた。

    エゼキエル書:第16章 56)あなたの高ぶりの日に、あなたの姉妹ソドムは、あなたの口に、ことわざとなったではなかったか。

    エゼキエル書:第28章 17)あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。

    エゼキエル書:第31章 10)それゆえ、主なる神はこう言われる、これは、たけが高くなり、その頂を雲の中におき、その心が高ぶりおごるゆえ、

    エゼキエル書:第31章 14)これは水のほとりのすべての木が、その高さのために誇ることなく、その頂を雲の中におくことなく、水に潤う木が、みずから高ぶり立つことのないためである。これらは皆、死に渡され、下の国に入り、穴に下る者と共に他の人々のうちにいる。

    ダニエル書:第4章 37)そこでわれネブカデネザルは今、天の王をほめたたえ、かつあがめたてまつる。そのみわざはことごとく真実で、その道は正しく、高ぶり歩む者を低くされる。

    ダニエル書:第5章 20)しかし彼は心に高ぶり、かたくなになり、ごうまんにふるまったので、王位からしりぞけられ、その光栄を奪われ、

    ダニエル書:第5章 23)かえって天の主にむかって、みずから高ぶり、その宮の器物をあなたの前に持ってこさせ、あなたとあなたの大臣たちと、あなたの妻とそばめたちは、それをもって酒を飲み、そしてあなたは見ることも、聞くことも、物を知ることもできない金、銀、青銅、鉄、木、石の神々をほめたたえたが、あなたの命をその手ににぎり、あなたのすべての道をつかさどられる神をあがめようとはしなかった。

    ダニエル書:第8章 25)彼は悪知恵をもって、偽りをその手におこない遂げ、みずから心に高ぶり、不意に多くの人を打ち滅ぼし、また君の君たる者に敵するでしょう。しかし、ついに彼は人手によらずに滅ぼされるでしょう。

    ダニエル書:第11章 12)彼がその軍を打ち破ったとき、その心は高ぶり、数万人を倒します。しかし、勝つことはありません。

    ホセア書:第7章 16)彼らはバアルに帰る。彼らはあざむく弓のようだ。彼らの君たちはその舌の高ぶりのために、つるぎに倒れる。これはエジプトの国で人々のあざけりとなる。

    ホセア書:第13章 6)しかし彼らは食べて飽き、飽きて、その心が高ぶり、わたしを忘れた。

    旧約聖書:オバデヤ書 3)岩のはざまにおり、高い所に住む者よ、あなたの心の高ぶりは、あなたを欺いた。あなたは心のうちに言う、「だれがわたしを地に引き下らせる事ができるか」。

    ゼパニヤ書:第2章 10)この事の彼らに臨むのはその高ぶりによるのだ。彼らが万軍の主の民をあざけり、みずから誇ったからである。

    ヨハネの黙示録:第18章 7)彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにしたので、それに対して、同じほどの苦しみと悲しみとを味わわせてやれ。彼女は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

    ーーーーーーーーーーー

    聖書における「高ぶる者」が「寡婦になる心配なし」とうそぶくのはもしかすると、「神に捨てられる心配なし」という意味でしょうか、何故かというと聖書の神は人と神の関係を夫婦になぞらえているからです。

    神様は何故か知りませんが「結婚制度」を立てられました。それは人同士ですが神と人との関係も何故か夫婦の関係みたいに表現されている箇所があるようです。

    神様は何故に人間を男女に造られたのでしょうか、その為に何故か性的な問題や軋轢や犯罪や苦しみがあるようですが。

    そして何故かマリヤ様という女性は処女で子を産むことになったためにいろいろと噂などに苦しんだかも知れません。

    考えるとかなり理不尽な世界に苦しむ人間の事情がありそうです。

    これは何故でしょうか。 この世は一時的な物であり死後は永遠に続くそうです。そしてそれは天国か地獄のどちらかだそうです。

    地獄は知りませんが天国では卑しき肉の体ではない栄光の卑しくない体になれるそうです。それが何かは知りませんが確かにこの世に置いて肉の体を持つが故に苦悩せねばいけない事象が多いようです。

    天国に置いて与えられる栄光の朽ちない体とはどういう物でしょうか。9391c5b9

    ーーーーーーーーー

    病院敷地内の水仙の花

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    高慢について

    みことば検索サイト「聖書の杜」

    http://bible.monochro.com/

    『 高慢 』で検索した結果です。

    サムエル記上:第2章 3)あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。

    ヨブ記:第15章 25)これは彼が神に逆らってその手を伸べ、全能者に逆らって高慢にふるまい、

    詩篇:第一巻 1 6)それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。

    詩篇:第一巻 1 5)角を高くあげるな、高慢な態度をもって語るな」と言う。

    詩篇:第一巻 1 4)彼らは高慢な言葉を吐き散らし、すべて不義を行う者はみずから高ぶります。

    詩篇:第一巻 1 5)ひそかに、その隣り人をそしる者をわたしは滅ぼします。高ぶる目と高慢な心の人を耐え忍ぶ事はできません。

    箴言:第21章 24)高ぶりおごる者を「あざける者」となづける、彼は高慢無礼な行いをするものである。

    イザヤ書:第13章 11)わたしはその悪のために世を罰し、その不義のために悪い者を罰し、高ぶる者の誇をとどめ、あらぶる者の高慢を低くする。

    イザヤ書:第33章 19)あなたはもはや高慢な民を見ない。かの民の言葉はあいまいで、聞きとりがたく、その舌はどもって、悟りがたい。

    エレミヤ書:第48章 29)われわれはモアブの高慢な事を聞いた、その高慢は、はなはだしい。すなわち、その尊大、高慢、横柄、およびその心の高ぶりのことを聞いた。

    エレミヤ書:第50章 29)弓を張る射手をことごとく呼び集めて、バビロンを攻めよ。その周囲に陣を敷け。ひとりも逃がすな。そのしわざにしたがってバビロンに報い、これがおこなった所にしたがってこれに行え。彼がイスラエルの聖者である主に向かって高慢にふるまったからだ。

    マルコによる福音書:第7章 22)姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。

    ローマ人への手紙:第1章 30)そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、

    コリント人への第2の手紙:第12章 7)そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。

    コリント人への第2の手紙:第12章 20)わたしは、こんな心配をしている。わたしが行ってみると、もしかしたら、あなたがたがわたしの願っているような者ではなく、わたしも、あなたがたの願っているような者でないことになりはすまいか。もしかしたら、争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、ざんげん、高慢、騒乱などがありはすまいか。

    テモテへの第1の手紙:第3章 6)彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。

    テモテへの第1の手紙:第6章 4)彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、

    テモテへの第1の手紙:第6章 17)この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、

    テモテへの第2の手紙:第3章 2)その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、

    ヤコブの手紙:第4章 16)ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。

    ーーーーーーーーーーー

    加害者ほどの著しき高慢性を持つ人種などいるのでしょうか。 私は他に見たことがないです、こういう人種は。

    この人間共はきっと世の終わりに出てくるという「嘲る者共」です。 彼らは言われ無き者の人権と生活と精神を踏みにじり侵害し搾取し辱め虐待を繰り返し何の罪悪感すらなく自己正当化を繰り返すだけです。

    これ程までに酷い人種がいるだろうかと思います。

    しかしこの様な酷い災いが日本人の咎から来る物であればどうしたらいいかと思います。 日本人は確かに偶像礼拝の著しい民族ですね。

    聖書の神以外の八百万の神信仰がすごいですね。 死んだ人間を神にしたり自然物を神にしたりそれに壮大なる神事の儀式を行ったりしているようです。

    神社のサイトを少し見て思いましたが。 おまけに仏教の神を巨大な像を造って拝むなどのことをしています。 それが全国に点在しているようです。

    聖書の神様は唯一真の神であり創造主です。人間に取り、真の神です。 しかし日本にはクリスチャンが1パーセントしかおらず多くの人は「自分とは無関係」だと思っています。

    しかし聖書を読むと神はまるで日本人へのメッセージを濃厚に発しているように思えて仕方がないのです。 聖書の記述は日本人の精神文化とかなり共通しているようです。

    聖書の内容と日本の民族文化との共通点もあるようです。

    今の日本への災いはきっと聖書の神様の計画の一部だと思います。

    聖書には今の日本への取るべき行動のヒントが書かれています。私はそう思います。 どうか聖書を読んでみてください。

    聖書の神様はきっと日本の民をいたく深く愛しておられます。 愛情の反対は放置、無視です。 神は愛する対象を懲らしめることでご自分の道に導くと思います。

    聖書の神様は「ねたむ神」と書かれています。神様の忌み嫌われることは「偶像礼拝」です。 日本にはあらゆる偶像礼拝が蔓延っています。

    神様は如何にお悲しみの事でしょうか。 日本への激しい災いの理由は聖書の神の御口より出ていると思います。

    聖書の神様への信仰に立ち返りましょう。 どうかお願いします。 48888dec

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    写真は精神科病院の敷地内から見た空(多摩市)

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    「救い」についてのみことば

    ヨブ記:第10章
    7)あなたはわたしの罪のないことを知っておられる。またあなたの手から救い出しうる者はない。


    13)「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。

    14)見よ、彼らはわらのようになって、火に焼き滅ぼされ、自分の身を炎の勢いから、救い出すことができない。その火は身を暖める炭火ではない、またその前にすわるべき火でもない。
    (上の三つの御言葉は、「神の裁き」から救い出せる者はいないという意味だと思います。)


    21)わたしはあなたを悪人の手から救い、無慈悲な人の手からあがなう」。


    12)あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる。


    12)この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
    (「この人」とは即ちイエスキリストの事です。)


    18)十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。
    (近所にはみことばを嫌うような者が多いようです。未だ聖書への偏見が激しいようです。)


    13)神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。
    (これは悪魔の霊的支配より聖霊様に満たされる状態つまりイエスキリストの御支配下に入れて頂けることだと思います。)


    18)主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、天にある御国に救い入れて下さるであろう。栄光が永遠から永遠にわたって主にあるように、アァメン。
    (悪のわざと言えば悪態はきも止められずに困っていました。地獄に行くことだけは最も怖いことです。忌むべき事です。悪人共はそれ自体を信じず嘲ります。)
    みことば検索サイト「聖書の杜」

    http://bible.monochro.com/index/33656/Ed3b1f83_2

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    小樽運河の絵はがき

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    十字架の意味

    十字架の意味するもの!

     人気俳優でもあるメル・ギブソン監督による映画「パッション」が話題になりました。米国では成人の十一%にあたる二四〇〇万人がこの映画を観て感動。まだ観ていない六十五%もの人々が今後ビデオを是非観賞したいと言っていると報道されています。映画の題名である「パッション」とは、この場合「キリストの十字架による受難)を意味するものです。何一つ罪のない神の子キリストが不当な人間達による裁きを受け、鞭打たれ、丘の上で十字架上に釘付けにされて殺されるまでの十二時間を描いた映画です。

     さて、このイエス・キリストが架けられた“十字架”がキリスト教のシンボルとなっていることはどなたもご存じでしょう。でも、十字架の意味するところが何であるかをご存じの方は少ないのではないでしょうか。キリストが釘づけられた十字架は、少なくとも次の四つを表しているといえるでしょう。

    ① 人間の罪のみにくさ
     ひとりの青年が、説教を終えた牧師に、「先生、十字架の話はあまりしない方がいいと思います、あまりにも醜悪ですから」と言いました。すると牧師、「確かに十字架は醜悪ですよね。しかし、その醜悪さは十字架にかかられたキリストのみにくさではなく、そう感じておられる君自身中にある罪の醜悪さなのですよ」と答えました。
     怒り、争い、不人情、無作法、利己主義、無関心、我がまま、敵対心・・いつの時代にも、人はどんな動物にもまさる醜悪な罪人でした。そして今を生きる私たちも例外ではありません。十字架のみにくさはそ私達の持つ醜悪さのすべてを凝縮したものなのです。

    ② 神のさばきの厳しさ
     キリストは十字架上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。それはキリストの弱音を意味するものではなく、人の罪を徹底的に憎み、罰せずにはおかない、父なる神のさばきの厳しさを一身に背負われたキリストのうめきだったのです。いわばあのうめきは罪の深みであがき苦しみ続けてきた私自身のうめき声であったわけです。そして避雷針のように、私たちに臨むべき激しい神の怒りが、キリストの十字架の上に集中してしまったのです。

    ③ 神の愛の豊かさ
     英語の壁掛けに、このようなことが書かれています。「ある時私は、《主よ、あなたはどれだけ私たちを愛されるのですか》と、主イエスにたずねてみた。すると主イエスは、両手を広げながら、《私はこのようにして十字架にかかり、あなたのために死んだのだよ》と答えられた。・・・ 

     十字架の上に両手両足を釘づけにされて、両手を大きく広げておられるキリストの姿は、罪深い私たちを無限大に許して下さる、限りなく深いキリストの愛を表しているのです。

    ④ 救いの確かさ
     新約聖書のコロサイ書には「十字架の血によって平和をつくり・・ご自分と和解させて下さった・・」と記されています。十字架において流されたキリストの血潮が、私たちの持つすべての罪の汚れをも清める。

     心の中のどんな落書きでも消してくれる魔法の消しゴムがあったらいいと思われたことはないでしょうか。誰の人生にも消して貰いたいと思うような心の闇、罪があるものです。

     十字架は、まさに偉大な消しゴムのようなものではないかと思います。キリストの十字架を仰ぐ者ならば誰でも罪は消して戴け、救われて新しい人生を始めることができるのです。

    http://www.geocities.jp/kbbcjp/goodnews2005.html
    ーーーーーーーーーー
    >確かに十字架は醜悪ですよね。しかし、その醜悪さは十字架にかかられたキリストのみにくさではなく、そう感じておられる君自身中にある罪の醜悪さなのですよ

    ↑この表現方法は分かりやすいですね。他に難しい解説のサイトはありましたがどうも読み取る気力がありませんでした。


    >心の中のどんな落書きでも消してくれる魔法の消しゴムがあったらいいと思われたことはないでしょうか。誰の人生にも消して貰いたいと思うような心の闇、罪があるものです。

    ↑心の暗さや罪を消して頂けるとは余りにも感謝な事です。
    別に臭い物への蓋ではないですよね、信仰をすることにより消して頂けると言うことでしょうか。


    >十字架は、まさに偉大な消しゴムのようなものではないかと思います。キリストの十字架を仰ぐ者ならば誰でも罪は消して戴け、救われて新しい人生を始めることができるのです。

    ↑偉大なる消しゴムですか、それはすごいですね。
    つまり人は自力では決して正しい者には慣れないし罪の償いも出来ないと言うことですね。
    よくテレビなどで「罪を償う」という価値観が出ていましたがあれを見るに突け「嫌な考え方だなあ」と思っていました。
    何だか傲慢さがある気がしたのです。
    世には救いがたいような罪を負う人間だっているし自分だってそうですね。親に無駄に出させてしまった金の問題で死ぬほど苦しみましたし、それを償うどころか社会的抹殺までされています。その上今に置いて虐め犯罪被害に会い続けています。考えると荒唐無稽ですが。
    だから「償える程度の罪なら別に幸せじゃないのか」と、思ったのです。
    そう言う愚かしい歴史を作ってしまいましたので、こういう者には十字架は必要だったのでしょう、考えると。

    聖書には「罪を犯さない正しい者はいない」と書かれていますが確かにそれは救いです。私は愚かさしかない歴史だったからです。
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    十字架の意味

    http://bible-room.org/seisho-nyumon/gospel/cross.htm

    十字架の意味

    古代の文化的背景

    十字架は、古くは旧約聖書の時代の紀元前1500年頃から、メソポタミヤ、パレスチナ、エジプト地域で犯罪人を死刑にするため、または拷問の道具として使われていました。その当時、この道具は以外にも十字の形をしていませんでした。人々は地面に植わっている木を使ったり、また木がなければ杭を地面に打ちたてました。その木または杭に犯罪人の顔や手を釘のようなもので打ち付けて、犯罪行為を戒める見せつけとして公の場で犯罪人を死刑にしたり拷問にかけ苦しめたのです。

    十字架の意味:イエス・キリストがあなたのために死んだ?

     ところで、いけにえって何?「イエス・キリストはあなたのために死にました」、ということばを聞いたことはあると思います。これは私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。この世の中を見てもわかるように、この世の中は何かが狂っています。その原因は人間の自己中心的な考えにあります。自己を正当化する自分勝手な考えが人間にはあります。このような態度や考えは私たちを捕らえて放さず、欲望のままに考えたり行動する罪の奴隷にします。この罪は私たちの心に潜み、他人を傷つけたり自己嫌悪に陥る原因でもあるのです。本来、私たちはこの罪に対して責任をとるべきなのです。私たちは地獄に行き苦しむべきなのです。

    神様はこんな私たちを憐れみ私たちに愛を注いでくださいました。どうやってでしょうか。天地万物を創造された時から父なる神様と共にいたご自分の子をこの世に人間として使わせれたのです。イエス様は神様を信じること、愛することを私たちに教えています。さらに自分を愛し他人も同じように愛することも教えてくれました。この愛は無条件の愛です。この愛は純粋に仕える心を生みだします。この愛をイエス様は身をもって十字架上で示されたのです。本来、私たちが十字架上で死ぬべきであったのにイエス様が身代わりになって死んでくださったのです。

    旧約の時代、人々は自分の一番大切な家畜を自分自身の罪のためにいけにえとして捧げました。その時、祭司は血を祭壇にふりかけました。この血は命の象徴です。本来、自分の罪のために自分の血が流されるべきだったのです。しかし、憐れみ深い神様は、身代わりのいけにえの血によって人々に命を救い罪を赦しました。

    旧約の時代に人々は罪のためのいけにえを毎年行っていましたが、イエス様はたった一度、私たちの罪のために死なれたのです。これがイエス様の十字架です。十字架は、肉体的な死を象徴するだけでなく、自我の死も表しています。つまり、十字架は、自分の欲望や自己中心的な考えを死に追いやることも意味しているのです。このことを身をもってイエス様は十字架上で示されたのです。ここにゴスペルの根幹があるのです。

    十字架は、ネックレスとして首にかけたりピアスとして耳につけるものではありません。むしろイエス様の愛に答え、イエス様と同じように神様に仕えて生きていこう、と誓った者が自我を捨てる十字架を心に刻み付けるのです。

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    十字架について、漸く理解できたのは数ヶ月前でした。イエスキリストのことを漸く認識できたのは去年の春頃で信仰の目が開かれたのは一昨年の春頃でした。

    そして教会へは12年ほど前よりの関わりでした。

    凡そ10年ほどは無駄な肉の心に満ちたる生活でした。

    十字架に関してはどうしても「不気味で暗くて陰惨で嫌なイメージ」しか持てず避けて通りたい問題でした。

    これと自己の罪とが関係しているとは思いたくありませんでした。

    つまり自己の罪の深さには気が付きませんでした。

    今も十二分には気付いていませんが。

    「十字架がキリスト教で最も重要な問題である」等と書かれた記述を見てもピンと来ず何処かしんどさを覚える事柄でした。

    いきおいクリスチャンミュージックや占い本などで安易に幸いを求めようとしていました。

    クリスチャン音楽などは現代風のロックやポップスなどの物があり信仰生活よりは其方の方に心が向いていました。

    聖書のみことばも、心に入らない状態でした。

    当時メディア加害者からの苛めに遭っていたのにやはりそのメディアに救いや慰めを求めていました。

    安易な方向にばかり関心が向く者でした。

    その結果音楽CDに浪費することになり失敗しました。

    今思うとあれらは信仰の成長などには役に立たない物でした。

    単に麻薬と同じであり真の救いや慰めはないのです。

    信仰の目が開かれてから罪が分かりその暫く後で十字架の購いについて理解できました。

    後十字架は「魂の解放」ではないかなどと感覚的に思いました。

    後にその理由として「人間はイエスキリストの購いに拠ってしか救われない存在であり自己を誇ることは無理である、自己を誇ることは疲労するし大体に置いて不可能である、人間は誇ることなど何も出来ないのだ」

    と考え、「自己を誇る必要のない安楽」という聞こえの悪い平安を覚えました。

    自己を誇る必要がないことは何とまあ有り難いことでしょうか。

    自己を誇ろうとすることは何とまあ疲れることだろうか。

    私は加害者達により全てに近い状態ではぎ取られた感があるので余計にそう思うのかもしれませんが。
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    山上の垂訓

    聖書には今の時代における「虐待環境で生きる人達」への救いのみことばがあります。

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    マタイの福音書 第5章




    1)イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。



    2)そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。



    3)「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。



    4)悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。



    5)柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。



    6)義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。



    7)あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。



    8)心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。



    9)平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。



    10)義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。



    11)わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。



    12)喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

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    「こころの貧しい人たち」というのはつまり「精神破壊活動」により貧しくされている人々と考えてもいい気がします。

    他の項目は大体組織的な嫌がらせの被害者にも当て嵌まる気がします。

    「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

    喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」

    ↑聖書の神様は全ての物をお造りになられたのです。だから人間があう苦難は神の責任にするという意味で良いと思います。



    そしてその事を言う神の救いを信じることで天国に行けると思います。



     http://www.calvarytokorozawa.com/howtogettoheaven_ja.htm

    上のサイトには「天国の行き方」と称した説明書きがあります。

    イエスキリストの福音を分かりやすく説明しています。

    どうか読んでみてください。
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    ←知人に頂いた絵はがきです

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    ヨブ記より

    人を監視される者よ。私が罪を犯したとて、あなたに何をなし得ようか。 何故、私をあなたの重荷とされるのか。ヨブ記7:20

    (神は人間を監視するですって、今の監視犯罪を嘲るようなみことばですね)

    あなたは私の罪のないことを知っておられる。 又あなたの手から救い出し得る者はない。ヨブ記10:7

    (神の御手より救い出せる者はいないというみことばは複数箇所にあるようですがこれはどういう意味でしょうか、神の支配より抜け出せる者はいないと言うことでしょうか。)

    全ての生き物の命、及び全ての人の息は彼の手の内にある。 ヨブ記12:10

    (命の有無まで神の管理下にあると言うことでしょうか。)

    どうか、私の言葉が、書き留められるように。 どうか、私の言葉が、書物に記されるように。ヨブ記19:23

    (ヨブは、随分と素直に告白していますね、しかもそれが本当に聖書になっているのですね。)

    悪しき人の勝ち誇りは暫くであって、 神を信じない者の楽しみはただつかの間であることを。 たといその高さが天に達し、その頭が雲に及んでも、 彼は己の糞のように、永久に滅び、彼を見た者は言うであろう、『彼は何処におるか』と。

    彼は夢のように飛び去って、再び見ることは無い。 彼は夜の幻のように追い払われるであろう。 彼を見た目は重ねて彼を見ることが無く、 彼のいたところも再び彼を見ることが無かろう。

    その子らは貧しい者に恵みを求め、 その子は彼の家財を償うであろう。 その骨には若い力が満ちている。

    しかしそれは彼と共に塵に伏すであろう。 たとい悪は彼の口に甘く、これを舌の裏に隠し、 これを惜しんで捨てることなく、口の中に含んでいても、 その食物は彼の腹の中で変わり、彼のうちで毒蛇の毒となる。

    彼は家財を飲んでも、又それを吐き出す。 神がそれを彼の腹から押し出されるからだ。 彼は毒蛇の毒を推、蝮の舌は彼を殺すであろう。

    彼は蜜と凝乳の流れる川々を見ることが出来ない。 彼は骨折って獲た物を返して、それを食うことが出来ない。 その商いによって得た利益を持って楽しむことが出来ない。

    彼が貧しい者を虐げ、これを捨てたからだ。 彼は家を奪い取っても、それを建てることが出来ない。 彼の欲張りは足ることを知らぬ故、その楽しむ何者をも救うことが出来ないであろう。

    彼が残して食べなかった物とては一つもない。 それ故、その繁栄は長く続かないであろう。 その力の満ちている時、彼は窮境に陥り、悩みの手が悉く彼の上に臨むであろう。 彼がその腹を満たそうとすれば、神はその激しい怒りを送って、 それを彼の上に降り注ぎ、彼の食物とされる。

    彼は鉄の武器を免れても、青銅の矢は彼を射通すであろう。 彼がこれをその身から引き抜けば、きらめく鏃がその肝から出て来て、 恐れが彼の上に臨む。 諸々の暗黒が彼の宝物のために蓄えられ、人が拭き起こした物でない火が彼を焼き尽くし、 その天幕に残っている者を滅ぼすであろう。

    天は彼の罪を表し、地は起こって彼を攻めるであろう。 その家の財産は奪い去られ、神の怒りの日に消え失せるであろう。

    これが悪しき人の神から受ける分、神によって定められた嗣業である。 ヨブ記20:5-29

    ーーーーーーーーーー

    今の世は確かに悪を行い暴利を貪るような方が多いですね。 監視犯罪によってねじ曲がった方法にて利益を得る人間も多いようです。

    そして被害者の方は体良く抹殺の憂き目に遭うようです。 しかしこの様な見え見えの悪事は何時か裁かれないことは考えられません。

    しかし加害者らはなにを考えるのかと思います、余りにも荒唐無稽すぎることをしている。余程悪魔に都合の良い嘘でも教えられたのだろうか。 そうとしか解釈できない。 76fda0e8

    ーーーーーーーーー

    ←親戚に頂いた絵はがき

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    彼らの神はその腹

    ピリピ人への手紙第三章

    18)わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。




    ーーーーーーーーーー

    害者達の性質や強硬性の不可解さに苦しみましたが、上のみことばが浮かびました。

    「彼らの神はその腹」と言う言葉です。

    腹の中にある物が神とは随分妙で面白い表現ですね。

    これは「自己の内面」「欲望」「感情」「心」「野心」「思い」などのことでしょうか。

    彼ら加害者は如何にも「自分達が正しいのである」と言わんばかりに振る舞いますがやはりその実態とは「自己、自我」を神として振る舞うのみだと言うことかも知れません。

    「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。ピリピ3:19 」

    加害者は確かにこの世この事のみに価値観を見出すような生き方ですね。死後のことは考えません。だからこの世で如何に上手くやり仰せるかが問題なのでしょう。

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    防衛機制

    この変な暴虐にあったことで周囲の人間の異様な姿や迫害を見せられ、又自己へも当て嵌まると言うことで「防衛機制」という機能が人にはあることを知りました。

    元々加藤諦三という作家の著書で「抑圧」という言葉はよく意識していましたが。

    「抑圧行為」も、加害者にはよく感じ取れ、又自分を苦しめる要素としてもかなり凄い物がありました。

    ーーーーーーーーーー

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E6%A9%9F%E5%88%B6
    http://yukitachi.cool.ne.jp/column/c005boei.html
    http://www008.upp.so-net.ne.jp/cands/sudeffensess.html
    http://www.nextftp.com/140014daiquiri/html_side/hpfiles/otaken/moe_def.htm
    http://y-miya.hp.infoseek.co.jp/kokushi/shinri.htm
    http://akimichi.homeunix.net/~emile/aki/html/medical/psychiatry/node54.html
    http://www006.upp.so-net.ne.jp/soralone/new_page_43.htm
    http://www.geocities.jp/romiyagi/psyco6.html
    http://ww6.enjoy.ne.jp/~ao-zora/bou.htm

    防衛機制

    ?すべての残忍性は臆病より生ず。(セネカ)

    ?性質が悪いというのは、防衛的性格なのである。(加藤諦三)

    ?「衣食足りて礼節を知る」と言って、衣食足りないものを敵視する、これが最も保守的な唯物論者である。

    ☞ 疎外 を見よ。

    「防衛機制」で検索したら多くの情報が出て来ました 加害者へは結構当て嵌まると思いますので、読んでみてください。 彼らの悪態に一々動揺し過ぎなくても良くなるかも知れません。

    ーーーーーーーーー

    >すべての残忍性は臆病より生ず

    加害者は確かに残忍卑劣な上にその事に無自覚ですね。もし臆病な故に残忍であるとしたらおぞましいことに加害者はその残忍行為に自己が耐えうることは考えがたいです。

    自分が耐えることが出来そうにないことを相手へは無自覚にエスカレートさせると言うことになります。これはどういう事でしょうか。

    加害者の行為=集団性、隠れた場所からの嫌がらせ、24時間常時監視、ハイテク使った手を触れぬ嫌がらせ、顔を隠す、姿を隠す、素性を隠す、無関係な者を雇う、タイミングあわせの嫌がらせ、逃げ足が速い、多くの車両で個人を付きまとい、不気味怪奇な車両で威嚇、不気味騒音で威嚇、小動物の死体で威嚇、連携プレイ、計画的工作茶番、網の目張り、コミュニケーション取らず、目を合わせず、ライト工作などで威嚇、説明無し、理由言わず、手を触れて殺さず、粘着干渉、高笑い、仄めかし、嘘吐き、シラ切り、突き回すような攻撃性、モニタ常時監視態勢、など。

    加害者はこれらを見るにつけ決して気の大きな人種ではないのですね。だから残忍性が酷いのでしょうか。

    小心だと言うことは例えば小さくて弱そうなモルモットでさえケースに入れた上で長い針の先で突き回して扱わねば不安だとか、そう言う感じでしょうか。

    極端な言い方ですがモルモットに噛まれるのが嫌だとか言う理由で。

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    イザヤ書より











    (41:10のこのみことばはキリスト者に取り大きな励ましのみことばになっているようです)


























    (悪魔の教えに吹き回されているか霊的な束縛にあう人間への言葉かも知れません。)

    (仏像などに帰依する偶像礼拝は打ち滅ぼされるそうです)









    (過去に新聞などの広告で確かに仏的な像を販売する物をよく見ましたが購入者がやはりいるのでしょうか?)


    (今で言われる牧会をしているような方々のことでしょうか。)





    (かすめ奪う者とは加害者のことです。それは神によって起こされているという意味だと思います。人間の背信行為に故に起こされた怒りであります)

    (日本への数十年前より起き続けている得体の知れない不幸な事件の真相とはやはり人間の背信から来ていると思います)

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    イザヤ書より


























    (神様観は人それぞれでしたが自分の場合は得たい知れない恐れるべき存在でした。しかし悟りのないころ創価の洗脳にかかっていたため変な高慢さと自己卑下との狭間にいてとてもしんどい状態でした。)


    (神に顧みられず私は無視されているという考え方もやはり悪魔の吹き込みによる物かも知れません。私はそうでした)




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    イザヤ書より






    (悪人が褒め称えられるような世は今にあると思います。)


    (まるで集ストがしている事みたいですね)