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2008年2月

人間力

イザヤ書:第2章
22)あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。
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上のみことばは神の言葉である聖書に書かれています。
これは何を意味するかというと人間を頼ることを止めよと言っていると思います。
(文字通りですが)
このみことばを思い出し加害者も人であるならばこれは痛烈な戒めであると思います。
加害者の世界は何かと言えば人数を誇ったり連携プレーを誇りますね。
人脈をひけらかす場合もあるようですね。
加害者達は所詮この世のことしか頭にないようです。
拠って神の言葉などは嘲るのでしょう。
しかし今にこの御言葉通りになるときも来るでしょう。
加害者達が今時分誇りまくる人数力も機械力も権力も連携力も、きっと当てに出来なくなるときも来ると思います。
そうなったときは加害者が如何に苦しむのかを見たく思います。


驚くほどに詳細なところにまで干渉し下らぬ刺激を加えて脅かそうとしますね。

これは加害者が如何に重篤チキン連中かを物語っています。

彼らは機械力に頼りすぎて逆に傲りが愚かにさせているのだろう。

機械により頼む内に自己の思考を失ったのだろう。

思考停止でどれ程下劣で幼稚で下らないことをしても未だ自分達の権威を誇示する。

加害者のそう言う姿は本当に人間としては最悪にきついですね。(最悪という意味で)

いつかはその信じがたく愚かな姿が露呈されるときも来るでしょう。

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聖書から人生を考えよう

死後の裁きについて書かれています。

http://www.geocities.jp/jesus_kohituji/

★良心の呵責と神の刑罰

2005-02-06 20:56:38†/† 「死後の二つの行き先」(4)

これは、何十年も前に新聞で報道された事件ですが、ある男が人を殺して、その死体を土に穴を掘って投げ込み、その上にコンクリートを流し込んで長い間、隠していたのですが、良心の呵責に耐えかねて、警察に自首して出たということがありました。彼は、もう一年すれば時効になるはずでしたが、その苦痛に耐えられず、あと一年を待つことができなかったのです。

人間には、罪には必ず刑罰が伴うものであるという意識があるのです。だれが、いつ、刑罰を与えるということは明白には分からなくとも、誰かが、いつかは罰を与えるものであるという考えを取り除くことはできないのです。ですから、彼は被害者の遺族には、罪滅ぼしのために出来るだけの親切を尽くしたのですが、しかし、それによって、完全に良心の呵責はなくならなかったのです。

一体、これはどういうわけでしょうか。その理由は、正しい審判を行う神が存在するからであります。ですから、この神の御前で、自分に罪があると思うとき、心は不安と恐れででいっぱいになるのです。たとえ、他人が「あなたは、親切でいい人です。」と言ってくれたとしても、それによって、神は赦してくれるとは思いませんから、良心の呵責と苦痛は少しも減らないわけです。

また、今から34年も前の1971年7月の新聞に「時効後、真犯人?名乗り」という見出しで、新聞に報じられた記事がありましたが、それは当時大変話題になり、人々を驚かせました。ご年配の方はご記憶にあるかと思います。一人の男が、22年前の殺人の「真犯人は私です」と名乗り出たのです。一方、犯人として判決に従い、懲役15年の服役を終わったNさんは、ずっと、無実を主張し続けて来ました。その真犯人も、やはり長い間、良心の呵責に苦しんでいたのです。

次のみことばは、ユダヤの王ダビデが、姦淫と殺人の罪を犯した時に、苦悶の中で詠んだ告白の歌であります。良心の呵責に苦しむダビデの心中を察することができます。

●「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、(神の)御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」(詩篇32:3,4)。 

これらの事件の事実から、人が罪を犯したとき、その当事者の良心に呵責を与える正義の神がおられることと同時に、人間である裁判の限界を知らされるのであります。シーザーは、「人間というものは、自分の望んでいることを信じたがるものだ。」と言いましたが、その通りだと思います。多くの人々は地獄や死後のさばきの事実があることを信じませんが、彼らは、それを証明したからではなく、「信じたくない」から信じないのであります。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ人への手紙6:7)。 


死がすべての人に襲って来るようにすべての人は、死後において正義なる神の裁判を受けなければならないのです。そして、その行いに応じて裁かれるのです。例えるならば、私たちの行いをすべて神の倉の中に貯えているようなものです。定められたさばきの時(最後の審判)が来ると、各々の倉から全部出されて神の座の前にさらされてさばきを受けるのです。そして、聖書の神は全知全能の神ですから、人の心の奥底まで知り尽くしておられます。神は、あなたの全生涯の行為だけでなく、その動機までも追求されます。神は小さな悪をも見逃さない聖なるお方であります。

最後に、最も大切な歴史的事実を皆様にお伝えしたいのです。それは、私たち罪人(国の法を犯さなくとも、すべての人は神の前に罪人です)の身代わりとなって、十字架上で死んでくださったという事実です。これが、神の福音であります。

●「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコの福音書15:34)。 

このお言葉は、神の御子であるイエス・キリストの十字架上での絶叫です。キリストはあなたや私たちの罪を負って、身代わりにこの恐ろしい神の刑罰を受けられたのです。もし、あなたが、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れるなら、罪と死後のさばきから救われ、神の怒りが下ることはありません。死後の行き先は、二つあります。キリストを信じて罪赦された者は天国で、キリストの福音を拒んで、死んだ人は火の池に入れられるのです。

ある老裁判官が退官する時に、次のように述懐したそうです。「私は今まで多くの人々を裁いて来たが、今度は神の法廷で私がさばかれなければならない。」と。あなたは、どのような状態で生ける神の前に立ち得ますか。キリストを救い主と信じて、キリストを弁護人として立つことのできる人は幸いです。

●「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 」(ローマ人への手紙8:1)。 

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『死がすべての人に襲って来るようにすべての人は、死後において正義なる神の裁判を受けなければならないのです。そして、その行いに応じて裁かれるのです。例えるならば、私たちの行いをすべて神の倉の中に貯えているようなものです。定められたさばきの時(最後の審判)が来ると、各々の倉から全部出されて神の座の前にさらされてさばきを受けるのです。そして、聖書の神は全知全能の神ですから、人の心の奥底まで知り尽くしておられます。神は、あなたの全生涯の行為だけでなく、その動機までも追求されます。神は小さな悪をも見逃さない聖なるお方であります。』

↑これは救いになりますが

加害者達は全てのことを嘲りますね。加害者達の世界にしか理解できないルールに従うせいかもしれませんが、しかし明らかに異常な行為に耽り何も説明せずに嘲り続けます。

加害者達に苦しめられていることは事実であり、此処は日本であり、世の中であり、加害者達は神でも悪魔でも天使でもないし、霊でもないし肉の体を持つ人間だと思います。

それなのに変な機械を持つが故に変に高ぶり思考停止になっているのだろうか。

加害者達は言葉を労さずに身体への嫌がらせにより自己表現します。気味の悪い騒音や意味をなさない音声を繰り返すのです。

それを一日中やり続けています。

これは何を意味するのだろう。

私も苦しみに遭い聖書を読まねばきっと無知のままでした。

真の罪にも気が付かずにいたずらに虚しくこの世のものを貪る生活だったでしょう。

しかし神のご恩調により救われました。

自己の力や思考や理性ではないです。

だから聖書を読むまでは私もきっと動物と同じだったのでしょう。

自己の思いに従ってしか生きることが出来ず、間違った行動を繰り返し、自己憐憫に陥るのです。

しかし聖書に従うようになると奇妙なことに悪魔的嫌がらせが激しくなったようです。

これは何か霊的な影響に関わるのだろうかと思う次第です。

しかし加害者達が如何に悪魔の意志通りのことしかできないようにされているとしても

刑罰を逃れるわけではないと思います。

今に真実が明かされ加害者達の正体も明かされ、各人の意思の有り所も明かされねばいけません。
聖書にはそう書かれています。D960f3f4

←多摩川の土手反対側の風景です。

陽射しがきれいなので写しました。

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聖書から人生を考えよう

人生の晩年について、書かれているメッセージがありました。

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★人生の晩年が来るとき。 2004-11-16「聖書と人生」(12)

北海道の11月は晩秋から冬に向かう頃で、雪が降ったり解けたり、一年中で一番、陰鬱な季節であります。何か人生の晩年を重ね合わせて考えさせられるような、そんな季節でもあります。

さて、私たちの人生にも必ず晩年がやって来ます。若い青春時代はあっという間に過ぎ去ってしまうのです。私にも20代の若い青春時代がありました。30~40代の働き盛りの時代もありました。50代も、瞬く間に過ぎ去りました。そして、今はもう60代前半です。あと、どれだけの人生が残されているのかは、誰にも分かりません。

 どなたの人生にも若くて希望と力に満ち溢れた青春時代があります。しかし、今、自分は若い、まだまだ人生は先が長いのだと思って青春を謳歌している人も、必ず人生の晩年が近づいているという事実があることを、是非、肝に銘じて覚えていただきたいのであります。聖書には次のような聖句があります。

●「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。 太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。」(伝道者の書12:1,2)。

どうか、「何の楽しみもない!」という人生の晩年が来る前に、真の神様(創造者)に立ち返りましょう。そのためには、今から、若いうちに聖書を読み、晩年に備え、また死の問題を解決する必要があります。神に立ち返る道は、決して難しくはありません。すでに、今から約二千年前に、イエス・キリストによって、その道は備えられています。

イエス・キリストは、ご自身のことを次のように紹介されました。このような偉大な力あることばを語られた方はイエス・キリストだけであります。

●「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。だれでも、わたしを通してでなければだれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネの福音書14:6)。

イエス・キリストは、世界中のすべての人々、そしてあなたの個人的な救い主です。どうか、あなたも、聖書を手にしてお読みになってください。人生は出会いで決まるのです。神とイエス・キリストとの出会いこそ、あなたの人生を豊かで実りあるものにするのです。

「聖書から人生を考えよう」

http://www.geocities.jp/jesus_kohituji/

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加害者の中で年を取った方もいますが顔付きを見ると険しかったり捻くれた感じだったりし、本質的に余り幸いそうに思えません。

しかし彼らはそれもまたある種の美しい生き方と思うのか被害者に向かい「苦労知らずの幸せ者」みたいな感じで嫌がらせをするような感じがします。

自分の人生の不都合を他者に擦り付けて被害者面をするのが加害者達の性質のようです

「私がこれ程までに暗い人生なのは全て彼奴のせいだ」と思うことで自己防衛するのです。そして結果的に悪を行うのです。私もそう言う人間だったと思います。

「自分の人生の不幸は彼奴のせいだ」とばかりに言い掛かりを付けやすい存在に対して詰ります。

しかし真に人を裁くのは神様です。神に信頼する者が義として頂けます。

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←梅の木の写真

最近写しました。きれいに写せたのは初めてなので嬉しく思います。

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聖書のみことば

しかし、この事は知っておかねばならない。

終わりに時には、苦難の時代が来る。

その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、

高慢な者、神を誹る者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、

無情な者、融和しない者、誹る者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。テモテⅡ3:1-5

悪人と詐欺師とは人を惑わし人に騙されて、悪から悪へと落ちていく。

テモテⅡ3:13

聖書は全て神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。テモテⅡ3:16

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主は正義を持って世界を裁き、

公平を持って諸々の民を裁かれます。

主はしえたげられた者の砦、

悩みの時の砦です。

御名を知る者はあなたにより頼みます。

主よ、あなたを尋ね求める者を

あなたは捨てられた事がないからです。

詩篇9:8-10

血を流す者に仇を報いられる主は彼らを心に留め、

苦しむ者の叫びをお忘れにならないからです。

詩篇9:12

諸々の国民は自分の作った穴に陥り、

隠し設けた網に自分の足を捕えられる。

主は自らを知らせ、裁きを行われる。

悪しき者は自分の手で作った罠に捕えられる。

悪しき者、また神を忘れる諸々の国民は

陰府へ去って行く。

貧しい者は常に忘れられるのではない。

苦しむ者の望みは永久に滅びるのではない。

主よ、立ち上がってください。

人に勝利を得させず、諸々の国民に、

御前で裁きを受けさせて下さい。

主よ、彼らに恐れを起こさせ、諸々の国民に自分がただ、

人であることを知らせて下さい。詩篇9:15-20

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神のみことばに拠り頼もうとすると、嘲りをぶつける勢力があります。加害者達ですが。

悪魔はもしかすると神よりも自分の教えの方が正しいとかもっともらしく見せる天才かも知れません。

悪魔は神を憎むので神への不信を人間に起こさせるのです。

神に信頼することが如何にもアホらしく馬鹿らしく子供みたいで恥ずかしく惨めで弱い者のすることであるという教えを、悪魔は人間に植え付けます。

創価学会のしていることを見ると明白ですね。

斜に構えた恰好や態度、言葉使い。価値基準や価値観や世界観。

捻くれていてねじ曲がっている性質、人を欺くことしか考えられないような悪質さ。

仲間内以外は全く信用せずに心を開かず敵か味方かで判断することしかできない。

普通の人間もそう言う考えは持ちますが創価の場合は人間に過ぎない存在を主と崇めてその中で外部を敵と見なすのです。

それもその主と言われる人間は悪魔的な人間に過ぎない。

だから的外れも良いところだと思います。

自己防衛から外部の者や或いは神の教えを嘲るのでしょう。

徹底して人を欺くことしかしないのでしょう。F61dd0b5

←多摩川の写真

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箴言:第29章25節
人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。

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上のみことばも、犯罪者集団を恐れて欺きに陥る人間への戒めに思えます。

つまり悪を行っても決して幸いではないことを言っていると思います。

悪魔の罠であります。

悪魔は人間に罪を犯させて地獄に引き連れていくことが目的です。

地獄は決して楽しい場所ではなく永遠に苦しむだけの所だそうです。

犯罪者集団はきっと、悪魔に相当都合の良い嘘でも付かれているのだろう。

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聖書のみことばより

箴言24章12

あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、心をはかる者はそれを悟らないであろうか。あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか。

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上のみことばは、神は人の心の内側までも全て見通す方であると言うことが書かれていると思います。聖書を信じるクリスチャンに取り神に対する自己の心はガラス張りであると言う記述を過去に何かで読みました。

このみことばには集スト問題への解答があると思います。何故なら加害者側には嘘を付いたりシラを切るタイプの人間が多いからです。嘘を付かねば逆にこういう犯罪行為は出来ませんが。

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へブル人への手紙:第4章13

そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。

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全ての物は神の御前に裸であるとは有り難いことですね。嘘や不正は逆に恥を見ることにしかならないと言うことだと思います。

自分自身にも当て嵌まることでしたが。9894afa9

←多摩川の草むら写真

陽が当たりとてもきれいな写真に撮れました。

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詩篇

あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない。

悪人はあなたの元に身を寄せることは出来ない。

高ぶる者はあなたの目の前に立つことは出来ない。

あなたは全て悪を行う者を憎まれる。

あなたは偽りを言う者を滅ぼされる。

主は血を流す者と、人を騙す者とを忌みきらわれる。

詩篇5:4-6

彼らの口には真実が無く、彼らの心には滅びがあり、

その喉は開いた墓、

その舌は諂いを言うのです。

神よ、どうか彼らにその罪を負わせ、

そのはかりごとによって、自ら倒れさせ、

その多くの咎の故に彼らを追い出してください。

彼らはあなたに背いたからです。

詩篇5:9,10

どうか悪しき者の悪を断ち、

正しき者を堅く立たせてください。

義なる神よ、あなたは人の心と思いを調べられます。

わたしを守る盾は神である。

神は心の直き者を救われる。

詩篇7:9-10

見よ、悪しき者は邪悪をはらみ、

害毒を宿し、偽りを生む。

彼は穴を掘って、それを深くし、

自ら作った穴に陥る。

その害毒は自分の頭に帰り、

その強暴は自分の頭に下る。

詩篇7:14-16

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←多摩川の土手の反対側の斜面

陽射しがきれいなので写しました。

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聖書のみことば

朝に読んだ聖書のみことばを書きます。

テモテⅠ2:4,5

神は全ての人が救われて、真理を悟るに至る事を望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者もただ一人であって、それは人なるキリスト・イエスである。

テモテⅠ5:24,25

ある人の罪は明白であって、直ぐ裁判に掛けられるが、他の人の罪は、後になって分かってくる。それと同じく、良いわざもすぐ明らかになり、そうならない場合でも、隠れていることは有り得ない。

テモテⅠ6:7-10

私達は、何一つ持たないでこの世にきた。又、何一つ持たないでこの世を去っていく。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑と、罠とに陥り、又、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしい様々の情欲に陥るのである。金銭を愛することは、全ての悪の根である。ある人々は欲張って金銭を求めたため、信仰から迷いでて、多くの苦痛を持って自分自身を刺し通した。

6:16、17

神はただ一人不死を保ち、近付きがたい光の中に住み、人間の仲で誰も見た者が無く、見ることも出来ない方である。誉れと永遠の支配とが、神にあるように。アーメン。 この世で富んでいる者達に、命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富に望みを置かず、寧ろ、私達に全ての物を豊かに備えて楽しませてくださる神に、望みを置くように。 1d839eb9

←野辺山高原の空です。

空の青さがとても爽やかです。

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山上の垂訓より

マタイの福音書5章

4)悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。








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このみことばは、義のため、迫害などに苦しむ人間には朗報だと思います。

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ヨハネによる福音書:第12章
25)自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。

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この世に置いて自己保身のために悪を行う者が裁きに会うと言うことだと思います。

つまり集ストに自己保身などから加担するような人間は恐らくその報いを受け取ると言うことだと思います。

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ルカの福音書


20)そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。

21)あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。

22)人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。

23)その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。

24)しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。

25)あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。

26)人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。

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聖書にはいろいろなことが書かれていますね。

神は人を全て造られたのですから、迫害などを受けるとき、創造主の責任にしても良くその様なときは幸いだと言うことだと言う意味にも取れます。

しかし本当は信仰を持つが故に迫害されるときに幸いだという意味かも知れません。331be7cc

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←多摩川近くの公園の梅の木です。

梅の木を写したのは初めてではないのですが美しく撮れました。

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地獄についての戒めのみことば

地獄についてのみことば
29)もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
30)もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
9)もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。
43)もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。
47)もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。
45)もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。
ヤコブの手紙:第3章
6)舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。
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以上は大変難しいことを書いてありますが地獄に行きたくなければ罪を犯すことを極力避けるべきであると言うことだと思います。
加害者の犯してしまっている悪とは一体どう考えればいいのでしょうか。
彼らは100パーセント無自覚です。

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聖書のみことばより

「神に復讐を任せる」についてのみことばです。

ローマ人への手紙:第12章

19)愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

へブル人への手紙:第10章

30)「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。

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上のみことばを知るためにクリスチャンと言われる方々は悪人の行いに対して冷淡なところがあるのだと思います。それは信仰の強さからきていると思います。私はまだ信仰が弱いのでしょう。

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「うじ」で検索しました。

イザヤ書:第66章
24)「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。

マルコによる福音書:第9章
44)〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

マルコによる福音書:第9章
46)〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

マルコによる福音書:第9章
48)地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。

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地獄にはうじがいると言うことを繰り返し書いています。と言うことは地獄に行くことは絶対にあってはならず、行かされても決して楽しいところではないことを意味していると思います。

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地獄についてのみことばです。

マタイによる福音書:第10章
28)また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

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これはたとい殺されるようなことがあってもそれよりは裁き主を恐れよと言う意味だと思います。この世の命を失うことよりも恐ろしいことがあると言うことだと思います。

死後の運命を決める権威のある方を恐れよと言うことだと思います。

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裁きについてのみことば

「神の裁き」という意味のあるみことばを検索しました。

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ヨブ記:第34章
23)人がさばきのために神の前に出るとき、神は人のために時を定めておかれない。

ヨブ記:第36章
6)彼は悪しき者を生かしておかれない、苦しむ者のためにさばきを行われる。

詩篇:第一巻 1
5)それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

8)主は正義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれます。

詩篇:第一巻 1
18)みなしごと、しえたげられる者とのためにさばきを行われます。地に属する人は再び人を脅かすことはないでしょう。

9)主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

6)あなたの義は神の山のごとく、あなたのさばきは大きな淵のようだ。主よ、あなたは人と獣とを救われる。

詩篇:第一巻 1
6)天は神の義をあらわす、神はみずから、さばきぬしだからである。〔セラ

11)そして人々は言うであろう、「まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある」と。

4)もろもろの国民を楽しませ、また喜び歌わせてください。あなたは公平をもってもろもろの民をさばき、地の上なるもろもろの国民を導かれるからです。〔セラ

詩篇:第一巻 1
13)主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。97

詩篇:第一巻 1
7)彼はわれらの神、主でいらせられる。そのさばきは全地にある。

詩篇:第一巻 1
75)主よ、わたしはあなたのさばきの正しく、また、あなたが真実をもってわたしを苦しめられたことを知っています。

詩篇:第一巻 1
137)主よ、あなたは正しく、あなたのさばきは正しいのです。

12)わたしは主が苦しむ者の訴えをたすけ、貧しい者のために正しいさばきを行われることを知っています。

29)さばきはあざける者のために備えられ、むちは愚かな者の背のために備えられる。

8)さばきの座にすわる王は/その目をもって、すべての悪をふるいわける。

イザヤ書:第11章
4)正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。

イザヤ書:第66章
16)主は火をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行われる。主に殺される者は多い」。

エレミヤ書:第25章
31)叫びは地の果にまで響きわたる。主が国々と争い、すべての肉なる者をさばき、悪人をつるぎに渡すからであると、主は言われる』。

マタイによる福音書:第7章
2)あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。

ルカによる福音書:第18章
7)まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。

ヨハネによる福音書:第5章
29)善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。

ローマ人への手紙:第2章
5)あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。

4)断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、 「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、 あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」 と書いてあるとおりである。

19)さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。
ローマ人への手紙:第11章
33)ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。

ローマ人への手紙:第14章
10)それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。

コリント人への第2の手紙:第5章
10)なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
テサロニケ人への第2の手紙:第1章
5)これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。

ヤコブの手紙:第2章
13)あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。

ペテロの第2の手紙:第2章
3)彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。

15)それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」。

18)諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました」。

ヨハネの黙示録:第15章
4)主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります」。

7)わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」。

2)そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである」。

ヨハネの黙示録:第20章
13)海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。

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写真は野辺山高原にあった雑草です。夜の時間なので暗くなりました。

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報いについてのみことば

「悪への報い」という意味のみことばを検索しました。

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ヨブ記:第34章 11)神は人のわざにしたがってその身に報い、おのおのの道にしたがって、その身に振りかからせられる。

詩篇:第一巻 1
12)血を流す者にあだを報いられる主は彼らを心にとめ、苦しむ者の叫びをお忘れにならないからです。

詩篇:第一巻 1
11)そして人々は言うであろう、「まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある」と。

詩篇:第一巻 1
12)主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって報いられるからである。

詩篇:第一巻 1
8)あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。

詩篇:第一巻 1
23)主は彼らの不義を彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。われらの神、主は彼らを滅ぼされます。

箴言:第13章
13)み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。

箴言:第24章
12)あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、心をはかる者はそれを悟らないであろうか。あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか。

箴言:第13章
21)災は罪びとを追い、正しい者は良い報いを受ける。

箴言:第17章
13)悪をもて善に報いる者は、悪がその家を離れることがない。

箴言:第20章
22)「わたしが悪に報いる」と言ってはならない、主を待ち望め、主はあなたを助けられる。

詩篇:第一巻 1
23)すべての聖徒よ、主を愛せよ。主は真実な者を守られるが、おごりふるまう者にはしたたかに報いられる。

箴言:第24章
20)悪しき者には後の良い報いはない、よこしまな者のともしびは消される。

イザヤ書:第3章
11)悪しき者はわざわいだ、彼は災をうける。その手のなした事が彼に報いられるからである。

イザヤ書:第47章
3)あなたの裸はあらわれ、あなたの恥は見られる。わたしはあだを報いて、何人をも助けない。

エレミヤ書:第17章
10)「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。

エレミヤ書:第32章
19)あなたの計りごとは大きく、また、事を行うのに力があり、あなたの目は人々の歩むすべての道を見て、おのおのの道にしたがい、その行いの実によってこれに報いられます。

旧約聖書:オバデヤ書
15)主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。

ローマ人への手紙:第2章
6)神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。

コリント人への第2の手紙:第5章
10)なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

コロサイ人への手紙:第3章
25)不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。

テサロニケ人への第2の手紙:第1章
6)すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。

ヨハネの黙示録:第21章
8)しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。

ヨハネの黙示録:第22章
12)「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。

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加害者への報い

加害者は基本的には被害者を監視している。昔の漫画にも良く「モニタ画面を見て悦に入る人間」の絵があったが、これが参考になるかも知れません。つまりモニタ画面などで他者を監視している内に言われ無き優越意識の固まりになるのでしょうか。

「私らは何でも知っている。お前のあれもこれも見ているのだからな」などの下劣な世界観における優越感です。

被害者から見ると付きまといや茶番に現れる加害者は単なる異常者に見えるのですが加害者から見ると「私らは何でも知ってんだかんな」とでも言いたいのでしょう。 そこに両者の病的な乖離があると思います。

加害者が自らの陥った罠に捉えられ、苦しみに陥る日は来るでしょう。聖書にはその様なみことばがあります。 加害者達は所詮は悪魔の甘言に騙されて悪を行うことの奴隷になっているだけだからです。 62a2ab93

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偶像礼拝の罪

偶像礼拝からの解放

http://www5.ocn.ne.jp/~ikemoto7/guozureihaitohananika.htm

偶像礼拝から神への讃美に

http://www5b.biglobe.ne.jp/~baptist/roma5.htm

偶像礼拝を避けなさい

http://www.t3.rim.or.jp/~KYAMADA1/corint27.htm

このサイトでは、偶像礼拝の罪について、聖書のみことば(ホセア書)から

説明されています。

http://www.page.sannet.ne.jp/tcchp/kyuyaku/hosea.htm

偶像崇拝の罪

http://www.geocities.jp/jesus_kohituji/message06_09/message2006_0913.htm

神様との出会いの証しです。証:「本当の神様との出会い」

http://www.h2.dion.ne.jp/~nahaefc/akasi/akasi_agdani.html

聖書のホセア書を通して人間の偶像礼拝と神の怒りについて書かれています。

http://www.aquila-priscilla.com/Hosea/8.htm

以下のサイトでは、ダビデを殺そうとしたサウル王という人間を通して

人間が悪霊に影響を受けるとどうなるかと言うことが書かれています。

http://www.kingdomfellowship.com/Characters/Saul.html

以下のサイトには、「日本人の罪」と題して、偶像礼拝の罪について書かれています。

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2006msg/060709.html

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今の日本の災いは、「偶像礼拝」の酷さから来ていると思いました。

神様は偶像礼拝の罪を最も忌み嫌うそうです。真の神様は聖書に書かれているのです。

聖書には神様からの戒めと導きの言葉と、偶像礼拝を忌み嫌われると言う意味のみことばが書かれています。2e568430

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多摩川の河川の眺め

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イザヤ書

聖書には、苦しみに遭う方々が救われるようなみことばが多く書かれています。
イザヤ書28章








5ef92bb9 ーーーーーーーーーー

>ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」。

これは、加害者達が何時も見えない隠れた場所より悪を行い、高ぶることが打ち砕かれることを意味しているように思います。

>それゆえ、あなたがたはあざけってはならない。さもないと、あなたがたのなわめは、きびしくなる。

これは嘲りが酷いほど後の苦しみが酷くなると言う意味かも知れません。

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イザヤ書第51章

1)「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。

2)あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラとを思いみよ。わたしは彼をただひとりであったときに召し、彼を祝福して、その子孫を増し加えた。

3)主はシオンを慰め、またそのすべて荒れた所を慰めて、その荒野をエデンのように、そのさばくを主の園のようにされる。こうして、その中に喜びと楽しみとがあり、感謝と歌の声とがある。

4)わが民よ、わたしに聞け、わが国びとよ、わたしに耳を傾けよ。律法はわたしから出、わが道はもろもろの民の光となる。

5)わが義はすみやかに近づき、わが救は出て行った。わが腕はもろもろの民を治める。海沿いの国々はわたしを待ち望み、わが腕に寄り頼む。

6)目をあげて天を見、また下なる地を見よ。天は煙のように消え、地は衣のようにふるび、その中に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わが救はとこしえにながらえ、わが義はくじけることがない。

7)義を知る者よ、心のうちにわが律法をたもつ者よ、わたしに聞け。人のそしりを恐れてはならない、彼らのののしりに驚いてはならない。

8)彼らは衣のように、しみに食われ、羊の毛のように虫に食われるからだ。しかし、わが義はとこしえにながらえ、わが救はよろず代に及ぶ」。

9)主のかいなよ、さめよ、さめよ、力を着よ。さめて、いにしえの日、昔の代にあったようになれ。ラハブを切り殺し、龍を刺し貫いたのは、あなたではなかったか。

10)海をかわかし、大いなる淵の水をかわかし、また海の深き所を、あがなわれた者の過ぎる道とされたのは、あなたではなかったか。

11)主にあがなわれた者は、歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、そのこうべに、とこしえの喜びをいただき、彼らは喜びと楽しみとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。

12)「わたしこそあなたを慰める者だ。あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、草のようになるべき人の子を恐れるのか。

13)天をのべ、地の基をすえられたあなたの造り主、主を忘れて、なぜ、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、その憤りのゆえに常にひねもす恐れるのか。しえたげる者の憤りはどこにあるか。

14)身をかがめている捕われ人は、すみやかに解かれて、死ぬことなく、穴にくだることなく、その食物はつきることがない。

15)わたしは海をふるわせ、その波をなりどよめかすあなたの神、主である。その名を万軍の主という。

16)わたしはわが言葉をあなたの口におき、わが手の陰にあなたを隠した。こうして、わたしは天をのべ、地の基をすえ、シオンにむかって、あなたはわが民であると言う」。

17)エルサレムよ、起きよ、起きよ、立て。あなたはさきに主の手から憤りの杯をうけて飲み、よろめかす大杯を、滓までも飲みほした。

18)その産んだもろもろの子のなかに、自分を導く者なく、その育てたもろもろの子のなかに、自分の手をとる者がない。

19)これら二つの事があなたに臨んだ――だれがあなたと共に嘆くだろうか――荒廃と滅亡、ききんとつるぎ。だれがあなたを慰めるだろうか。

20)あなたの子らは息絶えだえになり、網にかかった、かもしかのように、すべてのちまたのすみに横たわり、主の憤りと、あなたの神の責めとは、彼らに満ちている。

21)それゆえ、苦しめる者、酒にではなく酔っている者よ、これを聞け。

22)あなたの主、おのが民の訴えを弁護されるあなたの神、主はこう言われる、「見よ、わたしはよろめかす杯をあなたの手から取り除き、わが憤りの大杯を取り除いた。あなたは再びこれを飲むことはない。

23)わたしはこれをあなたを悩ます者の手におく。彼らはさきにあなたにむかって言った、『身をかがめよ、われわれは越えていこう』と。そしてあなたはその背を地のようにし、ちまたのようにして、彼らの越えていくにまかせた」。

ーーーーーーーーーー

この箇所には神様から人間への慰めのメッセージがあると思います。

虐げにあう人間に対して「恐れるな」と言っているのだと思います。

心の内側に神の戒めを持つ人間への励ましだと思います。

最後のみことばは、神の怒りの大杯が虐げる側に与えられることを意味すると思います。

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イザヤ書29章

15)わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、「だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか」と言う。

16)あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。

ーーーーーーーーーー

このみことばは、神がいないと思う中でわざを行い「誰にも知られていない」と思い込む人間達への戒めだと思います。神は全てを見ておられるという意味だと思います。

加害者達は人間の当たり前の生活や行動までも、変な方法で絡みついてきて妨害し、制御しますね。

そして自分達にとり常に都合良く振る舞うように、感じ取るようにと、希望をしてきます。

少なくともこういう類の嫌がらせに苦しみました。

相手に虐げに遭いつつ此方が悪いことでもしているかみたく印象づけをされました。

それが加害者達のやり方の基本かも知れません。

相手は被害者に言われ無き罪悪感を味合わせ続けることで何故か自己を正当化すると言うことを繰り返します。

これで内臓が悪くなる被害者が多いかも知れません。分かりませんが。

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イザヤ書

イザヤ書第47章

1)処女なるバビロンの娘よ、下って、ちりの中にすわれ。カルデヤびとの娘よ、王座のない地にすわれ。あなたはもはや、やさしく、たおやかな女ととなえられることはない。













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上のみことばはまるで加害者のことを言っているようですね。

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神の被造物

申命記:第10章

14)見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。

詩篇:第一巻 1

1)地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。


わたしは近くにいれば、神なのか。・・・遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。・・・天にも地にも、わたしは満ちているではないか。―主の御告げ― エレミヤ書23:23‐24

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今日の昼間に多摩川に行きましたが、川の近くの石の上に腰を下ろしていると、周囲の景色が目に入り、神のみわざを覚えました。

過去にはそう言うことは全く考えられず、ただただこの世のことにのみ、心奪われた状態でした。

「明日の予定はどうだろうか、帰ったら何か食べようか、カロリーはどうしようか、体重はどうだろうか、親はどうだろうか、あの人との関係はどうなるのだろうか、洋服などはどうしようか、家の鍵やガスは大丈夫か、服を洗濯しなければ、美容室に行かねば、便箋買わねば、・・・・」

等かも知れません。

いやがらせにあってからはひたすらネット情報に心奪われそれも又平安がありませんでした。

多摩川での周囲の景色を見ると、空や川や水面の光や石の集合や、鳥たちや雑草や遠くの山々など、全てを神が造られたと言うことを思い、孤独が癒されました。

風や雪や雨や花々などもそうですね。

こう考えると神は常に人間と共にいて下さるのです。

孤独感で苦しむ方はこう考えると慰めがあります。

ーーーーーーーーーー

6477d3e「あの人との関係はどうなるのだろうか」
と言う言葉に「気色の悪さ」を覚えた方はすみません。
実は神経症的に周囲の人間に対して幼児的依存心を持ち合わせていたために常に誰かの評価を仰ぐとか自己満足を満たすために他者に絡むとかその一方で人の顔色をうかがうとか、或いは欺瞞の多い性質だったので人の陰口を気に病むとか、そう言う意味で気になるという意味だと思います。

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テサロニケⅠ

今朝読んだ聖書箇所です。

テサロニケⅠ1章

4)神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。

10)そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。

4章


5章




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「あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る」
で検索しました。
終末を迎えるにあたっての現在の生き方
http://asanokitokai.blog28.fc2.com/blog-category-7.html
世の終わりに良い麦と毒麦が分けられる
イエスを仰ぎ見て
終わりの日の報い
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隠されたこと

以下のみことばは、隠されている悪に関する事にも対応しています。

ルカによる福音書:第12章
2)おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。

マルコによる福音書:第4章
22)なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。

17)隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。

ーーーーーーーーーーーーーー

(あるサイトの記述より)

「隠されているもので、あらわにならないものはなく、
秘密にされているもので、ついには知られ、
明るみに出されないものはない。」ルカ8:17

 秘密が人に知られないようにと隠します。
確かに、人の目や耳に届かないようにすることはできますが、
神様の目には全てがあらわになっています。

人に知られていないから安心と思うのは、「頭隠して尻隠さず」の類で、
神様には何一つ隠し事はできません。
また、人に知られるくらいは大したことではありませんが、
神様に知られていることのほうが重大です。

ーーーーーーーーーーーーー

日々の聖言
2008年01月05日 10時20分 発行

「おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。」ルカ12:2 昨年は隠された虚偽がつぎつぎと明らかになった年でした。誰も見ていないから、分からないだろうと、やっていたことが知られてくるのです。神様は決していいかげんにすませる方ではありません。隠れたことを見ておられるばかりでなく、人の心の中まで知っておられます。そのような神様を自覚しながら生きるものとなってください。神様の目をごまかすことはできません。
ーーーーーーーーーーーー

おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもの
  で、知られてこないものはない。

いくら表面を取り繕っても、神には隠すことができない、ということです。
完全犯罪というのは、人間の世界にはあるいは、あるかも知れません。
私が学生の頃3億円事件というのがあり、当時の世間をにぎわせました。
もう30年近く経ちますが、未だに犯人は分かっていません。
あれなどは、完全犯罪というのかも知れません。
しかし人間の目には見えないかも知れませんが、神の目には見えているので
す。
ですから、あの3億円事件の犯人も、きっと安らかな気持ちではないと思い
ます。
神の目には、完全犯罪ということはあり得ないのです。

ーーーーーーーーーーーーーー

日々の聖言
2005年09月18日 05時40分 発行

「おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。」ルカ12:2 「悪事千里を走る」と言われるように、隠れてしたことでも、すぐに知れ渡ってしまうものです。ましてや、神様の前にはどんなことをしても、隠し立てはできません。完全犯罪と言われることでも、やがて(何十年先であるかわかりませんが)、明るみに出されます。すべてをご存知である神様の前に立っていることを自覚しておきましょう。

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へブル4章

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コロサイ人への手紙より

コロサイ1章

コロサイ1章

21)あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。

コロサイ2章
以下のサイトには、箴言についての解説があります。箴言には勧善懲悪についてのみことばが多く書かれています。

http://www.8008amen.com/bible/shingen.html

コロサイ2章

8)あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。

9)キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、

10)そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、

15)そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

18)あなたがたはわざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、

19)キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。

20)もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、

21)「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。

22)これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。

23)これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。

コロサイ第3章

1)このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

2)あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。

3)あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。

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キリスト教の情報

「キリスト」で検索したら、この様なサイトが見つかりました。日本全国の面白い祭りを紹介しています。本当に日本だろうか?と思うような珍奇な内容です。 http://www.sugikoto.com/index.htm

キリストの墓があるという地方での「キリスト祭り」もあるそうです。面白いですね。聖書と日本はきっと関わりが深いのですね。 後このサイトを見て思うことは「日本人は恐らく性に関しては相当に大らかというか鷹揚だったのではないかと言うことです。それが何時しか下品になったというか陰湿化したというか表向き恰好付けて陰湿に人を辱めるような精神文化が蔓延したのだと思います。そしてそれをしたのは在日創価ではないかと思います。日本には本当に奇妙な謎が多いですね。驚きます。 日本人は何でも暗く捉えずに上品なユーモアでくるむような性質があるのかも知れません。今はそれがはぎ取られているのだと思います。暗さが覆っているようですね。

加害者達の性質は明るさがなく残忍で非人間的でしかないと言うことです。
何とかハンターみたいに、人間を追い回しているのですから、救いがたいです。
人間が丁度、虫などを標本化するような残酷さと通じる物がありますね。

キリストの墓の写真が載っているサイトがありました。
青森県戸来だそうです。しかしこれは有名だそうですね。
http://bekkan.web.infoseek.co.jp/77kirisuto/kirisuto.htm#koko

これもそうみたいです。行くのであればこういうところに行ってみたいです。
伊勢神宮の謎と言い日本には聖書と関わりが深い所が多いのですね。
祭りの多さにも何か不可思議な物を覚えます。
http://www2.odn.ne.jp/jo-d/Kirisuto.html
祭りというのは元々、キリストの受難のことなのでしょうか。
それで昔からそれを「祀る」という意味で行われるのでしょうか。
よく分かりませんが。

このサイトでも、キリストの墓の説明がありました。
青森県の戸来という土地だそうです。
これはヘブライと似ているために余り偶然だとも思えず、
やはり聖書ゆかりの土地かも知れません。
日本人のキリストの祀り方は面白いですね。
http://www.actv.ne.jp/~yappi/mystery/001-christ's%20tomb.htm

日本人の先祖がキリストを殺したのは事実ですよね。
日本の風習か知りませんが「呪いのわら人形」は、十字架刑がモデルかも知れません。
聖書にも「木に掛けられる者は、呪われる」とあるそうです。
何だか解明しがたい謎ですね。
将来全てのことが明らかになればいいですね。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88&ei=UTF-8&qrw=0&pstart=1&fr=slv1-&b=51
先のリンク先が駄目だったのでYahoo!の検索結果の方を載せてみます。

キリスト教質問箱です。いろいろな質問が載っています。
http://www.save.or.jp/question/faq.html

思うに日本人にキリスト教が広まらない理由は単に歴史上の虐殺や迫害の知識だけではなくて
血生臭いイメージや自分達の先祖が殺したのがその救い主であることかも知れません。
それで何処か生理的に拒絶したい何かがあるのだと思います。

日本人が親しみを覚えるのは仏教のように無味乾燥で超然とした神のイメージかも知れない。
日本人が「白く塗られた墓」と言われる「パリサイ人」みたいになったのは多分
そう言う先祖が犯した血生臭い罪を覆い隠すためかも知れません。
憶測ですが。

キリスト教の神つまり、聖書の神様は、何と人となり生まれてきた上に
人間達と話をしたり演説したり地上で奇跡を起こしたり終いには処刑されているのですから
これ程荒唐無稽な神様もいないという気もします。
だから何処か嘘くさい感じがして馴染めないのでしょう。
おまけにメディアが造り出した余計なイメージが強烈なために余計です。
私もそう言う点で、もの凄い抵抗を覚えていました。
何だか真面目に信仰する人達が馬鹿馬鹿しいことをいているだけに思えて仕方がなかったのです。

しかし聖書には「神は宣教の愚かさを通して信じる者を救おうと定められた」と書かれています。
つまり今の世では「悪魔の造り出した教えつまり偶像礼拝」の方が真実味があるのでしょう。
悪魔は人間よりも知恵も力もあるために人間を唆して偽りに導いたり、罪を犯させるそうです。

「宣教の愚かさ」についてのみことばです。

コリント人への第1の手紙:第一章
21)この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。
それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、
信じる者を救うこととされたのである。
コリント人への第1の手紙:第二章
4)そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、
霊と力との証明によったのである。

4節のみことばはどういう意味かよく分かりませんが巧みな言葉での宣教ではないという意味ですね。
霊的な導きや恵みがあったと言うことを証しするのでしょうか。

青森県のキリストの墓がある土地の村のHPです。
キリストの墓の写真があり雪景色なのできれいです。
http://www.net.pref.aomori.jp/shingo/index.html

これは、札幌の美術館にあるそうですキリストの顔の彫刻です。
とても独創的ですね。
これらの情報を見るにつけ、日本人がまともに受難のドラマをビジュアル化したら
とても面白そうですね。
私はどうも西洋風の味付けのあるキリスト教はどう考えても信仰の役には立ちそうもありませんでした。
http://www.welcome.city.sapporo.jp/feature/hongo/hinshi.html

ああ言う物を見ているといたずらに「肉の思い」だけが増幅していきそうです。
メディアとは、そう言う代物かも知れません。
そう言った意味で躓きが与えられるように出来ている気もします。
キリスト教の信仰は躓きだらけですね。不思議です。

下のリンク先にはキリスト教についての分かりやすい解説があります。
イエスキリストの偉大さについて、分かりやすい説明があります。
http://gifukyokai.or.tv/page/seisho01.html

みことばの花束
このサイトではみことばを用途別に素敵な絵とともに紹介しています。
夢のようにきれいなページです。
http://hccweb1.bai.ne.jp/kura/miko/framepage1.htm

以下のサイトには「キリストの変容」という絵がありますが
この絵のキリストはとても太目ですね。
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/raphael_trasfigurazione.html

キリストは人間として生まれたが為に人間に様々な書き方をされているようですね。
それは余りにも多くの数があるようです。
そして人間的な解釈により本を書かれたり映画になったりしているようです。
被害者がメディアにいろいろと表現されて仄めかし攻撃されるのと少し似ていますね。

ましてやキリストは神であるのにそう言う目に遭っているのです。
だから人間に過ぎない私達があう艱難は余り気にしても仕方がない物かも知れません。
これも考え方次第ですが。

日本はキリストの誕生日を、ただのお祭り騒ぎにしたり少し前には恋人との逢い引きに利用したり
ケーキやプレゼント商戦に利用したり
結婚式にだけ教会を用いたり十字架をただのアクセサリーにしていたりと
割と罪深いことをしてきていますね。
それで都合よく利用する一方で神を否定したり偶像礼拝に熱心だったりと
神から見ると余りにも愚かなのかも知れません。
少し前にそう言うことを考えました。

このサイトも面白いです。
日本人のキリスト教表現力はユニークですね。
このサイトでは或る意味否定的ですが。キリスト教には。
http://bluedragon.pos.to/kanban/paper/paper-index.html

今時分のきれいに建てられた教会の建物や儀式と此方の物とでは
どちらが正しいのだろうかと正直思ってしまいます。
別にどちらも正しいと思いますが。

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虐げる者

http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS3059.htm
「虐げる者」で検索しました。
虐げに遭う人間への聖書的なメッセージがあります。806431bb_2

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礼拝メッセージ

思い煩いからの解放について書かれています。

ーーーーーーーーーー

【主日礼拝メッセ-ジ要約】  

        http://members.aol.com/sengawax1/m020623.html          

 2002年6月23日

「あなたの重荷を主にゆだねよ」
詩編55編23節
あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。
   主は 従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。

 

 詩人が住む町は邪悪です。彼は敵対する者の脅迫と虐げに苦しんでいます。更には親しい友の裏切りです。ショックの余り心は絶望の淵に突き落とされてしまいました。無心に飛び交う鳩を見て、「自分にも翼があったら、どこか静かな山の中で平和に暮らしたい」と考え、同時に裏切った友に対する怒りがこみ上げて、藁(わら)人形を柱に打ち込むような呪いの祈りが口をついて出ます。結果的にはそれが良かったのです。呪いの祈りが良かったというのではありません。主なる神の御前に出たことが良かったのです。「あんな裏切り者はもう友と思いたくありません。生きながら地獄の底に突き落として下さい」と激しい怒りをもって神に訴えましたが、その内に彼の心は不思議に平安にされて行くのです。祈りの部屋に入る道を選んだことによって、神は彼の逃れ場になって下さいました。復讐という手段に訴えること、現実から逃避する道を選ぶことも、それは本当の逃れ場ではないと知りました。彼が発見した本当の逃れ場は神の懐(ふところ)でした。現実から逃げることや復讐の爪を研ぐことではなく、苦しい現実を率直に神に訴えている内に、神は彼の心に静かに語りかけて下さいました。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。」と。

 「『あなたの重荷を主に委ねよ』、自分でこれを負おうとするな。自分でこれを負おうとする為に耐え難い苦痛となる。これを主にゆだねよ。彼はたやすくこれを担うことが出来るのだ。そしてあなたの重荷をあなたに代わって担って下さるだけでなく、重荷と共にあなた自身をも担って下さり、あなたの心に平安を与えて下さるのだ。…」(内村鑑三著『一日一章』より。原文は文語体)

 私たちにとって重荷は悪しき者の迫害、友人の裏切りだけではありません。私自身の内にある恨み、赦せないと言う心、復讐したいという思いも実は重荷なのです。被害者もそう言う罪を犯すのです。その重荷がずしっと私たちの心にのしかかってきます。だから主イエス・キリストは十字架の上から私たちを招いて言われるのです。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と。

 


【主日礼拝メッセ-ジ】                            

2002年6月23日

「あなたの重荷を主にゆだねよ」
詩編55編23節
あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。
   主は 従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。
 

 

 今年度の「宣教・牧会方針」でも触れたことですが、教会がインターネット・ホームページを通しての伝道を開始して約2年になりますが、その間多くの人が礼拝メッセ-ジや交流の広場などにアクセスして下さいました。中には個人的な相談事で、深刻な内容のものも少なくありません。職場でのいじめやセクハラの問題。教師として、生徒として、また親として学校で起こる様々な問題。夫婦間の問題。親子の問題。教会生活の悩み等々、広い範囲の相談事を目の当たりにして、本当にこの国は病んでいると思わずにいられません。私に寄せられる悩みを一言でいうと、人間の基本である「愛」と「命」に飢え、且つ渇いている人々が圧倒的に多いという現実です。

 小泉政権は「骨太の改革」をモットーに、色々な法案を国会に上程し、またさまざまな施策を講じていますが、国民の実態は肉も皮も筋も骨も、そして魂までもがやせ衰える一方の改革案に悲鳴を上げているのです。その解決を永田町ではなく、霞ヶ関にでもなく、仙川にある小さな教会の一牧師に求めてこられるのです。勿論私はその殆どに気の利いた答えを提供することもできず、耳を傾けて聴く(読む)しかできません。そして時折聖書を通して語られる神さまのみ言葉を紹介するだけです。実際、彼らは私の答えなどに期待しているのではなく、「この場合聖書は何と言っているのか、聖書の神はどうしろと仰っているのか」、それを聴きたがっているのだと感じるからです。彼らはこの世のもの、また軽々しい人間の言葉に失望して、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と言うみ言葉の通り、神を求める思いが無意識に働いているのではと想像できるのです。

 

 今朝、私たちに与えられた詩第55編の詩人は都会人です。彼は首都エルサレムの住民の1人でしたが、しかし彼の住む町は邪悪に満ちています。敵対する者の脅迫と虐げに苦しんでいます。それ以上に彼を苦しめているのは親しい友の裏切りです。かつてその友は一緒に主の宮に上って礼拝を献げた信仰仲間でした。余りのショックに彼の心はずたずたに引き裂かれ、絶望の淵に突き落とされてしまいました。その時目の前を無心に飛び交う鳩を見て、「自分にも翼があったら、どこか静かな山の中で平和に余生を送りたいのだが」と考えました。かと思うと、裏切った友に対する怒りがこみ上げてきて、藁(わら)人形を柱に打ち込むような呪いの祈りが口をついて出ます。

 結果的にはそれが良かったのです。呪いの祈りが良かったというのではありません。どのような言葉でもとにかく彼は苦しい現実から逃れて隠遁生活に入ろうとする前に主なる神の御前に出たと言うことが良かったのです。「あんな裏切り者はもう友人と思いたくありません。お願いです。どうか、生きながら地獄に突き落としてください。」と激しい怒りをもって神に訴えました。しかしそうする内に彼の心は不思議に平安にされて行くのです。もし、彼が祈ることを忘れて復讐のために立ち上がったなら、彼の心は益々苦しくなったことでしょう。平安は得られなかったでしょう。どう言う形であれ、祈りの部屋に入る道を選んだことによって、神は彼の逃れ場になって下さいました。復讐という手段に訴えることも、現実から逃避する道を選ぶことも、それは本当の逃れ場ではないということを、彼は祈り続けることの中で知りました。彼が発見した本当の逃れ場は神の懐(ふところ)でした。現実から逃げることや復讐の爪を研ぐことではなく、苦しい現実を率直に神に訴えている内に、神は彼の心に静かに語りかけて下さいました。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。」と。

そこで私たちはこのみ言葉から二つの新約聖書のみ言葉が真理であることを教えられます。

 一つは・テサロニケ5:16-19です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはなりません。」と言うみ言葉です。

 「喜び」と「感謝」の間に「祈り」が位置されていることに注意してください。このご時世です。いつも喜ぶことは難しいことです。まして感謝することなど不可能です。でも、祈ることは出来ます。この詩人のように最初、激しい言葉で神に訴えました。でも、神はそれさえも祈りとして受け入れて下さいました。そして彼の心を静めて本当の祈りへと導いて下さいました。上品な言葉を並べ、美しい言い回しが出来なくても良いのです。祈りの内容は日常のことを訴えるのですから、日常的な言葉で祈って良いのです。「とにかく祈れ」、これが聖書を通して神が私たちに求めておられることです。・テサロニケ5:19に「霊の火を消してはならない」と言われています。「霊」とは聖霊です。聖霊は私たちを祈りへと導いて下さる灯です。霊の火を消してはならないとは、祈りへと導いて下さる神の愛の働きかけを否定してはならないと言う意味です。喜べないことを祈る内に、こんな私たちでも祈って良いのかという喜びが沸いてきます。祈っている内に、こんな私の身勝手な祈りにさえ耳を傾けて下さる神に感謝したくなるのです。

 二つ目のみ言葉はマタイ11:28の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というみ言葉です。内村鑑三先生の一日一章の中で、詩編55:23について、「『あなたの重荷を主に委ねよ』、自分でこれを負おうとしてはならない。自分でこれを負おうとするために耐え難い苦痛となる。これを主にゆだねよ。彼はたやすくこれを担うことが出来るのだ。そしてあなたの重荷をあなたに代わって担って下さるだけでなく、重荷と共にあなた自身をも担って下さり、あなたの心に平安を与えて下さるのだ。…」(原文は文語体なので、口語体に改めて書き写しましたが、不正確なところがあったら、その責任は全て私=高橋にあります。)

 詩人は祈っている内に自分の心が軽くなるのを自覚した経験から、読者の私たちに、「主はあなたを支えて下さる」と、感謝の証をしています。内村先生の言葉を借りて言うなら、主は心にのしかかっていた色々な重荷に喘いでいる詩人の祈りに耳を傾けながら、いつの間にか、その重荷を取り去るだけでなく、重荷に打ちひしがれている詩人毎担っていて下さっていることを悟らされたのです。主は言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と。詩編55:23で詩人の重荷を詩人毎担って下さっていたのは、主イエス・キリストです。

 これまでHPを通して悩みを寄せてこられた方々、そして今朝この礼拝においでになったあなた、あなたは既に主イエス・キリストに担われている1人であることに気が付きましたか?あなたは孤独ではありません。主があなたと共にいて下さるからです。あなたの重荷はどこで下ろされたか教えて上げましょう。それは十字架の上にです。私たちにとって重荷は悪しき者の迫害、友人の裏切りだけではありません。私たち自身の内にある恨み、赦せない心、復讐したいという思いも実は重荷なのです。被害者もそう言う罪を犯すのです。その重荷がずしっと私たちの心にのしかかってきます。だから主イエス・キリストは十字架の上から私たちを招いて言われるのです。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と。

十字架のイエス・キリストがあなたの重荷をあなた毎担って下さったから、あなたはもう自由なのです。これからの生涯を主イエス・キリストと共に歩めるのです。何と幸いなことでしょう。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

私たちは今朝、1人の詩人のお祈りを通して、私たちの人生は決して孤独でも、絶望的でもないことを知りました。あなたがいつも私たちに寄り添い、私たちの苦悩を知り、「その重荷をわたしの所に持ってきなさい。先ず祈りなさい。わたしが聞いて上げる。そしてわたしがその重荷をあなたに代わって担って上げよう、いや、あなたを担ってあげよう」と語りかけて下さいます。主よ、感謝します。私たちは今、信仰をもってあなたの下に私自身を明け渡します。どうか十字架の血潮をもって私たちを清め、そして私たちの生涯をあなたの導きのままに歩ませて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

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みだりに他人に干渉する者

「みだりに他人に干渉する者として苦しみを受ける」と言うみことばで、検索しました。

http://www.naganobbc.org/site/modules/news/print.php?storyid=26

「義のために迫害されている者」

マタイの福音書5:10-12   

       「義のために迫害されている者」    

 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイの福音書5:10)
                              
 幸いな者の最後(第8)は「義のために迫害されている者」です。11,12節には、さらに迫害についての内容が展開されているのを見ます。

 主は単には「迫害されている者は幸いです」、とは言われませんでした。どのような理由で不当な扱いを受け、苦しむのかが問われます。聖書には「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。」(Ⅰペテロ4:15)また「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。」(Ⅰペテロ2:20)とあります。反社会的な犯罪に手を染め、非常識な言動を繰り返し、それをあたかも自分たちの信仰に対する迫害だと考えている人々がいます。それは迫害ではありません。当然受けなければならない批判に過ぎません。

 主は迫害の理由を「義のために」、「わたしのために」と言われました。言い換えるならば、自分の罪や失敗のためでもなく、またある政治的信念のためにでもなく、神の御心を行っているために、またキリストを信じる信仰ゆえに不当な苦しみを受けているなら、ということです。そして12節では、迫害を「喜びなさい。喜びおどりなさい」とさえ勧めています。「喜びおどりなさい」とは、とても強い喜びを表現したことばです。

 誰でもあえて人から苦しめられたり、憎まれたりしたい願う人はいないでしょう。しかし、主はキリスト者がその信仰の故に「ののしられリ」、「悪口雑言を言われたり」することを予期させています。主ご自身、どんなに大きな迫害を耐え忍ばれたことでしょう。パウロは「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(Ⅱテモテ3:12)と語っています。聖書は現実を隠そうとはしません。良いことばかりを約束するものではありません。しかし、主は先に迫害された預言者たちのことを例に取り、決してあなたがた一人ではないことを思い起こさせて、励ましておられます。

 迫害を耐え忍ぶ者に対する主の約束は、「御国」です。このことばは、幸いな者の第1の「心の貧しい者」にも約束されていました。幸いな者の第2から第7までの約束、すなわち「慰められる」「地を相続する」「満ち足りる」「あわれみを受ける」「神を見る」「神の子と呼ばれる」は、最終的にはすべて、神とともに過ごす「御国」において実現するものなのです。

 主はまた、迫害を喜ぶ者に天における大きな報いを約束しています(12節)。この地上において多くの報いを期待することはできないとしても、天において大きな確かな報いが約束されていることを覚えて、「悪に悪を」もってではなく、「善をもって」歩んでいきましょう(ローマ12:17,21)。

ーーーーーーーーーーーーー

迫害されている者は幸いだというのですが、実際的には加害者達の行為の猥褻性のきつさに虫酸が走り叫ぶことが多いのが現状です。

心理工作のきつさというか微細なる感性を駆使した上で悪を正当化して来るというかそう言う感じです。

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罪の問題

罪の片棒かつぎ

http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS3055.htm

「また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません」。――Iテモ5:22

ーーーーーーーーーーー

上のサイトには、集スト被害と合致する罪の問題も書かれているようですので、良かったら読んでみてください。

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メッセージ「怒りについて」

「怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。」

で検索しました。
ーーーーーーーーーーーーー
なぜ人々に怒るのですか?…怒りの定義
http://www2u.biglobe.ne.jp/~church/message_no074.html
◆怒りを学習する…親・生活環境
自分自身を怒らせるのです。自分自身が怒りを選択するのです。
誰かが貴方を避難する時、それが貴方を怒らせるんだと思います。
ここでは、私は怒りに対して幼子時からある事件に対して、怒りの反応に対して身につけられたのです。
そのような状況に我慢が出来ないとき、大体怒りを表すのです。
怒りは以前学習した怒りによって、行動するのです。

■箴言22:24-25
22:24 怒る者と交わるな、憤る人と共に行くな。
22:25 それはあなたがその道にならって、みずから、わなに陥ることのないためである。

1〕生理的な反応…身体のホルモン関係の反応アトレナリン〔adrenaline〕とノラトレラリン〔noradrenaline〕反応が、怒りと感情(ストレスなど)を燃やす燃料になるのです。

2〕認識的な反応…怒りの反応は自動的な反応ではありません。自分自身に対して怒らせるのです。怒りに対する自分自身に、解釈・動機・意味によって具体的に反応するのです。

3〕行動的な反応…怒りの表現をするのです。言葉・悪口・いじめ等、公に出来ない怒りを抑えながら微妙に反応するのです。

4〕聖書では…怒りを罪だと断定しませんが、解決しない怒りは罪の可能性があります。

■エペソ4:26
怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。
■箴言16:32
怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる

怒りは罪ではなく、怒りを解決出来ない怒りから罪を犯すのです。

■ロ-マ7:18-20
7:18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
7:19 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
7:20 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

5〕肯定的な怒り…怒りというのは、日常生活の中で環境に適応する過程の中で、何かに自分自身が間違った道を歩む時、怒りを通して警告をしてくれるのです。その怒りを日常生活の中で問題をうまく解決すればその怒りは私たちの人間関係に有益をもたらすのです。
怒りの感情は力と動機を与えてくれるのです。運動選手たちは相手のチ-ムに対して“清い”怒り感情が有益をもたらしてくれます。このような怒りは憎しみや妬みではない怒りの感情が表れるのです。正義の怒り・倫理の怒りは私たちに新しい生命力を与えて下さるのです。

モ-セの怒り:モ-セがシナイ山で神様に十戒を受けている間、モ-セが帰って来ないのでイスラエル民たちは子牛を造り、それを崇拝したのです。
シナイ山から下りて来たモ-セがその光景を見て怒りました。モ-セの怒りによって、イスラエル民たちは子牛を崇拝するのを止めました。それは怒りの力であります。

6〕怒りの警告…怒りというのは、私たちに適当な警告をしてくれます。
私たちが歯が痛くなければ歯医者に行きません。でも、歯の痛みを通して私たちに警告を発してくれるのです。その痛みによって、歯医者に行って治療を受けるのです。
怒りは私たちの内面の問題を警告を発してくれるのです。
内面的な怒りを通して、“なぜ私は怒っているのか?”“あの人がなぜ私を苦しめているのか?”自ら自分自身の不愉快なところを点検し、自分の成長に役に立つのです。

7〕否定的な怒り
怒りは自然的な感情であったのが、人間が堕落した結果、人々や自分自身に害を与える感情になってしまいました。

■詩篇37:8
怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。

怒りは危ない感情であります。怒りを通して正しくない判断・憎しみ・敵対心が自分自身を支配するのです。それが罪に発展していくのです。
怒りを抑えるのではなく、私たちは愛と赦しによって、怒りを乗り越えるのです。

怒りから解放…イエスキリストの愛と赦し

■エペソ4:31-32
4:31 すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。
4:32 互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。

■ロ-マ12:19
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
ーーーーーーーー

集ストのしていることに果たして正当性があるかと言うことで苦悩していましたが、神を信じる者に義が与えられるというのであれば、それにすがり神の最終的な審判を待ち望むしかないと思います。

集スト加害者というのは卑劣な心理作戦というかある種の条件付けによって人間の精神を弱体化させるために働いていると思います。だから不要なことにまで疑心暗鬼を働かせて不要な怒りに精神を費やしてしまう。

悪を行う者は報いを受け取ることになると、聖書には書かれています。ただそれが何時になるのか分からないために日々悶々とするのだと思います。

「思い煩いは一切神に委ねなさい」とも聖書には書かれています。

ーーーーーーーーーー

2008年2月8日(金) 聖書の箇所:詩篇37篇1~40節/ 年間通読:出エジプト28,29章

「怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。」(8節)


デボーションのサイトより引用します。

ーーーーーーーーー 

「怒り」「憤り」「悩み」。これらは私たちが悪行を受けたり悪意を感じたときの

当然の反応といえる。しかし私たちがこの当然の反応に身を任せていくならば、

私たちも悪に移ってしまう。ではどうすればよいのか。
「主に信頼して善を行え。」(3節)
「あなたの道を主に委ねよ。」(5節)
「主の前にもだし、主を待ち望め。」(7節)
 主に信頼することは、怒りや憤りも悩みも主に預け、一任していくことではないだろうか。

私たちの思いを超えた主が、悪しき者を滅ぼし、より頼む者を解き放って下さる(40節)。

“神様。あなたに信頼します。怒り憤りを捨て主の助けを待ちます。アーメン”

http://www.kinpouden.com/oeiko/devotion/index.htm

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「怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。 (詩篇)」

で検索しました。

心配

心配は何も成就しません。 聖書の、詩篇第37編8節に記されてあります。「怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ」。

心配する必要はありません。~~神がすべてを支配なさっておられるからです。 マタイによる福音書第6章31-33節に記されてあります。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」。

わたしたちが心配よりも何か良いもの~~祈り~~と置き換えるまでは、わたしたちは心配を取り除くことができません。 聖書の、ピリピ人への手紙第4章6-7節に記されてあります。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に・し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。

心配は時間の無駄です。 聖書の、ルカによる福音書第12章25-26節に記されてあります。「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命とわずかでも延ばすことができようか。そんな小さな事でさえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか」。

あなたのすべての心配を、主にゆだねなさい。 聖書の、ペテロの第一の手紙第5章7節に記されてあります。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」。

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メッセージより

あるサイトのメッセージより引用コピペします。

http://www.adventist.jp/media/bible/honka/1/3105.html

まことの神は肉眼にはみえませんが、神の言葉である聖書に導かれて、心を神にむけ、祈りや、讃美によって神を拝み、神と交わることができます。それが本当の礼拝であり、神はそのような礼拝を求めておいでになるのです。

 この戒めにはちょっとわかりにくいところがあります。その一つは神が「ねたむ神である」という言葉です。ここでいうねたみは人間のねたみとはちがって、人間に対する神の愛の深さをあらわす言葉です。他のものの介入を許すことができない強い愛をあらわしています。また「わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、3、4代に及ぼし」というのは、遺伝と環境の影響が子孫につたわることを述べていますが、人間の道徳的責任は、その人だけのものであって、先祖の悪の責任を負うということではありません(エゼキエル18章2から18節参照)。それにひきかえ、善の影響は神の祝福によっていつまでもつづくのです。ここにも人間に対する神のあわれみ深い取り扱いがみられます。

 人間がきざむ偶像について、もうすこし考えておきたいと思います。まことの神よりほかのものに、私たちの心を注ぎ、それを心の中心におくならば、それはみな偶像をつくることになります。たとえば、自分の理性を神の上におけば、それは偶像になります。自己を心の中心におくこともでき、またほかの人をそうすることもできます。自分の子供や恋人が偶像になることもあります。

 いろいろなたのしみや欲望が心を占領することもあり、流行にとらわれ、また富が偶像になることもあります。信仰生活の中心は、神との直接の交わりで、その間に何物も介入させてはならないのです。そうすることによって私たちの生活には、動かない中心ができ、本当の心の支えが与えられるのです。

ーーーーーーーーー

集ストの場合はとにかく神経逆撫で攻撃(ブチ切れ工作)を執拗に繰り返します。そして被害者が切れて何か騒いだり問題を起こすと精神科に入れようとします。しかし極端な話を言えば精神科に入れられようが刑務所に入れられようが殺されようがまことの命(魂の購い)を失った人生よりもずっと良いと言うことになります。

もっとも「悪人に向かい腹を立てるな、怒りを止め、憤りを捨てよ。これはただ悪を行うに至るのみだ」と言う御言葉もありますので、どう考えるべきか毎日苦悩しています。

悪人への憤りは逆にさらなる虐げを起こさせるだけでしょうか。

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聖書メッセージ

「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。」で検索しました。

http://ww4.tiki.ne.jp/~sanyogospel/mikotoba/mikotoba1208-2007.htm

今週のみことば

12月8日

「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを
キリストのゆえに損と思うようになった
わたしは、更に進んで
わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに
いっさいのものを損と思っている
キリストのゆえにわたしはすべてを失ったが
それらのものを、ふん土のように思っている」
(ピリピ人への手紙3章7-8節)

イエスにその心を捕らえられる前のパウロは
自分が由緒正しい家の出身であり
誰よりも律法を順守してきたと豪語するなど
神を誇りとするのではなく
肉を頼み、誇りとする人でした

ところが
彼はイエスに出会うことで
その存在があまりにも素晴らしいことを知り
今まで自分が素晴らしいと思ってきたものが
何とつまらないものかと思うようになったのです
それまで持っていた価値観ががらりと変わった瞬間でした

かつて世にあっては
家柄、地位、名誉等、肉に属するものを求めていた彼も
イエスに頼ることがどんなにか幸いかを知り
空しい誇りを追い求めるのをやめました
そのようなものを追いかけなくても
彼はイエスに寄り頼むことで
どんな境遇にあっても平安に生きる秘訣を得たのです

「わたしは乏しいからこう言うのではない
わたしはどんな境遇にあっても
足ることを学んだ
わたしは貧に処する道を知っており
富におる道も知っている
わたしは、飽くことにも飢えることにも
富むことにも乏しいことにも
ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている
わたしを強くしてくださるかたによって
何事でもすることができる」
(ピリピ人への手紙4章11-13節)


多くの人々は
富や名誉を得ることが幸せの秘訣だと信じています
ところが
現実にはそのようなものを手に入れたとしても
いつかはそれが自らにとって重荷となることには気づいていません

欲には限りがなく
いくら満たされても満足できず
地位は常に脅かされ
失う怖れに日々不安は絶えない
幸いを求めてあくせくしながらも
実際には平安から程遠い状況では寂しいことです

「わたしがそう言うのは
キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである
わたしは彼らのことをしばしばあなたがたに話したが
今また涙を流して語る
彼らの最後は滅びである
彼らの神はその腹
彼らの栄光はその恥
彼らの思いは地上のことである」
(ピリピ人への手紙3章18-19節)


イエスの十字架による救いは
すべての人が救われて
それまでの肉を頼みとする価値観から
神に寄り頼む価値観へと
その心が変えられていくために与えられました

ところが”彼らの神はその腹”
つまり
自分の思いを神の御旨と解釈して
自分の欲が満たされる方向へと更に走っていくような
間違った信仰の形も多く存在しています

神の福音は決して利益の道ではありません
自ら利益を求めていく時
いつしかそれはエスカレートし
どんな悪いことでもしようとしてしまうのが
人間の弱いところです

生活していくためには
お金も住まいも衣服も必要なのは当然のことですし
そのために
必要なものはすべて与えてくださるとの神の約束があります
しかし
分不相応なものを求め
それがただ自らを誇るためのものならば
その心は変えられていかなくてはなりません

「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり
曲がった邪悪な時代のただ中にあって
傷のない神の子となるためである
あなたがたはいのちの言葉を堅く持って
彼らの間で星のようにこの世に輝いている」
(ピリピ人への手紙2章15節)


この世の中はますます欲深い方向へと進みつつあります
間違った価値観に同調することなく
真の神を信じ、みことばを頼りとして
正しい道を確実に歩んでいきましょう


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聖書メッセージ

「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。」と言うみことばで検索しました。

http://www.eiko-church.com/message/archives/nishifuna/20070506_345.php

『御国をめざして歩む』 聖書:ピリピ3章17節~21節

17 兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。
18 わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。
19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。
20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

 パウロは、ユダヤ主義的な考え、哲学的な考えをもって、教会の教えをみだす人々を警戒するように勧めましたが、彼らを撲滅させよとは言いませんでした。彼らの生き方がどんなに空しいものであるかを知り、そのような生き方ではなく、キリストを真に信じる者たちが彼らとは全く違う生き方をしていること、その生き方はどんな生き方であるかをしめしました。

1.彼らの思いは 地上のこと
 18節をみますと、パウロは、涙を流して語っています。パウロの涙はなんでしょうか?それは、最後は滅びとなってしまう人々の歩みを思って、涙しているのです。彼らの神はその腹、彼らの栄光は、恥、彼らの思いは地上のことである(19節)とありますように、彼らは欲望のままに歩んでいました。ところが、彼らはキリストを知らない人々ではありませんでした。キリストを信じ、十字架を知っていました。十字架は自分のためとわかっていましたが、自我を捨てることはできませんでした。十字架を知っていても、イエス様の言われる道に従がうことができませんでした。彼らの歩みは、まさに十字架に敵対して歩んでいるのです。
 私たちも、同じ歩みをたどりがちです。み言葉を知っています。しかし、そのようには歩めません。そうすると、神様助けてくださいと祈ることをしないで、み言葉など聞かなければ良かったなどと思ってしまうのです。これは地上のことを思うものの歩みです。

2.彼らの思いは 天上のこと
 一方、パウロは、ピリピの教会の人々を励ましています。私たちの国籍は天にあると。つまり、私たちは天に属しているものであるというのです。地上にありながら、天上の人として生きるのが私たちだというのです。これは、この世界がすべてであるという価値観の中では生きていません。死が終りだという価値観の中でも生きていないのです。神がおられるという世界を知って生きている民なのです。見えるところが絶望でも、絶望ではない世界を持つものとされているのです。最善はまだこれからだといえる世界で生きているのです。何と幸いでしょうか?病気と闘い、片方の足をなくした老婦人がおられました。2年後もう片方の足も失いました。しかし、彼女は信仰を失なわなかったのです。「私はね、この両手で神様を讚美しているわ。もし両手がなくなれば足で神様を讚美するわ。もし足がなくなれば魂をもって神様を讚美するわ。もし魂で讚美ができなくなったとき、その時は私は神様とともにいることになるわ」
 御国をめざす私たちは、定住者ではなく旅人です。放浪の旅をする旅人ではなくて、目標をもって、そこをめざして歩むものです。それは、心に神の住処をもち、そのまなざしは目的の地をみつめているのです。

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今朝読んだみことばです。

ピリピ第3章
18)わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、
彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。
19)彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。
20)しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
21)彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

ピリピ4章
6)何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
7)そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

ーーーーーーーーーーーーーーー

上のみことばで検索しました。以下引用します。

http://www.h3.dion.ne.jp/~church.n/message1109.html

自分の命を神に賜わったものと思う者は、その一生もまた神に仕える生涯となり、さもなければ、自分の腹に仕える一生になる。自分の腹に仕える生涯に命を懸ける者が、そうそういるものではないと、私は思う。

 兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである(ピリピ3:17~19)

 なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。(ローマ16:18)

 自分の腹に懸命になる者は、罪に仕えて、罪の奴隷になるしかない。これに対して、主にある一所懸命は主イエスに仕えるキリストの僕(しもべ)となり、ついには、キリストによって神の子とされる栄誉を賜わる。自分の命を神に与えられたと思うか否かが、これほどの違いを生じるとすれば、生き方としていずれが優れているか一目瞭然であろう。

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みことば検索サイトより

イザヤ書:第2章
22)あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。


上のみことばは人に依存することの無意味さを言っていると思います。
つまり如何にもっともらしいことを言おうが人間には真実はないと聖書は言っているのです。
だから例えば社会通念上のことで苛めに遭おうが差別に会おうが無関係だと。
頼るというのは「評価を気にする」事もそうですよね、依存するというか。
だからそれは止めなさいと言う意味だと思います。

テモテへの第2の手紙:第2章
13)たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。
彼は自分を偽ることが、できないのである」。


上のみことばは、イエスキリストについての言葉だと思いますが、人間には真実はないと言っているのだと思います。
神のみが真実であると言っています。


詩篇:第一巻 1
71)苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。


上のみことばの通りです。私は集ストの苦しみにより聖書を読み出すことが出来ました。
逆に言うとそう言う苦痛がなければ聖書は読めませんでした。
一生読めなかった可能性もあります。愚かで怠惰な性質だからかも知れません。

イザヤ書:第30章
20)たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、
あなたの目はあなたの師を見る。


これはたとい苦しみに遭うことがあっても、神を見るという意味だろうか、

イザヤ書:第38章
17)見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。
あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。これは、あなたがわが罪をことごとく、
あなたの後に捨てられたからである。


上のみことばには、苦しみにあっても、それは幸いのためであり、滅びを免れさせるためであることが書かれていると思います。

ローマ人への手紙:第8章
18)わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。


このみことばは今の苦しみは後に栄光が与えられるためであると言っています。
そしてそれは主イエスキリストを信じる者に与えられると書かれていると思います。


下のみことばは、信仰生活するに当たっての、苦しみへの対処法が書かれていると思います。

テモテへの第2の手紙:第1章
8)だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、
決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。

テモテへの第2の手紙:第2章
3)キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。


ペテロの第1の手紙:第2章
19)もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。

ペテロの第1の手紙:第4章
13)むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。


ペテロの第1の手紙:第4章
19)だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。

ペテロの第1の手紙:第5章
10)あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、

強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。

ペテロの第1の手紙:第4章
15)あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。


上のみことばは気にかかりますね。これは加害者のことです。余りにも。
これをしてはいけないと書かれているのですが、一体どういう報いがあるのでしょうか。


ヨハネの黙示録:第14章
11)その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、
昼も夜も休みが得られない。


これは黙示録に出てくる獣の刻印を受けてはいけないと言うことだと思います。
そうしなければ永遠に休みが得られないと書かれていると思います。
今時分虐げに遭う方々というのはこの刻印を受けないタイプなのかも知れません。

ペテロの第1の手紙:第5章
9)この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、
同じような苦しみの数々に会っているのである。

これは信仰に生きるに当たっての悪魔への対処法だと思います。
悪魔への迎合を止めれば悪魔はてきめんに攻撃するのだと思います。
不可解なほどはっきりしているようです。

聖書の杜
http://bible.monochro.com/

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裁きについて

礼拝メッセージよりコピペ

http://www2s.biglobe.ne.jp/~IGM-knzw/2003-0309worship.htm

詩篇37:1~11
「誠実を養う」
2003.3.9.聖日礼拝

 
37:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
37:3 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
37:4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
37:7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
37:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
37:9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。
37:10 ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。
37:11 しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。
 
 私たちが神さまの御前に、誠実に歩むということが、どれだけ大切であるかは、皆さま方が良くご存じだと思います。今朝は、「誠実」ということ、「誠実さ」ということをテーマとして、一緒に学びながら、神さまの御前に誠実に歩むということについて語りかけを頂きたいと思います。
 
 先ず、1節に目を向けたいと思います。
37:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
 
 この詩篇に中で、詩人ダビデは、1,7,8節で、三回も「腹を立てるな」と言っていますが、その理由を二つあげています。
(1)一つは、「彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」(2節)からです。ほっといたらいいんだ、裁く御方は神さまなのだから、神さまにお任せしておけば、「悪を行なう者」は、必ず萎れていくのだから・・・ということなのです。
 
(2)もう一つは、「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道」(8節)だから、というのです。腹を立てることは、悪をもって悪に応えようとすることであり、そこから、惨めな自分自身の悪が、ゾロゾロ出てくるというわけなのです。
 
 では、腹を立てる代わりに、私たちは、どうしたらよいのでしょうか。詩人ダビデは、こう言っています。「しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。」(9節)  腹を立てる代わりに、神さまを待ち望む者には、ゾロゾロと人生の力、祝福が与えられるというのです。
 
 「神を待ち望む」者こそ、真の信仰者だと思うのですが、本当の信仰者は、先ず神を第一として、愛する、仕える、聖く生きるという原則に徹する人です。そして、腹を立てる(1,7,8節)という消極的な生き方をかなぐり捨てて、その原則に基づいて、祈ったり、親切を尽くしたりする、積極的で実行に生きる人だと思います。
 
 さて、次に、3~4節に目を向けたいと思います。
37:3 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
37:4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 
 「誠実を養え」ということばに、心を引かれます。誠実な人は、素敵な人です。きよらかさを感じさせられます。ユーモアを解さない心の堅い人が、真面目で誠実に見える時もあります。うわべだけ謙遜で礼儀正しい人も、誠実な人に間違えられることがあります。
 
 しかし、本当に誠実な人とは、どのような人なのでしょう。柔らかい心の人、二心でなく一つ心の人、そして、愛に満ちた人のことではないでしょうか。
 
 このような「誠実を養う」には、一体、どうしたらよいでしょう。ペテロは、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し」(Ⅰペテロの手紙2:2)と言っています。養うためには、栄養が必要なのです。
 
 この詩人ダビデは、「主をおのれの喜びとせよ。」と表現しました。私は、忘れっぽい者です。忘れっぽいですから、一日スタートする時など、今日すべきこと、今週中にすべきこと、今月中にしなければならないことなどを、紙切れにメモして、テーブルの上に置くようにしています。会堂建築で言えば、週間工程表や月間工程表を、いつも手にしているようなものです。しかし、忘れっぽい私でも、食事は、一日三回、殆ど忘れたことがありません。必ず食べています。お腹がすいた時、食べることは楽しみです。「食べ過ぎると、健康に良くないよ」と言われると、食べてから、コレステロールの薬を飲めばいいからとか、明日は、一食分食べなければ、体重の調節は出来るからと言って食べてしまうのです。兎に角、神さまからの霊的な栄養の補給が必要であることを忘れてはいけないと思います。
 
 「主をおのれの喜びとせよ。」(4節)ということばを、フォンラートという人は、「自分自身を、神によって甘やかされるようにしなさい。」と、言い換え(意訳し)ています。ハッとするような解釈ですね。
 
 ある精神科医は、次のように述べています。
「6才まで、本当のお母さんの愛で甘やかされた人は、健全に育ちます。」と。
 
 まるで、神さまに抱かれて、甘やかされつつ神さまから授乳して頂くのです。あたかも、そのような、聖書と祈りを通した「神さまとの親密な交わり」こそ、「誠実を養う」のではないでしょうか。
 
 さて、5節に心を向けたいと思います。
37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
 
 人間には、希望があり、願いがあり、野心があります。人の心から希望がなくなってしまったならば、生ける屍(しかばね)であり、人間ではありません。ですから、昔、札幌農学校(北海道大学の前身)の教頭として日本に来られたクラーク博士(1826-1886)は、「少年よ、大志を抱け」(Boys, be ambitious !)と言ったのではないでしょうか。
 
 この詩篇37編の詩人ダビデは、ここに、人の希望が成就する秘訣が何であるかを述べています。「あなたの道を主にゆだねよ。(そして)主に信頼せよ。(そうすれば)主が成し遂げてくださる。
 
 このように、「そして」「そうすれば」ということばを補いますと、良く理解出来ます。
 
 神さまを仰ぎ見、神さまに委ねる時に、神さまが、素晴らしい心の願いを、本当にかなえてくださるというのです。私たちに合わない夢とか、悪い結果しかもたらさない野心ではなく、私たちを祝福するきよらかな願いを、心に起こしてくださるのです。
 
 私たちの人生には、過去の罪、人生の障壁、人間関係のもつれ、嫌なこと、邪魔なものなど、心の願いを成就するためには、妨げるようなものが、いっぱいあります。
 
 心配も、その大きなものです。「委ねる」とは、「転がす」という意味があります。そのような重荷を主に委ねる、転がして行って、主の前にお任せしますと、主が始末してくださいます。負って下さるのです。担ってくださるのです。
 
ペテロは、
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロの手紙5:7)と言いました。
 
 神さまに委ねるということは、自分の突っ張ったエゴをゼロにし、聖い神さまを百にすることですから、神さまが成就してくださる。無理にごり押ししなくても、神さまが願いを成就してくださるというのです。
 
 さて、今朝の礼拝では、11節までしか読んでおりませんが、12節から、19節まで、読んでみたいと思います。
 
37:12 悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。
37:13 主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。
37:14 悪者どもは剣を抜き、弓を張った。悩む者、貧しい者を打ち倒し、行ないの正しい者を切り殺すために。
37:15 彼らの剣はおのれの心臓を貫き、彼らの弓は折られよう。
37:16 ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。
37:17 なぜなら、悪者の腕は折られるが、主は正しい者をささえられるからだ。
37:18 主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。
37:19 彼らはわざわいのときにも恥を見ず、ききんのときにも満ち足りよう。
 
 この中でも、特に、16節に目を向けたいと思います。
37:16 ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。
 
 「人生における豊かさ」について、考えさせられることばです。ソロモンは、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」(箴言17:1)と言いました。
 
 イエス・キリストも、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカの福音書12:15)と言われました。
 
 「ひとりの正しい者の持つわずかなもの」とは、いったい何なのでしょうか。
 
 豊かないのち、豊かな心ではないでしょうか。
 
 「正しい者」「悪者」という二つのことばが、旧約聖書には、繰り返し出てきて、比べられるのですが、私たちが、コレステロールの善玉悪玉的に分けて考える考え方とは違うのです。
 
 聖書の言う「正しい者」とは、神を畏れる人のことです。そのことを、イエス・キリストは、絵のように分かりやすく、話してくださいました。
 
 自分を正しいとし、人にも正しいとされていたパリサイ人と、自分は罪人であると自覚し、人にも罪人であると思われていた取税人が、二人並んで、神殿の前で祈りました。
 
 パリサイ人の祈りは、「この横にいる取税人のような罪人でないことを感謝します。神さま、私は、何事も正しくやって参りました。」というものでした。
 
 それに対して、取税人の祈りは、「神さま、こんな罪人の私を哀れんで下さい。」というものでした。イエス・キリストは、軍配を、取税人のほうに、ハッキリとお上げになったのです(ルカの福音書18:9~14)。
 
 罪を悔い改めて、神を畏れ、神さまに新しい心を頂いた正しい人のその心、そのいのちこそ、豊かなのです。
 
 しかし、先ほども申し上げましたが、本当に誠実な人とは、どのような人なのでしょう。柔らかい心の人、二心でなく一つ心の人、そして、愛に満ちた人のことではないでしょうか。
 
 このような「誠実を養う」には、一体、どうしたらよいでしょう。ペテロは、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し」(Ⅰペテロの手紙2:2)と言っています。養うためには、栄養が必要なのです。
 
 繰り返し申し上げますが、ある精神科医は、次のように述べています。
「6才まで、本当のお母さんの愛で甘やかされた人は、健全に育ちます。」と。
 
 まるで、神さまに抱かれて、甘やかされつつ神さまから授乳して頂くのです。あたかも、そのような、聖書と祈りを通した「神さまとの親密な交わり」こそ、「誠実を養う」のではないでしょうか。
 
 神さまの御前に、誠実を養いつつ、誠実な信仰生活を歩み続けたいと思います。
 

お祈りを致します。

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聖書から人生を考えよう

メッセージのサイトよりコピペしました。

ーーーーーーーーーーーーー

★最後に・・・・・一言。

「死後の二つの行き先」 / 2007年10月11日

北国は、ナナカマドの実が赤くなり始め、日毎に秋が深まりつつあり、朝晩は冷え込む季節になりました。みな様はお元気でお過ごしでしょうか。実は、私事ですが、いろいろな事情により、本日をもって、このブログの記事の更新を中止することに致しました。今までご愛読くださった方々に心からの感謝の気持ちをお伝えしたく思います。今まで、多くの皆様から聖書に関する質問のメールや温かい励ましのメールをいただきましたことも、心から感謝いたしております。その他、善意によって記事の間違い、誤字脱字などのご指摘をくださった方々にも心からお礼を申し上げます。

私の個人的な願いは、一人でも多くの方々が万物を創造された真の神様のご存在をお知りになり、生ける神のみことばである聖書に触れ、人間本来のあるべき姿に立ち帰られることです。「聖書」は神の霊感によって記された間違いのない神の真理のことばです。聖書が勧めておりますように、ご自分の(神に対する)罪をお認めになられ、愛なる神が救い主としてお遣わしになられた御子イエス・キリストを信じて永遠の滅びから救われて、永遠のいのちをご自分のものとなさってくださいますように心からお勧めいたします。

今の世界は、まさにかつてのノアの洪水前夜の様相を呈しております。「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」(創世記6:11)と、創世記に記録されてあるように、今日も巷では不道徳と犯罪がはびこり、その悲劇的な惨状は目を覆うばかりで、家庭は崩壊し、社会は腐敗堕落し、日毎に悪が増大しつつあります。確かに、聖書が警告しているように神の裁きの日が迫っていることは確実であると思われます。しかし、聖書は、神が完全に正義の御方ですが、また同時に完全な愛のご性質をお持ちのお方であることを語っております。ですから、神の前に罪を犯して滅びに向かっている私たちのために、救いの道を備えてくださいました。それが、イエス・キリストの十字架と復活による福音なのです。神は、あなたが救われるのを待ち望んでおられるのです。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人(となられた御方)としてのキリスト・イエスです。」(テモテへの第一の手紙2:4、5)。

●「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。‥‥‥夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。 」(ローマ人への手紙13:11~14)。

●「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。」(1ペテロの手紙4:7)。

●「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。‥‥」(2テモテ3:1)。

●「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。‥‥神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人(主イエス・キリスト)により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒の働き17:28~31)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。

●「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

みなさん。どうか、聖書に記されているこれらのみことばをご自分に当てはめて深くお考えになってください。これらは、みなさん一人一人の人生と無関係なことばではありません。天地万物をお造りになられた真の神様が、みなさんお一人お一人に、個人的に語っておられるみことばなのです。決して無視できない神のことばなのです。人生は70年か80年の短い地上の生涯だけで終わってしまうのではありません。肉体の死は、死後に永遠に続く世界の入り口に過ぎません。死後には永遠に続く二つの世界があることは、聖書が繰り返し語っている事実なのです。

死後には、もう二度と救われるチャンスはありません。ある意味においては、この地上の生涯は、死後の永遠の世界をどこで過ごすかを決定するために備えるため与えられている準備期間でもあるのです。永遠のいのちか、永遠の滅びか。永遠の天国か永遠の地獄(火の池)か。永遠の祝福か、永遠の苦しみか。それを決定するのはあなた自身の決断にかかっていると言っても過言ではありません。これは、非常に厳粛なことです。どうか、賢明な人生の選択をなさってください。これは、私の心からの偽らざる切実な願いなのです。

●「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 」(マタイの福音書7:13,14)。

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日本の秘密

失われた十支族の行方
http://www.ican.zaq.ne.jp/euael900/episode14.html
イスラエルの歴史を振り返ると、前1020年に12支族(部族)からなるイスラエルはサウル王によって初めて統一されました。、サウル王の死後、王家が変わりエッサイの子ダビデが二代目の国王となり、その子ソロモン王の死(前928年)の後統一イスラエル王国は分裂し、北のイスラエル王国(~前722年)と南のユダ王国(~前586年)に分かれました。
  イスラエル王国は、ルベン・シメオン・ザブルン・イッサカル・ダン・ガド・アシュル・ナフタリ・エフライム・マナセの10支族からなっていました。
  また、ユダ王国は、二代目の国王であるダビデとその子ソロモンの家系であるユダとベニアミンの2支族からなっていました。また、司祭階級であるレビ族は、イスラエル王国にもユダ王国にも属していました。
 イスラエル王国の10支族は、アッシリア帝国によって、イスラエルの地から連れ去られました。以後、行方不明となり、「失われた(イスラエル)の十支族」と呼ばれています。
  ユダ王国の2支族は、ペルシア帝国に滅ぼされ「バビロン捕囚」の後、故国に帰りました。その後ローマ帝国による追放による離散の歴史を経たあと、1947年に再建されたイスラエルの国民や世界中のユダヤ民族として現在に至っています。
 聖書には、神から祝福されたイスラエル民族の歴史と、終わりの日(神の天国を地上に作るという計画が達成される日)の預言が記されています。 
 その一つは、ダビデによってイスラエルが統一されてときに(前1004年頃)、ダビデに対して


「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまで続き、あなたの王座はとこしえまで堅く立つ」(「サムエル記」第二 7章16節)


と約束されました。しかしながら、分裂後のユダ王国は前587年に新バビロニアに滅ぼされてダビデ王家は、滅亡しました。
 もう一つは、イスラエル王国復活の預言です。終わりに日に、


「主は国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者(失われた十支族)を取り集め、ユダの追い散らされた者(ユダヤ民族)を地の四隅から集められる。」(「イザヤ書」11章12節)
「ある者は遠くから来る。また、ある者は北から西から、またある者はシニムの地(中国)から来る。」(「イザヤ書」49章12節)


 そして、


「見よ。わたしはエフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族(エフライム族を中心とする失われた十支族の国のこと)とを取り、それらをユダの杖(ユダヤ民族の国のこと)に合わせて一本の杖(国のこと)とし、わたしの手の中で一つとする。」(「エゼキエル書」37章8節)


 と預言されました。 
 これらを総合すると、終末の日に、失われた十支族と現在ユダヤ民族とされている二支族が一緒になって一つの国を形成しています。そして、ヤハウェ神から祝福されたイスラエル民族の栄光の日が来るといいます。そして、復活したイスラエル王国の王となるのは、エッサイの子ダビデ王の子孫であるという預言であります。

 二支族からなるユダ王国の末裔のユダヤ民族は、1947年奇跡の復活を遂げましたが、それに合流するはずの失われた十支族は失われたまま、現在も行方不明であり、終末の預言が成就しようとしていると考えているユダヤ教世界、キリスト教世界では、いま必死で行方をさがしているとのことです。
 預言の成就のために現在のイスラエルでは、失われた十支族の探索と帰還活動を熱心に進めています。「アミシャーブ」という専門の機関まであります。
 そして、残されているはずのダビデ王家の子孫も、どこかで王位をたもっている筈であるということです。ダビデ王家の有力な候補として、さまざまな可能性が検討されていますが、その有力な候補の一つが日本の天皇家であるということです。
 日本が、本来多民族国家であることは、島国の立地からも、今日ではDNAの鑑定からも明らかにされていますが、聖書で預言されているイスラエル民族の復活と栄光に関わる失われた十支族も南王国の二支族のユダヤ民族も日本に来ているのではないかと言われています。
 日本の天皇家がダビデの子孫であり、日本に古代イスラエル王国の十二支族の本体がそろっているということにもしなるならば、終末の日のメシア(救世主)出現による神の国完成という栄光は日本から始まると言えることとなります。なぜなら、ダビデ王の子孫からメシアが出現すると聖書に預言されているからであります。これは、世界にとって驚天動地のニュースとなる筈です。
 そこまでの事はなくても、十分に十二支族の一部が来ているという証拠がそろっていると考えています。 来日の時代については、三波にわかれていているのではないかとされています。


第一波として 前722年アッシリアに滅ぼされた失われた十支族の来日。
第二波として 南王国ヒデキヤ王(前736年~前700年頃)の時代の預言者イザヤに率いられた二支族の来日。
第三波として 四世紀に中央アジアのクンユエ(弓月)から融通王によって率いられてきた景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)の秦氏一族の来日。


 これらが、主な来日の波であると考えられています。日本の文化の中枢に大きな影響を与えた、イスラエル十二支族の来日説に焦点をあてて、数回にわけて記述したい。まず、はじめに、シルクロード上の「失われた十支族」の候補の民族について概要をまとめることします。

 イスラエルの「アミシャ-ブ」 の探索の結果、前722年アッシリアによって滅ぼされ、祖国を追放された北王国イスラエルの十支族(「失われた十支族」)の一部は、カフカス、グルディスタンのユダヤ人コミュニティとして残ったが、多くは異教徒となったということです。シルクロード上の失われた十支族の候補とされているパタン族、カシミール族、チャンミン族の中に、先祖はイスラエル人であったという伝承が残っているといいます。




 パタン族の人口は、アフガニスタンに800万~900万人、パキスタンに1000万~1100万であり、両国の国境付近に居住しています。特にアフガンの旧王家は、ベニヤミン族出身の、古代イスラエル王国初代国王サウルの子孫であるという言い伝えがあるとのことです。このことは、1635年に出版された「マーサニ・アフガニ」で既に公表されているといいます。
 カシミール族の人口は500万~700万人、パタン族同様イスラエル色の強い伝統をもっています。さらに、ピスガ、ネボ山などモーセの関連の深い地名などもあります。モーセの墓、イエスの墓、あるいはソロモン王がカシミール地方に来たという伝承まであります。
 中国四川省のチャンミン族は、かつては 羌(チャン)族と呼ばれていて、数百万人の人口をもっていたが、迫害され、各地に逃れたという。特に、ミャンマーの北東部のカレン族とインド国境付近のシンルン族は、中国から迫害によって逃れてきたという伝承をもち、チャンミン族との関連があるとされています。
 有名にマルコ=ポーロの「東方見聞録(世界の記述)」には、開封にユダヤ人のコミュニティがあったという記述があります。20世紀初めまで、このコミュニティが存在たことが確認されています。中国の開封にユダヤ人のコミュニティがあったなら、日本は直ぐ隣です。開封には、前231年にユダヤ人がすでに居たという碑文があるとのことです。また、漢字には、聖書の故事から作られたと考えざるを得ないものが多く有るとのことです。漢字は、秦の始皇帝によって、前213年に、統一された字体となりました。


船=舟+八+口 「八人の乗った舟」
口は人のこと。ノアの箱船にのったのは、4組の夫婦である。
禁=木+木+示 「二本の木を示す」
神は、アダムとイブに命の木と善悪を知る木の二本を示して、善悪を知る木から取って食べることを禁じた故事によるものか。


などは、その例です。
 「アミシャーブ」の探索によると、シルクロードの終点にある日本にも「失われた十支族」が来日し、日本の中枢に大きな影響をあたえた証拠が多くあるといいます。特に神道の祭祀にヤハウェの神殿の祭祀との偶然ではありえないような類似点が多く残っているといいます。また、聖書に記述にある「過越しの祭り」「仮庵の祭り」も日本の正月の祭りなどに残されているということです。
第41話 「失われた十支族」の行方 平成19年12月27日up

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日本には不可思議な秘密が多く隠されているのですね。神の御栄光が現されるのは近いのだと思います。

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あるメッセージより

人とは何者なのでしょう
http://sound.jp/gospel/colums/col041227.htm
2004年12月27日(月)

人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。

人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

詩篇 8篇4節~5節

「人間の弱さ、そして特権」

これはまた、私の大好きな聖書箇所のひとつです。

これはダビデという人が

聖書「詩篇」というところで神様に歌った賛美の歌の一節です。

 

今年一年間いろいろな事がありました。

みなさんは一年を振り返った時に、

どのような思いを持たれるでしょうか。

私はこの一年振り返って、本当に自分の弱さを感じさせられます。

私は実になんのとりえもない、小さな人間であると思うのです。

 

大学の試験勉強にしても、クラブ活動においても、

人に何かまかされた時も、

そして私自身の身の回りの生活を見回しても、

うまくこなすということが実にできない者なのです。

 

さて、人の能力とはどのようなものなのでしょう。

ダビデは言っています。

「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。

人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」

 

ここでの「人を、神よりいくらか劣るものとし」というところを

別の訳の聖書で引いてみると、

「神に僅かに劣るものとして人を造り」となっています。

前のコラムでも分かち合いさせていただきましたが、

神様は私達人間を、御自身に似たものとして造られました。

ただ、わずかにだけ劣る者とされたのです。

そしてその私達に、「栄光と誉れの冠」を与えられたのです。

こんなにちっぽけな、罪に溢れたこの者にさえもです。

なんと深い創造者の憐れみでしょうか。

 

この憐れみを受けて、私達は目の前のことを一心に取り組み、

そのことで神様の栄光を表していきたいと願わされます。

「人の能力は神様よりわずかに低い」と言われる以上、

怠けることは神様の能力を下げることになるからです。

 

イエス・キリストの魅せられた、使徒パウロはこう言っています。

「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、

困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、

私は強いからです。」

私達のうちに弱さや足りなさがあることは否定できません。

しかし、私達が弱くても神様がその部分をフォローして下さいます。

人間と神様はセットであり、人間が神様というパートナーに

近づいていったとき、そこに完璧さが生まれます。

全てのことをも益にすることができます。

 

私達だけでは何もすることができない、と思うかも知れません。

それならば、神様に近づき、祈り求めましょう。

 

私達には弱さがあります。

しかし、神様は私達を心に留められ、顧みられます。

神様とペアになるなら、全ては完全に導かれます。

このことを信じ、神様に信頼していきましょう。

それが私達人間に与えられた特権なのですから。

 

人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。

人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

詩篇 8篇4節~5節

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徳島のニュースの映像のDVDを見て、余りにも美しい徳島の阿南市の風景に感動しました。海と空、とても素晴らしかったのです。
神の創造物のすばらしさを思いました。

その下でいろいろと活動している人間の姿。神様はその様な人間の姿を見下ろして「わたしは此処にいるよー」と言われている気もします。
神様の存在を忘れかけて「自力で何とかせねばいけない」とばかりに力む人間。そう言う構図を覚えます。

傲慢な表現ですみません。
ニュース内容はダウン症の少年が前向きにトライアスロンなどに挑戦しながら頑張り周囲に力を与えるという物でしたが、私にはその人間達が頑張っているような姿よりは寧ろその背景にある「神様のみわざ」に目がいきました。人間の活動に対するバック背景かも知れませんが、今にその内に全ての人間が神の御前に平伏すときは来るのだと思います。

頑張らねばいけないと言う力みよりは寧ろ「頑張る必要なし」という神に委ねる世界の方が多分良いと思います。

テレビ映像には拒絶反応がありましたが良い意味で参考になる映像でした。
徳島県の阿南市徳之島の広く続いている道路、良いですね。と言うよりは遠大ですね。一体誰が造ったのでしょうか。これもまた偉大なる作業だろうかと思います。無知ですみませんが。

後はアーチストのライブのような映像でしたが、どうも暗い空間で延々と歌い続けるので見るのが苦痛で見れませんでした。
以前には見ていましたが今は駄目になりました。
メディア被害のトラウマもあると思いますが、神の被造物が無い空間で、光も無し。だから見るのが苦痛なのでしょう。閉塞的で息苦しくなりそうですね。
人間が自己表現する様を延々と見るのは余り良いと思わなくなったようです。
人間とは一体どういう生き方をするのが神の御心にかなうのだろうかと思います。
暗闇の空間で自己表現することは良いことだろうか。
音楽とはどういう用い方するのが正しいのだろうか。

昔のクラシックは神への賛美が多いそうですね。
だからあんなに純粋で美しい響きなのでしょう。
過去には余り聞けなかったのですが、今は聞いていると癒されます。
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話しは戻りますが、ニュースの映像を見て神は人間に対して「わたしは此処にいる、地と地にある物は主の物である。天にも地にも、私は満ちているではないか」といっているのではないかなどと、聖書のみことばを思い出しました。
「自力により頼み自己を誇ろうとするのを辞めて、あなたの神、主に立ち返りなさい」とも言われている気がしました。

「人とは何者なのでしょう」と言う言葉は、神様が人間をご自分との交わりの出来る存在として造られたという意味があるように思います。
神様は人間に対して何時も御手を差し伸べて語りかけているような気がします。

ニュース映像を見てそう言う風に思いました。

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ハバクク書

http://bible.monochro.com/index/24798/#ln24798
ハバクク書第1章
1)預言者ハバククが見た神の託宣。
2)主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、あなたは助けて下さらないのか。
3)あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。略奪と暴虐がわたしの前にあり、また論争があり、闘争も起っている。
4)それゆえ、律法はゆるみ、公義は行われず、悪人は義人を囲み、公義は曲げて行われている。
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この箇所を読み何故か笑ってしまった。聖書には預言者による神への憤りにも思えるようなみことばがあるのだと。聖書は別に綺麗事の書ではない。
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12)わが神、主、わが聖者よ。あなたは永遠からいますかたではありませんか。わたしたちは死んではならない。主よ、あなたは彼らをさばきのために備えられた。岩よ、あなたは彼らを懲らしめのために立てられた。
13)あなたは目が清く、悪を見られない者、また不義を見られない者であるのに、何ゆえ不真実な者に目をとめていられるのですか。悪しき者が自分よりも正しい者を、のみ食らうのに、何ゆえ黙っていられるのですか。
14)あなたは人を海の魚のようにし、治める者のない這う虫のようにされる。
ーーーーーーーー
14節はまるで無法地帯で暴れ回るかのような人種や、混乱状態で悩み苦しむ民のことみたいですね。
ーーーーーーーー
2章
4)見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
5)また、酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼の欲は陰府のように広い。彼は死のようであって、飽くことなく、万国をおのれに集め、万民をおのれのものとしてつどわせる」。
6)これらは皆ことわざをもって彼をあざけり、あざけりのなぞをもって彼をあざ笑わないだろうか。すなわち言う、「わざわいなるかな、おのれに属さないものを増し加える者よ。いつまでこのようであろうか。質物でおのれを重くする者よ」。
7)あなたの負債者は、にわかに興らないであろうか。あなたを激しくゆすぶる者は目ざめないであろうか。その時あなたは彼らにかすめられる。
8)あなたは多くの国民をかすめたゆえ、そのもろもろの民の残れる者は皆あなたをかすめる。これは人の血を流し、国と町と、その中に住むすべての者に暴虐を行ったからである。
9)わざわいなるかな、災の手を免れるために高い所に巣を構えようと、おのが家のために不義の利を取る者よ。
10)あなたは事をはかって自分の家に恥を招き、多くの民を滅ぼして、自分の生命を失った。
11)石は石がきから叫び、梁は建物からこれに答えるからである。
12)わざわいなるかな、血をもって町を建て、悪をもって町を築く者よ。
13)見よ、もろもろの民は火のために労し、もろもろの国びとはむなしい事のために疲れる。これは万軍の主から出る言葉ではないか。
14)海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。
15)わざわいなるかな、その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、彼らの隠し所を見ようとする者よ。
16)あなたは誉の代りに恥に飽き、あなたもまた飲んでよろめけ。主の右の手の杯は、あなたに巡り来る。恥はあなたの誉に代る。
17)あなたがレバノンになした暴虐は、あなたを倒し、獣のような滅亡は、あなたを恐れさせる。これは人の血を流し、国と町と、町の中に住むすべての者に、暴虐を行ったからである。
ーーーーーーーー
暴虐の民に対する主の報いが書かれていると思います。
ーーーーーーーー
3章
13)あなたはあなたの民を救うため、あなたの油そそいだ者を救うために出て行かれた。あなたは悪しき者の頭を砕き、彼を腰から首まで裸にされた。〔セラ 
14)あなたはあなたのやりで将軍の首を刺しとおされた。彼らはわたしを散らそうとして、つむじ風のように来、貧しい者をひそかに、のみ滅ぼすことを楽しみとした。
16)わたしは聞いて、わたしのからだはわななき、わたしのくちびるはその声を聞いて震える。腐れはわたしの骨に入り、わたしの歩みは、わたしの下によろめく。わたしはわれわれに攻め寄せる民の上に悩みの日の臨むのを静かに待とう。
ーーーーーーー
3:16のみことばは少し前まで自己に取り、切望じみた感じを覚えました。今は過去よりも平安が与えられていますが、しかし平安なときときついときがやってくると思います。

平安がないのは加害者のせいというよりは寧ろ自己の咎が気にかかるせいでしょう。「自己の咎からこういう目に遭うのか」などと考えるからです。

しかし罪を許されているという確信が持てればきっと平安が与えられると思います。そして艱難も喜んで耐えることが出来るのだと思います。

黙示録には世の終わりに際して「汚れた者はますます汚れを行いなさい」と書かれているため、悪者は確かにそう言う道から外れることが出来ないのだろうか。

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イザヤ書の解説サイトより

一部引用しました。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~gideon/sub06minimemo-130.htm
イザヤ52:1
「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。」

(↑このみことばは果たしてどういう意味だろうかと思っていました。美しい衣とは?この箇所の前には救われない状況で敵に苦しめられている民の記述がありましたが。)

三つ目は、この「天の御国」に入るためには一つだけ条件がいるということです。その条件とは、神様の側で用意して下さった、御子イエス様による十字架の贖いというプレゼント、すなわち「礼服」、を受け取るということです。

 四つ目は、地獄の責め苦は実際に存在するということです。神様が命を懸けてまで設けて下さった天国への道を拒むならば、救われる道はもはやないのです。
ーーーーーーーーー
「美しい衣を着よ」とは即ち「神様の与える購いを受けよ」という意味だったようですね。このサイトでも地獄は実在するとはっきり書かれています。

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神との交わり(メッセージ)

http://www5e.biglobe.ne.jp/~gideon/sub06minimemo-129.htm
【神との交わりー祈り(8)】

イザヤ52:1,2

「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中にはいって来ることはない。ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。」

3)「聖霊によって祈る」

a)「絶えず目を覚ましている」

イ)「祈らない時の損失」

 まずは、前回の残りの項目から見ていきましょう。

(5)「祈らない時、私達は“証人”としての実質を失ってしまう」

 イザヤ52:5の最後の部分を見て下さい。

「また、わたしの名は一日中絶えず侮られている。」

 なんと悲しいことでしょうか! 私達が「祈り」という、神様との交わりをおろそかにする時、私達は必ず古い罪の生活パターンに引きずり込まれ、その罪のために苦しみあえぐことになります。そして、受けるべき祝福も奪い取られ、私達は虚しく罪の奴隷となってしまい、サタンも、そしてこの世もまた、そんな私達を大笑いするのです。

(サタンは罪の奴隷となっている私らを嘲るのですか、サタンはそこまで残忍冷酷だったのですね。)

「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」

(ローマ6:16)

しかも、その結果はと言うと、主の聖なる御名を汚してしまうことになるのです!! これでは何の証しにもへったくれにもなりません!!! キリスト教の出版物の中に、「力あるキリスト教」という本があるのですが、このままクリスチャンが祈らない生活を続けていくならば、遅かれ早かれ「力ないキリスト教」という本が、何冊もクリスチャンではない方々の手によって出版されてしまうでしょう。

このような本が出されるくらいなら、まだいい方なのかもしれません。きっと実際のところは、相手にもされないのではないでしょうか? 私がこう書くのは、皆さんにチャレンジしたいからです。皆さん! 「祈りの戦士」として立ち上がろうではありませんか!! 今こそ立ち上がるべき時なのです!!! 私達クリスチャンが祈る時、偉大なことが起こります。

ロ)「祈る時の絶大な祝福」

 このことに関しては、イザヤ52:1,2から5つのことを見ることが出来ます。

(1)「祈る時、私達は力が着せられます!」

 冒頭のみことばを見て下さい。「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。」 何と言う荘厳な響きでしょうか! 皆さん、ペンテコステの時のことを思い出してみましょう。彼らは120人ほどの人数で、「みな心を合わせ、祈りに専心していた。」と、使徒1:14には明記されています。このように熱心に祈り続けて10日が過ぎ、ペンテコステの日がやってきたのです。そして、もの凄まじい響きと共に、聖霊様がお降りになりました。

 以前学んだように、この時、2つのことが起こっています。一つは、この時から、イエス様を信じる者には聖霊様が心の中に宿って下さるようになりました。これを「聖霊の内住」と言います。そしてもう一つは、「聖霊の満たし」と言われるもので、この項目で見ている「力を着せられる」という状態です。

あの臆病だった弟子達の変貌ぶりを見て下さい。例えばペテロ! 彼の説教の力強いこと(使徒2:14-36)!! 私達が祈る時、私達は聖霊様で満たされます。そして、主の大能の力によって強められるのです。

私はこの「力をまとえ。」という表現が大好きです。まるで、「主の大能の力」という外套(コート)を着せられるかのようではありませんか!! かつて、ある共産国で迫害が起こり、クリスチャンもそれに巻き込まれてしまったことがあります。捕らえられた者達の多くは、あまりにも残酷極まりない拷問のため、狂い死にしたと言います。しかし、クリスチャンは誰一人として、狂って死ぬことはありませんでした。その拷問で死んだクリスチャン達は皆、肉体の限界がきて死んだのであって、精神的には最後まで守られ、支えられていたのです。なぜでしょうか? その拷問から奇跡的に生きて帰って来ることの出来たクリスチャン達がこう証ししています。拷問の最中にあって、神様の臨在がまるで暖かい毛布のように彼らを包んでいたと言うのです!! もちろん、肉体的には痛かったでしょう。苦しかったでしょう。その苦しみたるや、想像を絶するものであったに違いありません。しかし、それ以上に現実的に、神様の全能の御手が、彼らをしっかりと支えていたのです!!!

(激しい拷問の最中でも神様の臨在に包まれると言うことですか。肉体的には苦しみがあっても。何だかとても霊的な世界ですね。神を知らずにいれば想像もつかない価値観です。

ホスピス病棟という末期癌患者の入る病院があるそうですが此処で患者の方々はイエスキリストとの出会いによって祝福され喜びと感謝のうちに亡くなるそうです。

私の父親は咽喉癌で死んだのですが、その死に方は何と首吊り自殺でした。自殺者は同情や遺族の悲しみを誘いますが決して幸いではないことが分かりました。本人が気の毒と言うよりは本人の魂の問題です。天国に行くかどうかの方が重大なのに生きていることがきついからと言って神の祝福も受けずに死ぬことは愚かかも知れません。
自殺は何処か自己義認のためだという嫌いがあり決して高潔な行為ではないのかも知れません。
寧ろ周囲に余計な負担を掛けるだけ悪質とも言えますね。死ぬ前に神に祈れば良かったのでしょう。神様は導きを与えるのであり自殺しろとは言わないかも知れない。
父親は今現在果たして何処にいるのでしょうか。少しばかり気になりますが。)

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

(イザヤ41:10)
おぉ、主よ!! 今日もあなたの力が、私達を覆って下さいますように!!!

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聖書メッセージより

NO. 580 キリストとともに十字架につけられる
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/
”テキスト:ルカ23:32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」”

本日は、「キリストとともに十字架につけられる」という題でメッセージをしたいと思います。

テキストに沿って見ます。

”32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。”

かつての日、主が十字架につけられる日のことです。その日、
主は一人だけで十字架につけられたわけではありません。
聖書によれば、彼の右、左に犯罪人が一緒に十字架につけられました。
このことの意味合いを見ていきたいと思うのです。

この日、主イエスは殺されたました。彼は何らの罪もあらず、それを知っていた裁判を担当した
ピラトは何度も「私はこの人になんらの罪も認めない」とかたりました。

ですから、このイエスの死は、彼の罪のゆえではありません。
では何のための死か?

このことに関して聖書は、「世の罪をとりのぞくための神の小羊」と語り、
主の死は身替わりの死、他の人々をあがなうための死であることを語るのです。

それで、この3人の十字架の死は、罪をあがなう方、小羊なる方に行われ、そして、それとともに
2人の犯罪人すなわち、罪を犯す人の死ということがらであることがわかるのです。

もっとわかりやすくいうなら、キリストの死、罪をあがなうための死は、どの様に罪人に働くのか、
用いられるのか、そんなことを語る箇所、そう理解できるのです。

神のされることに偶然はなく、キリストの死が、たった一人で行われたのではなく、
逆に2人の犯罪人、罪人とともに行われた、そのことの隠れた意味合いを見ていきたいと願っているのです。

かつて、パウロは、この様に述べました。

ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

このことばが正しければ、パウロはキリストとともに十字架につけられたのです。
しかし、そう考えると少し疑問がないわけでもありません。
キリストと直接あったことのないパウロがどうしてキリストとともに十字架に
つけられるのか?そんなことが可能なのか?

しかし、聖書がそう語っているなら、そうなのです。そして、キリストの公生涯の間には、
会ったことのなさそうなパウロでさえ、自分はキリストとともに十字架に
つけられたというのなら、私達もキリストとともに十字架につけられたと考えられます。そう考えるのは妥当です。

以下の箇所では、私達もまたキリストとともに十字架につけられたことを語ります。

ロマ6:6「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」

ですから、キリストと犯罪人が十字架につけられる箇所は、クリスチャンにとって、良く知られた聖句、「私はキリストとともに十字架につけられた」とはどういう意味合いなのかを説明した箇所と理解できます。

キリストとともに全世界の人は十字架につけられました。
そして、全ての人はこの2人の犯罪人に代表されます。
この2人の結末が2種類であり、異なるように全世界の人の結論は2つに分かれます。


34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。”

主は自分では何をしているのかわからない人々のため、十字架で許しを祈りました。
そして、それがまた、主が十字架についた理由でもあります。
多くの何をしているのか、解らない人のため、キリストは十字架にかかったのです。

その十字架のあがないは具体的にどのように我々罪人、犯罪人に益をもたらすのか、
それを語っている箇所がここなのです。

”35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。”

この時、キリストはもっとも尊いこと、多くの人のあがないのため、命をすてると言う
崇高な事柄をおこなっていたのですが、しかし、回りの人々は全く理解していませんでした。
勘ちがいなあざけりや非難を行ったのです。

この様な反応を取るこの時代の人々の対応はもちろん、悪いことであり、けしからんことなのですが、
しかし、これがこの世の現状、実情です。
2000年経った今もあまりかわりありません。何も理解せず、何もわからないのです。
以下の言葉の通りです。

ヨハネ1:5新共同訳「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

しかし、主は我々が何も理解していない、遠く離れていた時、命を捨てられたのです。


38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。”

「これはユダヤ人の王」と彼らが書いた時、誰一人本当にそう思っていたわけでなく、この人物が
王であると思っていたわけではありません。
しかし、結果としてこの札は、意味のあるものとなり、人々が実は、ユダヤに来られた王自身を殺したことをあかししているのです。

しかし、主は神の前にまぎれもなく、この神の民、ユダヤの王であり、そして、
信じる人を救うために十字架にかかられたのです。

”39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。”

イエスとともに十字架につけられた人は、一人ではなく、二人でした。そして、
この二人は対照的です。
これを通して我々はこのことを理解します。

ある意味全世界の人々は全てキリストとともに十字架につけられた。
結果、誰も彼もその罪の体から、脱出し、キリストとともに復活の歩みをする備えは与えられている。
しかし、この様な用意、備えはあるものの、それを全ての人が信仰をもって受け取るわけでも、命にはいるわけでもなく、逆にその歩みは二つにわかれている。

その一つの歩みは、この様なキリストの死、人々のあがないのための死をまのあたりに見ても、
しかし、結局キリストを受け入れず、キリストを非難し、悪口をいい、ののしる人です。
彼にとって、キリストの死は何の効果も生み出しません。
その恵みにあずかることもできません。
これは、世の中の多くの人が歩む道です。

人々はキリストの悪口をいい、神をののしり、教会をののしります。
結果、自分の罪の中に死に、死後さばきに入ります。
彼らは死後、あの「ラザロと金持ち」の金持ちの様に、苦しみの場所、ハデスで苦しむようになるでしょう。彼らにとって、キリストの死は何の意味もなく、彼らはその神のあがないを無にします。


40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」”

しかし、もう一人の犯罪人、罪人は異なります。
彼は自分の罪を認め、キリストには罪がないことを知りました。
この様な思いになる人は救いに近い人です。
救いとは、死後の恐ろしいさばき、火のさばきから「救われる」ことです。


42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」”

彼はキリストをキリストと信じ、認め、そのキリストに願っています。いわば祈っているのです。
この時、誰も彼もがイエスをキリストと認めず、キリスト殺しに同意したのですが、彼の態度は異なります。そして、それは、彼に良い結果をもたらします。

"
43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」”

キリストを信じた犯罪人、罪人はその日、死後キりストとともにパラダイスに入ることが約束されました。
彼は当然入るべきであった、死後の火のさばきを免れ、何とパラダイスに入るとイエス御自身から、
約束をいただいたのです。これを救いというのです。入るべき当然の火のさばきから、
免れること、これが救いなのです。

繰り返しますが、この二人は、全世界の全ての人の型と思われます。全ての人はキリストの十字架を
真ん中にして、2つに分れるのです。
ある人は自分の罪の中にとどまり、ある人はキリストを受け入れ、パラダイスに入ります。

この箇所を読む限り、私達は、死後すぐパラダイスに入るのです。
ずっと先のことではありません。
他の訳もあたりましたが、この箇所は私の理解では、その日、パラダイスへ行くとか
読めません。

また、例の金持ちとラザロの話を読む限り、金持ちは死後すぐハデス(KJV:hell地獄)へ
行っています。彼がまだ死んでいない自分の兄弟のことをアブラハムに依頼していることからそのこと、
金持ちが死後すぐハデスに入ったことがわかるのです。

結果、今の私の結論としては、人は死後すぐ、
ハデス(KJVでは地獄と訳されている)、もしくはパラダイスにはいるのです。
カソリックのいうような煉獄で更正するなどという可能性はありません。
また、セカンドチャンスの様な可能性も私の理解ではないと思えます。

ですから、私達は死後どこへ行くか、生きている間に決定しなければなりません。この2人の犯罪人の様に。
キリストを受け入れ、パラダイスへ入るかはたまた、火の裁きへ入るのか。
だからこそ、以下の様に道にいる間にすなわち、私達は人生の道の途上にある間に
この方、神と和解することが勧められているのです。

”ルカ12:58 あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。
59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。」”

もし、私達がその人生の途上において、神と和解せず、罪を負ったまま、
死ぬなら、裁き、すなわち、裁判に会い、結果、獄すなわち、地獄へ投げいられ、
全ての罪の支払いをするまで、決してそこから出られないのです。
「最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです」と書かれている通りです。

その裁判そして結果、地獄へ投げ込まれること、それは死後すぐ行われます。

この方を恐れ、神との和解を求めましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
ーーーーーーーーーー
死後は直ぐに地獄か天国ですか、知りませんでした。私は最終審判まで何処かで眠り続けていて終わりの日にすべての人間が裁かれると思っていました。死後直ぐなのですね。かなり厳しい話しですが直ぐに行けるのであれば天国行きは感謝です。しかし地獄行きは苦しいですね。

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聖書のみことばより

聖書には人間への救いのみことばが書かれています。
今の世の暴虐への救いの言葉があると思います。
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イザヤ書41章
10)恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。

13)あなたの神、主なるわたしはあなたの右の手をとってあなたに言う、「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。

15)見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある新しい打穀機とする。あなたは山を打って、これを粉々にし、丘をもみがらのようにする

イザヤ書42章

7)盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる。

11)ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。

イザヤ書45章

7)わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である。

(神様は「災い」をも造り出す方であると書かれています。すべての事柄は神の支配下です。)

イザヤ書46章

12)心をかたくなにして、救に遠い者よ、わたしに聞け。

13)わたしはわが救を近づかせるゆえ、その来ることは遠くない。わが救はおそくない。わたしは救をシオンに与え、わが栄光をイスラエルに与える」。

イザヤ書48章

22)主は言われた、「悪い者には平安がない」と。

イザヤ書49章

26)わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。こうして、すべての人はわたしが主であって、あなたの救主、またあなたのあがない主、ヤコブの全能者であることを知るようになる」。

第51章

1)「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。

7)義を知る者よ、心のうちにわが律法をたもつ者よ、わたしに聞け。人のそしりを恐れてはならない、彼らのののしりに驚いてはならない。

8)彼らは衣のように、しみに食われ、羊の毛のように虫に食われるからだ。しかし、わが義はとこしえにながらえ、わが救はよろず代に及ぶ」。

12)「わたしこそあなたを慰める者だ。あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、草のようになるべき人の子を恐れるのか。

13)天をのべ、地の基をすえられたあなたの造り主、主を忘れて、なぜ、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、その憤りのゆえに常にひねもす恐れるのか。しえたげる者の憤りはどこにあるか。

14)身をかがめている捕われ人は、すみやかに解かれて、死ぬことなく、穴にくだることなく、その食物はつきることがない。

21)それゆえ、苦しめる者、酒にではなく酔っている者よ、これを聞け。

22)あなたの主、おのが民の訴えを弁護されるあなたの神、主はこう言われる、「見よ、わたしはよろめかす杯をあなたの手から取り除き、わが憤りの大杯を取り除いた。あなたは再びこれを飲むことはない。

23)わたしはこれをあなたを悩ます者の手におく。彼らはさきにあなたにむかって言った、『身をかがめよ、われわれは越えていこう』と。そしてあなたはその背を地のようにし、ちまたのようにして、彼らの越えていくにまかせた」。

(杯とは「苦しみ、困難」などの意味だろうか。これを読むと今苦しみを与えている側にそれが渡るという意味だと思います。)

第52章

1)シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ。聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。割礼を受けない者および汚れた者は、もはやあなたのところに、はいることがないからだ。

(美しい衣とは即ち神への信頼という意味だそうです。)

2)捕われたエルサレムよ、あなたの身からちりを振り落せ、起きよ。捕われたシオンの娘よ、あなたの首のなわを解きすてよ。

(首の縄とは「罪」だと思います。神に信頼することで罪からの解放があります。)

3)主はこう言われる、「あなたがたは、ただで売られた。金を出さずにあがなわれる」。
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以上のみことばには余り理解できないというか正確に意味が分からない物もありますが救いを覚える箇所をコピペしました。他にも多くのみことばが救いと慰めを与えて下さいます。
みことばサイト「聖書の杜」から
http://bible.monochro.com/index/19257/#ln19257



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十人の花嫁の譬え

過去に聖書の箇所で読んだ「十人の花嫁」の喩えについて検索するとこの様なサイトがありました。

http://www31.ocn.ne.jp/~fellowship/mat25.htm
マタイ 25章
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十人の娘の譬え(25:1-13)

終末に備えるキリスト者に求められているのは、「忠実な思慮深いしもべ」の姿である。その資格の一つである「思慮深い」準備について前記の譬えを更に補足しているのが、この「十人の娘の譬え」である。前章の「思慮深い」〈ギ〉フロニモスは、2、4、8、9節では「賢い」と訳されている。

この譬えに登場するのは、「それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘」である。「そのうち五人は愚かで、五人は賢かった」「賢い人」と「愚かな人」の対比がなされている。(参7:24-27)

「十人の娘」は、花婿を出迎える「花嫁の友」たちである。ここに見られるユダヤの婚礼は、婚約して約1年後、法的にすでに夫婦となっていた両人の夫婦生活が始まることを祝う喜びの祝宴である。その婚宴は花婿の家で開かれるのが普通で、花婿は夕方になってから花婿の友と一緒に花嫁の家に花嫁を迎えに行く。花婿の友が音頭を取り、花嫁の友が美しく着飾り、二人を婚宴の席に導き、盛大な祝宴が開かれる。

この譬えでは、花婿の到着と同時に「婚礼の祝宴」が始まっているようにも見受けられるので、花嫁の家で婚礼が行われたものとも考えられる。

現在でも、パレスチナの婚礼では、この譬えで描かれていることが行われている。花婿は「花嫁の友」たちが眠っている時に、不意をついてやって来たりする。その時、先ぶれの男が「そら、花婿だ」と叫ぶことになっている。しかしその時がいつであるか分からないので、「花嫁の友」たちはいつでも用意していなければならない。そして、婚礼の祝宴が始まると、妨害者が入り込むのを防ぐため「戸がしめられ」、鍵もかけられる。遅れて来た者は婚宴に出られない。

「花嫁の友」は、主イエスの再臨を待望する教会を表す。

五人の「賢い娘たち」と五人の「愚かな娘たち」の「賢さ」と「愚かさ」を分けたものは、いつ来るかもしれない花婿のために、「自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた」というその思慮深さである。

「入れ物に油を入れて持っていた」というのは、予備の油を入れた容を用意していたということである。逆に「愚かな娘たち」の「愚かさ」は、予備の油まで用意する配慮、知恵がなかった点にある。賢い娘たちは、たとい花婿の到着が遅れても、その時「ともしび」をともして迎えに出られるように、万全の準備をしていた。「ともしび」は、花嫁の友が花婿を出迎えるのに必要な条件あるいは資格である。

この「ともしび」は、キリスト者としての教会生活・信仰生活を指すと考えられる。そして、ともしびをともす「油」は、「聖霊」を示すと考えられる。聖書では、油は聖霊の象徴となっている。

思慮深い、賢いキリスト者は、常に聖霊の満たしを受けて、主の再臨を待ち望みながら、教会生活・信仰生活に励むのである。逆に聖霊の満たしなくしては、教会生活・信仰生活を送ること困難であり、主の再臨に備えていることは出来ない。それでパウロは、「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサロニケ5:19)と忠告し、また「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と勧告している。聖霊の油の切れたキリスト者は、形式的に信仰を保つことができても、律法主義となり、教会生活に信仰生活喜びの光を見出すことはできないだろう。

次に「愚かな娘たち」。夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ。」と叫ぶ声がした時、うとうとして眠っていた娘たちは、「みな起きて、自分のともしびを整えた。」しかし五人の愚かな娘たちは、自分の持っているともしびの油が無くなりそうなのを見て、予備の油を持っていた賢い娘たちに「油を少し私たちに分けてください」と頼んだ。しかし、それは無理な頼みであった。予備の油は少量で、分けてやりたくても分けるだけの余裕がなかった。行列の途中で明りが全部消えてしまわないために、やむを得ない。賢い娘たちが「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい」と答えたのは、当然のことであった。祝いの日は、遅い時間でも店を開けてくれる。

「戸がしめられた」には、「賢い娘たち」と「愚かな娘たち」を決定的に永遠に分ける、恐ろしく、きびしい響きがある。神の国への扉は一たん閉じられたら、開くことはあり得ないから、開かれているうちに入らなければならない。

彼女たちの「愚かさ」は、先ず第一に予備の油を用意しておかなかったということである。彼女たちが油の不足をその時まで気付かず、求め始めたのが遅すぎたことである。店の閉まらない昼間のうちに、油を買い求めていなければならない。今は、教会生活と信仰生活に励む中で、自由に、無代価で聖霊の油を買うことが出来る時である。終わりの日では、もう遅すぎる。最後になってからでは間に合わないという厳しい警告である。

第二に「油を少し私たちに分けてください」と頼んだことにある。聖霊は、人から人へ簡単に分け与えられるものではない。聖霊は、金で買えないことは勿論(使徒8:20)、貸し借りすることもできない。それは、神のみことばに従い、神に祈り求めることによってだけ与えられる。一人一人が神から受けている聖霊の油は、その人自身にとって必要不可欠なもので、他の人に分けてやれる性質ものではない。
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タラントの譬え(25:14-30)

終末に備えるキリスト者に求められている「忠実な思慮深いしもべ」の、「思慮深い」面については「十人の娘の譬え」で扱われた。もう一つの「忠実な」面については、この「タラントの譬え」で教えられている。「良い忠実なしもべ」と「悪い怠け者のしもべ」との対比がなされ、それによって「忠実な」態度を教えようとしている。

この譬え話には、3つの基本的な事柄が見られる。第1に委託である。神は弟子たち一人一人に何かを託している。第2に活用である。委託されたものを生かすことが期待されている。第3に清算である。清算はゆだねられた額に応じてなされ、忠実さが問われる。

旅立つ主人が、「しもべたちを呼んで、自分の財産を預け」た。その額は「おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラント」であった。この「タラント」という言葉は、英語のtalentでは、その人の持って生まれた「特別な才能」を表す。この譬えの「タラント」は、単に生まれながら持っている特別な才能ばかりではなく、聖霊によって与えられる特別な才能、能力、すなわち「賜物」を示していると考えられる。それがどのような「能力」また「タラント」であったとしても、全て主から預けられたものなのである。

この「タラントの譬え」とよく似た「ミナの譬え」(ルカ19:11-27)では、十人のしもべに一律に「一ミナ」ずつ預けられているが、その管理運用の結果は、各しもべに能力差があったことを示している。ちなみに、この二つの譬えは、別々に語られたものである。

キリスト者は、自分の持っているものをみな、主から預けられた貴重な賜物として尊ぶべきである。それは主人である神から委ねられた大切な「財産」なのである。その賜物は、目に見えるもの(財産や職務など)も、私たちの内にある能力、経験、社会的信用などのすべてである。それらのすべてについて、主の再臨の日に清算を求められる。

「一タラント」は「六千デナリ」、すなわち、当時の労働者の六千日分の賃金に相当する。一番少ないしもべでも、六千日分の賃金にも相当する賜物を与えられている。自分には何の賜物もないと自己卑下するようなことが、どうして許されよう。すべてのキリスト者は、主の御国の働きのために、最低六千日分の賃金にも相当する重要な働きをする者として召されているのである。

それとともに、主から委託された財産の額がキリスト者によって異なることも、認めなければならない。ある人は「五タラント」、ある人は「二タラント」、ある人は「一タラント」というように、主の財産の最も良い管理・運用のために、最適とみなされている割合で、分配を受けている。それゆえ、他人を羨んだり、妬んだり、また自分を卑下したりすることなく、その預かり物を感謝して受け、その委託の責任に正しく応えなければならない。「五タラント預かった者」も「二タラント預かった者」も、そのような正しい態度で行動したのに、「一タラント預かった者」はそうすることができず、預かった金を活用せずに地中に埋めてしまった。
19-23では、「良い忠実なしもべ」について語られている。主人が帰って来て、彼らと清算をした時、「五タラント預かった者」は、預かった五タラントに、儲けた五タラントをも差し出して、自分のした「商売」の結果を報告した。そのしもべを主人は賞賛し、多くの報いを約束した。「忠実な」と訳されているピストスは、「信用できる」の意味。このしもべの忠実度・信用度は、彼が預けられた物を、どのように正しく管理・運用したかにかかっている。だから主人は、「二タラントの者」が二タラントの儲けを差し出した時にも、五タラント儲けたしもべに対してと同じ言葉で賞賛し、全く同じ報いを約束している。しもべの「忠実な」態度は、その儲けた金額によってではなく、委託された物を忠実に管理・運用したことによって評価されている。

「良い忠実なしもべ」に与えられる報酬は、「たくさんの物を任せよう」ということである。それは「天の御国」を受けることである(→14)。「御国」は、「王的支配」の意味。天の御国で、キリスト者は、神とキリストとの王的支配に参与し、全世界を治める務めを与えられる(→黙示2:26,27、22:5)。私たちに約束されている報酬を覚える時、地上の人生も変わって来る。私たちの地上での働きぶりは、天の御国における更に重要な働きが与えられるための準備となる。御国で任せられる主の全財産に比べれば、今の預かり物は、たとい五タラントという巨万の富でも「わずかな物」にすぎない。私たちは、天で「たくさんの物」を任せられる者となるために、地上で「わずかな物」に忠実でなければならない(→ルカ16:10)。
24-30では、「悪い怠け者のしもべ」のことが述べられている。「一タラント預かっていた者」は、その大切な預かり物を商売で減らしてはいけないという臆病な態度から、それを地中に「隠しておいた」。それを盗もうとした訳でも、無駄に使った訳でもない。「あさどうぞ、これがあなたの物です」と主人から預かった一タラントを返せたことで、彼は満足していた。しかし、彼は委託された物を忠実に運用しなかったことのゆえに、「悪い怠け者のしもべだ」と叱責されている。地中に隠しておくくらいなら、「銀行に預けておくべきだった。そうすれば…利息がついて返してもらえた」当時はローマ帝国の支配下で「銀行」が普及し、利息がかなり高かった。主人が帰るまでの期間はかなり長かったので、銀行に預けておけば相当の利息が付いたはずである。また、主人の長い留守の間に、仲間のしもべたちの働きぶりを見て、それに見習うことも十分に出来たはずである。

彼は、主人が「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていた」ので、「こわくなり」、その一タラントを「地の中に隠しておいた」と言う。彼のうちには、主人をこのように「ひどい方」だと思った誤った評価を持ち、誤った恐れのために良い働きができなかった。それだけではない、自分の怠慢を弁護して、それを主人のせいにする。それとは反対に、「良い忠実なしもべ」たちは、主人との良好な関係を持ち、自分の忠実な働きによって主人が喜んでくれる喜びに、与りたいと思ったのではないだろうか。そういう態度の全くなかったしもべは、預けられた一タラントまで取り上げられて、「役に立たぬしもべ」として「外の暗やみ」すなわち永遠の滅亡に突き落とされてしまう。

「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられる。」これは人生の原理である。何事でも与えられているものを用いるなら、それは益々増し加えられて大きくなっていく。しかし、用いないなら、折角あるものまで失われてしまう。真に価値あるものは、用いることによってのみ所有し続けることが可能である。

すべてのキリスト者は、主から委託された「タラント」の管理者である。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(Ⅰペテロ4:10)。
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最後の審判(25:31-46)

この箇所では、最後の審判が描写され、この世における愛のわざの重要性を教えている。この教えは「羊と山羊の譬え」として知られているが、厳密な意味では、「譬え」というより、むしろ最後の審判の詩的表現で、16:27の成就が描かれている。

ここでイエスは、ご自分が王座に着いて、すべての人々を裁く王であることを宣言しておられる。イエスが栄光の位をに着いた時、「すべての国々の民が、その御前に集められ」る。ここに示されているのは最後の審判のことである。その時、イエスは「羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に」置かれる(エゼキエル34:17)。

その時まで、羊と山羊は一つの群れの中に交じり合っている。丁度、一つの畑に麦と毒麦が混在し(13:24-30、36-43)、一つの家で賢い娘と愚かな娘が共に花婿を待ち(25:1-13)、忠実なしもべと怠け者のしもべが共に主人の帰りを待っていたように(25:14-30)。しかし、終わりの日には、羊と山羊とは分けられる。

イエスは、羊たちが入れられる天の御国を、「世の初めから、あなたがたのために備えられた御国」と言われる。このような「朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐ」(Ⅰペテロ1:3-6)。

「羊」は37節の「正しい人」であり、「山羊」は41節で「のろわれた者」と言われている。

最後の審判の時、羊を山羊から分ける決定要素は、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとり」に、「空腹であったとき…食べる物を与え、渇いていたとき…飲ませ、旅人であったとき…宿を貸し、裸のとき…着る物を与え、病気をしたとき…見舞い、牢にいたとき…たずねてくれた」愛のわざである。

しかし、この愛のわざは、それ自体が救いの条件となる功徳とはみなされていない。これらの愛のわざは、彼らが「正しい人」であること(救われていること)の根拠なのではなく、「正しい人」であること(救われていること)の証拠であることを示す。しかも、その証拠を聞かされた羊たち(正しい人たち)は、「いつ私たちがそんなことをしたのでしょう」と、全く意外であると驚いている。それは彼らが知らずにした、彼らの信仰から生じたものであることを示している。

愛のわざは、その人に本当の信仰があったことの目に見える証拠となる。そういう証拠が、最後の審判の時には、本当の信仰を見せかけの信仰から区別するために必要になってくる(→ヤコブ2:15-18)。愛のわざを生むまことの信仰と、口先だけの偽りの信仰とは、区別されなければならない。私たちが救われるのは、信仰によってである(ガラテヤ5:6)。

イエスは、左に置かれた山羊たちに、「おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった」と言われる。

ここでイエスがあげておられるわざには、目を見張らせるような「力あるわざ」は一つもない。羊たちはイエスの語られた言葉をそのまま反復するように答えたが、山羊たちの返事は簡単であっさりしている。恐らく彼らは、「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか」(7:22)と言いたかったのかもしれない。

これらの愛のわざは、キリストへの無意識的な奉仕であったということである。羊も山羊も王の言葉に驚いた。その驚きは、単に衣食をめぐみ、旅人をもてなし、病気見舞いなどの奉仕をしたかどうかについてではない。無意識の内にキリストご自身に仕えたか、仕えなかったかという点である。

「山羊」の人々は、キリストが困っておられるなら払うつもりの犠牲や奉仕を、困っているキリスト者のためには払おうとしなかった。イエスは、ご自分を信じる者たちがみな兄弟であり、互いに愛し合うようにという新しい戒めを与えておられる(ヨハネ13:34,35、Ⅰペテロ1:22)。

「最も小さな者たち」は主にある兄弟たちであり、世の中でにうとんじられ、さげすまれ、無価値な存在とみなされる者たちである(→10:42、18:5)。

「永遠の刑罰」とは、来る世での刑罰であり、そこは「永遠の火」の場である。

この話は本書でのイエスの最後の教えとなる。
ーーーーーーーーーー
「十人の花嫁」の喩えについての説教は少し前の礼拝説教で聞きました。去年ですが。
出張の牧師先生のお話でしたが、幸い聖書への目が開かれていたため、理解しやすかったのです。
世の終わりについての話しでしたが、終わりに備えての信仰生活についての戒めだったようです。
その中で驚いたことは「教会により「聖霊」「再臨」を「気持ち悪い」などと言い、笑い飛ばすようなところもある」とのことでした。
それは意外でしたがそう言うことを聞けることも幸いかも知れません。
信仰の目が開かれていなければ何言っているのか理解できませんでした。
その先生は何処か真面目な態度で終わりについて説教されていきましたが、この類の話は信仰がなければ意味のないことなのかも知れません。
しかし神は終わりに近いときに多くの選びの民に聖霊を注ぐという記述がありますが、これは今の日本に当て嵌まるのだろうかと思います。
聖書のイザヤ書に書かれていました。
聖書の学びは重要問題だと思います。

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地獄について

マルコの福音書
9章

43)もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。


44)〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕


45)もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。


46)〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕


47)もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。


48)地獄では、うじがつきず、火も消えることがない
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今朝聖書を読んだ箇所ですが、この箇所では地獄について言われています。奇妙なのは括弧入りで〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕 と繰り返しています。
そしてこのみことば自体は3回繰り返されています。
これはどういう意味だろうか。
神の書かれた聖書ではこの地獄についての説明で「つきない蛆と火」というのが繰り返し出て来ます。
これ程までに繰り返し書かれていると言うことは「地獄は実在し、確実にそこで焼かれながら蛆に見舞われ続ける」という意味だと思います。
他に「行いへの報い」についても、聖書では繰り返し書かれています。
「罪を犯すくらいならばかたわになる方が良いのです」と、繰り返し書かれているように思います。
語弊があったらすみません。
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http://bible.monochro.com/
「聖書の杜」というみことばのサイトですが、キーワード検索できます。

過去に聖書を読んだときに心に留まったみことばです。
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マタイの福音書5章
11)わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、
あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、
さいわいである。
12)喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
10章
28)また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
(隠されていることに関するみことばです)
マルコの福音書4章
22)なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、
秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。
ルカによる福音書:第8章
17)隠されているもので、あらわにならないものはなく、
秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。
ルカによる福音書:第12章
2)おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、
知られてこないものはない。
ヨブ記:第34章
22)悪を行う者には身を隠すべき暗やみもなく、暗黒もない。
(「報い」の検索結果です)
詩篇:第一巻 1
12)血を流す者にあだを報いられる主は彼らを心にとめ、
苦しむ者の叫びをお忘れにならないからです。
詩篇:第一巻 1
23)すべての聖徒よ、主を愛せよ。主は真実な者を守られるが、
おごりふるまう者にはしたたかに報いられる。
詩篇:第一巻 1
12)主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。
あなたは人おのおののわざにしたがって報いられるからである。
箴言:第20章
22)「わたしが悪に報いる」と言ってはならない、主を待ち望め、
主はあなたを助けられる。
箴言:第24章
12)あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、
心をはかる者はそれを悟らないであろうか。あなたの魂を守る者は
それを知らないであろうか。彼はおのおのの行いにより、
人に報いないであろうか。

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礼拝メッセージ

礼拝メッセージ集よりコピペしました。
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振り向いてみない異邦人

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 かなり前になりますが「異邦人」と言う歌が大流行しました。“ちょっと振り向いてみただけの異邦人”という小粋な歌詞に心引かれた人々が多かったのでしょう。この歌を歌った久保田早紀という人は、その時はクリスチャンではなかったらしいのですが、その後、クリスチャンになりました。今は久米小百合と言う名前で、教会関係で賛美歌を歌っています。本当に振り向いたのでしょう。
 先日、グアムに行ったとき、あらかじめ日本人教会を探して電話番号を控えて行ったのですが、現地に行って掛けてみると、別の教会になっていました。急いでショッピングセンターの電話番号簿で探しても見つからず、お店の人も知らないと言っていました。無理も無いと思いました。日本本土でもクリスチャンは人口の0.7%です。グアムに何人日本人がいるか知りませんが1000人いても7人しかいないわけです。立ち行けません。
 海外に行って驚くのは実に日本人の観光客が多いことです。また、日本の工業製品は優秀で世界にあふれています。そして日本人は宗教に対しても信仰的で多くの宗教を尊んでいます。しかし、キリスト教だけは別です。世界の先進国でキリスト教が10%未満と言うのはイスラム圏以外では日本とイスラエルだけです。そしてご承知の通りイスラエルはユダヤ教です。
 キリスト教と言うのは、ユダヤ教なのです。ユダヤ教は旧約聖書の約束のメシヤ(ヘ)=キリスト(ギ)が来ることを期待して待っているのに対して、キリスト教はもう来たと信じているのです。ですからユダヤ教は未完のユダヤ教であり、キリスト教は完成したユダヤ教です。ただ、キリスト教がイエス(ギ)=ヨシュア(ヘ)がメシアだったと言うのをユダヤ教は認めないのです。〔(ヘ)ヘブル語、(ギ)ギリシャ語〕ところが最近ユダヤ人の中でも次第にイエスがあの約束のメシアだったと信じる人々が増えてきました。
 お隣の韓国では30%が、共産主義の中国でも10%がクリスチャンだと言うのに、ひとり日本だけは頑として受け入れません。(0.7%なんて数に入りません)
  日本は物質的には世界でも有数の豊かな国になりました。しかし今更言うまでもでもないことですが、精神的には最貧国といって良いでしょう。毎日々々起こる殺人事件、自殺。会社や学校では社員や教員のうつ病の対策に負われています。どうして振り向いてみないのでしょうか。ここに解決があるのに。キリスト教と言うだけで、まるで幽霊にでも会ったように、あわてて避けるのをみていると不思議でなりません。
 日本に神社、仏閣、新興宗教がどれほどあるか知りませんが、そのどれに行っても救いはありません。聖書は明確にそう告げています。

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。使徒4:12

お百度参りしようと、千日回行しようと神に至る道は一つだけです。そういうと、だから一神教はいやだ、不寛容で戦闘的だと言います。いいですか、もし人が作り出す宗教、神への道を全て認めていたら、神への道は無数に出来て、それは真理を覆い隠してしまうでしょう。さらに人が作り出す宗教や清めの道は、絶対にその人間の品性の邪悪さや自己中心、自己陶酔と無関係ではないはずです。人間が本質的に清らかで、無垢のものなら確かに救いはあるかもしれません。しかし、残念ながら人間は本質的に穢れ、自己本位で、高慢と言う性質から無関係ではありません。ほとんどの日本の宗教は自己陶酔であり自己賛美だと私は思います。客観的な理性による自己分析がありません。
 人間の邪悪さについてですが、私は色々な詐欺の話を聞くとき、とりわけこのことを確信します。人を殺すのは衝動的なことがありますが、詐欺は念入りに計画を練って人を謀るのです。それによってどれほど多くの人々が、全財産を失ったり、破滅に至ったかを考えてみてください。これが人間の本質の中にあるのです。これは弱さゆえの罪ではありません。(罪には人間が悪いと知りながら自分の弱さに負けて犯してしまう罪と、悪いと知りながらあえて行う罪とがあります。神様はこの二つを明確に分けています。例えば殺人でも“誤って”殺した場合には、「逃れの町」という制度がありました。)
 毎日々々これほど悲惨でむごたらしいことが頻発しているのに、それでも人間を信じますか? 人間の作った宗教を信じますか? どうして、ここに真理があり、人間の求めている解答、歩むべき道があると言うことを、少しでも信じてみようと思わないのでしょうか? 私は不思議でなりません。なぜ振り向いて見もしないで避けてしまうのですか?
 
 人間って何ですか? 私はなぜ生まれてきたのですか? という疑問があるでしょう。

知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。詩篇100:3

 これが人間の創られた理由です。人間を羊に例えるなんて不愉快だと言う人もいますがイエス様はこう言っておられます。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。ヨハネ10:11

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。ヨハネ15:13

 私たちは神の愛を受け取るべきものとして創られました。あなたは愛されるために生まれたのです。神は愛であり、愛は対象を激しく求めます。神はあなたを激しく求めているのです。旧約聖書全編に、神のうめきが書かれています。それは特別に愛すべき対象として、人類の代表として創造したイスラエル民族が、神を裏切り、偶像信仰に走り、神をないがしろにし続けたからです。そしてそれは人類全体のことでもあります。

5:1 わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。 5:2 彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。 5:3 それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。 5:4 わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。 5:5 それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、踏み荒されるにまかせる。 5:6 わたしはこれを荒して、刈り込むことも、耕すこともせず、おどろと、いばらとを生えさせ、また雲に命じて、その上に雨を降らさない。 5:7 万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。 5:8 わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加えて、余地をあまさず、自分ひとり、国のうちに住まおうとする。 5:9 万軍の主はわたしの耳に誓って言われた、「必ずや多くの家は荒れすたれ、大きな麗しい家も住む者がないようになる。 5:10 十反のぶどう畑もわずかに一バテの実を結び、一ホメルの種もわずかに一エパの実を結ぶ」。イザヤ書5:1~10(口語訳)

 ぶどう園の主人は土地を耕し、良いぶどうの苗を植えてよいぶどうのなるのを楽しみに待っていました。しかし、出来たのはすっぱくて食用にならないものでした。ぶどう園の主人は聞いています。「わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。」私にすべきことが他にあったのか? 私は全てを完全に準備したのではなかったか? 
これが神の叫びです。

「主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。」

これが今日の社会です。さあ、全ての先入観と虚栄と自己満足を捨てて、虚心に真実に向かってください。神様はあなたを待っています。

わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。イザヤ65:1

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主に身を避ける生き方

2006年12月3日「主に身を避ける人」詩篇11:1-7
              
序-ダビデは、とても苦しい立場に置かれていました。ダビデは、神様だけ頼って、目の前の危機を克服しようと心に決めていたのでが、側近たちは色々な手段を提案して困難から逃れることを進言したのです。部下たちの情のこもった忠告に従うのか、それとも、神様に頼って待つのかについて、ダビデは迅速に決定しなければなりませんでした。世に生きている私たちも、このような決定を下なければならない時がしばしばあります。信仰でするのですか、世の方法でするのですか。

Ⅰ-どこに身を避けますか、友人の勧めは-
 サウルの執拗さは、ダビデがイスラエルのどこに逃げようとも、隈なく探し出し、彼を助ける人を皆殺しにするほどでした。人々は密告もしました。ダビデはやるせない思いでした。忠実に仕えていたのに、地位も妻も奪われて、身一つで逃れ回る身の上となったからです。現代のことで言えば、他社のせいで会社が潰れ、家も財産も無くし、債権者から逃れるため一人であちこち逃げ回るというような感じでしょうか。自分は懸命に働き、真面目に生きているのに、何かのことで責め立てられる、地位を奪われる、執拗な圧迫を受ける、助けてくれる人がいない、そんな状況に陥る人々も、ダビデのような心境でしょうか。
 そのような時、どこへ身を避ければよいのでしょうか。1-2節。ここで、ダビデは「主に身を避ける」と言っています。これは、どんな意味なのでしょうか。詩篇56:11,118:5-9。消極的な意味では、この世には自分の身を避ける所がどこにもないから、ということです。サウル王の追っ手や密告によって、ダビデが安心できる所がなかったからです。積極的な意味では、困難な中でも絶対に絶望しないで、むしろもっと神様の御言葉に信頼して祈りながら、神様の助けを待ち望む、ということです。
 しかしそれは、彼を人間的に愛して、大切に思う人々には、大変愚かなことに見えたのです。それで、彼らは良かれと思い、忠告したのです。1節後半。詩的な「鳥のようにおまえたちの山に飛んで行け」という表現には、忠告者のどんな意図があると見ることができますか。「おまえたちの山」とは、人間的な方法を言っています。ただ愚かに神様の助けを待つのを止めて、いろいろ計画を立てて、頼める所へ頼んで逃げ込めばいいのに、ということです。神様に頼らないで、人間的な方法を取れと言っているのです。エレミヤ42:7-19。世の方法を取って、ノブの祭司たちの所へ逃げ込んだ時、匿ってくれた人々が皆殺しにされました。
 ここには、信仰によって生きる人とそうでない人の違いがあります。信仰のよって生きる人は、究極的には自分の計画を持ちません。その代わり、すべてことを神様に委ねて、一日一日信仰で生きて行こうとします。そうすれば、毎日神様の御言葉が自分に恵みとなって、聖霊の感動を体験させるようになります。しかし、そうでない人は、自分の力で生きて行こうとするために、一日中苦心します。それで、藁をも掴みたい心境になってあのことに望みを託し、この人に話して助けを求めます。しかし、淡い期待で終わってしまうのです。
 「鳥のように自分の山に飛んで行く」、すなわち人間的世の方法を取れば、「悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている」ことになると言うのです。2節。自分のことすべてが悪人の手に握られているようなものだ、という意味です。詩的な表現ですが、愚かな恐ろしいことです。ですから、悪者の弓で射られないようにして下さいと祈りながら、主に委ねるのです。
 今詩人がどのほどの患難の中にあるかと言えば、生活の基礎のすべてが破壊されていて、生活の基盤がない、世の人々が拠り所とするものすべてが無いということです。3節。しかし、ダビデは、このような圧迫感の中でも、神様に拠り頼んでいたので、絶望することはありませんでした。なぜなら、神様が責任を取って下さることを信じているからです。イエス様も、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言われました。マタイ8:20。イエス様は世におられた時には、本当にご自身の体一つも安全に委ねる所がありませんでした。救い主も経験されたことを覚えて、私たちは慰めと励ましを受けます。

Ⅱ-神様の行なわれる方式-4 
 現実が厳しく、辛い状況にある人は、どのようにすればいいのでしょうか。多くの人は酒に逃避しようとします。しばらくは酔いに現実を忘れるためです。そうでなければ、空想に浸る方法もあります。しかし、酒や空想はしばしば私たちを現実から遠ざからせて、現実感を失わせて、もっと困難を乗り越えることを難しくさせます。それで、結局身を滅ぼしてしまいます。イエス様を信じる聖徒たちが主に身を避けるとは、どんな方法でしょう。まず一つは、神様について深い黙想をすることです。4節。困難の中にいる時、神様を深く覚えることは現実逃避ではありません。患難の中で、神様にしっかり自分自身を委ねることです。ちょうど嵐や洪水の時、大きな木に自分自身を巻きつけてしまうようなものです。
 そして、そのような時、自分が何を思うかということが重要です。もし、自分なんて駄目だ考えて過去の愚かな失敗などを思い出すなら、結局耐えることができなくて、自暴自棄になってしまうでしょう。しかし、神様の御言葉を思い出すなら、その人は再び力を得ることができるのです。ですから、もう一つの方法とは、以前に神様が下さった恵みを思い出すことです。過去に神様が下さった恵みは、私たちの大切な資産です。なくなってしまいそうだった信仰、教会が、今はあきる台BCとその聖徒となって回復されているという恵みは、私たちが困難の中で寄って立つべき恵みです。神様が困難な時、私たちの祈りを聞いて下さったと思い出す時、今心にある傷が癒され始めます。希望が生じて来ます。これが神様の恵みの回復です。
 重要なことは、神様の王座が天にあるということです。4節。「王座」とは、統治を示しています。人の統治は気まぐれで罪に翻弄されますが、そのような人の統治の上に神様の王座があります。それで、結局は悪い統治者の思い通りにはならないのです。初代教会の聖徒たちは、迫害する皇帝の上にキリストの王座があることを見ていました。そして、迫害と患難に耐え、信仰の勝利を得て行ったのです。私たちも、今日の統治や人の権力を見ても、同じように思うことです。悪者の思い通りにならないように祈りましょう。神様の統治を確信しましょう。
 「その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。」4節。これは、神様が天の王座から見ておられるので、ご覧になることができないものは何一つない、という意味です。巨大な迷路も上空から見れば、どの道を行けばいいか分かります。ですから、私たちが、御言葉と祈りで神様に繋がっていれば、絶対に滅びることはありません。私たちが道でない方へ行こうとしたら、神様が遮り、従順について行くなら、道があるのです。ですから、重要なことは、神様との通信です。
 神様は見ておられれるだけではありません。義人を愛し、悪者を憎まれます。5-7節。ですから、すでに義人が勝利するように定められているのです。では、なぜ神様は沈黙を守り、悪者が暴れるように放っておかれるのでしょうか。それは、神様が沈黙しておられる間に、人々の心の中にあることが、曝け出されるためです。正しい者は、困難な時期を通して自分の中にあることが曝け出されて、悪い者も神様が黙っておられる期間を通じて、自分の中にある悪いことすべてを曝け出すようになるのです。苦難の意味って、こういうことだったのです。
 ですから、主に身を避ける者は、困難な中でもっと聖くなって、もっと多く祈り、もっと神様を愛するようになります。一方、世の方法取る人はもっと高慢に、もっと暴虐的に、もっと堕落するのです。神様は人々の中に入っている考えと思いを明るみに出させるために、十分な時間を下さり、後で弁明できなくなります。6節、エペソ5:8-13,Ⅰコリント4:5。決定的な瞬間には、神様は悪者を網を張って捕らえます。悪い者の偽善や嘘が曝け出されれば、その後彼らに目を向ける人が誰もいなくなるのです。
 「彼らの杯への分け前となろう」(6)とありますが、昔王様に杯を捧げる宦官に対して、王は信頼する者の杯から飲み、反逆の心を持った者の杯を捨てたそうです。恵みを受けようとするなら、自分の心の杯に良いものを盛らなければなりません。他の人に呪いを浴びせ、罵る者はいつか自分にそれが返って来ます。人を妬み踏みにじるなら、結局は自分自身がその杯を飲むことになります。神様が見ておられ、仕業に応じられるのです。
 素直に確信をもって生きれば、神様の「御顔を仰ぎ見る」者となります。7節,Ⅰヨハネ3:21-22。正直であるならば、大胆になることができます。神様が守って下さるという確信を持つことができます。そのような人は、危機の中でも顔と顔を合わせるように神様を見る者となるのです。やがてダビデを妬み憎んで執拗に追い回したサウル王は戦いに死に、ダビデは堂々と神様を礼拝することができるようになります。神様の栄光を体験しようとするなら、終わりまで忍耐して待たなければなりません。患難の時に御言葉を通して神様を知って、神様について深く黙想することです。私たちは、そうしている間に霊的成長し、広い心を持つようになり、私たちを苦しめていた問題も自然と解決するようになります。箴言16:20。
詩篇11:1 主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。
11:2 それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。
11:3 拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」
11:4 主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。
11:5 主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。
11:6 主は、悪者の上に網を張る。火と硫黄。燃える風が彼らの杯への分け前となろう。
11:7 主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。

詩篇 56:10 神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。
56:11 私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。
56:12 神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。私は、感謝のいけにえを、あなたにささげます。
56:13 あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。

詩篇118:5 苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。
118:6 主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。
118:7 主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。
118:8 主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。
118:9 主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい

エレミヤ42:17 エジプトに行ってそこに寄留しようと決心した者たちはみな、そこで剣とききんと疫病で死に、わたしが彼らに下すわざわいをのがれて生き残る者はいない。』

マタイ8:20 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

詩篇138:6 まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。
138:7 私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。

エペソ5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
5:9 ――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――
5:10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
5:11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
5:12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。

Ⅰコリント4:5 ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。

Ⅰヨハネ3:21 愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、
3:22 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。

箴言16:20 みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである
http://www5.ocn.ne.jp/~akiru-ch/06.12.03sekkyou.html

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このメッセージは集スト被害者の方々には大変励ましになりそうです。私にとっても励ましとなりました。分かりやすいメッセージサイトですね。
艱難につい悪態を吐き楽になろうとしてしまうことが常ですが虚しさが残ります。加害も止みません。やはり神への祈りと黙想とみことばへの信頼が大事なのですね。分かっているつもりでもなかなか実行できないようです。実行したいです。

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地獄について

地獄に関して-ジョン・ウェスリー牧師による説教の改作

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

CONCERNING HELL-ADAPTED FROM A SERMON
BY THE REV. JOHN WESLEY, M.A.
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2007年1月7日、主の日の朝の礼拝での説教

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Lord’s Day Morning, January 7, 2007

“もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。 両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。”(マルコによる福音書第9章47-48節)



私は今朝、ジョン・ウェスリーのメッセージ、『地獄について』を改作したものをあなた方に説教します。 ジョージ・ホウィトフィールドとジョン・ウェスリーは18世紀が生み出した最も偉大な説教者達です。 この二人は、彼らの説教によってこの世に炎を発するように、神に用いられました。 大変すばらしい事は、彼らの奉仕の間に、リバイバルが起こり、それが、現在、私達が呼んでいる“第一のリバイバルの目覚め”なのです。 歴史上でこのような注目すべき期間に起こった、この出来事について詳しくはここでは突っ込む事はできません。 ホウィトフィールドそしてウェスリーがこの世を転換させた、と言う事で十分です。 ホウィトフィールドはカルバン派であり、ウェスリーはアルミニウス派でした。 しかしながらも両者は、改心の必要性を説教し、何千もの人達が彼らの奉仕の下で救われました。 ホウィトフィールドが死んだ時に、彼はウェスリーに葬式の説教をするよう望んでいた事が明らかにされました。 そしてウェスリーはこの伝道者について感動的な賞賛をしました。 ウェスリー氏は元のメソジスト教会の創始者でした。

これがウェスリーの『地獄に関して』の説教です。 私は彼の基本的な概略と、そして、今朝あなた方の為に分かり易くさせる為に現代の英語で要点を満たして話します。 多くの言葉や文型はそのまま代えずに、あってもわずかな修正のみです。 

ウェスリーはプロテスタントそしてバプテストの本来の説教のし方で話しています。 現在、何人の牧師達が説教を説く事が出来るでしょうか? 今日のような決断主義がはびこる“暗黒の時代”には、あえて本来のし方で説教をする牧師は、ほんの少数なのです。 英語使用国などでのほとんどの教会では、牧師達は説教の内容や話しぶりさえおもコントロールしているような中年の女性達を恐れるでしょう。 真のリバイバルがないのも当然です。 ジョージ・バーナは、88パーセントの福音伝道派の若者達は、20歳初期になって教会を去って行き二度と教会に戻って来ない、と言っているのも無理はありません。 多くの男性が教会に行くことさえ嫌悪しているのも無理はありません。 中年の女性達は、説教の内容や話し振りなどをコントロールすべきではありません。 私達にはもっとウェスリーのような説教が必要だと私は思います。 

これがオックスフォード大学・文学修士ジョン・ウェスリー牧師による『地獄について』の説教です。 “Of Hell、”Sermon LXXIII,、Wesley’s Works, Sermons, volume II, Grand Rapids: Baker Book House, 1979, pp.381-391).

地獄はひどく苦しめられる場所であるように、イエスは表現しています。 地獄は改心していない者達が、希望もなく、果てしなく永遠に過ごすところである、と語っています。 地獄では、

“うじがつきず、火も消えることがない” (マルコによる福音書第9章48節)

あなた方は、地獄についてのこれらの事実は、非常に邪悪な罪人のみに対して説教されるもである、と思ってはなりません。 キリストはその時代で疑いもなく最も信心深い人達に向けて語られていました。  マルコによる福音書の9章35節の始めの方にこう書いてあります、

“そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、・・・” (マルコによる福音書第9章35節)

私達のテキストで、イエスが語られた言葉は弟子達に向かって言われたのです。 彼らに地獄がこういうところであるように言われました。

“地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。” (マルコによる福音書第9章48節)

イエスがこれらの言葉を弟子達に言われたからには、今日でも、イエスの友達に地獄について語るのは当然の事なのです。 地獄についての主題は、極悪な罪人達だけの為ではないのです。 地獄はひどく恐ろしいところであり、私達は皆、それについて真剣に考えるべきなのです。 

地獄は“悪魔と彼の使い達の為に”用意されたものである、と聖書は告げています。 地獄へ行く人達は、(1)彼らの失った事、そして(2)彼らが感じる事、など二つの事をそこで見い出すでしょう。 私は、これらの二つの事に関して話しをし、そして幾つかの思考と結論を取り上げます。

Ⅰ. 最初に、地獄であなたが失う事を考えよ。

あなたが地獄へ行く時に失う事は、あなたが死んだその時に始まります。 その瞬間に、あなたは生きていた間の喜びや快楽を失うでしょう。 臭覚、味覚、触覚などはもうあなたを楽しませてくれません。 あなたの身体は死んでしまい、あなたの身体で楽しませてくれた事などは無くなってしまいます。 地獄の火の中では、全てのこの世での楽しみは忘れられ、それらがあなたから取られてしまうからには、それらは苦悩として心に残こされるでしょう。 その暗闇の場所には何の美しさもありません。 燃える火以外は何の明かりもありません。 見新しい事もなく、恐ろしい状況のみが続きます。 音楽はなく、泣き叫ぶ音、嘆き悲しみ、そして歯をきしませる音、そして、罪に定められた者達の罵(ののし)る、神を冒涜する言葉、そして絶え間なく、互いに叫びあう苦悶の声だけが聞こえます。 そこにはあなたを気休めさせるようなものは何もありません。 地獄に行く人達は、恥辱の永遠に不面目な後継者となるでしょう。

ですから、地獄に入る者達は、この世に住んでいた時の彼らの愛した全ての物事から断ち切られるでしょう。 その同じ瞬間に、他にも失う事があります-地獄に下って行く者達は、この世で愛した人々を永遠に無くしてしまうでしょう。 彼らは最も愛した家族から引き裂かれます。 彼らの妻、主人、両親、子供達そして、親しい友人などは彼らから永遠に取られてしまうでしょう-なぜなら、地獄には友愛関係など存在しないからです。 あなたの周囲にはあなたを慰めてくれるような友達また家族などはいません。 あなたは永遠に彼らを失ってしまいます。

地獄には他にも失う事があります。 それは天国です。 あなたは永遠に天国へ行く望みを失ってしまいます。 あなたは決して、イエス、救われた人達、そして御使い達に会うことはありません。 あなたは天国から常にそして永遠に断ち切られてしまいます。 聖書では“主のみ顔とその力の栄光から退けられ、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう”者達について書いています。 永遠に主のみ顔とその力の栄光から退けられる事は、まさに破滅の本質です。 そして、退けられる事は永遠に続きます。 それが“永遠の滅び”なのです。

そのような事柄が、恐ろしい刑罰“のろわれた者どもよ、私を離れて、・・・”と宣告された者達によって体験される喪失です。 それだけでも、なんという恐ろしいのろいではありませんか! しかし、それだけではありません。 なぜなら、あなたの失う事柄に加えられる事は、地獄であなたが知覚することです。 “うじがつきず、火も消えることがない”これはキリストの言葉によって語られた事です。

Ⅱ. 次に、地獄であなたが知覚するであろう事を考えよ。

最初に、あなたが知覚する事は決して尽きないうじです。 [ハイマース博士による注解:そのようなうじ虫はこの世には存在しないであろうが、私はこれが実際のうじであろうと信じる。 それは“うじがつきず”とキリストが言われたほどに何か大変恐ろしい事柄の描写である。]

それは自分を非難する事、悲しみ、羞恥、深い後悔、そして神による怒りの強烈な意識などを含めた、非難すべき良心を表しているようにも思えます。 誰が罪の意識で刺されたような良心の深い消沈に耐えることができる出来るでしょうか? 多くの人達はこの世でそれほどの意気消沈に落ち込む時に、生きる事よりもむしろ自殺を選びます。 それでも且つ、彼らが神の激怒を感じるほど完全に意識させられる時には、この現在の世の中での苦痛は、それらの地獄で耐えるべき精神的な苦痛に比べると些細なものです。 これら全ての―恐れ、悲惨、激怒、邪悪な願望;決して満たされる事の無い欲望―などのような不敬な感情などを加え、これら全ての―ねたみ心、嫉妬心、敵意、そして復讐心などのような不敬な感情による心理状態を加え、それら全ては、ハゲタカがチチアスの肝臓を苦しめたと言われるように、あなたの魂を絶え間なく苦しめます。 これらに、神に対する嫌悪感を加え、共にすれば、多少のそして不完全ながらも、決してつきる事のないうじによって生じる苦悩への理解を与えてくれるかもしれません。

そこで、そのテキストの中のもうひとつの事にも注目してください。

“地獄では、うじがつきず、火も消えることがない” (マルコによる福音書第9章48節)

キリストは“うじがつきず―そしてまた、”火も消えることがない“と言われました。 これはただの可能性を示す言葉ではありません。 それではこのように表現されている根拠は何なのでしょうか? 

それはこのように思えます。 すなわち、その火は地獄にいるすべての人にとって同じものであり、人それぞれの罪の度合いによって、ある人は他の人よりも激しさが変わるだけです。 しかしそれらのうじは、人それぞれ異なります。 各自が苦しめられるようにそれぞれ特定のうじが備えられています。 異なった種類、そして異なった悪の行いの度合いによって各うじはさまざまです。 このような相違は、“すべての人は、各自の行いによって報酬をうける”という神の公正なる裁きをあらわにしています。 私達は、この原則が地獄で直ちに成される事は疑いもしません。 そして、それは最後の審判で、だけではありません。 各々すべての人は、地獄でこの世での自分達の行いに従って報いを受けるのです。 これがその人自身の報いとなります。 この世で人が犯した邪悪は、無限の異なったやり方で、それぞれ異なった罪の本質に従って裁かれます。 ですから、その火は共通である;しかしそれらのうじは個々特有なものである、とイエスが適切に言わんとされている事です。

ある人達は、地獄に実際の火―すなわち物質的な火、が存在するものかどうか疑問に思っています。 私は、それは疑いも無く実際の物質的な火であると言いましょう。 では、“物質的ではない火”とは何ですか? そう言ったものは存在しません―“物質的ではない水”などと言うものが存在しないと言うのと等しいのです。 両方ともまったく無意味あり、言い方に矛盾があります。 私達はそれが実際の火であるか、ではなかったら、それの存在を拒否しなければなりません。 もし、それが実際の火ではなかったとしたら? あなたは何を得るでしょうか? それが実際の火ではないという人達は、少なくともそれが何か悪いもの、もしくはより悪いのものであると言う事に同意するでしょう。 ですから、あなたがそれが実際の火ではないと信じていても、それによってあなたが何かを得るでしょうか? では、このように考えてみてください―キリストはそれが実際の火であるように語っていませんか? 誰もこれを疑う事は出来ません。 もしそれが実際の火で無かったならば、真実の神がそれを実際のものであるかのように思わせておられる、と言う事は可能でしょうか? 神がかかしのようなもので私達を怖がらせる事を望んでおられるでしょうか? 神は実際存在しないもので私達を脅そうと望んでいらっしゃるでしょうか? どうか誰も、そのように思いませんように! 神を不真実であるかのように非難してはなりません。 最も高貴なる神に対してそのような愚かな不名誉を帰せてはなりません!

“火が常に、永遠に消えることが無いとは不可能である。 自然の法則では、火はどんなものへと投げ入れられても燃え尽きてしまう。 そしてその同じ法則によって、火がその燃焼物を焼き尽くしてしまうと、火は消えてしまうであろう。”と他の人達は言うでしょう。

この世の、現在の自然の法則の下では、火がどんなものへと投げ入れられても、燃え尽きてしまい―そして消えてしまいます。 しかし、その考え方には間違いがあります。 すなわち、この世の自然の法則は不変ではなく、それらは一定不変ではありません。 それらはこの現在の世においては一定不変ですが、地獄は別の世界です。 現在の状況は完全にそこでは変わり、この世の法則はそこでは効果はありません。 地獄では何もなくならず、何も尽き果てる事はありません。 現在では、火はすべての物を燃やし尽くしてしまいます。 しかし、地獄は、この世、そして現在の法則の下には存在しません。 もう一つの世界では、これらの法則は有効ではないのです。

この世であっても火は全ての物を焼き尽くとは限りません。 神は、私達に死後地獄で何があるかという事を、この地上で立証をされているようにも思えます。 リナム・アスベスタム[アスベストス]はヨーロッパで知られている不燃生物の繊維ではありませんか? もしこれによって作られたタオルがあり、(現在、英国博物館に一つある)、あなたがそれを最高熱の火の中に投げ入れたとしても、それはまったく燃えません。 ですから、今、この世にもあるこの物質[アスベストス]は火の中で燃える事は無くとどまることが出来るのです。

多くの古典の著者は人が火の池に投げ込まれる事に付け加えて、ほかにも地獄での肉体的な苦しみなどについて語っています。 トーマス・ケンピスは溶かされた金を彼らの喉に注がれたよく張りの者達について話しています。 彼は、人それぞれの罪にふさわしい多くの他の独特な苦しみをも描いています。 わが偉大なる空想作家、シェイクスピア自身もさまざまな苦しみに耐えている地獄の定住者達に関して話しています。 すなわち、火の池に常に留まっているのではなく、

ハーピー(顔と上半身が醜女で、鳥の翼とつめを持つ貪欲怪物)のような足を持つ、フリアエ(復讐の三女神の一人)のような者達に引っ張られ、

氷の地域へと、

さらに激しい変動により、そして再び危険な状態を通り抜け、

しかし、そのようなわずかな暗示さえも聖書には見当たりません! そして確かにそれは、私達が想像によってもてあそぶには恐ろしすぎる主題です。 聖書だけを応用する事にしましょう! 永遠にもえる火を思うだけでも十分な苦痛です。

ある東洋の著者が、非常に邪悪な罪を犯したけれども、一度だけある人を助けた事のあるトルコの王についての話をしました。 通りを横切っていくと、穴に落ちて死のうとしている哀れな人がいました。 そこで、この王は彼をけってその穴から出し、そうしてこの人の命を救いました。 その話では、この王はその後、地獄へ落とされましたが、その哀れな人の命を救くった彼の足は、火の外側に置かれるよう許されました。 しかしそれが真実であろうとしても、それが何の慰めを与えるでしょうか? ではもし両方の足、もしくは両手が炎の外側に置かれる事を許されたとしても、どのようにあなたを助ける事が出来るでしょうか? たとえあなたの身体全体がとられ、火の届かないところに置かれたとしても、片手もしくは片足が炎の中にとどまるならば、あなたは楽になるでしょうか? 気分がよくなるでしょうか? かつて、クリスチャンの両親が彼らの子供達に“あなたの指をろうそくの炎の中に当ててごらん。 一瞬でもとどめる事に耐えられるか?”とよく言ったものです。 どのようにあなたは地獄の炎に耐えることが出来るでしょうか? たった一本の指の肉が燃やされるのでさえ十分な苦痛となるでしょう。 それなら、身体全体が焼けつく炎と硫黄の池の中に投げ込まれるならばどうなるでしょうか?

“地獄では、うじがつきず、火も消えることがない” マルコによる福音書第9章48節)

Ⅲ. 最後に、つきないうじと消える事のない火に関連したいくつかの他の事柄につい  て考えよ。

まず、地獄であなたの周囲にいる人達のことを考えてください。 私達の刑務所内で“ああ、どこか違った場所で処刑されたい。 この刑務所にいる悲惨な者達と一緒にいるのたくさんだ!”などと聞く事がよくあります。 しかし、私達の最悪の刑務所にいる最悪の犯罪人達でさえ、地獄に定住している者達から比べれば、よっぽど無害です。 では、あなたが、殺人者、連続殺害者、セックス狂者、人食い人種、そして加虐狂者などと共に広い監禁室に投げ込まれたならばどうでしょうか? そこに定住しているそのような者達と一緒に監禁室で一晩過ごしてみてはどうでしょうか? 一ヶ月程はどうでしょうか? 一年間は? 永遠では?

カトリックの(中世の異教審理の)宗教裁判でさえも、彼らが拷問をかけていいる人がそれ以上耐えられないのを知った時に、その責任者によって、そのような拷問は抑えられました。 そして、彼らはその拷問をやめる事を命じました。 なぜなら、彼らが拷問にかけている間にその人が死ぬ事は彼らの規則に違反したからです。 そしてまた、その人がしばしば気が遠くなれば、しばらくの間、痛みも感じません。 しかし、地獄であなた達を苦しめる者達は、どのカトリックの宗教裁判官もしくは、拷問をする者達よりも邪悪なのです。 地獄の拷問者達には多少の善良さえないのです。 彼らの回りの者達を苦しめる為に、力を抜く者は彼らの中には一人としていないのです。 聖書によれば、あなた方は“それらの獄吏”に引き渡されるのです。 あなたの悪魔からの獄吏達は何千もの異なった苦しめ方を変えて与える時間はいくらでもあります。 もし神がなされるならば、この世での最も勇敢な人でさえ悪霊は彼を恐ろしく脅えさせる事は疑いもありません。 このような悪霊からの神の保護がまったく無い地獄で、悪魔があなたにどのような悪事を加えるかを考えて御覧なさい。 

次に、これらのすべての心身や精神に対する苦しみが、中絶することなく、終わりなく続くことを考えてみなさい。 苦痛から逃れることはありません。 しかし、“苦しみの煙は、日夜立ち上る”と聖書では語っています。 昼も夜もです! 地獄では二十四時間拷問が繰り返し行われるのです。 古代の、あるいは現代の詩人、たとえば、ホメロスやミルトンが、どんなに夢をみても、地獄では眠りはないのです。 あなたの受けている苦しみがどんなに悲惨でも、あなたの受けている痛みがどんなにひどいものであっても、あなたが気を失う可能性はないのです、一瞬たりとも。 あなたは眠ることも、気を失うことも決してないのです―しかし、休みなく拷問が続けられるのです―夜昼を通して。

また、この地上では、気候の変化や、太陽の輝きの違い、外で遊ぶ子供たちの幸な声、あるいは美しい音楽の音でもって、沈うつした気分からしばしば解放されます。 しかし、地獄に住む者たちにとっては、自分たちを楽しませるものはなく、そして、受けている苦しみを忘れることもないのです―たとえ、一分でも。

皆既食:太陽はなく、月もない!

季節の移り変わりはなく、訪れてくれる友もなく、おしゃべりをする友人もなく、音楽もなく、仕事をするところもない。 何もないが、絶え間なく見る恐ろしい光景だけが存在するのです。 彼らは、

震え慄きながら生き、
そして、すべてにうずき、悶える!

そして、この苦しみには最後はないのです。 何ということでしょうか? あなたは永久に地獄に引き渡されるのです。 誰が、雨の滴(しずく)を、海の砂の数を、そして永遠の日数を数えられるのでしょうか?  地上での苦しみは、やがてそれから逃れられる、という思いで和らぐことができます。 たとえ、死というものでさえも、この世でひどい痛みの中にいる人達にとっては、その痛みから逃れられる思いなのです。 しかし、地獄では、あなたは決して死ぬことはないのです。 そうであるがために、死でさえもあなたにとっては希望とはならないのです。 地獄では、

希望は決してやって来ない、それはすべて

この地上に住む者達のもの。 そこでの苦しみは決して終らない。 えっ! 決して終らない苦しみ!

決して!―そのひじょうに恐ろしい響き、
魂は深い闇の淵に沈む!

考えてみなさい、数百万日が、数百万年が、数百万の時代が過ぎたとして、あなたは未だに永遠の始まりにいるにすぎないのです。 あなたの心身の痛みは、今から百万の時代が経っても、全く終焉には近づかないのです。 あなたが、“アスベストス” に投げ込まれるとき、何ということでしょうか! “朽ちることのない、火炎” すべては含まれている:

“地獄では、うじがつきず、火も消えることがない” (マルコによる福音書第9章48節)   

私は、ワッツ博士(Isaac Watts, D.D., 1674-1748)の一考をもって、この説教を終えたいと思います。

我々の周りで、罪を断ち切った罪人を多くは見ない? 神の慈悲は、毎週毎週、毎月毎月、私達を思いやってくれているが・・・? 我々は、繰り返す神への反抗で、どんなにかしばしば罪の宣告を受けているか! だが、我々は未だ神のもとに生き、希望と救いの言葉を聞く。 我々がそんなにも長く彷徨した、あの恐ろしい絶望の思いを持った時を思い出し、おののき震えようではないか! 逃避のために「イエス・キリスト」に飛び発とうではないか。

あなたがキリストに来て、彼の尊い御血でもってあなたの罪から洗い清めてもらう時は今です。 もし、あなたがキリストに来ないならば、また、完全に改心した経験がないならば、あなたはすぐにこの場所に行くでしょう。

“地獄では、うじがつきず、火も消えることがない” (マルコによる福音書第9章48節)

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
住所:www.realconversion.com (Sermon Manuscripts) をクリックしてください。

クレイトン L. チャン医士による説教前の聖書の朗読: マタイによる福音書第25章41-46節.
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith) による説教前の独唱:
“Almost Persuaded” (by Philip P. Bliss, 1838-1876).


要 綱

地獄に関して-ジョン・ウェスリー牧師による説教の改作

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著



“もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。 両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。”(マルコによる福音書第9章47-48節)

I. 最初に、地獄であなたが失う事を考えよ。

II. 次に、地獄であなたが知覚するであろう事を考えよ。

III. 最後に、つきないうじと消える事のない火に関連したいくつかの
他の事柄について考えよ。
http://www.rlhymersjr.com/Online_Sermons_Japanese/2007/010707AM_ConcerningHell.html
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地獄について、とても詳細に解説したサイトですね。しかもはっきりとした説明で述べているようです。
「地獄では、うじがつきず、火も消えることがない」
で検索しました。
「地獄」で検索すると出て来なかったようです。

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聖書のみことばより

今朝読んだ聖書箇所です。このみことばも、慰めになると思いませんか。

ガラテヤ書1章
4)キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、
ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。

第5章
1)自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。
だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。

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過去に読んだ聖書箇所です。
使徒の働き17章
24)この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。
25)また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、
26)また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。
27)こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下
さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
28)われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。
あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、
確かにその子孫である』。
29)このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、
人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、
見なすべきではない。

30)神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを
命じておられる。

(上記の記述は神についての記述ですがこれを読むと神様のことがよく説明されています。)
ーーーーーーーーーーー
以下のみことばは「報い」で検索しました。

ヨブ記:第34章
11)神は人のわざにしたがってその身に報い、おのおのの道にしたがって、その身に振りかからせられる。
詩篇:第一巻 1
12)血を流す者にあだを報いられる主は彼らを心にとめ、苦しむ者の叫びをお忘れにならないからです。
詩篇:第一巻 1

11)そして人々は言うであろう、「まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある」と。
詩篇:第一巻 1
12)主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって報いられるからである。

詩篇:第一巻 1
8)あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
詩篇:第一巻 1

23)主は彼らの不義を彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。われらの神、主は彼らを滅ぼされます。
箴言:第13章
21)災は罪びとを追い、正しい者は良い報いを受ける。
箴言:第20章
22)「わたしが悪に報いる」と言ってはならない、主を待ち望め、主はあなたを助けられる。
箴言:第24章

12)あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、心をはかる者はそれを悟らないであろうか。あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか。
箴言:第24章
20)悪しき者には後の良い報いはない、よこしまな者のともしびは消される。
イザヤ書:第3章

11)悪しき者はわざわいだ、彼は災をうける。その手のなした事が彼に報いられるからである。

イザヤ書:第47章
3)あなたの裸はあらわれ、あなたの恥は見られる。わたしはあだを報いて、何人をも助けない。
エレミヤ書:第17章

10)「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。
エレミヤ書:第32章
19)あなたの計りごとは大きく、また、事を行うのに力があり、あなたの目は人々の歩むすべての
道を見て、おのおのの道にしたがい、その行いの実によってこれに報いられます。
旧約聖書:オバデヤ書
15)主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。
ナホム書:第1章

2)主はねたみ、かつあだを報いる神、主はあだを報いる者、また憤る者、主はおのがあだに報復し、おのが敵に対して憤りをいだく。
ローマ人への手紙:第2章

6)神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。
コリント人への第2の手紙:第5章
10)なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

コロサイ人への手紙:第3章
25)不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。
テサロニケ人への第2の手紙:第1章

6)すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。
ヨハネの黙示録:第21章
8)しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄
の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。
ヨハネの黙示録:第22章

12)「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
ーーーーーーーーー

みことば検索サイト「聖書の杜」

http://bible.monochro.com/index/33656/
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神の報いを黙して待つのが本当には最善だと思います。
しかしなかなかそれが出来ませんが。
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以下のみことばも慰められます。
イザヤ書51章

12)「わたしこそあなたを慰める者だ。あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、草のようになるべき人の子を恐れるのか。

13)天をのべ、地の基をすえられたあなたの造り主、主を忘れて、なぜ、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、その憤りのゆえに常にひねもす恐れるのか。しえたげる者の憤りはどこにあるか。

14)身をかがめている捕われ人は、すみやかに解かれて、死ぬことなく、穴にくだることなく、その食物はつきることがない。
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このみことばは日がな一日加害者からの虐げに遭う方々には慰めになると思います。
聖書には虐げに遭う方々への慰めのみことばが多いです。
聖書は決して気休めの書ではなくて今も生きておられる神様の書かれた救いの書です。

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聖書預言について

http://www.geocities.co.jp/Bookend/4738/index.htm

上のサイトでは聖書に関することの預言を詳細に解説しています。

良かったら読んでみてください。

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信仰の目が開かれて変られた事柄

○自己中心性からの解放

○恐れからの解放

○自己愛、自己執着からの解放

○肉の欲望からの解放

○この世的な価値基準からの解放

○見た目に固執することからの解放

○妄想性質からの解放

○対人恐怖症からの解放

○疲労や倦怠感からの解放

○神経症的な苦痛からの解放

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○神の恵みが分かるようになる

○空や自然物を見て感動できる様になった

○動物への思いやりが持てるようになった

○他者への偏見から解放された

○心の盾や虚栄心から解放された

○食べ物への執着から解放された

○不快や苦痛や誤解にも耐えやすくなった、或いは自己主張できるようになった

○自己卑下を悪だと知った

○謙るようになった

○聖書のみことばが心にはいるようになった

○悪魔の産物や悪への忌まわしさを覚えるようになった

○善を行う意欲がわくようになった

○賛美歌や、クラシックに慰めや感動を覚える。

○感謝する習慣が付いた

○真の悔い改めが出来るようになった

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大体こんなところかも知れません。完璧にそうなったわけではないのですが過去より比べて大分改善化されたのです。

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裁きについて

礼拝説教宣教要旨 2007年5月20日 教会礼拝
  題  : 「最後の審判」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  13章6節~10節

  5月17日は、イースターから数えて40日目であり、復活されたイエスが弟子たちの目の前で、雲に迎えられて昇天された記念日でした。
 本日は、イエスが天にお帰りになった後、120名ほどの人たちが、エルサレムの家の上の部屋で、毎日熱心にお祈りをしていた頃にあたります。
 さて本日の聖書の箇所は、イザヤがバビロン帝国の滅亡を預言した箇所です。ただバビロンはイザヤの時代から約100年後に力を持ち、さらにその100年後に滅ぼされた国です。イザヤはそうした未来のバビロンの姿を預言したのです。

1.旗を立てる
 戦いの時には、人々の目に付くところに旗を立てました。ここでの旗は、万軍の主の旗であり、主が聖なる軍隊を召集されることを表しています。
 神は、終わりの時代に聖別した人々を召集してくださいます。現代の悪い時代にあっても主の聖霊の力に満たされた聖徒が、福音の戦いのために召集されます。

2.主の日が近づく
 主の日とは、神が支配される日ということですが、神が主権をもってこの世を裁かれる日です。聖徒たちが主と共に働くのですが、戦いは主が戦って下さいます。
 そして現代のわたしたちも主が完全に支配される日が近づいていることを信じ、自分に今与えられている奉仕に真剣に取り組ませていただきたいものです。

3.その日
 バビロンの滅びを預言するものですが、同時にこの世の最後の審判の預言とも取れます。現代の日本も世界も道徳的に、宗教的に堕落し、悪を行なうことがあたりまえのようになっています。神はいつまでもこの姿を見過ごしにはなさいません。必ず終わりの時がきます。しかもその日は遅れることはないといわれます。
 イエスの昇天された時、弟子たちに天の使いが「あなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)と言われたように、イエスはやがてこの地上に再びおいでになります。「その日」はここで言われる「その日」に共通するものです。祈りつつ、主のおいでを心待ちに出来るような日々の歩みをしましょう。

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。

礼拝説教宣教要旨 2007年5月27日 教会礼拝
  題  : 「サタンの裁き」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  14章12節~15節

  イエス・キリストが復活された日から40日目、イエスは弟子たちの見ている目の前で天に昇って行かれました。その日から10日後、すなわち復活から50日後、イエスが十字架前夜に約束されたとおり、聖霊なる神がおいで下さいました。
 弟子たちは、イエスの十字架を目の前に見ました。復活のイエスと親しく語ることもありました。しかし、イエスは「父の約束されたものを待ちなさい」(使徒1:4)「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける」(使徒1:8)と言われたとおり、弟子たちはここから力を受けてキリストの証人として活動し始めたのです。
 本日の聖書の箇所は、バビロン帝国の滅亡を預言しています。ここに、信仰者の復興も預言されているのです。

1.再びイスラエルを選び
 かつてイスラエルをエジプトから導き出されたように、再びバビロンから救出してくださるのです。わたしたちも、十字架によって救われ、神の子とされていたはずなのに、またサタンの誘惑に負けて罪の世界に迷っている場合がありますが、神はわたしたちを再び選んで救いの恵に与らせてくださるのです。

2.天から落ちた明けの明星
 明けの明星はサタンを現していると言われてきましたが、直接的にはバビロンでしょう。しかし、その行動や野望の背後に、神に反逆する高慢と人々を意のままに支配する横暴さを持ったサタンの姿を見ます。
 神に逆らう高慢なサタンの力がどれほど強くても、万軍の主に勝利することは出来ないのです。「滅びの箒で、掃き清める」ように、天から落とされてしまうのです。

3.神が定められること
 旧約のイザヤの時代に働かれた主は、今もその立ててくださった計画を必ず実現して下さいます。これを阻止するものはひとりもいません。そして、信じる者に約束どおり聖霊を与えてくださいます。
今一度、十字架と復活の主の前に、真剣な悔い改めと明け渡しをする時に、神様は必ず約束を実行してくださるのです。

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
84f21300 神の裁きがそれ程までに厳粛であるならばこの世に置いてサタンの欺きに唆されて悪を行うことに無自覚となっていることは如何にも愚かだと知ります。私もなかなかその様に信仰の確信が持てませんでした。

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詩篇

http://penguinclub.net/nakao/study/psalm/ps010.html

神は忘れない─詩篇第十篇

 「神は見ておられる。」「神は忘れない。」というのは、神の前に正しく歩む人には慰めですが、神に逆らい正しい人たちを苦しめている悪者には恐怖となるでしょう。悪者たちは、この詩篇に言われているように、心の中で「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見ないのだ。」(11節)と言うのです。「心の中で言う」(6節、11節)というのは、この人たちも口先では神を敬うようなことを言っているが、心の中は、その言葉とはまったく逆であるということを表現しているようです。

 神を信じる者たちも、時々、「なぜ、神は悪を見過ごしておられるのか」と、苛立つことがあります。神には、神のお考えがあり、神の裁きを遅く、手ぬるく感じてしまうことがあります。しかし、神は、この世の悪を見過ごしておられるわけではありません。神はそれを見ておられ、かならず事をなされるのです。「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼ら御手の中に収めるためにじっと見ておられました。」(14節)と聖書は言っています。神の目は節穴ではないのです。私たちは時として、「覚えていろよ。」と言いたくなるような時がありますが、神が悪者たちのしたことをしっかりと見、覚えておられるのですから、私たちは、もはや「覚えていろよ。」と言う必要もないのです

 詩篇九篇と十篇は、もともと一つの詩篇だったようです。と言いますのは、これらの詩篇はヘブル語の「いろは歌」になっていて、詩篇九篇はヘブル語のアルファベットの最初の文字「アレフ」で始まり、十篇の最後はヘブル語のアルファベットの最後の文字「タウ」で終っているからです。詩篇九篇と十篇に共通しているのは「神は忘れない」という主題です。神は、貧しい者を決して忘れず、そして、悪者のしたことも決して忘れないのです。神のあわれみと裁き、このふたつのテーマは、詩篇一篇以来、詩篇の全篇を通して、ここにも流れています。

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聖書のイザヤ書には悪人への報いについての記述があります。集スト加害者のように隠れた場所より卑劣攻撃をするような輩について書かれているように思います。B0ac5b1c

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永遠の刑罰

「永遠の刑罰」について書かれたサイトです。

http://homepage2.nifty.com/grapes/RMM07.htm

来たるべき永遠の刑罰[抄訳]

「そこでは、彼らを食らううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」----マルコ9:48

 聖書を読むとき非常に興味深く思われるのは、どのような人物が地獄について語っているかということです。ある人々は、地獄について語るのは福音説教ではないと考えます。また別の人々は、無教養な人間には地獄について語る資格がないといいます。確かにこれは厳粛な主題であり、あだやおろそかに語ることはできません。しかし、これが福音説教でないという人々に対して私が云いたいのは、これは真理である、----神のみことばである、ということです。またこれについて語るのは正しくないという人々に注目してほしいのは、これについてだれが一番多く語っているかということです。

 I. まず考えたいのは、聖書の中で地獄について語っているのはだれかということですが、最初に名前があがるのはダビデです。ダビデは神の心にかなう者と呼ばれた人ですが、それでも地獄について語っています。詩篇の作者であり、数々の麗しいイスラエルの詩篇を作詩したダビデ、それにもかかわらず彼は地獄について何と語っているでしょうか。「よみの綱は私を取り囲み」(詩18:5 <英欽定訳>)。また、「死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い」(詩116:3)。また彼は地獄からの解放をどのように歌っているでしょう。「あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです」(詩86:13)。そして彼は、キリストを受け入れようとしない不敬虔な者らの運命についてもこう告げています。「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も」(詩9:17)。「主は、悪者の上に網を張る。火と硫黄、燃える風が彼らの杯への分け前となろう」(詩11:6)。「死が、彼らをつかめばよい。彼らが生きたまま、よみに下るがよい」(詩55:15)。さて地獄について口にすることが適当かどうか、どうあなたがたが判断するにせよ、ダビデにとってそれは悪いことではありませんでした。彼は地獄について歌っているからです。

 二番目に取り上げたい人物はパウロです。彼はキリストの愛に満たされ、罪人に対する愛にあふれた人でした。疑いもなく、神がイエスを愛された愛はパウロのうちにも宿っていました。彼は自分の敵をも愛す人物でした。アグリッパの前に立ったとき、彼がどのような思いをいだいていたことでしょう。「私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」(使26:29)。彼は、自分を迫害し、反対する者たちにさえ、自分と同じ愛----同じ喜び----同じ平安----同じ栄光の望みが与えられることを願っていたのです。パウロは一度も地獄という言葉を使ってはいません。それだけ見ると、あたかもそんなにひどい言葉は口にしないでいたかったかのように見えます。しかし彼は何と云っているでしょうか。「もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか」(ロマ9:22)。「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです」(ピリ3:18-19)。「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります」(Iテサ5:3)。「そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです」(IIテサ1:7-9)。

 兄弟姉妹のみなさん。こうした言葉を見るかぎり、人々に対する愛を豊かに持っている人ほど、地獄について多く語っているのではないでしょうか。

 次にあげたい人物は、あの主に愛された弟子ヨハネです。彼は最後の晩餐のとき主の胸にあたまをもたせかけ、主のみむねからあふれるような愛を受け取った人です。彼は愛にあふれた性格の持ち主でした。彼の残した手紙がどれほど愛情深く書き記されているか見てみてください。彼は読者たちに、「愛する者たち」、「子どもたちよ」と呼びかけています。それにもかかわらず彼は地獄について語っています。地獄のことを七度も「底知れぬ所」、----すなわち罪人が永遠にわたって沈んでいく底無しの穴と呼んでいます。また地獄を「神の激しい怒りの酒ぶね」と呼びます(黙14:19)。さらに地獄を「火の池」という名でも呼んでいます(黙20:14)。地獄が「地獄」と呼ばれるのはよくあることです。しかし、主に愛された弟子ヨハネだけがそれを「火の池」と呼んでいるのです。

 次にあげたいのは主イエスご自身です。主は神のみもとから来られたお方であり、「神は愛」であられ、また主が来られたのは、火から燃えさしを取り出して救うためであったにもかかわらず、主は地獄について語っておられます。主イエスほど慰めに満ちたことば、いたわりに満ちたことばを語られたお方はなかったにもかかわらず、----また「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え」られたにもかかわらず[イザ50:4]、----またあの人が話すように話した人は、いまだかつてありませんでしたとされたにもかかわらず[ヨハ7:46]、----主は地獄についてお語りになりました。主は云われます。「兄弟に向かって……『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタ5:22)。しかし、主のみ口から出たことばのうちで最も恐ろしいのはこのことばであると思います。「おまえたち蛇ども。まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう」(マタ23:33)。また、「のろわれた者ども。わたしから離れて、……永遠の火にはいれ」(マタ25:41)。さらに主はそのたとえ話の中でも地獄について語っておられます。「御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです」(マタ13:49、50)。そして主は私たちが冒頭であげた聖句をも繰り返し語っておられます。このマルコのことばほどあからさまなものがあるでしょうか。「信じない者は地獄に落ちます」[マコ16:16 <英欽定訳>]。

 II. それでは、なぜこうした人々が、これほどどぎつく地獄について語っているのか考えて見ましょう。

 1. なぜならそれは本当のことだからです。キリストは誠実で、偽りのない証人であられます。かつて主はこう云われました。「もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう」[ヨハ14:2]。また主はピラトにこう語られました。「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」[ヨハ18:37]。主ご自身が「真理」であられました。「神は……偽ることができません」[へブ6:18]。主イエスは地上に下られたとき愛をたずさえて来られました。主が来られたのは罪人に地獄のことを教え、彼らを地獄から救う救い主のことを教えるためでした。ということであれば、どうして主が地獄について口をつぐんでいられたでしょう。主は地獄の淵を深々とのぞきこまれました。どうしてそれを語らずにおられたでしょう。ダビデやパウロやヨハネも同じです。パウロは云います。自分はすべてのことを少しもためらわず知らせてきた、----神のご計画の全体を余すところなく知らせておいた、と[使20:10、27]。さて、もし彼が地獄について口をぬぐって何も云わないでいたとしたら、どうしてそのようなことが云えたでしょう。どんな教会の牧師であっても事はかわりません。もし私がこれから二度と地獄について説教しないとしても、その分地獄の住み心地がましになるとでもいえるでしょうか? いいえ。地獄はおとぎ話でも妄想でもありません。現実のものです。本当にあるのです。事実存在するのです。ですから私たちは語らずにすますことはできません。

 2. 第二に、彼らが罪人に対する愛にあふれていたからです。真の友は人にお追従を言う輩ではありません。ご承知の通り、キリストの胸には愛があふれれていました。愛ゆえに、主は頭に枕するところもない生活を選ばれました。愛ゆえに主は地上に下り、死んでくださいました。愛ゆえに、主は涙しながらこう云われました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」(マタ23:37)。それと同時に主は云われました。「おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう」。パウロも同じです。「こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです」(IIコリ5:11)。パウロは罪人らのため涙を流すことのできる人物でした。「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」(ピリ3:18)。彼は涙をしたたらせながら手紙を書いていたのです。そうです。私たちは人を愛すれば愛するだけ、地獄について多くを語らなくてはならないでしょう。そのままでは地獄におちて罪の人生の当然の報いを受けるしかない人々に警告を発さないような人は愛の人ではありません。そんな人は相手を愛してはいません。自分を愛しているだけなのです。厳しい真実を告げて相手を怒らせることを恐れているだけなのです。自分が傷つきたくないだけなのです。ですから忘れないようにしましょう。真実の愛は警告を発するものだということを。

 3. 第三に、なぜ彼らがこれほどあからさまに地獄について語ったかというと、それは自分に血のとがめが負わされないためです。イエスは、人々の血の責任がご自分に帰されることをお望みになりませんでした。だからこそ、「消えることのない火」や「尽きることのないうじ」について語られたのです。主は語っておられます。「あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」。神も罪人の血のとががご自分に帰されることをお望みにはなりませんでした。「わたしは誓って言う。--神である主の御告げ。--わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」[エゼ33:11]。ダビデも同様です。「血の罪から私を救い出してください」(詩51:14)。ダビデがこれほどあからさまに語っているのは、血の罪ゆえの恐れのためでした。パウロも同じです。「私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちの血について責任がありません」(使20:26 <新改訳聖書欄外訳参照>)。どんな教会の牧師であっても同じです。私たちは自分の良心に責めを負わないようにしなくてはなりません。そしてもしあなたがたが、赦されることも、救われることもないまま神の審きの座に出るとしたら、あなたがたの血の責任はあなたがた自身に帰されるのです。昨日私は外を歩いていたとき、その考えが圧倒的な力をもって迫ってくるのを感じました。私の説教を聞いたあらゆる人が、やがて神の審きの座に出て、天国へ行くか地獄に行くかが決まるのだ、と。ですからみなさん、私はあなたがたに警告しないではいられませんし、地獄について語らずにはいられません。

 III. 次に神のみことばの中で、地獄を示すものとされている呼び名について考えましょう。最初の呼び名は「火」です。それは私たちの理解力に合わせて地上的な要素からとられた名前です。そのようにキリストは、私たちの理解力に合わせた名をご自分のものとして教えてくださいました。それは羊飼い、門、岩、ぶどうの木、シャロンのばら、などです。そのように神は天国について語られるときに、それをパラダイス、堅い基礎の上に建てられた都、透き通ったガラスのような純金の大通り、真珠でできた門、と語っておられます。さてこうした呼び名のどれ1つとして、それだけで天国のすべてを描写しつくすことはできません。なぜなら、目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそのようであるからです。それと同じように神は、地獄について語られるときには、それを「火の炉」「底知れぬ所」「滅び」などとお呼びになるのです。さて、こうした呼び名の1つだけでは、役に立ちません。しかしこれらすべてを一緒に考えてはじめて、地獄がどのようなものかおぼろげに思い描くことができるのです。

 地獄に与えられている最初の名前は「火」です。シオンの山の南側には葡萄の木で覆われた谷間があります。それはマナセが自分の子どもらを火あぶりにしてモレクにささげたヒンノムの谷です。さて、キリストはこの谷を称して云われました。「火の谷」、と。また「火の燃える炉」と[マタ13:42]。壁は炎、上も下も炎、どこを見ても回り中が炎なのです。また、それは火の池とも呼ばれています[黙19:20]。これは火の炉とも似たものです。それは、黄銅色に燃え上がる山並みに取り囲まれています。その表面を吹き抜ける風は一陣もありません。永遠に限りなく炎、ただ炎が燃えさかるのです。それは「焼き尽くす火」と呼ばれます。「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう」(イザ33:14)。これとへブル書12:29をくらべてみましょう。----「私たちの神は焼き尽くす火です」。すべてを焼失させるのは火の性質であり、地獄の火もそれと同じです。しかし、この火は決して堕ちてきた者たちを消滅させることがないのです。おゝ! それは、決して消えることのない火です。轟々と燃え上がる火山でさえ、いつかは業火を吹き出さなくなり、岩も鉄も燃え溶かすその火も消えることでしょう。しかし地獄の火は決して消えないのです。

 神のみことばの中で地獄に与えられているもう1つの名前は「牢獄」です。それで私たちは、大洪水の時に滅びた大勢の人々がこの牢獄の中に閉じこめられていることを教えられるのです[Iペテ3:19]。あゝ! 罪人よ、もしあなたがここに閉じこめられたなら、最後の1コドラントを支払うまで、そこから出てくることはできません。そして、そのようなことができる人はいません。なぜなら、その格子は神の正義と聖さであるからです。

 地獄に与えられているもう1つの名前は「穴」です。それは底知れぬ所です[黙20:1]。そこに落ちた者は永遠にいつまでも沈みつづけます。それは日ごとに深く深く沈み続け、やむことがない状態です。おゝ、罪人よ。今こそ神に立ち返り、こう叫ぶときではないでしょうか。「私を泥沼から救いだし、私が沈まないようにしてください」。----「深い淵は私をのみこまず、穴がその口を私の上で閉じないようにしてください」[詩69:14、15]、と。

 聖書の中で地獄に与えられている別の名前は、「神の手の中に陥ること」です。「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」(へブ10:31)。「わたしがおまえを罰する日に、おまえの心は耐えられようか。お前の手は強くありえようか」(エゼ22:14)。罪人よ。神はあなたがたの不倶戴天の敵となられます。罪人が死ぬことに喜びを覚えず、むしろ彼が生きることを望まれる神ですが、もしあなたがキリストなしに死ぬとしたら----もし信じずに死ぬとしたら----もし救われずに死ぬとしたら、神はあなたの永遠の敵となられます。おゝ、神が怒りを燃やされるとき、あなたはどうしようというのでしょうか。

 地獄に与えられた別の名前は、「第二の死」です。「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」(黙22:14)。これがアダムへの神の警告の意味です。「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」。これが第一の死です。みなさんは、死にゆく人の枕頭に立ったことがあるでしょうか。あえぎながら空気を求める口元を見つめ----歯をくいしばり----夜具をにぎりしめる姿を見たことがあるでしょうか。----その、しだいに息づかいが乏しくなり、最後には息絶えていく姿を。これは第二の死に似ています。おゝ、その人は何とか死を押し止めようとします、しかしその努力はむなしいのです。永遠の死にのみこまれるのを感じ、神がその人を取り扱われるのを感じ、陰惨な暗黒の絶望の中に沈み込んでいくのです。これこそ、罪あるまま死ぬ人が味わなくてはならない死です。そして、決して終わることのない死なのです。

 地獄に与えられているもう1つの名前は、「外の暗やみ」です。キリストは地獄を「外の暗やみ」と呼びました。「しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され……るのです」(マタ8:12)。「あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ」(マタ22:13)。IIペテロ2:4にも同じことが書いてあります。----「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました」。またユダ13節も同じです。----「さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています」。おゝ、愛するみなさん。これこそ地獄です。「まっ暗なやみ」。----「外の暗やみ」。----「暗やみの穴の中」。

 IV. さて次に私が示したいのは、聖書で語られている地獄が存在の消滅ではないということです。ある人々は、たとえ自分たちは救われないとしても、死ねば自分の存在は消滅するのだと考えています。これは嘘です。そのことを、これから考えていきましょう。

 1. まず第一に、地獄に堕ちた人々の泣き叫ぶ声について考えてみてください。「彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。……私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』」(ルカ16:24)。また、マタ22:13の言葉を見てください。「そこで泣いて歯ぎしりするのだ」。おゝ、こうした言葉は明らかに、地獄とは存在の消滅ではないことを示しています。地獄では救われずに死んだ大群衆が束ねられて、大いなる収穫の日を待つことになります。「まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい」(マタ13:30)。そこには神をあざけってきた者らの束があるでしょう。----安息日を破ってきた者らの束----酩酊する者らの束----偽善者らの束----親どもの束、子らの束があるでしょう。彼らはそれぞれ互いの断罪のための証人となることでしょう。

 2. 地獄が存在の消滅ではないということは、刑罰に程度があるということからもわかります。「そのツロとシドンのほうが、……さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ」(マタ11:22)。また、パリサイ人らは「人一倍ひどい罰」を受けるとも語られています[マタ23:14]。すべての人は、自分の犯してきた行ないの程度に応じてさばかれるのです。

 3. 地獄が存在の消滅でないということは、ユダの運命について考えてもわかります。「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」(マタ26:24)。ユダは今、生まれてなどこなければよかったと願っているのです。彼は今、死にたいと考えているに違いありません。しかし未来永劫に死ぬことはできません。地獄に堕ちるすべての人がそう考えるでしょう。おゝ、そうです。もしもキリストによって救われずに死ぬとすれば、たとえ教会に通っていようが、親兄弟がキリスト者であろうが、その人は生まれてこなければよかった----緑の大地や青い空を見たことがなければよかったと思うはずです。おゝ、愛するみなさん。地獄に堕ちるよりは、全然人生を味わない方がましなのです。おゝ、今このときも地獄には、自分の生まれた日を呪っている大勢の人がいるのです。

 4. 地獄が存在の消滅でないのは、それが永遠の地獄だからです。一部の弱くて愚かな人々は、自分の空想心のおもむくままに、地獄も燃え尽きてしまうとか、自分の倦んだ魂を洗う場所へ行くことができると考えています。つまりそれは、地獄と折り合いをつけようというわけです。しかし、もし地獄に堕ちた人々の魂とからだを苦しめる炎が消えるときがあるとすれば、イエスは嘘つきだったことになります。なぜなら主はここにあげた聖句ではっきり云っておられるからです。その火は消えることがない、と。

 それは永遠のものです。なぜならそれは永遠を指し示すこと以外に決して使われていない言葉で形容されているからです。「そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る」(黙14:11)。その煙は永遠にまで消え去ることが